ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『選択の自由』- 2 ( 有り難い日々の読書 )

2015-04-30 22:08:29 | 徒然の記

  この世の事象が私の目前に、巨大な混沌の状態で聳えている。政治、経済、または歴史上の様々な事件など、あらゆることが天空の星雲のように捉え処がない。

 フリードマン氏の著書の200ページ目、やっと半分まで読んだ。1929年以降の政治経済の流れについて、明快な叙述が続く。主としてアメリカのことが語られるが、欧州や日本についても言及されている。日頃の疑問に光があてられ、上手に語られるとついうなづいてしまう。

 氏のような経済の専門家に、この世は如何ように見えているのだろう。曖昧なものを手際良く分析して解説し、迷うことなく意見を述べ何のためらいも見せない。

 この世には賢い人が沢山いるのだと、感心させられる。

 学生だった頃、マルクスの『資本論』やマルサスの『人口論』、あるいはカントの『純粋理性批判』などを読んだ時も、同じ感慨に打たれた。彼らは、どこからこのように広汎な知識を得るのだろうか。どのようにして、複雑な理論の組み立てを思いつくのか ?

 カントのように難解になると、展開される論理の難渋さと理解困難な用語にうんざりとした。本の題名を沢山並べたからといって誇れる話でなく、むしろ恥ずべき学生生活の告白となる。

 今もそんな無知な自分だが、氏の著書で心を動かされた点だけは抜き書きしておきたい。

  ・中央集権的計画経済や国有化の失敗は、政府がますます巨大化することへの圧力を弱めなかった。

  ・政府の拡大は、いまや社会福祉諸施策とか、諸規制の増大といった形をとるようになって来た。

 自由放任にしておけば良いものを、政府が余計な介入をするから、国家財政が苦しくなっていくと氏が力説している。

  ・アレン・ワリスが、次のように言ったと紹介している。

  ・社会主義は、生産手段を国有化しろという主張の妥当性が、この百年を通じて次から次へと粉砕されてきたために、知的には完全に崩壊しており、今では生産成果の社会所有化を追求するようになっている、と。

 35年前に出版された氏の著書を、マスコミが最近報道し出している。日本はすべての面で欧米を追い越し、学ぶべき事柄が無くなったと聞かされていたのに、35年遅れでアメリカの主張が語られ始めている。

  ・世界の富が、一部の富裕層に集中している。こんな酷い話は無い。今後の社会で重要なことは、富の再配分だ。

 同じことを日本の左翼政党や左翼系の言論人、左傾のマスコミが主張しているが、フリードマン ( アレン・ワリス ) の真似だったということだった。

 国境を越えた巨大ファンドマネーが、世界の富をかき集め、経済も社会も混乱させている昨今なので、「富の再配分論」に心を捉えられた。日本を荒し回った「禿鷹ファンド」への恨みも加わり、一も二にも無く賛同したが、米国左翼の35年前の主張でしかなかったと知る驚きがある。

 いつの時代でも日本では、先を走る国が先生で先進国だ。良い面ばかりでなく悪い面においても、依然として欧米は先進国だったのだ。

  ・社会福祉の分野は最近の2、30年間に、とりわけジョンソン大統領が 「 貧困との戦争」を宣言して以来、爆発的に増大した。

  ・社会保障制度、失業保険制度といった政策が拡大され、支払われる金額も増額された。老人医療制度、食料援助制度、公共住宅計画や、都市再開発計画も拡大された。

  ・1953年に作られた健康・教育・厚生省は、当初の予算が20億ドル。すなわち軍事費支出の5%より、少なかった。

  ・25年後の1978年には1600億ドルの予算となり、陸・海・空三軍を合わせた全予算の1.5倍になった。

  ・これより大きな予算は、合衆国政府の全予算かソ連のそれしかない。

  ・健康・教育・厚生省はいわば巨大な帝国を管理しており、その権力はアメリカの隅々にまで浸透している。

  ・社会福祉政策が掲げた色々な目的は、すべて高貴なものであった。

  ・しか、政策がもたらした実際の結果は、人びとを失望させるものでしかなかった。社会保障支出は急速に上昇していくのに、制度はいっそう深刻な財政難に陥って行った。

 ここまで読み進むと、現在の日本そのものでないかと思わされてくる。政府が介入せず、自然の摂理に任せておけば、賢明な「見えざる手」が、すべてを解決すると言うのが氏の一貫した主張だ。

