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ねこ庭の独り言

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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 - 7 ( 私の反省とお願い )

2019-03-31 21:25:23 | 徒然の記
   山尾氏の『日本国家の形成』を、読み終えました。
 
 書評は読んでいる途中でせず、読み終えてからすべきと自分で戒めたはずなのに、それを忘れ読みながら批評しました。
 
 最終章の「天皇制国家の特質」と「あとがき」を読み、自分の早合点を反省いたしました。氏はやはり、反日・左翼学者と同列に見るべきでなく、真面目な歴史家でした。
 
  ・この数年間に発表した論文を基に、律令国家形成史の諸段階を、大づかみに書いてみた。
 
  ・全体として一つの作業仮説であり試論であって、しかも、輪郭の粗い素描に過ぎない。
 
  ・この数年間の私の勉強は、津田左右吉氏の『日本古代史の研究』と、石母田正氏の、『日本の古代国家』に取り組んでの模索と、試行の繰り返しである。
 
  ・書き終わって、二人の先達の掌中で、少しあがいたに過ぎぬ気がする。
 
  ・おのれの無知だけは自覚できたので、改めて勉強しなおしたい。草稿を圧縮したため、説明不足と思うところも目につく。読者にお詫びするとともに、ご検討ご批判を、お願いする次第である。
 
 これが、「あとがき」に述べられた言葉でした。氏が、何年もかけ取り組んだ課題を、私はわずか9日間の読書で、批評しました。
 
 草稿圧縮のための説明不足を氏が詫びていますが、それは確かだろうと、読者である私は同感しました。説明が割愛された部分で、理解ができなくなり違った解釈をしたのかと、そんな気もします。
 
 「おのれの無知だけは、自覚できたので、改めて勉強しなおしたい。」
 
 あとがきの謙虚さと誠実さを知り、散々批判してきた自分を恥じました。最終章で、氏はやはり私の師となり、私は生徒となりました。
 
  ・日本の君主の称号としての天皇の成立について、最も古い説明は、私の知る限りでは、平安時代末のものである。
 
 1118年の鳥羽天皇のとき、宋が送ってきた国書を、天皇が諸家に勘案・奏上させました。そのとき中原師安 ( もろやす ) ら五人が、次のように述べました。
 
  ・聖徳太子が隋に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との国書を送ったが、返書には皇帝、倭王に問う、とあった。
 
  ・太子は、天子の号を倭王におとされたのをにくみ、報書に、東の天皇、西の皇帝に白すとした。
 
 氏はこの5人の諸家の言葉を引用し、天子と皇帝の号から、天皇という号を作ったのだろうと解釈しています。また、律令制下の天皇は、最高軍事指揮権を中心に、天皇の大権を保有していたと説明します。
 
  ・国家の大権と天皇主権のあり方を、最も端的に明示するのが、外に対する接触のときである。
 
  ・それゆえ天皇に代わり、その折衝にあたる遣唐使と征夷大将軍には、節刀が与えられる。
 
  ・命令に服さない者を、天皇の名において専殺しうるのであり、天皇の刑罰権をも委任されたのである。
 
 聖徳太子の国書については聞いておりましたが、遣唐使と征夷大将軍の節刀については、初めて知りました。また氏はここで「律令制」下の天皇について、大変重要な基本的性質を列挙します。
 
  1. 天皇は、姓 ( せい ) を賜与する唯一の主体として、政治的身分秩序を形成する根拠となっていること。
 
  2. 天皇は、位階を授与する唯一の主体であること。
 
  3. 天皇は、官人機構を形成する主体である。
 
  4. 支配階級の一般意志や重要な事項は、天皇の命令として現れる。
 
 「大化の改新」は、天皇を中心とする「律令国家」を作るのが目的でした。「明治維新」のとき、元勲たちが再び、強固な「天皇制国家」作ろうとしたのは、列強の脅威に対抗するためでした。
 
 飛鳥時代の天皇と貴族も、強大な中国や朝鮮の諸国と対抗するため、強固な「律令国家」を作ろうとしたのです。
 
  ・律令体制における天皇は法を超越し、法の妥当性に根拠を与える、究極的権威として位置づけられている。
 
  ・従ってそれは、特定の階級を代表するのでなく、階級を超越した無謬の神聖なるものでなければならず、政治的道徳規範の根元でなければならない。
 
  ・天つ神の子孫であり、聖徳なる天皇は血統という自然の秩序にのみ規制されるのである。
 
 ここまでの理解がなされているのなら、言うことはありません。ここで語られているのは、現在に至る天皇の姿です。あらゆるものを超越する存在で、究極の権威なのですから、天皇にあるのは「公」のみで、「私」がありません。いわば天皇は、大昔の時代から国の根源の位置におられたことになります。
 
 同時に氏の言葉は、男系維持の重要さを説明しています。心得違いをしている自民党の議員は、歴史を勉強し直さなければダメだということです。
 
 良心的学者として敬服させながら、それでも氏はまだ惑わせます。
 
  ・このような法的観念的な形態と、それがどの程度実質化し永続するかは、別の問題であって・・」と、疑問を続けていますが、深く考えないことにいたしました。
 
 大切なのは、
 
   1.  氏が「反日・左翼の学者」で、なかったこと。
 
   2.  日本を貶め嫌悪する「東京裁判」を肯定する学者で、なかったこと
 
   3.  天皇のお立場を正く説明する学者で、あったこと
 
 山尾氏に申します。
 
  ・私も自分の無知を自覚しましたので、今後も勉強に精進します。
 
  ・欲を言わせて貰えば、素人にも分かるように曖昧な言葉の使用をお控えください。
 
  ・もう一つお願いするとすれば、日本への愛を忘れないでください。
 
 すっきりとしない終わり方になりましたが、人生にはこんなこともあるのでしょう。氏の著書は「有価物のゴミ」とせず、しばらく自分の本棚に納めます。
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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 - 6 ( 日本史の中心に日本が無い、歴史学者 )

2019-03-28 21:26:07 | 徒然の記
  山尾氏の著作は、第3章「大化の改新の実態」です。これについて述べる前に、別途調べた「大化の改新」の説明を紹介します。
 
  ・大化の改新は、飛鳥時代の孝徳天皇の646年に発布された「改新の詔 ( かいしんの  みことのり )  」に基づく、政治的改革である。
 
  ・「改新の詔」は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制 ( 氏姓制度 ) を廃止し、天皇を中心とする、「律令国家成立」を目指す内容となっている。
 
  ・この政治改革は、皇極天皇の皇居における蘇我入鹿暗殺により、当時、天皇を次々と擁立したり、廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」から、始まった。 
 
  ・改革そのものは天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足の主導のもと、年若い両皇子  ( 中大兄、大海人 ) の協力によって推進された。
 
