・太平洋と大西洋という巨大な水の防壁のお陰で、アメリカは数千マイル離れた地域での出来事には、影響を受けずに済むと確信していたが、その幻想は、真珠湾攻撃の成功によって徹底的に打ち砕かれた。
・戦後47年を経ても、アメリカの指導者及び国民の国家安全保障に対する考え方に、これほどの影響力を及ぼした事件が再び起こることはなかった。
・真珠湾で不意打ちを受けたという事実に、アメリカ人はショックを受け、自分の国が無防備であるかのように感じた。
・第二次大戦後、最新兵器の速度と破壊力は、大幅に増しており、もしミサイルと核弾頭を有する敵から、もう一度奇襲を受ければ、国全体が完膚なきまでに破壊されるのでないかという恐怖感が、アメリカ全土を覆った。
・第二次大戦後、日本はもはやアメリカの敵でなく同盟国となった。しかし冷戦の勃発に伴い、新しい敵が生まれた。
それがソ連でしたが、ソ連崩壊後は核保有国の中国となり、核保有を狙う北朝鮮となり、イランとなっています。
・日本は今では同盟国になったが、奇襲される危険性が消滅したわけではない。
・真珠湾の記憶は、アメリカ人の意識に大きな影響を及ぼし、際限のない軍拡競争にのめり込んでいく一因になったのである。
・われわれはかって、眠っていてやられてしまった。だから、二度と眠らないようにしなければならない、というわけだ。
「ねこ庭」はここに、アメリカの政治家、軍人、財界人、ジャーナリストたちが持つ偽らざる日本観を見ました。
この言で行きますと真珠湾の記憶がある限り未来永劫に、日本への警戒心が残ります。敵対国である社会主義国やイスラム教国と同様、彼らは日本にも心を許していないということになります。
・ソ連が超大国としての地位を失った今、日本とアメリカは、異質な二つの大国として、世界情勢の中で並び立っている。
・日本は経済的な意味での超大国となり、アメリカは今では経済こそ弱体化したものの、政治的、軍事的には超大国としての地位を守っている。
昭和57年の中曽根内閣以来、昭和62年の竹下内閣、短命だった宇野、海部内閣そして宮沢内閣と、日本では不安定な政治が続いていました。それでも氏の目には日本が「経済的な意味での超大国」として、見えていたのです。
というより、もしかすると当時の日本は、つい先日までの中国のように年々経済発展をし、貿易大国として世界中から利益を得ていたのですから、実際にそうだったのかも知れません。
・この両国が互恵的な関係を維持することは、どちらの国にとっても必要だが、最近ではこの関係が危うくなり、不協和音が流れ始めている。
・それはおそらく、必然的な結果なのだろう。
・これほど健全な関係を保ち相互に依存していながら、この二つの国家は、社会、文化、言語などの面で全くかけ離れた存在だからである。
「日航機123便墜落事故」と、この三人の著者と著書が、どのように関係しているのか。今回は総まとめとして、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に説明しなくてなりません。
1. 「宮沢官房長官談話」 2. 日韓首脳会談での謝罪 3. 「河野官房長官談話」
戦時中、山口県で日雇い労働者を管理する職に就いていたと自称する吉田清治が、済州島で慰安婦狩りをしたという話を、朝日新聞が報道したのです。
吉田の話は、後に何の証拠もない真っ赤なウソとわかるのですが、朝日新聞は以後、16回に渡り大スクープとして報道しました。すっかり有名になった吉田の著作が韓国語に訳され、韓国で慰安婦問題に対する謝罪、賠償を日本に求める運動が本格化します。
ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊し、平成2 ( 1990 ) 年に東西ドイツが再統一を果し、これを機に、積み残しになっていた第二次世界大戦問題を再度洗い出し、清算しようという動きが世界的に起きてきます。
この動きも韓国の運動を後押しし、平成3 ( 1991 ) 年には、初めて名乗り出た元慰安婦の証言を朝日新聞が大きく報道したため、日本と韓国のテレビや新聞か盛んに取り上げることになります。
ウィキペディアの説明だったかと思いますが、「ねこ庭」の過去記事で次のように紹介していました。
・そして翌平成4 ( 1992 ) 年1月、宮澤喜一首相の訪韓の1週間前に、朝日新聞が慰安婦施設への軍の関与について報道、続いて、歴史問題に関する社説を掲載。このあと、日韓両国のメディアが一斉に慰安婦問題を報道する。
・このときの報道はどれも、虚偽である吉田証言を基にしているだけでなく、慰安婦と挺身隊を混同するなど杜撰(ずさん)なものであったが、宮沢首相は、日韓首脳会談で謝罪を行うはめになる。