 理論の行き着く先は「弱肉強食の世界」だと思うので、簡単にうなづけないが、それでも耳を傾けさせる現実がある。

  ・大規模な社会福祉政策が導入された最初の近代国家は、あの鉄血宰相ビスマルクが指導したドイツ帝国だった。

  ・第一次大戦前のドイツ、今日のはやり言葉で言えば、右翼による独裁主義国が、社会主義や左翼に結びつけて考えられがちの社会福祉政策を導入したことは、逆説的と思えるかもしれない。

  ・しかし、そこに逆説は無い。

  ・右翼貴族主義者と社会主義者が異なるのは、誰が社会を支配するか、という点にあるだけだ。

  ・生まれた家柄により支配者が決まるのか、能力により選ばれたと称される専門家の中から決定されるのか、その違いでしかない。

  ・そのどちらもが 一般大衆の福祉 を増大させると主張し、そのどちらもが温情主義的な哲学を唱導するのだ。

  ・しかも実際に政権を握ると、これらのグループのどちらもが、 一般国民の利益 の名のもとに、自分自身の階級の利益の促進を行うことになってしまう。

 つまりこれが、かってのソ連や東ドイツであり、現在の北朝鮮や中国である。秘密警察で国民を縛り付け、言論を弾圧し人権を無視する恐ろしい国だ。

 「子どもたちを、再び戦場へ送ってはなりません。」

 「軍事費を削れば、貧しい人・弱い人びとへの支援ができるのです。」

 「お年寄りや子ども、女性に優しい社会を。」

 日本で共産党が選挙の度に叫んでいるが、35年前のアメリカで使われた手あかのついた政治スローガンだった。共産党や左翼の人間たちの、そんな物真似も見抜けずにたぶらかされたお人好したち・・つまり、私たち国民だ。

 書きたいことはまだあるが、少し疲れて来た。誰が待つ訳でも無し、ここいらで休憩とするか。

 「自由放任主義」の氏に全面的賛同はできないとしても、傾聴すべき達見がある。現在の日本と重ねて読めば、教えられることが多々あり礼を言いたくなる。

 「古くても新しい書物」とは、こんな本を言うのだろうか。

 風呂上がりに一杯冷やしたお茶でも飲んで、それからまた本を読もう。平穏な一日が今日も暮れる。こんな暮らしができるのは、国が年金をキチンと支給してくれるからである。節約を第一の日々だとしても、感謝せずにおれない。

 有り難いことでないか。

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林博史関東学院大学教授(現代史)

2015-04-24 11:24:18 | 徒然の記

 ちょっと古いが、4月4日付けの千葉日報の記事だ。書き出しの部分を引用する。

 「従軍慰安婦問題をめぐり、朝日新聞が、一部記事を取り消した昨年8月以降、」「河野談話の見直しを、政府に求める意見書を、」「6府県議会が可決したことが、各都道府県事務局への取材で分かった。」

 地方議会の議員はいねむりをしているのかと、以前ブログで、怒りに任せ書いたことがあったが、そうではなかった。鹿児島、埼玉、高知、大阪、千葉、富山の6議会がちゃんと対応していた。

 見直しの要望までしていないが、朝日新聞の記事取り消しを受け、他に4府県が、「正しい歴史認識」の周知を求める、意見書の可決をしている。宝塚市では、慰安婦問題で政府を糾弾した、過去の意見書が撤回された。

 誤った朝日新聞の記事で、誤った議会決議をしたのだから、全国の地方議員が見直しに動いたのは、喜ぶべき話だ。ところが、この記事の最後に、専門家の意見が載せられている。関東学院大学で現代史を教えている、林博史教授の談話である。

 「各議会が、これまでの研究や、政府による調査を、」「きちんと検討したのか、疑問だ。」「国際社会からは、慰安婦問題を否定する内容としか、見られない。」「こうした行為こそ、日本の名誉と信頼を損なうものに、ほかならない。」

 関東学院大学で、林教授から現代史を学んでいる、学生の皆さんに問いたい。この意見の恥ずべきところは、どこであるのか。いったい彼は、何歴史の専門家なのか。それより何より、林教授は、日本を大切にする、日本人であるのか。

