ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日韓併合小史 - 9 ( 閔妃事件と日本 )

2019-05-31 23:10:32 | 徒然の記
 閔妃事件に日本人が関係しているとは知っていましたが、前後の経緯は知りませんでした。知りたいという関心もなく今日まで来た、というのが実情です。
 
 山辺氏の著作で、全貌を知りますと、息子たちにも伝えておかねばと思いました。この事件は、前回の金輸入問題同様日本の汚点です。氏の説明を、紹介します。
 
 「日本は清国と、朝鮮の支配権を争って日清戦争を起こし、清国の勢力を朝鮮から一掃した。」「ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日本による遼東半島の領有に反対し、」「これを清国へ返還するよう、要求して来た。」「戦争で弱っていた日本は、三国には対抗できないので、」「この要求に屈服したのである。」
 
 「これが有名な三国干渉で、日本はこのため、朝鮮で、大いにその威信を落とした。」「代わりにロシアが朝鮮へ進出し、閔妃一族はロシアに接近し、日本を排撃しようとした。」
 
 事大主義の朝鮮は、強い者になびくので今度はロシアです。誇りもなく、恥の念もない両班貴族ですから、その場その場の対応をします。
 
 「明治28年 ( 1895 ) の7月6日、閔妃の一族は、」「ロシア公使ウエーバーと結んで、朝鮮政府から、」「親日分子の、朴泳孝、金嘉鎮、徐光範などを追放し、」「代わりに親露派の、李充用、李完用、李範普らが新たに入閣し、」「日本人が訓練した軍隊も解散された。」
 
 「これは宮廷勢力を中心とした、クーデターであったが、」「かねてから、日本に反感を持っていた朝鮮の民衆からは、支持されていたのである。」
 
 3ヶ月後の10月7日に、日本が反撃に出ます。長いので、氏の叙述を項目にして列記します。
 
 ・ソウル駐在の日本公使は、三浦梧楼であった。
 ・三浦は、ソウルの日本守備隊長・楠瀬幸彦と共謀の上、閔妃と敵対していた大院君を担ぎ出した。
 ・ソウルにいた日本人・大陸浪人を手先として、閔妃の暗殺を謀った。
 
 ・明治28年の10月7日、夜から翌朝にかけて、大院君は日本の守備隊と、抜刀した大陸浪人の一隊と王宮に押し入った。
 ・彼らは閔妃を惨殺し、石油をかけ死体を焼いた。
 
 ・凶行は大陸浪人が全てやったように言われていたが、主体は守備隊だった。
 ・王宮の壁を乗り越えるためのハシゴは、前日に守備隊が作っていた。
 ・広い宮殿内で閔妃を探すため、地理に明るい日本領事館の萩原警部が案内している。」
 ・大陸浪人は、閔妃に直接手を下しただけである。
 
 この直後から宮殿では、大院君の執政の元に内閣改造が行われ、親日派の内閣ができています。反日の大院君ですが、権勢欲が強く、政権を取るためなら何でもします。閔妃も大院君も、似たような王族です。閔妃が焼き殺されたのは酷い出来事ですが、金玉均を殺し、死体まで晒しものにした残忍さを思えば、同情する気になれません。
 
 私が日本の汚点と感じるのは、事件後の、日本政府の対応です。詳細に書かれていますが、要点だけを紹介します。
 
 1.   事件に関係した、守備隊長楠瀬以下の軍人・・・・広島の軍法会議で全員無罪。
 
 2.   閔妃殺害の大陸浪人・・・広島地方裁判所で、証拠不十分として全員無罪。
 
 3.  現地での領事裁判で、 閔妃殺害の大陸浪人を調べたのは、荻原警部。
  つまり、犯罪実行犯が、犯罪実行犯を調べていた。
 
 氏はこれについて、次のように語っています。
 
 「閔妃事件について、私がここで言っていることは、従来の話とはずいぶん違う。」「私はこれを、戦後利用できるようになった政府資料によって書いたのである。」「広島の裁判所の証拠不十分というのは、全くのデタラメということが、分かるであろう。」
 
 氏はこの意見を、国際政治学会の季刊誌『日韓関係の展開』と、『コリア評論』に発表していると言います。しかし私は、事件に関する朝鮮からの批判を聞いたことがありません。それはそうでだと思います。閔妃事件以後の朝鮮政府は、国民には知らせられない情けない話の連続です。
 
 閔妃事件の事後処理をしたのは、小林寿太郎と、露国公使ウエーバーでした。事件の後の内閣は再び親日派となり、閔妃内閣の閣僚を死刑にしてしまいます。残った閣僚は、ロシア公使館とアメリカ公使館に逃れましたが、親日派内閣は彼らの引き渡しを要求できませんでした。
 
 なぜなら事件後に国民の批判が、親日派内閣に対して高まり、米露の介入で日本の立場が弱くなったからです。親日派内閣に支えられた、李王自身が、閔妃内閣の生き残り閣僚の引き渡しを、望んでいませんでした。
 
 そして李王は世子を連れ、なんとロシア公使館へ逃げ込みます。これが、近代朝鮮史上で有名な、「露館はんせん」だそうです。
 
 李王は、先にロシア公使館へ逃げ込んでいた閔妃の閣僚と協力し、これまで自分の政府にいた重臣を、逆賊として処刑し、残りの者が今度は日本へ亡命します。以後1年間、李王はロシア公使館に滞在し政務をとります。
 
 この間ロシアは、ロシア人顧問を政府へ入れ、財政と軍事を握らせ、ロシア人学校を作り、着々と地歩を固めます。
 
 「こんなわけで以後日本は、ロシアと協調せずに、朝鮮における地位を、保てなくなった。」
 
 氏の説明ですが、息子たちに知ってもらいたいのは、国の指導者が自己保身だけ考えるような国は、もはや国ではないと言うことです。朝鮮の国土と国民が存在していても、国の未来を決めているのは、他国です。清国であり、日本であり、ロシアであり、フランスであり、ドイツであり、朝鮮は列強の国益に振り回されている場所です。
 
 大東亜戦争に敗北する直前まで、私たちのご先祖は、命を捨てて国のために頑張りました。朝鮮の指導者の困難を理解するとしても、日本のご先祖の立派さを考え直すべきではないでしょうか。
 
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日韓併合小史 - 8 ( 朝鮮からの金輸入問題 )

2019-05-30 22:32:02 | 徒然の記
 「千葉日報」に対し、常に「両論併記」を要望しています。とすれば私も、それを実行せねばなりません。
 
  1.   朝鮮からの金輸入問題
  2.  閔妃事件
 
 この二つについて朝鮮から非難されたら、認めなければなりません。当時の列強が似たようなことをしていたとしても、非礼な朝鮮だったとしても、ここまでするのはやり過ぎでした。
 
 「日本による朝鮮統治は、朝鮮の近代化を促進した。」「日本の統治は朝鮮を富ませただけで、日本には何のメリットもなかった。」と、そういう意見を正しいと思ってきました。
 
