ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

柴田トヨさんの詩

2010-12-12 19:42:37 | 随筆
 何気なく書店を覗いていたら、柴田トヨさんの詩集があった。
 
 98才の詩人の作品がベストセラーになっていると、新聞で読んでいたので迷わずに買った。帰る電車の中で読みながら、年をとっても、このように新鮮な詩が書けるのかと、驚いた。90を過ぎても、「気まぐれ手帳」が書けたらいいなと、今後の目標を新たにした。ちょっとお茶目で、子供のように率直な比喩で、しかも優しいトヨさんだった。幸せばかりでない人生を歩いて来ているのに、少しもめげず、朗らかな心を失わずと、私にないものを沢山見せられ、すっかりファンになってしまった。
 
 翌日もう一冊買い、今年90になる母へ贈ることにした。母はトヨさんと違い、年を取るほどに昔を悔やみ、苦労ばかりで、楽しいことが何もない一生だったと、電話口で私に語る。週に一度郷里の母にかけているが、毎回同じ愚痴を聞かされるので、閉口している。年を取っても母のようにはなるまいと、その度に思いながら、電話を切る。せめてトヨさんの、万分の一でも見習ってもらいたいと、しかし、そんなことはあからさまに書けないので、黙って本だけ贈った。
 
 字も大きいし、難しい言葉もないし、読めば少しは、母も明るくなってくれるだろうと、かすかな期待を込めて発送した。三日前のことだ。ところが今日、家内の言葉に愕然とした。
 
 「柴田さんの詩は、大したことないね。二つ三つは面白いと思ったけど、あとはどれもありきたりで、詰まらなかった。」
 
 私の豊な感動に対し、何と辛辣な妻の反応であろうか。私が感じ入っている詩への、遠慮ない否定と来た。トヨさんの詩が面白いのか、詰まらないのかというのは、読み手の主観なので判定の基準が無い。
 
 基準のない話でやりあうと、双方が自説を曲げない。 どっちが勝っても、大した問題で無く、時間の無駄でもあるから、たいてい私が折れることにしている。夫婦円満の秘訣は、我慢することだと、何時だったか、テレビで老夫婦が笑っていたが、まったくその通りだ。
 
 トヨさんの詩についても、私は我慢した・・と、自分では譲っている気でいたが、面白いことに、家内もそう思っているらしい。こうなると、どっもどっち、似た者同士と言うことなのだろうか。
 
 さて、ショックを受けたのはそんなことではない。肝心の母が、家内と同じ感想を持つのではないかと言う、不安が生じてきたことだ。しかもその可能性が高い。母は私に似て、結構頑固で、自分の考えを曲げないから、トヨさんの詩を読んだくらいで、人生観を変えるとは思えなくなった。自分の一生は、苦労の連続だったという悲観論の中で、母は安住し、位置づけを得ている気配もあるから、そこが変わると、逆に不安定になるのかもしれない。
 
 結局、トヨさんの詩集は母にとって、何の役にもたたないものとなってしまうのか。自分でも、見当がつかなくなった。独りよがりの私を、常に修正してくれる率直な妻の言葉も、喜ぶべきか、腹を立てるべきか、同様に見当がつかない。
 
 それにしたって、鳩山さんの失敗に比べれば、これで明日の日本がどうなるという話でなし、中国やロシアが介入してくる訳でもなし、とるに足らない些事だ。
 
 こうして日本国民としての、私の一日が今日も終わる。平和なことではないか。感謝。
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気になる言葉

2010-12-04 17:27:49 | 随筆

 気になるというより、気になって仕方がない言葉が、二つある。

 最近の若者たちが使う、奇妙な造語でなく、どちらも昔からある、レッキとした日本語だが、無神経に、不用意に、しかもあまり頻繁に使われるのが、なんとも面白くない。

 いつか止めてくれると期待しているのに、日本の良識 ( ちょっと言い過ぎかもしれないが ) の砦と信じたい、NHKまでが、その気配もなく続けるので、我慢ならなくなった。