平成30年2月10日の産経ニュースが、この事情を次のように報じています。
・日韓関係を激変させたのが92年の「事件」だった。92年1月に宮沢喜一首相が訪韓する直前、朝日新聞は慰安婦強制連行に軍が関与したと報道、「謝罪して補償すべきだ」と主張した。
・加藤紘一官房長官が記者会見で事実確認をしないまま謝罪し、宮沢氏も韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領との会談で公式に謝罪した。
・実際は日本の言論機関 ( マスコミ ) の方がこの問題を提起し、わが国の国民の反日感情を焚(た)きつけ、国民を憤激させてしまいました。
その朝日新聞が、慰安婦強制連行に軍が関与したと報道し、「謝罪して補償すべきだ」と主張しているのですから、宮沢首相が大慌てしたのも無理はなかったのかもしれません。
もう一つ違いがあったとすれば、鈴木、宮沢という人物にあったのでないかと、「ねこ庭」は考えています。鈴木氏は中曽根氏を後継者として円満に退任しましたが、人望のない宮沢氏は竹下派の支配する政界で、思い通りの政権運営ができませんでした。
調整力の無さだけでなく「政界の壊し屋」の小沢氏が加わり、自由民主党が分裂し、退陣に追い込まれていきます。
どうせ辞任するのなら、余計なことをしなければよかったのに、朝日新聞の記事にこだわり、辞任後の評判を気にしたのか、官房長官だった河野洋平氏に談話を発表させました。
宮沢氏が決断力のない、先の見通しの利かない政治家だったことを示す根拠として、ウィキペディアの説明を紹介します。
・政府は吉田証言を中心に調査をはじめ、また報道各社や研究者も検証を行い、この年の夏ごろまでには、少なくとも吉田証言については事実無根であることが明らかになる。
・しかし慰安婦問題を指弾した各社は、以後、報道を控えただけで訂正は行わなかった。そのため、首相が謝罪した事実だけが残った。
・政府は翌平成5 ( 1993 ) 年、慰安婦問題関連の調査結果を発表した。その際に出されたのが、河野洋平官房長官談話である。
この忌まわしい「河野談話」が、以後どれほど日本国民を苦しめることになるのか、強い怒りと共に全文を紹介します。
〈 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日 ) 〉
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。
慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
以上が談話の内容ですが、国会でも大きな議論を呼び、数々の矛盾点や間違いが指摘されました。朝日新聞の慰安婦強制連行記事は、中央大学教授吉見義明が発見したという文書をもとに書かれていましたが、この文書が無関係な書類だったことが他の学者の調査で判明しています。
その後朝日新聞がやっと一連の誤報を認め、社長が記者会見し、責任を取る形で辞任しています。
多くの国民が知っていることなのでこれ以上の言及をやめますが、森永卓郎氏の「日航機123便墜落事故」への問題提起を取り上げたことから、46回のシリーズになってしまいました。
2年前の9月に、鈴木首相について「ねこ庭」で取り上げていましたので、過去記事を紹介します。
最初は、氏の経歴を調べています。
・昭和22年に、日本社会党から第23回衆議院議員選挙に出馬、初当選。
・水産常任委員会の委員として水産庁の設置をはじめ、漁業法や水産協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。
・その後、社会革新党に移る。
これ以後の文章は、2年前の過去記事です。
・なんと鈴木氏は、社会党の議員が出発点でした。
・社会党の総理大臣が片山哲、村山富市氏だとは知っていますが、元社会党議員が自民党の総理となっていたとは意外な発見でした。
・氏が出馬した昭和22年の内閣は片山氏が総理大臣で、社会党の設立はその2年前の昭和20年です。
・昭和20年11月に、戦前の非共産党系の合法社会主義勢力がまとまり、社会党を設立した。社会民主党 ( 右派 ) 、日本労働党 ( 中間派 ) 、日本無産党 ( 左派 ) の主要3派である。
・当時の様子を説明する過去記事を読みますと、懐かしい名前が出てきます。社会党委員長として片山哲、鈴木茂三郎氏、書記長として西尾末広、浅沼稲次郎氏などです。