 山辺氏の著書を読みますと、そうばかりとは言えない気がしてきました。いまだに、氏の立ち位置が不明ですが、氏は単なる反日・左翼学者ではないようです。もしそうであるなら、いつもの日帝論で暴言を並べ、攻撃をするはずですが、氏は普通の言葉で説明しています。
 
 だから今回「両論併記」をすると決めました。氏のタイトルは、「日清戦争と経済問題」です。
 
 「当時の日朝貿易は、日本からの輸出よりも、」「朝鮮からの輸入が、大きな意味を持っていた。」「まず重要なものが、米、大豆などの穀物であり、」「次に大事なものは、金の輸入であろう。」
 
 「前ページの表は、日本帝国統計年鑑と輸出入貨幣及金地銀の表から作ったものである、」と注釈し、説明が始まります。文章が煩雑なので、項目にまとめて列記します。
 
 1.   明治9年 ( 1876 ) ~  明治27年 ( 1894 ) の海外諸国からの金の輸入額
   1,230万円  このうちの68% ( 835万円 )が、朝鮮から輸入された。
 
 2.  明治18年 ( 1885 ) ~  明治20年 ( 1887 )
             この間には、日本国内での産出額の4倍を、朝鮮から輸入している。
 
 3.  明治30年 ( 1897 ) ・・ 日本が金本位制を取った時期の日朝金産出量の比較
            日本・・・ 200貫/年   朝鮮・・・ 500 ~ 700貫/年
 
 貨幣価値が現在と違いますが、重要なのは氏の次の叙述です。
 
 「朝鮮からの金の輸入は、正常な貿易収支の結果、」「日本に持ち込まれたものではないのである。」「日朝貿易では、ほとんど入超であり、」「貿易の帳尻からいえば、日本に金が入ってくる道理がない。」「にもかかわらず、大量に金が持ち込まれたのは、」「日本の円銀、日本銀行兌換券を、朝鮮に認めさせていたからである。」
 
 「日本が、日本の紙幣で、直接朝鮮の採掘業者や、貧窮農民から、」「金を買い取ったり、借款の抵当として、」「金鉱の開発権を得たりした、結果であった。」「朝鮮では、金採取事業は薄利で、本業とする者は少なく、」「農業の凶作で生活が困ってくると、やむなく農民が、それに従事した。」
 
 これは世界一の強国であるアメリカが、やっている方法と同じです。ドルが基軸通貨ですから、紙幣が不足すればアメリカ政府はドルを印刷します。貿易収支が赤字になっても、ドルを印刷すれば、いくらでも外国から物が買えます。基軸通貨の発行権を持つアメリカは、軍事力だけでなく、金融力によっても世界を支配しています。このようなことが、いつまで続くのか知りませんが、当時の日本は朝鮮に同様なことをしていたのです。
 
 日本が金本位制を導入できたのは、日清戦争の結果、多額の賠償金が得られたからだと、歴史の授業で教わってきました。氏の説明によりますと、それだけでは足りず、不足分を朝鮮の金が補っていたことになります。日本では知られていませんが、事実であろうと考えます。
 
 金についてなぜ韓国は、この問題で日本を攻撃しないのでしょう。「慰安婦」や、「徴用工」など、そんな歴史の嘘で騒がれるより、この方がずっと身にこたえます。氏はこれを韓国の雑誌に発表しているといいますから、彼らが知らない訳でもなさそうです。となりますと、あとは「貴族階級両班のごまかし」しか考えられません。
 
 慰安婦と徴用工問題は、日本がやったと騒いでいれば済みますが、金の輸出問題は、騒ぐと、両班の責任が表に出ます。王様や高官たちが毅然立ち向かえば、防げたはずと国民がは考え始めます。
 
 自分の身の保全を優先した彼ら両班がやったことは、力の強い国の顔色を伺い、あっちへ傾き、こっちへつきすることでした。事大主義と言いますが、誇り高く、傲慢な貴族である両班は、こうしたみっともない事実を、国民に知られたくないのでしょう。だから彼らは、国民に朝鮮の歴史を教えません。
 
 こういう比較をするとき、私は日本の支配層だった人々を、誇りに思わずにいられません。明治の元勲や、幕府の役人は、保身に走らず、義のために命を捨てる武士でした。
 
 しかしこれは、国内での話です。朝鮮への維新政府の対応は、武士道に反する行為でした。韓国人が批判しなくても、私たちは事実を知る必要があります。閔妃事件は次回としますが、これも恥ずべき事件対応だったと認めます。
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日韓併合小史 - 7 ( 熾烈な国際政治と平和憲法 )

2019-05-29 22:26:54 | 徒然の記
 山辺氏の著作が、12年を費やして書かれたと前に説明しました。参考までに、資料を求めた場所を紹介しておきます。
 
 氏の意見に賛成できないとしても、いい加減な叙述をしていないことを息子たちに伝えねばなりません。著書を出すのなら氏のように年月をかけ、資料を調べるのが正道です。自分のブログが正道を踏んでいるのかと言えば、それはしていません。
 
 ブログは個人のもので、学者の著作と違いますから、自分に好都合な叙述もしています。故意にしているのでなく、おそらくこれが、素人の限界なのでしょう。
 
 前置きが長くなりましたが、氏が資料を求めた場所を、列記します。
 
 東洋文庫、静嘉堂文庫、国立国会図書館憲政資料室、公開された外務省資料、釜山草梁館。その他関係する個人の著書、論文、書簡等々。
 
 これを念頭に、金玉均のクーデター計画の話に戻ります。
 
 「金玉均らのクーデター計画は、彼が、福沢諭吉、後藤象二郎と、」「充分に打ち合わせたものであることは、」「彼が二人に出した、意見書から分かる。」
 
 「井上外務卿も暗々にこれを支持し、」「政府と民間 ( 福沢諭吉、井上角五郎ら )が一体となり、 」「金玉均らを扇動し、あのクーデターをやらせたことは、今日残っている諸記録からも、明らかである。」
 
 明治17(1884)年に、清仏戦争が起こり、清国が連戦連敗します。この情報が朝鮮に伝わると親日派が勢いを増し、国王が親日派を重用するようになります。
 
 「朝鮮内に起こったこの変化は、井上馨外務卿も知っていたので、」「この機会を利用し、日本の地位を回復しようとして、」「一時帰国していた竹添弁理公使を、ソウルに帰任させたのである。」「国会図書館の資料室にある、井上馨文書の中に、」「角五郎が井上の家を訪問し、家人に預けた手紙がある。」
 
 「それによると角五郎は、外務卿に、」「朝鮮に渡るための支度金を要求し、」「もしその額が少ない時は、これを外国 ( フランス ) からもらう。」「そうなれば、その外国 ( フランス )のために働くと、」「脅迫めいたことを言っている。」
 
