ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

稲田氏でいいのだろうか。

2016-11-30 20:44:57 | 徒然の記

 11月17日付の千葉日報を見て唖然とした。「自衛隊 新任務の行方」と題する連載記事だ。掲載された写真の中央に、ジャンバーに手を突っ込み、体にぴったりの白いパンツにブーツ姿の若者が映っていた。写真があまり鮮明でないが、その若者が笑顔で振り返っている。

「原宿か、六本木あたりをうろついている若者が、なんで自衛隊員の中に混じっているのか。」、そう思って写真の説明文を読み、唖然としたのだ。「南スーダンに派遣される陸自部隊の、新任務訓練を視察するため、陸自岩手山訓練場を訪れた稲田防衛相(中央手前)」

 この軽薄ななりをした若者らしき人物は、なんと、稲田防衛相だった。南スーダンへの視察時にも、レジャーに出かけるような服装で顰蹙を買っていたのに、今回も同じことをやっている。緊迫した現地の事情を知っていても、まだこんなおかしな服装で訓練場に出かけるのかと、次第に怒りが込み上げてきた。

 自民党が野党だった頃、民主党の閣僚を追求する舌鋒は鋭かった。保守の気概にも溢れていたが、いざ防衛相の任に着くと、別人のような醜態を晒している。期待していただけに、落差の大きさに幻滅感が漂う。命がけの隊員を視察するのなら、自身も気を引き締め、服装だって国防の任にある大臣らしく、キリッとした制服を身につけるべきだ。肩までかかる長い髪毛も切り詰めず、踊り子まがいのひらひらした衣装もやめず、どこに防衛大臣の峻厳さがあるのだ。隊員たちが敬意を払う気になれず、「頼りない大臣」とビラに書かれても仕方あるまい。隊員を罰する前に、心得違いの大臣を処罰すべきでないのか。

 先日は蓮舫氏について疑問を抱き、ブログで批判したが、稲田氏もその軽薄さと無神経さにおいて、蓮舫氏に劣らない人間だ。一時は次期総理かと、そんな噂もあったけれど、総理どころか、防衛相だってちゃんと務まるのか。疑問が先に立つ。野党議員の質問に言葉を詰まらせ、涙ぐむなど言語道断の所作だ。まさか安倍総理は、自衛隊の士気を落としめるため、稲田氏を防衛相に選んだはずもなかろうに、就任以来今日まで彼女がやったことはプラスのものは皆無だ。

「稲田氏でいいのだろうか。」と、まず総理に聞きたい。次には、保守自民党の議員諸氏に聞きたい。「国防のトップが、あんな無様でいいのか。隊員に代わって、一言言わないでいいのか。」

 いくら女性を活用すべしと言っても、実力の伴わない人物まで活用するのは間違っている。反日のマスコミも、稲田氏に文句をつけないところをみると、勘ぐらずにおれない。「稲田氏が防衛大臣をしてくれる限り、自衛隊の弱体化が進む。有難いこと。」・・、マスコミはほくそ笑んでいる。

 

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『大東亜戦争肯定論 』(下) -8 ( 敗戦後に大量発生した獅子身中の虫たち )

2016-11-26 19:30:46 | 徒然の記

   ・はじめ私は最後の一章を、諸家の反論に対する反論に当てようとしていたが、それはやめる。

 氏の著書を読んだ学者や評論家が、沢山反論を寄せて来たらしく、林氏が本音を述べている。どれもこれも「赤旗」の社員みたいな公式論で、聞き飽きた言葉が並んでいるから、本気で相手にするのを止めたとこういう説明だ。珍しく辛辣な文章なので、紹介してみたい。

  ・反論してきた諸氏は、たいてい大学教授、または助教授の肩書きをお持ちだが、みんな教授らしからぬお脳の弱さを露呈しているばかりで、よくもこれで大学教授になれたものとあきれ返った。

  単行本になる前は中央公論に連載していたというので、昭和38年、今から53年前の話だが、左系の大学教授のお粗末さはその頃から変わっていないという話になる。

 中央大学の山口某教授や、関東学院大学の林某教授などなど、反日マスコミの支援を得て、彼らの偏向ぶりはますますひどくなっている気がする。

 現在と変わらない敗戦後の「反日・亡国」ぶりを知るためにも、文氏の言葉を紹介するのは意味があると思う。

  ・一例をあげると最近『思想の科学』という、進歩的雑誌の編集をしていた山田宗睦という若い哲学者が、『危険な思想家』(戦後民主主義を否定する人々)、という本を出した。

  ・武者小路実篤、安倍能成、大熊信行、竹山道雄、福田恆存、林健太郎、高坂正堯、三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳、等の思想家と作家たちを、私を含めて   「恐るべき危険な指導者たち」  として告発した。

  ・一読したが、いかにもジャーナリストらしい文章で、中傷記事を並べただけのつまらない本であった。ただ驚いたのは、この本の推薦者たちだ。

 氏は推薦者たちを、皮肉な注釈を加えて列挙している。

  1. 外科医的賛辞を書いている久野収氏は、学習院大学講師

    ・・「ここには彼の血がほとばしっている」

     2. 人工衛星的褒め方をしている日高六郎氏は、東京大学教授

    ・・ 「この本は成功した第1号だ」

     3. 応援団長を買って出ている家永三郎氏が、東京教育大学教授

    ・・「熱情を傾けたこの告発に声援をおくる」

     4. 興奮している長洲一二氏が、横浜国立大学教授

    ・・「私も微力ながら、彼の戦列に馳せ参じたい」・・

     5. 警告している鶴見俊輔氏が、同志社大学教授

    ・・「この本は今の時代に肉薄し、重大な警告を発している。」

  ・教授、教授、教授 ! 、 彼らはいったいこの20年間、書斎と研究所で何を勉強し、教室で学生たちに何を教えてきたのであろうか。

  ・私はがんらい、教授というものを尊敬している。日本でも西洋でも、並大抵の勉強では、教授になれないことを知っているからだ。

  ・だがここに『戦後民主主義を死守する』と気負いたっている、久野、日高、家永、長洲、鶴見の諸教授は、いったい何の教授なのか。

  ・私は今まで、彼らをただのジャーナリストだと思っていた。

  ・彼らが時々、新聞雑誌に細切れの論文を発表することや、彼らの何人かが共同研究の名において、本を出版していたことは知っていた。

  ・これらの本は読んでみたが、共産主義者からの「転向者」について、何の解明も与えていない非科学的な研究に過ぎなかった。

 林氏のような人物でも、怒りが爆発すると結構過激な言葉を使うと知った。よほど腹に据えかねたと思う。

  ・頭の悪い連中だと思っていたら、それがいつの間にか、大学教授に「転向」していた。日本の大学は、よほど人手不足らしい。ジャーナリストまで教授にする。

  ・これが、戦後派教授というものであろう。敗戦と占領が学問的実力とは別の道によって、彼らに、教授への門を開いてくれたことだけは事実らしい。

  ・そんな無学教授とデタラメ教科書によって教育された、戦後の学生こそ災難である。

 氏の言葉を読みながら、日本が53年前から少しも進歩していないことを知った。進歩どころか、退歩している。氏の説明は、平成の今でも古びることなく私たちの心を重くする。

