ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

東電という会社

2011-03-30 06:57:30 | 徒然の記

 東電は総理大臣の要請に面従腹背し、政府のスポークスマンである官房長官に、タイミング遅れの情報を小出しで提供している。

 原発から半径30キロ圏内の住民の生活を崩壊し、放射能汚染に怯えさせても、一度として社長が顔を出さず、詫びの一つも言わない会社だ。

 日本中 ( もしかすると世界中 ) が見守っている中で、ど素人のようにに、放射線の数値や成分を間違えて発表する破廉恥な会社でもある。日本の中にありながら、政府に従わない企業があることを、今回初めて知った。決死の社員や作業員に対しても、ろくな食事を与えず、暖を取る毛布も十分行き渡っていないという。

 東電と言う会社は、いったいどんな会社かと改めて問うてみたくなった。

 原発に関し世界一のノウハウと技術を有する、立派な企業とばかり思っていたので、あたふたする会社の姿勢に幻滅と怒りを覚えた。次官クラスの役人の、天下り先の会社だとしても、役目さえ果たしていれば何も言いはしない。日本滅亡かと危惧される、原発事故の発生以来、お粗末な対応ぶりとには、張りぼての虎でも見るような思いがする。

 どんな優秀な社員がいても、暗愚な経営者がいる会社は、暗愚な施策しか打ち出せない。日本のような縦社会ではトップの姿勢が、そのまま外の目にさらされるというのは、誰もが知っている事実だ。

 国策会社のようなものだから、経営者は、日頃はふんぞり返っているに違いない。官僚トップだった天下りの経営者にすれば、保安員はそこいらの石ころくらいにしか思っていないはずだ。総理の言葉も無視するような体質だから、保安員の指導など、聞く訳が無い。

 これまで私は、左翼系の人々の原発反対について、冷めた見方をして来た。世界一安全な原発なら、電力を賄う手段として許容する必要があると考えていた。しかし、事故を目の当たりにし、この考えは根底からくつがえされた。原発は人間の手に負えない怪獣であり、制御不可能な魔物だった。だから東電も、政府の制御不可能な会社となっていると、冗談でなくそう考える。

 そうでなければ、政府や国民に対する会社の対応に説明がつかない。魔物を制御する技術を持っていると自惚れた専門馬鹿の集団が、国民の上に君臨していたと、初めて世間にその姿を曝した。

 国民の上に君臨すると過信している人間は、東電だけでなく世界中に存在しているが、せめて日本からは、こうした奢る会社を駆逐したいものだ。何時のことになるのか分からないが、この深刻な事故が収束したら、私たちは原発廃止と、今後のエネルギー政策について勉強しなくてならない。

 便利さや快適さを追求する心にブレーキをかけ、多少不便でも、安全で慎ましい暮らしへと方向転換すべきなのだ。東電だけでなく、日本の各地区に君臨する他の電力会社についても、再検討しなくてはならない。

 地震国日本には、第二第三の原発事故の可能性があり、電力会社は「想定外」と言い訳していれば済むのだろうが、国民は、子や孫の代になっても健康を蝕まれ、死に至る道を歩まされることになる。

 自民党の政治家たちにしても、他人ごとではあるまいに。同じ船に乗った国民として、菅総理に協力できないのだろうか。

 そををすると、菅総理の延命を手助けすることになるなどと、何と次元の低い発想か。

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民主党の愚策

2011-03-26 14:12:12 | 徒然の記

 与謝野経済・産業相のテレビ会見を見た。国民が節電を継続するための措置として、電力料金の値上げをすると言う。呆れてものが言えなくなった。

 与謝野氏を、もっと賢い政治家だと思っていたからだ。懲らしめの意を含む値上げを、政府が東電と言う一企業に代わって実施するなど、あって良いものだろうか。

 もしそれを言うのなら、「4月から一年間」あるいは「2年間」と、期間を区切った上で、「値上げ分の金額は政府に集約し、被災地援助のため速やかに使う」と発表するのが筋でないか。与謝野氏の言葉では、値上げ料金がそのまま東電に入ることとなり、誰も納得できない。

 東電は、今回の原発事故の当事者で、私たちは損害賠償をしてもらいたいくらいの気持ちでいる。もし与謝野氏が、差額料金の活用方法を言い忘れたと言うのであれば、国民の気持ちを逆なでするような発表はしないで欲しい。期間も区切らず、差額料金の活用方法にも言及せず、これが政府の見解だと、恥ずかしげも無くテレビ放映する民主党の感覚を疑いたい。