 かくも多数の地方議会の議決が、日本の名誉と信頼を損なうなどと、反日・左翼でしか言わない、愚論だ。こんな人物から教えられていたら、学生諸氏は、まともな社会人になれるのか。まともな日本人になれるのか。心配になってきた。
 
 古い新聞記事だが、私の怒りは新鮮で、たぎるほど熱い。ついでに、関東学院大学の経営陣にも、恥を知れと言いたい。

 私のブログでは、愚かな教授の戯言に、これ以上つき合っている暇はない。「みみずの戯言」だけで、十分に忙しい。
 

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『選択の自由』 ( 自由の女神の銘文 )

2015-04-22 15:21:37 | 徒然の記

 フリードマン著『選択の自由』(昭和55年刊 日本経済新聞社)、490ページの本の74ぺージ目を読んでいる。

 氏はノーベル経済学賞を受賞した、シカゴ大学名誉教授だ。ひと頃有名になった本で題名だけ記憶しているが、35年も前の出版とは意外だった。とすれば、著者は存命でないのかもしれない。

 これも図書館で貰って来た本だが、攻撃や憎しみのない文章に接する安らかさを、久しぶりに再発見した。晴耕雨読で手にする書物とはこのような本でないかと、長らく忘れていた、読書の楽しさだ。

 いつもなら読後にしか書かない感想を、こんなに早く述べたくなった理由の一つがここにある。

 今ひとつは、自由の女神の銘文を知った感動だ。女神像は、フランスがアメリカへ贈ったものと聞いていたが、文字が記されているとは知らなかった。欧米人には普通のことなのだろうが、日本人である私には強い印象があった。

  私のもとへゆだねよ
  あなたがたの国の疲れ切った人びとを 貧困に苦しむ人びとを
  あなたがたの国は豊かだというのに その国でいれられず

  人間のくずだとののしられ 悲惨にあえいでいる人びとよ
  うちを失い 人世の大あらしに投げ出されてしまった人びとよ
  
  それらの人びとを 私のもとへゆだねよ
  めぐみの門のかたわらで 私はともしびを高くかかげて待っている
  
 こうして何百万、何千万という移民がやって来て、世界に冠たるアメリカを作った。建国の時から、他民族国家を目指している米国だったのだ。

 宏大な国土を前に、進取の気に燃える米国人の大らかさが満ちあふれる銘文だ。日本で語られることはないけれど、この精神は米国の国是の一つなのかもしれない。

 長い歴史を持つ日本人の一人である私は、アメリカの国是に敬意を払うとしても、そのまま受け入れる気持ちにはなれない。メイフラワー号の到着から始まったアメリカと、歴史や文化の積み重なった日本を同列に語る訳に行かないないからだ。

 フリードマン氏の著作に感心することと同調することは別だと、これが、早々と感想を述べずにおれなくなった、もう一つの理由である。

 安倍内閣で大量の移民受け入れが語られているが、とんでもない勘違いをしていると言いたい。きっとあの、アメリカナイズされた自由主義者で、合理主義者の竹中氏あたりが強引に押し進めているのだろうが、国の成り立ちが違う日本とアメリカを混同してはならない。

 自由の女神の銘文に感動しても、私は、この碑文の背後にあるアメリカの矛盾に、気がついている。フリードマン氏の著作と無関係なので言及したくなかったが、竹中氏の顔を思い出したので言いたくなった。

 「国で受け入れられなかった人びと」を、寛容と愛の言葉で迎えるアメリカの偉大さの足下にある矛盾は、「黒人問題」である。

 ルーズベルト大統領がそうであったように、米国人の中には無意識下の意識として、白人優位という感情がある。ことの善悪や理屈を越えた、やっかいな感情なのだ。

 だから、「国で受け入れられなかった人びと」の中に、有色人種は含まれていない。ここを正しく理解していないと、無闇に米国を礼賛する誰かさんのような愚か者になってしまう。

 本題を外れてしまったが、ここから再びフリードマン氏に戻ろう。

 経済のみならず、学問・芸術の活動においても、政府が余計な干渉をしなければ、「見えざる手」の力ですべてのことが巧く行くと、卑近な例を沢山引いて、氏が語る。経済の発展と、所得向上のためには、効率や利便性を何より重視し、物でも資本でもたとえ人でも、自由に他国間を移動するのが良い、という意見だ。