  ・軍事占領下に民主主義があるはずがなく、国の平和も独立も自由も、外国の命令によって実現されるものではない。

  ・日本の歴史は、敗戦後の20年間のみではないのだ。さらに百年、千年とさかのぼり、『民主化』も『近代化』も、その萌芽は、徳川、明治の時代にある。

  ・ 敗戦後には、『自由』も『民主主義』もなかった。

  ・そこにあったものは『東京裁判』であり、日本弱体化政策であり、民主主義と称する強引なアメリカ化に過ぎなかった。

 重ねた温故知新の読書は、氏の意見と同じ認識を私に与えた。私が今頃気づいたことを、氏は53年前から語っていた。

  ・これら諸教授は、『戦後民主主義の幻想』を信仰する残党にすぎない。戦争を否定した戦後に一切を賭ける、と久野講師は言うが、いったい本気なのか。

  ・マッカーサー憲法の前文と、九条を守ることによって、果たして戦争が、避けられると思っているのか。

 氏が主張する欠陥憲法について、美智子様が「平和憲法」と呼ばれ、陛下や皇太子殿下のお言葉として語らせられている。もしかすると平成の現在の方が、昭和の時代より酷いことになっているのではなかろうか。

  ・信教は自由である。お信じなさい。以後、私は彼らを、敬虔無二、信仰厚き『安全な思想家』と呼ぶことにしよう。

  ・まことの思想とは、危険なものだ。せいぜい『思想を科学して』骨抜きにすることによって、大学教授の『平和で安全な椅子』をお守りなさるが良い。

 怒りを露わにして氏はこの章を終わるが、私は終わらせない。ここに並べられた大学教授たちは、当時はまだ小物に過ぎない。彼らを育てた大物たちの名前を、温故知新の書から抜き出して追加する。

 本の名前は忘れたが、玉川大学教授・若槻泰雄氏の著作から紹介する。「日本国憲法賛美者」「戦争中は戦争賛美者」と注釈されている。

 朝日新聞と同様に彼らは、戦前は国民の先頭に立って進軍ラッパを吹き鳴らし、マッカーサーの統治下になった途端変節し、「平和主義者」「人道主義者」に変身した教授たちだ。

 清水幾太郎  今中次麿  堀真琴   平野義太郎  柳田謙十郎  中村 哲

 鈴木安蔵   末川 博  安井 郁  中野好夫   中島健蔵   阿部知二

 当時の彼らの社会的地位の高さと、影響力の大きさを考えれば、彼らは、林氏が列挙した「程度の低い戦後派教授」でなく、本物の戦前派著名人だ。

 私は現在、これらの人物をひっくるめて「獅子身中の虫」「駆除すべき害虫」と呼んでいる。この害虫たちが、敗戦後の日本で歴史を貶め、日本人の魂を骨抜きにした元凶である。

 彼らの奮闘の結果が、平成の日本だ。「平和憲法護持」「九条を守る会」につながり、日本中にお花畑を作り、危機感のない日本人を作ってきた。それがとうとう皇室にまで及び、 美智子様の「九条の会」支援となってしまった。

 林氏の著書はあと少し残るが、おおよその内容は紹介したと思う。

 どうか息子や孫たちは、列挙した「獅子身中の虫たち」に騙されないでもらいたい。自分の国を裏切る卑しい人間には、なって欲しくない。そんな人間はどんなに有名で立派な勲章をもらおうとも、見習ってはならない。

 最後に、林房雄氏と本を遺してくれた叔父に感謝を捧げ、ブログにつき合って下さった辛抱強い方々にも、深く感謝いたします。

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蓮舫氏でいいのだろうか。

2016-11-25 17:00:36 | 徒然の記

 安倍晋三首相と民進党の蓮舫代表が24日の参院TPP特別委員会で論戦を交わした。動画でその様子を見たが、いつものことながら不愉快な気持ちにさせられた。

 闘う野党の、闘う党首、その姿をテレビで見て、颯爽と安倍総理を追求する果敢な女性だと、そんな受け取り方をした国民が、果たして何人いるだろうか。この人の質問はいつもそうだが、自民党の議員を頭から攻撃し、屁理屈で切り返し、悪事を裁いている検事のような口の利き方しかしない。

 皮肉交じりの責め口調や、眉に皺を寄せた癇癪持ちの表情など、どうして彼女には冷静な国会質問ができないのだろうか。周りにいる民進党の議員だけが、しきりにうなづいたり、声援を送ったりしているが、国会中継を見ているのは、多くの国民であることを忘れてもらっては困る。支持する人間にだけアピールし、喝采を送られていれば良いのなら、民進党の明日はない。

 トランプ氏に会ったことが、何故そんなに気に入らないのか、プレゼントを持参したことの、どこがおかしいのか。TPPについて何を話したのか。安倍総理が丁寧に説明しても、「さっぱり分からない。」とつっぱねる。総理の答弁を中断させようと、同僚議員が議長席に詰め寄り机を叩く、いったい彼らは総理への礼儀も知らないのか。

 喧嘩腰でしか喋らない人間と、まともな議論はできない。最初から議論でなく、喧嘩を仕掛けているだけなのだと、私たちは感じる。「総理は、立法府を軽視している。」と、口角泡を飛ばす前に、軽視するしかないような質問をしている自分への反省はないのか。

 官房副長官の萩生田氏をつかまえて、「国会論戦はまるで、田舎のブロレス、茶番劇」と言ったことを謝れと迫る。できもしないことを総理に迫り、子供受けするような正論を振りかざし、蓮舫氏のやっていることが、そもそも「田舎のプロレス、茶番劇」でないか。「TPPを脱退するとトランプ氏が言っているのに、国会審議を続ける意味があるのか。」「高いお金をかけて、国会審議するのは時間の無駄、税金の無駄使いでないか。」

 総理に食い下がるが、「まだ大統領に就任していないトランプ氏の、選挙演説だけで、日本がTPPを無にするようなことはできない。」「そんなことをしたら、日本への信頼がなくなる。アメリカだけが参加国ではない。」「すべてはこれからの話だから、日本は日本として進めていく。」と、丁寧に答える総理の方が、ずっと国会を重視している。

 蓮舫氏が言うように、国会軽視の総理だったら、中身の何もないヒステリー議員の質問に、答えたりしないはずだろう。もともと私はTPPに反対で、説明不足が多々あると思っているから、蓮舫氏の質問がまともなら、真剣に聞くつもりだった。しかし彼女のやっていることは、萩生田氏の評する通り、「国会論戦はまるで、田舎のブロレス、茶番劇」だった。よくぞ言ってくれたと喝采しても、失言だとか暴言だとか、そんな想いは一切ない。

 人材が不足しているからといって、蓮舫氏みたいな議員を党首にして、本当に民進党はそれでいいのだろうか。第一、氏は果たして日本人なのか。日本人としての愛国心を持っているのか。そんな基本的疑問にすら、国民に回答していないでないか。己の傷は隠し続け、安倍総理にはトランプ氏との会談内容を明らかにしろと迫る。

 安倍総理は、どこの国の人間か不明な議員に、国家の大切な話を漏らす必要などどこにもない。もう一度民進党の議員諸氏に問う。「蓮舫氏でいいのだろうか。」

 

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『大東亜戦争肯定論 』( 下 ) - 7 ( パール判事やマハティール首相 )

2016-11-24 15:50:29 | 徒然の記

 寒い朝だ。しんしんと綿雪が降っている。11月に関東で雪が降るのは54年ぶりだと、テレビのニュースで聞いた。

 林氏の著書を紹介しているが、追い詰められた日本が破局へ向かい、敗戦となった時、GHQに協力教授たちが歴史を改ざんするという、胃の痛むような部分に差し掛かっている。

