ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

嘆息の日々 ( 朝日新聞 「声の欄」 )

2013-05-22 11:05:39 | 徒然の記

 朝日新聞の「声の蘭」に、憲法改正反対の意見が毎日掲載されている。

 読者の真剣な気持ちなのだろうが、心に響く意見はほとんどない。改憲は軍国主義の復活であり、天皇制への復帰だとか、そう云う面ばかりが強調されている。

 あるいは、戦争の悲惨さを繰り返したくないと言う、善意の博愛主義者たちの主張だ。新聞に掲載された人びとは、自分の意見の正しさが認められたと錯覚し、自己満足するのだろうが、これらの人びとには共通しているものがある。

 反日と売国の朝日が、何を意図しているのかという視点の欠落だ。

 南京虐殺、従軍慰安婦、靖国参拝など、政府が何度謝っても、中国と韓国が蒸し返してくるやりきれなさが、ここ数年続いている。私たちの気持ちを、逆なでするようなことを仕掛けてきたのは、元はと言えば中国と韓国だった。

 これに関する誤報や、ねつ造や誇張を混ぜた記事を書き、民族間の感情をあおり立てたのが、他ならぬ朝日新聞であったことを、いったいどれだけの人が知っているのだろうか。

 近衛首相の秘書官だったのに、国家の機密を盗み、戦線拡大の強行論を主張し、日本の敗戦に寄与した尾崎秀実が、ソ連のスパイであり、朝日新聞の記者だったことなど、私はつい先日まで知らなかった。

 従軍慰安婦のねつ造記事を書いたのが、朝日新聞の植村記者であったことや、靖国問題を中国に知らせる最初の反日記事を書いたのが、やはり朝日の加藤記者であったことなど、国益を損なう朝日の記者のおぞましさを、私は最近図書館の本で知った。

 南京虐殺も、本多勝一という朝日の記者が、日本への憎しみと偏見に充ちた記事を書かなかったら、中国であれほどまでは騒がれなかった。

 真偽のほどは確認していないが、本多勝一記者は本名を崔泰栄というらしいし、植田記者に至っては、細君が韓国人でその母は、慰安婦問題に関わる詐欺師として、韓国で訴追された人間だと言う。

 悪名高い南京虐殺記念館は、社会党の田辺書記長が送った金で、昭和60年に作られたものであったことなど、朝日新聞が関係している事実を知ると無力感さえ覚える。

 私には、これらの朝日の記事が、日本を憂えた真摯な反省から出た苦渋の記事でなく、そこにはただ日本が憎い、日本が悪いという怨恨ばかりを感じさせられる。

 自社の汚れた関与の事実を、朝日は報道しないから国民は知る由もない。今も解けない一番の謎は、朝日新聞の様々な関与を知りながら、何も異議を唱えなかった自民党の政治家たちだ。あるいは知識人と言われる人びとや、他のマスコミ各社だ。

 静かに国の行く末を考える保守主義者、本当の保守と言える人間がわが国にはいないのだろうか。

 安倍総理が保守の一人と見えるのだが、マスメディアの報道に邪魔され、別の姿で報道される。私たち国民が、操作された情報でしか判断出来ないのも、無理のない話だ。声の蘭に投書する読者も、責める訳にいかなくなる。

 「報道の自由」という憲法の規定に守られ、散々国益を損なって来た朝日が、憲法改正に反対するのは、当然であろう。こうした諸事実を勘案すれば、朝日新聞の憲法改正反対論も、単なる警鐘であるはずがないと、そう感じる方が自然ではないのか。

 朝日の批判記事に拘らず、安倍氏が大勝するのか、辛勝するのか、私と同じ人間が、多数いて欲しいと願うが、それは参院選の結果が出るまで分からない。

 庭のバラが真っ盛りの、美しい5月だと言うのに、今年の5月は、朝日新聞のお陰で嘆息の日々だ。

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反日朝日新聞と、国民のレベル

2013-05-13 14:28:16 | 徒然の記

 韓国の朴大統領が、米国議会で日本への非難演説を行った。

 わが国の、歴史認識を責めるものだった。一方中国は、「沖縄は清朝時代に、自国の属国だったのに、日本が武力で取った」と言い始めた。またしても、中韓からの言いがかり開始である。これに北朝鮮を加えると、わが国を責め立てる、ならず者三国が揃う。

