ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ジャカルタ路地裏ノート - 3 ( インドネシアと日本軍 )

2019-06-30 19:11:36 | 徒然の記
 大東亜戦争中の日本とインドネシアについて、氏は次のように述べています。
 
 「インドネシアは、昭和17年から昭和20年まで3年5ヶ月の間、日本軍によって占領された。大東亜戦争の開戦一周年となった時、日本はオランダがつけた、バタビアという名称をジャカルタへと、変更した。」
 
  「市の名前だけでなく、通り名や公園の名前など250ヶ所が、オランダ語から日本名や、インドネシア語に変えられた。」
 
 「この時代は、食料、衣料品をはじめとする生活必需品が不足し、人々は苦しい生活を強いられた。特に米は太平洋各地にいる日本軍兵士への食料として、厳しい統制下に置かれたため、生産者から強制的供出がなされ、自由な流通が禁止された。」
 
 「ジャカルタ周辺のカンポンでは、空き地で野菜や果物が栽培されていたため、農業地区とみなされ、米の配給がなかった。他の地域からの米も入らず、路上には行き倒れの者があふれ、空腹で死んだ者もいたという。」
 
 オランダの統治と比べ、日本のそれはどうだったのか。肝心なことなのに、倉沢氏は説明をしません。
 
 「インドネシアは、日本の降伏とともに独立を宣言し、スカルノを大統領としてインドネシア共和国を樹立したが、それを認めようとしない旧宗主国オランダとの間で、戦闘となった。」
 
 「戦闘は5年間続いたが、その時期ジャカルタの多くの地域が、オランダに占領され、共和国の首都はジョクジャカルタへ移っていた。」
 
 戦争についてはこれ以上語らず、独立後のカンポンついての説明が始まります。日本が敗戦となった時、多くの兵士が武器を捨て日本へ戻りますが、現地にとどまり、独立戦争に身を投じた者が沢山いたと、私は聞いています。
 
 日本とインドネシアの関係を語ろうというのなら、この話を省略してはならないのでないかと思います。
 
 記憶を頼りに別途調べましたので、紹介します。
 
 「スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、旧宗主国のオランダが再植民地化を試み、インドネシア独立戦争が勃発した。」「インドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や、作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどした。」
 
 「独立戦争の終結後インドネシアでは、多くの元日本兵が、独立戦争への功績を讃えられ叙勲されている。インドネシア残留日本兵は、記録の上では総勢で903人とされている。」
 
 『アフリカの街角から』を書いた、反日の佐野通夫氏に比べれば、倉沢氏は偏見のない学者です。しかし少しでも、戦前の日本を褒めるような話になると、省略しますから、「やはり、そうなのか。」と、失望します。
 
 戦後の外務省は米国従属の省庁となり、「東京裁判史観」を国民に浸透させる「害務省」と成り果てています。氏は慶應大学に在籍していますが、元々はインドネシア大使館に勤務する外務省の職員です。だからインドネシアから叙勲されても、旧日本軍兵士の行為は、無いものとして語らないのでしょうか。静かな怒りが、湧いてきます。
 
 もしそういうことなら、息子たちのためにも、情報を伝えなくてなりません。「日本軍は素晴らしかった」と、胸を張るためでなく、「日本にも、こういう軍人がいた。」という事実を、伝えたくなりました。
 
 「インドネシア残留の、日本兵が作った互助組織〈福祉友の会 〉 は、日本に留学する、日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本と、インドネシアの架け橋としての役割も果たした。」
 
 「元残留日本兵は、毎年行われる、インドネシアの独立式典にも呼ばれているが、死亡したり、高齢による体調の悪化などで参加者は減っていき、平成26年の式典には1人も参加できなかった。」
 
 「平成26年年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が、94歳で死去した。小野は最後の残留日本兵とされ、小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、棺にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地に埋葬された。」
 
 「日本だけが、間違った戦争をした。」「日本だけが、悪い国だった。」と、東京裁判で思い込まされましたが、日本の政府とマスコミは、こうした事実をなぜいつまでも報道しないのでしょう。著者である倉沢氏だけでなく、自分を含め、戦後の日本人の全てを、責めたくなります。
 
 それでも、氏への感謝と敬意の気持ちは失いません。氏の本を手にしなければ、インドネシアの残留兵について、知らないままだった私です。カンポンでの実体験にしても、誰もができることでありません。
 
 氏は、反日左翼の学者でなく、読者に客観的事実を語ろうとしています。古巣である外務省への遠慮からか、圧力なのか分かりませんが、「東京裁判史観」に関連しそうな叙述を避けています。戦前の日本軍に関しては、褒めもせず否定もせず、事実の叙述だけをしている所に、氏の努力を感じ取ります。
 
 ただいま、やっと50ページです。「日本探しの旅」をしている私に、氏の著作は宝の山に見えます。杖をつきながらでも、氏の世界を歩きます。
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ジャカルタ路地裏ノート - 2 ( オランダの東インド会社 )

2019-06-30 15:14:07 | 徒然の記
 現在私が、インドネシアについて知っていることと言えば、「日本はこの国に、かなりの開発援助をしている。」と、この程度です。
 
 子供たちも知らないはずですから、外務省のホームページで、政府の開発援助額を調べてみました。
 
 「 我が国はインドネシアに対する最大の援助国であり、インドネシアは、我が国政府開発援助 ( ODA ) の、最大の受取国である。」  ・・・ということが、分かりました。
 
  年度別の援助金額が表示されていますので、紹介します。
                          
                                (単位:億円)
   年 度    円 借 款       無償資金協力     技術協力
    平成24                 155                      61                        83
    平成25                 82                       11                          83
    平成26                   -                          3                     76
    平成27               1,401                      3                         68
    平成28                 739                       2                        62
   
      累計                 3,117                     80                      372              
 
  本の出版が平成13年ですから、当時はまだODAがなかった時の話でしょうか。私は氏の著作で、知らなかった日本との関係を知り、感銘さえ覚えました。学徒である私には、これが「知る喜び」です。
 
 「ジャカルタは、もともとスンダクラパと呼ばれ、ヒンズーのパジャジャラン王国の領地であったが、15世紀頃までは小さな漁村がある程度で、王国の支配もさほど強く及んでいなかった。」
 