 厳しい寒気をもたらす季節はずれの雪は、林氏と私の気持に相応しい。長くなるが、氏の言葉を紹介する。

 ・大東亜戦争直前における、欧米列強の日本に対する経済封鎖は苛烈を極めた。

 ・米国は日本への石油輸出を禁止し、蘭印に石油を求めようとした日蘭商会も米英の圧力によって失敗した。

 ・ABCD経済封鎖網は、日本を身動きできなくするまで縛り上げた。

 ・最後の打開策として日米交渉に期待をかけ、これが駄目なら生きるため、必要な資源を武力で獲得するしかないところまで、追い詰められていた。

 ・そして日本は米国から、『ハルノート』を手交された。

 ・ここで私は、パール判事の「日本無罪論」に触れなければならぬ。

 ・パール博士はインド代表として東京裁判に臨み、この裁判が裁判という名に値せず、儀式化された復讐にすぎないことを立証し、全員無罪を主張したただ一人の判事である。

 私は国際法についてよく知らないが、「法の不遡及」という原則は大学で習った。東京裁判では、「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」の条項を法的根拠にして、遡及すべからざる法を遡らせていた。

 東京裁判では、A級、B級、C級という戦争犯罪が俄かに作られて日本人を裁いた。多くの人は A B C の順に、刑の重さが表されていると誤解しているが、これは単なる区分で、「 1 2 3 」と項目を分けるのと同じ分類記号である。

 従ってどの級になっても、刑はすべて死刑だった。

   A級・・平和に対する罪 

   B級・・人道に対する罪 

   C級・・(通常の)戦争犯罪

  東京裁判が行われたのは、昭和21年から23年にかけての2年間だった。

 「法律のないところに犯罪はなく、法律のないところに刑罰はない。」というのは世界法の常識だが、連合国は当時存在していなかった戦争犯罪方法を適用し、日本人を裁いた。

 氏はこのことを指して、「遡るべからざる法を、遡らせてしまった」と述べている。

 ・東京裁判は、15年前の満州事変までさかのぼり、多数の戦犯を製造した。

 ・パール博士の抗議も、弁護人清瀬一郎の弁護も無視された。

 ・彼らは日本を明治維新以前の状態にまで押し戻すと宣言し、その通りを実行した。だから私は、大東亜戦争は「東亜百年戦争」の終局だという説を述べる。

 氏の「東亜百年戦争論」が、理不尽な東京裁判への怒りから生まれたのを知った。

 ・はなはだ唐突かも知れぬが、この『押し戻し得ない歴史』の姿を、私は東京オリンピックの開会式のテレビで見た。

 ・ここにひるがえった国旗は、九十余、その三分の一近くは、大東亜戦争後の新興国であり、これに中共、インドネシア、北ベトナム、北朝鮮の国旗を加えて考えれば、私の言いたいことは理解していただけるであろう。

 ・オリンピクの祭典で驚くべき増加を示した新国旗は、帝国主義と植民地主義への弔旗であり、このことのため、日本の百年の苦闘が何ものをも貢献しなかったとは、歴史を読む者には言えないことだ。

 氏の意見に対し、反日学者や文化人、反日・野党の政治家たちが激しい反論をしている。中国と韓国、北朝鮮も攻撃してくる。「歴史認識が足りない。」「過去の蛮行を忘れたか。」と、歴史を改ざんした反日国家が大騒ぎしている。

 林氏の意見の根拠となる事例を、参考のため紹介する。マレーシアのマハティール首相が平成14年に訪日した折の講演会の話の一部だが、日本のマスコミは全く報道しなかった。

  ・日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は、模範にすべきものがなかっただろう。

 ・ヨーロッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと、信じ続けただろう。

 ・これまで東アジアでは、高度な産業は無理だった。せいぜい質の劣る模造品を作るのが、開の山だった。

 ・したがって、現在西側が懸念するような「虎」や「竜」、すなわち急成長を遂げたアジアの新興工業経済地域( N I E S )も、存在しなかっただろう。

 ・東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは、日本である。

 日本を貶めることしか目的のない、反日のマスコミの姿がここにある。彼らは日本を誉めるアジアのリーダーたちの声を国民に伝えなかった。 

 ・だから他の東アジア諸国も挑戦し、世界各国が驚くような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。

 ・もし日本がなかったら、世界は全く違う様相を呈していただろう。

 ・富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。

 マハティール氏だったかどうかもう覚えていないが、次は東南アジアのある首相が日本について語った言葉だ。私は尊いものとして今も心に刻んでいる。

 ・日本はアジアのため、強大な欧米諸国と戦い、死力を尽くして戦争をしてくれた。日本はアジアの国にとって、母親のようなものだった。

 ・母は戦いに敗れ自らは倒れてしまったが、アジアの息子や娘たちは、解放された。白人たちの圧政から逃れ、独立を手に入れた。

 金科玉条のものとして、これらの言葉を紹介しているのではない。先の大戦については、中国や韓国・北朝鮮の批判だけでなく、アジアに様々な意見があると言いたいだけだ。

 だから私は東京裁判で裁かれた先人たちを、「A級戦犯」「戦争犯罪人」と言って貶めてはなるまいと思う。東條氏を含む7名の人々は、靖国神社がしているように「昭和殉難者」と呼ぶ方が正しいのではなかろうか。

 美智子様は一度だけでなく二度三度、亡くなった人々を「A級戦犯」と無慈悲に呼ばれた。国民の敬愛の中心の皇室におられるのに、歴史もお調べにならず語られるお姿が見過ごせなくなる。

 GHQに協力した教授たちの話は、次回にしたい。日本のため命を捧げられた先人と、反日の教授たちを同じブログ回で取り上げることを、今の私はしたくない。

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『大東亜戦争肯定論 』(下) - 6 ( 『ハルノート』と賀屋興宣氏 )

2016-11-23 21:14:20 | 徒然の記

 『ハルノート』について、重要なことを林氏が語っている。

 野望にかられた日本がアジアで暴走したと、戦後の教育で教えられてきた私は、別の事実があることを知った。

 私が昨夜「目覚めた」ように、息子や孫たちが、戦後教育の偏りと捏造を発見できるよう、この歴史的文書の要点を紹介したい。まず、『ハルノート』が日本へ渡される直前の状況を、氏の本から引用する。

  ・1941(昭和16)年の7月、アメリカは、日本との一切の貿易を、政府の統制下に置き、すべての日本人の在米資産の凍結をした。

  ・このことに関し、インドのパール判事は、東京裁判で次のように述べた。

    ・これは経済戦の宣戦布告であり、中立行為ではなかった

    ・同時にオーストラリア、オランダ、イギリスによってとられた、経済的、軍事的措置と相まって、日本人が名づけたようにこれはまさに対日包囲政策であった。

  ・アメリカ側の最後通牒である『ハルノート』は、昭和16年11月26日に渡された。

  ・アメリカ国務省に呼びつけられ、ハル長官からノートを手交された野村大使は、ただ茫然とするばかりで悲痛の面持ちで引き下がったと、チャーチルが回想記の中で書いている。