 福沢諭吉の門弟で、朝鮮政府の顧問だった角五郎が、こんな手紙を届けるというのですから、政治ゴロと同じです。先日まで明治維新は、明治の元勲以下ご先祖たちが、欧米列強に正々堂々と立ち向かい、日本の夜明けをもたらしたとそのように考えていました。
 
 「温故知新」の読書を続けていますと、井上外務卿だけでなく、寺島外務卿も山縣有朋公も、諸外国に引けを取らない悪辣さを持っていたと分かってきました。
 
 朝鮮や清国が太々しい外交で日本を苦しめていますが、日本の政治家も負けずに応じています。国益のため妥協したり、攻撃したり、脅したりすかしたり、どっちもどっちの対応です。「綺麗ごとでない政治」、「熾烈な国際政治」を氏に隠さず語られますと、戦後のわが国の政治家の偽善と、不甲斐なさが見えてきます。
 
 一番先に思い出すのが、現行憲法の前文です。戦後73年が経過しようとしているのに、自民党は改正する勇気もありません。国力の空白が戦争の遠因となることを隠し、「平和憲法」などと言うのですから、偽善以外の何物でもありません。言わせて貰えば現行憲法は、「戦争誘引憲法」です。
 
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、」「圧迫と偏狭を、地上から永遠に除去しようと努めている、」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」
 
 これは東京裁判と同じで、日本だけが悪い国だったと公言する憲法です。この文章は石原慎太郎氏が指摘していましたが、日本文と言うより翻訳文で、主語が誰なのかも不明なおかしな日本語です。・・これを言い出しますと、書評から外れてしまいますので、自制して止めます。
 
 清国に連れて行かれた大院君が、帰国すると言う話が伝わります。単なる風説ですが、驚いた閔妃一派は再び日本へ接触をし、政府内の知日派が勢力を盛り返します。
 
 「このような状況のもとで、金玉均、竹添公使、井上角五郎らが、」「朝鮮から、清国勢力を一掃し、」「日本の後押しで、政権を打ち立てようとしたのである。」「このクーデターを、甲申事変と言う。」
 
 朝鮮の支配権を争う、清国と日本のせめぎ合いが、日清戦争となります。勝利した日本に、ロシア、フランス、ドイツの三国が横槍を入れ、三国干渉が起こります。歴史を知るほどに、日本国憲法の間違いが目立ち、私たち国民が陥っている愚かしさも、十分教えられます。これ以上教えられる必要があるのかと、そんな気持ちになってきました。
 
 ページ現在118ページ、まだ半分にも達していません。これからどうしょうかと考えながら、今回は終わりとします。
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日韓併合小史 - 6 ( 福沢諭吉と金玉均 )

2019-05-29 07:10:16 | 徒然の記
 なぜ倉庫番が兵士用の米をごまかしたかについて、山部氏の説明を紹介します。
 
 「大院君の時代は鎖国していたから、こんな問題は起こらなかった。」「米をごまかす必要もなかったであろう。」「開国以後日本との貿易で、朝鮮からの輸出は8割が米で、」「そのため、米不足となったソウルでは、二・三倍くらいに値が上がった。」
 
 「腐敗した閔妃政府の高官で、米を管理している者が米の横流しをし、」「米の配給事務を取る下級官吏が、米をごまかすのも当然と言える。」
 
 米価が二、三倍に上がったからと、高級役人が米を横流しし、下級官吏が計量をごまかすのは、当然だと言います。兵隊が暴動を起こすほど大量の横流しや、計量のごまかしを、日本人はしません。彼らの行為が当然だと、なぜ氏は肯定するのでしょう。
 
 「政府の役人が米をごまかすのも、米価が高いからで、」「米価の騰貴が、重大な社会問題を起こすことは、日本の米騒動を見てもわかるだろう。」「日本が、仁川の開港交渉を始めようとした時、」「朝鮮政府が反対したのは、こうなることが、分かっていたからである。」
 
 「米が流出し、ソウルの米価が高騰し、細民の暴動が起こるのを、憂慮していたのである。」「壬午軍乱 ( じんごぐんらん ) が、単なる騒ぎから反日暴動に発展したのは、このような社会的背景があったことを、忘れてはならない。」
 
 政府の腐敗役人の方に原因があると、私はそう思いますが、氏は開国を迫った日本に、すべての責任があると説明します。兵士たちは役人に暴力を振い、重臣の屋敷を打ち壊したりし、死刑を免れないと知った彼らは、引退した大院君の元に駆けつけました。
 
 長いので、氏の説明を箇条書きにします。
 
 ・乱軍と大院君が結ぶと、閔妃一族の打倒と排日の武装闘争へとの性格を変えた。
 ・大院君は兵を宥め密計を授け、閔妃一族の重臣捕殺と日本大使館襲撃をさせた。
 
 ・反乱軍が王宮へ入り閔妃を殺そうとしたが、失敗した。
 ・「暴動を静められるのは、大院君以外にない。」と、王命により大院君が政務についた。
 
 ・日本公使館には、日本人を皆殺しにせよと叫ぶ民衆や兵士が、押し寄せた。
 ・公使一行は仁川へ逃げ、イギリスの船に助けられて帰国した。
 ・日本では強硬論者の山縣有朋が主導し、武力解決を図ると決定した。
 ・訓令を受けた花房公使がソウルへ戻ると、状況が変わっていた。
 
   1.  清国軍が、果断な処置をし、大院君を逮捕して、反乱を鎮圧していた。
   2. アメリカが、軍艦を派遣し、日本をけん制した。
   3. 清国が朝鮮の代行者として前面にたち、日本との交渉を取り仕切った。
   4. 清国との戦争を覚悟せずに、日本は朝鮮との直接交渉ができなくなった。
 
 朝鮮王は反乱軍の鎮圧ができず、清国に討伐を要請していました。壬午軍乱は、朝鮮に対する清国の宗主権を強化しました。
 
 「これまで朝鮮が、外交問題で度々失敗したのは、」「無知のため、日本と不平等条約を結ぶなどしたからだ。」と李鴻章が言い、外交顧問を送ることになります。ヨーロッパに留学し、国際法に明るい馬建常と、関税業務に精通したドイツ人のパウル・ゲオルグでした。
 
 国内統治に当事者能力のない朝鮮王と閔氏政権は、日本から離れ、元の宗主国である清国へ従属していきます。次第に反日的となり、政府内にいた、金玉均、朴泳孝、洪英植らの親日派が迫害されます。
 
 朝鮮独立党の党首でもあった金玉均は、明治27年(1894)に、上海で閔妃政権の刺客により殺害されます。
 
 「金玉均の遺体は、清国軍艦咸靖号で、本国朝鮮に運ばれ、」「凌遅刑に処されたうえで、四肢を八つ裂きにされ、」「胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山」、」「片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。」と言う、酷い扱いをされます。
 
 金玉均を支援していた福澤諭吉は、怒りとともに涙を流したと言います。有名な「脱亜論」の書かれた動機がこの出来事だったそうです。しかしこれは後の話ですから、山辺氏の著作へ戻ります。
 
