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日本国家の形成 - 7 ( 私の過ち )

2019-03-31 21:25:23 | 徒然の記
 山尾氏の『日本国家の形成』を、読み終えました。
書評は読んでいる途中でせず、読み終えてからすべきと自分で戒めたはずなのに、それを忘れ、読みながら批評しました。
 
 最終章の「天皇制国家の特質」と「あとがき」を読み、自分の早合点を反省いたしました。氏はやはり、反日・左翼学者と同列に見るべきでなく、真面目な歴史家でした。
 
 「この数年間に発表した論文を基に、律令国家形成史の諸段階を、大づかみに書いてみた。」「全体として、一つの作業仮説であり試論であって、しかも、輪郭の粗い素描に過ぎない。」
 
 「この数年間の私の勉強は、津田左右吉氏の『日本古代史の研究』と、石母田正氏の、『日本の古代国家』に取り組んでの模索と、試行の繰り返しである。」「書き終わって、二人の先達の掌中で、少しあがいたに過ぎぬ気がする。」
 
 「おのれの無知だけは、自覚できたので、改めて勉強しなおしたい。草稿を圧縮したため、説明不足と思うところも目につく。」「読者にお詫びするとともに、ご検討ご批判を、お願いする次第である。」
 
 これが、「あとがき」に述べられた言葉でした。氏が、何年もかけ取り組んだ課題を、私はわずか9日間の読書で、批評しました。草稿圧縮のための説明不足を氏が詫びていますが、それは確かだろうと、読者である私は同感しました。説明が割愛された部分で、理解ができなくなり違った解釈をしたのかと、そんな気もします。
 
 「おのれの無知だけは、自覚できたので、改めて勉強しなおしたい。」
 あとがきの謙虚さと誠実さを知り、散々批判してきた自分を、恥じました。最終章で、氏は文字通りの師となり、私は生徒となりました。
 
 「日本の君主の称号としての天皇の成立について、最も古い説明は、私の知る限りでは、平安時代末のものである。」
 
 1118年の鳥羽天皇のとき、宋が送ってきた国書を、天皇が諸家に勘案・奏上させました。そのとき中原師安 ( もろやす ) ら五人が、次のように述べました。
 
 「聖徳太子が隋に、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、との国書を送ったが、返書には皇帝、倭王に問う、とあった。」「太子は、天子の号を倭王におとされたのをにくみ、報書に、東の天皇、西の皇帝に白すとした。」
 
 氏はこの5人の諸家の言葉を引用し、天子と皇帝の号から、天皇という号を作ったのだろうと解釈しています。また、律令制下の天皇は、最高軍事指揮権を中心に、天皇の大権を保有していたと説明します。
 
 「国家の大権と天皇主権のあり方を、最も端的に明示するのが、外に対する接触のときである。」「それゆえ天皇に代わり、その折衝にあたる、遣唐使と征夷大将軍には、節刀が与えられる。」「命令に服さない者を、天皇の名において、専殺しうるのであり、天皇の刑罰権をも委任されたのである。」
 
 聖徳太子の国書については聞いておりましたが、遣唐使と征夷大将軍の節刀については、初めて知りました。また氏はここで、律令制下の天皇について、大変重要な基本的性質を列挙します。
 
  1. 天皇は、姓 ( せい ) を賜与する唯一の主体として、政治的身分秩序を形成する根拠となっていること。
  2. 天皇は、位階を授与する唯一の主体であること。
  3. 天皇は、官人機構を形成する主体である。
  4. 支配階級の一般意志や、重要な事項は、天皇の命令として現れる。
 
 大化の改新は、天皇を中心とする律令国家を作るのが目的でした。明治維新のとき、元勲達が再び、強固な「天皇制国家」作ろうとしたのは、列強の脅威に対抗するためでした。飛鳥時代の天皇と貴族も、強大な中国や朝鮮の諸国と対抗するため、強固な律令国家を作ろうとしたのです。
 
 「律令体制における天皇は法を超越し、法の妥当性に根拠を与える、究極的権威として位置づけられている。」「従ってそれは、特定の階級を代表するのでなく、階級を超越した、無謬の神聖なるものでなければならず、政治的道徳規範の、根元でなければならない。」
 
 「天つ神の子孫であり、聖徳なる天皇は血統という、自然の秩序にのみ規制されるのである。」
 
 ここまでの理解がなされているのなら、言うことがありません。ここで語られているのは、現在に至る天皇の姿です。あらゆるものを超越する存在で、究極の権威なのですから、天皇にあるのは「公」のみで、「私」がありません。いわば天皇は、こういう時代から、過酷で大変な立場におられたことになります。
 
 「天つ神の子孫であり、聖徳なる天皇は、血統という自然の秩序にのみ、規制されるのである。」・・ この言葉は、男系維持の重要さを説明しています。心得違いをしている自民党の議員は、歴史を勉強し直さなければダメだ、ということも教えられます。
 
 良心的学者として敬服させつつ、それでも氏はまだ惑わせます。
 
 「このような法的観念的な形態と、それがどの程度実質化し永続するかは、別の問題であって・・・・」と、疑問を続けていますが、深く考えないことにいたしました。
 
 大切なのは、
  1.  氏が反日・左翼の学者でなかったこと。
  2.  日本を貶め、嫌悪する、「東京裁判」を肯定する学者でなかったこと
  3.  天皇のお立場を、正く説明する学者であったこと
 
 山尾氏に申します。「私もまた、己の無知を自覚しましたので、これから勉強しなおします。」
 
 氏の著書は、有価物のゴミとせず自分の本箱に納めます。予想しない結果となりましたが、人生にはこんなこともあるのでしょうか。勝手な書評で、ご迷惑をおかけした訪問者の方々には、お詫び申し上げます。
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日本国家の形成 - 6 ( 日本史の中心に日本が無い、歴史学者 )

2019-03-28 21:26:07 | 徒然の記
 山尾氏の著作は、第3章「大化の改新の実態」です。これについて述べる前に、別途調べた「大化の改新」の説明を紹介します。
 
 「大化の改新は、飛鳥時代の孝徳天皇の646年に発布された、」「改新の詔 ( みことのり ) に基づく、政治的改革である。」「改新の詔は、ヤマト政権の、土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、」「天皇を中心とする、律令国家成立を目指す内容となっている。」
 
 「この政治改革は、皇極天皇の皇居における、蘇我入鹿暗殺により、」「当時、天皇を次々と擁立したり、廃したりするほど権勢を誇っていた、蘇我氏を滅亡させた、」「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から、始まった。」 
 