・こういう時代に社会党議員として出馬するというのは、鈴木氏が有望な若手政治家と見られていたからでしょうか。
・それにしては現在の氏の評価は、芳しくありません。読売新聞社社長の渡辺恒雄氏の意見を紹介します。
「鈴木さんの首相就任直後から日米関係がぎくしゃくし、財政再建もうまくいかない。支持率の急落もあって、2年余りで政権を投げ出そうとしていた。」
・昭和55年7月から、56年11月までの内閣でしたから、実際は2年あまりでなく1年と5ヶ月の短命内閣でした。
・評論家八幡和郎氏の評価は、もっと辛辣です。
「誰でも首相になれるという前例になり、政治を劣化させた。」
いくら何でもそんな人物が総理大臣になれると思いませんが、立場の弱い政治家となると、評論家は酷いことを言います。
次に紹介するのはウィキペディアの記事ですが、この説明が一番当時の氏を伝えている気がします。
・元々社会党から政界入りしたこともあり、鈴木は鳩派スタンスだったが、外交や安全保障面での経験が乏しいまま総理になったため、しばしば躓きを見せた。
現在でも旧社会党系野党が親中派ですから、「鳩派スタンス」の言葉は、鈴木氏が中国に親近感を持つ政治家だったという意味です。日本中が「熱烈歓迎」の中国に傾き、中国との明るい未来に浮かれていました。
せっかく築きつつある日中の友好関係を、「教科書事件」で壊してはならないと懸命になるはずです。
氏は自民党の総務会長として日中国交正常化後に3度訪中し、当時の最高指導者鄧小平氏と会談しています。鈴木氏に対して、鄧小平から二つの話があったそうです。
・日本からの政府借款を受け入れたい
・土地を提供するから、共同で中国国内に兵器工場を作りましょう
この件に関し鈴木氏は、後に次のように語っています。
「これには正直言って驚いた。日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。」
「私は、日本は日本国憲法の趣旨から言って、諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてないと即座に断った。」
「この話は、単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。真剣だった。今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。」
「日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、円借款の件は約束通り実行した。」
中国の最高指導者に言われたからと言って、そのまま受け入れていないのですから、立派な日本の政治家だと思います。媚中派の議員が多い現在から見ると、氏はやはりそれなりの人物だったことが分かります。
マスコミに叩かれ党内で離反され、倒閣に追い込まれていきますが、元社会党議員という先入観に囚われず冷静に考えますと、氏は事実以上に酷評された首相の一人だったことが分かります。
内閣官房長官の宮沢喜一氏は、日本中が「熱烈歓迎」の中国に傾いている風潮を見て、中国のためにすることが国益になり、自分の名前を高めると考えたのではないでしょうか。
人間の価値基準を学歴でしかしない氏は、時の国民大衆が喜びそうな政策として、迅速な「官房長官談話」を出したのかもしれません。
鈴木氏は能吏の官房長官を評価せず、党内の無用な政争を防ぐため、次の総理を中曽根氏と決めていました。人を見る目の適切さを知るだけでも、鈴木氏の不当とも言える過小評価が惜しまれます。
・機嫌を損ねたアメリカが、隠に陽に「鈴木下ろし」を始めた
1. 「宮沢官房長官談話」 2. 日韓首脳会談での謝罪 3. 「河野官房長官談話」
2. 3. のテーマが、「日航機墜落事故」と何の関係があるのかと言われても、「ねこ庭」ではつながっています。酷暑のため思考が狂っているのでありませんので、次回から説明いたします。
酷暑の中でつき合っておれないという方は、スルーしてください。
〈 「宮沢官房長官談話」について、新たに調べた事実 〉
「ねこ庭」の中ではつながっていますが、ここまで横道へ逸れると、こんな話がどこで「日航機墜落事故」と関係しているのかと、疑問を持たれる方がおられると思います。
中曽根内閣以後、日米経済戦争が前面に出てきますが、中曽根内閣直前の鈴木内閣が、実はアメリカの機嫌を損ねていたのだと「ねこ庭」は推察しています。ヴォーゲル氏の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著書が、「日航機墜落事故」に関係があると空想を提起したように、今回は「宮沢官房長官談話」が日米経済戦争の要因になっていると、「ねこ庭」から問題提起をしようとしています。