 「金玉均は任午軍乱の前、日本に来て、福澤諭吉と会い、」「日本の、資本主義文明の成果を見、」「維新以後の、日本の発展に心を惹かれ、」「日本の後援で、朝鮮国内の改革をやろうとした。」「彼は、これを国民運動としてでなく、」「日本の援助で守旧派を倒し、一挙に親日派の政権を樹立しようとした。」
 
 明治維新には、勤皇の志士が献身しただけでなく、商人や農民など多くの国民の支援がありました。思い詰めるとカッとなり、後先を考えず進むのが朝鮮方式ですから、金玉均のやり方も無下に批判できません。
 
 次に発生したのが、「甲申事変」で、簡単に言うと金玉均によるクーデター計画です。実行されませんでしたが、歴史の事実として知る必要があります。福沢諭吉がここまで深く朝鮮に関係していたとは、知りませんでした。一万円札に印刷された温厚な紳士でなかったことを、山辺氏が教えてくれました。
 
 軍隊のない今の日本は、まさに当時の朝鮮です。アメリカと中国という大国に挟まれ、どうにもならなくなっています。スペースの都合で一区切りとしますが、朝鮮の話はもう沢山と思われる方は、スルーして下さい。
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日韓併合小史 - 5 ( 日本憎悪の原点 )

2019-05-28 08:36:09 | 徒然の記
 5回目のブログです。身分制に苦しめられている常人を解放し、ハングルを普及させ、文盲を減らしたのに、なぜ日本は、朝鮮人から憎悪されるのか。長い間疑問でしたが、最近やっと分かってきました。
 
 国民の多数を占める常人を、両班の隷属から解き放すには力ずくでやるしかありません。反対する両班を武力で排除し、日本国内と同様に各地に小学校を作り、中学校を作り、大学まで作りました。
 
 国を発展させるには、国民の智を開かなければダメだと考えていたからです。ついでに、神社まで作ったのですが、これが余計なことでした。このため日本は、儒教を重んじる両班の憎しみと恨みを倍化させました。前回紹介したマリ・ニコルの『朝鮮事情』を思い出してもらえば、答えは即座に分かります。
 
 「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、」「もっとも傲慢である」「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。」
 
 つまり日本は、両班を敵に回してしまったのです。「日本への恨みは、千年たっても消えない。」と、朴槿恵大統領が言いましたが大げさな表現でなく、そのまま両班の気持ちでした。
 
 日本は、善意から常人を解放しましたが、世界最強で、世界一傲慢な朝鮮の貴族を敵にしたのです。日本が世界の強国であった戦前は、怒りに震えながら彼らは耐えていました。大東亜戦争に日本が敗れると、一気に報復を開始しました。
 
 腐っても鯛という言葉がありますが、まさに彼らは、朝鮮では「腐っても鯛」でした。日本が朝鮮を武力で併合したことを、自分たちの憎悪を交え国民に語りました。
 
 「誇り高い朝鮮民族を、倭人どもが、足で踏みにじり、奴隷のように扱った。」「朝鮮人を、日本人に作り変えようとした。」「こんなことが、どうして許せるか。」
 
 彼らの言葉は庶民の心に届き、日本への憎しみと怒りが燃えました。ひどい主人であっても、庶民ににとっては、日本人より数倍も親密な同民族です。多くの日本人が朝鮮や満州で威張っていましたから、たちまち共感を呼んだに違いありません。
 
 3年前、北京大学の助教授だった李滎薫氏の、『大韓民国の物語』を読みました。氏は韓国の教科書で教えられる、「日本による韓国収奪論」を否定し、「根拠のない慰安婦問題」についても、異議を唱えました。吉田証言が虚偽であることも、慰安婦と挺身隊が別物であることも知っていました。
 
 氏は国内の世論に逆らい、日本の統治の結果、韓国社会を蝕んでいた身分制が撤廃され、経済も発達したのだと主張しています。氏は、日本のせいで李朝が滅亡したのでなく、内在していた矛盾により解体したのだと結論づけます。日本などそんなものは、何でもないというのが、氏の意見です。
 
 氏が韓国内で、売国奴と同義語の、「知日派」のレッテルを貼られているため、日本人の中には、氏を親日家と誤解している人間がいます。
 
 しかし氏は、旧日本軍と日本政府への糾弾は止めません。氏にあるのは、理屈抜きの日本への嫌悪です。その点では、偏向した教育を受け日本攻撃をする多くの韓国人と、なんら変わりがありません。恐らく氏は、両版の子孫だと私は思います。
 
 ずいぶん横道に逸れましたが、再び山辺氏の著作へ戻ります。江華島条約の締結により、日本が朝鮮の開国に成功したというところです。朝鮮国王と閔妃一族が、やっと開国政策をとり国内改革を始めます。
 
 「明治14 ( 1881  ) 年には、日本から陸軍少尉の堀本礼造を、」「軍事顧問に招き、別技軍という日本式の軍隊を組織し、」「訓練させた。」
 
 「別技軍だけは、服装も給料も良かった。」「これに反して、旧軍隊は、給料も良くなかっただけでなく、」「給料である現物給与の米が、その頃遅配となり、」「兵士たちは、生活に困っていたのである。」「しかも、量目も不足していた。」「配給米の量目不足は、倉庫係が保管米を盗んでいたからである。」
 
 この不満が、爆発して起こったものが、壬午軍乱です。事件の背景にあるのは、特別待遇の別技軍のことだけでなく、国王と閔妃一族が、日本に屈して開国したからだと、氏が解説します。
 
 スペースに余裕がなくなりましたので、続きは次回といたします。ロシアの脅威から国を守るため、朝鮮統治を実行した日本ですが、他国を統治するのは容易なことではありません。
 
 息子たちに言います。朝鮮統治の実態を知り、日本が二度と他国へ手出しをしないように、学んでください。他国を支配したりされたり、今でも世界は変わらない有り様ですが、日本は自国の領土と国民を守るだけにし、他国を支配する愚を犯してはなりません。
 
  実例が、全て朝鮮統治の歴史の中で、示されています。
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日韓併合小史 - 4 ( 朝鮮の文化 )

2019-05-27 13:38:36 | 徒然の記
 慰安婦問題に始まり、軍艦島問題、徴用工問題と、国連を舞台に、韓国が日本を攻撃しています。資料を提供しているのは、日本の反日左翼学者と弁護士です。
 
 氏の著書を読んでいますと、朝鮮との間には、私たちの知らない軍事衝突や、事件が沢山あります。今回述べる、「壬午 ( じんご ) 軍乱」も、その一つに過ぎません。
 
 この後にも、「甲申事変」、「巨文島事件」、「防穀令事件」、「東学の乱」「閔妃事件」と続きます。氏の説明で事件を知ることも大事ですが、その前に、当時の朝鮮の状況を述べなくてなりません。朝鮮は、日本と同質の社会ではありません。
 
