ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

青山繁晴氏の活動 - 3 ( 護る会 への期待と不信感)

2021-06-30 16:48:50 | 徒然の記

 青山氏以下5人の経歴を並べますと、皆が意外と若いのに驚かされました。政治の世界では、まだこれからという年齢です。青山氏も疲れたとか、寝不足だとかぼやいてはおれません。まして、議員を一期で辞めると公言するなど、とんでもない話です。集った同士だけでなく、「護る会」に期待する国民を裏切ることになります。

 ・1  青山繁晴氏 ( 参議院議員  ) 68才    ・2  鬼木誠氏  ( 衆議院議員 ) 48才
 ・3  高木啓氏  ( 衆議院議員 )  56才   ・4   長尾敬氏  ( 衆議院議員 ) 58才。
 ・5   山田宏氏  (参議院議員 )  63才。
 
 青山氏以外の議員の所属派閥が分かり、政党歴も分かりました。最初から自民党議員だったのは、青山氏と鬼木氏だけで、高木氏と長尾氏は、元民主党議員でした。山田氏は新自由クラブに始まり、なんと7回の政党遍歴です。杉並区長だったり、衆議院議員だったり、大阪市の特別顧問、「次世代の党」の幹事長など、多彩な過去の持ち主です。
 
 安倍氏に声をかけられ、政界入りをした青山氏だけでなく、他の議員も元総理となんらかの繋がりを持っています。たかが経歴と、馬鹿にできません。調べると意外な事実の発見があり、もしかすると彼らは、「隠れ安倍派」でないかという推測もできないでありません。党歴の短い5人が、二階幹事長の提案への反対や、正論を発表したりできるのは、こんなところに理由があったのかもしれません。
 
 彼らの活動は、氏の動画、【ぼくらの国会】でほとんど報告されていますが、参考のためいくつかを紹介します。
 
 ・ 令和元年10月 即位礼正殿の儀の翌日、記者会見で「皇位継承の安定への提言」を表明
 
 ・ 令和元年11月 習近平氏の国賓招致に反対する声明を発表。官邸を訪れ、官房副長官に書面を手交

 ・ 令和元年11月 首相官邸を訪れ、旧宮家の皇籍復帰を求める提言書を提出

 ・ 令和2年 2月 自民党の役員会が決めた、議員歳費からの一律5,000円の中国への支援方針に反対。二階幹事長に提出し、「協力しない人はしなくていい」と方針転換させた

 ・ 令和2年 2月 下記内容の声明文を政府に提出

   「中国の武漢熱で、世界が多大な困難に直面しているのに、中国の情報開示には問題がある。」

   「この時期にも関わらず、尖閣への公船、軍用機による中国の挑発行為が続いている。」

   「邦人拘束事案、香港・チベット・ウイグル・南モンゴルにおける人権弾圧についても、何ら解決の兆しがない。」

   「習近平氏の来日は、世界に対し、 "武漢熱 " の終息を日本が認めるかのような、誤ったメッセージの発信につながりかねない。」

   「この観点からも、国賓としての来日のみならず、習氏の来日そのものに、断固反対である。」

 ・ 令和2年 5月 「武漢熱」の感染拡大への対策として、消費税減税法案とりまとめると述べた。

 私は、氏の動画、【ぼくらの国会】をほとんど見ていますので、ブログを綴りながら、熱く語る氏を思い出します。発起人である5氏の経歴を知り、同時に今まで抱いていた「護る会」 への期待と不信感の原因も分かりました。

 安倍氏は在任中、まるでヌエのように、捉え所のない政策を実行し、私を悩ませました。「憲法改正」と「皇室護持」を言いながら、「移民法」、「カジノ法」、「アイヌ新法」など、日本を崩壊させる法律に力を注ぎました。今でも私の中では、氏に対する賛同と怒りの火が燃えています。

 「護る会」の5氏は、あたかも安倍氏の保守政治家としての面だけを受け継いだ、隠れ安部派に見えてきました。「強権発動の独裁者」、「数に驕った長期政権」とマスコミに叩かれましたが、実態は党内の反日左翼、反日リベラル勢力との、せめぎ合いだったのかもしれません。

 そういう政争の中から、「護る会」が生まれたのだとしたら、反対する理由はありません。安倍氏が言えなかった正論を、青山氏らが代弁しているのなら、支援しようかという気にもなります。懸念があるとするれば、中心人物である青山氏が、「疲れるから、一期で議員を辞める」と無責任な発言をしているところと、長尾議員のように、風だけ読んで動いている、信念の疑わしい人物の存在です。表題につけた「護る会 への期待と不信感」は、こういうところから生じています。

 5人の経歴を知り、「護る会」の活動を再確認し、やっと気持ちの整理がつきそうになりました。次回は、それについてご報告しますので、都合のつく方は「ねこ庭」へ足をお運びください。待っております。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山繁晴氏の活動 - 2 ( 令和の幕開けと共に )

2021-06-29 17:33:21 | 徒然の記

 令和元年に生まれた「護る会」の正式名称は、一度聞いても覚えられない、「日本の尊厳と国益を護る会」という長い名前です。こんな要領の悪い党名で、果たして生き残る政党になれるのかと、心配になります。

 しかし、新天皇が即位された令和元年は、忘れることのできない慶事の年でした。元号の発表を、当時官房長官だった現菅総理が行いました。それまでは、中国の古典の文字が引用されていた元号が、初めて日本の古典から作られました。日本に現存する最古の和歌集である、「万葉集」の一節からでした。

 「ときに、初春しよしゆんれいげつにして、淑よくかぜやはらぎ、

    梅は鏡前きやうぜんひらき、らん珮後はいごかうかをらす。」

  は善、よいと読み、はなごやかの意味だそうです。新聞の記事を読み、一生懸命に覚えたのに、今はすっかり忘れていますが、あの時の新鮮な興奮は忘れていません。
 
 「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」と、安倍総理が説明していました。「美しい日本を取り戻す」と言って国民の期待を集めたのに、氏は約束を反故にし、「移民法」や「カジノ法」、「アイヌ新法」など、「美しい日本をダメにする」政策を進めました。
 
