ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

現代のファシズム

2018-09-23 17:16:58 | 徒然の記

 勝部元(はじめ)氏著「現代のファシズム」( 昭和30年刊 岩波新書 )を、読んでいます。

 巻末の略歴で、氏は大正6年東京で生まれ、昭和15年に九州大学を卒業し、出版当時には、愛知大学法学部の教授で、専攻は国際問題と書かれています。平成11年に、80才で亡くなっていますが、左翼学者として、一生を生きた人物です。

 今では笑い話になっていますが、東西冷戦時代に、共産党が、「アメリカの核は汚いが、ソ連の核は綺麗だ。」と言ったという、捏造宣伝が広まったことがありました。真意は、ソ連の核武装を正当化するため、共産党がバカを言い出したという皮肉でした。

  昭和20年から40年代頃までは、まだまだ、マルクスの思想が輝いていた時代です。多くの理想主義者たちが、人類のユートピアを、社会主義国家の中に夢見ました。敗戦後の日本では、弾圧されていた左翼主義者の著作が、禁を解かれ、洪水のように溢れました。

 先日まで私は、左翼の学者や政治家たちを、十把一絡げに「獅子身中の虫」と嫌悪していましたが、少し観点を変えることにしました。勝部氏のような左翼学者の著作も、一概に否定せず、昔の世相を思い浮かべつつ、遺物を眺める博物館の観客みたいになろうと、決めました。ベルリンの壁が崩壊し、社会主義のソ連が消滅したのは、平成3年( 1991 )の12月でした。それ以降も、共産主義の夢から覚めない左翼学者たちと、それ以前に書かれた著作は、切り離して考えるのが妥当であろうと、そんな気がして参りました。

 社会主義のソ連が、どれほど人類のユートピアとかけ離れいていた国だったか。今の私たちは、知っています。まして、それ以後に、北朝鮮や中国の実情を知るにつれ、社会主義国家とは名ばかりで、一部の権力者たちが、国民を弾圧する国でしかなかったと、理解が進みました。言論の自由、職業の自由、身体の自由すら奪われ、政府を批判する者は暴力警察が獄へぶち込み、命の保証すらありません。

 それでもなお、悪辣な社会主義や共産主義を信奉し、日本を貶めている現在の学者や、政治家たちは、本気で非難しなければなりません。彼らこそ、反日左翼の害虫であり、日本人の心を汚染する、「獅子身中の虫」です。・・・・ということで、平成11年まで生き、主義を捨てなかった勝部氏を厳しく批判しても、昭和30年代の著作は、少し寛大に眺めようと思っている私です。

 ついでに、この本が出版された時、日本にどんなことが生じていたかを、ネットから拾ってみました。

 2月 ・マレンコフ首相が辞任。後任にブルガーニンが就任。 

     ・第27回衆議院議員選挙の結果
     民主党185議席、自由党112議席、左派社会党89議席、右派社会党67議席、

     労農党4議席、共産党2議席、諸派2議席、無所属6議席。

 4月 ・チャーチル首相が辞任
     ・インドネシアのバンドンで、第1回アジア・アフリカ会議が開催。

 5月 ・パリ協定の発効により、西ドイツが主権回復。

 6月 ・鳩山首相民主党総裁と、緒方竹虎自由党総裁が党首会談。「保守結集の原則で意見一致」を発表。

 7月 ・日本共産党第6回全国協議会で、活動方針変更を決定。武装闘争を破棄。

 8月 ・第1回原水爆禁止世界大会が開催。
     ・日本、GATTに正式加盟。

  10月 ・日本社会党統一大会開催、社会党再統一。委員長左派鈴木茂三郎、書記長右派淺沼稲二郎。

 11月 ・自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生。(保守合同) 55体制の幕開け

   12月 ・日本の国際連合加盟に、ソ連が拒否権を行使。

 鳩山首相とブルガーニン首相が、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名したのは、翌31年の12月でした。やっと国交が回復しましたが、領土問題は先送りされたまま、現在にいたっています。

 氏の著書も、先日読み終えた橋川教授の本と同じく、薄っぺらな文庫本です。247ページしかなく、現在ちょうど100ページですが、なんとも酷い本です。橋川氏の著作は、無知を啓蒙してくれ、心に響く教えもありましたが、勝部氏の本には、今のところ何もありません。社会主義国のソ連は、平和主義国家で、続く中国も、ベトナムもそうで、アメリカだけが平和を乱す、独占資本主義国だと、厳しい弾劾で終始します。