 「人間は皆同じで、真心と誠意は必ず通じる。」と、子供たちに教えてきましたが、国際社会では、必ずしもそうでないことを知りました。むしろ今は、次のように教えたくなりました。
 
 「人間は、皆違っている。違っているのは、別に悪いことではない。」
 
 「真心と誠意が、通じない時もある。文化の違いが、そうさせる。」
 
 明治初期の朝鮮を理解するには、両班 (  りゃんぱん ) 制度の知識が不可欠です。両班とは、韓国社会の支配階層のことで、役人や軍人になり庶民を支配できるのは、この階層の人間だけでした。およそ人口の3%を占めていました。
 
 マリ・ニコル・アントンが書いた、『朝鮮事情』という本があります。この中の一部を紹介します。
 
 「朝鮮の貴族階級 (  りゃんぱん ) は、世界でもっとも強力であり、」「もっとも傲慢である」「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。」
 
 「大両班は、金がなくなると、使者をおくって、商人や農民を捕えさせる。」「その者が、手際よく金をだせば釈放されるが、」「出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、」「食物もあたえられず、要求する額を支払うまで、鞭打たれる。」
 
 韓国人がこの本を読んでいるのかは知りませんが、信じられないような話が書かれています。簡単にいうと、両班以外の者は人間でなく、牛や馬、犬や猫と同様で、生かそうと殺そうと主人である両班の自由である、と書いてあります。
 
 「両班のなかで、もっとも正直な人たちも、多かれ少なかれ、」「自発的な借用の形で、自分の窃盗行為を偽装するが、」「それに欺かれる者は誰もいない。」「なぜなら両班たちが、借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。」
 
 「彼らが、農民から田畑や家を買う時は、」「ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。」「しかも、この強盗行為を阻止できる守令 ( 役人  )は、一人もいない。」
 
 江戸時代の日本には、士農工商という身分制度がありました。朝鮮は、両班・中人・常人・賤人です。両班が王族・貴族を含む支配階級で、もっとも人口の多いのが常人で、次のように説明されています。
 
 「常人は、農・工・商に従事する人を言うが、その大部分は農民だった。」「彼らは国家に対して、租税・貢賦・軍役など各種の義務を負担したうえに、」「地方官や郷吏などの搾取対象になって、その生活は一般的にとても悲惨だった。」
 
 これが朝鮮人の不思議なところですが、どんなにひどい主人でも服従していたのです。常人は無学文盲で、両班たちを尊敬していました。両班は漢字を書き、漢書を読み、下層民のハングル文字は使いませんでした。書きやすく、読みやすくと、わざわざ王様が工夫した朝鮮独自の文字でしたが、常人たちには無縁でした。
 
 日本が韓国を併合した時真っ先にしたのが、「身分制の撤廃」と「ハングル文字の普及」でした。過酷な身分制を無くし、文盲の常人を減らしたのは日本でしたが、感謝されることはなく、今でも糾弾され続けています。 
 
 マリ・ニコル・アントンの著作の紹介を続けます。
 
 「両班が首尾よく、なんらかの官職に就くことができると、」「彼は、すべての親戚縁者、もっとも遠縁の者にさえ、」「扶養義務を負う。」「彼が守令になったというだけで、この国の普遍的な風俗習慣によって、」「彼は、一族全体を扶養する義務を負う。」
 
 一族の中での出世頭が、皆の世話をするのはどこの世界にもあることですが、朝鮮の場合は過激とも言える文化です。「彼は、一族全体を扶養する義務を負う。」というのですから、過酷な身分制度と似ています。
 
 「もし、これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、」「自ら金銭を得るために、様々な手段を使う。」「ほとんどの場合、守令の留守のあいだに、」「彼の部下である徴税官に、いくばくかの金を要求する。」」
 
 「もちろん、徴税官は、金庫には金が無いと主張する。」「すると、彼を脅迫し、手足を縛り手首を天井に吊り下げて」「厳しい拷問にかけ、ついには要求の金額をもぎとる。」「のちに守令が、この事件を知っても、」「掠奪行為に、目をつむるだけである。」
 
 韓国では大統領になった人物が、やめた途端に犯罪人となり刑務所へ送られます。理由は大抵、家族や親類縁者による巨額の収賄事件です。権力のトップに上り詰めた者に、一族の者がタカるという文化が、大統領の犯罪を生むのではないかと思います。
 
 「官職に就く前は、彼自身も、おそらく同様のことをしたであろうし、」「また、その地位を失えば、自分もそのようにするはずだからである。」
 
 本の紹介はここまでにしますが、息子たちと、訪問される方々には、日本と韓国の国柄の違いが分かってもらえたのではないでしょうか。
 
 「壬午 ( じんご ) 軍乱」については、次回とします。
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日韓併合小史 - 3 ( 江華島条約 )

2019-05-26 07:56:57 | 徒然の記
 山辺氏の著作は、丹念に調べられた資料に基づき、12年間を費やして書かれたものです。知識もなく、国会で騒いでいる反日議員とは区別して考えなくてなりません。
 
 「まえがき」に戻り、氏の意見を確かめてみました。
 
 「本書は明治9年に、朝鮮が、いわゆる江華島条約を結んで、開国してから、」「明治43年に、日本に併合されるまでの歴史を書いたものである。」
 
 「朝鮮は、近くて遠い国だと、よく言われる。」「これは、日朝両国の関係と、朝鮮内部の、南北分裂にあることはもちろんであるが、」「また過去の、両国の歴史的関係の中にも、その原因がある。」
 
 書き出しの部分ですが、客観的な叙述です。どのあたりから、氏が朝鮮へ心を傾けていくのか。知りたくなります。
 
 「第二次大戦後まで、朝鮮の歴史は、朝鮮人には、あまり知らされていない。」「日本人の大多数は、たとえ皇国史観による国史であっても、」「小学校から、歴史教育は受けた。」
 
 「ところが朝鮮人は、檀君神話による、朝鮮建国の歴史すら知らされていない。」「朝鮮にあった、朝鮮人小学校でも、」「中学校でも、朝鮮史の授業はなかった。」
 
 朝鮮政府に慨嘆しているのか、日本の歴史教育を批判しているのか、それとも両方を言っているのか。よく分かりませんが、これは重要な指摘です。
 
 現在韓国政府と韓国人が、「日帝による極悪非道な、植民地支配。」「日帝35年間の収奪」と、日本を批判しています。
 
 戦前の朝鮮では、日本統治の35年間だけでなく、歴史教育そのものがされていません。朝鮮の歴史を正しく伝えれば、風見鶏のように、清国、ロシア、日本と、強国の間を右往左往する支配者ばかりのなので、恥ずかしくて教えられなかったのでではないでしょうか。
 
 現在の朝鮮人は、リャンパンと常人・賎人の身分制度を知らず、日本の統治下で過酷な制度が撤廃された事実も知りません。街頭に繰り出している彼らは、歴史を知らずに日本を攻撃している者ということになります。反日教育で育てられた彼らが、的外れな絶叫をしているとそう思えてなりません。
 