  ・この改革によって豪族を中心とした政治から、天皇中心の政治へと移り変わったとされている。
 
  ・また大化は、日本最初の元号である。この改革により、日本という国号と天皇という称号の使用が始まったとされる。
 
 山尾氏の著作を読んでいながら、わざわざ別の情報を紹介した理由を、説明しなくてなりません。
 
   1. 氏の説明では、「大化の改新」の意味が掴めない。 
 
   2. 氏の使う不適切な用語は、読者である私に不快感を与える。
 
 古代の日本を語るとき、なぜか氏は朝鮮との関係を重視し、すべての出来事に朝鮮の事実を関係させます。なぜ日本の歴史を中心にして、書き進められないのか。客観的事実を求める、学者の良心がそうさせるのか。依然として判断がつきませんが、日本人である私を耐えがたくさせます。
 
 私は日本の歴史で大転換をもたらした出来事が、三つあると考えています。学校で教えられたのでなく、退職後の読書生活で知ったことですから、歴史に詳しい人物は、別の出来事をあげるのかもしれません。
 
   1. 大化の改新    2. 明治維新    3. 大東亜戦争の敗北
 
 この出来事以降、日本が大きく転換しました。歴史ばかりでなく、国民の意識や、文化や伝統まで、嵐に見舞われました。
 
 どれを取っても重大なできごとで、真剣に受け止めなくてならない事実だと考えています。しかるに氏は、「大化の改新」を説明する時、「クーデター」という言葉を使います。ブリタニカの辞典で、「クーデター」は、次のように説明されています。
 
  ・一般に武力による奇襲攻撃により、政権を奪取することをいう。
 
  ・通常の政権交代方式と違って、非合法的であることに特徴がある。
 
  ・また革命は、支配階級に対する大衆の蜂起と、それに続く既存の体制の転覆であるが、クーデターは支配階級内部の権力争奪である点で、革命とも違っている。
 
 息子たちに、この不快感が伝わるのか分かりませんが、訪問される方々の中には、理解する人がいるような気がします。
 
 日本の国家変革の重大事を、マルクス用語で語ろうというのですから良識を疑います。他の説明では「大化の改新」を「政治的改革」という言葉を使っており、学校でもそのように習いました。
 
 非合法な武力による「政権奪取」とは、一度も教わりません。まして「クーデター」などと。
 
 前回のブログで、下記の氏の意見を紹介しました。
 
  ・畿内閥族による地方の土豪に対する階級的闘争が、律令国家機構を生み出すまで徹底して苛烈なものになるのは、663年の、白村江 ( はくすきのえ ) の、敗戦を待たねばならぬと思う。
 
 大化の改新の遠因が、白村江の敗戦にあるという意見です。氏の著書では、古代史の日本の動きが、すべて朝鮮の3国との関係で説明されます。もしかすると氏の頭には、未開な文化しか持たない日本と先進国である韓国という図式が、固定されているのかもしれません。
 
  ・自分の国の安全を、自分の国の軍隊で守れない日本は、アメリカの属国でしかない。
 
  ・中国や韓国の難癖にも反論せず、国際社会で孤立している日本は情けない国である。
 
 私はこの認識に立ち、「日本を取り戻そう」と息子たちへのブログを書いています。
 
 だからといって現状を日本の歴史として語るとき、氏がするようにアメリカや、中国や韓国を第一のものとして説明するでしょうか。これらの国々が、日本に対し大きな影響を及ぼしているからといって、日本の政府が劣っているとか、つまらない国だとか、そんな分析だけで終わるのでしょうか。
 
 世界のどこの国でも、たとえ小さな貧しい小国でも、国民に歴史を語るときは、誇りと希望を教えます。これが世界の常識と考える私は、不快感を持ちながら次の氏の意見を紹介し、本日のブログを終わります。
 
  ・聖徳太子の時代は閥族政治の開始であって、太子の政治が、改新の先駆だと言えるほどの根拠はほとんどない。
 
  ・改新そのものが、はたして「公地・公民制」の採用と規定しうるのかどうか、大いに疑問であろう。
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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 - 5 ( 『記紀』の否定に終始する、山尾氏 )

2019-03-28 21:17:47 | 徒然の記
  山尾氏の著作は、やっと半分です。四苦八苦しています。難解な哲学書でもないのに、なぜこんなに分かりづらいのか。やっと、原因の一つを、見つけました。
 
 『日本国家の形成』という書名なのに、国家の主体となるものが明確に語られていません。『古事記』と『日本書紀』を否定する氏の立場からすれば、古墳・飛鳥の時代に、日本には全国統一の政権は存在しなかった、という話になるのかもしれません。
 
 氏は説明の中で、「大和朝廷」「天皇」という言葉を使用しません。その代わりとして、「倭王権 ( やまとおうけん ) 」「大王 ( おおきみ ) 」という聞きなれない用語を使います。だから私は、氏が何について説明しているのか時々理解ができなくなります。
  
 大王という言葉には二つの読み方があります。日本読みでは「おおきみ」ですが、中国・韓国よみでは「だいおう」です。具体的には、次のような区分になります。
 
  ・おおきみ ・・ 古代日本における天皇、皇子、皇女に対する尊称
 
  ・だいおう ・・ 古代中国における君主、諸侯王、王太子に対する尊称
 
 昭和に生まれ平成を生きてきた私にとって、皇室は日本史を貫く一本の糸です。
 
 天皇を曖昧にして語らない歴史を、どうやら私の心は日本史として受け取れなくなっているようです。古代の社会では豪族たちが割拠し、互いに覇を争っていた。天皇は、その豪族の中の一つの勢力でしかないと主張したいのなら、そういう意見を一貫して展開すれば良いと思います。
 
 戦前に政府や頑迷な歴史学者たちが、天皇をむやみに神格化し、自由な研究を許さなかったという事実も知っています。だからといって、敗戦後に極端な否定をするというのでは、それもまた学者として節度の無い話ではありませんか。
 
 その具体例を123ページの「推古朝の国家の段階」から、紹介します。
 
  ・「ミヤケとは、大王または朝廷の倉庫や屋舎などの建物のある一角の場所などを表す時に使われた言葉らしい。
 
  ・地溝開発や、堤防築造によると否とにかかわらず、『記紀』に共通する「ミヤケ」設置記事は、きわめて古い時代から始まっているかのように書かれているが、伝承文にある時代に設置されたとまで言うのは、論理の飛躍であって、はっきり分かるのは伝承でなく、期限や由来が説明されている時代だけの実在である。
 
  ・応神・仁徳頃からの開発と「ミヤケ」の設置の伝承は、事実と認められている。しかし垂仁とか景行などという古い時代はおろか、仁徳期の話さえほとんど史実性がない。
 
  ・そもそも『記紀』の全体構造、すなわち7世紀の「王権史認識」の中で考えるなら、とうていそのまま承認することのできないものである。 
 
 氏がここで言っているのは、推古天皇の時代に、地溝開発や「ミヤケ」の設置が広く行われたという、『古事記・日本書紀』の記述は、信用できないという意見です。
 
 本文はもっと長く詳細ですが、どうせ私には判断できないのですから、割愛して紹介しました。
 
 分からないついでに、もう一件127ページから紹介します。
 
  ・『隋書』の一般的性質からも、『倭国伝』にみえるいくつかの記事からも、このような、中央・地方の政治組織は、倭人が文物礼制の具備を修飾し誇張していると見るのが妥当なのであって、中国人の空想として一蹴する説には同調できない。
 