 アメリカが金と武力で他国を支配するという意見には、同意しますが、それ以外の主張はお話になりません。私に似た偏見と独善の羅列ですから、博物館の遺物だと思わなくては、まともに読んでおれません。氏はアメリカの非道な政略や、陰謀を語りますが、今の私たちは、そっくり同じことをしているソ連や、中国や、北朝鮮を知っています。

 だからここでも、私は息子たちに言います。世界の国々は、自国のエゴを通すためなら、どんな暴力でも破壊でも、殺人でもしています。善悪の話でなく、国際社会の現実の一面です。だから、お前たちは、こんな国々から、「日本だけが酷い国だった。」「日本だけが間違っていた。」と、責められる筋合いはないのです。卑屈に反省を強いられたり、必要以上に謝ったりする愚行は、そろそろ止めなくてなるまいと、父は考える次第です。

 だからと言って踏ん反り返るのでなく、歴史の事実を謙虚に知ることを、父は、勧めています。明日からまた、勝部氏の歴史的著作を、具体的に示しながら、書評をしようと思います。もしかすると、賢いお前たちはすでに気づいているのかもしれないが、現在の反日左翼たち、つまり政治家であり、学者であり、マスコミの者である彼らは、勝部氏と同じレベルの人間だということです。

 本来なら、博物館に陳列されるべき人間たちが、何を間違ったのか、平成の今も大きな顔をしています。「平和憲法を守れ。」「日本の軍国主義復活を許すな。」「平和を守れ、戦争に反対せよ。」・・・・

 こんな幼稚なスローガンに、国民はいつまでたぶらかされているのかと、父が言いたいのはそこです。もしもお前たちの中に、反日左翼にたぶらかされている者がいるとしたら、父は心残りで死ぬこともできません。明日から、諦めず、嫌気を起こさず、左翼教授の本を手にするのは、そのためです。

  白銀(しろがね)も 黄金(くがね)も 玉も

    何せむに  優れる宝 子にしかめやも

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ナショナリズム - 7

2018-09-21 21:44:41 | 徒然の記

 どこの国においても、歴史に残る立派な人物がいて、国民が誇りにしています。

 日本にも、数知れないほど偉大なご先祖様がいます。政治家であったり、軍人であったり、学者であったり、芸術家であったり、それぞれの人が、心に刻んでいます。橋川氏の著書を読めば、吉田松陰もその一人だという気持ちに、間違いなくなります。

 本日は、橋川氏の叙述にそい、松陰の人となりを追ってみましょう。

 「松陰の人間性を示すものとして、その女性観が、よく引き合いに出される。」「とくに彼が、獄中から書いた、妹千代への手紙など、」「その柔和な和文と相まって、これが果たして、封建的士道下に鍛えられた、」「青年武士の手紙かと思われるほど、」「人間的な情感に、満たされたものである。」

 「そこには女性を一段と低く見なす、封建的イデオロギーは、全くなく、」「ごく自然に、愛すべき対等の人間と見る、」「松陰の態度が、よく表れている。」

 「女性に対してだけでなく、さらに、その最下層の人々、」「いわゆる部落民に対しても、差別感を抱いていなかった。」「世間が、人間以下の存在とみなしていた人々に対し、」「なんらの差別感なしに、あつい人間的共感を寄せている。」「それと同じことは、兒童、友人、後輩等、全てに対する態度に表れている。」「ルソーの人間観や、社会倫理の基礎に置かれていた、」「あの感情に似たものが、松陰の精神をつらぬいていた、」「とさえ思わされた。」

 幕末の賢公と言われた斉昭ですら、辛口の批評をした氏が、松陰は手放しの誉めようです。同時にそれは、私の知らなかった松陰でもあります。

 「しかし彼の本領は、別のところにあった。」「それは、先に暗示しておいたように、」「人間の忠誠心という問題領域における、」「探求者としての彼である。」

  「偏狭な水戸学の尊皇攘夷論を越え、いかにして松陰が覚醒した個人となり、ルソーの言う新しい政治体制を唱える人間となったのか。」・・・・いよいよ、ここから、松陰の思想の変遷という、メインテーマに入ります。

 「まず僕、心を改めて申すべし。」「よく聞きたまえ。僕は、毛利の家臣なり。」「故に日夜、毛利に奉公することを、練磨するなり。」「毛利家は、天子の臣なり。」「故に日夜、天子に奉公するなり。」「我ら国王に忠勤するは、すなわち天子に忠勤するなり。」