 いつもなら、隣国への嫌悪と怒りに駆られるのだが、今日の私は少し違う。海を隔てた国について、とやかく言う前に、わが国にいる、反日の人間たちの検討が先でないかと、考えるからだ。そうすると、むしろこちらの方が、問題ではないかと思えて来た。

 日本に住みながら、反日の姿勢を崩さない人間たちがいること。やっかいな隣国の主張に賛同する不思議な彼らに、何も出来ない私たちが、なんで他国の人間を変えられるはずがあろうか。

 朝日新聞を筆頭とする反日のマスコミや、穏やかな顔をして、国の歴史を否定にする学者や、評論家や教育者たち。理不尽な中韓の主張を聞かされても、私のように怒りを覚えず、返って共鳴する国民がいると言うこと、これこそが、本当の問題点ではないのか。

 安倍総理の言う、「戦後レジームからの脱却」とは、憲法改正だけでなく、長らく封印されて来た、日本の歴史への再検討があると理解している。日本の過去を非難するしか能のない、左翼の人間たちに問いたい。

 諸君が正しいとしている中国や、北朝鮮は、国民を弾圧している独裁政府で、党に異を唱える庶民を、碌な裁判もせずに処刑しているが、それでも理想の国と考えているのか。平和と人権を踏みにじっている隣国政府と比較し、それでも日本が駄目だと言う意見は、どこから出てくるのか。

 過去に戦争をしたからと日本を非難するが、軍国主義を前面に出し、軍備を増強し、周辺国を威嚇している中国については、なぜ批判をしないのか。

 企業や官僚と手を組み、税金を食い物にした自民党も許せないが、それでも反日・左翼政党の議員たちに比べたら、まだ増しと思っている。

 権謀策術の国際政治を考えれば、国への愛や誇りをなくした人間たちの意見など、なんの役に立つと言うのか。朝日新聞のような会社は、時間がかかってもいいから、静かに「不買運動」をすれば良いのだ。

 韓国の新聞のなかには、「過激な反日記事」を書きたくないと思っても、反日記事が売れるから、そうしているとも聞く。資本主義の弊害と言うのなら、売れる記事を書くと言う姿勢は、そっくり日本のマスコミにも当てはまる。

 国民の多数が、反日のマスコミに疑問を抱き怒りを覚えるのなら、私がやったように新聞の購読を止めれば良いのだ。偏見の記事で国益を損なう新聞を、国民が不買にすれば、会社は倒産するしか無い。

 右翼の人びとのように、社屋の前で騒いだりしなくても、その方が資本主義社会の行動として理に叶っている。名も無い国民が、選挙の一票で政治を変えられるのだから、一人では無力な私たちでも「不買」という行動を多数でとれば、よこしまな企業の息の根が止められる。

 不買が盛り上がらなければ、日本の民意はこの程度かと諦めるしかない。そのくらいのいい加減さと、覚悟がなかったら、この世は生きてはいけない。その覚悟といい加減さがあるから、私は来月まで、朝日新聞を購読し、腹を立てながら記事を読む。

 なんという寛容さと、度量の広さかと自分で感心する。

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背広とワイシャツ ( 優柔不断な、初夏の自分 )

2013-05-10 05:52:48 | 徒然の記

 そろそろ、衣替えの時期だ。

 毎年今頃になると、冬物をまとめてクリーニングに出し、押し入れやタンスの衣類を、夏用に入れ替えたものだ。

 若い時は、何もかも家内任せだったが、いつからか、夫婦で分担するようになった。やりだせば一気に終わるのに、その気になるまで、何となく気の進まない、やっかいな季節の作業だった。

 去年の11月に、派遣の仕事を辞めたため、背広もワイシャツも無用の物となった。クリーニング済みのワイシャツが、そのままハンガーに掛かかり、夏物の背広は、洋服ダンスから出す必要も無くなった。

 定年退職した時もそうだったが、仕事から遠ざかって行くというのは、妙に寂しいものだ。更に今年から、綺麗サッパリ縁が切れるとなると、それはそれで、そこはかとない感傷に駆られる。