  ・倭人が畿内の現実をかなり誇張し、プランに過ぎぬものを、全国的に完成したものとして伝えたのであろうと、思う。
 
 隋の古文書が日本の政治組織の整備を書いていると、それは誇張して日本が伝えたものだと、氏は説明します。何であっても、日本については否定せずにおれない、奇妙な歴史学者です。
 
  この章の締めくくりの言葉も、ついでに紹介します。
 
  ・私は、幾多の国家の要素の発達を認めつつも、7世紀半ばでも、なお上述の程度と考えるのであって、畿内閥族による地方の土豪に対する階級的闘争が、律令国家機構を生み出すまで、徹底して苛烈なものになるのは、663年の「白村江 ( はくすきのえ ) 」の敗戦を待たねばならぬと思う。
 
 ここにきて、「階級闘争」という言葉が出てきました。資本主義の萌芽すらない、古代律令制の国に、どんな階級闘争があると氏は言いたいのでしょう。朝廷貴族と、地方の豪族とのせめぎ合いを、階級闘争と見るでしょうか。
 
 氏の意見が正しいのかどうか、依然として判断がつきませんが、疲れてまいりましたので、本日はこれまでとし次回へつなぎます。
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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 - 4 ( 愛国心は歴史学者に不要なのか ? )

2019-03-27 17:03:11 | 徒然の記
  山尾氏の著作は、まだ半分も進んでいません。
 
 氏の言葉を借りれば、古代史とは5世紀の半ばから7世紀の終わりまでとなるのでしょうか。日本神話に関する書は何冊か読みましたが、考えてみれば、古代史に関する本を読むのは初めてです。
 
 人名も地名も馴染みのないものばかりで、まさに五里霧中。羅針盤をなくした船のように、自分の位置さえ掴めません。どうせ分からないのなら、いっそのこと、出発点に戻ろうと、ネットで「日本史年表」を探しました。以下その一部を、紹介します。
 
   ⚫︎ 縄文時代      (  紀元前1万4000年頃 ~ 前4世紀頃  )
 
   ⚫︎ 弥生時代     (  紀元前4世紀頃 ~ 250年頃  )
   
     ・238年頃 「卑弥呼の邪馬台国 」
 
   ⚫︎ 古墳時代     (  250年頃 ~ 592年  )
 
   ⚫︎ 飛鳥時代     (  592年 ~ 710年  )   
 
   ⚫︎ 奈良時代         (  710年 ~ 794年  )
 
     ・712年 『古事記』編纂 
     ・720年 『日本書紀』編纂 
 
   ⚫︎ 平安時代        (  794年 ~ 1185年  )
 
   ⚫︎ 鎌倉時代        (  1185年 ~ 1333年 )
 
   ⚫︎ 室町時代         (  1336年 ~ 1573年  )
 
 氏の著作が対象としている時代を赤字で示し、「卑弥呼の邪馬台国」の成立年と、『記紀』の編纂年を参考のため付記しました。こうすると、自分がさまよっている歴史の場所が掴めます。
 
 わずか92ページで、氏を評するのは早すぎる気もしますが、一言問いたくなりました。一般論として世界の歴史学者は、自分の研究対象とする歴史について、愛を感じないまま取り組むのでしょうか。まして自国の歴史なら、心のどこかに夢やロマンを持ち、肯定する意見を述べないのでしょうか。
 
  ・『日本書紀』には任那だけでなく、朝鮮三国からの、調、調部が6世紀中頃から、盛んに現れる。
 
  ・調は、服従者が支配者に供給する特産物であるが、『日本書紀』に書かれた調は、律令国家間で用いられる外交用語である。
 
  ・だからそれは、国家間の従属関係を少しも証明していないのである。
 
  ・隋書の『倭人伝』には、新羅、百済は皆、倭をもって大国となし、珍物を多くして倭を敬仰し通史往来す。と書いてある。
 
 しかしこれは遣隋使が語ったものだから、文字通りに受け取ってはならないと、氏はたしなめます。朝鮮から盛んに送られてくる、貴重品はむしろ日本の国内事情によるのだ、と説明します。
 
  ・私はこのような物の需要は、抗争する派閥的な貴族集団の存在と不可分だろうと思う。
 
  ・朝鮮からもたらされる財宝がなければ、各地の中・下級の豪族、あるいは政界での多数派工作等が運営できなかったのであると思う。
 
 さらに氏は、『日本書紀』を否定するための説明をします。
 
  ・日本からの百済への派兵は、百済とっては傭兵でありその対価としての調である。
  ・新羅は一方的に調を日本へ送ってくるが、その真意は従属者としての貢ぎ物でなく、政治に関与させないという 意思表示である。
 
 朝鮮の学者が言うのなら、まだ理解しますが、日本人の学者である氏が、ここまで朝鮮の立場で意見を述べるのかといささか幻滅します。反日・左翼学者の著作には、激しい怒りを覚えた私ですが、山尾氏にはだ不快感を覚えるだけです。
 
 私は氏に、日本びいきの意見を期待しているのではありません。最近のテレビがやっているように、「日本のここが凄い」とむやみに持ち上げる意見を求めているのでありません。
 
 日本人の学者なら、日本への愛を感じさせる姿勢で歴史に取り組めないのかと、そういう疑問です。人間を75年やっていますから、「愛する人間がする批判」と、「愛のない者のする批判」の区別はつきます。
 
 息子たちや、訪問される方々に問います。氏の意見のどこかに、日本への愛が感じられたでしょうか。
 
 そうなりますと思い出すのは、やはり氏の対極にいる田中英道氏です。
 
 氏は縄文・弥生時代の遺跡や出土品を現地で調査し、全国の神社・仏閣の古文書を調べ、自説を組み立てています。奇想天外な意見にまだ半信半疑ですが、氏の言葉には少なくとも「日本への愛」が感じとれます。
 
 『記紀』を否定し、韓国や中国の古文書を読み、机上で自説を組み立てている氏と、田中氏のいずれの説を是とするかと問われれば、私は田中氏の現場主義に賛同します。
 
 息子たちに言います。
 
 もう一度、「日本史年表」を見てください。縄文時代は、紀元前1万4000年も前から、紀元前400年までという、想像もできない長い年月です。次の弥生時代は、紀元前400年から 250年頃までです。古墳時代や飛鳥時代のわずか460年とは、比べ物にならない長さです。
 
 田中氏は、その縄文と弥生時代の調査・研究を踏まえ自説を組み立ています。
 
  ・縄文・弥生時代、日本の中心は関東・東北だった。日本で最も人口が多く、最も栄えた土地だった。
 
  ・関東・東北地方が、日本で一番早く日が昇る土地であり、多くの人間が集まった理由だ。
 
  ・日の本とは、関東・東北地方のことであり、高天原とは、関東を指している言葉だ。
 
 山尾氏は、渡来人秦氏が朝鮮人だと説明しますが、田中氏はユダヤ人だと主張します。もう少し勉強すれば分かるのかもしれませんが、山尾氏と田中氏のいずれが学問的に正しいのか、今の自分には判断する知識がありません。
 