 今の日本を思い返すと、これは同時に反面教師です。東京裁判で国の歴史を歪められて以後、日本の指導者たちはまともな歴史教育を子供たちにしていません。敗戦後の裏切りと背信が、恥ずかしくて教えられないという朝鮮に似た状況が見えてきます。
 
 「従って、日朝の歴史学会では、学問の交流もまだない。」「本書は、日朝歴史学界の交流の架け橋として役立てようと、特に日本の資料を、沢山使っている。」
 
 「それに近代朝鮮の歴史は、日本にある資料を使わずには、絶対に書けないからである。」「近頃はよく、過去40年間の日朝間の不幸な関係だとか、」「朝鮮の不幸な歴史とか言われるが、」「それを確実な資料によって、明らかにしたものは、まだ見つからない。」
 
 現在国連で騒がれている、韓国の慰安婦問題も徴用工問題も、捏造資料の出所は日本です。反日の日本人学者たちが、国内の資料を、都合の良い部分だけ切り取り、韓国の活動家たちに渡しています。その先駆者の一人が、山辺氏だったという訳です。
 
 本書のメインテーマの一つである「江華島条約」に進みますが、氏の意見の前に、条約について説明します。
 
  ・  江華島事件とは、1875(明治8)年、開国を拒む朝鮮と、開国させようと迫る日本との間で起こった軍事衝突事件のこと。
   ・  朝鮮外交をめぐり国内で強気の征韓論派と帰国組の慎重派が争った。
   ・  江華島事件は、日本の東アジア進出の第一歩となる事件だった。
   ・  江華島事件を契機に、日本有利の不平等条約「日朝修好条規」が結ばれた。
 
  説明を読みますと、無理やり朝鮮を開国させ、不平等条約を結ばせたとなります。しかし明治政府の呼びかけを拒絶し、無礼な布告をし、難癖ばかりつけた大院君の対応を知っている者には、当然のお返しとなります。
 
 山辺氏の説明では、次のようになっています。
 
 「この条約が、安政5年に日英間で結ばれた、」「日英修好通商条約という、不平等条約にそっくりだといえば、」「条約の意義は、いい尽くしていると思う。」
 
 「日本自体についていえば、安政条約の改定が、江華島条約締結の頃は、大きな問題になりかけていた。」「その不平等条約を、当時の後進国である朝鮮に押し付けたのであるから、実に酷い話でないか。」
 
 もし朝鮮が、征韓論が沸き起こるほど不遜な対応をしていなかったら、西郷隆盛たちは不平等条約を押しつけたでしょうか。挑発した朝鮮に対し、怒りのまま不利な条約を結ばせたと、私は日本側に立って考えます。
 
 「朝鮮の開国は、イギリス、フランス、アメリカともに、」「兼ねてから望んでいたが果たせなかったので、この江華島条約にはみな賛成した。」「国際的に見ると、この条約は、日本が欧米諸国の先導者として、道をつけてやったものと、」「いうべきであろう。」
 
 今回はこれで終わり、次回は「壬午 ( じんご ) 軍乱」について、氏の説明を紹介します。
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日韓併合小史 - 2 ( 大院君の布告文 )

2019-05-24 19:04:31 | 徒然の記
 「日韓併合小史 」の2回目です。対馬藩が明治維新後、朝鮮と日本の国交回復のため、仲介役をすることとなりました。
 
 「明治元年、政府は新政府が成立したことを、朝鮮に告げ、」「対馬藩に命じて、国書を釜山の朝鮮の役人に渡した。」「国書の中に皇の字が使われ、対馬藩の副書に、勅の字が使われていた。」
 
 「当時朝鮮は、清国を上国として仰ぎ、」「皇とは、清国の皇帝であり、勅とは、皇帝の詔勅であり、」「これまで日本からの国書に、この字は使われていなかった。」「朝鮮はこの点を咎め、言葉に誤りがあるとして、受付けなかったのである。」
 
 列強がアジアを侵略している時、新政府ができ、隣国の朝鮮と、国交を開き協力しようと呼びかける国書に、難癖をつけるのは妥当なのか。氏は朝鮮の主張に理解を示しますが、私には不可解です。
 
 聖徳太子の時代、太子は隋への国書に、「日出ずる処の天子より、日没する国の天子へ」と、臆せずに述べています。その気概を思えば、朝鮮王宛の国書に、皇・勅の字が使われたからと言い、何の不都合があるのでしょう。朝鮮の理屈は朝鮮のものなのに、なぜ氏が朝鮮側に立って解説するのでしょう。
 
 「朝鮮の主張には、それなりの理由があった。」「これまで対馬藩と朝鮮との交渉で使った印は、朝鮮から対馬の宗氏へ下賜されたもので、」「従来の書には、この印を使うことになっていたからである。」「押し問答のような交渉は、約一年余りも続いた。」
 
 新政府ができ、新しい交渉をしようと言う時、朝鮮に下賜された印を、日本が使うはずはありません。朝鮮の理解者として、氏が詳しく叙述しますが、面倒なので経過だけを紹介します。
 
  ・ 明治2年、 政府は直接外務省から役人を派遣したが、相手にされなかった。
 
  ・  明治3年、政府から三人の役員を派遣したが、朝鮮は窓口をこれまで通り、対馬藩にするとして譲らず、決裂した。
 
  ・   明治7年、政府は、対馬藩の宗氏を外務卿の代理として、正式に通知したが、回答なしだった。  
 
  ・ 明治8年、政府の役人が外務卿の書面を持ち、面会を求めたが、役人の服装が、洋服になっていたことと、書面の文字の使い方に苦情を言い、5ヶ月を費やしたが、取り合われず引き上げた。
 
 これでは、日本政府が憤慨して当然です。征韓論が出てきたのは、この時期の話ですが、やはり氏は朝鮮を弁護します。
 
 「しかし鎖国を、大院君の性格のせいにするのは、間違いである。」「だいたい鎖国と排外主義は、アジアの諸国ではつきものでなかったか。」
 
 「これは、幕末の日本と較べてもよく分かるだろう。」「日本の開国要求も、この大院君執政時代から始まったのであるが、」「当時の朝鮮は、日本の開国は欧米諸国への屈服であり、」「欧米諸国の手先となった、日本の要求として受け取られた。」
 
 私が興味いのは、朝鮮がどう考てもそれは朝鮮側の話です。明治時代の日本は欧米列強の侵略から国を守ろうと、懸命でした。氏が歴史学者を自負し、当時を語るのなら、日本の危機意識がなぜ語られないのでしょう。
 
 結局明治政府は、武力を背景に開国を迫ることになり、氏はこれを非難します。氏の説明だけ読みますと、力ずくの日本に批判が出ます。しかし氏は、大院君が国民に告知した、侮辱的な布告文を読者に語りません。前回紹介しましたが、再度転記します。
 