 それなのこの時も、私ばかりか、多くの国民が氏の言葉に誘われるまま、「令和」の元号に心を躍らせました。5月1日に、徳仁 ( なるひと  ) 皇太子殿下が、126代天皇に即位され、4日には即位を祝う一般参賀に、14万人の国民が集まりました。
 
 そんな祝賀ムードの中で、6月12日に青山繁晴氏は、鬼木誠、高木啓、長尾敬、山田宏氏らと共に「護る会」を結成しました。発起人5人の経歴を、ネットから転記します。
 
 2.  発起人5人の経歴
 
  ・1  青山繁晴氏 ( 参議院議員  )
   昭和27年神戸市に生まれ、68才。元共同通信社社員、元三菱総合研究所社員。その後仲間数人と独立し、有限会社独立総合研究所を設立、代表取締役社長。安全保障・危機管理、外交、政治を専門分野とする。無派閥。
 
  ・2  鬼木誠氏  ( 衆議院議員 )
   昭和47年福岡に生まれ、48才。元福岡県県議会議員。安倍氏を支持する若手議員らを中心に発足した「文化芸術懇話会」に参加。第3次安倍内閣で、環境大臣政務官。現在石原派所属。
 
  ・3  高木啓氏  ( 衆議院議員 )
   昭和40年東京に生まれ、56才。元都議会議員、元都議会自民党幹事長。元民主党、その後無所属となり、現在細田派所属。
 
  ・4   長尾敬氏  ( 衆議院議員 )
   昭和37年東京に生まれ、58才。元明治生命保険社員。元民主党、その後無所属となり、現在細田派所属。第4次安倍内閣で、内閣府政務官。
 
  ・5   山田宏氏  (参議院議員 )
   昭和33年東京に生まれ、63才。元都議会議員、衆議院議員、東京都杉並区長、総務省顧問、大阪府市特別顧問、防衛大臣政務官兼内閣府大臣政務官、日本創新党党首、次世代の党幹事長を歴任。
新自由クラブ→自民党→日本新党→新進党→日本創新党→日本維新の会→次世代の党→自民党 ( 細田派 )
 
  スペースがなくなりましたので、詳しい話は次回といたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山繁晴氏の活動

2021-06-29 00:05:39 | 徒然の記

  最近は青山繁晴氏の動画、【ぼくらの国会】を見ています。公設秘書の三浦麻未氏が進行役をつとめ、隣に座った氏が、折々の活動報告をするというもので、30分程度にまとめられ、ほとんど毎日発信されています。普段は知ることのできない、議員と役人のやりとりなどが参考になります。

 倒れそうだとか、寝不足だとか、ぼやきが多いので、最初は重要視していませんでしたが、「国民投票法」、「土地利用規制法」、「皇位継承問題」などが語られるようになると、心が惹かされました。野党はもちろんですが、総理にも大臣にも失望しつつある私は、藁にも縋る気持ちで、愛国の士を探す日々です。

 最近の動画での氏は、別人のように見えます。もしかすると氏は、左に傾きつつある自民党を、正しい位置に戻すのではないかと、そんな期待が生まれています。議員になる前から知っていますが、氏は国を愛する国民の一人で、反日左翼の対極に位置します。議員になっても「公言実行」を続け、しかも単独行動をせず、党内の有志を募り、少しずつ輪を大きくしています。

 反日左翼や、中途半端なリベラルという左傾の議員が多い政界では、氏の集めた有志は「右翼」と呼ばれたりしますが、実態は保守本流です。最初は5人で作った会派が、今は66人になっています。

 会派に参加しても、名前を公表しない議員が衆議院に4名、参議院に2名います。議員は「選挙で落ちればただの人」ですから、政界の風を読み、懸命な離合集散を繰り返します。私たちは傍観者ですから、「風見鶏」と言って笑いますが、議員個人は真剣勝負なのだと思います。

 それでも2、3年したら、影も形も無くなった政党や会派を、私たちは沢山知っています。「護る会」がそうならないことを、願うばかりです。

 「ねこ庭」を訪問される方々は、ご存知だと思いますが、私の息子たちはおそらく青山氏を知りません。氏が作った「護る会」について、ネットで調べた情報を紹介したいと思います。

 1.  令和3年6月現在、自民党内での議員数

  衆議院の自民党議員数  277名 護る会の議員数 37名

  参議院の自民党議員数  110名 護る会の議員数 29名

                   合   計    387名                          66名   比率17%

  参考のため、自民党内の7つの会派と所属議員数を調べましたので、比較してください。

  細田派   ( 清和政策研究会 )        96名

  麻生派   (  志向会  )                      55名

  竹下派   ( 平成研究会 )          52名

        二階派   (  志帥会  )                     47名

        岸田派   (  宏池会  )                     47名

        石破派   (  水月会  )                     17名

        石原派   (  近未来政治研究会  )     10名

 66名と言えば、かなり大きな勢力になりますが、「護る会」の議員は、党内の他派閥の所属議員で構成する、「派閥横断組織」なので、単純な比較はできません。会派の発足は、令和元年6月ですから、まだ3年を経過していません。政界を吹き荒れる政争の中で、果たして生き残れる会派となれるかは、まだ未知数です。

 私の目に映る「護る会」は、輝いて美しいけれど、触ると砕けるガラス細工のような不安感もあります。不動の会派となるには、議員諸氏の確かな活動と国民の支持が必要で、まだまだこれからの組織です。

 次回もまた、息子たちのため、「護る会」の情報を続けますので、ご存知の方はスルーしてください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陛下を政治に巻き込んではならない