 それでも私が持つ庶民の常識では、強い確信があります。
 
  ・田中氏の意見に「日本への愛」を感じますが、山尾氏の意見には「日本への否定」だけを感じさせられます。
 
  ・それは、例えようもない不快感です。
 
 明日からの読書でこの不快感が胡散霧消することを願いつつ、本日はここで終わります。
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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 - 3 ( 山尾氏と田中氏の意見 )

2019-03-26 16:09:40 | 徒然の記
  氏の著書の3回目のブログです。昭和51年当時、よく知られていた通説を氏が紹介しています。
 
  ・4世紀後半「倭王権 ( やまとおうけん ) 」は、慶尚南道や全羅南道などにあった、幾つかの小国を一括支配し、南部朝鮮を直轄領の任那 ( みまな ) とした。その結果、新羅王や百済王も、倭王に服属した。
 
 朝鮮の古地図が挿入されていますので、確かめながら読みますと、なんとその支配地は、現在の韓国の南半分に相当します。学校で教わった4世紀の日本は、縄文から弥生時代に移り古墳時代になったという時期で、土器や土偶の話ししか教えられていません。
 
 そのような大昔に日本が朝鮮に進出し、南半分を支配して「任那」と命名していたというのですから、驚くしかありません。新羅や百済の王までが服属していたとは、信じられない叙述です。
 
  ・しかし5世紀末ごろから百済が全羅南道を、6世紀前半には新羅が慶尚南道を侵食し併合していった。
 
  ・そののち倭王権は復興を企てるが、結局失敗して任那は滅亡し、新羅から貢物 ( みつぎもの ) を、受納するにとどまった。
 
  ・そして663年、白村江 (  はくすきのえ ) 」での敗戦により、倭王権の朝鮮における足場はついになくなった。
 
 私が小学校一年生だったのは昭和25年で、マッカーサーが日本を統治していた時ですから、こうした歴史を教えるはずがありません。ここで山尾氏が、通説として紹介しているのは、もしかすると「皇国史観」に立った戦前の説なのかもしれません。
 
 なぜなら氏は、この通説を次章で否定しているからです。
 
 任那の日本府には、通説に言われているような、実体がなかったという意見になっています。氏が論拠としているのは、韓国の史書である『百済記』、『百済本記』、『三国史記』、『史斉記』などです。日本の史書である『神皇紀』や『継体紀』や『応神紀』も参照されていますが、反証の材料として使われているに過ぎません。
 
  ・本書は、考古学や地理学の学説によって立論することを避け、それらも含む、歴史研究全体の中で、文献学の方法による歴史研究によって期待されている、史料批判によって立論し、他の方法による研究結果とつき合わせようとしている。
 
 回りくどい説明なので、私は氏の研究姿勢を自分なりの言葉で理解します。
 
  1. 考古学と地理学を、意見の根拠にしない。
 
  2. 史料批判による立論、つまり伝統的な『記紀』を批判した理論に立つ。
 
 こうなると私は、どうしても、先日知った田中英道氏の言葉を思い出します。
 
  ・私は、思いつきで意見を述べているのではありませんよ。
 
  ・そこいらの素人が何年か本を読んで、邪馬台国が九州だとか、近畿地方だとか、いろいろ好きなことを言っているのとは訳が違います。
 
  ・私は日本の古い遺跡を調査し、古来からの神社を訪ね、そこから出土したものや、残された文献を何十年も研究しています。
 
  ・だから、学者としての生命をかけて意見を述べています。日本での一番の問題は、遺跡や遺物を調べる考古学者と古文書を研究する歴史学者が、互いに協力せず意思の疎通を欠いているところにあるのです。
 
  ・戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代をまるで未開の野蛮時代でもあったかのように、古墳時代なんて勝手な名前をつけています。
 
  ・しかし考古学者は縄文時代の焼き物や、弥生時代の古墳から発見される土器、土偶、銅鐸などを丹念に調べ、文字がなくても日本に素晴らしい文化があったことを知っています。
 
 少し大げさに言いますと、私は一瞬で田中氏の意見に心を奪われました。氏自身が古い遺跡を調査し、古来からの神社を訪ね、出土したものや文献を何十年も研究したというのですから、氏の意見には事実の裏付けがあります。
 
 ですから私は古代史の学徒でもないのに、感動を覚え氏の説明に聞き入りました。田中氏の意見に従えば、山尾氏はまさに批判の対象となる歴史学者です。
 
 戦後の風潮だったとは言え、山尾氏は意識して考古学者との連携を止め、『記紀』を軽視し、韓国や中国の古文書を重視しています。氏の研究姿勢も誠実で、学者としての良心に基づいていることは理解しますが、残念ながら結果として、反日・左翼が支配する今日の日本を作る手助けをしたのではないでしょうか。
 
  ・戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代をまるで未開の野蛮時代でもあったかのように、古墳時代なんて勝手な名前をつけています。
 
 私が戦後の歴史学者、ことに反日・左翼・マルキスト学者を嫌悪するのは、現在の風潮を作った元凶だからです。日本の隅々にまで浸透する反日思想に、理論的根拠を与えたのが彼らだったからです。
 
 自分が任那の日本府も知らずに大人になり、土器と埴輪と土偶の写真しか教わらなかった原因を、私は戦後の反日左翼学者と考えています。土器、土偶、銅鐸、銅鏡、無数の古墳を丹念に調べれば、文字がなくても、あの時代に素晴らしい文化があったという田中氏の言葉の中に、私の知らなかった日本の過去が見えました。
 
 それに比べますと、山尾氏の次の説明は私の心を動かしませんでした。説明では、反日・左翼学者と同様、「大和朝廷」と「卑弥呼の邪馬台国」との関係が不明のままです。
 
  ・倭 ( やまと ) の五王時代の政治的構造の様式は、西日本に、筑紫・吉備その他、部族的組織の首長の結合による、政治宗教的な、統一体の統治が、地域的完結性をもって存在し、独自の秩序を形成していたのであり、
 
  ・それらが倭王 ( やまとおう ) として、中国王朝との交通を独占する畿内の地域政権の王を中心に、様々の従属形態をもって結託していたのだと思う。
 
  ・だから倭国 ( やまとこく ) は、西日本の政権連合と呼ぶのがよりふさわしい。」
 
 慎重な学者だから、こんなややこしい説明になるのか、分かりにくい文章です。しかし田中氏は、大胆にも、
 
  ・「卑弥呼」も「邪馬台国」も、存在しなかったのではないか。
 
 と、語ります。日本を統一した「邪馬台国」の存在に氏が疑問を抱く根拠を、以前ブログで書きましたが再度紹介します。
 
  1. 日本中の古墳を調べても、「卑弥呼」と「邪馬台」の関連品が出土しない。
 
     2. 古来からある神社の、文書、伝承、遺物を調査しても、「卑弥呼」と「邪馬台」に関するものが出てこない。
 
    3. 『古事記』、『日本書紀』に『魏志倭人伝』が引用されているが、「卑弥呼」と「邪馬台」に関する叙述がない。
 
  4. もしも、「卑弥呼」と「邪馬台」が現存するのなら、いずれかの『風土記』の中に記載されているはずなのに、書かれていない。
 
  5. 日本の歴史学者は、『魏志倭人伝』を過大評価しているのではないか。
 
 氏の意見を、私は学者としての正論と考えます。山尾氏の紹介を続ける限り、対極にある田中氏の意見が常に立ちはだかるようです。それはそれで有意義なこととですが、心配なのは、わが息子たちと訪問される方々です。
 