  「 日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、」「我が国人にして、日本人に交わるものは死刑に処せん。」
 
 氏の著書は昭和41年の出版ですから、うなづけないこともありません。何でもすべて日本が悪いと、反日・左翼学者たちが、大合唱していた頃です。この本も、自分に都合の良いことだけを述べ、韓国は犠牲になった国だと言う偏見と捏造の書です。こう言う本を多量に出版していたのですから、私はやはり岩波書店に疑問符をつけます。
 
 慰安婦問題にしても、徴用工問題にしても、のらりくらりとした韓国政府の対応は、大院君時代と変わりません。金融危機の時に日本は韓国をスワップで救い、石油も代行して買い入れて渡しました。
 
 国民はこうした援助を知りませんが、自民党は何のためにこんなことをするのでしょう。反日・野党が韓国に肩入れするのは、在日の議員がいるからと分かりますが、自民党の議員で韓国を擁護者は、何か弱みでも握られているのでしょうか。
 
 不愉快な本でも読み続けるのには、理由があります。偏った意見が多いとしても、保守の学者が語らない事実、つまり日本に不都合な事実が述べられているからです。自分の頭の中で、「両論併記」をしようと思っています。
 
 どこまでそれができるのか、と言うより、どこまで、この不愉快な本を読む忍耐が持続できるかです。現在81ページ、やっと3分の1です。
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日韓併合小史 ( 朝鮮侵略史の第一人者 )

2019-05-24 11:42:44 | 徒然の記
 興味深い本に、出会いました。山辺健太郎氏箸『日韓併合小史』 (  昭和41年刊 岩波新書 )が、それです。
 
 いつものように、氏の略歴を紹介します。
 
 氏は明治38年、東京府に生まれ、昭和52年に72才で亡くなっています。歴史家、労働運動家という肩書きの持ち主です。
 
 「別府北尋常小学校卒、 大正7年(1918)年春、ソウルに移る。」「大正8年(1919)年、帰国。」「4月、丸善大阪支店の見習店員となる。」「大正9年(1920)年暮、大阪の白鹿足袋工場に入る。」
 
 こういう経歴でも一流学者の扱いで、岩波書店が本を出すのですから、並みの人間ではありません。
 
 「大正10年(1921)年、大阪の第1回メーデーに参加。」「労働組合総連合結成大会を傍聴。」「大正14年(1925年)、日本労働組合評議会が結成され、大会を傍聴する。」
 
 色々な大会を傍聴していますが、たかが傍聴です。もしかすると次の経歴から、注目されるようになったのでしょうか。
 
 「昭和2年(1927)年、全日本無産青年団体連盟創立大会に参加。 」「5月、評議会第3回大会の代議員となる。」「昭和4年4月、四・一六事件、大阪で検挙される。」「大阪地裁で第1審判決、懲役3年。」「昭和15年、治安維持法違反で検挙、投獄。」「昭和20年夏、府中予防拘禁所で、敗戦を迎える。」「出獄、日本共産党統制委員。」「昭和33年、離党し、著述に専念する。」
 
 学歴のない氏は、刻苦勉励し、血の滲むような頑張りでのし上がったはずです。検挙され、投獄されて、転向した共産党員がたくさんいますが、氏は思想を捨てませんでした。戦後の共産党員は、拷問も弾圧も知りませんが、氏はそれを乗り越えた人間です。しかも博学とくれば、岩波書店の眼鏡にかなったのかもしれません。
 
 氏は日本の朝鮮侵略史の第一人者と言われ、「日本統治下の朝鮮」という本も、同書店から出しています。そのような氏が、なぜ共産党を離党したのか、これも謎ですが、それ以上の謎がこの著作です。
 
 「氏はなぜ、これほどまでに朝鮮に肩入れするのか。」「なぜ、日本に愛国心を持たないのか。」
 
 家族のことも何も、手がかりになる情報がありません。謎だらけの氏です。つい先日私はブログで、下記のように明治時代の、朝鮮の非礼を紹介しました。
 
 「明治元年に、日本は対馬藩を介し、朝鮮に対し新政府発足の通告と、国交を望む交渉を行いましたが、朝鮮側に拒否されました。」
 
「明治3年、明治政府はさらに使節を派遣しましたが、相手にされませんでした。」「更に明治5年に、旧対馬藩主を外務卿として派遣しますが、朝鮮は頑として応じず、逆に明治6年以後は排日の風潮が強まっていきます。」
 
 「政権を握っていた大院君は、 〈 日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして、日本人に交わるものは死刑に処せん。〉 という布告を出しました。」
 
 「当時釜山にいた、明治政府の外交官たちは、この布告を見て怒り、ここから、政府内に征韓論が沸騰しました。」「福沢諭吉の『脱亜論』も、こうした情勢の中で世に出ています。」
 
 ところが氏の著書を読みますと、非礼が日本の方にあり、朝鮮は正しいという意見になります。長くなりますが、息子たちのため、氏の意見を紹介します。
 
 「徳川時代の日朝関係は、日本とオランダの関係に似ており、」「釜山に草梁館 ( そうりょうかん ) と言われる、対馬藩の出張所があったのである。」「朝鮮政府の使節が幕府を訪問しても、幕府の使節が朝鮮の首府を訪問することはできず、」「いわば対等の、外交関係ではない。」「対馬藩の宗氏の使臣が、釜山で朝鮮の代表者に書面を渡すだけだった。」
 
 「幕府から特許されていた朝鮮貿易は、対馬藩にずいぶん利益をもたらした。」「しかし貿易船の数は、朝鮮から指定され、」「貿易とは言っても、恩恵的なもので、対馬藩は、それだけに朝鮮に頭が上がらなかった。」
 
 現在対馬には韓国人が住み着き、土地を所有し、観光客もたくさん訪れています。このままでは韓国に島を取られてしまうと、心配する住民もいますが、島の有力者の中には今でも韓国と深い繋がりを持ち、利益を得ている人間がいるのかもしれません。
 
 一般住民が知らなくても、土地の有力者が昔からの繋がりを持ち、利益を得ている。縁の薄い日本より、利益をもたらす韓国の方に親近感がある。
 
 これは、沖縄と似た構図です。沖縄人は同じ日本人ですが、中国との朝貢関係が長く続き、王様以下の有力者は日本を軽視していました。沖縄の政治家や有力者たちは、中国に親近感があり、中国の軍隊に駐留してもらいたいと公言する者もいます。
 
 朝鮮が主題ですから、沖縄のことはここでやめます。話の入り口までしか述べられませんでしたが、次回より本論に入ります。
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マスコミの力

2019-05-21 23:49:52 | 徒然の記
 分かっているはずなのに、本当は誰も分かっていない、マスコミの力について、私は今晩、息子たちに伝えようと思います。

 反日・左翼マスコミ、腐れマスコミ、売国マスコミと、父は遠慮なく、マスコミを悪し様に言います。父のような、名もない人間が、偉そうに批判するくらいだから、日本のマスコミも大したものでないと、お前たちは誤解しているはずです。しかし決してそうでないことを、本日は、真面目に伝えたいと思います。