  ・『ハルノート』は10ヶ条よりなる覚え書きだが、その中の重要な2項目が3と4だ。」

      3.  日本は中国および仏印より、全陸海空軍および警察力を撤退する。 

      4.  アメリカ・イギリス・両国政府は、重慶政府以外の中国におけるいかなる

     府、もしくは政権をも支持せず。

   ・中国、仏印からの撤兵はまだ良いとしても、4項は汪政権はもちろんのこと、満州国放棄を強制している。

 ・さらに5項では、中国における一切の既得権益の放棄を命じ、9項で三国同盟の放棄を要求している。

 ・これについてもパール判事は、それは最早交渉ではなく、日本への全面降伏を迫る最後通牒を意味するものだった、と語っている。

 ・ ルーズベルト大統領とハル国務長官は、提案を日本が受諾しないと信じていたので

 ・日本側の回答を待つことなく、文書を手交した翌日に、アメリカの前哨地帯の全指揮官に対し戦争態勢に入ることを命令した。

 ・アメリカの内部資料 ( ロバート報告書 ) では、全指揮官が、戦争突入の警告を11月27日に入手したと書かれている。

  ・これが、真相である。

  ・歴史の真相は時勢の流れに埋没し、終わるものもあるが、時が経ち、自然に現れるものもあり、学者たちの努力で発掘され万人の目に触れるものもある。

 氏はここで、「真珠湾を不意打ちをした卑怯な日本」という非難は、作られたプロパガンダだったことを、明らかにしている。ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を知りなが、戦意高揚のため国民に知らせなかったと、他の資料で読んだが林氏の著作と符合する。

 開戦当時の太平洋艦隊司令官だったセオポルド少将は、回想記の中で、「真珠湾は、日本に最初の一発を打たせるためのオトリだった、と告白している。林氏の著作が昭和59年に出版されていたが、日本の学者や文化人は一顧だにしなかった。

 平成の今になっても、反日のマスコミが「真珠湾奇襲攻撃」への非難・攻撃を止めようとしない。

 私の怒りは、ハル国務長官やルーズベルト大統領より、国内にはびこる「反日・売国の日本人」の方へ向かう。

 彼らこそが敗戦後の日本に蔓延する「獅子身中の虫」であり、「駆除すべき害虫」だと、事実が明らかになっている。国を守る軍隊も持てないまま、米軍に守られている日本の情けない状況は、この虫どもの大合唱が作った。

 虫は反日の左翼政党ばかりでなく、自民党の中にも沢山いて、「平和憲法の護持」とたわ言を言っている。日本の夜明けは、まだまだだ。

 選挙の一票で豹変する信念のない政治家が多いことを考えれば、国民が目覚める方が先なのかもしれない。ご先祖の血と涙を考えない政治家には投票しないと、国民が目覚める方が早いのではなかろうか。

 敗戦後70年も経てば、日本の問題はすべて日本人の責任だ。中国や、韓国・北朝鮮のように、自分たちの無知無能を棚に上げ、いつまでも「日本のせい」と大騒ぎするのは、国として情けない姿だ。

 色々過去の事実を知った私たちは、ルーズベルトが、マッカーサーが、スターリンがと、未練がましく他への責任転嫁をしてはならない。

 恨みがましく卑屈に他国を責めない潔さが、日本人の美点の一つと思うが、その好例となる人物がいた。

 石原慎太郎氏の著作で知った、賀屋興宣氏である。

 明治22年に広島で生まれた氏は、東大卒業後に大蔵省へ入り、近衛内閣と東条内閣で、大蔵大臣を務めた。東京裁判でA級戦犯となり巣鴨刑務所で10年間服役し、昭和35年に岸信介氏たちと共に無罪赦免され、池田内閣で法務大臣になっている。

 その後日本遺族会の会長を務め、昭和52年に88才で没した。政治家は誰もが勲章好きなのに、氏は身を厳しく律し、叙位・叙勲の全てを辞退している。あまり他人を褒めない石原氏が、敬意を払っていた。

 ・戦争前から戦争にかけて、無類の財政能力を発揮したが故に、戦争犯罪人に仕立て上げられた賀屋さんは、少なくとも、私が今まで政界で眺め渡した限り、最も知的な人物だった。

 ・自由党総裁だった緒方竹虎は、健康に一抹の不安を抱いていて、自分に万一のことがあったら総裁の座を継いで欲しいと頼んだ。

 ・この時賀屋氏は、犯罪人の名を被った人間は、国家の首班となり得る地位に就くべきではないと頑固に拒んだ。

 石原氏が東京裁判への法的な疑義を口にすると、賀屋氏が言ったという。

 ・でもね、勝った者が勝って奢って負けた者を裁くのは、当たり前じゃありませんか。

 ・個人にせよ国家にせよ、人間のやることは所詮いい加減なものですよ。

 ・万が一我々が勝っていたら、もっと無茶な裁判をやったでしょうな。

 賀屋氏の言葉に驚かされたが、林氏の著作で色々な事実を知った今は、敬意を表する意見と思えた。戦勝国への恨みを言わず世界の常識と受け止め、むしろこれからの日本を考えた人物だった。私のような小人でなく、右往左往しなかった政治家でもある。

 くどくなり自分でも嫌になるが、今の日本では何度口に出しても言い過ぎることはない。

   (今晩は、ここまで。)

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『大東亜戦争肯定論』 (下) - 5 ( 三つの発見 )

2016-11-22 22:04:41 | 徒然の記

 今頃こんなことに気づくのは遅すぎるのだろうが、自分には大きな発見だった。

 林氏の「東亜百年戦争」の理論に立つと、日本の歴史が一本の糸で繋がる。敗戦後に語られるようになった「軍国主義日本のアジア侵略」とか、「天皇制独裁国家の野望」などという批判がいかに的外れなのかも分かる。

 先の大戦を、連合国側は太平洋戦争と言い、日本の保守は大東亜戦争と言うが、普通の日本人なら林氏の理論を正として考えるのが妥当ではなかろうか。

 なぜ日本はあんな無謀な戦争をしたのか。日本の指導者たちは、なぜ国を破滅させるような戦争に突入したのか。

 その理由は、「ライシャワー史観」や、まして左翼の「毛沢東史観」や「スターリン史観」では説明できない。

 幕末の薩英戦争以来大東亜戦争まで、一貫して日本は、欧米列強の植民地化と戦ってきた。最後は無残に敗れたが、日本の戦争は常に「自衛のため」だった。日清、日露の戦争にしても、日本には一か八かの勝負だった。勝敗を度外視し国運を堵し、一丸となって戦争に突入した。

 少し考えれば分かる話だが、いずれも運良く勝利した戦争というのが事実だった。

 戦後の左翼系知識人や、アメリカに与する評論家たちが解説するように、大東亜戦争の敗因を、「無謀な戦争をした一部のバカな指導者たち」に求めるのは正しくない。

 日本の歴史を一貫して眺めれば、「東亜百年戦争」という考え方が、日本の戦争を語る一番適切な理論ということだ。これが、一つ目の発見である。

 二つ目の発見は、「日本の外交は、過去の失敗を学習しない。」ということだ。

 外国人の永代借地権の撤廃が、やっと昭和17年に叶った。幕末に列強と結んだ不平等条約のため、87年間を費やしている。国内での反対を押し切り、鹿鳴館外交を進めた井上が失敗し、片足を爆弾で失った大隈が失敗したのはなぜか。

 林氏が明快に説明している。

  ・井上と大隈が、「西洋植民地主義者」と「アジア征服者」の中に、「友人を求めようとした欧化的思考にあった。」 ということだ。

  ・列強は日本の友人でなく、話せばわかる相手でもなく、どこまで話し合ったところで植民地主義者であり、征服者だった。もっと赤裸に言えば、彼らは「有色人種」を蔑視している、白人だということである。