 ケインズの言葉が何度も引用され、無制限の「自由主義」を説く面白い本である。これから、どう展開して行くのか、期待に胸をふくらませつつ終わろう。本日はこれまで。

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代議士不要の政治

2015-04-19 18:05:57 | 徒然の記

 武田文彦氏著「代議士不要の政治」(昭和55年 大陸書房刊)を読んでいる。


 原発の専門家であるらしい氏は、動画でよく目にし、テレビにも時々顔を出す。分かり易い語り口で、微笑みながら辛辣な意見を述べるので、面白い人物と言う印象がある。

 「憲法の前文で述べられているように、われわれが " 選挙された代表 " を通じて行動している限り、主権を代表者に預けてしまい、あとは良きにはからえ!!というような立場、いわば封建時代のバカ殿のような態度を取る限り、」


 「最終的な決定権を一切奪われてしまっているような民主主義は、選挙の時だけの民主主義と言えるだけで、それ以外は我々の政治でなく、彼ら(代表者)の政治となってしまっている。」

 このように氏は、議員制民主主義の欠陥を正しく批判する。
選挙の時だけの王様でしかない自分たちの姿に、苦々しい思いをしているので、思わずページをめくった。ようするに、彼が主張しているのはコンピュータを駆使した、国民全体が参加する政治であり、氏はこれを「究極的民主主義の政治」と呼んでいる。

 確かに現在の日本では、若者は言うに及ばず、私のような高齢者(自分では中年)でも、こうしてパソコンを使っている。提案の奇抜さに惹かれたが、具体的内容を読み進むうちに、実現の可能性に疑問が強まった。

 全国の有権者が国政の判断をするのだから、国会は立法府としての役目を失い、たんなる「審議院」となり、代議士も「審議員」という資格に変わる。政治案件の決定は、各戸に設置されたコンピュータを通じ、国民がするため、議員は、国民の判断材料となる審議だけすれば良くなるとのこと。

 コンピュータ設置の初期投資額を、氏は40兆円と計算するが、これが高いのか安いのか、私には判断がつかない。それでもここまで来ると、氏の意見の荒唐無稽さが、何となく分かる。定年退職し年金生活者となり、有り余る時間を気ままに使える身となって以来、政治の案件を追っているが、判断できないものが無数にある。

 関心を持って調べても、それでも分からない案件が多々ある、というのに、すべて国民に決定権が付与されたら、武田氏のようなインテリでない庶民に、どんな決定が下せるというのだろう。

 年寄りや若者の中には、対応困難な弱者もいるだろうし、政治に興味も関心も持たない無い愚か者や、悪だくみばかりする不届き者への対策は、どのようにするのか。パスワードで防止を図るというが、国民各自の意思が、間違いなく本人のものであるという確認や、不逞の輩どもへの防止策が、どう読んでも納得できない。

 まして現在の議員が審議員になるなど、どうして彼らが、そんな意見に耳を貸すだろうか。政策の決定権があるからこそ、政治家として彼らの誇りがあり、士気がある。議案を検討するだけというのなら、政府の官僚だけで事足りるし、議員の必要すら無くなる。優秀な上に海千山千の官僚は、厚顔な議員だって手玉に取るのだから、一般国民は、間違いなく釈迦の手の中の悟空と成り果てる。

 動画の中で、反日の政治家や学者を鮮やかに切り捨てていた、爽快な氏を知るだけに、本の中身には失望させられた。どういう人物かとパソコンで調べても、この人が故意にそうしているのか、何の情報も取り出せない。出てくるものといえば、氏の著作の宣伝ばかりだ。

 で、私は、不本意ながら、学者としての氏の人間性に疑問を抱くこととなり、これ以上本を読む気が喪失した。

 明るいあの笑顔を思い出すと、決して悪人ではないのだろうが、本には本としての価値判断がある。説明するまでもなく、この本は、「有価物回収の日のゴミ」とする。
途中で投げ出した本は、本多勝一の「中国の旅」以来だ。こんな有害図書と同じ扱いにしたくないし、氏には気の毒でならないが・・。ここはもう、アレキサンダー大王を真似、「快刀乱麻を断つ」決定をするしかない。