 そしてまた、今日のテレビ会見だ。

 原発に真水を注水するという、北沢防衛大臣の発表だ。彼によると、海水から真水へと変更するのは、米軍の強い要望だという。その説明を聞き、日本の国防を担う大臣の言葉かと失望した。政府は米軍の強硬な要求により、仕方なく海水から真水へと変更をするという、主体性の無さの暴露だった。

 日本は国の安全に拘ることにも、まだ米軍の言いなりになのかと、国民の士気を削ぎ落とす発言だった。国への矜持がないから、こうした情けない発表ができるのだろう。自民党の大臣なら、このような卑屈な発表はしないはずと考えてしまう。

 北沢氏の防衛大臣らしくない姿は、先日の自衛隊の原発放水時にも見られた。結果論でしか無いが、東京消防庁の隊員を派遣した石原氏と、自衛隊を出動させた北沢氏の対応には、天と地ほどの開きがあった。

 石原都知事は涙をこらえ苦渋の決断をし、「国のため命をかけて欲しい」と隊員を送り出した。隊員たちにはその思いが伝わり、懸命の活動が展開された。

 それなのに北沢氏は、自衛隊の海水投下作業を中途半端にやめさせ、理由を、隊員の身の安全を考えたからと説明した。その直後に、東京消防庁の決死の作業が放映され、自衛隊より都の消防隊の方が、身を呈して頑張るのだと思わされた。

 防衛大臣より都知事の方が、国や部下のため心を砕いていると、結果だけの感想で申し訳ないが正直そう思った。自衛隊を暴力装置としてしか見ない党の大臣は、隊員を指揮する気力も熱意も低かったかと、偏見と言われても言わずにおれない。

 最後の愚策は、前回のプログで述べた、枝野官房長官の「自宅退避」措置だ。これまでは、民主党も頑張っていると好意的に見ていたが、ここまでお粗末な閣僚たちを目の当たりにしていると、言わずにおれなくなる。

 「馬鹿な大臣の任期をいくら伸ばしても、馬鹿な施策が増えるだけ」。

 自分の国の大臣を口汚く非難するなど、私の人格も、民主党に負けずスッカリ低下したと嘆きたくなる。

 異常事態の今こそ、冷静になるのが人格者と言えるのだが、「きまぐれ手帳」の名称そのままに、きまぐれな放言をしている私だ。やがて自己嫌悪に陥ると思うが、今は勢いのまま、ブログで発信する。

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政治家の決断

2011-03-24 23:27:29 | 徒然の記
 分散した場所にいる被災者たちが、劣悪な状況の中で弱って行く。

 医師が足りない、スタッフが足りない、医薬品も足りない。早く避難場所を集約すべきなのですと、NHKに出てくる専門家たちも評論家たちも言う。この場に及んで、いったい政治家たちは何をしているのかと、私は怒りをぶつけたい。近隣の市町村への移動とか、廃校の活用とか、そんなまどろっこしいことをしていたら、病院の患者たちは寒さと疲労で死に至り、避難している住民たちも間違いなく病人となって、医療の現場が更に荒廃する。患者や弱りつつある避難民を集団で移動させる最適な場所としての条件は、大きなスペースであり、医師でありスタッフである。

 福島の原発で一番の恩恵を受けている首都圏の政治家たちは、そうした人々を先ずは関東に移動させ、国としての支援をするという思考がなぜ生まれないのだろう。東京ドーム、武道館、幕張メッセなど、首都圏には少し工夫すればすぐに立派な避難所に変わる大きな設備がいくらでもある。東京に病人や避難者を集約すれば、全国から医師もスタッフもボランティアも集められる。

 病人や住民の移動には自衛隊でも米軍でも使って、国を挙げてやれば良いのだ。本気でやれば、何万と言う住民が移動可能になり、手厚い看護と支援が得られる。それはまさに、東京に居る政治家たちの仕事なのだ。菅さんだけでなく、谷垣さんも、党の壁を越えて、日本の政治家として、国民を救うための大胆な発想と決断をしてみろと言いたい。私が総理大臣だったら、避難民の(というより被災地の国民の)速やかな大移動を決断し実行する。