 「改革そのものは、天皇ではなく、」「皇極太上天皇と、その親友とされる、」「中臣鎌足の主導のもと、」「年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって、推進された。」
 
 「この改革によって、豪族を中心とした政治から、」「天皇中心の政治へと移り変わったとされている。」「また大化は、日本最初の元号である。」「この改革により、日本という国号と、天皇という称号の使用が、始まったとされる。」
 
 山尾氏の著作を読んでいながら、わざわざ別の情報を探した理由を、説明しなくてなりません。
 
   1. 氏の説明では、大化の改新の意味が掴めない。 
   2. 氏の使う言葉は不適切な用語で、読者である私に不快感を与える。
 
 古代の日本を語るとき、なぜか氏は朝鮮との関係を重視し、すべての出来事に朝鮮の事実をからめます。なぜ、日本の歴史を中心にして、書き進められないのか。客観的事実を求める、学者の良心がそうさせるのか。依然として判断がつきませんが、日本人である自分を耐えがたくさせます。
 
 日本の歴史で大転換をもたらした出来事が、三つあると考えています。学校で教えられたのでなく、年金暮らしの読書生活で知ったことですから、歴史に詳しい人物は、別の出来事をあげるのかもしれません。
 
  1. 大化の改新   2. 明治維新  3. 大東亜戦争の敗北
 
 この出来事以降、日本が大きく転換しました。歴史ばかりでなく、国民の意識や、文化や伝統まで、嵐に見舞われました。どれを取っても重大なできごとで、受け止めなくてならない事実だと、考えています。しかるに氏は、大化の改新を説明する時、「クーデター」という言葉を使います。ブリタニカの辞典で、「クーデター」は、次のように説明されています。
 
 「一般に武力による奇襲攻撃により、政権を奪取することをいう。」「通常の政権交代方式と違って、非合法的であることに特徴がある。」「また革命は、支配階級に対する大衆の蜂起と、それに続く既存の体制の転覆であるが、」「クーデターは、支配階級内部の権力争奪である点で、革命とも違っている。」
 
 息子たちに、この不快感が伝わるのか分かりませんが、訪問される方々の中には、理解する人がいるような気がします。国家大変革の重大事を、マルクス用語で語ろうというのですから、良識を疑います。他の説明では「政治的改革」という言葉を使っており、学校でもそのように習いました。非合法な、武力による政権奪取とは、一度も教わりません。まして「クーデター」などと。
 
 前回のブログで、下記の氏の意見を紹介しました。
 
 「畿内閥族による、地方の土豪に対する階級的闘争が、」「律令国家機構を生み出すまで、徹底して苛烈なものになるのは、」「663年の、白村江 ( はくすきのえ ) の、敗戦を待たねばならぬと思う。」
 
 大化の改新の遠因が、白村江の敗戦にあるという意見です。氏の著書では、古代史の日本の動きが、すべて朝鮮の3国との関係で説明されます。もしかすると氏の頭には、未開な文化しか持たない日本と、先進国である韓国という図式が、固定されているのかもしれません。
 
 「自分の国の安全を、自分の国の軍隊で守れない日本は、アメリカの属国でしかない。」「中国や韓国の難癖にも反論せず、国際社会で孤立している日本は、情けない国である。」
 
 私はこの認識に立ち、「日本を取り戻そう」と、息子たちへのブログを綴っています。だからといって、現状を日本の歴史として語るとき、氏がするようにアメリカや、中国や韓国を第一のものとして説明するでしょうか。これらの国々が、日本に対し大きな影響を及ぼしているからといって、日本の政府が劣っているとか、つまらない国だとか、そんな分析だけで終わるのでしょうか。
 
 世界のどこの国でも、たとえ小さな貧しい小国でも、国民に歴史を語るときは、誇りと希望を教えます。これが世界の常識と考える私は、不快感を持ちながら氏の叙述を紹介し、本日のブログを終わります。
 
 「聖徳太子の時代は閥族政治の開始であって、」「太子の政治が、改新の先駆だと言えるほどの根拠は、ほとんどない。」「改新そのものが、はたして公地・公民制の採用と、規定しうるのかどうか、大いに疑問であろう。」
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日本国家の形成 - 5 ( 『記紀』の否定に終始する、山尾氏 )

2019-03-28 21:17:47 | 徒然の記
 山尾氏の著作は、やっと半分です。四苦八苦しています。難解な哲学書でもないのに、なぜこんなに分かりづらいのか。やっと、原因の一つを、見つけました。
 
 『日本国家の形成』という書名なのに、国家の主体となるものが明確に語られていません。『古事記』と『日本書紀』を否定する氏の立場からすれば、古墳・飛鳥の時代に、日本には全国統一の政権は存在しなかった、という話になるのかもしれません。
 
 氏は説明の中で、「大和朝廷」「天皇」という言葉を使用しません。その代わりとして、「倭王権」「大王」という聞きなれない用語を使います。だから私は、氏が何について説明しているのか時々理解ができなくなります。
 
 昭和に生まれ、平成を生きてきた私にとって、皇室は日本史を貫く一本の糸です。天皇を曖昧にし語らない歴史を、どうやら私の心は、日本史として受け取れなくなっているようです。古代の社会では豪族たちが割拠し、互いに覇を争っていた。天皇は、その豪族の中の一つの勢力でしかないと主張したいのなら、そういう意見を一貫して展開すれば良いと思います。
 
 戦前に政府や、頑迷な歴史学者たちが、天皇をむやみに神格化し、自由な研究を許さなかったという事実を知っています。だからといって、敗戦後に極端な否定をするというのでは、それもまた節度の無い話ではありませんか。
 
 その具体例を、123ページの「推古朝の国家の段階」から、紹介します。予備知識として、「ミヤケ」に関する氏の説明を、先に転記します。
 
 「ミヤケとは、大王または朝廷の倉庫や屋舎などの建物のある、一角の場所などを表す時に使われた言葉らしい。」
 
 「地溝開発や、堤防築造によると否とにかかわらず、」「『記紀』に共通する、ミヤケ設置記事は、」「きわめて古い時代から、始まっているかのように書かれているが、」「伝承文にある時代に設置されたとまで言うのは、論理の飛躍であって、」「はっきり分かるのは伝承でなく、期限や由来が説明されている時代だけの、実在である。」
 