  ( 追記 : 途中で読むのを止めたのは、3月の 内山秀夫氏著「政治は途方に暮れてい

      る」だった。本多勝一の本は、ともかく最後まで目を通した。

      そろそろボケが始まったのか、痴呆の記録としたいから、本文を訂正せず、

      追記とした。)

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日本文化史

2015-04-17 16:57:50 | 徒然の記

 家永三郎著「日本文化史」(昭和34年刊 岩波文庫)、を読んだ。

 大正2年生まれの氏は、昭和12年に東大の文学部国史科を卒業し、22年後にこの本を書いている。本の最終ページに、氏だけでなく、岩波雄二郎氏の住所まで印刷されているところに、フライバシーなどうるさく言わなかった時代の、平穏さが偲ばれた。

 左系岩波書店と、反権力学者として名高い氏への警戒心が解けず、硬い心で読み進んだが、大半の内容に納得させられた。縄文時代から敗戦後の日本まで、その歴史と文化が語られ、高校生時代に戻ったような懐かしさだった。ぼんやりと覚えていた事柄を再確認し、曖昧な知識がキチンと穴埋めされたような有り難さもあった。

 法然・親鸞以前の仏教が、彼らの出現によって、どのように変化したか。源氏物語と平家物語の決定的違いは、どこにあるのか。儒学と国学と洋学の違い、その短所と長所、どんな人物が取り組んでいたか等々、沢山復習ができた。

 政治、宗教、建築、絵画、彫刻、貴族と武士と町人など、あらゆる事柄が、簡潔に語られる。偏見に充ちた意見ばかりと思っていたが、対立する主張にも言及されており、むしろ、氏の知識の豊かさと、寛容な理解力に驚かされたくらいだ。
都合の良い事実だけつなぎ合わせ、相手を貶し、身勝手な主張を述べる、朝日新聞NHKに、見習わせてやりたくなったほどだった。

 しかし本の最後になると、GHQによる占領時代を 、"第二の開国" と称し、期待通りというべきか、私と異なる主張の展開が始まった。

 「占領下の改革は、黒船の渡来を契機とする、近代化への転換を、」「もう一度、徹底的な形で試みようとする、」「 第二の開国であったと、いえるかもしれない。」

 「太平洋戦争の敗北は、あらゆる意味において、」「日本の歴史の上に、決定的な転換期をもたらした。」「日本の近代化を、特殊な方向にゆがめてきた様々の条件は、」「おおむね取り除かれた。」

 「ことに前近代的な、天皇制君権主義の明治憲法が廃止されて、」「ブルジョア民主主義の原則に立つ、日本国憲法が制定されたこと。」

 こうして彼は、家父長制度を消滅させた新民法の制定と、農地改革を絶賛する。

 「ポツダム宣言は、日・独・伊のファシズムの、」「歴史に逆行する蛮行を、打倒するために、」「決起した自由な諸国民の意思にもとづいて、起草されたものであり、」「押し戻すことの出来ない、人類進歩の、世界史的発展の大勢へと、」「日本を、巻き込んだ結果となった。」「単に戦勝国が、敗戦国に課した、力の政策のあらわれと、解すべきではなかろう。」

 結局こうして彼もまた、変節学者の一人として自論を展開する。
つい先頃まで、昭和天皇や皇太子であった今上天皇へ、歴史のご進講をしていた彼だったというのに、この変貌ぶりだ。

 「戦後の日本国民は、ポツダム宣言の受諾によって、」「初めて、天皇制君権主義の枠から解放され、」「世界人類の共同遺産である、近代的民主主義の線に添って、」「その運命を開拓して行く可能性を、獲得することができたのである。」

 そして彼は共産党の親派らしく、正直な主張をする。

 「けれども不幸なことに、資本主義諸国と共産主義諸国の対立が激化し、」「占領政策が、アメリカの国益に添って進められたことは、」「 " 第二の開国" により、せっかく近代化の道を進み始めていた、日本を、」「アメリカの植民地同然の状態に、追い込むような結果をもたらすことを、まぬかれなかった。」

 ソ連や中国のように、共産主義を取り入れていたら、日本はもっと近代化が進んでいたと、氏は言いたいのだろうが、現在のソ連と中国がどんな国になっているのか。氏の意見がいかに的外れなものだったか、戦後70年の歴史が証明している。

