ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

中国・強硬派の世界観

2012-12-28 17:35:38 | 徒然の記

 閻学通氏のインタビュー記事を、朝日新聞で読んだ。精華大学、当代国際関係研究院院長という肩書きだ。

 この地位がどの程度ものか知らないが、全面記事に近い扱いなので、中国では大した人物なのだろうと推察する。

 こういう人物が中国の主流というのなら、近隣諸国に好感を持たれる大国になれるはずがないと、読む程に不愉快になった。これから中国は、軍事、経済、文化にわたる全ての面で米国を抜き、世界一になる。中国より弱い日本は、早くこの状況を理解し、中国を競争相手と見ることを止めなくてならないなどと、鼻持ちならない論調で終始する。

 インタビューをした朝日の加藤編集員は、この高慢ちきな人物を、ひたすら賞賛するのだから呆れてしまう。中国の古代思想を、現代中国のパワーに結びつけようとする懐の深さがあるとか、大国意識の底の深さを感じさせるとか、どこからそんな主張が生まれるのか、愚かしい記事だ。

 先日読んだ朝日のコラムでは、別の記者が愛国心について書いていた。

 「自分の国を愛するのは自然なことであるが、隣の中国は嫌いだと言うのでは、排他的愛国心であり、そんなものは愛国心ではない。」そういう意味だったと記憶するが、今回のインタビュー記事同様、不快な印象を私に与えた。

 朝日新聞の記者は、中国と日本の記事を書く場合、いつも中国に寄り添った論調で語り、自分の国は、そこいらの石ころみたいな扱いをする。何が彼らをそうさせるのか、理解に苦しむが、最近は、いつも朝日新聞の購読中止を考える。

 愛国心についていえば、自分が自分の国を愛するように、他国の人間も自国を愛するのだ、という認識から出発する。自分を大切にする個人主義が、他人も同様に自分を大切している、と言う認識から出発するのと同じことで、自分だけを愛するというのなら、それは個人主義でなく、利己主義という。自分の国だけ偏愛することを、愛国心と言わないことくらい、中・高校生にだって分かっている、イロハでないか。

 それなのに、わざわざ朝日の記者は、中国を嫌悪する日本人に警告を発する。嫌悪するには、するだけの理由があるというのに、記者たちはどれだけ自分の国の人間を低くみているというのか。それとも朝日新聞には、日本人の記者がおらず、どこか別の国の人間が、記事を書いているのだろうかと。したくなくても邪推してしまう。

 私は朝日新聞のように、石原慎太郎氏のすべて否定しないが、彼が「支那、支那」という非礼さには、不快を感じている。同じように、石原莞爾氏が、欧米人を「毛唐,毛唐」と言ったことにも、不快感を感じている。

 こういうものはみんな、偏向した「愛国心」のなせる技で、世のためにはならないものだ。ここでわざわざ言わなくとも、たいていの日本人は、なるべく周辺に波風を立てず、穏やかに生きようと、中庸を好み和を好む。聖徳太子の時代以来、私たち日本人のDNAみたいになっている、心情なのだ。

 暮れの押し詰まった今になり、こんな記事を読むことの不愉快さ。朝日新聞を手にし、私のように幻滅している人がいるのなら、その人物に会いたい気がする。そして問うてみたい。「なんで貴方は、そんなにしてまで朝日を読むのですか。」と。

 自分の気持ちについては、今日はもう、とてもそんな時間がないから書かない。来年の課題にすることにし、むしゃくしゃしながら終わろう。

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憲法改正について

2012-12-23 19:08:44 | 徒然の記

 広い世間には、生まれ故郷を嫌悪し家族を煩わしがり、人間嫌いで一生を終える変人も、確かに存在する。

 しかし大多数の人は、ふる里に愛着を持ち家族を大事にして生きている。そしてふる里と同じように、生まれ育った国をないがしろにしないのが普通の人間だと、私の思考はここから出発する。

 幕末の志士のように、迸る愛国心や燃えるような祖国愛など、そんな激しいものでなく、世界の何処の国の人間もが持っている国への思いで、それが愛国心でないかと考えている。