 「応神・仁徳頃からの、開発とミヤケの設置の伝承は、事実と認められている。」「しかし垂仁とか景行などという、古い時代はおろか、」「仁徳期の話さえ、ほとんど史実性がない。」「そもそも『記紀』の全体構造、すなわち7世紀の王権史認識の中で考えるなら、」「とうてい、そのまま承認することのできないものである。 」
 
 氏がここで言っているのは、推古天皇の時代に、地溝開発やミヤケの設置が広く行われたという、『古事記・日本書紀』の記述は、信用できないという意見です。本文はもっと長く、詳細な説明ですが、どうせ私には判断できないのですから、割愛して紹介しました。
 
 分からないついでに、もう一例だけ、127ページより転記いたします。
 
 「隋書の一般的性質からも、」「倭国伝にみえるいくつかの記事からも、」「このような、中央・地方の政治組織は、倭人が文物礼制の具備を修飾し、誇張していると見るのが、妥当なのであって、」「中国人の空想として、一蹴する説には同調できない。」
 
 「倭人が畿内の現実をかなり誇張し、プランに過ぎぬものを、全国的に完成したものとして、」「伝えたのであろうと、思う。」
 
 隋の古文書が、日本の政治組織の整備を書いていると、それは誇張して日本が伝えたものだと、氏は説明します。何であれ、日本については否定せずにおれない、奇妙な歴史学者です。この章の締めくくりの言葉も、ついでに紹介します。
 
 「私は、幾多の国家の要素の、発達を認めつつも、」「7世紀半ばでも、なお、上述の程度と考えるのであって、」「畿内閥族による、地方の土豪に対する、階級的闘争が、」「律令国家機構を生み出すまで、徹底して苛烈なものになるのは、663年の、白村江 ( はくすきのえ ) の、敗戦を待たねばならぬと思う。」
 
 ここにきて、なんと階級闘争という言葉が出てきました。資本主義の萌芽すらない、古代律令制の国に、どんな階級闘争があると、氏は言いたいのでしょう。朝廷貴族と、地方の豪族とのせめぎ合いを、階級闘争と見るでしょうか。
 
 氏の意見が正しいのかどうか、依然として、判断がつきません。疲れてまいりましたので、本日はこれまでとし、次回へつなぎます。
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日本国家の形成 - 4 ( 愛国心は、歴史学者に不要なのか ? )

2019-03-27 17:03:11 | 徒然の記
 山尾氏の著作は、まだ半分も進んでいません。
 
 氏の言葉を借りれば、古代史とは5世紀の半ばから、7世紀の終わりまでとなるのでしょうか。日本神話に関する書は何冊か読みましたが、考えてみれば、古代史に関する本を読むのは初めてです。
 
 人名も地名も、馴染みのないものばかりで、まさに五里霧中。羅針盤をなくした船のように、自分の位置さえ掴めません。どうせ分からないのなら、いっそのこと、出発点に戻ろうと、ネットで「日本史年表」を探しました。以下その一部を、紹介します。
 
  ⚫︎ 縄文時代 - [紀元前1万4000年頃 ~ 前4世紀頃]
  ⚫︎ 弥生時代 - [紀元前4世紀頃 ~ 250年頃]   ( 238年頃 卑弥呼の邪馬台国 )
  ⚫︎ 古墳時代 - [250年頃 ~ 592年]
  ⚫︎ 飛鳥時代 - [592年 ~ 710年]   
  ⚫︎ 奈良時代 - [710年 ~ 794年]   ( 712年『古事記』編纂 )  ( 720年 『日本書紀』編纂 )
  ⚫︎ 平安時代 - [794年 ~ 1185年]
  ⚫︎ 鎌倉時代 - [1185年 ~ 1333年]
  ⚫︎ 室町時代 - [1336年 ~ 1573年]
 
 氏の著作が対象としている時代を、赤字で示し、卑弥呼の邪馬台国の成立年と、記紀の編纂年を、参考のため付記しました。こうすると、自分がさまよっている、歴史の地点が掴めます。
 
 わずか92ページで、氏を評するのは早すぎる気もしますが、一言述べたくなりました。一般論として世界の歴史学者は、自分の研究対象とする歴史について、愛を感じないまま取り組むのでしょうか。まして自国の歴史なら、心のどこかに夢やロマンを持ち、肯定する意見を述べないのでしょうか。
 
 「『日本書紀』には、任那だけでなく、」「朝鮮三国からの、調、調部が、」「6世紀中頃から、盛んに現れる。」「調は、服従者が支配者に供給する特産物であるが、」「『日本書紀』に書かれた調は、律令国家間で用いられる、外交用語である。」「だからそれは、国家間の従属関係を、少しも証明していないのである。」
 
 「隋書の『倭人伝』には、」「新羅、百済は皆、倭をもって大国となし、」「珍物を多くして、倭を敬仰し、」「通史往来す。」「と書いてある。」
 
 しかしこれは遣隋使が語ったものだから、文字通りに受け取ってはならないと、氏はたしなめます。朝鮮から盛んに送られてくる、貴重品はむしろ日本の国内事情によるのだ、と言います。
 
 「私はこのような物の需要は、抗争する派閥的な、」「貴族集団の存在と、不可分だろうと思う。」「朝鮮からもたらされる財宝がなければ、」「各地の中・下級の豪族、あるいは政界での多数派工作等が、」「運営できなかったのであると思う。」
 
 さらに氏は、『日本書紀』を否定するための説明を続けます。
 
 「日本からの百済への派兵は、百済とっては傭兵であり、」「その対価としての調である。」「新羅は一方的に、調を日本へ送ってくるが、その真意は、従属者としての貢ぎ物でなく、」「政治に関与させないという 、意思表示である。」
 
 朝鮮の学者が言うのなら、まだ理解しますが、日本人の学者である氏が、ここまで朝鮮の立場で意見を述べるのかと、いささか幻滅します。反日・左翼学者の著作には、激しい怒りを覚えた私ですが、山尾氏にはだ不快感を覚えるだけです。
 
 私は氏に、日本びいきの意見を期待しているのではありません。最近のテレビがやっているように、「日本のここが凄い」と、むやみに持ち上げる意見を求めているのでありません。
 
 日本人の学者なら、日本への愛を感じさせる姿勢で歴史に取り組めないのかと、そういう疑問です。人間を75年やっていますから、「愛する人間がする批判」と、「愛のない者のする批判」の区別は、つきます。息子たちや、訪問される方に問います。氏の意見のどこかに、日本への愛が感じられたでしょうか。
 