 氏は松陰のこの言葉を評し、本質は、水戸学派の忠誠理念をそのまま継承したものであり、幕藩体制そのものを前提とする、思想だと言います。そして氏が注目するのは、松陰の忠誠理念の中にある、質を異にする要素でした。これが後に、彼の思想の転向を引き起こす契機になったと、氏は考えます。

 「それは、彼の中にある規諫(きかん)の論であった。」「いわゆる主君への、忠諫(ちゅうかん)と呼ばれる態度のことであるが、」「元々は、主従関係にともなう、忠誠心発露の一形式であったことは、言うまでもない。」

 氏が説明を省いていますので、規諫・忠諫と言う言葉を、ネットで調べてみますと、「 主君の過失などを、誠意を持って指摘し、忠告すること。」と書かれていました。松陰の行動が、しばしば藩の規制を乗り越えましたが、むしろこのような行動こそが、藩に対する真の忠誠であり、忠諫だという意識に貫かれていたと、氏は説明します。

 「事成れば、上は皇朝の御ため、」「事敗れば、私ども、首刎ねられるとも苦しからず。」「覚悟の上なり。」

 これは松陰の言葉ですが、私のような小人には、とても真似のできない覚悟です。これについて氏は、つぎのように語ります。

 「一般に忠誠心は、体制秩序への同調を意味しており、」「体制への無批判、服従、事なかれ主義となりやすい。」「松陰は青年期から、それを批判の対象としてきた。」「場合によっては、大不忠とみなされる行動に踏み切る事こそ、」「真の忠誠であるという逆説を、」「松陰ほど真剣に体験し、思索した武士は、」「稀であったかもしれない。」

 ペリーの艦隊に対する幕府の対応を眺め、松陰の思想が少しずつ、変化していきます。夷狄を払わない幕府への疑問、藩主への疑念が、拭えなくなります。

  「天朝への忠誠を忘却している点で、幕府、諸侯以下、」「衆民に至るまで、」「同じ罪を負うている。」「己の罪をおいて、他の罪を論ずる事は、」「われ死すともなし得ず。」「死を恐れない、規諫の精神を奮起し、」「衆民から、将軍まで、推し及ぼす事より始む。」

 その努力が、究極において挫折するとき、初めて幕府否定の行動が正当化されるだろうと、考えます。そしてついに、松陰は、幕府や諸藩、衆民の間違いに気づき、強く怒ります。

 「天朝を憂え、よって夷狄を憤る者あり。」「夷狄を憤り、よって天朝を憂うる者あり。」「従前天朝を憂えしは、みな夷狄に憤りをなし、」「本末すでに誤まてり。」「真に天朝を、憂うるにあらざりしなり。」

 天朝を心配し夷狄に憤るのでなく、夷狄を憤り、その後に天朝について心配するのでは、順序が間違っていると、松陰は言います。そして、ここで初めて、「天下は、一人の天下にあらず」という、儒教的政治論を離れ、「天下は、一人の天下なり。」という立場に立ちます。

 一人とは、天皇のことで、国民の主権が天皇の一身に集中されるとき、他の一切の人間は、「億兆」として一般化されます。

 「論理的には、もはや諸侯、志太夫、庶民の身分差は、その妥当性を失うこととなる。」「もともと松陰の気質の中には、封建的身分にかかわらないことがあったが、」「ここにきて、彼は、天皇への熱烈な敬愛を基軸として、」「国民という意識の、端緒をを捉えたといえよう。」

 つまりこのことが、氏が評してやまない、松陰の思想の変革です。天皇を除けば、日本人民はすべて平等であるという、彼の思想が近代国家としての日本の土台になるのです。そしてこれが、氏の結論です。

 「後に、松下村下の伊藤博文が、」「あらゆる宗教にかわって、皇室を日本の基軸とし、」「明治の国家体制を構想したとき、」「松陰が予見した、天皇制的国民の制度が、」「完成されたと、言えよう。」

 古来より国民の敬愛の中心であった天皇を、日本の中心として再び据え、国際政治の荒海へと船出した先人の思想を、平成の今、私たちはもう一度、思い起こす必要があります。天皇があってこその「人間平等」であり、武力によらない天皇統治は、反日左翼の者たちが言う、絶対的権力者としての天皇でなく、敬愛の中心としての権威であると、知るべきです。

 この天皇制を消滅させる「女系天皇」に、賛成するなど、あってはならないことです。ですから私は、たとえ偏見と批判されましても、反日と左翼の政治家や活動家を認めません。もちろん、石破氏も、保守政治家として認めません。安部氏だって、松陰の純粋さ、一途さに比較すれば、保守政治家と素直に肯定できない私です。