  ・不平等条約がなくなったのは、富国強兵で力をつけた日本が無視できない存在となったからに過ぎない。誠を尽くせば「改正」できるという考えが、甘かったのである。

  ・岡倉天心の言葉通り、「シンガポール沖における英国東洋艦隊の撃滅」のほかに方策は無かった。

 平和外交推進者として称賛される幣原外交も、「ねこ庭」から見れば、井上・大隈と同じ轍を踏んでいる。軟弱外交と罵られようと叩かれようと、彼は欧米との協調路線を推し進め、更には敵対する中国にも協調した。

 彼についてはよく知らないが、博愛主義の紳士だったのでないかと想像する。彼は結果として日本の国益より、他国との協調を優先したから私には認めがたい。

 保守の人間は彼について人間性も軟弱だと酷評するが、軍人を相手に「軟弱外交」を推し進めたのだから、強い信念の政治家だと私は思う。そこは評価するが、他国に誠を貫き協調するというのは、歴史から何も学んでいない政治家ということになる。

 幕末の政治家や思想家たちは、「日本を第一」と考え、国益のためにのみ他国との妥協をした。

 幣原氏は井上・大隈の外交の失敗原因を手本にせず、「敵」に「友人」を求めた。欧米がどういう国なのか、中華思想の中国がどんな国なのか、日本を対等に扱う可能性があるのか。

 つまり彼は、「過去から学習しない」政治家だったという発見だ。他国との折衝で心がけるべきは、「国益第一」で、誠や友誼や誠実は優先度の低い理念となる。国益に合致すれば、昨日の敵と握手し、国益に反すれば同盟国でも足蹴にする。良いも悪いも、これが国際社会の歴史的現実である。

 今回大統領に当選したトランプ氏も、「アメリカ第一」を宣言している。国益に合致しないと判断したから、彼はTPPの破棄をした。前任のオバマ大統領が、関係国を無理やり加入させ、成立寸前まで持ってきていても、トランプ氏は簡単に切り捨てた。

 政治家には、自分の考える「国益」が何にも優先するという見本だろう。

 幣原喜重郎氏の間違い外交が、現在の政治家に受け継がれ、敵対国と協調し、敵の中に友人を見つけようとする外交がそのまま続いている。・・、これが二つ目の発見だ。

 最後の発見は保守の誰が弁明しようとも下記の事実は、日本の中国への侵略行為であることだ。

  1.  大正四年の「対支二十一か条の要求」

   ・北京の袁世凱政府に、日本が力づくで調印させたもの。

   ・日支親善も大アジア主義も、これで吹き飛んだ。

   ・火事場どろぼう的な居直り文書で、ここから中国の対日不信感が決定的なものとなった。 

  2.  昭和三年の満州奉天における張作霖の爆殺。

   ・関東軍参謀の河本大作大佐が実行し、田中内閣が総辞職した。

  3.  昭和六年 柳条溝(湖)事件 満州事変の勃発

   ・関東軍参謀の石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が首謀して行い、満州国の設立につながった。

  内容としては3項目だが、私はこれをひとくくりにして「中国侵略の事実」とする。つまりこれが、三つ目の発見だ。

 中国はありもしない「南京問題」などをあげつらわず、堂々とこの三点を「日本による中国侵略」の証拠として、攻撃すれば良いのにと思う。江沢民も習近平も、なぜこれを歴史の争点として日本と争わないのか。

 それには単純な理由がある。

 こんな事件で日本と争えば、「抗日戦での大勝利」、「共産党による日本撃滅」という大ウソが、国民にばれてしまう。当時の共産党は日本軍から逃げ回っていたので、口が裂けてもこの問題を持ち出せない。

 米国が東京裁判ででっちあげた「南京問題」に悪乗りし、捏造のウソで日本を攻撃しているのだから笑うしかない。

 林氏の本を読んで、以上のことを教えられた。

 「ねこ庭」では3番目の「中国侵略の事実」を発見しても、左翼政治家や学者、「お花畑」の日本人たちのように、反省したり詫びたり、日本を攻撃したりしない。悪かったと言わないし、言う必要もない。

 「他国侵略の事実」を歴史から学べば、日本のしたことの何千倍もの事例が並んでいる。自分の国がした「他国侵略」を、どこの国が日本のように反省しているのだろう。どこの国が卑屈に腰をかがめているのか。

 日本以外に、どこにもない。国際社会の常識が「相互主義」であることを思えば、日本外交が間違っている。

 林氏の著作に接するまで、「ねこ庭」では「日本の悪業」「日本の間違い」について迷ってきた。40年間朝日新聞の読者だったお陰で、中国や韓国への贖罪意識が常にあった。

 しかしやっと気がついた。敗戦後の日本は、米国の占領下で国への愛を捨て、日本人の魂と誇りを捨てた。たった一度の敗戦で、反日左翼勢力が日本の失敗を針小棒大に語っていたに過ぎなかった。

 オーム真理教の信者たちの洗脳を笑ってきたが、そっくり同じことを敗戦後の自分たちがしてきたとやっと目が覚めた。

 目が覚めたところで、夜が更けた。これから風呂に入り、床に入り、明日の朝「本物の目覚め」をしよう。

 きっと爽やかな目覚めとなるはずだ。

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『大東亜戦争肯定論 』(下) - 4 ( 大川周明と北一輝 )

2016-11-21 17:48:13 | 徒然の記

 5.15事件は、昭和7年の出来事だ。海軍の青年将校たちが、犬養総理大臣を自宅へ押し入って射殺した。

 続く2.26事件は昭和11年の出来事で、青年将校ら1,483名が政府要人を襲い、高橋是清大蔵大臣、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監ほか警官5名を殺害した。

 林氏がわざわざ一章を設け、大川周明と北一輝について語っているが納得しないまま読み終えたというのが、正直なところだ。

 5.15事件の背後には大川周明がいて、2.26事件には北一輝がいた。刑務所に入れられたが、大川周明は罪を問われることなく出獄し、北一輝はただ一人の民間人として軍人と共に処刑された。

 その代わり大川周明は、敗戦後の東京裁判の法廷に引き出された。被告席で突然精神に異常をきたし、自分の前に座る東条英機の頭を叩き、MPに連れ出されている。記録の動画を見てこの異様な光景を覚えているが、氏の本を読む以前に二人について知っていたのはこれだけだった。

 大川周明は明治19年山形県に生まれ、熊本五高から東京帝大の文学科で哲学を学んだ。語学は英、仏、独、サンスクリット語に通暁し、さらに支那語、ギリシア語、アラビア語を学んだ。

 生涯求道者であった彼は最初はキリスト教に惹かれ、次にマルクスに心酔し、さらにプラトンの国家論に心を奪われ、最後には日本の思想家へと回帰する。それが熊沢蕃山であり、横井小楠であり、佐藤深淵であった。

 こうして彼は「大アジア主義」と「日本主義」を自己の魂の中で結晶させ、「昭和維新」の理論的指導者として実行活動へ没入していく。

  一方北一輝は、明治16年新潟県佐渡に生まれ、佐渡中学校で飛び級で進級するが、眼病を患い学業不振となる。家業の造り酒屋が傾いたことも加わり、彼は退学した。

 経済的に恵まれた大川と異なり、北は苦学して学び、早くから社会活動に飛び込んでいる。24歳の時『国体論及び純粋社会主義』を著し、35歳の時には『支那革命外史』を出している。

 彼の著作には、当時の経済学者、社会学者、社会運動家たちなど、多くの知識人から賞賛の手紙が送られ、福田徳三は北を天才と高く評価した。『貧乏物語』で有名な河上肇も、読後の喜びが抑えきれず彼を訪問したとある。