 退屈で、あくびを堪えているのでないかと考え、今回はここで一区切りをつけます。
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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 - 2 ( 『古事記』と『日本書紀』の否定から )

2019-03-25 13:57:51 | 徒然の記

   山尾氏の著書は、基礎知識のない門外漢には難しくて難渋します。

 敗戦後に日本の歴史は、大きく修正されました。

 私に記憶はありませんが、戦前の日本史は、天皇家を中心とする「皇国史観」で貫かれていたと聞いています。「天孫降臨の神話」に始まる、大和朝廷の歴史以外の考え方が、認められなかったそうです。

 歴史学者が、客観的な史実を求めようとしても政治が許しませんでした。

 氏の著作の紹介を真面目にやろうと思えば、ブログは次の二つを抜きにしては進められません。つまり「大東亜戦争の敗北」と、「GHQによる占領統治」です。田中英道氏について語ろうとしても、この二つを抜きにはできません。

 私たち国民は戦後73年が経過しても、まだこの「二つの壁」が乗り越えられず、呪縛からの卒業ができません。

 戦前は『古事記』と『日本書紀』が、歴史の原典としての地位を占め、異義を唱えることができなかったと聞いています。GHQが天皇制を否定する方針で統治し、自由な研究を許した時、多くの学者が喜びました。

 喜んだ学者の中には純粋な学究精神の人物もいたし、政治的な歴史観を持つマルキストもいました。

 戦後の日本史の見直しは、まず『古事記』と『日本書紀』の否定から出発したと言われています。理由は覚えていますが、次の2点でした。

   1.『古事記』と『日本書紀』には科学的な根拠がなく、全く合理性がない。

   2.  神武天皇以来、百代に渡る天皇の名前があるが、百才以上の天皇がいる。昔の人間の寿命がそんなに長いはずがない。

 正確な記憶はありませんが、こんな話は日常会話でしませんので、中学生か高校生の授業で教えられたと思っています。受験勉強に忙しかった私は、歴史にも日本にも大した興味がなく、そういうことかと受け止めていました。

 息子たちのためにはもっと分かりやすい、「戦前と戦後の違い」の例があります。

 「建国記念日」の祝日を、戦前は「紀元節」と呼んでいました。「紀元節」とは、神武天皇が即位した日を、建国の初めとした国民の祝日でした。『古事記』と『日本書紀』で、初代の神武天皇が即位した日とされていたところから、名前がつけられました。

 天皇制の復活につながると、GHQが昭和23年に「紀元節」を廃止して以来、この日を再び祝日として制定するため、国会議員が苦労しました。「紀元節」という言葉が左翼系議員の反対で使えず、「建国記念の日」という表現で妥協しました。学校ではこうしたことを教えませんので、私たちはその事実さえ知りません。

 「紀元節」と「建国記念日」という二つの名前の「祝日」があったことを知るだけでも、戦前と戦後の日本の違いが推察できます。そして「反日・左翼」と、「保守」の対立は時の経過とともに深まり、歩み寄る気配がありません。

  ここで、山尾氏の話につながります。反日・左翼系の学者は、『古事記』と『日本書紀』を否定し、中国や韓国の歴史書に重きを置きます。この学者たちは、日本の歴史を階級闘争の視点で語り、経済という観点から日本史を語ります。

 私が中庸の学者と思っていた津田左右吉氏も、『古事記』と『日本書紀』を疑問視していました。

 山尾氏は、反日・左翼系の学者ではありませんが、津田左右吉氏と同じく、『記紀』を疑問視し、中・韓の古文書を優先しています。中・韓の古文書を否定する田中氏と山尾氏と、どちらが正論なのか今は分かりません。しかしこの本を読み終える頃には、何か見えてくると思います。

 二回目の紹介ですが、まだ内容には触れていません。明日から、少しずつ勉強させてもらいながら、自分の意見が述べられるようになりたいと考えています。

  山尾氏は今年84才で、立命館大学の名誉教授だそうです。著書出販時は助教授でしたから、この本も時の重みを感じさせます。
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山尾幸久氏著『日本国家の形成』 ( いい加減さも必要な読書の姿勢 )

2019-03-23 13:41:35 | 徒然の記

  山尾幸久氏著『日本国家の形成』( 昭和52年刊 岩波新書 )を、手にしています。やっと28ページです。

 もともと情報は、そういう傾向を持っているのかもしれませんが、テレビや新聞やネットを見ていますと、今にも日本がダメになりそうな気持ちにさせられます。

 のんびり、楽しく暮らしている人間に、そんなことでは今に後悔するぞと、戒めたり、諭したり、お節介をします。それはそれで意味があり、大事なのでしょうが、常時反応しているとろくなことはありません。適度に耳を傾け、時には知らぬ顔をしたり、うまくつき合わないと失敗します。

  これが書評なのかと、息子たちは首をかしげるのかもしれません。これが書評だと、私は言います。書評とは、その本を手にしたことにより誘発されるもろもろの感想、あるいは意見であると、世間と違い、私は大きな概念で捉えています。

 昨日までは、沖縄の住民投票に始まる「憲法改正問題」、「女性宮家」や「女系天皇」のこと、あるいは初心を忘れた「自民党の劣化ぶり」など、「末法思想」に絡め取られていました。

 もうすぐ日本がダメになると矢も楯もおれなくなり、かといって何をすべきか妙案もなく、あるはずもなく、庭の水やりで雑念を払っておりました。

  巻末に印刷された氏の略歴は、次のように書かれています。

   ・昭和10年に、中国の撫順市に生ま

   ・昭和41年、立命館大学文学部史学科卒業  専攻、日本古代史

   ・現在、立命館大学助教授   著書『魏志倭人伝』」

 私より9才年上の氏は、中国生まれです。ちょうど手元に私の「戸籍謄本」がありますので、紹介します。漢数字の部分を、数字に書き換えました。

   ・昭和19年1月1日、満州国興安北省ハイラル市腰芦子無号地で出生

   ・同月14日、父届け出

   ・同年4月8日、満州国駐在特命全権大使梅津美治郎から送付入籍

 しかし私は本当は、昭和18年12月9日生まれです。戦前は12月8日の「真珠湾攻撃の日」が「戦勝記念日」と呼ばれる目出度い日でした。私の出産予定日でしたから、日本に住む祖父が楽しみにしていました。それなのに1日遅れで生まれたため、郷里の祖父が次に目出度い日である「正月」を、私の誕生日を決めたと聞いています。

 12月の誕生日からひと月必要以上経って、父が出生届をし、それから4ヶ月後の4月に、特命全権大使が受け付け、本籍地に送付したというのですから、ずいぶんのんびりした事務処理です。こんな呑気な戸籍を持つ私なので、多少いい加減な人間になっても不思議でありません。