 本日も、ここで一区切りといたしますが、最後に橋川氏に、少しだけ異論を述べます。確かに松陰は優れた人物で、日本の近代国家の礎となりましたが、もう一つ、大事なことがあります。それは、松陰の思想を理解し、賛同し、松陰と同様に、命がけで全国を駆け回った志士、町人、百姓たちがいたという事実です。草莽崛起と、松陰は願いましたが、その願いに応えた日本人たちがいたという事実です。これこそが、誇るべき日本の宝であると、私は異論を述べます。

 「松陰先生も立派ですが、これに応えた多くの日本人も立派でした。」と、私は感謝と敬意の念を捧げます。本の書評はやっと、80ページです。まだ100ページを残していますが、一番肝心なところを終えましたので、ブログもここで終わりといたします。

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ナショナリズム - 6

2018-09-20 22:54:36 | 徒然の記

 前回に述べた朱子学者大橋訥庵の、西洋学批判は、本題ではありませんので、本日は、再び徳川斉昭の話に戻ります。

 国難に際し、同じく挙国一致を唱えても、斉昭の思想は、フランス革命時のそれと比べれば、あまりに差異があると指摘し、その比較で、フランス革命期における、バレールの「国民への訴え」を、氏が引用しています。

 「すべてのフランス人民は、男も女も老いも若きも、祖国により、」「自由を防衛するよう、呼びかけられている。」「若者は戦え、妻子ある者は兵器を作り、」「荷物と砲を輸送し、必需品を生産せよ、」「女たちは、兵士の服を縫い、テントを作り、」「傷病兵の看護に当たれ。」「子供たちは、リンネルから包帯を作れ。」

 バレールは、身分や性別や年齢差にこだわらず、すべての国民に呼びかけている。しかるに、斉昭はどうであるかと、氏が比較論を述べます。

 「尊皇攘夷論者の中には、ここに示されたような、」「挙国一致体制への呼びかけは、ほとんど認めることができない。」「せいぜいそれは、幕閣と封建領主たち、」「ならびに、その家臣団への呼びかけにとどまり、」「一般民衆に対しては、むしろ予想される戦闘地域からの、排除が考えられていたのである。」

 「この心性が前提としてある限り、仮に日本国の意識が生まれたとしても、」「せいぜい封建諸侯の発言権を増大せしめる、という形のものでしかなかったであろう。」「水戸学を中心とする、攘夷思想からは、」「それ以上のビジョンの生まれてくる可能性は、なかった。」

  ここまで酷評する水戸学が、なぜ日本の隅々にまで波及し、幕府の体制を覆したのか。氏は次のように続けます。

 「水戸学の影響から出ながら、ある新しい人間感と、」「忠誠論の立場に到達し、日本人のネーションの意識に、」「かなり深刻な影響を与えることになった、一人の武士的知識人をとらえ、」「別の角度から、追求することとしたい。」「松陰吉田寅次郎が、その人物である。」

 吉田松陰は、山口県の松下村塾で、幕末の若い志士たちに、あるべき日本の未来を教え、塾生たちには、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義等々、多くの人材がいました。私塾だった「松下村塾」は、藩校の明倫館と異なり、武士や町人など、身分の隔てなく塾生を受け入れていました。

 国禁を破り幕府の怒りに触れ、獄に入れられたり、国元で閉門蟄居となったりと、わずか29才で刑死した、松陰に関する私の知識は、それくらいでした。松陰が水戸学に触れた時期があるとは、氏に教わるまで知りませんでした。54ページから80ページまで、26ページを割き、氏は松陰の思想の変遷を追っています。

 偏狭な水戸学の尊皇攘夷論を越え、いかにして松陰が覚醒した個人となり、ルソーの言う新しい政治体制を唱える人間となったのか。説明に費やされたページを、何度も読み返し、それでも真意がつかめず、私はこの部分の理解に難渋いたしました。今の私が次に頭を悩ますのは、わが息子たちに、橋川先生の思考が、どうすれば伝えられるか、という所にあります。

 水戸学の「尊皇攘夷論」を、さらに高め、武士階級だけのものでなく、天下万民の思考となるまでに噛み砕き、死を恐れずに生き抜いた松陰の短い人生に、橋川先生は心酔しているようです。その思いを、何とか息子たちに伝えたいと、私も苦闘しております。 