 普段は意識の底に眠っていても、外国へ旅行をした時や、世界で活躍する日本のスポーツ選手を見た時、あるいは世界的な話題となる日本人を、ニュースで知った時などに突然湧いてくる強い思い。それは愛国心としか言いようのない、不思議な心の高揚だ。

 自分の国が蔑まれたり憎まれたり、謂れのない攻撃をされたりすると無意識のうちに怒りが生まれてくる。これもまた普通の話で、世界の誰もが自分の国に抱いている気持ちだ。この気持ちを持つ人間を、右翼的。軍国主義的という言葉で切り捨てようとするところに、私は反発せずにおれない。

 戦争は知らないが、私には、マッカーサー統治の記憶がかすかにある。軍歌を聞いていたら捕まえられると大人に脅され、レコード盤をそっと隠した思い出がある。中学、高校と進むと、日本を激しく批判する教師を見た時の驚きが、今も心に残っている。

 教師はまるで、大道商人が品物の叩き売りするように、決まり文句を、立て板に水と熱弁した。天皇崇拝による誤った全体主義、横暴な軍国主義、他国への侵略、残虐な戦争と、彼らは語った。欧米が同じことをしていた時代だったのに、どうして日本だけがそんなに言われるのだろうと、私には疑問だった。

 これほどおおっぴらに、歴史を否定する授業が行われている国が、日本以外に世界にあるのか、と政治家でもないのに疑問を抱いた。


 愛国心を否定し、反省と懺悔を強要したのは、第二次世界大戦の戦勝国だ。もっと言えば、アメリカだった。日本が二度と戦争をしないようにと、マッカーサーが日本を変革し、重要政策の一つが憲法の制定だった。

 米国による押しつけだったとしても、憲法の平和主義、民主主義、主権在民の理念が、日本人に希望を与えたのは事実だったと思う。

 憲法が果たした今日まで役割や、意義を否定しているのではない。敗戦の厳しい現実と憲法が、有頂天になっていた日本人を自問自答させたのだから、歴史的な役割があったと思っている。

 しかし時が流れ、あらゆる状況は変動する。現行憲法のままでは、日本人の心の問題が解決されない事実が出てきた。戦後70余年が経過したのだから、アメリカにもらった憲法を見直し、自分たちに相応しい憲法を作るべきと私は考える。

 反日と憎悪の歴史観を離れ、日本を世界史の中で眺めらる国にしなければならない。私のどこが右翼と言われるのか。それを言う安倍総裁が、なぜ右傾政治家と言われるのか。マスコミや、学識経験者と呼ばれる人びとに問いたいものだ。

 「赤信号、皆で渡れば怖くない。」

 日本人は素晴らしいと思う反面、一方ではこの標語にあるように、軽薄で短慮な傾向もある。左翼の人びとは軽薄なおのれを含め、「憲法改正」を警戒しているのだろうが、それもまた矛盾だ。

 彼らは政府を、米帝国主義の手先と攻撃しているが、アメリカに逆らってでも、自主憲法を作ろうとする自民党は反米的でないのか。日本人の心を駄目にしている憲法を、押し頂いている左翼政党の方こそ、アメリカにべったりではないのか。

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日本の主人公 ( 主権在民と官僚組織 )

2012-12-21 12:21:08 | 徒然の記
   表現が適切かどうか、国の「主人公」は国民である。
 
 主権在民をそのまま解釈すれば、こうなる。だから選挙で議員諸氏が、できもしない公約を国民である我々に訴え、ひどい候補者は土下座までして票を哀願する。
 
 今回の衆議院選挙でも、結果は「国民の意思」、「民意」と呼ばれ、内閣の命運を決した。民主党への決別を宣言し、自民党を復権させた主人公は確かに「国民」だが、ここで浮かれてはいけない。わが日本国に、もう一つの「主人公」が、厳然として存在する事実を忘れてはならない。
 
 明治以来、150余年にわたり構築されてきた世界に冠たる制度、つまり官僚組織だ。私も単細胞な人間だが、官僚組織ついては、民主党の議員たちほど簡単に考えていない。意気込んだ民主党の議員たちは官僚を敵視し、政権から排除しようと身構えたができない相談だった。
 