 「この町が、世界的なレベルで重要性を帯びるようになったのは、1619年にオランダが東インド会社を作り、ここをアジアにおける、交易の中心とした時からである。」
 
 「オランダは正式に土地の割譲を受け、ここにヨーロッパ風の街づくりを始めた。その建設に際しては、長崎のオランダ商館を通じ日本からも127名の職人や、兵士たちが契約移民として到来し、建設に参加したことが、知られている。こうして建設した都市の名を、オランダはバタビアと名付けた。」
 
 こんな昔から、日本はインドネシアと関係があったのです。さらに大東亜戦争時には、オランダを追放して日本が支配しましたが、敗戦となった時、スカルノ大統領が独立を宣言した、ということになります。
 
 実は日本人の職人や兵士たちは、長崎のオランダ商館から、インドネシアへと例として売られた日本人だったという説もあります。仲介したのはキリスト教の伝道師たちでしたから、秀吉が「バテレン追放」をした原因だとも言われています。
 
 氏の説明にはありませんので、参考とするだけで今回はここで一区切りとします。
カンポンの話が後回しになりましたが、次回からは氏の叙述を辿ります。
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ジャカルタ路地裏フィールドノート (カンポンの意味 )

2019-06-29 11:44:19 | 徒然の記
 倉沢愛子氏著『ジャカルタ路地裏フィールドノート』 ( 昭和13年刊 中央公論新社 )を、読み終えました。
 
 前回は反天連の佐野氏による、アフリカからの報告でしたが、今回はインドネシアです。自称インドネシア研究者ということですが、日本には、様々な学者がいるのだと知りました。
 
 佐野氏のように偏った意見でないため、落ち着いで読めましたが、こうなると逆に、著者は何を言いたいのだろうかと最初は掴めなくなりました。
 
 しかし読後の今は、未知の国のインドネシアを、身近なものとして教えてもらいましたので、感謝しています。以前インドについて書かれた本を何冊か、読んだことがあります。恐ろしいまでの貧富の格差、生と死が隣り合わせになった日常生活など、混乱のインドでした。
 
 読後感はどこか似ていて、混乱の中にある不思議な秩序と貧富の格差が語られていました。本が出版された平成13年の日本は、どんな状況だったのか。参考のため、調べてみました。
  • ■東京ディズニーシーグランド開園
  • ■ユニバーサル・スタジオ・ジャパン開園
  • ■小泉内閣発足
  • ■愛子内親王誕生
  • ■国内で初の狂牛病発症
  • ■家電リサイクル法施行
  • ■JR東日本の新タイプ定期券 「Suica」登場
  • ■アメリカ同時多発テロ事件
  裏扉に書かれた著者の略歴も、紹介します。
 
 「昭和21年に生まれ、昭和45年東京大学教養学部卒業後、インドネシア日本大使館に、専門調査員として勤務。」「帰国後名古屋大学教授を経て、現在は、」「慶應大学経済学部教授。」
 
 この本は、氏が三年間暮らしたジャカルタの路地裏での暮らしを、綴ったものです。インドネシアでは、路地裏のことをカンポンと言うらしく、氏の詳しい説明があります。
 
 「インドネシアの都市の住居は表通りの世界と、路地裏の世界に大別される。表通りの世界では、車が通れるような道路に面して、比較的、広い間口の家が並んでいる。」
 
「それに対して、路地裏の世界 ( カンポン ) というのは、表通りの家と家との間の、わずかにあいた空間を入っていくと、その先に小さな路地が網の目のように延びていて、その路地沿いに広がる密集居住区を言う。」
 
 「家の戸を閉ざさず、家の前の路地で煮炊きをしたり、洗濯をしたりするような生活。あるいは共同の井戸を使い、炊事、洗濯をしているような生活スタイルでは、一日中、誰とも顔を合わせず過ごしてしまうような、日本の都市の団地などとは、まったく異なるのである。」
 
 氏の著書を理解するには、カンポンについて知っておくことが大切です。もう少し、氏の説明を紹介します。
 
 「それは決して、スラムと同義ではない。カンポンの住民といっても、一様でなく、下級公務員や普通のサリーマン、小学校教師など、いわゆる中流的な階層の人々も入れば、田舎から出てきたばかりで定職がなく、露天商や行商をしているその日暮らしの貧しい人々もいる。」
 
 「近代的なジャカルタ中心部を遠く離れ、インフラ整備も大きく遅れ、いわゆる開発から、取り残された世界である。こう言う住民の集落を、一般にカンポンと呼ぶ。」
 
 「カンポンはもともと田舎とか、ふるさとを意味するインドネシア語だ。田舎から出てきたお手伝いさんが、カンポンへ帰るといえば、自分の生まれ故郷へ帰ることを意味する。」
 
 「そのような村社会と同じような生活スタイルと、人間関係を持ち込んで、庶民が生活しているところ、それが都市カンポンである。」
 
 で、氏はなぜ、物好きにもカンポンへ越してきたのか。三年間も調査研究をし、本を書いたのか。理由はただ一つ、学者としての探究心です。あるいは、人間誰もが持つ野次馬根性なのかと思います。
 
 それまで氏の一家は、ジャカルタの中心部に7年間暮らしていました。周りには日本人をはじめとし、多くの外国人が住んでいる高級住宅地でした。ここに住む限り、本当のインドネシアを知ると言う、氏の願いが叶えられませんでした。
 
 一人当たりの国民所得が、日本の40分1ですから、強い円で報酬をもらう日本人駐在員は、誰もがにわか金持ちになります。インドネシアだけでなく、当時のアジア勤務者は、みんなにわか金持ちとなり、贅沢な暮らしでした。
 
 広い家、ガードマン、メイド、高級車など、私が会社勤めをしていた頃、海外勤務者は鼻息が荒かったものです。その代わり奥さん以外に女性を作り、離婚したり、結婚したり、家庭をダメにした愚か者もいました。
 
 氏は知人の紹介で、カンポンの川べりの土地を買い家を建てますが、なんと氏の家の一軒の広さは、165世帯が住む土地全体の、10%を占めていたと書いています。氏特有の明るさと人なつこさと、学者特有の厚かましさに助けられ、氏はカンポンの住民に受け入れられます。大金持ちの日本人と、内心では妬まれていたはずですが、研究目的を果たしたのですから、大した人物です。
 