 同じ中国に生まれても、山尾氏は大学の先生ですから立派なものです。しかし反日・左翼系の岩波書店から著作を出しているので、立派と言えるのかどうか、これからの楽しみです。

 著書の中で氏が扱っているのは、5世紀の半ばから、7世紀の終わりまでの日本です。朝鮮に「任那 ( みまな ) の日本府」が出来た頃の話です。私の知らない時代ですから、聞きなれない地名に頭が混乱します。

 先日発見した国史学者、田中英道氏は、

  ・日本が朝鮮を通じて、大陸の文化を教えられたというのは間違いで、縄文・弥生時代の日本人は、朝鮮に進出しており、逆に朝鮮が日本から文化を伝えられたのだと、威勢の良い意見を言っていました。

 山尾史の意見は田中氏ほどでないとしても、かなりの日本人が朝鮮の王朝と関わりを持ち、彼らと手を組み朝鮮の支配をしていたと書かれています。

 帰化したり、子供を持ったりしていますから、民族の同化や混在が語られています。現在の韓国人学者の中には、天皇家が朝鮮王朝とつながりを持っているとか、祖先は自分たちであるとか、そんな意見をいう人物がいます。

 これだけ歴史を捏造し、日本人への憎しみを撒き散らす彼らに、天皇家が繋がっていると言われるのは、感情的に収まりがつかず拒絶反応が出ます。

 ここでやっと、氏の著書とのつながりが出てきます。

   ・テレビや新聞や、ネットの動画を、あまり本気で見ていますと、今にも日本がダメになりそうな気持ちにさせられます。

  ・それはそれで意味があり、大事なのでしょうが、常時反応するとろくなことはありません。適度に耳を傾け時には知らぬ顔をしたり、うまくつき合わないと失敗します。

  つまり私は、庭で水やりをしながら氏の著書を思い浮かべ、こんなことを考えていたのです。テレビや新聞、あるいはネットと同様、私が読む本も、「玉石混交」情報のひとつです。信じてしまうと、大失敗します。昔は反日・左翼だけを警戒していましたが、今は保守・自民党にも、警戒をするようになりました。
 
 簡単に信じられるものが、右にも左にもなく、信じられるのは、自分で確認した事実の中にしかないと自覚しました。年75才にして、やっと思考の自立を得ました。
 
 本日からしばらくの間、氏の著書の紹介を続けますが、今日のところはお終いです。「こんなものが、書評なの。」息子たちの問う姿が、浮かんできます。
 
 私は自信をもって答えます、「書評です」と。
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「沖縄の県民投票」と自民党と私

2019-03-21 19:13:07 | 徒然の記

   3月1日付け、我那覇真子さんの「おおきなわ」を見ました。

 投票日前の沖縄県民への街頭インタビューと、講演会の状況、そして投票結果の発表と、大きく三つの内容でした。

 「沖縄は日本の縮図」と、かって私は、そのような表題でブログを書きましたが、動画を見ながら今回も同じ思いをしました。

   1. 辺野古の埋め立てについて、反対

   2. 辺野古の埋め立てについて、賛成

   3. 辺野古の埋め立てについて、どちらでもない

 投票日前のインタビューと、講演会での県民の意見を私は一番重視いたしました。沖縄の言論の不自由さが、よく分かるからです。

   1. 埋め立てに賛成する市民は、顔を隠して、意見を言う。

   2. 埋め立てに反対する市民は、顔を隠さずに意見をいう。

 沖縄の新聞が左翼と過激派を大きく支援していますから、賛成意見を述べるには、勇気が必要だと言うことが伝わってきます。意外だったのは、関心がありながら「棄権」をするという人が多数いた事実です。

    1. 投票そのものに意味がないから、投票率を下げれば、無意味さがはっきりする。

 棄権する理由が、住民投票への抗議だと言いますが、どのような投票でも、棄権は、賛成にカウントされますので、私はこういう意見の県民には、その勘違いを無念に思います。

 もう一つ大きな特徴は、埋め立てに反対する県民があげる理由でした。

    1. 政府は、沖縄県民の気持ちを無視して基地建設を進めている。

    2. 沖縄の綺麗な海を破壊している。

    3. 沖縄だけに、基地負担を押し付けている。

  我那覇さんたちが、琉球新報と沖縄タイムズの偏向記事を、日頃から訴えているにもかかわらず、新聞の意見をそのまま受け入れている県民がいかに多いか。私が知ったのは、この事実でした。

 そして、投票の結果が、これです。

     投票率 52.98%     棄権 47.02%

     基地移転反対  43万4273票    ( 72.1%) 

     基地移転賛成  11万4933票   (19%)

     どちらでもない  5万2682票  (8.7%)

 反日・左翼の新聞は、県民の70%が、基地建設に反対していると、大きく報道します。

 保守の産経は、棄権が47%だから県民の半分強が基地移転を容認していると、強弁します。しかし投票は結果の数字がものをいうですから、左翼新聞の方が、妥当な報道でしょう。棄権をした人間は、間違った選択をした県民だと言えます。

 沖縄県民投票で、共同通信社が実施した出口調査で、支持政党別の興味深いデータがあります。

     〈 自民党の支持層   〉

       反対  48.0% 

       賛成  40.6% 

       どちらでもない  11.4%。

       〈 立件民主党・共産党の支持層 〉 

        反対 100%      

     〈 国民民主党の支持層   〉

        反対 90%

     〈 社民党の支持層   〉

        反対 97.6%

     〈 沖縄大衆党の支持層   〉

        反対 96%

 我那覇さんが動画で強く抗議していたのは、自民党の沖縄県連でした。

 基地移転を進める、与党の支持者であるにもかかわらず、約半数の者が、反対しています。どちらでもないが、11.4%もいます。賛成は、たったの40.6%です。

 原因は自民党県連が、自主投票という方針を出したところにあります。しかし、県連だけが問題ではありません。こんな方針を認めた、自民党の本部に責任があります。肝心の自民党が国の安全保障に対し、危機感のない対応をしているのかがよく見えます。

 私が沖縄を「日本の縮図」だという意味が、ここにあります。

 基地移転への住民投票を、「憲法改正」への「国民投票」と置き換えて考えると、さらに理解が進むはずです。「憲法改正」についても自民党は、政権与党でありながら口先ばかりの議員が多数で、国の行く末を考えていません。

 反日・左翼マスコミの論調を恐れ、自分の意見をきちんと言わず、曖昧にしている議員が改憲の議論を邪魔しています。

 彼らは、国を思う有権者の願いを粗末に扱っています。それはちょうど、自民党沖縄県連が、保守の活動をする我那覇さんたちを見捨てた行動と似ています。自民党の議員は頭数だけいても、保守らしい活動をしないのなら、反日・野党と同じです。

 ブログでは語りたくないのですが、ここにもう一つ加えなくてならないのは、私のような勇気のない庶民の存在が、沖縄とよく似ていることです。

 地域の人々とのトラブルを避け、国の祝祭日に国旗すら上げられない、卑怯な私です。我那覇さんに、県民投票の結果を訴えられても、自分の不甲斐なさを知る私は、沖縄の人々が批判できません。