 そうなりますと思い出すのは、やはり氏の対極にいる田中英道氏です。氏は縄文・弥生時代の遺跡や出土品を現地で調査し、全国の神社・仏閣の古文書を調べ、自説を組み立てています。奇想天外な意見に、まだ半信半疑ですが、氏の言葉には少なくとも「日本への愛」が、感じとれます。
 
 『記紀』を否定し、韓国や中国の古文書を読み、机上で自説を組み立てている氏と、田中氏のいずれの説を是とするかと問われれば、田中氏の現場主義に賛同します。
 
 息子たちに言います。もう一度、「日本史年表」を見てください。縄文時代は、紀元前1万4000年も前から、紀元前400年までという、想像もできない長い年月です。次の弥生時代は、紀元前400年から 250年頃までです。古墳や飛鳥時代のわずか460年とは、比べ物にならない長さです。
 
 田中氏は、その縄文と弥生時代の調査・研究を踏まえ、自説を組み立ています。
 
 「縄文・弥生時代、日本の中心は関東・東北だった。」「日本で最も人口が多く、最も栄えた土地だった。」
 
 「関東・東北地方が、日本で一番早く日が昇る土地であり、」「多くの人間が集まった理由だ。」「日の本とは、関東・東北地方のことであり、」「高天原とは、関東を指している言葉だ。」
 
 山尾氏は、渡来人秦氏が朝鮮人だと説明しますが、田中氏はユダヤ人だと主張します。もう少し勉強すれば分かるのかもしれませんが、山尾氏と田中氏のいずれが学問的に正しいのか、判断する知識がありません。それでも、私が持つ庶民の常識では、揺るぎない確信があります。
 
 田中氏の姿勢に「日本への愛」を感じますが、山尾氏には「日本への否定」だけを感じさせられます。それは、例えようもない不快感です。
 
 明日からの読書で、この不快感が胡散霧消することを願いつつ、本日はここで終わります。
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日本国家の形成 - 3 ( 山尾氏と、田中氏の説 )

2019-03-26 16:09:40 | 徒然の記
 山尾氏の著書への3回目のブログです。氏が、昭和51年当時の、よく知られていた通説を紹介しています。
 
 「4世紀後半、倭王権は、慶尚南道や全羅南道などにあった、幾つかの小国を一括支配し、」「南部朝鮮を直轄領の、任那 ( みまな ) とした。」 「その結果、新羅王や百済王も、倭王に服属した。」
 
 朝鮮の古地図が挿入されていますので、確かめながら読みますと、なんとその支配地は、現在の韓国の南半分に相当します。学校で教わった4世紀の日本は、縄文から弥生時代に移り、古墳時代になったという時期で、土器や土偶の話ししか聞かされていません。
 
 そのような大昔に、日本が朝鮮に進出し、南半分を支配して任那と命名していたというのですから、驚くしかありません。新羅や百済の王までが服属していたとは、信じられない叙述です。
 
 「しかし5世紀末ごろから、百済が全羅南道を、」「6世紀前半には、新羅が慶尚南道を侵食し、併合していった。」「そののち倭王権は、復興を企てるが、結局失敗して、任那は滅亡し、」「新羅から、貢物 ( みつぎもの ) を、受納するにとどまった。」「そして663年、白村江 (  はくすきのえ ) 」での敗戦により、倭王権の、朝鮮における足場は、ついになくなった。」
 
 小学校一年生だったのは昭和25年で、マッカーサーが日本を統治していた時ですから、こうした歴史を教えるはずがありません。ここで山尾氏が、通説として紹介しているのは、もしかすると、皇国史観に立った戦前の説なのかもしれません。
 
 なぜなら氏は、この通説を次章で否定しているからです。任那の日本府には、通説に言われているような、実体がなかったという意見になっています。氏が論拠としているのは、韓国の史書である『百済記』、『百済本記』、『三国史記』、『史斉記』などです。日本の史書である『神皇紀』や『継体紀』や『応神紀』も、参照されていますが、反証の材料として使われているに過ぎません。
 
 「本書は、考古学や地理学の、学説によって立論することを避け、」「それらも含む、歴史研究全体の中で、」「文献学の方法による、歴史研究によって期待されている、史料批判によって、立論し、」「他の方法による、研究結果と、つき合わせようとしている。」
 
 回りくどい説明なので、私は氏の研究姿勢を、自分なりの言葉で理解します。
 
  1. 考古学と地理学を、参考にしない。
  2. 史料批判による立論、つまり伝統的な『記紀』を批判した理論に立つ。
 
 こうなると私は、どうしても、先日知った田中英道氏の言葉を思い出します。
 
 「私は、思いつきで意見を述べているのではありませんよ。」「そこいらの素人が、何年か本を読んで、邪馬台国が九州だとか、近畿地方だとか、」「いろいろ好きなことを言っているのとは、訳が違います。」「私は、日本の古い遺跡を調査し、古来からの神社を訪ね、」「そこから出土したものや、残された文献を、何十年も研究しています。」
 
 「だから、学者としての生命をかけて意見を述べています。」「日本での一番の問題は、遺跡や遺物を調べる考古学者と、古文書を研究する歴史学者が、」「互いに協力せず、意思の疎通を欠いているところにあるのです。」
 
 「戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代を、まるで未開の野蛮時代でもあったかのように、」「古墳時代なんて、勝手な名前をつけています。」「しかし考古学者は、縄文時代の焼き物や、弥生時代の古墳から発見される土器、」「土偶、銅鐸などを丹念に調べ、文字がなくても、日本に、素晴らしい文化があったことを知っています。」
 
 少し大げさに言いますと、私は一瞬で田中氏に心を奪われました。古代史の学徒でもないのに、感動を覚え、氏の言葉に聞き入りました。氏の言に従えば、山尾氏は、まさに批判の対象となる歴史学者です。
 
 戦後の風潮だったとは言え、山尾氏は意識して考古学者との連携を止め、『記紀』を軽視し、韓国や中国の古文書を重視しています。氏の研究姿勢も誠実で、学者としての良心に基づいていることは理解しますが、残念ながら、結果として、反日・左翼が跋扈する、今日の日本を作る手助けをしたのは事実です。
 
 「戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代を、まるで未開の野蛮時代でもあったかのように、」「古墳時代なんて、勝手な名前をつけています。」
 
 戦後の歴史学者、ことに反日・左翼・マルキスト学者を、嫌悪するのは、現在の風潮を作った元凶だからです。政界、教育界、法曹界、マスコミ界と、隅々にまで浸透する反日思想に、理論的根拠を与えたのが彼らだったからです。
 