 最強の軍がなくなった現在の日本で、一番力を持っている組織は、マスコミと財務省です。何年前だったか、もう書名も思い出せませんが、オランダの新聞記者カレル・オルフレンが書いた本を、読みました。図書館で貰って来た廃棄図書の一冊でしたが、あの時は、彼の意見に驚かされ、反感さえ覚えました。日本は自由主義の国で、民主主義国家であると、疑問すら抱かなかった私を、彼が頭から否定しました。

 「日本は役人とマスコミに支配された、官僚社会主義国家だ」。

 一度も考えていなかったことなので、大きな衝撃でした。しかし今は、色々な本を読み、色々な人の意見を聞いたおかげで、氏の意見が間違っていなかったと、理解できるようなりました。オランダだって、日本のことを批判できるほど、りっぱな過去を持っている国ではありませんが、正しい指摘には、耳を傾けなくてなりません。日本は、役人に支配された全体主義国家だと、氏が言っているわけですが、その役人とは、まさに日本の官僚機構のことです。しかもその機構の中で、最強の官庁が財務省です。

 簡単な例を、言いましょう。お金を握っている者が、一番力を持っているといえば、仕事をしている人間なら誰にでも分かります。会社なら社長、学校なら理事長、家庭なら奥さん、こうした人間には、頭が上がりません。喧嘩をするより、仲良くし、お金をもらう方を選びます。つまり財務省の官僚は、国民から集めたお金を、自分たちの裁量で、各省に分配する権限を持っているのです。

 会社で言えば、課長クラスの人間が、他の部署の部長や役員を呼びつけ、彼らの提出する計画書を査定し、配分する金額を決定するのです。いつからそうなったのか、知りませんが、現在は自衛隊の幹部でも、財務省の廊下で待たされ、彼らの裁定を待ちます。「政治主導を、取り戻す。」「政策の判断は、官僚でなく、政治家がする。」と、威勢の良い事を言い、政権の座についた民主党が、半年も経たないうちに、官僚に絡め取られました。

 政治の知識もない、政治の実務も知らない、国際関係も知らない、法律の知識もない、官僚組織も知らない、歴史観もない、国家観もない・・・、無い無い尽くしの民主党の議員ですから、官僚のメモなしでは国会答弁すらできませんでした。大言豪語したため、民主党議員の馬脚が国民の前に晒されましたが、自民党の議員にしても同じことです。「政治は、司々(つかさつかさ)に任せるのが、一番良い。」と、竹下総理が言いましたが、志の低い、レベルも低い政治家は、こうするしかないのです。自民党には、立派な議員もいましたが、それと同じ数のバカな議員がいて、官僚に言われるまま、利権の甘い汁を吸い、官僚の天下を黙認してきた結果が、現在です。

 話がタイトルから外れていると、息子たちに言われそうなので、軌道修正をいたします。その最強の財務省と、しっかり手を結んでいるのが、マスコミなのです。実は、財務官僚が最も、恐れているのが、憲法改正です。憲法改正をしたら、軍が再建されます。国の安全を守る軍は、武力を持ち、利敵行為をする人間を容赦なく断罪します。現在、最強の組織である財務省は、軍が再建されますと、真っ先に弱体化します。

 うがった見方と笑われても、父は温故知新の読書から、そういう結論を得ています。マスコミがする、狂気のような「安倍おろし報道」は、財務省との共同作業です。言うことを聞かなければ、財務相は、伝家の宝刀を持っています。「税務調査権」です。本気で狙い撃ちされたら、大抵の会社は倒産します。財務省の持つ、「税務調査権」に逆らえる会社は、日本に存在しません。マスコミはもちろんのこと、銀行、保険、製造、販売、物流、通信、どんな会社も、財務省の力には屈します。

 財務省の凄いところは、決して表に出ず、霞が関の一角から遠隔操作をしているところです。国民の目には、見えませんし、マスコミも報道せず、政治家も言及しません。これを指摘できるのは、オランダの新聞記者カレル・オルフレンのような、外国人だけです。マスコミが報道しないことは、国民に伝わりませんから、重大事もスルーです。マスコミが報道しないことを、誰かが言っても、国民は信用しません。一流の新聞、一流のテレビ局の報道は、文句なしに国民が信じます。ネットの時代になるまで、国民は、マスコミ以外の情報源がありませんでしたから、朝日とNHKの天下でした。

 現在のように、だんだんネットの情報が浸透してきますと、マスコミの神話が崩れ始めました。それでも、どうでしょう、マスコミの偏向報道を信じ、疑問を抱かない人間が、まだまだ多数います。沖縄、北海道を見れば、あるいは、共同通信社の全国配信記事を見れば、彼らが、隠然たる影響力を持っていることが分かります。

  息子たちに言います。下記の数字は、令和元年5月現在の、政党支持率の一覧表です。先ほど、ネットから検索し、私が合成しました。NHK、日テレ、テレビ朝日と、各社ごとに少しずつ誤差がありますが、概略の傾向は似ています。私がここで言いたいのは、立憲民主党以下、野党各党への国民の支持率です。支持率ゼロの野党と、支持率一桁台しかない野党なのに、マスコミ各社の報道では、この反日・左翼政党が、まるで日本の中心にいて、自民党と対決していると、そのような報道ぶりです。「民主主義を守れ」「民意を尊重せよ」と、彼らは、安倍政権を批判しますが、この馬鹿げた主張の間違いを、息子たちには気づいて欲しいものです。

 一体、民意はどこにあるのか。多数の意見を無視し、取るに足りない、反日野党の意見を取り上げるというのなら、それこそ民主主義の否定です。父は、お前たちに、問います。

   1.  いつまで、このマスコミの民主主義破壊を許しておくのか。

    そして、父は、お前たちに、覚醒を促します。

   1.  この強力なマスコミの攻撃にも関わらず、安倍政権があるのは、物言わぬ国民の多数が、支持しているからです。民主主義の力です。
      2.  遠い将来、自民党が本当に一強となり、国民不在の政治をする時がきたら、支持をやめたら良いのです。
   3.  国の未来を決定するのは、賢明な庶民の一票だけです。


    「令和元年5月現在の政党支持率」 %
                                                 NHK              日テレ    テレビ朝日
   自 民 党         35.2                42                    45
   立憲民主党                           4.8                4                         9.9
   国民民主党                           0.7                 0                         1.7
   公 明 党                          3.1                4                         5.5 
   共    産    党                          3.2                2                         3.4
   日本維新の会                      2.9                 3                        3.9
   自 由 党        -                    -                           -
   希望の党                              0.0                -                          0
   社 民 党                    0.6                 0                         1.1   
   その他の政治団体            0.6                  1                         1.3
   支持政党なし                  40.2               41                      28.2

  お詫び・・・ 数字列が、どうしても揃いません。ご容赦ください。
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