  ・近所の人に変な目で見られるから、国旗を上げるのは止めて。

 家内の反対を押し切り国旗を掲げる決断を、私はしていません。ただ、私が沖縄の人々と違うのは、決して棄権せず、保守政党と保守政治家に投票するところです。それだけに自民党の政治家には、支持する国民の期待を裏切らないようにと、切望する私です。

 (  なんとも情けないブログになりましたが、今夜はこれで終わりです。)

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小川栄太郎氏著 『約束の日 ( 安倍晋三試論 )』

2019-03-17 16:21:05 | 徒然の記

  小川栄太郎氏著『約束の日 ( 安倍晋三試論  )』( 平成24年刊 株・幻冬舎 )を、読了。

 氏は保守論客の一人で、安倍総理の強い支持者と聞いています。どのような内容かと期待を抱き、ページをめくりましたが、失望と幻滅と最後は軽蔑で終わりました。

 ひいきの引き倒し、という言葉がありますが、まさにその通りで、この調子で褒められたら、総理の支持率が下がるのでないかと心配が先に立ちました。

 つい先日、「チャンネル桜」の動画、「日本の自死」を見て、保守論客のレベル低下を、嘆息したばかりですが、氏の著作も、私の嘆きを深めました。215ページある、立派な単行本で、表紙を飾っているのは安倍総理の横顔です。

 著書の内容は、崩壊した第一次安倍内閣が、朝日新聞を始めとするマスコミにより、いかに叩かれたのかが語られています。

 第二次安倍内閣の成立が、平成24年の12月で、その直前の8月にこの本が出版されていますから、意地悪く考えれば、返り咲く安倍氏への「追従本」という気もいたします。

 首相になった氏が、第一次安倍内閣で、「戦後レジームからの脱却」をスローガンに、国民の期待を担い、華々しく出発しました。

 しかしこのスローガンが、マスコミと官僚の総スカンを食らい、彼らを敵に回す結果を招きました。朝日新聞の論説主幹だった若宮啓文氏が、

  「安倍の葬儀は、うちが出す。」と語り、

  「それが、朝日新聞の社是だ」

   と言い切ったのはこの時でした。

 利敵行為者としか思えない若宮氏は、朝日新聞を駆使し、傍系誌の『アエラ』を使い、執拗な安倍氏への個人攻撃を続けました。韓国の肩を持ち中国に味方し、安倍外交を散々批判した氏のことを、私は何度か「ねこ庭」で取り上げた記憶があります。

 日本に敵対する韓国と中国を偏愛する若宮氏が定年となり、朝日を退社した時の喜びの気持ちを、ブログにしたこともあります。

 彼は定年後、韓国の大学に教授として招かれ、最後は中国で病を得て生涯を終えました。朝日新聞社が、どんな腐れ縁を韓国や中国と結んでいるのか知りませんが、日本人の魂を失った、反日・左翼マスコミ人にふさわしい氏の奇妙な最後でした。

  亡くなった人物は、なるべく批判しないようにしていますが、若宮氏は例外です。

 安倍氏だけでく、私のような日本を大切にする庶民を、散々なぶりものにしましたので、敢えて小川氏の暴露文を紹介いたします。

  ・平成20年8月、当時論説主幹だった若宮氏が中国出張に際し、女性秘書を個人的に同行させ、しかも会社の経費でビジネスクラスに乗せ、高級ホテルに宿泊しました。

  ・後日、社の内部監査室の調査で不正が発覚し、全額を会社に返済しました。

  ・更に問題なのは、不正経費で出張した理由である。

  ・その出張は「中国人民外交会」が主催する、若宮の著書の「出版記念パーティー」に出席するためだったが、その学会は事実上、中国外務省の別働部隊だという。

  ・中国に言論の自由はなく、政府の諜報活動は極めて活発だ。若宮は、露骨な親中・親韓の論陣を張ることで有名な人物である。

  ・良く知られているのは、「竹島を韓国に譲れ」という平成17年のエッセーだろう。

 きっと若宮氏は、自身の出版記念パーティーで、中国外務省から多額の祝い金を受け取っているはずですと、小川氏の暴露が続きます。

  ・その後若宮は、朝日新聞の主筆という頂点に上り詰めています。

  ・その人物が、言論統制と諜報活動の国、そして反日策謀の中心である、中国政府に記念パーティーを開いてもらい、のこのこと出かけたのである。

  ・日本を代表する新聞の主筆の不祥事として、これに勝るものは考えにくい。

 知らないことを教えてくれる著者には、立場の左右を問わず感謝をしていますが、それでも私は、氏に感謝する気持ちになれませんでした。

 保守論客といわれる氏に、もっと高い見識を期待していたからです。有意義な情報でも、この程度の暴露なら週刊誌でも書きます。

        1. 教育基本法の改正 

        2. 公務員制度改革

        3. アジアゲートウェイ構想

      4. 農林水産業の戦略産業化

      5. 憲法改正

 安倍氏が第一次内閣で手をつけた上記政策は、どれも「戦後レジームからの脱却」の道でした。中曽根元総理に「これは安倍革命だ」と言わせ、「まさに本格政権だ」と驚かせもしました。

 しかし「教育基本法」の改正を除けば、すべては志半ばで終わり、若宮氏が率いる朝日新聞を先頭にしたマスコミの総攻撃と、同調する官僚の叛旗のため、病を持つ安倍氏はついに辞任しました。

 こうした経緯については私も知っており、小川氏に教えられる事実よりも、切れ目のない安倍氏賛辞の軽薄さに閉口致しました。

 氏の文章を紹介します。

   ・松陰と三島、二人は日本を誰よりも激しく危惧し、日本の明日が、本来の美しい健やかさに戻ることを誰よりも、激しく希望した。死の瞬間まで、それぞれの、果たし得ていない約束への感覚が彼らを突き動かし続けた。

  ・彼らの魂の重量は、同時代の誰よりも豊富で、彼らの生命力は、溢れるように尽きなかった。彼らは本質的に詩人であり、非政治的人間だったのである。

 吉田松陰と三島由紀夫に関する氏の評価ですが、饒舌過ぎます。

三島氏は確かに詩人であり、非政治的人間だったかもしれませんが、松陰は現実主義者でした。私は二人について違う意見を持っていますが、それは言わないで紹介を続けます。

  ・安倍は政治家である。政治家は、絶対に詩人であってはならない。松陰や三島を気取ることは許されない。むろん安倍には、そんな軽薄さは微塵もない。

  ・安倍政治の挫折は、安倍晋三個人の敗北ではない。日本国民の敗北だったのだ。私は、切望している。安倍晋三が、果たし得ていない約束を果たすために、今こそ執念の炎を燃やし、政権を再度奪還してくれることを。

 著作の最後は、このように締めくくられていますが、同じような言葉が繰り返され、読者である私は退屈しました。著者である氏こそが、言葉に酔う詩人であってはならず、冷静な意見を言うべきだろうにと苦々しい思いでした。

 意に反して長い紹介となりましたが、本当は、次の二、三行で済ませられる書評でした。

  ・中身のない著書を世に出すとは、日本の保守論客のレベルもすっかり落ちました。

  ・もしこれが安倍氏へのエールだとすれば、諺どおり「醜女 ( しこめ ) の深情け」と言うしかありません。

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村上重良氏著『天皇の祭祀』 - 7 ( 実例としてのロスチャイルド家 )