 同じ報酬を払うから氏と同じ調査をして欲しいと頼まれても、自分は二の足を踏みます。それだけでも、私は氏を尊敬します。インドネシアの政治、文化、庶民の暮らしなどを日本との比較で読むと、新しい世界が広がります。今回は、前段の話に終始し、書評には至りませんでしたが、次回から頑張ります。
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アフリカの街角から - 4 ( 佐野氏は、反転連活動家 )

2019-06-26 13:25:26 | 徒然の記
 何とも言いようのない、おかしな四国大学教員佐野氏とも、今回でお別れです。
 
 ネットで氏の略歴を探していたら、反天連活動に参加していると、書いてありました。「おかしな佐野氏」の発生原因が、ここにあるのかと思いましたので、さらに調べました。
 
 「反天連とは、新左翼グループ  〈反天皇制運動連絡会 〉 の略称である。」
 
 私は〈新左翼〉という言葉も知りませんので、先にこれを調べました。
 
 「新左翼(ニューレフト)とは、第二次世界大戦後の1960年代に、欧米や日本などの先進国において、急進的な革命を志向し、主に大学生や大学院生や青年労働者から構成された、左翼的な政治運動や政治勢力のこと。」
 
 「昭和30(1955)年に、当初の暴力革命路線の放棄を表明した、日本共産党や日本社会党などに対し、より急進的な革命や暴力革命を掲げて、直接行動や実力闘争を重視した運動を展開した諸勢力が、大学生などを中心に台頭した。」
 
 「特に安保闘争や、ベトナム反戦運動などに、大きな影響を与えたが、70年安保以降は、内ゲバや爆弾闘争などのテロリズムもあり、大衆の支持を失い影響力は低下した。」
 
 マスコミは彼らを、「反代々木系」「新左翼」「過激派」などという名前で、報道しました。日本共産党は彼らを、初めは「トロツキスト」「トロツキスト暴力集団」と呼んでいましたが、昭和55年以降は、「ニセ左翼集団」または「ニセ左翼暴力集団」と呼び変えたそうです。
 
 警察はもっと簡単に、「極左集団」「極左暴力集団」などと呼んでいます。
 
 これでだいたい分かりました。新左翼とは、暴力革命を放棄した日本共産党や、日本社会党などの「既成左翼」と対比させた、呼び名でした。現在彼らは、立憲民主党や国民民主党の議員となり、国会を紛糾させる主人公となっています。左翼といい、新左翼といっても、日本を大切にする私たちから見れば、いずれも「獅子身中の虫」で、「駆除すべき害虫」であることに違いはありません。
 
 佐野氏が、どの新左翼に所属していたのか分かりませんが、どこであったとしても、「ニセ左翼集団」「ニセ左翼暴力集団」ですから、ろくな集団でありません。共産党の使っている呼び名ですから、間違い無いと思います。
 
 ここまで分かりましたので、次は「反天連」です。
 
 「反天連とは、新左翼グループ 〈反天皇制運動連絡会 〉 の略称である。」という、最初の説明に戻ります。新左翼の意味が分かりましたので、これがニセ左翼暴力集団の活動だとたちまち理解できます。
 
 「反天連は、昭和59 ( 1984 )年、昭和記念公園開園反対闘争をしていた、新左翼系評論家菅孝行が呼びかけ人となって結成された。」
 
 「昭和天皇在位60年式典や、昭和天皇大喪の礼、第125代天皇明仁即位の礼など皇室関連行事に関し、反天連はこれらの式典への反対を主張し、活動を行った。」
 
 マスコミが取り上げなかったからなのか、私が無関心だったのか、こんな以前からバカな活動をしていたとは、今になるまで知りませんでした。
 
 「中核派や、革労協などの新左翼党派も、共産主義暴力革命の一貫として、反皇室闘争は行うが、反天連は反皇室闘争そのものを主要な活動とし、皇室や靖国神社に関する様々な活動を繰り広げた。」
 
 反天連 ( 反天皇制運動連絡会 ) は、名称通り皇室だけに反対する団体です。これで氏が、本の中で、「天皇制を廃止できない、恥ずかしい僕たち、」、「元号をやめて欲しい、」とおかしなことを口走っていた理由が分かりました。
 
 この団体がいかに奇妙な組織であるか、次の情報でさらに明らかになります。
 
   「反天連は、皇室関連行事が一段落した平成3 ( 1991 )年に、発展的解散を宣言、その直後に再結集を呼びかけた。反天連はこれ以後活動期間を3年とし、3年ごとに組織の見直しを行い、解散と再結集を行う形態を採っている。」
 
 「反天連は、平成21 ( 2009 )年以降、機動隊・公安に防護され、8月15日に、靖国神社に程近い九段下交差点までデモ行進を行っている。反天連に対し、積極的に批判的立場の右翼団体や、行動する保守系の市民団体らが、そのデモ活動に対し、抗議活動を行う姿が確認されている。」
 
 解散したり再結集したり、過激派には珍しい一貫性の無さです。ニセ左翼暴力集団ですから、気まぐれ者が多いのでしょうか。次の記述には、笑わされました。
 
 「BBCの取材を受けた高齢男性メンバーは、昭和55 ( 1980 )年代には、集会に3000人ほどは集まったものの、以後、新しい加入者がほぼない〈人気のない活動 〉だと、組織の縮小傾向を認めている。」
 
 「日本では皇室支持者が圧倒的多数を占める上に、若者の新規加入者もいないため、支持者・メンバーの数は年々減少しており、BBCによると、平成31 ( 2019 ) 年4月末時点で、抗議行動に参加した、約80人の多くは、」「白髪の高齢者であった、という。」
 
 「平成21年から、機動隊・公安の約2000人に防護され、やっと行われている靖国神社へのデモを取材し、毎回、国家に守られたデモの様子を知る古谷は、〈彼らは、朽ちることが運命づけられた〉、冷戦時代の遺物だとコメントしている。」
 
 そうだとすれば、佐野氏もこのまま朽ちてくれれば、結構な話です。間違っても息子たちが、このような悪性の思想病菌に汚染されないよう祈ります。「ねこ庭」を訪問される方々についても、祈ります。
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アフリカの街角から - 3 ( 異常な韓国びいき )