 「松陰が水戸を訪れ、会沢正志を始め、水戸の長老たちに、」「初めて面会したのは、嘉永四年(1851)、21才の時である。」「すでにそれまでに、松陰は、山鹿流の兵学を修め、」「兵学師範吉田家を継いで、独立の兵学者となっていた。」

 しかし水戸で、長老たちの精緻な歴史談話を聴き、大いに反省したと言います。「身皇国に生まれ、皇国の皇国たるゆえんを知らず、」「何をもって天地の間に、立たん。」と、嘆きました。元々彼は、歴史学を、人間とは如何なる存在であるかを教えてくれるものと、考えていました。多く学問は、事実より論理を大切にし、いたずらな空論となる場合があるが、歴史は事実を扱い、人間を教えるという直覚を持っていました。

 つまり水戸学は、その理論体系というよりも、それまで多く知ることのなかった、日本の歴史への関心を、更に呼び起こし、松陰の思想に影響を及ぼしました。また、松陰の家学である兵学は、勝利に達するための、合理性を追求する学問であり、他の学問より、イデオロギーから解放されやすいという側面を持っています。

 「彼にとって、兵学は、もはやたんに、封建諸侯に奉仕する学問でなく、」「全く新たな兵器と戦術を備えた、外敵に対抗しうる、」「現実の科学でなければならなかった。」

 ということで、松陰は、兵学家としての合理的精神を有し、水戸学に触発された歴史学においても、合理的精神で理解を進めました。彼の中にある、普遍的な知識への要求は、封建的な藩体制内に、とうてい収まるものではありませんでした。その象徴的な事件が、嘉永四年の暮れ、亡命により、東北旅行に踏み切ったことでした。

 結果として松陰は、士籍を削られ、世禄を奪われる処分を受けますが、藩の枠を超えた有士たちの交流が、ここから次第に広まったと言われます。

 「この交流が、当時において、いかに大きな思想的変化を引き起こしたかは、」「今では、想像もできないことであることを、想起しておこう。」

 と、氏は述べ、徳富蘇峰の書籍からの文章を、紹介しています。

 「松陰が処分を受けた原因は、ただ彼が、東北遊歴の期日を、」「宮部鼎蔵らと約し、その約束を重んじ、」「藩庁から交付さるべき、身分証明書の到達を待たずして、」「亡命したことにあった。」

 「彼は自覚したるにせよ、せざるにせよ、」「既に長防二州をもって任とせず、天下をもって任としたり、」「亡命の一件は、けだし氏が、天下の士となりし、」「洗礼と見るも、過当ならず。」

 こうして志士が、藩を超えて横行することが流行し、維新の原動力になったと、説明します。もちろん彼らの多くは、脱藩し、浪人という境遇になります。テレビのドラマでは、自由に志士たちが全国を移動していますが、その裏には、松陰の死を賭した行動があったと、これもまた初めて知る「目から鱗」の事実です。

  「偏狭な水戸学の尊皇攘夷論を越え、いかにして松陰が覚醒した個人となり、ルソーの言う新しい政治体制を唱える人間となったのか。」

 橋川先生の考えを伝えるには、ブログのスペースが足りなくなりました。大切な部分ですから、息子たちには、端折らずに伝えなくてなりませんので、今夜もまた、中途半端ですが、ここで終わります。

 明日は自治会の「防災訓練」が、近くの中学校で朝からあります。私も防災委員の一人なので、世話役として出席しなくてなりません。台風、地震、大雨と、今年は自然災害が続きますので、こういう時は、自治会の活躍が期待されます。体調の不調もあり、億劫なのですが、松陰の苦労を思いますと、そんな贅沢は言っておれません。

 少し早い時間ですけれど、これから床につきます。お休みなさい。

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ナショナリズム - 5

2018-09-19 23:33:39 | 徒然の記

 氏の著作を読んでおりますと、歴史を知っていると自惚れていた自分が、恥ずかしくなってきます。

 維新前の事情については、詳しいと思っていましたが、とんでもない誤りでした。幕末の雄藩は、薩摩、長州、土佐、肥前で、維新の大業を動かした名高い藩主は 、四賢公だと、名前までそらんじています。

 福井藩第14代藩主の松平春嶽、土佐藩第15代藩主の山内容堂、 薩摩藩第11代藩主島津斉彬、宇和島藩第8代藩主伊達宗城の四人です。このうち島津斉彬は、安政5年(1858年)に急死しますが、新たに島津久光を加え、多くの会議で、活躍します。会合は俗に「四賢侯会議」などと呼ばれていました。

