気になるというより、気になって仕方がない言葉が二つある。
最近の若者たちが使う奇妙な造語でなく、どちらも昔からある、レッキとした日本語だが、無神経に不用意に、しかもあまり頻繁に使われるのがなんとも面白くない。
いつか止めてくれると期待しているのに、日本の良識 ( 言い過ぎかもしれないが ) の砦と信じたいNHKまでが、止める気配もなく続けるので我慢ならなくなった。
「列島各地の天気予報をお伝えします。」
「休日の列島各地の表情とニュースです。」
朝昼晩の食事時、国民が一番テレビを見る時間帯に全国に報道され、しかも毎日なので、ひと言言わずにおれなくなる。
たしかに日本は、四つの島で構成される島国であり、小学生の頃私も先生からそう教わった。しかし「列島」とは単なる物体としての島、物理的な土地を表現してるのであり、歴史や文明の総体としての「国」を表現する言葉ではない。
私たちの住む国は物理的な島、列島にとどまるものでなく、国民の心のよりどころとなっている「国」なのだ。懐かしいふる里を含む、もっと大きなしかも長い時を経た大切な国である。
それを売買対象の不動産のように、「列島」という無味乾燥な言葉で片付ける愚行を、NHKは何時までやるのか。ニュースで使うのなら「日本各地の」とか、「全国の」と言えば良い。あるいは「列島」という言葉を省いてしまえば、スッキリするのだ。
私の記憶が正しいとすれば、列島という言葉が脚光を浴び、頻繁に使われだしたのは、田中角栄氏の『日本列島改造論』からでないかと思う。
「コンビータつきブルドーザ」「今太閤」などと、マスコミに褒めそやされた氏は、土建屋らしい発想で壮大な日本の国土改造を国民に問い、最後は金権政治の宰相となり収監された不遇な政治家だった。
氏は不世出の天才政治家で、命をかけ日中国交回復を成し遂げた総理だったが、自民党と官僚を金まみれにした張本人でもあった。功罪半ばする大政治家として私の心に存在しているが、その彼が使った「列島」という言葉にそろそろ暇を告げて良いのではないだろうか。
今ひとつ気にかかってならない言葉が、「この国」だ。
「この国の政治はどちらを向いているのか」
「この国の若者の未来に、光があるのだろうか」
こちらは主として、新聞の中で使われている。だいたい「この国」などという第三者的な表現は、外国を訪ねた人間たちが自国と異なるものに触れ、感心したり驚いたり憂えたりする時に使う言葉だ。
チョイと良い指摘もあるし、余計なおせっかいもあるが、所詮は傍観者たちの意見で使われる言葉だ。
最初は新聞に寄稿する評論家が使っていたのに、いつの間にか社説や論説にまで、「この国」が顔を出すようになった。自分の国を言い表すのに、なぜ「この国」などという他人行儀な言葉を使うのだろう。
ハイカラな表現だと、思い違いをしているのだろうか。公式な、真面目な文章なら、「わが国」「私たちの国」と言うべきで、旅行者の目で他人ごとのように叙述すべきではないはずだ。
国民大衆をむやみに煽動する新聞を社会の良識とは思わないが、大事な公器であることは間違いない。
せめて公器らしく、読者への気配りをして欲しいものだ。この国などと言われると、いったい君はどこの国の新聞記者なのかと問い返したくなる。切実な自国の問題を、傍観者のように無責任に語るのは今日からでも止めてもらいたい。
思うにこの言葉は、司馬遼太郎のベストセラーだった、『この国のかたち』から来ているように思うが、どうなのだろう。
氏は、沢山の優れた小説を書いた作家だが、自分の国日本のことを、いつも「この国」などと言っていたのではない。たまたま、ひとつの作品の中で使っただけのことで、氏が日本を傍観者として眺めていなかったことは、どの作品を読んでも伝わってくる。
いくら氏の本がベストセラーになったからといって、新聞や評論家たちが日本を語るのに、馬鹿のひとつ覚えみたいに「この国」の合唱をして良いのだろうか。NHKが使う「列島」と同様に、青少年にとって有益でない言葉の使い方なので、是非とも止めてもらいたい。こんな言葉を蔓延させていると、知らぬうちに自分の国を軽んずることにつながる。
と言っても、マスコミの大好きな「表現の自由」という理屈から見れば、果たして私の意見が妥当なものとして受け取られるかについて、自信はない。
夜も更けた。NHKと新聞社に、庶民の繰り言に耳を傾けてくれる寛容さを夢見つつ、本日の「きまぐれ日記」を終ることにしたい。
長年のもやもやを吐き出したので、今夜は安らかな眠りが訪れることだろう。