2019-06-25 23:55:37 | 徒然の記
 今回も、「砂つぶ」探しをします。
 
 「隣の小学校が有名校なので、区域外から通学している子供もあり、車で登校する子もいます。」「白人の車に黒人の親子が乗せてもらったり、白人の親が運転する車に、多数の黒人の子供が同乗して来たりしています。」
 
 「植民地時代、黒人と白人の間にどのような関係があったのか、私には分かりませんが、黒人のタクシー運転手が、歩いている白人に道を尋ねても、丁寧に教えたりしています。」
 
 「ジンバブエに残った白人は、黒人とうまくやっていかなければならないと、それなりに、自覚しているのかもしれません。しかし経済的基盤は、はるかに違います。」
 
 「彼ら白人は、現代日本人と同じですが、白と黒は違うんだという言い方はしません。その代わり、教育の程度、能力というところで違うのだと、原因を忘れて、よく言うよということを言います。」
 
 何か気に入らないことがあると、その例として日本人を引き合いに出し、悪口に結びつける。こういうおかしな習慣を、隣国の韓国・北朝鮮人たちは持っていますが、佐野氏も同じことをします。言う必要もないところで日本人を持ち出し、根拠のない悪口を言います。氏の意見だけ読む人間には、日本人が、圧倒的経済力で韓国人を見下しているように聞こえてしまいます。
 
 しかし在日韓国人の中には、戦後の混乱に紛れて不法入国し、成功した人間が沢山います。ネットから探したので、その会社名の一部を転記します。
 
  ヤマダ電機      ロッテ       ロッテリア
  ソフトバンク      オリンピック    ニトリ
  ドン・キホーテ     安楽亭       とんでん
 
  モンテローザ     リーブ21                                   レオパレス21
  リクルート       エイベックス     ユーキャン
  コナミ        NEXON                                   MKタクシー
  朝日ソーラー     あおぞら銀行

 一流の焼肉店や有名なパチンコチェーン、消費者金融、風俗店など、ほとんどが在日コリアンの業界です。かっての支配者だった白人に、国民の多数を占める黒人が、依然として貧しいままに置かれているジンバブエと、どこが似ているのでしょう。
 
 佐野氏は日韓の歴史を知らないだけでなく、在日コリアンの実態も知らないようです。あるいは知っていてもその事実を無視し、貧乏な在日コリアンのことだけが、頭にあるのでしょうか。人数からいえば、貧しい日本人は、貧乏な在日コリアンより、ずっと多数ですが氏は関心がないようです。
 
 「日本の郵便局の料金シールは、01.11.94 と 94.11.04 という、二通りの日付表記があり、その違いがおかしいだけでなく、○○という天皇歴の表記は、いい加減にやめろと言いたいです。」
 
 私は氏の言う「郵便局の料金シール」を見たことがありませんが、言っている意味は分かります。西暦と元号のうち、元号を止めろと文句をつけています。反日・左翼か在日コリアンでなければ、このような愚かなことを言いません。
 
 「もっとも日本人は、国内では黒人を殴りつけないでいるけれど、( その代わり、アジア人は、具体的に殴りつけていますが、外では黒人を殴りつけている存在だと言うことを、意識していなければならないと思います。」
 
 この112ページの「砂つぶ」は、説明不足なのか、氏の頭が混乱しているのか。私には理解できない叙述です。四国大学の教員という氏の経歴を考えますと、この大学の酷さが想像できます。こういう人物が受け入れられて大学は、こんな考えをする人間がたくさんいるということになります。恐るべき反日大学です。
 
 「三月です。」「三月というと、ソウルにいた頃下宿のおじさんが、韓国では、3月になると春が来ると言っていたことが、思い出されます。」
 
 このように、素直な叙述もあります。この文章からすると、氏はソウルの大学に通い、下宿していた経験があるのでしょうか。好人物だったけれど下宿のおじさんが反日の韓国人だったため、日本への恨みつらみを聞かされ、洗脳されたのでしょうか。
 
 「英語には、hospitalityと言う言葉がありますが、ジンバブエ人の歓待ぶりを見ていると、日本語には、それにぴったりと来る言葉がない。」
 
 「日本人は、hospitalityのない人間だとつくづく思います。朝鮮語では、チンジョル( やはり日本語の親切とは違う かなと思います。」
 
 人それぞれの経験ですから、なんとも言えませんが、韓国での暮らしは、氏を魅了したのだということが分かります。
 
 「大使館勤務者の送別会が、同じく勤務者の家でありました。僕も参加しました。どの家も、ジンバブエの白人以上の暮らしで、広い家に当然守衛もいるし、メイドもいるし、という暮らしぶりです。」
 
 「外務省以外の省庁から来ている人は、ここにいる間にしかできない暮らしと、言っていました。商社の若い人も、ベンツを乗り回しています。」
 
 「この時商社の人と、僕より年配の外務省職員が北鮮と言う言葉を使っていたので、びっくりしました。商社の若い人は、社内で使われるているから使うのでしょうが、本来共和国と真っ先に向かい会うはずの外務省の職場で、こんな用語が用いられていると言うのでは、日本の共和国政策もどうしようもありません。」
 
 138ページで目にした「砂つぶ」でしたが、氏は韓国・北朝鮮のこととなると、とても真剣になります。どんな経験をしたら、これほど隣国を愛せるようになるのか。反対に言えば、どんな経験が、氏をここまで反日にさせたのか。その方にずっと興味を抱かされますが、本の中に答えはありません。
 
 本日は、不快な「砂つぶ」探しで終始しましたが、もう十分という気になりました。次回は氏が関係している「反天連」について述べ、書評を終わりたいと思います。
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アフリカの街角から - 2 ( ジンバブエ共和国 )

2019-06-25 17:18:00 | 徒然の記
 書評に入る前に、ジンバブエという国について、もう少し予備知識を得たいと思います。
 
 〈 ジンバブエ共和国  〉
 
 「通称ジンバブエは、アフリカ大陸の南部に位置する共和制の国家である。首都はハラレ。内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。2003 ( 平成15 ) 年に脱退するまで、イギリス連邦の加盟国だった。」
 
「初代首相、2代目大統領を務めたロバート・ムガベは、1980 ( 昭和55 ) 年のジンバブエ共和国成立以来、37年の長期に渡って権力の座につき、その強権的な政治手法が指摘されてきたが、2017 ( 平成29 ) 年11月の国防軍によるクーデターで失脚した。」
 
