ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

希望について

2010-02-18 21:06:54 | 随筆

 将来の夢や希望について、意識して考えだしたのは、中学生になってからだ。

 手元にある古い日記に書かれた、鉛筆書きの拙い文字が、中学二年生の秋からの、始まりを記している。昭和何年と書いてあるが、数字を入れると ( 隠すほどのものでないのだが ) 、年齢が明確になるので、故意にぼかしておくこととする。

 希望については、やっかいでも、一度は書かずにおれないテーマだった。
家族にはもちろんのこと、友人にも知人にも、気軽に話したくない気持ちがあった。照れるとか、恥ずかしいとか、口にするのさえ、うんざりするとでも言えば良いのか、説明のつかない重苦しさがある。

 気になるのでグーグルで、私のブログと同じ名前の「きまぐれ手帳」を、検索してみたら、なんと35万件もある。無数の気まぐれが世間にいて、てんでにブログを更新していると知り、呆れてしまった。

 35万件もある「気まぐれ手帳」なら、とりたてて、自分のものが読まれるという、心配もない。これなら、勝手な独り言が、のんびり続けられると一方では安堵した。

 安心したところで、本題へ戻ろう。

 「神童も、二十歳過ぎればただの人」と、こんな言葉があるくらいだから、ただの人になった神童は、ゴマンと居たに違いない。星の数ほどいる神童のひとかけらに、幼い日の私がいたと、恥を忍んでそこから始めないと先へ進めない。

 つまり、何をしても周りの大人たちから、許される子供。何をやっても、甘やかされる少年。神童は、たいていそういう状況に置かれている。

 良い子だから、大人に可愛がられるのか。可愛がられるために、良い子にしていたのか。今にして思えば、どちらが先行していたのか判然としないが、おぼろになった記憶の彼方に、確かにそんな少年だった自分がいる。

 君は大きくなったら、何になりたいかと聞かれ、学校の先生になりたいとか、バスの運転手になりたいとか、具体的な職業をハッキリ言える子供がいる。口には出さなかったけれど、私はそんな子を、すべて軽蔑していた。

 赤十字を創立したアンリ・デュナンや、植林の父と呼ばれた金原明善や、アフリカで医療に従事したシュバイツアーなどの、偉人について、学校の教科書で教えられていたからだった。

 少年よ大志を抱けと、クラーク博士が言われたなどと、先生に強調されたりすれば、神童なら誰だって、そんなリッパな人になるのだと意気込んでしまう。「人類や社会に役立つ人間」になりたいという希望が、自然なものとして生まれる。その結果、自分のことだけしか考えられない、クラスの者たちの小さな希望は、取るに足りないと、軽視せずにおれなくなった。それもごく自然のこととして・・。

 六十を過ぎた今だから、分かることだが、神童には三種類あるようだ。
   1. ホンモノの神童
   2.「二十歳過ぎればただの人と、早く気づけた」神童
   3.「二十歳過ぎても、ただの人と気づけなかった」神童

  2と3は、別の言葉で表現すると、「運のよい神童」と「運の悪かった神童」と言っても良い。自分がただの人と、早く気づいた運のよい神童は、過去のおのれを、率直に反省し、平凡そのものの家族を含め、同じく平凡な周囲の人間も、ちゃんと尊敬できるようになる。ついでに、感謝の念まで抱けるようになったりする。

 言うまでもないが、私は運のよい神童でなかったから、今頃こんな繰り言を述べている。

 それとなく疑いつつ、三十を過ぎ四十を過ぎても、ただの人と気づけなかった自己を、回顧するのは、なんと気の滅入る作業であることか。匿名なのでやれているが、実名なら一行だって書き進めない。

 「学術優秀・品行方正」。こんなものが、今の学校にあるのかどうか知らないが、当時は、クラスの何人かが教師に推薦され、学年末の終業式で、校長先生から賞状を受け取るという、晴れがましい行事が、当たり前のように行われていた。