 「官僚に任せず、政治主導で日本を変える」「官僚支配を、打破する」と、大見得を切って国民を喜ばせたのに、政権を取った途端主導権を奪われ、簡単な国会答弁すら、彼らの助け無しに対応できなかったという現実を見せてくれた。
 
 官僚組織に対する私の思いは、信頼と不信感、尊敬と憎しみ、賞賛と侮蔑だ。とてもひと言では尽くせない。歴史的に見れば、彼らは「富国強兵」「殖産興業」を実現し、欧米列強の侵略から国を守り、第二次大戦後は国を再建し、日本を世界第二の経済大国にまで発展させた。
 
 だが一方で所属する省庁のため、持ち前の才を駆使し、自分たちだけの利益共同体を育てる策も弄した。官僚は政治家を利用し、政治家は官僚を使い、国民を忘れ、互いに利益の配分をしてきたは許しがたい事実だ。
 
 敗戦による米国統治で一般庶民が俄に「国の主人公」となり、役人は欧米式に「公僕」と言われるようになったが、建前だけで社会には根付いていない。明治以来日本は「官尊民卑」だったのだから、「お役人」の方が、庶民より数段偉かった。
 
 マスコミが国民が主人公のように報道するが、ここにまやかしがあると最近考えるようになった。
 
 オランダの新聞記者カレル・オルフレンが、日本は民主主義の国でなく官僚とマスコミが支配する国家だと書いていたが、彼が言うのはこのことだったかとうなづく。
 
 事業の許認可権を持つ省庁に、企業が逆らえるはずがなく、マスコミも例外でない。監督官庁が総務省か文部科学省か知らないが、新聞もテレビも官僚組織の内情を赤裸に書ける訳がない。
 
 石原慎太郎氏が「官僚支配を打ち破る」と、民主党みたいなことを言い息巻いているが、明治以来の大組織の中の官僚から見れば、たかが運輸大臣で、都知事をしただけの人間にすぎないと、歯牙にもかけていないのではなかろうか。
 
 私からみれば、石原氏は雲の上の存在の人だが、150余年の伝統組織の官僚にすれば、やはり「たかだか」なのだろうと思う。官庁には第一級の人材が集まり、優れた頭脳が切磋琢磨している。その彼らに、凡庸な議員は太刀打ちできない。本気で官僚制度に立ち向かうのだとしたら、政治家は官僚以上に勉強をしなくては、バカにされるだけで終わる。
 
 戦後総理大臣になった官僚の名前を挙げてみると、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘、宮澤喜一という顔が並んでいる。多くの国民は、彼らを政治家とは理解していても、官僚という視点からは眺めていなかったと思う。だが一度こうした観点から政界を眺めてみると、また違った世界が見えてくる。
 
 彼らは政策遂行に際し官僚組織を活用し、更に強化したに違いない。9人の総理の内4人が財務省出身者だから、財務官僚が省庁の中の省庁と言われる所以も分かる気がする。
 
 残念ながら、こうした観点から問題提起した政治家を、私はまだ見かけたことがない。私の慎ましい願いは、国民が主人公になる社会づくりを政治家たちに、本気で取り組んで欲しいということだ。取り組む力がないのだとしたら、せめて官僚組織がするいい加減さを、国民に知らせる努力だけでもしてくれないものか。
 
 定年後になり、にわかに本を読むようになった劣等生みたいな自分なので、偉そうなことは言えない。だからこうして結局は、「みみずの戯言」になる。
 
 12月21日、こうして今年が暮れようとしている。無念と言えば無念。
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民主党の大敗

2012-12-17 22:39:51 | 徒然の記
 衆議院の選挙が終わった。結果は民主党の大敗で、自民党の復権だった。

 国民の審判と言うか、民意と言うのか、正しい意思表示がなされたと納得する。鳩山総理、小沢幹事長、次の菅総理と、見るに耐えないお粗末さだった。任命された閣僚たちの悲しいまでの未熟さが、幻滅の政権交代だったことをこれでもかと国民に見せつけた。民主党を壊滅させた責任者の筆頭は小沢一郎その人であると私は固く信じる。いつも通り閣僚に加わらず影の実力者としての立場を死守した彼が、政権発足時から民主党の政治を歪めたと認識している。