「国名はショナ語で「石の館(家)」を意味し、ジンバブエ国内にある、グレート・ジンバブエ遺跡に由来する。かつては南ローデシアと呼ばれていた。」「1980 ( 昭和55 ) 年、イギリスの植民地から独立した。」
 
  1 面積
   38.6万平方キロメートル(日本よりやや大きい)
  2 人口
   1,560万人(2015年 世銀)
  3 首都
   ハラレ
  4 民族
   ショナ族,ンデベレ族,白人 ( ショナ族8割 ンデベレ族2割 白人少々 )
  5 言語
   英語,ショナ語,ンデベレ語
  6 宗教
   キリスト教,土着の伝統宗教
 
  7 主要貿易相手国(2015年:EIU)
   (1)輸出 中国(19.1%),コンゴ民主共和国(9.7%),ボツワナ(8.6%)
   (2)輸入 南アフリカ(47.8%),中国(12.0%),ザンビア(4.5%)
 
 ジンバブエのことが、これで少し分かりますので、氏の著書に戻り、料理の中に混じる砂粒のような文章を拾い出していきます。14ページ、日本から飛行機で、ジンバブエに行くところから、始まります。
 
 「全日空機では、ロンドン・ヒースロー空港での搭乗案内が、日本語でしかなされませんでした。これはひどい。」「これまでも日韓路線の日本航空機で、日本語と英語のアナウンスしかなく、また機内誌が日本国内線向けのもので、韓国を相変わらず植民地視しているのかと、怒りが湧いたことがあります。韓国の航空会社では、当然、朝鮮語、英語、日本語を使います。」
 
 これが最初にぶつかつた「砂つぶ」でした。何をそこまでいきり立つのかと、意外感に打たれましたが、「当然、朝鮮語、英語、日本語を使います。」という文の、言葉の順番に違和感を覚えました。日本人なら、「日本語、英語、朝鮮語」という順序で、無意識に並べるはずです。次の砂つぶは、16ページでした。
 
 「ウエストミンスター寺院等には、イギリス王室の歴史が詰まっていました。」「それらを見ていて感じたことは、天皇制を廃止できない僕たち日本人が言うのも、恥ずかしいのですが、イギリス人は、野蛮人だと言うことです。」
 
「侵略の歴史、征服の歴史、支配の歴史をたいそうに飾り立て、ケンジントン宮殿では、なんと寝室まで公開してありましたけど・・・」
 
 天皇制を廃止できない僕たちとは、何者なのか。そんなことを恥ずかしがる日本人とは何者なのだろうと、不思議になりました。次の砂つぶは32ページで、乗り継ぎをしたヨハネスブルグ空港での話です。
 
 「商品や掲示物には、英語とアフリカーンス語の二言語が併記されています。」「二言語併記は、カナダ語とフランス語で経験していましたが、ここは一方が差別者の言語、アフリカーンス語だと思うとあまり良い気持がしません。」「言語は、決してニュートラルなものではありません。日本人が朝鮮語を見て丸や棒の変な言葉だと言うように、そこにはイデオロギーが、込められています。」
 
 意味が理解できませんが、二言語併記の場合には欧米語に限定し、アフリカの言語は使うなと言っているのでしょうか。見慣れない文字だと、変な言語と見られるから、止めなさいと言っているのか。私はハングル文字を見て、丸や棒の文字だと思いますが、見慣れないと思うだけで何のイデオロギーも感じません。何でそんなにこだわるのでしょう。
 
 次に砂つぶを噛んだのが、52ページでした。本題でなく、滞在記の一部として書かれているため、多くのことが省略されていますので、いっそうすっきりしない文章です。
 
 「独立前のジンバブエの教育を、見れば見るほど、植民地朝鮮の教育との共通性を感じます。独立後も、教授用語は英語です。」
 
「一つの国家の中に複数の言語が存在するため、共通語として、宗主国の言語が残ると言う便宜性も、否定できないのですが、わざわざ英語を使って白人に奉仕し、それでバカにされていたらしょうもない。」「僕から見たら、文化の植民地性なのだけど、まだまだ分からない問題です。」
 
 ジンバブエと朝鮮教育のどこに、氏は共通性を見出したのでしょうか。朝鮮は、多言語国家でありませんし、独立後の朝鮮で、日本語が共通語となることもなかったはずです。
 
 「わざわざ日本語を使って日本人に奉仕し、それでバカにされていたらしょうもない。」と、そう読み変えたいのかと考えましたが、論理のつながりがありません。188ページの本から、砂つぶを拾い出すのは楽しくありませんが、止める気になれません。
 
 日本には、独特の理屈で反日の思考を展開する、奇妙な人間が沢山います。完全に非常識と分かっていれば、誰も相手にしませんから、そんな人間は社会に無害です。普通人の顔をし普通人のように振舞いながら、心に邪悪な思考を抱いている人間が、有害なのです。
 
 息子や孫たちが、こう言う人間に騙されないように、次回も〈砂つぶ探し〉続けます。訪問される方々には、退屈な叙述ばかりでしょうから、どうぞスルーしてください。
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アフリカの街角から ( ?? 四国大学 )

2019-06-24 17:52:57 | 徒然の記
 佐野通夫氏著『アフリカの街角から』( 昭和10年刊 社会評論社 ) を、読み終えました。
 
 著者の略歴が裏扉にありますが、「昭和29年生まれ」「四国大学教員」、と書かれているだけです。私より10才年下と分かりますが、もう少し詳しく知りたいので、「四国大学」を検索してみました。
 
 「四国大学は、〈全人的自立〉 を建学の精神としている総合大学。」「先進的地域貢献型大学を目指し、社会人基礎力や自己教育力などの体得を目標としている。」「四国大学スタンダードを基盤として、教育・研究を行なっている。」
 
 「官民留学支援制度 〈トビタテ!留学JAPAN 〉の派遣学生比率で、」「2016年には全国の私立大学で第1位となっており、地方の私立大学ながらも、グローバル教育・グローバル人材の育成にも力を入れている。」
 
 今の日本でグローバルと言えば、国を否定する、反日・左翼と同じ仲間になりますから、これではなおさら要領を得ません。初めて耳にする「官民留学支援制度・トビタテ!留学JAPAN」について、調べてみました。
 