2021-06-26 19:52:15 | 徒然の記

 西村長官のニュースへ行く前に、千葉日報に配信された、共同通信社の記事を2つ紹介します。

   1.   6月19日 「東京五輪パラ 名誉総裁」「" 顔役 " の陛下、どう関与」「反対世論、難しい立場」

     2.   6月20日 「都議選 政党公約」「五輪是非 争点になる ?」「感染状況次第、揺れる世論」

 いずれも、1ページの4分の1を占める大きな記事です。「 " 顔役 " の陛下」などと、失礼な見出しですが、五輪開催の是非について、世論が大きく揺れているニュースです。 6月19日の記事のメインは、陛下に関する説明で、五輪憲章では、大会宣言は国家元首がするとなっていますから、開催されれば陛下がされます。

 「・宮内庁の西村長官は、定例記者会見で、「名誉総裁としての、具体的な活動は現在調整中」と、述べるのみだが、同庁では皇室の関与に、懸念の声も上がる。」

 たくさん書かれていますが、記事のメインは上記の通りです。6月20日の都議選関連記事も、メイン部分だけを紹介します。

 「・共産はコロナ対策に注力すべきとして、中止を主張。立民は、感染拡大の懸念を払拭できない限り、再延期か中止すべきという姿勢。」

 「・都民ファーストの公約も、各種世論調査で、大会の中止や延期を求める声が強いので、これを受けた選挙目的だとする他党関係者の分析もある。」

 「・感染防止対策を取った上での、開催支持の立場を取るのは、自民党と公明党。都議会自民党の山崎一輝幹事長は、中止や延期は考えていないと訴える。」

 6月20日以後も、「五輪・パラリンピック」開催是非の記事は続いていました。こういう動きの中で、宮内庁の西村長官の発言があり、共同通信社と時事通信社の動画ニュースが発信されました。2つのニュースの要点を、紹介します。

 〈 1.  6月24日 時事ドットコム 〉

  「・  宮内庁の西村泰彦長官は、24日の定例記者会見で、天皇陛下が、新型コロナウイルス感染状況を、大変心配されているとした上で、国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁を務めるオリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか、懸念されていると拝察している、と述べた。」

 〈 2.  6月24日 共同通信ニュース 〉

 「・宮内庁の西村泰彦長官は、24日の定例記者会見で、東京五輪・パラリンピックへの天皇陛下の受け止めについて、「陛下は、現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を、大変心配されている。」「国民に不安の声がある中で、開催が感染拡大につながらないか、懸念されていると拝察している」と述べた。」

 「・西村長官は、日々、陛下とお話ししている中で、私が肌感覚でそう感じている。陛下から直接そういうお言葉を聞いたことはない、と付け加えた。」

 先月のブログで、西村長官の前職が、警視総監、内閣危機管理監だったと述べました。平成10年の橋本内閣の時に設けられた、この役職は、国防部分を除く、危機管理対策につき、内閣安全保障・危機管理室を指揮監督する高官です。

 オリンピックの開催が近くなり緊張した時、定例会見をする立場の難しさも分からないではありません。しかし氏の発言以来、ネットの世界では、称賛と批判の声が渦巻いています。「よくぞ陛下のお気持ちを伝えた」という賛同の声と、「陛下のお言葉を軽率に漏らした」「罷免しろ」という厳しい意見です。

 世論が大きく割れている微妙な問題につき、陛下のご意見に言及することは、「百害あって一利無し」です。ご本人にその気持ちがなくとも、必ず政争の具にされます。皇室をお守りするという役目は、常にご意向に従うということではありません。今回の発言は、警視総監、内閣危機管理監だった前歴からしても、考えられない軽率さです。

 婉曲であっても、陛下のお言葉を背景に発言をするのは、やってはならない歴史の教訓です。私には、小室母子の問題についても、長官の対応に疑念があり、国のため苦労を重ねたご先祖様のDNAを、持っていないか、忘れたかした人間と見ました。国難の折の長官としては、不適切な人材です。

 菅総理が、保守自民党の総裁なら、即刻罷免すべきでしょう。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「過去のブログ」との対面

2021-06-25 09:26:13 | 徒然の記

 『最後の殿様』の書評を中断し、しばらくブログを休んでいました。パソコンから離れていたのでなく、終日「過去のブログ」と向き合っていました。

  1. 3年前のブログ  『敗戦日本の内側』 12回シリーズ

  2. 2年前のブログ  『岡田啓介回顧録』  5回シリーズ

 なぜなのか、私の古いブログを読まれている方があり、自分で読み返してみました。夢中になると後先を考えず、のめり込んでしまうが私の癖です。だから私のブログは、大抵何回か連続し、シリーズものになっています。息子たちや、「ねこ庭」を訪問される方々のためと、高揚した気分で取り組んだテーマが、連続物になっています。

 芥川賞だったか、直木賞だったか忘れましたが、「泣きながら書きました」と、受賞した作家が述べていました。この人はそうなのでしょうが、私の場合、感激し、涙に暮れながら書いたブログは、大体失敗しています。自分の気持ちだけが昂り、余計な修飾語が並び、とても読めない独りよがりな文章になっています。

 小説に限らず、論文でも、作文でも、「泣きながら」書いたものに、碌なものは無いと、私自身は思い込んでいます。その思い込み通り、今回読み直した上記「過去のブログ」も、恥ずかしくなる部分があちこちにありました。

 私自身は、ブログとして投稿すると読み返すことはなく、ほとんど忘れています。今回のように、古いブログが読まれているのを知った時は、自分でも驚き、読み返します。独りよがりの感激や、恥ずかしいまでに昂った言葉遣いなど、気がついたら修正します。

 今回ブログを中断していたのは、この作業をしていたためです。プロの作家でありませんから、芸術性を高めたいと頑張っているのでなく、こういう文章では、息子たちが読んでくれないという心配のためです。いつからこうなったのか、正確に覚えていませんが、ブログは愛する息子たちへの遺言です。

 これからの世界がどうなるのか知りませんが、反日左翼の学者や政治家たちがいうように、どんな人間も平等で、差別もない、区別もない、不思議な「共生社会」が来るのかもしれません。国境もない、人種もない、宗教も、思想もなく、人類が仲良く住む世界・・本当にこんなに社会が来るのか、理想なのか。疑問だらけですが、こんな風潮が流行っています。