 だから自分は、任那の日本府も知らずに成長し、土器と埴輪と土偶の写真しか、教わらなかったと理解しました。土器、土偶、銅鐸、銅鏡、そして無数の古墳を丹念に調べれば、文字がなくても、あの時代に素晴らしい文化があったという、田中氏の言葉の中に、私の知らなかった日本の過去が見えました。
 
 それに比べますと、山尾氏の次の叙述には何の感動もありません。それどころか、次の説明では、反日・左翼学者と同様、大和朝廷と卑弥呼の邪馬台国との関係が不明のままです。
 
 「倭の五王時代の、政治的構造の様式は、」「西日本に、筑紫・吉備その他、部族的組織の、」「首長の結合による、政治宗教的な、統一体の統治が、」「地域的完結性をもって存在し、」「独自の秩序を形成していたのであり、」「それらが、倭王として、」「中国王朝との交通を独占する、畿内の地域政権の王を中心に、」「様々の従属形態をもって、結託していたのだと思う。」
 
 「だから倭国は、西日本の政権連合と呼ぶのが、よりふさわしい。」
 
 頭が良くないから、こんなややこしい説明になるのか、手に負えない文章です。しかし田中氏は、大胆にも、「卑弥呼も、邪馬台国も、存在しなかったのではないか。」と、語ります。日本を統一した邪馬台国が、本当にあったのかと、氏が疑問を抱く根拠を、以前ブログで書きましたが再度紹介します。
 
  1. 日本中の古墳を調べても、卑弥呼と邪馬台の関連品が出土しない。
     2. 古来からある神社の、文書、伝承、遺物を調査しても、卑弥呼と邪馬台に関するものが出てこない。
    3. 『古事記』、『日本書紀』に、『魏志倭人伝』が引用されているが、卑弥呼と邪馬台に関する叙述がない。
  4. もしも、卑弥呼と邪馬台が現存するのなら、いずれかの風土記の中に記載されているはずなのに、書かれていない。
  5. 日本の歴史学者は、『魏志倭人伝』を、過大評価しているのではないか。
 
 氏の意見は、学者としての正論と考えます。どうやら、山尾氏の書評を続ける限り、対極にある田中氏の意見が、常に立ちはだかるようです。それはそれで有意義なこととですが、心配なのは、わが息子たちと、訪問される方々です。
 
 退屈で、あくびを堪えているのでないかと考え、今回はここで一区切りをつけます。
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千葉日報への提案

2019-03-25 17:41:07 | 徒然の記
 3月15日の記事です。見出しに、こう書いてあります。

  「明石市長に暴言の泉氏3選」

 見出しを見て、私はこのように理解いたしました。
「明石市長に対し、暴言を吐いた泉氏が、選挙で3選を果たした。」

 記事を読みますと、明石市長と泉氏は同一人物で、暴言を吐いたにも拘らず、選挙で3選されたという内容でした。このような誤解が生じないために、私は次のように、見出しを書き直してみました。

 「暴言の泉氏、明石市長に3選」

 見出しに、句読点を付けないという規則があるのでしたら、「泉氏」と「明石氏」の間に、半角のスペースを入れれば、同じ意味になります。同社の見出しで、半角のスペースを使用している例が、幾つかあります。

 過去の経緯を知っている読者なら、もしかすると、私のような誤解はしないのでしょうが、紛らわしい見出しであることに、違いはありません。どうでも良い提案なのか、大切な指摘なのか、よく分かりませんが、記事で売る新聞社ですから、このくらいの推敲はして良いのでないかと、思います。

 ここまできて、ハタと立ち止まりました。どうでも良い些事を、針小棒大に取り上げ、国会審議を無意味なものにしている、反日・野党の議員を思い出したからです。自分も、彼らのように、取るに足りない事柄を指摘し、千葉日報を困らせるだけの人間と思われるのではないかと、ためらいが生じました。

 いやそんなことはあるまい、読者の真面目な提案なら、千葉日報は静かに受け止めるはず・・と、いつものように、都合の良い解釈をすることに決めました。
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日本国家の形成 - 2 ( 『古事記』と『日本書紀』の否定から )

2019-03-25 13:57:51 | 徒然の記

 山尾氏の著書は、基礎知識のない門外漢には難しくて、難渋します。

 敗戦後に日本の歴史は、大きく修正されました。その記憶はありませんが、戦前の日本史は、天皇家を中心とする「皇国史観」で、貫かれていたと聞いています。天孫降臨の神話に始まる、大和朝廷の歴史以外の考え方が、認められませんでした。歴史学者が、客観的な史実を求めようとしても政治が許しませんでした。

 書評を真面目にやろうと思えば、どうしても、話はここから始めなくてなりません。つまり大東亜戦争の敗北と、GHQによる占領統治です。山尾幸久氏や田中英道氏について語ろうとすれば、この二つを抜きにはできません。私たち国民は戦後73年が経過しても、まだ二つの壁が乗り越えられず、呪縛からの卒業ができません。

 戦前は『古事記』と『日本書紀』が、歴史の原典としての地位を占め、異義を唱えることができなかった、と聞いています。GHQが天皇制を否定する方針で統治し、自由な研究を許したので、多くの学者が喜びました。喜んだ学者の中には、純粋な学究精神の人物もいましたし、政治的な歴史観を持つマルキストもいました。

 戦後の日本史の見直しは、まず『古事記』と『日本書紀』の否定から出発したと思っています。理由は今でも覚えていますが、次の2点でした。

 1. 『古事記』と『日本書紀』は科学的な根拠がなく、全く合理性がない。

 2. 神武天皇以来、百代に渡る天皇の名前を、子供の頃から暗記させられたが、百才以上の天皇がいたり、昔の人間の寿命がそんなに長いはずがない。

 中学生だったか高校生の頃だったか、正確な記憶がありませんが、こんな話は日常会話でやりせんので、授業で教えられたのだと思っています。私は歴史にも日本にも大した興味がなく、受験勉強に忙しかったため、「そういうことか」と受け止めていました。

 息子たちのためには、もっと分かりやすい、戦前と戦後の違いを説明します。建国記念日という祝日がありますが、戦前は「紀元節」と呼んでいました。「紀元節」とは、神武天皇が即位した日を、建国の初めとしたもので、国民の祝日でした。『古事記』や『日本書紀』で、初代の神武天皇が即位した日とされていたからです。