 「文部科学省の独立行政法人日本学生支援機構、及び民間企業との協働で生まれた、新たな海外留学支援制度を、〈 官民協働海外留学支援制度~トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラム~ 〉 と呼ぶ。」
 
 「海外での異文化体験や実践を焦点にした留学を推奨することにより、学生時代より多様な経験と、自ら考えて行動できるような体験の機会を提供する。」「本制度は、我が国の大学、大学院、短期大学、高等専門学校、専修学校(専門課程)に在籍する日本人学生等に対し、政府の日本再興戦略と、産業界からの意向を踏まえ、実践的な学びを焦点に、自然科学系分野、複合・融合分野における留学や、新興国への留学、諸外国のトップレベルの大学等への留学、将来、日本の各地域で活躍することを希望し、留学する学生を支援する。」
 
 「また、学生の海外留学を促進するという観点から、各領域でリーダーシップを発揮する、多様な人材を支援し、海外留学の機運を高めることを、目的とする。」
 
 氏は著名人でないらしく、まとまった経歴がありませんでした。本そのものにも、これと言う特色はなく、アフリカのジンバブエ大学で、著者が一年間、教職にいた時の感想を綴ったものです。
 
 歴史の知識のない著者が、小田実氏の「なんでもみてやろう」スタイルで、首都ハラレでの暮らしを語ります。大学の給料、物価、アパート代、学費、食費などが、日本との比較で、細かに説明されます。
 
 ジンバブエは、もともとイギリスの植民地ですが、独立後は白人と共存している国です。黒人である国民の多数は、電気もガスも水道もない、という暮らしをしている一方で、少数の白人が圧倒的富を所有していると言う、いびつな国でもあります。
 
 氏に歴史の知識があり、いろいろな考察があれば、興味深い本になったと思いますが、私が若かった頃のように薄っぺらな感想を述べているにすぎません。最初は書評をする気にならなかったのですが、私の心を離れない、氏の特質がありました。
 
 「一体、どういう育ち方をしたら、氏のような思考になるのだろう。」・・そんな疑問が、最後までついて回りました。思いつくまま列挙しますと、次のようなものです。
 
  1.  韓国と北朝鮮に強い思い入れを抱いている。
  2.  戦前の日本が、植民地としてひどい統治をしたと、信じている。
  3.  天皇制を否定し、憎んでいる。どうやら、反天連の活動に参加しているらしい。
 
 私が嫌悪する反日・左翼学者のように、全面的に自己主張せず、ジンバブエ滞在記の叙述の中に、時々こうした意見が混じります。食事をている最中に、砂つぶを噛んだ時のような不快感が、いつまでも消えない・・と、そんな感じでした。
 
 「四国大学教員」という肩書きは、何を意味しているのでしょう。教授でなく、教員と言うのですから、臨時的立場にいる教職員なのでしょうか。文部省が計画する「海外留学支援制度」を、大いに活用している四国大学で、氏のような人物が生徒に接触しているとなりますと、無関心でおれなくなります。
 
 戦後は文科省も、反日・左翼の学者に乗っ取られていますから、こんなひどい事実が、野放しなのかもしれません。先日までマスコミを賑わせていた、前川喜平氏の顔が、浮かんできました。氏は左翼思想に汚染された次官で、「面従腹背」を座右の銘とする、典型的亡国の官僚でした。「モリ・カケ問題」で、あれだけ虚偽を述べ、国政を混乱させたのに、反日マスコミと野党議員に守られ責任は不問のままです。
 
 ここまで来ますと、不本意でも書評にかからねばなりません。息子たちに伝えたいのは、反日・左翼思想による汚染は、考えている以上に日本を蝕んでいたのではないか、と言う事実です。
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これでは、自民党が、反日野党に勝てるはずがない

2019-06-24 00:49:55 | 徒然の記
 四、五日前のことになりますが、機会を得て、自民党の支部総会に、顔だけ出せることになりました。場所は、5、60人で一杯になる、小さな会場でした。周りは知らない顔ばかりですし、初めてなので、少し緊張し、静かに座っておりました、

 もともと私は、自民党を支持していますし、後ろめたいことをしている訳でありませんから、ゆったりしていて良かったのですが、そうはいきませんでした。どんな人々が、どんなことを話し、何をするのだろうと、期待と好奇心がありました。

 配布されていた資料に、総会次第があり、これに沿い議事が進められ、一時間半で終わりました。差し障りがあるかもしれませんので、個人名を省略し、転記します。

   開会の辞   女性部長
   支部長挨拶  支部長
   来賓紹介   総務会長
   議長指名   支部長指名

   議案 1     (1)    平成30年度活動報告   幹事長
                 (2)    平成30年度会計報告   会計担当
                       (3)    平成30年度会計監査報告 会計監査

            議案2   (1)      2019年度活動方針案   幹事長  
                 (2)     2019年度予算案     会計担当
 
            議案 3     (1)     役員改選         幹事長
             
           閉会の辞                広報部長

 来賓は、衆議院議員1名、参議院議員1名、代理出席・参議院議員秘書2名、市長、県会議員、市会議員で、胸に赤いバラのリボンをつけ、演壇横の長椅子に、腰掛けていました。挨拶をしたのは、衆議院議員1名、参議院議員1名、市長と県会議員1名でした。

   興味があったのは、「平成30年度活動報告」と「2019年度活動方針案」でしたから、司会者席でマイクを握る、幹事長の説明を真剣に聴きました。年配の幹事長は、印刷された「式次第」の文章を、時々読み間違いしながら、棒読みでした。大事なことなので、個人名を割愛しつつ、転記します。

「 平成30年度活動報告 」
 1.  9月20日の自民党総裁選挙で、安倍総裁が三選された。
 2. 恒例の支部研修会は、議員会館にて、菅官房長官、柴山文科大臣、小泉進次郎代議士、〇〇代議士を招き、講義いただき、その後都内各所を見学。
 3. 支部定例役員会を、毎月第2曜日に開催し、関係する諸問題につき会議した。
 4 支部の主な活動報告は、次ページに記載。

    「次ページ記載の、主な活動報告」

  3月 ・ 総理大臣官邸  〇〇代議士案内による見学会
      ・ 県連支部長、幹事長会議 〇〇ホテル
  4月 ・ 県連定期大会 10名参加 〇〇ホテル
      ・ 千葉自民党女性局主催「春の研修会」 9名参加 講師野田聖子先生