 その一方で原発の収束に力を注ぎ、30キロ圏内で屋内退避させている住民たちも避難させる。まるで蛇の生殺しみたいに残酷で無慈悲な措置をいつまで続けるというのか。日々の報道を見ているだけで、怒りに震える。政治家たちが今決断すべきなのは、被災した国民の東京への大移動なのだ。馬鹿は一人が三人になっても馬鹿なのだと、亀井静香が元気に吠えているが、もう一声吠えたらどうだ。

 国民のための政治をする気もない奴が何人政治家になっても、やってることは所詮素人だと。
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大震災

2011-03-17 09:25:01 | 徒然の記

 平成23年、3月11日午後2時46分。マグニチュード9.0。800年ぶりと言われる、予想もしない大地震が発生した。

 続く大津波、福島原発の連続事故と、かって経験したことの無い事態に直面し、国会審議も、与野党の対立もかすんでしまった。テレビの災害報道に釘付けとなるばかりで、なにも手に着かない。

 壁に掛けた時計や、絵が床に落ち,棚に置いていた植木鉢が、落下して散乱し、立っていられない揺れに、船酔いのようになった。対応が遅いとか、小出しの情報だとか、政府や東電や役所への不満は、多々あるとしても、そればかり言い募るのはやめにしよう。

 そんなことより、原発の事故に対応している、東電の社員や作業者たち、あるいはヘリを飛ばして消化活動を試みている自衛隊員、さらには放水車を運転する機動隊など、みんな命がけの行為ではないか。

 誰もパニックにならず、略奪や放火などという、自暴自棄な行動にも走らず、支援への感謝を語る、被災地の人たちの冷静さと忍耐力に、敬意を表すべきでないか。神戸の大震災の時にも、同じ思いをしたが、大騒ぎしない被災地の人々を見ると、なぜか日本への誇りが、静かに心を満たし、胸に迫るものがあった。

 昨夜の天皇陛下のお言葉にも、思わず涙があふれてきた。

 家内も息子も、日頃は天皇陛下に無関心なのに、それでも涙をこぼしていた。今家族は皆、涙もろくなっている。陛下の言葉にだけでなく、家族を捜す被災者の言葉を聞いても、こみ上げるものが押さえきれない。

 原発の沈静化と、災害の復旧とを切に願う。当分は、パソコンに向かう日もなくなるだろう。

 ふたたび平穏な日常が戻るまで、わがブログよ、暫くさようなら。

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山本一太氏について

2011-03-04 12:05:15 | 徒然の記
 国会中継を見まいと思いつつ、どうしても見てしまう。スイッチを入れたら丁度山本一太氏の質問の場面だった。

 まさしく一昔前の国会風景を演じる彼に、目をそむけたくなった。テレビを意識し声を張り上げ、閣僚の答弁に不満らしく首をかしげ、その度に彼を応援する汚いヤジが野党席から飛んでくる。果たしてこれが国会の審議と呼べるものなのかと、私の方が首をかしげたくなる。氏の質問はと言えば,予算案の中身でなく,総理の答弁の断片を捉え、しつこく食い下がり、本題と無関係な些事で議論を終始させている。こんな意味のない攻撃調のやり取りでは閣僚も疲れるだろうし、みている国民だって辟易する。

 ついこの間まで同じことをやって民主党は政権を取り、今は攻撃される側にまわっているのだから山本氏だけを指摘するつもりはなく、これが今日までの日本の国会というものだったということが言いたい。自民党は通算二度目の野党を経験し、野党も二度目の政権を得た訳だから、ちょうどこの辺りが国会審議のあり方について考え直す時期なのだ。ようするに国会は、言葉尻を捉えて政府を吊るし上げる場でなく、いきり立って無闇に喧嘩をする場所でもなく、まさしく国と国民のための政策論を戦わせる場所であるいうこと。

 議員たちも、もうそろそろ国民の選良として、品位のある論戦をしてもらいたいものではないか。国民にだって品のない人間が沢山いるのだから,そうした国民が多くいる地方からは相変わらず品格のない議員が選出されるとしても、民主主義国家なのでそれはそれで致し方なしだ。少なくとも今の私は、山本氏が自分の選挙区でなかったことを幸いとする。さて、品位とは何かと言えばなかなか難しい。言葉遣いが丁寧であれば良いのかと言えば、そこは又異なる。