中国は、毛沢東が行った文化大革命で経済が破綻し、外国資本を入れて国を再建しなければ共産党政権の存立が危うくなっていました。苦肉の策として鄧小平氏が「社会主義的資本主義制度」という考えを持ち出し、「改革開放政策」を実行したのは、周知の事実です。
氏は世界第2位の経済大国だった日本を訪れ、支援を積極的に求めました。中国が日本を「熱烈歓迎」し、この時期が日中両国の一番良好な時代であったこと・・おそらくこれが、「宮沢官房長官談話」が出された一番大きな要因となっているのではないでしょうか。
日中蜜月時代の出来事は、中国側の方に詳しいデータがありますので、平成21年9月17日付の『人民網 日本語版』の記事を紹介します。
・1978 ( 昭和53 ) 年10月、鄧小平訪日、君津製鉄所、松下電器工場、新幹線乗車など日本各地の最先端工場と技術を視察
・1979 ( 昭和54 ) 年、大平・鄧会談。鈴木総務会長に対し、鄧小平が「円借款申し入れ」と「日中兵器工場建設提案」
・1980 ( 昭和55 ) 年5月27日、華国鋒総理が中国総理として初めて訪日し、中日閣僚会議の年内開催が決定
・ 同7月8日、華国鋒総理が大平首相の葬礼に出席するため訪日
・ 同年12月3日、初の中日閣僚会議が北京で開催。会議は1987年6月まで計5回行われた
・1982 ( 昭和57 )年5月31日、趙紫陽総理が訪日し、「平和友好・平等互恵・長期安定」の「中日関係三原則」を示す。
『人民網 日本語版』の記事は、日中関係の動きをまとめた記録に過ぎませんが、この記事を読み、アメリカがどのような気持でいたのかを「ねこ庭」は想像しました。推察は、常識的な単純さです。
第二次世界大戦後に世界の覇権国となったアメリカが、世界一の軍事力と経済力を誇っていたことはすでに説明しました。アメリカもまた「ねこ庭」に似てある意味単純ですから、次のように機嫌を損ねます。
・世界一のアメリカは、自分の地位を脅かしそうな国は決して許さない。
それでなくとも日本は、世界第2位と言われる経済力を持つ国となり、アメリカの貿易赤字を膨らませています。中国が友好関係になり、経済的な協力を深めいてくと、間違いなくアメリカを凌ぐ経済大国が生まれます。
アメリカが面白い訳がありません。
教科書事件は、丁度この時、つまり1982 ( 昭和57 )年5月、趙紫陽総理が訪日し、「平和友好・平等互恵・長期安定」の「中日関係三原則」を示した翌月に起こりました。
誤報事件は二重三重の意味で、日本、中国、アメリカを巻き込み、中国は激しく抗議し、日本は大慌てし、アメリカは両国断絶の好機と喜んだのかもしれません。
朝日新聞だったと思いますが、当時の新聞記事を紹介します。
・ ( 昭和57 ) 年9月、鈴木善幸首相が訪中し、「日中関係はすでに成熟期に入った」と述べ、教科書問題に関しては、日本政府が「日中共同声明」の精神に照らし、責任をもって早急に解決すると表明した。
マスコミの好きな言葉で言えば「朝野をあげて」、日中の新時代へ熱狂の時だったことが分かります。共産党だけは宮本委員長の方針を受け対立関係にありましたが、朝日新聞もNHKも共同通信社も「中国礼賛報道」をし、経済界も中国への支援と関係強化に積極的でした。
アメリカは不愉快だったのかもしれませんが、日本のこうした風潮の中で、鈴木氏が慌てたとしても不思議はありません。話が際限なく横道へ進みますが、次回は氏に関する興味深い情報を紹介しようと思います。
1. 「宮沢官房長官談話」 2. 日韓首脳会談での謝罪 3. 「河野官房長官談話」
前回まで人望のない宮沢氏の紹介をしましたが、「宮沢官房長官談話」をその流れで読み氏の責任だけを問うと、間違いになります。
談話が出された経緯は「教科書誤報事件」とも呼ばれ、大事件なのに原因の解明が今もされていません。「談話」に入る前に、当時の異なる二つのネットの情報をA、Bとして紹介します。
〈 ネットA の情報 〉
・毎日新聞は「これまでの調べでは今回の教科書検定で、『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていない」と修正報道をした。
・産経新聞グループによる誤報だったとの主張から、「教科書誤報事件」とも言われている。
〈 ネットB の情報 〉
・実教出版の「世界史」を担当した日本テレビの記者が「『日本軍が華北に侵略する』という記述が、検定で『日本軍が華北に進出する』に変わった」と報告した。