 しかし現在、学校ではこのようなことを教えませんし、子供は休みの日は嬉しいと、その程度でしか考えていません。戦後建国記念日を、再び祝日として制定するため、自民党の議員と反日左翼の議員が、どれほどの論戦を国会で重ねたか。「紀元節」という言葉が使えず、自民党は「建国記念の日」という曖昧な表現で妥協しました。私たちは、その事実さえ知りませんし、反日・左翼と、保守の対立は、時の経過とともに深まり、歩み寄る気配がありません。

 息子たちに言います。国の歴史を大切にする国民と、国を憎むしかできない反日・左翼・グローバリストが、今も激しく対立しているから、お前たちのために、ブログを書き始めました。敗戦の傷跡が、日本にとってどれほど大きなものであったか、そして現在も、大きなものであり続けているのか。気がついて欲しいと思います。

 ここで、山尾氏の話につながります。敗戦以後、日本の歴史学者は、大きく二つのグループに分かれました。保守の学者と、反日・左翼の学者です。反日・左翼学者は、『古事記』と『日本書紀』を否定し、中国や韓国の歴史書に重きを置きます。この学者たちは、日本の歴史を階級闘争の視点で語り、経済という思考からしか日本を語りません。

 戦前は保守の学者が学界を支配し、大手を振っていましたが、戦後は立場が逆転しました。GHQの後ろ盾もあり、瞬く間に学界の支配権を奪い取り、今は反日・左翼学者の天下となっています。

 私が中庸の学者と思う津田左右吉氏でさえ、『古事記』と『日本書紀』を疑問視し、否定に近い扱いをしています。つい先日私が発見した、保守の学者は田中英道氏です。私の常識を超える主張をしますが、納得出来る理論と根拠があり、心が惹かれています。

 山尾氏は、反日・左翼ではありませんが、津田左右吉氏と同じく、『記紀』を軽視し、中・韓の古文書を優先しています。田中氏と山尾氏と、どちらが正論なのか、今は分かりません。しかしこの本を読み終える頃には、庶民の常識が、判断させてくれるはずです。

 『古事記』と『日本書紀』の否定は、戦前が過激な皇国史観であったための、反動だと理解できます。極端なものには必ず反動が生じますから、戦後はまた極端な反動が生じ、『古事記』と『日本書紀』の否定となりました。73年が経過し、過激な・反日・左翼の歴史観に、今度は、庶民の中から反動が出てきたのが現在であると、そう考えています。

 二回目の書評ですが、まだ中身には触れていません。明日から、少しずつ勉強させてもらいながら、意見が述べられるようになりたいと考えています。

  山尾氏は今年84才で、立命館大学の名誉教授だそうです。著書出販時は助教授でしたから、この本も時の重みを感じさせます。
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日本国家の形成 ( いい加減の方が良い、書評 )

2019-03-23 13:41:35 | 徒然の記

 山尾幸久氏著『日本国家の形成』(昭和52年刊 岩波新書)を、手にしています。やっと28ページです。

 もともと情報は、そういう役割を持っているのかもしれませんが、テレビや新聞やネットを見ていますと、今にも日本がダメになりそうな気持ちにさせられます。

 のんびり、楽しく暮らしている人間に、そんなことでは今に後悔するぞと、戒めたり、諭したり、お節介をしたりします。それはそれで意味があり、大事なのでしょうが、常時反応しているとろくなことはありません。適度に耳を傾け、時には知らぬ顔をしたり、うまくつき合わないと失敗します。

  これが書評なのかと、息子たちは首をかしげるのかもしれません。これが書評だと、父は言います。書評とは、その本を手にしたことにより誘発されるもろもろの感想、あるいは意見であると、世間と違い、父はとても大きな概念で捉えています。

 昨日までは、沖縄の住民投票に始まる憲法改正問題、女性宮家や女系天皇のこと、あるいは初心を忘れた自民党の劣化ぶりなど、末法思想に絡め取られていました。もうすぐ日本がダメになると、矢も楯もおれなくなり、かといって何をすべきか妙案もなく、あるはずもなく、庭の水やりで雑念を払っておりました。

  巻末に印刷された氏の略歴は、次のように書かれています。

 「昭和10年に、中国の撫順市に生まれる。」「昭和41年、立命館大学文学部史学科卒業」「専攻、日本古代史。」「現在、立命館大学助教授。」「著書、『魏志倭人伝』」

 私より9才年上の氏は、中国生まれです。ちょうど手元に私の戸籍謄本がありますので、紹介します。昔の文字で印刷されていますが、現在の漢数字にします。

 「昭和19年1月1日、満州国興安北省ハイラル市腰芦子無号地で出生。」「同月14日、父届け出。」「同年4月8日、満州国駐在特命全権大使梅津美治郎から送付入籍。」

 しかし本当は、昭和18年12月9日生まれなのです。戦前は、12月8日の真珠湾攻撃の日が「戦勝記念日」と呼ばれる目出度い日で、私の出産予定日でした。熊本の郷里に住む祖父が楽しみにしていたのに、1日遅れで生まれたため、次に目出度い日である正月を、私の誕生日を決めたと聞いています。

 12月の誕生日からひと月も経って、父が出生届をし、それから4ヶ月後の4月に、特命全権大使が受け付け、本籍地に送付したというのですから、ずいぶんのんびりした事務処理です。こんないい加減な戸籍を持つ私ですから、いい加減な人間になっても不思議でありません。

 同じ中国に生まれても、山尾氏は大学の先生ですから、立派なものです。しかし反日・左翼系の岩波書店から著作を出しているので、立派と言えるのかどうか、それはこれからの楽しみです。

 著書の中で氏が扱っているのは、5世紀の半ばから、7世紀の終わりまでの日本です。朝鮮に「任那 ( みまな ) の日本府」が出来た頃の話です。私の知らない時代ですから、煩雑さに頭が混乱します。先日発見した国史学者、田中英道氏は、「日本が朝鮮を通じて、大陸の文化を教えられたというのは、間違いで、」「縄文・弥生時代の日本人は、朝鮮に進出しており、逆に朝鮮が日本から文化を伝えられたのだ」と、威勢の良い意見を言っていました。

 山尾史の本は、田中氏ほどでないとしても、かなりの日本人が朝鮮の王朝と関わりを持ち、彼らと手を組み、朝鮮の支配をしていたことが書かれています。帰化したり、子供を持ったりしていますから、民族の同化や混在が語られています。現在の韓国人学者の中には、天皇家が朝鮮王朝とつながりを持っているとか、祖先は自分たちであるとか、そんな意見をいう者がいます。

 これだけ歴史を捏造し、これだけ日本人への憎しみを撒き散らす彼らに、天皇家が繋がっていると言われるのは、感情的には収まりがつかず、拒絶反応が出ます。さて、ここでやっと、本日の書評とのつながりが出てきます。