 鳩山さんは歴代総理の中では珍しく丁寧に誰にでも対応したが、喋る中身が日本を混乱させた。谷垣さんも礼儀正しい紳士だが、額に青筋を立て殊更強い意志を見せようとするばかりで、残念ながら党首としての中身が無い。さてそれにしても、国会中継をみていると、日本の国は素晴らしいとつくづく思い、日本に生まれて良かったと安堵させられる。共産圏の国では都合の良い場面だけが国民向けに報道されるだけだし、独裁者の国では国会すらない。

 こんな無様な国会審議を当たり前のようにNHKが全国放送しているが、いったいこのようなことを当然のこととしてやっている国が他にあるのだろうか。自民党であれ民主党であれ、議員がNHKに圧力をかけ、格好いいところだけ放映しろと圧力をかけたとも聞かない。何と云う素晴らしい議員たちであり、国であり、社会であることだろう。私は本気でそう思い、感謝している。感謝しているけれど、人間には欲があり、欲には限りが無いから、国会審議に注文をつける。

 もっともっと良い国にしてもらいたいと、議員たちに注文をつける。そして最後にはもちろん、自分自身にも注文をつける。「人の振り見て、我が振り直せ」・・・・・・。
 実を言うと私も、山本氏に劣らず、議論となると他人を責め、言葉尻を捉えて攻撃し、品位のかけらも無い人間なのだから。
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追憶その2

2011-03-01 22:31:03 | 徒然の記

 「 明るいもの、伸びやかなもの、」「陽の光を浴びて健康的なものを、」「私はひたすら求めている。」

 「この世の未来を考えるとき、暗いもの、病的なもの、陰湿なものを、私は無意識のうちに拒む。だから芸術作品についても、私の基準は、単純明快だ。醜悪さを強調し、救いの見えない世界ばかり描写する作品を、厭わしいものとして斥け、たとえ身は暗闇の底にいても、未来を信じる作者に、憧れにも近い敬意を抱く。」

 「自我に目覚めてより今日まで、この切実な憧れが消えないというのは、自分に、これらが欠乏していたということに他ならない。」

 「敗戦後の、荒廃した日本とは言え、いかにも貧しかった日々の暮らしだった。思い出の断片を染めていた、悲しみの色。少年の日の私を、がんじがらめにしていたのは、働く両親の姿だった。」

 「いつか親に楽をさせ、孝行するのだと、おそらく当時の子供たちは、程度の差はあるにしても、大抵そんなことを考えていたのだと思う。懸命に働く親を、まっすぐに見ていた子供たち、つまり真っ当な国民がいたから、日本の復興がなされたのだと、私は信じ、誇りを抱いている。」
 
 四十年前の、二十代の自分が、ノートに書き付けている言葉だ。

 現在の私は、ここまで素朴な精神を保持していないが、こんな日記の中からでも、国や国民は、私にとって抽象論でなく、親や兄弟や、友人や知人を包む、具体的なものだったことが分かる。

 自分の国を、再び荒廃させてはならず、破滅へと国民を駆り立てる熱狂には、注意すべしと考え、政治や政党についても無関心でおれなくなる。

 政治に注意を払うことは、家族を不幸にしないための、最低の予防でもある。真っ当な国民を、不幸にするような政治が、今まさに、民主党と自民党によってなされているから、やきもきする。

 自民党と民主党が、真に国民を思うのなら、予算案で、互いの知恵を出し合ってみろと言いたい。そして、二年後の選挙で、国民の審判を得れば良い。それからだって、自民党の復権は遅くないのだ。そうでなかったら、国民は、次の選挙で投票する政党を失ってしまう。

 かっての民主党みたいに、威勢の良いことばかりいう、乱立政党に投票したら、また混乱の繰り返しだ。国難の時には、対立する政党同士でも、手を伸べあって議論し、戦うときが来たらまた論争すると、そんな爽快な政治がやれないのだろうか。

 二大政党の政治が誕生すれば、政権交代も、腐敗する前に可能となり、緊張した政治が持続するはずだ。夢みたいな話だと無下に、片付けず、政治の世界にだって、明るいものや、陽の光を浴びて健康的なものが、あって良いではないか。

 たとえ身は、暗闇の底にいても、未来を信じる政治家がいても、良いのではないかと、切望する。

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