〈ネットA 〉では産経新聞グループ、〈ネットB 〉の情報では、日本テレビの記者と書いています。どちらが正しいのか分かりませんので、2つの情報をそのまま紹介しました。
どこの社が間違い記事を書いたのかを別にしますと、「華北に侵略する」という記述を「華北に進出する」と訂正した事実はなかったということです。
ここで大事なことは、宮沢官房長官がなぜ「お詫びの談話」を慌てて出したのかという事実の方です。
平成27年3月4日付の「 nippon.Com 」の情報がありましたので紹介します
・時の鈴木善幸政権はこの事実があったという前提で、宮澤喜一官房長官談話を発表させた
・さらに鈴木首相は謝罪のため訪中し、中国側に次の約束をした。
・教科用図書検定基準に、「 近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること 」という『近隣諸国条項』を付け加える。」
大手マスコミの誤報記事に中国が激しく抗議したため、鈴木首相が過剰な反応をし、以後の政権が中国、韓国・北朝鮮に内政干渉をさせるキッカケを作ってしまいました。
どうやらこれが、「宮沢官房長官談話」の背景のようです。「 nippon.Com 」の説明もこの点を指摘しています。
・誤報の事実関係を十分確認せずに、謝罪を行ったこと
・1965 ( 昭和40 ) 年の日韓国交正常化と、72 ( 昭和47 ) 年の日中国交正常化に際し決着をつけたはずの、過去への謝罪問題を蒸し返し可能にしたこと
・他国の批判により、教科書の内容を変えることを公式に認め、歴史認識問題を新たな外交問題化してしまったこと
・以後、歴史問題の発生や節目の年ごとに、「政府談話」の形で対応せざるを得なくなったこと。
・しかもその内容は、1982 ( 昭和57 ) 年の談話の線から後退することが出来なくなったこと。
・談話はいずれも、歴史問題の終息を目指したものではあるが、戦争直後もしくは国交回復交渉の決着から、相当に時がたってからの新たな蒸し返しでは、双方の認識、思惑の乖離(かいり)は当然である。
・理念を語る談話で、簡単に収拾を図るのはかなり無理があった。
「 nippon.Com 」の厳しい指摘に「ねこ庭」は異論がありませんが、平成27年の指摘ですから「後出しジャンケン」の批判です。歴史の事実を後から批判するのは、正論であっても妥当性を欠くのではないかと「ねこ庭」は疑問符をつけます。
疑問の件は後で検討しますが、まずは息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に「談話」の全文を紹介します。
〈 1. 宮沢官房長官談話 (昭和57年8月26日)〉
一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って、平和国家としての道を歩んできた。
我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミニュニケの中において、「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する」との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。
二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は、我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。
三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。
四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。
(出所・外務省ホームページ)
丹念に読むのは今回が初めてですが、新しく腹立たしい発見をしました。
・談話の基本にある思考は、「東京裁判史観」そのものであること
・「河野談話」「細川談話」「村山談話」「 小泉談話」「安倍談話」と続く一連の「政府談話」を呪縛する、国難の談話となっていること
「 nippon. Com 」の指摘を踏まえた上で、次回は「宮沢官房長官談話」について、新たに調べた事実を紹介します。
「人に会うと学歴を聞く」と言われる氏は、出身大学にまつわる酒席での放言も多かった。」
これは「ねこ庭」の説明でなく、過去記事を書いた時ネットで見つけた説明です。情報源を記録しておけば良かったのに忘れています。探せば見つかるのかもしれませんが、そこまでする必要を感じません。