 しかし氏は、四候に言及せず、水戸藩主徳川斉昭に注目いたします。幕藩体制を転覆させたのは、「尊皇攘夷」の思想で、これは斉昭を中心とした「水戸学」から来たものであるという説明です。氏が詳細を省いていますので、ネットで調べますと、次の事実が分かりました。

  「尊皇攘夷とは、古代中国の標語を、国学者が輸入し、使ったもので、」「王を尊び、夷を攘う(はらう)の意味である。」「元々は、尊王と書いたが、幕末に尊皇と書き、天皇を意味するようになった。」「幕末期における、尊王攘夷という言葉の用例は、」「水戸藩校弘道館の教育理念を示した、徳川斉昭の著した書によるものがもっとも早く、」「幕末に流布した尊王攘夷の出典は、ここに求められる。」

 なるほどそうであったかと、これは「目から鱗」の知識でした。この上で読みますと、氏の言葉がよく理解できます。

 「幕末の、日本貴族層の意識を代表する人物として、」「水戸藩主徳川斉昭を、第一に取り上げることは、」「おそらく、不当ではないであろう。」「嘉永から安政にかけての、政治的激動の一つの中心が、」「斉昭であったこと、」「幕末における、特異なナショナリズムの理論体系が、水戸学であり、」

 「斉昭は言わばその、政治面における、」「最も代表的な、スポークスマンであったことからして、」「まずその思想の吟味から、始めることとしたい。」

  ここで氏は、斉昭を貴族という名称で呼んでいますが、フランスのルソーにこだわるあまり、間違った呼称を無理やり使っています。斉昭は、武家であり、貴族ではありません。古来日本では、武家に相対する者として、貴族があり、公家とも呼ばれていました。ネットで調べましても、私の意見の方が正しいと思います。

 「武力をもって朝廷に仕える鎌倉幕府が、武家と呼ばれるようになると、」「従来の貴族は、政務一般で朝廷に奉仕する文官、」「すなわち公家と呼ばれるようになった。

 武家と公家(貴族)が別物であると、私が言いますのは、身分制の再構築が図られた江戸時代に、「禁中並公家諸法度」が制定されているからです。これは従来の貴族階層に対し、幕府側が統制する法であり、徳川家の斉昭は、対象になるはずがありません。本題と無関係な些事なのか、基本的な重要事なのか、今の自分には分かりませんが、氏のこうした理論のほころびが、なぜか気になる私です。

 氏は、斉昭の思想を明らかにするため、斉昭が幕府に提出した意見書を取り上げます。長いだけでなく、古文なので、私たちには馴染めません。氏が要約した、説明文がありますから、これを紹介いたします。

  「斉昭の述べるところは、何よりもまず、」「キリスト教の、政治謀略的性格に対する、」「強い疑念を表明することに始まり、」「西洋は、交易を求めるという口実を用いているが、」「その商船・鯨船は、直ちに軍艦となり、」「決して、油断してはならないとか、」

 「大船は見かけしだい、二念なく打ち払うべしとか、」「オランダを窓口とする、海外情報の聴取も、」「日本のため毒にも薬にもならない、無駄ごとなので、」「交易も停止すべきとか、」「蘭学にも取るべきものが見えないので、ご禁制されるが良いとか、」

 「むしろ鎖国政策を倍加するような提案を、次々と述べている。」「その全体を貫くものは、日本国の優越性への、不動の信念と、」「一方では、外国の宗教と科学、とくにその政略に対する、」「首尾一貫した猜疑心と,蔑視であったと言えよう。」

 幕末の諸大名は、西欧の文明にひたすら敬服し、外界を知らない井の中の蛙とばかり思っていましたので、斉昭の考えを知り、私は意外感に打たれました。日本の指導者たちは、無知蒙昧な人間ばかりでなかったという、発見です。もう一つ、驚いたことは、斉昭を中心とする国学者と、昌平校の儒学者と、西洋の学問を是とする学者たちの対立です。

 内容は違いますが、保守を任じる人間たちが、国をないがしろにする反日・左翼と、対峙する姿を思わせます。ともに真剣で、譲らない頑固さがあり、歴史の繰り返しを見ているような気がいたします。本論とかけ離れますが、身につまされますので、あえて転記いたします。朱子学者大橋訥庵の書籍からの引用と、説明されています。

 「一度洋学に入りたる者は、必ず西洋贔屓になりて、」「国体の異なることを、たえて弁ぜず、」「何もかも西洋のごとくにせざれば、是ならぬことと、思えるさまなり。」「内外の医方も、西洋にしくものは無しと言い、」「平生の器物も、西洋に擬したるを尊びて、」「ひとつとして、西洋の説にあらざるものはなし。」