 大川と北は互いに面識がなかったものの、当時の知識人の中では共に一目置かれる存在であった。中国革命の最中に宋教仁の誘いで上海へ渡り、活動に加わっていた北を、大川が訪ねたのは大正8年だった。この状況を、林氏が次のように述べている。

  ・東亜百年戦争の末期を代表する二人の革命的思想家は、相会うと同時に、二つの火炎星のごとく衝突して猛火を発し、別れて再び会うことがなかった。

 もともと私は、こうした講談めいた語り口を好まないので、林氏の意見に共感を覚えなかった。二人は確かに非凡な人物なのだろうが、心に伝わるものがなかった。

 吉田松陰や徳川慶喜の時のように、彼らが語った言葉が、具体的に紹介されていないところにも原因があるのかもしれない。

  ・大川周明の社会主義は王道政治と変化し、江戸末期の思想家へと回帰する。

  ・北一輝の社会主義は法華経の教えとつながっていき、マルクスとは無縁なものとなる。

  ・彼らの社会主義とは、いわば「経済的弱者の救済」であり、「富の公平な分配」に主眼があり、過激な思想であるが、階級闘争とか武力革命とかに力点が置かれていないらしく見える。

 もしかすると林氏自身も、彼らの著作を読んでいないのか。それとも短い一章にまとめられないほど、複雑だったのか。なんとも中途半端な説明で終わる。

 けれども章の最後に率直な意見を見つけ、安堵した。林氏らしい本音だと思う。

  ・私には、北一輝と大川周明の本質または正体が、まだ分からないと言っておくのが正直なところだ。

  ・ただ分かることはこの二人が、東亜百年戦争の末期を代表する魔王的思想家であったということだけだ。

  ・両者とも敗北を運命づけられ、しかもアジア解放の戦争だったという、日本の歴史が生んだ反逆的浪人学者であったこと。

 いつか機会があったら、自分の力で二人の著作に触れたいと思う。博学な林氏でも手にしなかった本だから理解できない気もするが、希望は大きいほど良い。ボケ防止になるし、長生きをする必要も生まれる。

 本が読める状態で長生きするのなら、息子や孫にも迷惑をかけないで済むので、一挙両得の希望だ。

 今回は何となく中途半端な思いが残るが、林氏には感謝すべきと思う。長い人生には、こんな日もあるのだろう。本日はここで終わり。

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ゲスの勘ぐり

2016-11-20 19:17:19 | 徒然の記

 11月12日の千葉日報に、朴大統領の疑惑報道に関連する記事があった。

チェ・スンシル氏に関する容疑と攻撃は大見出しだが、この記事は映画監督チャ・ウンテク氏のことなので、小さな扱いだ。なんでも氏は、「文化隆盛」を掲げる朴政権下で、多数の関連行事を手がけ、「韓流」利権を握った中心人物であるらしい。

平成26年の12月に釜山で開催されたアセアン特別首脳会議で、文化事業を担当し、その際氏が選定した業者から、金銭を受け取ったため、逮捕状が出るのではないかという記事だ。また同年8月に氏は、大統領直属の「文化隆盛委員会」の委員に就任し、韓国文化を紹介するイベントの監督などを次々と委託され、「文化界の皇太子」とも呼ばれていたという。

 平成26年がどういう年だったか。忘れもしない。前年の2月に、韓国初の女性大統領になった朴氏が、凄い勢いで反日演説を展開し、アメリカで、カナダで、フランスで、朝日新聞の捏造記事を基にした「慰安婦問題」大キャンペーンをさせた年だ。次に引用するのは、平成26年1月に私が書いたブログだ。

 「アメリカでは州議会や市議会で日本への非難決議が行われ、慰安婦像が米国内の5ケ所に立てられ、今後も増えそうだと危惧されている。そして今回はフランスのアングレーム国際漫画展で、韓国の慰安婦キャンペーンが行われ、何も知らないフランス人が、日本人はこんな酷いことをしたのかと怒っているという話が届いた。自国での反日教育だけでは満足せず、韓国は政府主導で米国からフランスへと醜い反日キャンペーンを展開している。」

 もともと朴大統領は、父君の朴正煕大統領が親日だったこともあり、親日と見られるのを恐れ、就任早々から反日の演説を続け、国民の支持を取りつけようとした。前任の李明博大統領が、竹島に上陸したり、天皇陛下を貶める言葉を吐いたりしていたこともあり、いっそうの反日姿勢を見せなくてはと意気込んだのかもしれないが、あまりにも酷かった。

 さて、前置きはこのくらいにして、いよいよこれから「ゲスの勘ぐり」に入る。

 少女を30万人強制連行して、兵士が性奴隷にし、最後は全員虐殺してしまったと、人数もデタラメなら、事実もすべて大ウソだから、朝日新聞とその親派のお花畑の住民を除く、日本人は全員が怒りに燃えた。韓国のものは見るのも嫌、手にするのも嫌、在日韓国人は国へ帰れと、韓国への嫌韓はたちまちのうちに「憎韓」となった。

 国民の多くが韓国を嫌悪し、「韓流」ドラマに熱を上げていたおばちゃんたちが、冷たくあしらわれるようになった。それなのに、誠に不思議なことに、この日本人全体の嫌韓の気持ちに逆らうかのように、NHKも、民報も、相変わらず「韓流ドラマ」を流し続けている。

 反日・亡国のマスコミとは言っても、理由もなくこのような利敵行為が続けられる訳がない。今でもそうなのかは知らないが、当時の朴政権は、反日キャンペーンのための政府予算をかなりの額で計上し、実施する団体等へ支給していたと聞いた。

 つまり、チャ・ウンテク氏の贈収賄疑惑は、日本も無縁でないはずと、ゲスの私は考える。忌まわしい韓国の金が日本に流れ、誰が受け取っているのか知らないが、韓流ドラマの垂れ流しにつながっている。電通は言うに及ばず、NHKにも日本を憎む在日が多いところと聞くから、そんな場所には、韓国の金も流れ込みやすいはずだ。

 政治家を通じて入ってくるのか、チェ氏やチャ氏に近い人間から持ち込まれるのか。一度調べてもらいたいものだ。電通の超過勤務の実態を調べるついでに、韓国からの金の流れも調査したらよい。凄い特ダネになると思うが、マスコミの記者が扱えるはずのないネタだから、彼らには期待できない。警察は、韓国人経営のパチンコ屋が天下り先だから、ここも期待できない。公安は、北朝鮮と意が通じているらしく、国内にいる拉致協力犯すら逮捕できない。こんな現状を黙認する反日政治家たちが、国内にワンサカといる。自民党内にも、いる。

 したがって、ゲスの勘ぐりは、ゲスの勘ぐりとして終わるしかない。現在の日本も、こうして考えると、まだまだ暗闇の多い国だ。未開の野蛮国(隣国も含む)に比較すれば、それはもう、素晴らしい国だが、有頂天になってはおれないと、本日千葉日報に教えられた。

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『大東亜戦争肯定論』 (下) - 3 ( 孫文と日本の志士 )

2016-11-18 18:51:01 | 徒然の記

 本日は最初から、林氏の叙述の紹介で始めよう。

  ・孫文、黄興等の革命運動が、日本の民間志士団と関係の深かったことは、「周知の事実だ。孫文の最初の日本亡命は、明治31年であった。

  ・彼は宮崎滔天を通じて、犬養毅、平岡浩太郎、頭山満を知り、その協力と援助によって、広東、恵州における挙兵、上海における李鴻章暗殺、フィリピンのアギナルド将軍の独立運動の援助などが計画された。