ネットの情報が客観的事実になるのかどうか、自信はありませんが、当時調べた事実として紹介します。
・大平正芳が総理に就任した頃、宮沢は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮沢と口を利かなくなった。
・東大卒の宮沢が、苦学して東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後に大蔵官僚となった大平を、軽視していたという説もある。
・大平の方が宮沢より9才年上で、派内の人望も大平が勝り、池田勇人も宮沢以上に大平を好んだといわれる。
「酒席の話は無礼講」という言葉がありますが、政界や官界では決して通じないと言うことが、宮沢氏には分からなかったようです。小沢一郎氏も同じでしたが、得意の絶頂にいると普通の常識が飛んでいってしまうようです。
・東京農学校出身の金丸信について、「偉い方ですよ。大学を出ているんですね。知ってました?」と皮肉を言った。
・竹下登については、「あの方、県議出身でしょう。あのころ早稲田は、無試験でした。」「僕の義父が商学部の部長でしたから、嘘ではありません」などと酒席で語った。
・金丸がいい気分であったはずがないが、竹下もまた、無試験のネタを直接宮沢に言われたこともあり、「あれは許せない」と怒っていたという。
・番記者にも出身大学を訊き、東京大学卒でも法学部卒でない場合、「ほう、近頃じゃあ法学部じゃなくても、東大って言うんですか。」などと嫌味を言い、その後、マス・メディア各社の間で、宮沢の番記者を東京大学法学部の卒業者にする動きが見られた。
番記者の話は以前にも聞いたことがありますが、何度聞いてもつまらない話です。しかし参考までに、氏の人望のなさを語る情報をもう少し紹介します。
・1980 ( 昭和55 ) 年、大平急死後の後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会で田中と近かった鈴木善幸が総裁に就任した。
ロッキード事件の被告人になっていましたが、今太閤と呼ばれた田中氏は自民党内のキングメーカーでした。
高等小学校卒で上京し,苦学力行して建築士,土建業者となった氏には、学歴を鼻にかけ人の品定めをする宮沢氏は、口も聞きたくない人物だったろうと思います。
そんな宮沢氏が、東京海洋大学出身の鈴木総理のもとで官房長官を努めました。
・鈴木内閣、次代の中曽根内閣期までに、安倍晋太郎・竹下登らと共に、ニュー・リーダーと称されるグループの一人となった。
・官房長官として鈴木首相の度々の失言の後始末をし、宮沢の実務能力が改めて政界内外に印象付けられた。
ところがここで、信じられないことが生じます。
・退陣表明後の鈴木に福田赳夫が、宮沢への後継指名を提案したが、鈴木は断っている。
官房長官は首相の女房役と言われるほど、重要な役職です。首相の後継者にと話を持ちかけられたら、普通は断らないと思いますが、断っています。鈴木首相の後始末をした有能な官房長官だったのに、首相に信頼されていなかったことが分かってしまいました。
以上は人望のなかった事実の紹介ですが、最も重要な国益に関する氏の大失政に下記3件があります。
1. 宮沢官房長官談話 昭和57 ( 1982 ) 年8月26日 ・・鈴木内閣時代
2. 日韓首脳会談での謝罪 平成 4 ( 1992 ) 年1月17日 ・・宮沢内閣時代
3. 河野官房長官談話 平成 5 ( 1992 ) 年8月 4日 ・・宮沢内閣時代
国辱の「談話」と言えば「河野官房長官談話」、いわゆる「河野談話」が知れ渡っていますが、実は第一番目の「国辱談話」は 「宮沢官房長官談話」でした。
国益を損ねたばかりでなく、多くの国民を塗炭の苦しみに追いやった二つの「談話」に関わっていた事実を、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介します。
「日航機墜落事故」問題と離れて横道へ逸れますが、国民が政治に無関心であり続けると、とんでもない指導者が生まれると言う具体例になります。小沢一郎氏も宮沢氏も、やり手の政治家でしたが、肝心の「庶民の常識」が欠けていました。
政治の世界は簡単に理解できないものですが、それでも過去を知ることで、おかしな政治家の登場を最小限に抑える知恵は必要と思います。温故知新の「ねこ庭」は、息子たちというより、やはり自分自身のための「学びの庭」です。
次回は、
1. 宮沢官房長官談話 2. 日韓首脳会談での謝罪 3. 河野官房長官談話 の3件をなるべく簡潔に紹介したいと思います。