 社会に役立つ人間になりたい、という希望を持ちつつ、小学校、中学校と進み、高校生になり、その間、自分なりに、希望の中身を吟味してみた。

 民主主義の教育が、人間平等と人格の尊厳を教え、未来に挑む、フロンティア精神まで植えつけてくれたので、人生はバラ色だった。人は誰も努力し、困難に打ち勝っていく。福沢諭吉もリンカーンも、貧しい家に生まれ、努力して立派な人間になった。

 社会に役立つ人間なら、政治家でも芸術家でも、思想家でもいい。ルソー、モンテスキュー、アダム・スミスと、すべては、自分の意志と努力にかかっているのだから、希望はまさにより取りみどりだった。

 望む東京の大学に合格し、青雲の志を抱いて上京し、おそらくここいらまでが、私の絶頂期だった。

 大学生になり、マンモス教室で、マイクの授業を聞きながら、どうすれば、あるいはどこへ行けば、希望への道に立てるのかと、苦悶の日々が始まった。どこを向いても壁だらけで、まずもって予想外だったのは、自分の話を、誰一人として、まともに聞いてくれないという恐ろしい現実を知った。

 活気に満ちた東京の喧騒さと、己の内心の貧しさとのギャップを埋めるものが、見つけられず、何度も自信を失いそうになった。田舎町の神童など、大都会では、路傍の石ころほどの存在感もないと知ったのに、素直に認めるにはまだ若過るた私だった。

「地を這う虫も、踏まれれば立ち上がる。」と、スカルノの言葉などを思い浮かべ、よけいな闘志を燃やしてしまった。
世界よ、教えてくれ。自分にとって大切なもの。この命を燃やすべき価値あるもの。僕はやはりそれを求める・・。舞台の演技でなく、本気で思い詰めた自分を振り返ると、そのしぶとさを誉めたい気持ちと、眉をひそめたくなる苦々しさがある。

 金もないのに、4年で卒業すべき大学を6年に延ばし、それでも、希望につながる端緒すらつかめず、無惨極まる結末となったが、これ以上は、道化の繰り返しになるばかりだから、書くのをやめよう。

 結局、私は大いなる失意と、幾ばくかの居直りとの入り混じった気持ちを、抱いたまま、小さな会社に就職を決めた。このあたりで、シッカリ現実と、向き合えば良かったのだろうが、どこかに、自分が本当に生きる場所がある、という思いが捨てられぬまま、生きてきた。

 そしてつい先日、これが多くの若者、とりわけ元神童たちの辿る道で、珍しくもないありふれた姿だったと、やっと理解し得た。希望という表題で述べてきたが、若者の一人として、ひたすら挑み、やみくもに悩み、それでも何とか、足を踏み外さずに生きてきたと、ただそれだけの回想でしかない。

 これで良かったのだし、私には、これしかできかったのろう。そうすると、やっぱりポール・ベルレーヌの詩が、思い出される。

   君、過ぎし日に、何をか為せし
 
   君、今ここに  唯嘆く  
 
   語れや、君、そも若きおり
 
   何をか為せし

 もしも、この詩との違いがあるとすれば、私は、今を嘆いていないというところだ。既に青雲の志を遂げる年でなくなり、その気も持っていない。身近になる老いと、その内に来る、死への準備があると、そっちの方が忙しくなった。

 青年時代の、喜怒哀楽の激情から解放された、この毎日の穏やかさよ。それだけでも嬉しい。年を取ることの有り難さなのか、感謝せずにおれない。

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ふるさとについて

2010-02-04 23:23:22 | 随筆

 ふるさとという言葉には、切ない響きがある。

 兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川と、「ふるさと」の唱歌は、日本人なら誰でも知っている文句なしの愛唱歌だ。メロディーを聞くだけで、涙がこぼれそうになってくる。

 ふるさとは、遠くにありて思うもの、そして悲しく歌うものと、これもまた、有名な犀星の詩で、日本人の心を捉えて離さない歌だ。故郷の村を追われるようにして東京へ出てきた啄木でさえ、故郷を懐かしんだ。