  ・いずれの計画も失敗し、明治37年再び孫文は、日露戦争中の日本に亡命した。葦津珍彦氏によると当時の孫文は、日露戦争をアジアによる、ヨーロッパに対する解放戦であると解し、世界史的な転換の時代が来たと考えていた。

  ・東京赤坂の内田良平邸で、中国革命同志会が結成されたのはこの時であった。

  ・広東系の孫文派と、湖南系の黄興派との合同の会でもあり、両者の他に章炳麟、王兆銘、宋教仁、張継等々を指導者として、一万五千名の在日留学生を基盤に、機関紙「民報」を発行した。

  ・こうして彼らは清朝転覆の革命思想を、海を越えて大陸へ送り込んだ。

 過去の歴史を日本は知るべしとか、「歴史認識が足りないとか、江沢民以来の中国政府が日本を批判・攻撃しているが、彼らの発言がどれほど粗末なプロパンガンダに過ぎないかを、多くの人に知ってもらいたい。

 孫文は現在でも中国で国父として敬愛され、毛沢東より評価されている人物だが、その彼が日本の志士たちとどのように接し、どのように助けられていたかを知れば、左翼反日学者や文化人や政治家が、どれだけ偏向した主張を戦後の日本で述べているかが判明する。

 先のブログでも述べたが、敗戦後の日本学界には「ライシャワーの歴史観」「毛沢東の歴史観」「スターリンの歴史観」の三つが入り込み、学者、教育者、政治家、マスコミがいずれかの勢力に取り込まれている。

 彼らはいずれも「戦前の日本史」の改ざんと、攻撃と批判を続けてきた。研究費という名目で援助をうけていたのか、研究発表時の謝礼だったのか、詳しいことは分らないが、彼らの心根の卑しさを国民は知る必要がある。

  ・時の政府 ( 首相桂太郎 ) は革命同志会の活動を危険視し、徳富蘇峰もまたその共和思想を攻撃したが、頭山満は支那が共和になったからとて、わが国体に影響するなどというのは自ら国体を侮るものだと断言し犬養毅などと共に、革命同志会を庇護激励した。
 
  ・内田良平は、中国革命と日本の大陸政策に利害の一致点があることを確認し、政府と軍部に対し、革命党への不干渉を強固に主張し、説得につとめた。
 
  ・なぜなら革命同志会の標語は「倒満興漢」であり、清朝をその故郷へ追い返すことを主張していたからだ。
 
  ・孫文以下の指導者も、中国にとって満州は外国であり、革命成功後は日本に一任すると公言 ( 公約 ) していた。しかし内田の予測も孫文の公約も、ともに間違っていたことがのちに判明する。
 
 〈 孫文の公約の間違い 〉
 
  ・確かに満州は清朝発祥の地だったが、その実質は変わり、すでに漢民族の満州となっていた。
 
  ・明治の中期までは清朝の「封禁令」により、満蒙族約三百万人、漢民族二百万人の土地に過ぎなかったが、
 
  ・孫文の革命運動の進行中に、二千万または三千万人といわれる山東移民の流入のため、漢民族の土地に変質してしまっていた。
 
  ・朝鮮併合後に日本が満州へ手を伸ばし始めた時には、孫文の公約は時代遅れのものになっていた。
 
 肝心なのは、これから紹介する林氏の意見だ。学校では教えてくれなかった歴史の事実だ。重要と思う部分を青字にした。
 
  ・二千万人の朝鮮民族が、日韓併合に必死の抵抗をしたのと同じく、三千万人の漢民族が日本の侵入を歓迎するはずがない。
 
  ・孫文とその弟子たちは満州放棄の公約を取り消さざるを得ず、張作霖、学良父子の反抗も始まった。
 
  ・これ以後日本の対満政策は、武力侵略の形を取らざるを得なくなった。

 さらに注目すべき意見を氏が言う。日本の学者も保守政治家も、決して言わない事実だから冷静に聞く必要がある。

  ・朝鮮併合以降の日本が帝国主義に変質し、アジア解放の先駆者からアジアの圧制者・略奪者に変わったという論者の見解に、私は賛成しない。

  ・帝国主義といえば、日本は幕末に『西力東漸』( 列強の侵略 )を意識した時から、帝国主義的であった。

  ・ただし私の言うそれは、レーニン的意味の帝国主義とは違い、資本主義の最高段階とも関係がない。

  ・それはネールの言う意味での、自立と解放を求める民族のナショナリズムの発現であり、成長である。

  ・成長したナショナリズムが膨張政策に転化し、牙と爪を発達させ、台湾、朝鮮が被害を受け続いて満州が狙われたという意味だ。

  ・佐藤深淵をはじめとする、幕末の思想家たちの描いた予想国の中には、朝鮮、台湾、樺太、シベリアのみか、東南亜諸国まで日本防護のための「侵略対象」として、明記されている。

  ・私の説を認めない学者たちは、幾つかの時点で日本は立ち止まるチャンスがあり、無謀な大東亜戦争を回避できたはずと主張する。

  ・果たしてそうだろうか。この種の戦後派の学者諸氏を、大東亜戦争勃発前の政治的中心に立たせてみたい。

  ・幕末、明治中期、朝鮮合併と満州事変。いったい彼らはいかなる『理性』と『政治力』によって、日本を立ち止まらせることができたであろうか。

  ・立ち止まらせるための努力は、多くの人物によってなされている。大器量人もいたはずだが、彼らにも、日本を百年戦争の途中で立ち止まらせることができなかった。

  ・往時を批判する、現在の進歩人諸君にできるはずがない。火事場の後の賢者顔ほど、間抜けで嫌味なものはない。

  ・東亜百年戦争は外から火をつけられた大火であり、欧米諸国の周到な計画のもとに、多少の間隔を置きつつ、機会を狙って、次から次へと放火された火災であった。

  ・私は、放火と戦った勇者を非難しない。

 こうして氏は、幕末から始まった「百年戦争」の間に現れた、思想家たちについて語る。佐藤深淵から始まり、藤田東湖、佐久間象山と続き、福沢諭吉、内田良平、徳富蘇峰を経て、大川周明、北一輝、石原莞爾と続く。

 長くなるので沢山の人物を省略したが、どうしても残しておきたい氏の意見がある。

  ・これら思想家・行動家の中には、歴史の栄光に飾られているかのように見える者もいるが、詳しく調べればそのほとんどが悲運の生涯を送り、幽閉と追放、貧窮と病患、投獄と刑死、または暗殺による非業の死をとげている。

  ・戦後の敗戦評論家諸氏が、彼らを帝国主義の源流、天皇制ファッシスト、アジア侵略主義者、超国家主義者、その他、荒唐無稽の舶来悪名を冠し呼称することは随意であるが、彼らが等しく、国運の展開を夢想した理想家であったことを否定する者はなかろう。

  ・歴史の大道では、ナショナリズムは常にナショナリズムである。

 氏はここで彼らが正しかったとか、日本の戦争は正しかったとか、そのような善悪の判定をしていない。氏が語るのは歴史の事実であり、戦後の学者たちの偏見への怒りだ。氏の言う「敗戦評論家諸氏」が、私の嫌悪してやまない「反日左翼」であり、「獅子身中の虫」「駆除すべき害虫」のことだ。

 日本からお花畑がなくなれば、こんな虫は死んでしまう。国民が「真夏の夜の夢」から目覚めれば、お花畑も消え失せる。戦後70年が経ちやっとその時が近づいていると、私は密かに期待している。