 氏の意見に正しさがあるとすれば、日本が今でも尚、アメリカの植民地同然の状態から逃れられないでいる、というところだろう。

 氏は本書の締めくくりとして、高らかに宣言する。

 「健康で前進的な文化を創造する、エネルギーを獲得するためには、」「まず日本国民が、植民地的状態から解放され、自身の力によって、」「将来を開拓して行けるような、独立性を回復することが、第一の急務となるのではなかろうか。」

 「このような努力が成功するときに、過去の日本文化の輝かしい伝統は、世界文化史の一環として、その生命を復活し、」「日本民族は、独自の文化的伝統をもって、世界人類の文化の向上のため、」「寄与することが、可能となるであろう。」

 反権力とは言いながら、氏は自虐史観の徒ではなく、日本の全てを否定する反日の徒でもないことを、この最後の主張から読み取る。日本のあちこちに散在し、外国にまで出かけ、日本を貶めていいる売国の徒と、氏は明らかに違っている。

 国を大切にする心を、失いさえしなければ、時に間違った意見を述べたとしても、それが何だろう。揺れ動いた彼の間違った意見も含め、私は氏を受け入れる。

 だから、この本は、大切に本棚に並べ、いつの日にか、子や孫が読んでくれたらと期待する。自分の意見に合わなくても、無視できない本もあるのだと、氏が教えてくれた。

  平成14年に逝去された家永氏に感謝しつつ、ご冥福を祈る。

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埼玉県 本庄第一高校

2015-04-11 12:47:19 | 徒然の記

 国の名誉ということも知らず、歴史の大切さも知らず、教育機関としての使命も知らず、知らずづくしの学校が日本にはある。

 ウソと捏造に憎しみを交え、日本人を攻撃する韓国と、どんな思いで人々が戦っているのかも無視し、両国がどのように微妙な時期にあるのかも、考慮せず、こんな犯罪を犯す生徒を育てた、「本庄第一高校」とは、どんな学校なのか。

 「万引した生徒らは、6日以降、自宅謹慎ということにしている。」「これからがある若者たちですので、謹慎は処分ということではなく、」「指導の一環として、自分を見つめ直すという意味で、反省文や課題を課している。」「個々の生徒で、反省の度合いなども変わるので、」「期間も何日と決めるのではなく、個々で異なるシステムを取っている」

 「部活動は行うが、公式戦は自粛しようということになっている」

 「取り返しの付かないことをしてしまったが、部活動では、ほかに頑張っている子供たちもいる」

 日本の恥をさらし、国の利益を大きく損なわせた学校が、マスコミに対し、語った言葉だ。しかも、副校長の発言である。

 ことの重大さを理解し、真摯な反省があるのなら、出て来て謝罪するのは、校長と、引率した教師であるはずだろうに・・。

 ものごとの筋道を弁えず、良識の欠けた学校だから、こんな生徒が育っても不思議はない。その処罰のなんというゆるさか。文部省は、こんな学校への私学助成金を、即刻取りやめるか、今年度分は返還させるべきだろう。自分の孫たちが入学すると言ったら、即刻反対だ。親類縁者、知人がいたら、「お止しなさい」と、忠告する。

 慰安婦問題のみならず、竹島・対馬・仏像問題と、韓国政府と韓国人を責めて来たが、本庄第一高校のお陰で、頭を冷やさせられた。ややもすると、韓国人全体を嫌悪していた私に、「日本にだって、こんな馬鹿者がいるでないか。」「隣ばかりを貶しては、いけないのでないか。」と、立ち止まらせてくれた。

 そして、最後に言うべきは、腐れマスコミの報道ぶりだ。
こんな学校の何処に考慮しているのか。学校名、校長名、引率担当者名を、キチンと国民に知らせる義務があるのではないか。未成年者でもあるまいに、保護する理由がどこにあるのか。

 曖昧におずおずと、隠し事でもするように記事を書くから、「日本人は狡い。」とか「自分らには甘いのだ。」とか、また韓国に嘲笑される。自国のことであっても、悪は悪として記事にするのが、「報道の自由」の本来であろうに。