 お人好しの鳩山総理を謙虚に補佐していたら状況は違っていたはずなのに、有頂天になった彼はそうしなかった。派閥の党首さながらに息のかかった議員たちの数に任せてものを言い、鳩山氏とどちらが総理なのか分からなくなるような横車を押し続けた。各省が受けていた地方の陳情を幹事長室に変更させるなど、利権の集約にも露骨な手法を行使した。違法献金疑惑で躓き政権の中枢から離れざるを得なくなったが、身から出た錆としか言いようがない。

 これ以上彼が辿った道を振り返るのは時間の無駄だから止めるが、こんなことはマスコミの報道で全国民が周知していることで、だからこそ民主党は厳しい審判を受け、新党「未来」は何もしないまま「過去」として片付けられてしまった。私に言わせれば小沢氏のいる「未来」の大敗は予想通りのことで、それが分からなかったのは彼と彼をかつぐ愚かしい人間たちのみだったということだ。

 この大敗の責任を野田総理一人に押しつけようとする人間たちの言動がマスコミを賑わせているが、私は彼を弁護する。党内の少数派でありながら総理の座を掴んだと言うのは、口先上手な単なる口舌の徒だったからではない。評判の悪い消費税の導入だって、覚悟と胆力がなければとてもできるものではない。TPPにしてもそうだし,原発にヘの対応にしても現実論を吐いている。左系の人びとや労組に支えられた民主党に今後二度と投票する気はないが、野田総理にだけは敬意を表したい。

 小沢氏の一派に負けることなく、よくぞ信念を通したと拍手を送りたい。今度こそ野田氏は、「敗軍の将」である。ご苦労様でしたと、心からねぎらう。
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品格

2012-12-06 12:44:03 | 徒然の記

 入江相政著「侍従長のひとりごと」(講談社刊)を読み終え、遠藤周作著「ぐうたら人間学」(講談社刊)を手にしている。

 入江氏の本には、花鳥風月、人間模様、時代の流れや人びとの暮らしなど、率直な感想にユーモアあり風刺あり、乱暴な言葉にさえ捨てがたい魅力があった。何度でも読み返したいほどの味わいがあった。遠藤周作氏の著作は、狐狸庵先生閑話という表題で、随分宣伝されていたが、私は初めて読んだ。こんなつまらないものだったのかと、10ページほど読んでがっかりした。

 軽妙なユーモア作品と褒めそやされていたけれど、同じ出版社が、こんな玉石混交の本を出すのかと、改めて知った。不本意なことで、書くのも躊躇うのだが、遠藤氏の本は、読み終えたら、資源ゴミの回収日に出そうと考えている。

 入江氏の本が愉しかったので、遠藤氏にも同じ期待をした。それが、そもそもの間違いだった。同様の身辺雑記でありながら、これほどまで読後感に差があるのは、偏に作者の品格が作用している、と思うしかない。

 短いタイトルを付け、遠藤氏は沢山の小文を書いているが、どれも下品で、嫌な気にさせられる。読者に笑いを与えたいという頑張りは、理解するが、眉をひそめずにおれないお粗末さだ。読み出した本を、途中で止める習慣がないので、最後まで読んだ。途中で作品の評価が逆転するかも知れない、そうあって欲しいと望んだが、最後まで、氏は語り口を変えない信念の作家だった。

 私の「みみずの戯言」に、品格があるかと自問すれば、他人を批判する資格はないのだが、遠藤氏はプロの作家だし、無名の年金生活者の批評など、片腹痛いに決まっている。彼はもう、既に故人となられたことだし・・、ああそうだった、氏は既に、黄泉の国の人だった。

 死者に鞭打つような、後ろめたさにかられるから、これ以上書くのは辞めにしよう。これ以上批判すると、上品さに縁のない者同士で、同病相哀れむということに、なってしまいそうだから。

 衆議院選挙を前に、十一人の党首が一堂に会し、テレビで公開討論をしていた。トップニュースなので、早速「みみずの戯言」で思いを述べたくなったが、かってない小党乱立のため、頭の整理がつかなくなった。

 考えをまとめる前準備に、軽い読書でもしようと、入江・遠藤両氏の本を読み出した結果がこれで、予定外の「たわごと」になってしまった。

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