 「平日の言論上も、泰西・西洋などとは呼べども、」「決して、夷狄の言を用いることなきは、」「いつか彼をも、我が国と同じと思いて、」「敵視すべきことを、忘れしなり。」

 私たちが、反日・左翼の人間たちを批判する姿も、後世の日本人から見れば、似たものに見えるのでしょうか。いつの時代の日本にも、さまざまな人間がいて、さまざまな思いがあったのだと、教えられます。時の試練に耐えた思想が、その折々の思潮となり、歴史が動いていくのだという教えでもあります。

 保守だ左翼だ、安部だ石破だ、愛国だ反日だと、攻撃し合わなくとも、日々を正しく生きていれば答えが出ると、そんな気持ちにさせられました。穏やかな心になれたましたので、本日はここで終わりたくなりました。猛暑の夏が去り、窓から入る夜風は、すっかり秋の気配です。ねこ庭には、白い秋明菊が咲きました。

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ナショナリズム - 4

2018-09-18 20:02:13 | 徒然の記

 「第1章 日本におけるネーションの追求」・・ここで氏は、日本とナショナリズムの関連について、説明します。

 「序章において述べたことがらは、本質的には、」「近代日本のナショナリズムの理念についても、当てはまるはずである。」

 長くなりますが、大切なことなので、そのまま氏の叙述を転記いたします。

「日本の場合にも、あの人間にとって普遍的な郷土愛の伝統は、」「悠久に生き続けている。」「しかしナショナリズムは、懐かしい山河や帰属する集団への、」「本能に似た愛情でなく、」「より抽象的な実体、即ち新しい政治的共同体への忠誠と、」「愛着の感情である。」

 「いわばこの二つの感情、意識の間には、」「あたかも経済学上の離陸 (テイクオフ)に、似たもの、」「宗教的な啓示に似た、断絶が必要であったと言えるのかもしれない。」「日本人もまた、ある古い愛着の世界を離脱することによって、」「ナショナリズムという、謎にみちた、」「新しい幻想にとらわれることになったのである。」

 氏は説明しますが、私の認識は、違います。自分の中では、郷土愛と祖国愛は矛盾なく重なり、神の啓示に似た断絶の必要を感じません。おそらく私のブログを訪問される方たちも、私と同じ認識ではないのでしょうか。

 氏がこのように説明し、自分が納得されるのなら、それでも構わないと思いますが、氏と私の認識の差が、どこから生じるのか、とても興味を覚えます。学者でない私は、直感でしか語れないのですが、もしかしますと、大正生まれの氏と、戦後教育で育った自分との違いではないかと、そういう気がしています。

 昭和18年12月9日生まれの私は、小学校以来、マッカーサー統治下の日本で、最初から民主主義の教育でした。自由、平等、人権、博愛という観念が、当然のものとして教えられ、「自分という人間は、歴史に二人と存在しない、かけがえのない人格だ。」と、疑いもせず、信じてきました。私たちの中では、郷土愛も、祖国愛も、無意識のうちに、一体としてあったと、そういう気がしてなりません。

 簡単に言いますと、氏のように、戦前の教育を受けた人間と、私みたいに、戦後教育で育った世代は、同じ日本人でありながら、すでに違った存在なのかもしれません。極論しますと、私のような日本人は、最初から権利意識に目覚めた、覚醒した個人だったのではないでしょうか。

 何の根拠もない直感ですから、自分の思いはここまでとし、再び、氏の主張を聞くことといたしましょう。

 「普通、日本人の前に、ネーションという未知の思想が、浮かび上がってきたのは、」「19世紀の半ばごろ、いわゆる西欧の衝撃が、」「きっかけであったとされている。」「具体的には1853年、ペルリ艦隊の来航がそれである。」「そこで引き起こされた、軍事的、政治的ショックが、」「あたかも仙境にあるもののようにまどろんでいた、日本人の心に、」「初めて、日本国民、日本国家の意識を、」「呼びおこしたということである。」

  「この見解は、概括的に見る限り、」「ほとんど疑問の余地はないであろう。」「世界史的に言っても、19世紀後半における、先進資本主義国のアジア進出が、」「地域的な偏差を伴いながら、究極的には、」「各地域におけるナショナリズムの機因となったことは、」「一般的に認められた事実である。」