 今回の件を契機として、本庄第一高校と一緒に、腐れマスコミも反省すべきと、私は考える。

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独立外交官

2015-04-08 14:58:09 | 徒然の記

 カーン・ロス氏著「独立外交官」(平成21年 英治出版刊)を、読み終えた。

 氏は元英国外交官で、国連安保理のイギリス代表部に、中東問題の専門家、一等書記官として4年間を努めたキャリアだった。ブッシュ大統領が行った「イラク戦争」に、英国代表として深くかかわり、この結果、国連と祖国に失望し、退職したという変わった官僚だ。

 本人も認めているが、この本の出版自体が、守秘義務違反となり、英国政府から圧力が加えられたとのこと。知らない事実を教えられた点には、感謝せずにおれないが、英国の政府役人としては、残念ながら失格者だろう。

 先ず国連という組織につき、明確に知らされたことに、謝意を表する。国連で最高の位置づけにあるのは、安全保障理事会だが、構成する5大国が、どのように振る舞っているかなど、氏の叙述で明らかになった。

 常任理事国が米・英とロ・中・仏の二つのグループに分かれ、常に牽制し合っているなど、推測はしていたが、ここまでハッキリしているとは意外だった。ましてフランスが、ロシアや中国と緊密な立場にいて、米英に対抗しているとは知らなかった。

 ここで実力を発揮しているのは、政治家ばかりでなく、実務家である外交官、つまり官僚である。彼らのもとにあらゆる情報が集まり、それを分析し簡潔な報告書にまとめ、決断する政治家へ渡す。必要とあれば彼らは、自分に有利な情報だけを集め、政治家へ届けたりする。

 何てことはない、日本の国会と同じで、無能な大臣たちが、官僚の作った答弁書を読み、野党の質問に答える図式だ。優秀な役人は、世界のどこの国でもそうなる、という話だろう。

 国連では、常任理事国が世界情勢への対応を決め、他の国などは、彼らの眼中にない。
5大国間の駆け引きが密室協議で行われ、紛争国への介入や不介入、軍事力の行使など、世界のすべての重要案件が決定される。非常任理事国や、他の国が本会議に同席していても、5大国に相手にされることはない。協議の対象となっている、紛争当事国の参加もなく、議論は5大国の国益に添って進められて行く。

 2012年から2015年までの、国連分担金の推移を調べてみたことがあるが、日本は米国の22%に次ぎ、10.8%とという第二の負担率だった。英・仏・中などは、日本の半分の5%であり、ロシアときたら2%で、日本の5分の1でしかない。ドイツだって7%なのだから、日本がいかに断トツの負担をしているのか、それでいて、何の評価もされていないことが、氏の本でよく理解できた。

 本には書かれていないが、分担金の支払は、アメリカを筆頭に遅延しており、ほとんどの国が延滞金を抱え、国連の赤字に貢献している。日本だけが、律儀に毎年キチンと支払い、しかも何の敬意も払われていないというのだから、呆れてしまう国連の実態でないか。

 283ページの本の中で、「日本」という文字を目にしたのは、たった二三度しかない。国名が書かれていただけで、本の中身として取り上げられた箇所は、ひとつもない。5大国とは言うまでもなく、先の大戦での戦勝国であり、彼らが大手を振っているのが国連だということだ。中国は韓国と手を取り合い、慰安婦問題を国連で喧伝しているが、この本を読めば、黙認しているアメリカも、戦勝国の立場を崩していないのだと理解できる。

 いくら日本が歯ぎしりしても、中国は常任理事国クラブの正規メンバーであり、米・英・仏・ロと、幾らでも意思疎通できる立場にある。ここでは、戦後体制がそのまま生きており、敗戦国の日本やドイツは日陰者扱いで、最貧国になったイタリアは、語られることもないらしい。

 こんな国連を有り難がり、そこに日本の軍隊を提供するなどと言った、小沢氏の戯言を改めて思い出す。日本で剛腕政治家と言われた人物が、この程度のものかと情けなくなる。

 有権者が、選挙で政府を牽制するという民主主義が、国家単位では生きているが、国際問題(国際社会)は、民主主義がないと氏が言うのは、この硬直した国連の組織体制と、風土を指している。官僚言葉で「グローバル化」などと曖昧に言わず、「世界の文化の均質化」、「資本市場の開放」、「労働力の流動化」などと、問題を具体的にして議論すべきだと、彼が提案する。