  「テレビや新聞や、ネットの動画を、あまり本気で見ていますと、今にも日本がダメになりそうな気持ちにさせられます。」

 「それはそれで意味があり、大事なのでしょうが、常時反応すると、ろくなことはありません。適度に耳を傾け、時には知らぬ顔をしたり、うまくつき合わないと、失敗します。」

  つまり私は、庭で水やりをしながら、氏の著書を思い浮かべ、こんなことを考えていたのです。テレビや新聞、あるいはネットと同様、私が読む本も、「玉石混交」情報のひとつです。信じてしまうと、大失敗します。昔は反日・左翼だけを警戒していましたが、今は保守・自民にも、距離を置くようになりました。

  簡単に信じられるものが、右にも左にもなく、信じられるのは、自分で手に入れたものの中にしかないと、自覚しました。年75才にして、やっと心の自立を得ました。本日からしばらくの間、山尾氏との対話を続けますが、今日のところはお終いです。

 「こんなものが、書評なの。」息子たちの問う姿が、浮かんできます。私は、自信をもって答えます、「書評です」と。

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沖縄の県民投票と自民党

2019-03-21 19:13:07 | 徒然の記

 3月1日付け、我那覇真子さんの「おおきなわ」を見ました。

 投票日前の、沖縄県民への街頭インタビューと、講演会の状況、そして投票結果の発表と、大きく三つの内容でした。

 「沖縄は日本の縮図」と、かって私は、そのような表題でブログを書いたことがありますが、動画を見ながら今回も同じ思いを噛みしめました。県民投票の内容は、三つでした。

  1. 辺野古の埋め立てについて、反対

  2. 辺野古の埋め立てについて、賛成

  3. 辺野古の埋め立てについて、どちらでもない

 投票日前のインタビューと、講演会での県民の意見を、私は一番重視いたしました。沖縄の言論状況の不自由さが、よく分かるからです。

  1. 埋め立てに賛成する市民は、顔を隠して、意見を言う。

  2. 埋め立てに反対する市民は、顔を隠さずに意見をいう。

 新聞が左翼と、過激派を大きく支援していますから、賛成意見を述べるには、勇気が必要だと伝わってきます。意外だったのは、関心がありながら、「棄権」をするという人が多数いた、事実です。

  1. 投票そのものに意味がないから、投票率を下げれば、無意味さがはっきりする。

 棄権する理由が、住民投票への抗議だと言いますが、どのような投票でも、棄権は、賛成にカウントされますので、私はこういう意見の県民には、その勘違いを無念に思います。

 もう一つ大きな特徴は、埋め立てに反対する県民があげる、理由でした。

  1. 政府は、沖縄県民の気持ちを無視して、基地建設を進めている。

  2. 沖縄の綺麗な海を破壊している。

  3. 沖縄だけに、基地負担を押し付けている。

  我那覇さんたちが、琉球新報と沖縄タイムズの偏向記事を、日頃から訴えているにもかかわらず、新聞の意見をそのまま受け入れている県民が、いかに多いか・・、私が知ったのは、この事実でした。そして、投票の結果が、これです。

 投票率 52.98%    棄権 47.02%

 基地移転反対  43万4273票(72.1%)  基地移転賛成 11万4933票(19%)

 どちらでもない 5万2682票(8.7%)

 反日・左翼の新聞は、県民の70%が、基地建設に反対していると、大きく報道します。保守の産経は、棄権が47%だから、県民の半分強が基地移転を容認していると、強弁します。しかし投票は、結果の数字がものをいうですから、左翼新聞の方が、妥当な報道でしょう。棄権をした人間は、間違った選択をした県民だと言えます。

 沖縄県民投票で、共同通信社が実施した出口調査で、支持政党別の興味深いデータがあります。

  [ 自民党の支持層  ]

  反対 48.0%  賛成40.6%  どちらでもない11.4%。

 

    [  立件民主党・共産党 ]    [ 国民民主党]   [  社民党  ]    [   沖縄大衆党     ]

   反対 100%      反対 90%   反対 97.6%     反対 96%

 我那覇さんが、動画で強く抗議していたのは、自民党の沖縄県連でした。基地移転を進める、与党の支持者であるにもかかわらず、約半数の者が、反対しています。どちらでもないが、11.4%もいます。賛成は、たったの40.6%です。

 原因は、自民党県連が、自主投票という方針を出したところにあります。しかし、県連だけが問題ではありません。こんな方針を認めた、自民党の本部に責任があります。肝心の自民党が、国の安全保障に対し、いかに危機感のない対応をしているのかが、よく見えます。

 私が沖縄を「日本の縮図」だという意味が、ここにあります。基地移転への住民投票を、憲法改正への国民投票と置き換えて考えると、さらに理解が進むはずです。憲法改正についても、自民党は、政権与党でありながら、口先ばかりの議員が多数で、国の行く末を考えていません。反日・左翼マスコミの論調を恐れ、自分の意見をきちんと言わず、曖昧にしている議員が、改憲の議論を邪魔しています。

 彼らは、国を思う有権者の願いを無下にし、粗末に扱っています。それはちょうど、自民党沖縄県連が、保守の活動をする我那覇さんたちを、見捨てた行動と似ています。自民党の議員は、頭数だけいても、保守らしい活動をしないのなら、反日・野党と同じです。

 じつを言いますと、ブログでは語りたくないのですが・・、ここにもう一つ、加えなくてならないのは、私のような勇気のない庶民の存在が、沖縄とよく似ていることです。

 地域の人々とのトラブルを避け、国の祝祭日に国旗すら上げられない、卑怯な私がいます。我那覇さんに、県民投票の結果を訴えられても、自分の不甲斐なさを知る私は、沖縄の人々が批判できません。

 「近所の人に、変な目で見られるから、国旗を上げるのは止めて。」

 家内の反対を押し切り、国旗を掲げる決断を、私はしていません。ただ、私が沖縄の人々と違うのは、決して棄権せず、保守政党と、保守政治家に投票するところです。それだけに、自民党の政治家には、支持する国民の期待を裏切らないよう、切望する私です。

 (なんとも、情けないブログになりましたが、今夜はこれで終わりです。)