 私は親として、父として、息子たちを愛していますから、こんな世間の風潮を憂えています。息子たちだけにでも、親の気持ちを知ってもらいたいと、そんな風に思っています。話を進めますと、何ということはありません。いつも通りの、自己中心的な偏見になりますが、隠す気持ちはありません。

 要するに、そんな気持ちで、ここ数日、「過去のブログ」を読み返し、修正作業をしていました。長いシリーズのブログには、自己満足が多く、息子たちに敬遠されると、そういう発見がありました。時間があり、気持ちに余裕があれば、これからも時々、「過去のブログ」を読み返そうと思っています。

 最後に、お礼を言わなくてならないのは、私の「過去のブログ」を読んでくださっている方々です。10年前の書き出しのブログまで読まれている、信じられない「もの好きな方」もいます。私なら決してしない、本物の野次馬なのかもしれません。しかしこの方々のおかげで、無精な私が、自分の「過去ブログ」に向き合っております。

 いくら感謝しても、足りません。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『最後の殿様』 -7 ( 尾張徳川家・青松葉事件 )

2021-06-22 22:41:52 | 徒然の記

 先の大戦の大東亜戦争ばかりでなく、幕末から明治にかけても、多くの人命が失われ、国難に殉じています。尾張藩の「青松葉事件 ( あおまつばじけん ) 」も、その中の一つでした。

 義親侯が語らなければ、おそらく誰にも知られることなく、記録にも残らず終わった事件です。ネットで調べますと、概略が分かりました。

 「青松葉事件は、慶応4年1月20日から25日にかけて、尾張藩14代藩主徳川慶勝が、」「藩内において、佐幕派とされた家臣を粛清した事件である。」「 それまで京都で、大政奉還後の政治的処理を行っていた慶勝が、」「" 姦徒誅戮 " の勅命を受け、帰国した直後に処罰が実行された。」

 簡単に述べますと、それだけの話ですが、侯にとっては、忘れてはならない尾張藩の歴史です。名前は出てきませんが、岩倉具視を、生涯許せない人物として心に刻んでいる経緯が窺えます。

 朝廷は、尾張藩が藩主以下勤皇派で固められていると知り、信頼を寄せていましたが、徳川御三家の筆頭ですから、藩内には徳川宗家に忠を尽くす家臣も、少数ながらいました。渡辺新左衛門、榊原勘解由、石川内蔵允ら14名の家臣が、いわゆる佐幕派でした。

 鳥羽・伏見の戦いで幕府側が負けたにも関わらず、彼らは敗北を認めず宗家を救援しようと、藩士たちに働きかけました。16代藩主義宣は事態を憂慮し、藩士を城中に集め説得しています。

 「父慶勝は今京にいて、朝廷と宗家の間を取り計らい、日夜尽力している。」「この際軽挙妄動すると、宗家を思いながら、逆に宗家を不利に陥れるから、」「慎重にし、大義を誤らないようしてもらいたい。」

 こうした動きが朝廷に伝わり、前回のブログで紹介した勅命が出されました。内容は次の通りでした。

 ・尾張藩の佐幕派を一掃し、全藩士を勤皇で固めること。

 ・中仙道、東海道沿いの各藩に、勤皇誘引の使節を出すこと。

 ・慶喜の幕軍が西上すれば、中仙道は木曽谷で、東海道は名古屋城で阻止せよ。

 慶勝はこの命を実行するとともに、重臣を引き連れ、名古屋へ戻ります。名古屋へ入る前途中で一泊し、佐幕派の一掃について重臣と討議します。

 「重臣に人物がいなかったのか、処分するほどではないのに、」「渡辺新左衛門以下14名に、罪科を作り上げ、」「名古屋へ戻ると同時に、切腹を命じたのである。」

 「慶勝にとって14名の処分は、股肱の臣であるため、」「血を吐く思いの処置であった。」「朝廷はこれで、義勝の決意が不変のものであると知り、安心した。」「中仙道、東海道の各藩も朝廷に恭順した。」

 「慶喜は江戸へ戻ったが、江戸城を明け渡し、もとより朝廷に叛く意思はない。」「やがて朝廷も、杞憂から出た行き過ぎを知り、犠牲者の罪禍を取り消した。」「尾張藩も、14名の罪科を取り消し、」「名誉を回復し、給与を支給した。」「この14名の霊は、今日も僕の家で祭っている。」

 これで全容が分かりましたが、ここに私は、武士道の真髄を見る気がいたします。

 「事件の要因は朝廷にあるが、慶勝は藩内の紛争事として、極秘に収拾した。」「その年の日記を全部消滅させるなど、人知れぬ苦労をしたようである。」

 分からない人には、期待しませんが、分かる人には通じる気がいたします。つまり私は、慶勝公と同じ苦労を、宮内庁にいる人士に期待しているということです。そしてまた私は、侯の次の言葉にうなづきます。学校の教科書では教えない。「殿様から見た明治維新」です。

 「明治維新は、薩摩、長州の力量だけでは成功しなかったのではないか。」「維新成功の裏には、春嶽、慶勝、斉昭のトリオによる努力が大きい。」「この事実を無視して、歴史家は維新の功績を、」「単純に、薩摩、長州のものとしている。」「もちろん新政府の建設には、薩長の下級武士に負うところが多い。」

 明治維新の元勲たちを、侯は下級武士と言って憚りません。殿様には殿様の、ご先祖を想う矜持があるのだと思います。

 「明治維新は、日本の平和革命であった。」「打倒されるはずの徳川家は、静岡で、70万石の大名として残った。」「松平春嶽は、新政府の大蔵卿 ( 大蔵大臣 ) 、大学別当 ( 文部大臣 ) 、侍読 ( 天皇の講師  ) に就いたが、」「間もなく、一切の公職から去った。」