2019-03-16 18:46:35 | 徒然の記

  天皇制廃止を願う氏の著書の、7回目です。

 今回は、直系男子による皇位継承の重要性を、卑近な具体例で説明いたします。以下の叙述は、先日『日本人とユダヤ人』の紹介をした時、別途調べた情報です。

  前回紹介した、一般情報です。

  ・ ユダヤ人が、華僑やアラブ人やインド人と違うのは、彼らが世界の金融と、学問 ( 思想 )の主導権を握っているというところです。

  ・世界経済を牛耳っているのは、

      ロスチャイルド財閥

      ロックフェラー財閥

      サッスーン財閥

      クーンローブ財閥

      モルガン財閥

      ベクテル財閥

      ザハロフ財閥     の7大財閥です。

 ・この中で、ロスチャイルド財閥と、ロックフェラー財閥が群を抜いています。

  今回私がロスチャイルド家を取り上げるのは、ロスチャイルド家が、一族の繁栄と結束を守るため、「男系相続」を徹底している事実を紹介したいからです。

 3年前にも、「ねこ庭」で取り上げましたが、自民党の二階、石破、野田各氏のように「皇室崩壊」に手を貸す議員には言及しませんでした。何も知らない息子たちと、多くの善良な国民を、3氏が誤った方向へ誘導するのを見て、事態が緊縛してきたことを感じました。

 このまま息子たちが、3氏の意見に疑問を抱かず見過ごせば、100年も経たないうちに皇室が崩壊します。内容が重複するのは承知の上で、「ロスチャイルド家」について紹介します。

  ・ロスチャイルド家は日露戦争の時、戦費の無かった日本へ、多額の融資をしてくれました。関東大震災後の復興事業や、横須賀造船所の建設についても、政府を通じて融資をしています。さらには、米国の中央銀行FRBの大株主でもあります。

  ・ロスチャイルド家は、18世紀後半の創設期から計算すると、およそ300年の歴史を持つ名家です。300年余りつづいている、徳川家に劣らない家系ですから、一般庶民からすればまさに雲の上の一族です。

  ・18世紀の後半に台頭したロスチャイルド家は、今ではヨーロッパの財閥、貴族、門閥として、その名を知らない者はいませんが、そもそもの発祥地は、ドイツのフランクフルトです。
 
  ・創設者の名前は、マイアー・アムシェル・ロートシルトで、「ロートシルト」を英語読みしますと「ロスチャイルド」になります。
 
  ・長男はドイツのフランクフルトで、次男はオーストリアのウイーンで、三男はイギリスのロンドン、四男はイタリアのナポリ、五男はフランスのパリでと、の五人の息子たちは、ヨーロッパの主要都市で家業を拡大・発展させました。
 
  ・ロスチャイルドの家族は、一族の富と事業を永久に維持・存続させるため、一族以外の人間を排除しました。
 
  ・女たちを事業に加えず、すべて男たちだけの秘密とし、女性たちの結婚相手は、どれほど有力者の子息であったとしても、事業への参加はおろか、仕事の中身さえ知らせませんでした。
 
  ・つまり彼らは、徹底して女系姻族と女系子孫の排除をしました。

 そんなロスチャイルド家の家訓を、昔読んだ本の記憶を元に探し出しました。

 〈 ロスチャイルド家の家訓 〉

    1.  事業への参加は、直系男子相続人のみとすること

    2.  本家も分家も、長男が継ぐこと

    3.  婚姻は、ロスチャイルド一族内ですること

    4.  事業内容は、男子相続人以外は秘密とすること

 ロスチャイルド家の家系を維持するには、「直系の男子相続」しかないと、彼らは知っていました。三百年の家系を持つロスチャイルド家で、「一族の富」を守るためでさえ、彼らは「男系相続」を徹底しています。

 「女系配偶者」や「子孫」を入れると、家族が崩壊すると、ロスチャイルド家の人間は警戒しています。

 2600年以上も続き、国民の中心に存在される天皇を、女系子孫でも良いとする国会議員や有識者は、ロスチャイルド家以下の認識しか持っていません。ロスチャイルド家が守るのは、せいぜい一族の財ですが、天皇家は、「日本人の魂」、もっと言えば、国の歴史と文化を守り続けている方々です。「直系男子相続」を守らなくて、どうするというのでしょう。

 「女系天皇」と「女性宮家」に言及したのは、元はと言えば、小泉内閣時代の「皇室典範有識者会議」でした。座長だった東大元総長である、吉川弘之氏が、次のように述べました。

  ・皇室の伝統も、変わる時がある。

 これまで何度も申し上げました通り、敗戦後の東大は反日左翼の巣窟となり、亡国の学者や知識人の「育成機関」に成り果てました。吉川氏が知識のない愚者でなく、知識を持った反日の学者だということに注意を向けなくてなりません。

 『天皇の祭祀』の著者である村上氏も東大卒の学者で、元共産党員、天皇制廃止論者です。「女性宮家」と「女系天皇」を国民が容認すれば、100年も経たないうちに、皇室の家系が乱れます。

 女性皇族の方と結婚した男性の中に、野心に燃える不心得者がいて「天皇の地位」を狙いはじめますと、ご先祖様が大切にしてきた「制度」が崩れます。「ロスチャイルド家の家訓」が、最も警戒しているのがこのことです。

 眞子さまの婚約者である小室氏が、今は良い見本になりそうです。「女性宮家」を創設し、眞子さまを宮家とすれば、小室氏は皇室の一員となります。いかがわしい小室氏の家族と親戚も、皇室の縁続きとなります。

 亡国大学の元総長である吉川氏や、著者の村上氏はさぞ満足であることでしょう。

  昭和25年に吉田首相から「曲学阿世の徒」と批判されたのは、当時の南原東大総長でしたが、60余年が経過しても変わらない東大総長だということです。吉田元総理のように「黙れ、曲学阿世の徒」と、吉川氏を一喝できる自民党の総理はいないようです。

 神武天皇以来昭和天皇も含め、124名の天皇が守られた伝統を、125代目にあたられる陛下がたった一人で「皇室崩壊」の決意をされると、そういう軽挙はとても信じられません。

 息子たちに言います。

 曲学阿世の反日学者や、反日のマスコミ、反日・左翼・グローバリストの政治家が、声をそろえて合唱しても耳を傾けてはいけません。

  「女性宮家賛成」

  「女系天皇賛成」

  「男女平等の時代だ。」

  「時代と共に、皇室も変わる。」

  「時代と共に、日本人も変わる。」

  こんな合唱は、すべて「皇室の崩壊」と「日本の崩壊」へつながります。〈 ロスチャイルド家の家訓 〉でさえ、それを私たちに教えています。

 3 年前のブログは夏でしたから、名句と迷句で最後を締めましたが、今回も踏襲します。

   名句  降る雪や 明治は 遠くなりにけり

      迷句  鳴く蝉や 昭和は 遠くなりにけり  ・・・ (  私が、作りました )

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