 黒船が、日本人に愛国心を生じさせたという証拠として、氏は、維新後20年に出た竹越与三郎の著書と、徳富蘇峰の意見を上げています。現代文でないため、読みづらいのですが、とても参考になります。

 「竹越与三郎」   ( 明治から戦前昭和にかけての歴史学者・思想史家、衆議院議員、枢密顧問官、貴族院勅選議員 )

 「いく百年間英雄の割拠、二百年間の封建制度は、日本を分割して、」「いく百の小国たらしめ、相猜疑し、相敵視せしめたれば、」「日本人の脳中、藩の思想は鉄石のごとくに硬けれども、」「日本国民としての思想は、微塵ほども存せず。」「概して言えば、愛国心なるものは、ほとんど芥子粒ともいうべく、」「形容すべからざる、微少のものにてありき。」

 「しかれども、米艦一朝浦賀に入るや、」「驚嘆恐懼のあまり、夷狄に対する敵愾の情のためには、」「列藩間の猜疑心、敵視の念は、かき消すがごとくに滅し、」「三百諸藩は兄弟なり、」「幾千万の人民は、一国民なりを発見し、」「日本国家なる思想、ここに油然として湧き出でたり。」

  これが竹越与三郎の、実感するところです。次は、徳富蘇峰の叙述です。

 「徳富蘇峰」   ( 明治から戦後昭和にかけての日本のジャーナリスト・思想家、歴史家、 評論家。『國民新聞』を主宰)

  「実もって今般の件、皇国開闢以来の汚辱、これにすぎす、」「いやしくも有志の士、切歯扼腕せざる者は、」「これあるまじく、存じ候。」

 「右は尊皇攘夷の有志中、最も純真と熱心をもって世に知られる、」「わが宮部鼎蔵氏が、米艦浦賀に闖入したるの報を聞き、」「ある人に寄せたる、書中の一節なり。」「これをもって、この事件は、いかなる感覚を、」「諸藩の有志家の脳裏に発揮したるかを、」「知るに足らん。」

 「見よ、かの皇国の二字を。」「この二文字こそ、もってわれらが脳裏に、日本国なる思想の、」「初めて浮かみ出たるを、証するものにあらざるや。」「すでに日本国なる思想の、わが藩の有志家に生ず、」「またなんぞ封建社会の顛倒を、これ怪しまんや。」「吾人はここに言う。」「封建社会は、この時に顛倒したりと。」

 橋川氏の説明の通り、ペリーの浦賀入港を契機として、武士階級が初めて日本国を意識し、日本国民としての一体感に目覚めたのが分かります。

  1791年   米国商船ワシントン号来航

  1792年   ロシア使節来航

  1797年   イギリス船来航

 前回のブログで述べた、これらの外国船は、日本に通商を求めて来ましたが、全て幕府が拒絶し、追い払っています。しかしペリーは、軍隊を率いて来航し、開国しなければ武力を行使すると威嚇しました。威風堂々とした軍艦の巨大さと、傲慢とも言えるペリーの要求に、幕府は屈しました。

 日本史では、ペリーと平穏な話し合いがあったように、私たちは習いましたが、事実は武力による開国要求でした。だからこそ、武士たちが、危機感を抱き、国を思い、一つになって戦おうとしたという事実が、実感として理解できます。単純な私は、愛国心の誕生をここに見て納得しますが、氏は違います。ルソーを高く評価する氏は、幕末の武士たちを簡単には肯定いたしません。

 「しかし、にもかかわらず、それが果たして、」「真のネーションの意識と呼びうるものであったかどうかは、」「吟味を必要とするはずである。」「黒船は確かに、日本の全支配層に対する、巨大なショックであった。」「皇国、神州などという、超藩的意識が生じたことは確かであり、」「全国規模での国防体制作りが、白熱した議論をまき起こしたことも、」「事実である。」

 「しかしこの、皇国、神州等々のシンボルが、」「単に超藩的な統合を、目指したというだけなら、」「それはただ封建支配の、全国的な再編成を目指す、」「新しい政策論に過ぎないのかも、しれない。」「それだけでは、まだ本来のネーションの登場する余地は、」「認められないはずである。」

 ではどうすれば、氏の言うネーションは、日本に登場するのか。

 ブログのスペースが、無くなりましたので、今回は終わりといたします。中途半端な区切りですが、氏の主張はとても長く、しかも興味深い事実が語られますので、ここが丁度良い区切りです。

 できれば、息子たちにも、父の後に続き、根気よく、真摯な学者の意見に耳を傾けて欲しいと、願います。

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