 「僕はこの春嶽が、58歳の時、春嶽を父に、」「小石川町の屋敷で、生まれたのである。」「この家はもと、安藤対馬守の上屋敷であった。」

 しみじみと、心に残る叙述です。もし私が当事者として、青松葉事件を語ったとしたら、悲憤慷慨、怨みつらみを書き綴ったに違いありません。敵味方を峻別し、対立感情を煽る、つまらない内容になったと思います。

 こうしたご先祖さまが、日本には沢山おられたということを、忘れてはなりません。私たちの中には、ご先祖さまのDNAが今も生きています。諦めず、辛抱強く、己を律しつつ頑張りましょう。

 この言葉を、他の人々に言わず、自分に言い聞かせております。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『最後の殿様』 -6 ( 尾張徳川家は勤王派だった )

2021-06-20 16:38:24 | 徒然の記

 秋篠宮家批判の動画がひどいと、ある方に教えられ、関係の動画を何件か見ました。篠原常一郎氏の動画はまともな方で、あとはもう、見るに堪えない悪意のゴシップでした。皇室関係者、宮内庁関係者、秋篠宮家関係者とやらのリークを元に、一般人に知られるはずのない事柄が、針小棒大に語られています。

 秋篠宮家だけでおさまらず、上皇陛下や美智子様についても、批判の矛先が向いています。動画のコメント欄には、皇室不要論が汚い言葉で並び、表示されている視聴者数が正しいとすれば、どの動画も、万単位の人間が見ていることになります。ここまで多数の動画が一斉に、同じトーンで発信されているのを見ますと、偶発的というより、組織的な動きを感じさせられるのは私だけでしょうか。悪意を持つ団体による、「皇室倒壊」運動である気がしてなりません。

 私のブログも、秋篠宮様や上皇陛下や美智子様を批判していますので、心の痛みを覚えますが、幸いにも「ねこ庭」の読者の方は200人前後なので、騒ぎを助長する影響力もなく、僅かな安堵があります。息子たちや、「ねこ庭」を訪れる方々だけでなく、宮内庁の関係者や皇室の方々には、敬愛するがための苦言と、憎しみの扇動動画を区別されるように、願わずにおれません。

 今回は義親侯の「尾張徳川家は勤王派だった」を述べるつもりですが、その前にこの悪意の動画の氾濫について、一言述べました。侯の著書も、見方によれば明治政府の批判ですが、述べられている内容には、偏見や思い込みの醜さがありません。ひとえに語る人物の、人柄の大きさの現れだと思いますが、願わくば私のブログも、侯の万分の一でも見習えないかと、そういう気持ちだけは持っております。

 「すでに政権の座を離れた徳川家には、討伐される理由はなかった。」「政体変革をもたらす維新革命は、終わったのである。」「だが、すでに討幕軍を起こしていた薩摩、長州藩はおさまらず、」「また幕府の家臣もおさまらないで、双方が衝突し、」「鳥羽・伏見 ( 戊辰戦争 ) の戦いとなった。」

 これはまさに、最後の尾張徳川家の藩主だった侯から見た、維新史です。

 「慶喜は従兵も少なく、危険を感じたので京都から大阪へ移り、」「海上から江戸へ引き上げた。」「戦乱の拡大を防ぐための江戸帰城であったが、これに狼狽したのが朝廷である。」

 「岩倉はせっかく平和革命が成功したのに、慶喜の帰城は江戸で軍備を整え、」「大軍を率いて、京都へ進軍するためだと邪推した。」「狼狽した岩倉は、かねてから勤王派として信頼していた、幕府に次ぐ雄藩、尾張慶勝に事態の収拾を命じたのである。」

 名古屋の尾張藩は、中仙道を木曽で抑え、東海道を守っていましたから、沿道の各藩は義勝の動向に注目していました。慶勝が各藩へ勤皇誘引の使者を派遣したため、風に望む各藩は、勤皇に一致していったと言います。風を読み違えると藩の滅亡ですから、命懸けの決断だったはずです。今も政界では「風見鶏」の議員諸氏が、政争に明け暮れていますが、私が知らないだけで、もしかすると国のため、命がけで風を読んでいる人物がいるのかもしれません。

 「尾張藩は勤皇で固まっていたが、朝廷はまだ安心がならず、」「藩から佐幕派を一掃し、より強固な勤皇派で全藩を固められたい、」「との要請が出た。」

 これによって生じた事件は、「青松葉事件」とよばれ、長く藩の秘密とされていたそうです。記録も残されておらず、藩主義勝の日記も、この年の分だけが消滅しているという徹底ぶりです。

 「僕が尾張徳川家を継いだのは明治41年で、その頃はまだ事件の関係者が、生き残っていた。」「その関係者を呼び、かなり深く立ち入って尋ねたが、」「それは・・・と、固く口を閉ざして語らなかった。」「おそらく義勝の、厳重な緘口令が敷かれ、」「守られていたためだろう。」

 私が心を動かされたのは、亡き藩主の命を守り、現藩主の問いにも口を閉ざした老臣の姿です。秋篠宮家や宮内庁の内情を、軽々しく漏らす関係者たちが、いかに卑しい人間であるかよく分かります。武士道という日本人の魂を失った人間が、皇室や宮内庁、政界に、いかに多くいるのかも、同時に教えてくれました。

 「君君足らずとも、臣臣足らざるべからず」とは、中国の「古文孝経訓伝序」から出た言葉で、「主君がたとえ暗愚でも、臣下は臣下として忠をつくしなさい」という意味です。真意は、主君への盲従ではなく、未成年だった侯に、間違いを諭した若い女中や家僕たちのように、臣下として果たすべき役目を教えていると聞きました。

 しかるに朝日新聞は「天声人語」で、大臣の言葉を守り、国民不在の行政をした大蔵省の役人を語るとき、この言葉を使いました。どんな馬鹿な上司でも、部下は服従すべしという、悪い意味です。どちらの言い分が正しいのか、朝日新聞と争う気はありませんので、息子たちには、自分で調べることを勧めます。ここで私が言いたいのは、宮内庁や皇室の中に、共同体の一員として果たすべき役割を弁えない愚か者がいるという事実です。