 この調子で、5月、6月、7月、9月、11月、12月と、具体的な活動報告がされました。読まれた議案ごとに、議長が異議の有無を、会場に確認し、拍手多数で承認となりました。

 「これでは、自民党が、反日野党に勝てるはずがない。」
 
 総会が終わり、会場を後にしながら、私は本気でそう思いました。少なくとも、反日野党は、自民党対し激しい闘志を燃やしています。彼らの合言葉は、「愛国無罪」でなく、「反日無罪」ですから、気合が入っています。

 自民党の支部総会に、たった一度顔を出したくらいで、皆の苦労が分かるのかと、怒られるのかもしれませんが、私のような自民党支持者の目には、落胆と失望の総会でした。年に一度の総会だというのに、出席者に発言の機会がなく、対話の場面も作られていませんでした。会社勤めをしていた時の、「株主総会」に似て、事務方の役員は、「何事もなく、議事を時間内に終了させること」に、終始していました。

 いくら地方の組織とはいえ、中国や韓国との険しい対立問題、国の安全保障や憲法問題、あるいはまた、反対しかしない、敵対野党への対応とか、そのようなことが、何かしら議題になるのかと思っていましたが、何もありませんでした。危機意識のない、仲間内だけの会話がなされ、党外への働きかけや、地道な日常活動への提案もなし、でした。

 活動報告の内容を聞いても、地元選出議員の世話で、国会議事堂や、官邸の見学をするとか、都内見学をするとか、そんなものがメインですから、情けなくなりました。私の町内では、共産党や、野党系の市民団体が、人権とか平和とか、市政への注文とか、常に何かしらの活動をし、個人の家のポストにチラシを投函しています。

 私のような人間が、サイレント・マジョリティーとして、自民党を支援しているから、安定多数を得ていることも忘れているのでしょう。このような危機感のなさで、明日の日本が守れるのでしょうか。

 国の自主・独立を回復するためには、「憲法改正」と「皇室の崩壊阻止」が、喫緊の国政の課題です。自民党は、本気にならなければ、反日・野党にやられてしまいます。

 私が知るネットの情報では、千葉だけでなく、数に奢り、危機感をなくしているのは、全国の自民党組織です。特に顕著なのが、沖縄、北海道、大阪の自民党で、保守の大義を忘れ、政争に埋没し、共産党や反日・野党と共闘するというのですから、恐ろしい話です。

 何かが間違っています。
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戦争と正義 - 8 ( マイク・ウォレス氏の論文 )

2019-06-22 13:24:08 | 徒然の記
 執筆した8人の学者のうち、2人の論文を、紹介しました。今回は、マイク・ウォレス氏の論文です。
 
 執筆者たちはアメリカの苦悩について、多方面から考察し、客観的に述べていますが、日本に関しては冷静というより、冷酷な見方をしています。
 
 その中でウオレス氏が、一番過激な意見を持っていますからて紹介しようと思います。朝日新聞が「慰安婦問題」の虚偽報道を間違いと認め、社長が辞任したのが平成26年でした。この本が出版されたのはその16年前ですから、致し方なしとは思いますが、氏は朝日新聞へ捏造情報を提供した、吉見義明氏を称賛するという間違いをしています。
 
 極端な学者の主張もアメリカの意見の一つですから、いわばこれが、私のブログでの「両論併記」です。
 
 「アメリカ人は、当然のことながら、」「ファシスト国家の犯罪行為を進んで謝罪したドイツとは、たいへん対照的に、」「日本の閣僚、教育者、学芸員が、何十年も、自国の侵略の記録を軽視したり、否定してきたことに対して、憤慨してきた。」
 
 「広島平和記念資料館は、まるで原爆が落ちた日に、戦争が始まったかのようにみせ、」「広島市や国が、単なる殉教者か、被害者であるかのように見せている。」
 
 「このため、広島から展示物を借りることになっていた、スミソニアン博物館は、」「貸し手の政治的意図も引き取ってしまったと、批判者たちに、非難されることになってしまった。」
 
 ドイツが謝罪したのはユダヤ人の虐殺についてで、「戦争」に対してではありません。民族浄化という犯罪ですから、ドイツはこれを謝罪しています。日本は、そのようなことをしていませんから、ドイツと並べて論じるのは不適切です。
 
 ウォレス氏がそれをいうのなら、先住民であったインディアンを虐殺したアメリカは、一度でも彼らに謝罪しているのでしょうか。氏の意見は、独善的アメリカ人の典型的な理屈です。
 
 「だがそうした日本の、政治的状況は変わり始めていた。」「日本国内の批判者、とりわけ社会主義者や平和主義者たちの圧力を受けて、」「戦争を始めたことや、残虐行為を犯したことの、責任を取る方向に向かい、」「意義深い道を、辿り始めていた。」
 
 「吉見義明教授のような歴史学者は、韓国人慰安婦が、強制的に帝国軍隊に奉仕させられたことを、」「反駁の余地なく証明することによって、政府に責任の否認を取り消すように促した。」
 
 ウォレス氏のような学者がアメリカにいたので、反日左翼の吉見氏が評価されたのだと、この本を読んで理解しました。当時朝日新聞は、一面のトップ記事で吉見氏の意見を載せ、政府を糾弾していました。しかし慰安婦の強制連行に、軍が関与した証拠書類だと氏が発表したものは、軍の関与を否定する書類でした。
 
 「良からぬ業者が横行し、人身売買が行われているから、注意せよ。」という、軍の司令書だったのです。
 
 ウォレス氏の意見を聞いていますと、むしろ別の推測が生まれてきます。反日左翼学者と朝日新聞の連携、これを支持するウォレス氏のような米国人学者グループ、さらには共同歩調を取る中国と韓国の活動家、それを支援する中国と韓国の政府・・・・
 
 「優れた知識人や政治家(この中には、社会主義者の総理大臣村山富市も含まれる )は、日本が侵略したアジアの国々に対する、国会の謝罪を要求した。」
 
 「保守的な党派や官僚、企業の経営者という連合軍の激しい反対にあったが、1994 ( 平成6 ) 年の世論調査では、」「日本人の5人に4人が、自分たちの国は占領した国々の国民に、適切な償いをしていないと思っていることが、分かった。」
 