 ふるさとの訛りなつかし、停車場のなかに そを聞きに行く

 ふるさとは漢字にすると、古里、故郷、古郷と書いたりするが、いずれにしろ、誰にとっても、無くてはならない大切なものだ。

 しかし私には、そのふるさとが無い。

 生まれ故郷である満州が、日本の領土でなくなったからだ。戦争に負け、父がシベリアに抑留され、母は私を連れ、親類縁者たちと引き揚げてきた。足手まといになる子供が、親たちに殺されたり、現地人に売られたり、手渡されたりと、思い出すのもつらい出来事が多かったためか、父や母から当時の話をあまり聞いたことが無い。

 ひと頃テレビで盛んに報道された、「中国残留孤児の肉親探し」というのは、現地に残された当時の子供たちだ。母や親戚の者たちが、懸命に連れ帰ってくれたから、今の私があるが、中国に残されていたら私も彼らと同じ境遇だった。

 母によると、私たちが乗ってきた船は、引き揚げの第一船で、ハギ( 萩? )の船と呼ばれ、かって駆逐艦だったとのことだっ。引き揚げ船のほとんどが、舞鶴港に入ったが、ハギの船は、準備の整わなかった第一船らしく博多に入港したらしい。

    港出るときゃ 可愛い子が 波止場の隅で泣いていた

    船は帆任せ  帆は風任せ 復員輸送のハギの船

 母からだろうと思うが、こんな「ハギの船の歌」が記憶の隅に残っている.

 何年かして、父がシベリアから帰るまでも、父が家族の中心になってからも、私たち家族は、食べるための仕事を求め各地を転々とした。どこに居ても、私はそこに住む人々にとって他所者でしかなく、周りに馴染めなかった。

 父や母にふるさとがあるのに、その子にはないという奇妙な悲しみは、おそらく両親には分からなかったと思う。高校生になったとき、ふるさとという言葉を辞書で引き、三つの意味があることを初めて知った。

    1. 自分が生まれ育ったところ
    2. 自分がかって住んでいた土地
    3. かって都のあったところ  

 「生まれ育ったところ」が、ふるさとだと思っていたから、自分は根無しの浮き草と悲しんでいたが、「かって住んでいた土地」がふるさとと言うのなら、何てことはない。

 私には五つもふるさとがある、ということになる。それぞれの土地に、懐かしい友がいて、師がおられ、自然があり思い出があった。すると一気に、豊かな気持になれた。もともと欲張りだったので、他人より多いのなら何であれ得意になれた。

 だがそれも一時期のこと。ふるさとは一つあれば十分で、数は無意味だと、やがて理解した。分散されたふるさとを持つ私には、盆や正月、あるいは祭りの時期に、なんとしても、そこに帰ると言う愛郷心というか、郷土愛というのか、そんな強い愛着がどの土地にもない。

 まんべんなく好きで、まんべんなく懐かしい土地が、沢山あるだけで、ふるさとを持つ人間に特有の、熱い思い入れがない。これが自分の置かれた状況で、もしかすると歴史的な境遇でないのかと、今は誇らしい、諦観の気持ちだ。

 田中首相のお陰で中国との国交が回復し、行こうと思えば満州に行けるが、何の思い出もない土地を、訪ねたいという気にはなれない。

 さてこうして、自分だけのことを書いてきたが、子供たちについて考えると、彼らもまたふるさとのない子らだったのでないか、という気がする。会社で働いていた頃、ちょうど日本は、高度成長期だった。

 山口県、神奈川県、千葉県、兵庫県と五回ほど転居し、子供たちも転校を繰り返させ、生まれた場所と育った土地が別々になっている。

 僕は転校のない仕事に就きたいと、中学生だったと思うが、次男の書いた作文を読み、私は胸が痛んだ。可哀相なことをしたと思うが、そういう時代に生きていたのだと、納得するしか無い。

  1月の27日から「ふるさと」について書き始めて、やっと終わる。  

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