 ( ブログで大っぴらに述べながら、「密かに」というのもおかしな話だが・・)

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『大東亜戦争肯定論 』(下) - 2 ( 条約改正、 井上と大隈 )

2016-11-17 18:02:26 | 徒然の記

  不平等条約を撤廃するため文明開化した日本を諸外国に見せ、同時に日本の西欧化を促進しようと鹿鳴館で舞踏会が催されたと、その程度のことは知っていた。

 林氏の著作が、自分の中にある乏しい知識に血を通わせてくれた。

  ・明治4年、米国と欧州の列強を前に、条約改正の糸口すら掴めなかった政府要人たちは、明治13年に鹿鳴館を起工し、3年をかけて完成した。

  ・落成祝賀会には、諸親王、諸大臣、各国公使、その他内外の紳士淑女1,200名が集まった。

  ・井上馨が外務卿として条約改正の衝に当ったのが、この有名な鹿鳴館時代である。

  ・賓客の席次、婦人への作法、男女の服装、果ては化粧のことまで、『内外交際宴会礼式』として編纂され、その習熟と準備が鹿鳴館竣工の二年前から行われた。

  ・井上と伊藤の応化主義、とくに夜会と舞踏会は驕奢を競い、淫逸を追う廃頽的行事として世論の攻撃を受け、ついに勝海舟の抗議、建白書を生むに至った。

  ・だが井上馨はいかなる非難にも屈せず、次のように演説した 

   「欧米列国に日本を知らるるのは、甚だ稀なり。」

   「 日本はいかなる国かと問えば、支那の属国なりと思い、あるいは、朝鮮の一部落と考うるごとき、妄想をいだく者もあり。」

   「欧米人をして、日本の地理、風土、人情、物産等々、詳悉せしめる時、ここにおいて始めて、外国と対等の交際をなすに至るなり。」

  ・彼のあらゆる努力にかかわらず、改正作業は進展せず、とくに英国の強硬な態度が立ちはだかった。

  ・各国は多少の譲歩を示すがごとき態度をとりながら、実は一歩も譲らなかった。

  ・これに対して井上は、外国人裁判官の雇用という妥協策を持ち出した。

  ・秘密交渉の内容が政府高官に漏れ、ついで民間に伝わった。これに対し、政府の法律顧問であったフランス人ボアソナードが、反対意見を述べた。

  ・日本は維新以来多数の外国人を雇ったが、それはただの顧問又は教師であった。外国人を裁判所に官吏として入れることは、日本の司法権が外国の支配下におかれる恐れがある。

  ・国民の怒りを買い、いかなる変動を引き起こすやも知れぬ。

  ・ボアソナードの意見は正論であり、そうでなくとも鹿鳴館による欧化主義は、国民の反感を挑発していたから、国粋感情を結晶させた。

  ・新聞はこぞって井上の国辱改正案を攻撃し、自由党の壮士は大挙して元老院、各国公使館へ押しかけた。

  ・反対運動は政府内にも起こり、陸軍の鳥尾小弥太、三浦梧楼、外務省の小村寿太郎などが先頭に立ち、杉浦重剛らの学者と結んで世論を煽った。

  ・欧州視察から戻ってきた土佐の硬骨漢谷干城が、反対運動に同調し、激烈な意見書を伊藤に提出したため、混乱と騒動が倍加した。

  ・伊藤の対応に激怒した谷は、単身天皇に謁見して意見を述べ、農商務大臣の辞表を提出した。板垣退助も、二万語に及ぶ意見書を天皇に提出した。

  ・勝海舟、ボアソナード、谷、板垣の意見書は秘密に印刷されて、全国に流され、有志、青年、学生たちに争って読まれた。さすがの伊藤博文もついに屈服し、井上を辞職せしめ、自らが外務大臣を兼職した。

  ・井上の後を継ぎ外務大臣となって衝に当ったのは、大隈重信だったが、彼もまた井上と同一条件の下で、苦心を重ねた。

  ・彼が直面したのは列強の同じ強硬態度であり、同じ国民の反撃だった。大隈は、鹿鳴館式舞踏政策は取らなかったが、井上同様列強へ信義を求めた。しかし在野人の信念は、日本の国権は列強への抵抗を通じてのみ確保され、伸張されるというものだった。

  ・大隈の改正案が民間に漏れると同時に、井上に対する時以上の猛反対を巻き起こし、ついに大隈は、玄洋社員来島垣喜の爆弾によって片足を失った。内閣は総辞職し、欧化主義外交による条約改正は中止された。

 林氏が一連の外交交渉失敗の原因を、章の締めくくりで述べているが、この意見には平成の今日でも変わらない重みがある。軍隊がなく軍備に頼らなくても、外交努力を重ねれば国際問題が解決できるという、理想主義者への警告だ。

 他国も同じ人間だから議論を尽くせば分かり合えると、彼らは少年のように主張するが、果たして現実はそんなものだろうか。

 話せば分かるという誠意を信じることは立派でも、国際社会で簡単に通じると考えるようでは、国を守る政治家にはなれない。

  ・私に言わせれば、井上を失脚させ、大隈の隻脚を失わせたものは、必ずしも民論の反対のみではない。真因は、安政の不平等条約をあくまで固守する、欧米列国の強圧であった。

  ・政府当路者は外交的交渉と術策により 、漸進的に改正できると考えたが、これは甘い夢であり、岡倉天心の言葉通り だった。

  〈 岡倉天心の言葉 〉

   ・不平等条約の改正には、シンガポール沖における英国東洋艦隊の撃滅のほかに方策は無かったのだ。

 だから林氏は、次のように断言する。

   ・彼らを失脚させたのは、必ずしも日本主義者や右翼や軍部ではなく、むしろ西洋植民地主義者とアジア征服者の中に友人を求めようとした、欧化的思考であったと思う。

 むき出しの個人のエゴが醜いように、身勝手な国のエゴも同様に醜い。エゴは食欲や性欲と同様人間の根源的な衝動で、未来永劫人間とともに存在する。このことを知るところから現実的政治が生まれると、氏の著書を通じて教えられた気がする。

 歴史の事実は、単純な善悪の物差しだけで計れない。国益のエゴを通して眺めれば、国の数だけ善があり悪がある。国際社会で幅を効かせるのは強者の意見であり、弱者は常に口をつぐんでいる。

 国益を実現するためには、いつの時代でも国は戦わなくてならない。強いもの同士であれば、互いが破滅することは避けたいというエゴが働くから、そこに妥協が生まれる。

 だから国を愛する人間は、国防と安全を第一考える。守りを固め、国民の意思が堅固な国を攻めようとする外国はいない。他国のエゴに無用な野心を生じさせないため、軍備と国民の勇気は悲惨な戦争を防止する有効な手段だ。

 だから「ねこ庭」は、歴史を教えを無視し日本滅亡に手を貸す政党や政治家たちに反対する。「平和を守れ」「戦争反対」「人権を守れ」と言う反日左翼のレッテルを嫌悪する。

 大江健三郎氏や鳥越俊太郎氏は、戦争の影くしか知らないはずのに、まるで体験者でもあるかのように大言を吐く。彼らは林氏の著作を読んでも、何も吸収しない。硬い象の皮膚みたいな、反日と憎悪の思想が魂を包んでいるから、他の意見を聞く耳を持てない。

 林氏が切望しているように期待できるのは若い人たちなので、若者にこの本を読んでもらいたい。若者の中には、私の息子と孫たちが含まれる。だから私は、ブログを書き続ける。 

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