 会社に毎日出勤している時は、気の重い日が多かったのに、会社が懐かしくなってくるから、おかしな話だ。私だけでなく、きっと世間の男たちも、同じような気持ちを味わってきたに違いない。

 さて、着ることの無くなった背広や、ワイシャツやネクタイなど、いったいどうすれば良いのか。譲ろうと思っても、三人いる息子の誰にもサイズが合わないし、たとえ寸法がピッタリでも、今時の者は喜ばない。

 日本が一番元気で、消費文化のまっただ中で、物が溢れている時代に生まれ育ったから、使い古しを貰う気持ちは、持ち合わせていないらしい。

 差し上げるような第三者も、周りにいない。結局ゴミとして、処分するしかないということになるが、その決断がつかない。吝嗇とかケチとか、そう云われればうなづく面もあるが、それ以上に、「もったいない」というこのひと言だ。

 まだ使える物を捨てると言う贅沢さ、不遜さと言うのか、申し訳なさと言うのか、気持ちが穏やかでなくなってくる。

 敗戦の一年前に産まれた私は、物のない時代の貧しさや、ひもじさや、何でも大切に扱って来た思いが身についている。

 「チャンと縫ってあるのだから、破れたり汚れたりしてなければ、何を着ても恥ずかしがることなんかない。」

 母が口癖のように言い、私は粗末な物を平気で身につけていた。いつしか気づかないうちに、時代が変わっていたと言うことなのだろう。

 甘い物が食べたい、いくらでも欲しいと、店先の菓子を眺めていた幼い昔が、懐かしくなってくる。今ならお菓子くらい、幾らでも手に入り、あれこれ欲しいと言う欲求も無くなっている。食べ過ぎると、糖尿病や肥満の方が気になると、それこそ贅沢な社会環境になっている。

 貧しかった過去を懐かしんでいると、どちらが幸せなのか、判断がつかなくなる。分かっていることは、この自分が背広やワイシャツ同様に、やがて不要のものとなり、この世から消える日が来るということだ。そんな目で眺めると、ハンガーにかかる衣類が、いっそう粗末にできなくなってくる。

 長い会社勤めの日々を、私とともに過ごして来た友でもある。自分自身が不要の物となる日まで、このまま置いておくか、だがそれでは、息子たちが迷惑するだろうと、優柔不断な初夏の私だ。

 煩悩だらけで、ちっとも悟れない自分を笑いたくなってくる。

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経過の記録 ( 朝日新聞購読中止 )

2013-05-08 17:02:22 | 徒然の記

 朝日新聞の購読を止めると言ったのに、まだ記事に意見を述べている理由を書き残しておくこととする。

 現時点では惚けていないが、いつか記憶が不確かな年齢になったとき、余計な思考を巡らさないで済むよう、念のため記録しておきたい。ズボラに見えるのに変なところで几帳面なので、時として他人から変人扱いされるのが、曖昧なままにしておくと気持ちが落ち着かないのだから仕方が無い。

 朝日の新聞販売店に5月からの購読中止を申し入れたが、年間契約なのに急に言われても困ると異を唱えられた。契約時にもらった洗剤はそっくり代金を返済すると言ったが、受け付けてもらえなかった。止めさせてくれ、止めないで欲しいと、互いに終わりの無い要望を繰り返し、結局7月一杯の購読ということで折り合いがついた。

 記事の中身が気に入らないと、正直に言えば簡単だったのかもしれないが、それは新聞店に無関係な話だし、言ったところで対応できる苦情でもない。もともと新聞店とのトラブルは無いのだし、雨風に拘らず毎日早朝から配達してもらうことへの感謝の念があるため、そうそう強く押せない気持ちがある。

 双方痛み分けと言うことで、契約期間の半分で購読を止めることにしたが、今でも真面目に配達してくれる新聞屋の店員には、申し訳ないと思う。そのぶん、やり場の無い怒りが、反日朝日の記者たちへの不快感となるのである。

 こんなことは、これ以上書いても意味がないし、楽しくもないから止めるとしよう。晴天続きで庭が乾燥し、花木の生気が失われつつあるから、気分転換をかねて、今日は庭の水まきでもするか。

 それで気分が一時でも爽快になるというのなら、有難いものではないか。それにしても、コンチクショウ、朝日新聞め。

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