 「村山談話」のことを言っているのだと思いますが。村山氏が、優れた政治家であったと思っている者が、日本に何人いるのでしょう。平成6年は村山政権の時ですが、その時にこのような世論調査があったのか記憶にありません。
 
 息子たちに言います。日本で疑問に思われている話を、事実であるようにウオレス氏がアメリカで語っています。
 
 「それだけに、スミソニアンの展覧会の中止は、とりわけ皮肉なものと言える。」「アメリカ人は、右派の圧力を受けて、過去を思い出すことを、拒否しており、」「日本人は左派の圧力を受けて、過去に面と向かい始めていたのだ。」
 
 「今の日本は、手ごわい競争相手かもしれないが、」「資本主義側の競争相手であり、おまけに同盟国である。」
 
 「以前、アメリカ国内の知識人に対しアカ狩りをしたように、黄色狩りをすることは、それほどやさしくはないだろう。」
 
 日本の反日左翼との共同作業とは言え、ここまで言われると不愉快になります。最後の言葉は白人優位意識からくる、人種差別です。島田氏は、ウォレス氏の論文を主として、「あとがき」を書いたのでしょうが、8人の学者の中で最も反日的、人種差別的意見を重要視したのですから、呆れるしかない日本人です。
 
 安倍総理が「歴史修正主義者」と呼ばれ、米国のマスコミに叩かれた背景についても分かりました。愉快でありませんでしたが、一つの収穫は、毎年行われる広島と長崎の平和記念式典について、認識が少し改められたことです。アメリカの世論がここまで対立し、真剣であるのなら、「原爆の悲劇を繰り返すな」という女子学生たちの訴えも、心あるアメリカ人には届いているということになります。
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戦争と正義 - 7 ( 両論併記の論文を翻訳しながら、偏見の説明 )

2019-06-21 12:38:00 | 徒然の記
 本日は、エドワード・リネンソール氏の論文を紹介します。
 
 「エノラ・ゲイとその任務に対する、懐疑的見方は、」「政府に不満を持つ、ベトナム世代や、左翼の歴史学者、または、政治的公正主義の所産だと言われているが、」「その起源は、半世紀前にある。」
 
 「1945 ( 昭和20 ) 年の春から夏にかけて、アメリカの報道機関は、」「日本の無条件降伏以外の方法について、活発に議論していた。」
 
 「原爆製造のマンハッタン計画に関与していた、科学者の間には、」「原爆使用の決断が、賢明かどうかにつき、大きな意見の相違があった。」
 
 「戦争終結後には、プロテスタントやカトリックの、多くの著名なスポークスマンから、」「原爆投下に対して、激しい批判があった。」
 
 昭和20年と言えば、日本でマッカーサーの統治が始まった時ですから、米国の動きが伝えられるはずがありません。どこかの時点で、日本のマスコミは知ったはずなのに、「日本だけが悪い。」「日本だけが間違っていた。」と記事を書き続けていました。
 
 「影響力を持つ保守派もまた、原爆投下の決断を批判した。」「タイムの創刊者ヘンリー・ルースは、1948 ( 昭和23 ) 年に、」「次のように書いた。」
 
 「無条件降伏という政策でなく、最初からアメリカの条件を明示していても、」「間違いなく、日本との戦争は現実より遅れることなく、終結しただろう。」「クリスチャンの良心を、ひどくかき乱した原爆投下が、なくてもだ。」
 
 ニューヨークタイムズや、ユナイテッド・ステイツ・ニュースの編集者たち、その他何人もの保守派のジャーナリストたちが、同様の批判を口にしていると、氏が語ります。
 
 その例の一つとして、1958 ( 昭和33 ) 年にナショナル・レビュー紙に寄稿された、ハリー・バーンズ氏の意見を紹介しています。
 
 「広島と長崎で焼き殺された、数万の日本人は、」「戦争終結のため、あるいはアメリカ人や、日本人の救命のため、犠牲とされたわけでなく、」「アメリカの、対ソ外交を強化するための犠牲とされたのだ。」
 
 昭和33年にこのような意見が、アメリカの新聞で公にされていたという事実を、私たちはなんと受け止めれば良いのでしょう。
 
 私はまず、アメリカに抱いていた偏見を修正します。アメリカのマスコミは国民のため、両論併記をしていました。これをしないのは、日本の反日左翼朝日新聞だったのです。息子たちに言います。朝日新聞の反日ぶりと、翻訳者島田氏の曲がった心根を思い出してください。
 
 「これは単に、アメリカだけの問題ではない。」「過去の所業を直視しないという点では、」「侵略したアジア諸国へ、ろくに謝罪もせず、」「南京大虐殺や、慰安婦問題を糊塗しようとする政治家を、」「選び出す、日本の問題でもある。」「エノラ・ゲイ展をめぐる論争は、過去に対して、」「道義的責任を追わない国は、その存立基盤を危うくするという、」「大変重要なことを、教えてくれるだろう。」
 
 二つの論文を読んで、日本人の中で氏のような読後感を得る者が何人いるのでしょう。反日朝日に感謝する彼は、朝日に媚び、国民に嘘の説明をしています。次のリネンソール氏の論文も両論併記だ、という事実を紹介します。文章をやめて、項目で列挙します。
 
 〈 1.  1970 ( 昭和45 ) 年 〉
      ・バリー・ゴールドウォーター上院議員・・「日本に原爆を投下した飛行機が、スミソニアンの展示物の一つになるとは、考えたくない。」
        ・フランク・トンプソン下院議員・・「私は国として、原子爆弾の使用を、誇りにしようと思わない。」「博物館に展示されるのを見れば、私の心は傷つくだろう。」
 
 〈 2.  1980 ( 昭和55 ) 年 〉 
   ・元B29乗員だった退役軍人の数人・・「博物館は、エノラ・ゲイを修復して陳列せよ。」
 
 〈 3  1981 ( 昭和56 ) 年 〉 
  ・会計検査員トーマス・ファーガソン・・ 「エノラ・ゲイを、34年間も格納していることは、自由の女神像や、最初に月面着陸した宇宙船をしまい込んでいるようなものだ。」「スミソニアンは、アメリカの最も重要な遺産を死蔵している。」
 
 こうした叙述の中から、島田氏はどのようにして、あの反日の意見を引き出したのでしょうか。
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