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『約束の日 ( 安倍晋三試論 )』

2019-03-17 16:21:05 | 徒然の記

 小川栄太郎氏著『約束の日 ( 安倍晋三試論  )』( 平成24年刊 株・幻冬舎 )を、読了。

 氏は保守論客の一人で、安倍総理の強い支持者と聞いています。どのような内容かと期待を抱き、ページをめくりましたが、失望と幻滅と、最後は軽蔑で終わりました。

 ひいきの引き倒し、という言葉がありますが、まさにその通りで、この調子で褒められたら、総理の支持率が下がるのでないかと心配が先に立ちました。

 つい先日、チャンネル桜の動画、「日本の自死」を見て、保守論客のレベル低下を、嘆息したばかりですが、氏の著作も、私の嘆きを深めました。215ページある、立派な単行本で、表紙を飾っているのは安倍総理の横顔です。

 本には、崩壊した第一次安倍内閣が、朝日新聞を始めとするマスコミにより、いかに叩かれたかが語られています。第二次安倍内閣の成立が、平成24年の12月で、その直前の8月に、この書が出版されていますから、意地悪く考えれば、返り咲く安倍氏への追従本であるという気もいたします。

 首相になった氏が、第一次安倍内閣で、「戦後レジームからの脱却」をスローガンに、国民の期待を担い、華々しく出発しました。しかしこのスローガンが、マスコミと官僚に総スカンを食らい、彼らを敵に回す結果を招きました。朝日新聞の論説主幹だった若宮啓文氏が、「安倍の葬儀は、うちが出す。」と語り、「それが、朝日新聞の社是だ」と言い切ったのはこの時でした。

 利敵行為者としか思えない若宮氏は、新聞を駆使し、傍系誌のアエラを使い、執拗な安倍氏への個人攻撃を続けました。韓国の肩を持ち、中国に味方し、安倍外交を散々批判した氏のことを、私は何度か「ねこ庭」で取り上げた記憶があります。

 日本に敵対する韓国と中国を偏愛する若宮氏が、定年となり、朝日を退社した時の喜びの気持ちを、ブログにしたこともあります。彼は定年後、韓国の大学に教授として招かれ、最後は中国で病を得て生涯を終えました。朝日新聞社が、どんな腐れ縁を、韓国や中国と結んでいるのか知りませんが、日本人の魂を失った、反日・左翼マスコミ人にふさわしい氏の奇妙な最後でした。

  亡くなった人物は、なるべく批判しないようにしていますが、若宮氏は例外です。安倍氏だけでく、私のように、日本を大切にする庶民を、散々なぶりものにしましたので、敢えて小川氏の暴露文を紹介いたします。

 「平成20年8月、当時論説主幹だった若宮氏が中国出張に際し、女性秘書を個人的に同行させ、」「しかも会社の経費で、ビジネスクラスに乗せ、高級ホテルに宿泊しました。」「後日、社の内部監査室の調査で、不正が発覚し、全額を会社に返済しました。」

 「更に問題なのは、不正経費で出張した理由である。」「その出張は、中国人民外交会が主催する、若宮の著書の、出版記念パーティーに出席するためだったが、」「その学会は、事実上、中国外務省の別働部隊だという。」

 「中国に言論の自由はなく、政府の諜報活動は極めて活発だ。」「若宮は、露骨な親中・親韓の論陣を張ることで有名な人物である。」「良く知られているのは、竹島を韓国に譲れという、平成17年のエッセーだろう。」

 きっと若宮氏は、自身の出版記念パーティーで、中国外務省から、多額のお祝い金を受け取っているはずです。小川氏の暴露が続きます。

 「その後若宮は、朝日新聞の主筆という、頂点に上り詰めています。」「その人物が、言論統制と、諜報活動の国、そして反日策謀の中心である、中国政府に記念パーティーを開いてもらい、のこのこと出かけたのである。」「日本を代表する新聞の主筆の不祥事として、これに勝るものは考えにくい。」

 知らないことを教えてくれる著者には、立場の左右を問わず、感謝をしていますが、それでも私は、氏に感謝する気持ちになれませんでした。保守論客といわれる氏に、もっと高い見識を期待していたからです。有意義な情報でも、この程度の暴露なら、週刊誌でも書きます。

  1. 教育基本法の改正 

    2. 公務員制度改革

    3. アジアゲートウェイ構想

  4. 農林水産業の戦略産業化

  5. 憲法改正

 安倍氏が第一次内閣で手をつけた政策は、どれも戦後レジームからの脱却の道でした。中曽根元総理に「これは安倍革命だ」と言わせ、「まさに本格政権だ」と驚かせもしました。しかし教育基本法の改正を除けば、すべては志半ばで終わり、若宮氏が率いる朝日新聞を先頭にしたマスコミの総攻撃と、同調する官僚の叛旗のため、病を持つ安倍氏はついに辞任いたしました。

 こうした経緯については私も知っており、教えられる事実よりも、切れ目のない安倍氏賛辞の軽薄さに閉口致しました。

  「松陰と三島・・、二人は日本を誰よりも激しく危惧し、日本の明日が、本来の美しい健やかさに戻ることを誰よりも、激しく希望した。」「死の瞬間まで、それぞれの、果たし得ていない約束への感覚が彼らを突き動かし続けた。」

 「彼らの魂の重量は、同時代の誰よりも豊富で、彼らの生命力は、溢れるように尽きなかった。彼らは本質的に詩人であり、非政治的人間だったのである。」

 吉田松陰と三島由紀夫に関する氏の評価ですが、饒舌過ぎます。三島氏は確かに、詩人であり、非政治的人間だったかもしれませんが、松陰は現実主義者でした。二人について、違う意見を持っていますが、それは言わないで先を続けます。

 「安倍は政治家である。政治家は、絶対に詩人であってはならない。」「松陰や三島を気取ることは許されない。」「むろん安倍には、そんな軽薄さは微塵もない。」

 「安倍政治の挫折は、安倍晋三個人の敗北ではない。日本国民の敗北だったのだ。」「私は、切望している。安倍晋三が、果たし得ていない約束を果たすために、今こそ、執念の炎を燃やし、政権を再度奪還してくれることを。」

 著作の最後は、このように綴られていますが、同じような言葉が繰り返され、読者である私は、退屈しました。評論家である氏こそが、言葉に酔う詩人であってはならず、冷静な意見を言うべきだろうにと苦々しい思いでした。

 意に反して、長いブログとなりましたが、本当は、次の二、三行で済ませたい書評でした。

 「中身のない駄作を世に出すとは、日本の保守論客も、すっかりレベルが落ちました。」「もしこれが安倍氏へのエールだとすれば、諺どおり、醜女 ( しこめ ) の深情け、と言うしかありません。」

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