 先日ブログの中でこの言葉を使った私に、「士は己を知る者のため死す」という「史記―刺客伝」の言葉を教えてくれた方がいました。「立派な人間は、自分の真価を知ってくれる人のためなら、命をなげうって尽くすものだ。」、という意味です。

 部下にばかり要求するのでなく、上に立つ人にも苦言を呈しなさいという助言でした。「両論併記」という原則に立てば、この方の言われる通りで、皇室の方々もリークされないだけの精進が必要ということになり、もちろん私は、賛成いたします。

 ということで、今回もまた、何度も横道へ踏み込んでしまいました。皇室が私たちにとって、いかに大切なものであるか、同時に侯の著作が、現在の日本にそのまま通じる良書であるかの、証明ではないでしょうか。

 次回は、尾張徳川家の「青松葉事件」についてご報告します。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『最後の殿様』 -5 ( 殿様から見た「維新」 )

2021-06-19 17:51:53 | 徒然の記

 今回の記述は、まさに「殿様から見た維新」です。おぼろげに知っていましたが、侯から聞きますと、下級武士たちに政治の実権を奪われていった、薩摩、長州、土佐の殿様たちの気持が伝わってきます。

 「もともと徳川幕府は、皇室をないがしろにしたことはない。」「ないがしろにしたという歴史家の説は、明治維新後、」「政権を取った薩摩、長州藩の、宣伝のお先棒を担いでのことである。」

 「幕府は家康以来朝廷と接触し、摂政、太政大臣など、」「公家の組織は温存した。」「幕府15代の間、徳川和子(東福門院) は別にしても、」「皇族の娘6人、公卿の娘6人が、将軍夫人となっている。」

 「水戸徳川にも、公卿・皇族の娘が6人、紀州徳川には7人、」「尾張徳川にも6人が夫人に入っている。」「いわば朝廷と徳川は姻戚関係で、薩摩の島津、長州の毛利とは、」「比べられない、血のつながりがあった。」

 多くは武家の政略結婚であったとしましても、知らない事実を教えられますと、意見に傾かされます。勝者が歴史を書き換えるというのは、アメリカや中国が日本にしただけでなく、明治時代にも似た話があったということでしょうか。

 「明治維新の際、島津、毛利は、徳川に代わって政権を取り、」「自らが幕府になる、野心があった。」「だがそれぞれ単独では、力量不足であった。」「その他の各藩は思い思いに、尊王攘夷、あるいは公武合体、開港だ、閉港だと叫び、」「てんでばらばらの行動で、公卿も同様であった。」「この混沌たる情勢を巧みに利用したのが、下級公卿の岩倉具視である。」

 岩倉具視といえば、維新政府の功労者として500円札の肖像が浮かびます。厳しい容貌をした顕官の印象しかありませんので、侯の言葉に驚かされます。しかし侯から見れば、下級公卿だったのは事実で、貴重な日本史を語る証言の一つですから、学徒の気持で向き合います。

 「慶喜が将軍になった慶応2年の12月に、孝明天皇が36才で崩御。」「一部には、幕府と親密な天皇を、岩倉が毒殺したとの説があるが、」「これは眉唾物である。」

 何かの本で、私も毒殺説を読んだ覚えがありますが、侯は明確に否定しています。

 「慶応3年1月、16才の睦仁親王が皇位につかれた。」「これが明治天皇である。」「岩倉は、" 玉を奪うべし  " と言い、若き天皇を擁し、」「三条実美らとはかって、王政復古を計画した。」

 毒殺説は否定しても、策略家としての岩倉具視には、好意を持てない書き振りです。

 「明治維新は、わが国政体の一大革新であった。」「外国の例を見ると、政体の変革には必ず大動乱が起こっている。」「それが明治維新は、極めて穏やかに行われた。」「これは日本民族の特性による。」

 私などは、函館戦争、会津の白虎隊、蛤御門の変、坂本龍馬、大久保利通の暗殺など、大動乱の時代だったと思っていますが、殿様の目にはそうではなかったようです。民族の特性によると言われれば、そういうことだったのかと、納得してしまいます。侯は、明治維新を次のように二段階に分けて考えており、私なりの言葉で要約しました。

 〈 1. 第一段階 王政復古・大政奉還 〉 

  ・宮中では天皇を中心として、革新派の公卿岩倉・三条

  ・大名では、徳川慶喜、徳川斉昭、徳川慶勝、島津久光、伊達宗城、山内豊信、松平容保、松平定敬が、相談して決めた。

  ・政体変革の大義は、公卿だけでも、また大名だけでもできなかった。

  ・王政復古が決定されなければ、改革の本義は成立しなかった。(各藩の青年志士は、これに加われるほど身分の高い者がいなかった。)

 〈 2. 第二段階 明治政府の構成  〉

  ・王政復古の本義が決定したことにより、各藩の青年志士が参加できた。

  ・彼らは必死に、明治政府の構成に尽力し、近代国家としての日本国を作った。

  ・これは、公卿や大名にできることではなかった。

 明治政府の顕官たちも、さすがに都合が悪かったのでしょうか、こうした「身分差」の話を学校で教えていません。初めて知る事実でした。「王政復古」と「大政奉還」がされなかったら、明治政府が成立せず、各藩の青年志士は政府に参加できなかったのです。

 下級公卿、下級武士と言いながら、近代国家としての日本は、彼らがいなければできなかったと述べています。見習いたい度量の広さと、偏見のない理知です。こう言う人物が現在の日本にもいて、きっと政治を動かしているのであろうと、そんな気もしてきました。

 反日・左翼の野党や妥協ばかりする自民党に、そんな人物がいるとは見えませんが、「国民投票法」や「土地利用規制法」を成立させた事実を見ますと、侯の言葉を噛み締めたくなります。

 「明治維新は、極めて穏やかに行われた。」「これは日本民族の特性による。」

 「国会審議は、極めて穏やかに行われた。」「これは日本民族の特性による。」

 次回は、「尾張徳川家は勤王派だった」と言う表題になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『最後の殿様』 -4 ( 殿様から見た「幕末」 )