 「列島各地の天気予報をお伝えします。」「休日の列島各地の表情とニュースです。」

 朝昼晩の食事時、国民が一番テレビを見る時間帯に、全国に報道され、しかも毎日、と来たら、どうしたって、ひと言言わずにおれなくなる。

 たしかに、日本は、四つの大きな島から構成される島国であり、小学生の頃、私も先生からそう教わった。しかし、「列島」は、単なる物体としての島、物理的な土地を表現しているが、歴史や文明の総体としての、「国」を表現する言葉ではない。

 私たちの住む国は、物理的な島、列島にとどまるものでなく、国民の心のよりどころになっている、「国」なのだ。懐かしいふる里を含む、もっと大きな、しかも長い時を経た、大切な国である。

 それを売買対象の不動産みたいに、お粗末な「列島」、などという言葉で片付ける愚行を、NHKは何時までやるつもりなのだ。ニュースで使うのなら、「日本各地の」とか、「全国の」とか言えばいい。あるいは「列島」という言葉を省いてしまえば、スッキリするのだ。

 私の記憶が正しいとしたら、列島という言葉が脚光を浴び、頻繁に使われだしたのは、田中角栄の「日本列島改造論」からでないかと思う。

 「コンビータつきブルドーザ」「今太閤」などと、マスコミに褒めそやされた彼は、土建屋らしい発想で、壮大な日本の土地改造を国民に問い、最後は金権政治の宰相となり、収監された不遇な政治家だった。

 彼こそは不世出の天才政治家であり、命をかけ日中国交回復を成し遂げた、素晴らしい総理大臣だったが、自民党と官僚を金まみれにした張本人でもあった。功罪半ばする大政治家として、いまだに私の心に存在しているが、その彼が使った列島という言葉にも、そろそろ暇を告げていいのではないだろうか。

 さて、今ひとつ気にかかってならない言葉だ。

 「この国の政治はどちらを向いているのか」「この国の若者の未来に、光があるのだろうか」。

 こちらは主として、新聞の中で使われている。だいたい、「この国」などという第三者的な表現は、外国を訪ねた人間たちが、自国と異なるものに触れ、感心したり、驚いたり、憂えたりする時に使うものだ。

 チョイといい指摘もあるし、余計なおせっかいもあるが、所詮は傍観者たちの主張だ。

 最初は、新聞に寄稿する評論家が使っていたのに、いつの間にか社説や論説にまで、「この国」が顔を出すようになった。自分の国を言い表すのに、なぜ「この国」などという、他人行儀な言葉を使うのだろう。

 ハイカラな表現だと、思い違いをしているのだろうか。公式な、真面目な文章なら、「わが国」「私たちの国」と言うべきであり、旅行者の目で、他人ごとのように叙述すべきではないはずだ。国民大衆を、むやみに煽動する新聞を、社会の良識とは思わないが、大事な公器であることは間違いない。

 せめて公器らしく、読者への気配りはして欲しいものだ。この国などと言われると、いったい君は、どこの国の新聞記者なのかと問い返したくなる。切実な自国の問題を、傍観者のように、無責任に語るのは、今日からでも止めてもらいたいものだ。

 思うにこの言葉は、司馬遼太郎のベストセラーだった、「この国のかたち」から来ているように思うが、どうなのだろう。彼は、沢山の優れた小説を書いた作家だが、いつもいつも自分の国のことを「この国」などと、言っていたのではない。たまたま、ひとつの作品の中で使っただけのことで、彼が日本を、傍観者として眺めていなかったことは、どの作品を読んでもシッカリ伝わってくる。

 いくら彼の本がベストセラーになったからといって、新聞や評論家たちが、日本を語るのに、馬鹿のひとつ覚えみたいに、「この国」の合唱をしていて良いのだろうか。NHKが使う「列島」と同様、社会にというより、青少年にとって有益でない ( 知らぬうちに、自分の国を軽んずることにつながる ) 、言葉の使い方なので、是非とも止めてもらいたい。

 と言っても、マスコミの大好きな「表現の自由」という面から見れば、果たして自分の要望が、妥当なものとして受け取られるかについて、自信はないが・・・。

 さて夜も更けた。ともあれ、NHKと新聞社に、民草の繰り言に耳を傾けてくれる寛容さと、真剣さを夢見つつ、本日の「きまぐれ日記」を、慎んで終ることにしたい。

 長年のもやもやを吐き出したので、今夜は、安らかな眠りが訪れることだろう。

コメント (2)
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