 政治家たちが、なぜ具体的に語らないのかと言えば、「グローバル化」とは、国家や領土や民族までも超越した、地球世界へとつながっていく概念だからだ。国毎の歴史や伝統を大切にする国民が、大多数を占めている現在において、ハッキリ言いすぎると邪魔されるため、曖昧にして進めているのが「グローバル化」なのだ。

 今でも、これからでも、一部の大富豪が、世界の富を独占してしまうような「グローバル化」に、私は到底賛成できない。職業外交官として、こうした正論を表明した彼は、きっと勇気のある人物なのだろう。

 5大国がせめぎあっている「国益」についても、彼は明確に定義してみせる。
「イギリス外務省では、われわれの "国益" は、三つの要素からなるということを、」「無意識下に吹き込まれる。」「貿易、安全保障、そしてなぜか 、"価値観"と呼ばれるものだ。」

 「自国の政策が、同じような用語でなされた、分析にもとづいているという、」「他国の外交官にも、大勢会ったことがある。 」

 「イギリス外務省では、国益をはじき出す方法は、入門研修で教えられるわけではなかったが、」「その後に読む、膨大な文書から、それが読み取れる。」「国益を決めるプロセスは、根拠も正当性もない、恣意的なものだ。」

 「個別の事例について、閣僚が、イギリスの "国益とはなにか" を問うたり述べたりすることは、極めて稀だ。」「それは、すでに前提となっているからだ。」

 「国益の混沌とした集合を、三つの下位集合の、貿易、安全保障、価値観に、」「分けることさえ、厳密にはなされていない。」「外交部門の主観性、恣意性はあまりに高いので、」「国益を、このように定義することさえ、反論を呼ぶ可能性が高い。」

 長い引用になったが、こうした明確な叙述が、守秘義務違反に問われる、範疇だと思われる。

 貿易とは、分かり易く言えば経済(金儲け)のことであり、安全保障とは、武力を土台にしたソフト・ハードの軍事の総体を指し、価値観とは、彼らがアジア諸国等を攻め立てる時に使う概念だ。つまり「自由」「民主主義」「人権」「寛容」などと、自国の優れた価値観と称する、抽象的観念としての責め具である。

 抽象的言葉の武器は実体が曖昧で、聞く者がどうにでも解釈できるだけに、プロパガンダとして使われると、とても厄介だ。目標とされた国が、複数の国から一斉にやられると、国際社会では太刀打ちできない。「大量破壊兵器を隠している。」とか、「彼の独裁が、民主主義を育てなくしている。」とか、「国民の人権をないがしろにしている。」とか言って攻撃され、イラクのフセインが消えてしまった、一因にもなっている。

 中国や韓国が「正しい歴史認識」とか、「慰安婦の人権」などと、捏造と誇張のウソで大騒ぎし、国際社会で、執拗に日本を攻め立てているのは、こんな常任理事国の得手勝手を真似ているに過ぎないと、この本が教えてくれた。

 だから共産党や社民党、民主党など、反日・売国の野党は、こうした外国勢力と結びつき、日本を破滅させようとしているのだと、この本を読めば、馬鹿でもない限り理解できてくる。(この本を読まない人は、馬鹿でなくとも理解できない。)

 こうして氏の本に添い、思うことを述べて行くと、明日までかかっても、終わらない気がして来た。それでは気力と体力が持ちそうもなく、疲れても来たから、中途半端になるがここいらで止めよう。

 昨日は暖かい日差しがあったのに、今日はなんと、4月の8日だというのに、朝から雪が降った。今はミゾレになっているが、しんしんと冷える。心も体も、冷たく凍えるこの天気こそが、本の読後を象徴している。

 有意義だが、心の温まらない一册だった。手元に置く気になれないので、申し訳ないが有価物回収の日のゴミにするとしよう。

 どうしてこの本の表題が、「独立外交官」なのか、あるいは「グローバル化官僚」である氏に対する、私の思いとか、書き足りないことは多々あるが。どうせ、楽しい話ではないし、誰が賛成してくれるわけでもなし、そろそろ空腹にもなって来た。

 中途半端に、何かを放棄するなど、これまで自分の習慣にはなかった。しかし素直になろう。

 「年相応にやればいい。」「お前はもう、若くない。」・・と、こういうことか。

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