2021-06-18 19:16:26 | 徒然の記

 幕末から維新にかけ、侯が語る事実は、私が学校で習った歴史と少し異なっています。どちらが正しいかと言うことでなく、こう言う見方もあるのだと、知識として必要な気がします。

 いわば侯の話は、政権を持っていた徳川家の一員としての意見です。敬意を表さずにおれないのは、天下争乱の時代を当事者の一人として語っても、激情にかられることのない、冷静さです。今日、政府を攻撃する反日左翼勢力の、醜いまでの自己主張と比較すれば、一目瞭然です。まして、白井氏のような学者のつまらない意見に憤る私の小ささは、引き合いに出すまでもありません。

 「徳川一門には、徳川の姓を名乗る宗家と尾張、紀州、水戸の三家と、」「田安、一橋、清水の三卿とがある。」「ほかに、松平を名乗る一族もある。」

 話が少しそれますが、叙述を読んでいますと、家系を絶やさないための工夫が、御三家だけでなかったことが分かります。男系を守るための養子縁組が、盛んに行われていた事実も教えられます。

 「越前福井の藩主松平は、所領32万石で、尾張と共に中部日本の北辺、北陸の重鎮であった。」「この松平家15代藩主斉善(なりよし)に、後継がなかった。」「そこで江戸城内に住む、田安斉匡の8男で11歳の田安錦之氶を養子にした。」「これが16代藩主慶永で、世間には松平春嶽として知られている。」「春嶽の時代、尾張徳川は14代慶勝であり、水戸は9代斉昭である。」

 嘉永6年(1853)の6月、ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に入港し、幕府に開国を迫ったのは、春嶽侯が25才の時でした。以来開国をめぐり、天下が大騒ぎになったのは、歴史で教わった通りです。開国論と攘夷論、勤王派と佐幕派に国が二つに分かれます。

 「将軍家定は病弱無能で、重大時局を乗り切れなかった。」「春嶽は朝廷の許可を受けて、開国論を主張し、」「慶勝、斉昭も加わって、一致していた。」「家定が没し、後継者問題が起こった。」「春嶽は斉昭の子の一橋慶喜を推し、朝廷の許可なしにハリスと日米修好条約を結んだ、」「大老井伊直弼を責めた。」

 直弼は紀州徳川家の家茂を推していたため、対立が激化し、春嶽、慶勝、斉昭の三人は、隠居謹慎となりました。春嶽の処分は最も重く、藩主の地位を奪われ、霊岸島の屋敷に幽閉され、家族、家来、友人との面会通信の全てが禁止されました。

 「春嶽の言動の背後には、家臣の橋本左内、中江雪江、由利公正、」「鈴木主税ら、進歩派の活躍があったのである。」「中でも橋本左内は長州の吉田松陰と並び、薩摩の西郷隆盛も、」「左内の人物、識見には、一目をおいたほどである。」「左内は勤王開国はもちろん、ロシアとの同盟締結をさえ主張していた。」

 人物の名前と、相互の関係を具体的に語られますと、幕末維新の歴史が、生き生きと私の中で蘇ります。幽閉直前の春嶽侯が心配したのは、家臣たちが責任を感じ、切腹するのではないかと言うことだったそうです。侯は密かに書面をしたため、「責任は全て主君たる自分にあり、汝らの罪にあらず。軽挙妄動せぬように。」と制しています。

 「井伊直弼の弾圧は、それだけでは済まなかった。」「4ヶ月後に橋本左内を逮捕し、翌6年には、」「吉田松陰ら100余名を処分する、安政の大獄となった。」「だが井伊は、この報復を受けた。」「2年後の万延元年3月、桃の節句に登城の途中、」「桜田門外で、水戸浪士らに斬殺されたのである。」

 これもまた有名な話ですが、私が驚いたのは、侯の次の説明でした。

 「井伊直弼は、偉大な政治家であった。」「親藩三家といえども、容赦無く処罰する。」「反対派を弾圧することに、いささかの仮借もない。」「その所信を貫く行動は、なみの政治家にできることではなかった。」

 しかし、褒めすぎてもいません。

 「だがそこに、一抹の不安がある。」「井伊の弾圧は、反面で明治維新を早めたと言える。」

 右顧左眄する今日の政治家、与党、野党を問わず、彼ら議員諸氏に聞かせたい言葉ではありませんか。意見が異なっていても、互いに国のため、命をかけ、戦っています。今はなき、武士道に生きる政治家たちの姿でしょうか。

 「井伊を失ったことは幕府には痛手だが、改革派には幸運であった。」「春嶽は謹慎を解かれ、幕府の政事総裁となった。」「将軍家茂が没し、一橋慶喜が最後の将軍となった。」「政局は、維新に向かって急展開する。」

 231ページの著作の、たった14ページの部分を紹介しています。侯が直接関与された、5・15事件、2・26事件、あるいは中国戦線への視察、敗戦、東京裁判へと続きます。この調子で行きますと、今年一杯かかるのかもしれませんが、殿様を真似て、「慌てず騒がず、マイペース」で行きたいと思います。

 国会の動き、国際情勢、「ねこ庭」の変化など日常のことも忘れずに、ブログを続けようと思います。

 うまい具合に電話がつながり、武漢コロナの予防接種の予約が、家内と二人で2回目の分も完了しました。私の第一回目は、6月21日16時からです。色々な人が様々な意見を言っていますが、政府が国民のためやっていることですから、私は有り難く接種をします。それが、国民の務めでしょう。嫌な人は、やらなければ良いだけの話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白井聡氏の寄稿文 - 2 ( 8年も成長を忘れた反日学者 )

2021-06-17 18:11:30 | 徒然の記

 ( 8年も成長を忘れた反日学者 )とサブタイトルにしましたが、過去の8年間、氏は何をしていたのでしょう。今回冒頭に、まず述べなくてならないのは、京都精華大学で氏の授業を受ける学生たちへの同情です。思想信条の自由が保障されている日本とはいえ、偏見と卑屈さと間違いだらけの講義を聞かされるのですから、気の毒な学生たちです。

 あと10行で、氏の寄稿文が終わります。今回の記事のメインとなる主張が、最後を飾っています。

 「国内外の多様な困難に直面している今、問題を引き受けようとする態度こそが必要。」「主権者であろうとすることは、誠実に生きるということです。」

 私には氏が何を言っているのか、さっぱり分かりませんが、驚くべき意見を述べています。

 「自ら責任を引き受けようとし、衝突を恐れずに、」「勇気ある行動を取った人を、引き合いに出す。」「一人は翁長雄志前沖縄県知事であり、もう一人は、」「天皇退位への強い思いを滲ませた『お言葉』を、2016年に表明した現在の上皇様だ。」

 どのような論理の糸をつなげば、こんな組み合わせが出てくるのか、思考回路が不明ですし、説明もしていません。

 翁長氏は、那覇市議、沖縄県議、那覇市長時代は自民党に所属していましたが、平成26年に自民党を離れ、沖縄からの基地撤去を主張する共産党と結びつきました。この時の志位委員長と翁長氏の言葉が、ネットに情報として残っています。

〈 共産党委員長・志位和夫氏のエール 〉

 「このたたかいの先頭に立つ翁長さんが知事になれば、日米両政府に巨大な衝撃を与え、新しい歴史の扉を開きます。」「翁長さんを知事に押し上げ、沖縄の新しい歴史をつくろう」

〈 翁長雄志氏の返礼 〉

 「志位委員長から激励をいただき、本当にこれまでの政治活動が間違っていなかったと感じています。」「一緒に行動して本当に違和感がない。」「なぜもっと前から、一緒にならなかったのかと思います。」

 要するに氏のスローガンは、米軍基地反対の一点張りでした。「普天間基地の閉鎖・撤去」、「オスプレイ配備撤回」、「あらゆる手法を駆使した、辺野古新基地反対運動。」というもので、政府に反対し、沖縄の反日活動を煽り、日本国中の左翼過激派を集め、さらには韓国からも集め、平和活動という名の騒動を生み出しただけの県政でした。

 不毛な沖縄県政でも、米軍に逆らったという外観だけで、白井氏には「責任ある、勇気に満ちた行動」と映ったのでしょうか。反日・左翼同士なので、氏が翁長氏を賞賛するのは自由です。しかしなぜ、上皇陛下が出てくるのでしょう。憲法を無視し、内閣にも知らせず、NHKを使い、陛下が『お言葉』を発された時から、社会の混乱が始まっています。

 これが、「女性宮家」「女性天皇」の議論が湧き出したきっかけでした。それはまさに、2600年以上続く皇室を崩壊させるための、陛下の反乱でもあったと、私自身は今でもそう考えています。陛下の『お言葉』のどこが、これほどまで氏を有頂天にさせるのか、思い当たることは一つしかありません。

 「天皇制廃止」を党是とする共産党に、反日・左翼たちは引き寄せられます。「皇室崩壊」につながる陛下の『お言葉』を、氏は評価している・・・としか考えられません。昭和天皇は生涯「私」を傍に置かれ、国民や国のためという「公」を第一とされました。無理にされたのでなく、「立憲君主」とはそうするものという信念で、「私事」を語られませんでした。

 しかし上皇陛下の『お言葉』は、最初から最後まで「私事」でした。「体力が続かなくなったから、天皇を退位する。」「残された家族が大変だから、自分の葬儀は簡素にする。」・・等々、国民不在のまま、ご自分のことだけでした。現在眞子さまは、国民の心配や苦悩をお考えにならず、ご自分の恋の成就を願っておられます。刑事事件にもなろうかという、不審な母子との婚姻を進めておられます。

 国民と共に歩み、敬愛の中心にあった皇室が、自己中心的なお考えでも済ませられるようになるとは、昭和時代には考えられないことでした。そういう「崩壊」、「破壊」と言う意味で、氏は陛下の『お言葉』を評価しているとしか、考えられません。

 昭和52年生まれの氏は、私の息子たちより若い学者です。戦前と戦後を生きた両親や、他の大人たちを見て育った私にとって、戦後は、氏のような言葉で定義してしまえるほど、簡単な時間と空間ではありませんでした。

 国民全体が、それこそ汗と涙の日々を重ね、寝る時間を惜しんで働き、やっと手にした「繁栄」と、「平和」でした。アメリカに臣従したから、自然現象みたいに繁栄したのでは決してなく、近隣諸国に支払った賠償金は、血のにじむような国民の税でした。

 自分を育ててくれた両親への思いからだけでなく、当時の大人たちへの敬意や感謝があるから、見過ごせない意見となります。英語が喋れないのは、日本人に言うべき意見がないからだと、ひどいことも言っています。英語が喋れない日本人は、全員自分の考えが無いということになり、私は英語が話せないから、自分の意見がないというのでしょうか。バカバカしくて読む気にも、ならない愚論です。

 加害者としての責任を感じればこそ、中国、韓国に対し、無償援助やODAといった名目で、どれだけの金額を支払ったというのか。あるいは、尖閣、南京、靖国の問題について、中国が執拗に攻撃してきても、どれほど耐えてきたのか。韓国の言う慰安婦にしても、徴用工にしても、捏造の言いがかりと知りながら、政府は謝罪し、反論さえしていません。必要以上の加害者意識のため、多くの国民は我慢しました。氏はどこを見て、日本人が、ずっと被害者意識だけで生きてきたと、決めつけるのでしょう。

 「 日本人である以上、祖国がこのまま朽ち果てていくのは堪え難い。我々は本当の意味での、「敗戦後」を始めなければならない。」

 その氏が、恥ずかしげもなくこんなことを喋っています。嘘と横車を押しつけ、相手を威嚇することしか知らない中国政府と、韓国政府の人間に似ています。先日は「両論併記」の共同通信社を褒めましたが、本日は「反日左翼の腐れマスコミ」と遠慮なく言います。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする