ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『遠野物語拾遺』 - 3 ( 民俗学と祖霊信仰 )

2021-12-30 12:06:45 | 徒然の記

 年取りとは、大晦日(おおみそか)、または節分の夜に行う儀式だそうです。185ページに、詳しく書かれています。

「 275 」

 「十二月は一日から三十日までに、ほとんど毎日のように、」「種々なものの年取りがあると言われている。」「しかしこれを全部祀るのは、イタコだけで、」「普通は次のような日だけを祝うに止める。」

 「すなわち五日の御田の神、八日の薬師様、九日の稲荷様、」「十日の大黒様、十二日の山神、十四日の阿弥陀様、」「十五日の若恵比寿、十七日の観音様、二十日の陸の神 ( いたち ) の年取り、」「二十三日の聖徳太子 ( 大工の神 ) 、二十四日の気仙の地蔵様の年取り、」・・・(  省略 )

 沢山あるので省略しますが、普通の家でも、これだけの儀式を行っていたのですから、遠野地方の師走は、師が走るだけでなく、人々が慌ただしく過ごしていたのでしょうか。

「 284 」

 「果樹責の行事も、小正月である。」「この地方では、これをモチキリといっている。」「一人が屋敷の中の木の幹を、斧でトンと叩いて、」「良い実がならなからば切るぞと言うと、他の一人が、」「良い実を鳴らせるから許してたもれ、と唱える。」

 母の里の出雲でも、似た風習がありました。叔父が斧を持ち、実のなる木の幹を傷つけ、「なるかならぬか、どうじゃ」と問いかけ、「なるなる」と自分で言い、傷つけた部分に小豆粥の薄めたものを掛けていました。4才頃の記憶です。

 岩手県と島根県は遠く離れていますが、田舎の風習は似ているのだと知りました。

「 295 」

 「お雛様にあげる餅は、菱張りの蓬餅の他に、」「ハタキモノ ( 粉 ) を青や赤や黄に染めて、餡入りの団子も作った。」「その形は兎の形、または色々な果実の形などで、」「たとえば松バクリ ( 松毬 ) のようなものや、茄子など思い思いである。」

 「これを作るのは年頃の娘たちや、母、叔母たちで、」「皆がうち揃って仕事をした。」

 『遠野物語拾遺』は「299」番、194ページで終わります。最後はこのように季節ごとの儀式や、土地の風習が語られています。幼い頃の、自分の記憶と比較しながら読みますと、民俗学の深さが感じられました。

 それでも大藤時彦氏の理解には、とても及びません。解説の210ページ部分を紹介します。

 「広い世界の中でも、我々日本人の来世観だけは、」「少しばかりよその民族とは、異なっていた。」「もとは盆彼岸の良い季節に、必ず帰ってきて、」「古い由緒の人たちと、飲食談話を共にしうることを、」「信じて去る者が多かっただけでなく、常の日も故郷の山々から、」「次の代の住民たちの幸福を、じっと見守っていることができたように、」「大祓の祝詞などに、書き伝えている。」

 「すなわち霊はいつまでも、この愛する郷土を離れてしまうことが、」「できなかったのである。」

 民俗学の知識のある人は、こう言うところまで理解し、氏の文章を読んでいます。疑問ばかり並べている自分と比べますと、穴があったら入りたくなります。

 「柳田先生が、晩年力を注がれた祖霊信仰も、」「こういう遠野の生活などでみられた、実感に支えられ、」「動きなき信念となって、一つの体系にまで成長したものに違いない。」

 「遠野が先生にとって、忘れられぬ土地であり、」「今日は、民俗学のメッカと言われているのも偶然ではない。」

 愛する故郷の土地と結びついた「祖霊信仰」は、そのまま神話と繋がり、時代を経て皇室への敬愛となっていきます。そうなりますと民俗学は、日本の文化や歴史を否定する左系の思想とは、異なる学問だと分かります。

 国家を否定する過激派学生の、理論的指導者だった吉本隆明氏との繋がりが、ますます謎となってきました。次回からは、いよいよ氏の『共同幻想論』を手にします。

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『遠野物語拾遺』 - 2 ( らちもない話 )

2021-12-28 18:09:10 | 徒然の記

 『遠野物語拾遺』を、57ページまで読みました。振られた最後の番号は、148です。前回は、柳田氏の文章にだいぶ慣れ、違和感が薄れてきたと述べましたが、今日はまた元の木阿弥です。

 「らちもない」という言葉を辞書で調べますと、次のように書かれています。

 ① 秩序がなく、筋道や理由がたたない。  ② しまりがない。 とりとめがなく、つまらない。

 祭りの夜店のくじ引きのように、物語に当たり外れがあるのか、今回は「らちもない話」ばかりでした。信じられないという人のため、実例を四つ転記します。

「 118 」

 「小槌の釜渡の助蔵という人が、カゲロウの山で小屋がけして泊まっていると、」「大嵐がして、小屋の上に何かが飛んで来て止まって、」「あいあいと小屋の中へ声をかけた。」「助蔵が返事をすると、あい東だか西だかとまた言った。」「どう返事をして良いかわからぬので、しばらく考えていると、」「あいあい東だか西だかと、また木の上で問い返した。」

 「助蔵は、なに東も西もあるもんかと言いざま、」「二つ弾丸を込めて、声のする方をうかがって打つと、」「ああという叫び声がして、沢鳴りの音をさせて落ちていくものがあった。」

 「その翌日行ってみたが、なんのあともなかったそうである。」「なんでも、明治24、5年頃のことだという。」

 一体何が言いたいのか、サッパリわからない話です。辛抱して読みましたが、らちもない話が続きます。

「 123 」

 「物見山の山中には、小豆平という所がある。」「昔、南部の御家中の侍で中舘某という者が、」「鉄砲打ちに行き、」「ここで体中に小豆をつけた、得体の知れぬものに行き逢った。」「一発に仕留めようとしたが、命中せず、ついにその姿を見失った。」

 「それからここを小豆平と言うようになり、狩人の間に、」「ここで鉄砲を打っても当たらぬ、と言い伝えられている。」

「 128 」

 「三、四十年も前のことであるが、小友村に、」「薄馬鹿のように見える、風変わりな中年の男がいた。」「掌に黒い仏像を乗せて、めんのうめんのうと唱えては、」「人の吉凶を占ったという。」 

 57ページの148番も、似たような「らちもない話」です。

「 148 」

 「附馬牛村から伊勢神宮に立つ者があると、その年は凶作であるといい、」「これを甚だ忌む。」「大正十二年にもそのことがあったが、はたして凶作であったという。」「また松崎村から、正月の田植え踊りが出ると、」「餓死 ( 凶作 ) があるといって嫌う。」

 柳田氏は何を思いつつ、この話を推敲したのでしょうか。初版の『遠野物語』の高評価を得て、続編も自信作だったはずですから、「らちもない話」と言う自分の感想が的外れなのだろうとは思いますが、民俗学という学問にも疑問が生じます。

 こんなに捉え所のない学問があるのだろうかと、首を傾げます。これが、どこでどう吉本孝明氏の『共同幻想論』につながると言うのか、興味津々です。私の関心に逆比例し、「ねこ庭」を訪問される方々が減りました。それはそうだと思います。

 この年末の忙しい時に、誰がこんな面白くないブログを読む気になると言うのでしょう。書いている本人が、痛感します。

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『遠野物語拾遺』 ( 三つの発見 )

2021-12-27 20:04:17 | 徒然の記

 『遠野物語拾遺』を、32ページまで読みました。振られた番号は、69です。柳田氏の叙述にもだいぶ慣れ、違和感が薄れてきました。相変わらず、少しずつしか読み進めませんが、ここまでで発見できたことが三つあります。

  1. 信心深い人は、神様が助けてくださる

  2. 人を騙すような悪いことをする者は、神様が罰を下される

  3. 権現様、地蔵さま、龍神、明神様、狼様など、八百万( やおよろず )の神様が扱われている

  4. 氏の文章は簡潔で、推敲された名文である

 似たような話が沢山あり、村人や若者や娘、町人や漁師など、登場人物は様々ですが、どの話にも 1. 2. の戒めが含まれています。土地の言い伝えとして、「勧善懲悪」の教えが代々受け継がれていたのでしょうか。

  3. 番目になりますと、間違いなく日本の民話です。キリスト教やイスラム教など一神教の国では、おそらく一つの神様しか語られないのでしょうが、日本では様々な神様が現れます。八百万( やおよろず )の神様がおられる、日本ならではの民話です。

 氏の本を読み進むと、助けてくださる神様を信じ、人を騙すような悪いことはやめよう、という気持ちになってきます。そうすると、「度し難き、縁無き衆生」でない私となります。この心境の変化をもたらしたものは、おそらく「不思議な氏の文章」です。

 何でもない叙述ですが、他の人が書けば、場面の説明、人物の説明、事件の顛末など、沢山の言葉が費やされたはずです。しかし氏は、無駄のない表現で、簡潔に核心を伝えます。

「 43 」

  「青笹村の御前の池は今でもあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。」「先年この水を風呂に沸かして、多くの病人を入湯せしめた者がある。」「たいへんによく効くというので、毎日参詣人が引きも切らなかった。」

 「この評判があまりに高くなったので、遠野から巡査が行って咎め、」「傍にある小さな祠まで足蹴にし、さんざんに踏みにじって帰った。」

 「するとその男は帰る途中で、手足の自由が効かなくなり、」「家に帰るとそのまま死んだ。」「またその家内の者たちも病にかかり、死んだ者もあったということである。」「これは、明治の初め頃の話らしく思われる。」

 実在の巡査がいたのでなく、kiyasumeさんが助言してくれたように、一つの比喩だと思います。善良な庶民の信仰を、力づくで破壊してはならないという、戒めなのかもしれません。左翼の人々は、弱い庶民を苦しめる国家権力への怒り・・と、読むのかもしれません。

「 74 」

  「土淵村山口の南沢三吉氏のオクナイサマは、阿弥陀仏様かと思う仏画の掛け軸くであるが、」「見れば目が潰れるから、見ることができぬと言っている。」「大同の家のオクナイサマは木像で、これに同じ掛け軸がついているのであるが、」「南沢の家は、こればかりである。」

 「他に南無阿弥陀仏と、書いた一軸の添えられていることは、」「両家共に同様であった。」

 「この南沢の家では、ある夜盗人が座敷に入って、」「大きな箱を負うて逃げ出そうとして、手足動かず、」「そのまま箱と共に、夜明けまでそこにすくんでいた。」「朝になって家人が見つけびっくりしたが、近所の者だから、」「早く行けとののしって帰らせようとしたが、どうしても動くことができない。」

 「ふと気がつくと、仏壇の戸が空いているので、」「すぐオクナイサマに燈明を上げて、専念にその盗賊にお詫びをさせると、」「ようやくのことで五体の自由を得た。」「今から、八十年ばかりも前の話である。」

 悪いことはでなきないものだと教えられると同時に、真心からお詫びをすると、神様が許してくださるということも学びます。泉鏡花に言われる如く、再読三読しますと、文章の巧みが分かり、推敲を凝らした名文だから、読む者の心を変えるのだと教えられます。

 柳田国男氏を少し理解したところで、スペースがなくなりました。続きは次回といたします。

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『 遠野物語 』 - 5 ( 「縁無き衆生は、度し難し」 )

2021-12-25 21:06:10 | 徒然の記

 「縁無き衆生は、度し難し」という言葉があります。

 「すべてのものに慈悲の心で接する仏様でも、仏縁のない者を救うことはむずかしい。」という意味です。仏縁のない者とは、信心する気持ちのない、不心得者とでもいうのでしょうか。

 この意味が転じて、現在では、次のような場合に使われます。

 「どの世界でも、結局縁のない者に理解させたり、納得させたりすることはできない。」「箸にも棒にもかからない。」

 前置きが長くなりましたが、初版本『遠野物語』を読み終えた感想です。

「『遠野物語』一巻百十九則、およそ地勢時令、風俗信仰、花木鳥獣、ことごとく記述あり。」「家神、山人、狼狐猿の怪等に関することは、ことに詳しく、」「出版当時において、洵に唯一無二の作であったが、」「それ以後においても、これと比肩できるものは甚だ少ない。」

 中国の作家・周作人は、私と同じ書を読み、上記のように称賛しました。「一巻百十九則」というのは、話の一つずつに振られた番号のことで、確かに、119番目で終わりです。ページ数にして、たったの52ページですが、最後まで「取り止めのない話」でしかありませんでした。

 有名作家や学者がこれほど高く評価しているのに、最後まで心を動かされることなく読みましたので、自分のことを「縁無き衆生」と言わずにおれなくなりました。

 それでも構わないのですが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々の中に、意見に同意される人がいないものかと、二つの例を紹介します。

「 59 」

 「佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰しに、」「村に近き谷川の崖の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。」「横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。」

 「祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。」「この皮は欲しけれど、御犬は必ずどこか、」「この近所に隠れて、見ているに相違なければ、」「取ることができぬと言えり。」

 「59」の話はこれで終わりです。 

 「遠野物語が私に与えた印象は、甚だ深く、」「文章のほかに、それはまた私に、」「民俗学中の、豊富な趣味を指示してくれた。」

 周氏の書評には、こう書いてありました。この話のどこに「民族学中の豊富な趣味」が読み取れるのでしょうか。

「 100 」

 「船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に、吉利吉里 ( きりきり ) より帰るとて、」「夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて、一人の女に逢う。」「見ればわが妻なり。」「されどもかかる夜中に、一人この辺りに来べき道理なければ、」「必定化け物ならんと思い定め、やにわに魚切り包丁をもちて、」「後ろの方より刺し通したれば、」「悲しき声を立てて、死にたり。」

 いくらこんなところで会うはずがないと言っても、確かめもせず、包丁で刺し殺すとは、ひどい話です。

 「しばらくの間は、正体を現さざれば、さすがに心にかかり、」「後のことを連れの者に頼み、」「おのれは馳せて家に帰しに、妻はこともなく家に待ちており。」

 次が、妻の話です。

 「今恐ろしき夢を見たり。」「あまりに帰りの遅ければ、夢で途中まで見に出でたるに、」「山道にてなんともしれぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて、」「目覚めたりと言う。」

 そこで男が元の道へ戻り、連れの者に確かめると、女は一匹の狐になっていたと言います。「100」の話も、これで終わりです。と言うことで、自分のことを「縁無き衆生」と言わずにおれなくなりました。

 「縁無き衆生」であっても、学徒ですから、探究心は無くなりません。次回は、続編『遠野物語拾遺』です。

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『 遠野物語 』 - 4 ( 残る2人の書評紹介 )

2021-12-24 08:07:15 | 徒然の記

 いつもなら、ほとんど読み終えてブログに取り掛かりますが、ブログを書きながら検索し、考えながら書き、さらに考えながら調べる・・変わった本なので、変わったブログの書き方をしています。

  1. 田山花袋    2. 島崎藤村  3. 泉鏡花  4. 周作人  

 今回は、残る二人の書評の紹介です。

  〈 泉鏡花 〉

 「近ごろ、おもしろき書を読みたり。」「柳田国男氏の著、遠野物語なり。」「再読三読、なお飽きることを知らず。」「この書は陸中国、上閉伊郡に遠野郷とて、山深き幽僻地の伝説異聞怪談を、」「土地の人の談話したるを、氏が筆にて活かし描けるなり。」

 「あえて、活かし描けるものという。」「然らざれば、妖怪変化豈得て、かくのごとく活躍せんや。」「この物語を読みつつ感ずるところは、その奇とものの妖なるのみならず、」「その土地の光景、風俗、草木の色などを、」「不言の間に得ることなり。」

 鏡花は、江戸文化の影響を受けた怪奇趣味の作家ですから、なるほどそうだろうと異論はありません。『高野聖』『照葉狂言』『歌行燈』などを読んだことがありますが、古めかしい文体も気にならず、不思議な世界に浸ったことが思い出されます。しかしそれでも、「再読三読、なお飽きることを知らず。」とは、信じられない批評です。

 晩年まで親交があったと言いますから、少しは褒めているのではないでしょうか。それとも、たった43ページで、書評をする私が間違っているのでしょうか。半分でも読めば、「その土地の光景、風俗、草木の色などを、」「不言の間に得ることなり。」と、こんな経験をするのでしょうか。

 「再読三読、なお飽きることを知らず。」という鏡花と、「一読の途中で、飽きることを知る」私は、このまま平行線で行くと思えてなりません。

 最後の周作人は、初めて聞く名前なので、批評を紹介する前に、簡単な人物像を検索してみます。

 「明治18年生まれ、昭和42年没 ( 82才 )」「現代中国の散文作家・翻訳家」「魯迅(周樹人)の弟。」

 氏が魯迅の弟だったとは、驚きですが、明治39年日本に留学し、法政大学で学んでいたというのも驚きです。それだけでなく、その後の経歴も驚くしかありません。

 「主に1920年代から40年代にかけて、文筆家として活躍をしたが、」「戦争中、日本の傀儡政権の要職に就いたために、」「戦後〈 漢奸罪 〉で投獄され、中国及び中国人社会においては、問題のある文人として扱われている。」「彼は中国近現代文化史における、ある種タブー的な存在である。」

 気の毒な気持ちになりますが、氏の書評を紹介します。( 本書の出版23年後に、民俗学の書として紹介。)

   〈 周作人 〉

 「『遠野物語』一巻百十九則、およそ地勢時令、風俗信仰、花木鳥獣、ことごとく記述あり。」「家神、山人、狼狐猿の怪等に関することは、ことに詳しく、」「出版当時において、洵に唯一無二の作であったが、」「それ以後においても、これと比肩できるものは甚だ少ない。」

 中国の学者までが、これほど評価するのかと、考え込まされます。

 「けだし昔時の筆記は、伝記志怪をもって目的としたもので、」「みだりにこれを言うと言った病弊があって、学問的価値を欠いており、」「現代の著述中にはその虞はまずなしとしても、」「よく文章の美を有すること、柳田氏の如き人は多く見られない。」

 最初は単なる怪奇譚として誤解されていたが、今は学問的価値が評価されていると、説明しています。他の人同様に、氏もまた、柳田氏の文章の美を褒めています。私には感じ取れない美があるのだとしたら、残念な気がしてきます。

 「遠野物語が私に与えた印象は、甚だ深く、」「文章のほかに、それはまた私に、」「民俗学中の、豊富な趣味を指示してくれた。」

 「柳田氏が、民俗学の学問を発達せしめ、」「その基礎を定めたので、単なる文献上の排列推測ではなくて、」「実際の民間生活から手を下しているため、一種清新なる活力を有し、」「自然に人の興趣を鼓舞することが、できたのである。」

 ここまできますと、私はもう兜を脱ぐしかありません。無知蒙昧の学徒である私は、見当違いの批評をしていましたと、反省するだけです。

 ということで、次回からもう一度、本文へ戻ります。昔の人が言いました。

 「百読、意自ずから通ず。」

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kiyasumeさんへの中間報告

2021-12-24 00:28:50 | 徒然の記

 どこかで、私のブログを見ているだろうkiyasumeさんへ、途中経過の報告をします。貴方は私の「ねこ庭」をのぞき、自分が考えてもいない話になっているので、がっかりしているのではないでしょうか。

 しかし一連の『遠野物語』のブログは、吉本隆明氏の『共同幻想論』と無縁ではありません。まだ中身を読んでいませんが、氏は自分の著書は、『古事記』や『日本書紀』、『遠野物語』を熟読の上考えたと述べています。

 氏は学生運動の理論的リーダーですから、私の嫌悪する反日左翼の一人です。その氏がなぜ、日本の古い書物とのつながりを語るのか・・これが尽きない謎です。もしかすると氏は、反日左翼でなく、日本を大切にする人物なのかもしれません。

 だから私は、第一ステップとして『遠野物語』を読んでいます。いい加減に読み飛ばさず、できるだけ丁寧に読めば、『共同幻想論』を理解し、氏も理解できるのでないかと、考えています。

 「訳の分からないことばかり書いているなあ。」と、貴方が思われるのなら、ここが私と貴方の世界の違いではないでしょうか。時間がかかるとしても、今回の読書に、私は不思議な興味を抱いています。

 どんな発見があるのか。吉本氏について、貴方について、自分について、あるいは日本という国について、今まで知らなかった発見をするような気がしています。

 年を越すのかもしれませんが、どうせ「武漢コロナ」で自宅待機の身です。歴史の中で生きていると、楽しみながら、読書を続けます。

 貴方は待っていないと思いますが、「経過の報告」です。

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『 遠野物語 』 - 3 ( 4人の書評紹介 )

2021-12-23 14:10:21 | 徒然の記

  1. 田山花袋    2. 島崎藤村  3. 泉鏡花  4. 周作人  

 以上4人の書評を、紹介します。

  〈 田山花袋 〉

  「竹越三叉の『南国記』について、一種の新しい芸術的印象を受けたことは、争われない。」「それはヂレタンチシズムの上に、積み上げられたような、」「一種の印象である。」「柳田くんの『遠野物語』、これにもそうした一種の印象的匂いがする。」

 ヂレタンチシズムというのは、「趣味として学問や芸術を楽しむこと。道楽」の意味ですが、のっけから、分かったような分からないような批評です。ついでなので、竹越三叉と『南国記』について、調べてみます。

 ・竹越三叉・・・日本の明治から戦前昭和にかけての歴史学者・思想史家

 ・『南国記』・・自らが主張する南進論を実証的に裏付けるため、明治42年6月から9月にかけて行った南洋視察旅行の紀行文

 花袋は旅行記として読んでいるようですが、『遠野物語』がそんな本だと、私には思えません。花袋の感想はまだありますので、続きを紹介します。

 「柳田君曰く、君には批評する資格がない。」「粗野を気取った贅沢、そういった風が至る所にある。」「私はその物語については、さらに心を動かさないが、」「その物語の背景を塗るのに、あくまで実際をもってした処を、」「面白いとも、興味深いとも思った。」

 「読んで印象的、芸術的匂いのするのは、その内容よりも、」「むしろ材料の取扱い方にある。」

 なるほど、自然主義作家、『布団』の作者は、こんな受け取り方をするのかと、呆れるしかありません。最も古い友人だから、無理にも理解してやっているのだろうと、私は頑固に考えます。

  〈 島崎藤村 〉

 「この物語は、全部遠い地方の伝説を集めたものであることや、」「それが著者の序文にもあるように、こういう話を聞き、」「こういう土地を見ては、人に話さずにおられないというほど、」「種々な興味深き事柄で満たされていることや、簡潔で誠実な話ぶりから、」「これに加えた標語、序文、題目などが、私の心を引いた。」

 藤村も私のように、標語、序文、題目などを丹念に読んでいるようですが、心の惹かれ方が違います。

 〈 「序文」「解説」や「年譜」・「索引」まであるのですから、何重もの扉に守られた寺の御本尊様のように思えてきます。自分のような罰当たりに、氏の著作が理解できるのだろうかと、そんな不安さえ湧いてきました。 〉

 第一回目のブログで書きましたが、藤村とはえらい違いです。

 「柳田君から寄贈された、この異色ある冊子は、」「今私の前にある。」「ちょうど私は、読み終わった処だ。」

 著者から寄贈された本なら、儀礼上からも、誉めなくてならない訳だ。私だって、他人から本を贈呈されたら、それなりの配慮をする・・と、どこまでも頑固に考えます。

 「山の神、姥神、山男、山女、または作者の言うごとき、」「メーテルリンクの侵入者を想わせるような、不思議な、」「しかも生きた目の前の物語に対すると、ルーラル・ライフの中に見出される、」「脅威と恐怖とを、微かに知ることができるような気がする。」

 メーテルリンクとは、『青い鳥』の作者だろうと思いますが、ルーラル・ライフは知りません。ついでですから、調べてみましょう。

 「ルーラル・ライフ」は人名でないらしく、検索しますと、「ルーラル・ライフ大分」、「ルーラル・ライフ高松」などと、地名がいくつも出てきます。めげずに調べていますと、それらしい説明文がありました。

 「土いじりと料理が好きな田舎モノ。」「 田園暮らしと農作業の日々」

 なんだ、そういうことかと思いました。「農村の暮らし」と日本語で言えば良いものを、「ルーラル・ライフ」などと横文字を使うからややこしくなります。国民をたぶらかす時、政府の役人がこんなことをしますが、藤村もそんな人間の一人だったようです。今の新聞を読んでください。「インバウンド」「フレームワーク」「コモディティー」「クラスター」「ロックダウン」等々、官僚たちが奇態な横文字を乱用します。

 明治時代に生まれ、昭和の初期まで生きた人間と、戦後教育で育ち令和まで生きている私とは、ここまで違うのかともう一度、考えさせられます。私はこの話を読んでも、メーテメリンクの不思議な世界を感じませんし、脅威も恐怖も覚えません。自分ではかなり繊細な人間と思っていましたが、藤村や花袋、柳田氏は、さらに繊細な心情を持っていたのかもしれません。そうなりますと、次の批評も、まんざら誇張でないのかもしれません。

 「民族発達の研究的興味から、この本が著されたものであるとしても、」「私はこの冊子の中に、遠い、遠い、野の声というようなものを、」「聞くような思いがする。」「欲を言えば私は、こういう話の生まれ伝わった地方の有様を、」「今少し、詳しく知りたい。」「私が『遠野物語』の著者を、民族心理学の研究者、霊界の探採者としてよりも、」「観察の豊富な旅人として見たいと思うのは、この故である。」

 「私の知る限りにおいては、柳田君ほどの旅行者は少ない。」「また君の如き、観察眼に富んだ旅行家も少ない。」

 褒めすぎでないのかという疑問が残りますが、なんとなく納得がいくような、藤村の批評です。それでも、私の気持ちは、不変のままです。次回は、残り二人の批評を紹介します。

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『 遠野物語 』 - 2 ( 貴重な経験 )

2021-12-22 23:56:08 | 徒然の記

 『遠野物語』、43ページを読んでいます。大抵の本は、このくらいまで読み進むと、なんとなく全体が見えて来ますが、いくら読んでも霧の中です。

 佐々木鏡石氏から、聞き取った話が延々と続きます。番号が振ってありますので、これが話の区切りです。短い話は三行程度、長い話は十行ばかりです。どんな話か、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介します。

 14 「部落には必ず、一戸の旧家ありて、」「オクナイサマという神を祀る。」「その家をば大同という。」「この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布のまん中に穴を明け、」「これを上より通して衣装とす。」(    中  略         )

 「大同の家には、必ず畳一帖の室あり。」「この室にて夜寝る者は、いつも不思議に遭う。」「枕を返すなどは常のことなり。」「あるいは誰かに抱き起こされ、また室より突き出さるることあり。」「およそ静かに眠ることを、許さぬなり。」

 念の為、もう一つ紹介しますが、「詩人であった先生の溢美の文章は、醇乎たる文芸作品となっている。」と言う、大藤氏の解説に該当する叙述の発見はできませんでした。世評の高い書が全く分からないというのは、残念なことですが、もしかすると、民俗学の素養のない人間には、無縁の本なのでしょうか。

 何度読み返しても、「溢美の文章」も「醇乎たる文芸作品」も、私には感じ取れません。氏は「初版序文」の中で、次のように興奮しています。( 息子たちのため、私が文語文を口語文に書き換えました。)

 「こんな話を実際に聞き、遠野の地をこの目で見て、」「これを人に伝えないでおれる者が、果たしているだろうか。」「黙って自分だけのものにしておくような、そんな慎み深い人物は、」「少なくとも、自分の友人の中にはいない。」

 だから、佐々木鏡石氏から聞いた話は、本にして世に出さずにおれない、という意見です。今はこれが一派をなす、学業となっているのですから、無知な門外漢の私の出る幕はなさそうです。

 54 「白望の山続きに、離れ森というところあり。」「その小字に長者屋敷というは、全く無人の堺なり。」「ここに行きて炭を焼く者あり。」「ある夜その小屋の垂れ菰を掲げて、内を伺う者を見たり。」「髪を長く二つに分けて、垂れたる女なり。」「この辺りにても、深夜に女の叫び声を聞くことは、珍しからず。」

 愚かな学徒である私には、「醇乎たる文芸作品」と言うより、「取り留めのない話」でしかありません。私の知る学問には、なんらかの体系があり、一つの論理があります。番号を付した「話」には、体系も論理も見当たりません。私の前にあるのは、「取り留めのない話」の羅列です。一つ一つの話が学問の要素であるのなら、整理・分類された上で、氏の説明が要るのではないでしょうか。

 全国を訪ねている氏の頭の中では、各地の民話が比較検討され、「日本人とは何か」という学問的探究心につながるものが見えているのだと、思います。整理していない個別の話を、読者の前に並べるだけの作品なら、私はこれを「未整理の研究材料集」と呼びたくなります。

 71番まで読んでいますが、砂を噛むような退屈さとの戦いです。驚いたことに、『遠野物語』は69ページで終わり、72ページからは改訂版である、『遠野物語拾遺』が続くと言うことも、今回わかりました。改訂版は122ページで、佐々木鏡石氏の没後に出版されたものです。

 私が生半可な書評をしていると言うことは、大藤氏の「解説」を読めば誰にも分かります。本文を中断し、氏が紹介している著名人の書評を紹介します。

 1. 田山花袋   ( 最も古い友人 )

 2. 島崎藤村 ( 柳田氏から、著書を贈られた作家 )

 3. 泉鏡花   ( 晩年まで親交のあった作家  )

 4. 周作人   (  留学中に神田の古本屋で氏の本を見つけた、中国人民俗学者 )

 これを読みますと、私の批評がいかに的外れであるのか、一目瞭然です。回り道になりますが、次回は4人の人物の書評を紹介し、自分の無知を晒しましょう。これもまた貴重な経験なので、こんな機会を与えてくれたkiyasumeさんに感謝しつつ、今夜はこれで寝ます。

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『ジーノの家』 ( イタリア10景 )

2021-12-21 14:18:20 | 徒然の記

 『遠野物語』を中断し、内田洋子氏著『ジーノの家』( 平成23年刊 (株)文藝春秋 )を、読みました。

 家内が図書館で借りた本で、返却期限が迫っています。「面白いから、読んでみたら。」と言われ、「面白い」の方に心が傾きました。堅苦しい先生の授業より、図書館で読む本の方がずっと楽しい・・という、あの心境です。

 内田氏はイタリア在住の日本人ジャーナリストで、昭和34年に神戸で生まれています。イタリアの何もかもが、好きでたまらないという氏は、東京外国語大学イタリア語学科を卒業後、単身でイタリアへ渡ります。今はミラノで、「通信社UNO Associates Inc. 」を立ち上げ、代表に就任しているとのことです。

 日本のマスコミ向けに、ヨーロッパのニュースや、写真を提供するのが仕事だと言います。通信社を立ち上げて、日本へ情報を売るというのですから、この世には、私の知らない職業があるのだと、これだけでも知識が広がります。〈 日本人とは何か 〉と、柳田氏や私が考えている間に、現実の日本人はずっと先を歩いています。

 会社勤めをしている頃、スペイン、ポルトガル、イタリア、イギリスと旅行したとき、現地のガイドとして活躍する日本人女性に、たくさん出会いました。現地人と結婚していたり、独身のままであったりですが、みんな颯爽としていました。

 男性ガイドは大抵現地人でしたから、自分の少ない経験からしても、戦後の日本人女性は男よりも思い切りがよく、物おじしない逞しさがあるような気がします。氏もそんな女性の一人ですが、確かに面白い本で、一気に、1日で読み終えました。

 日本エッセイスト・クラブ賞と講談社エッセイ賞を受賞しているだけでなく、イタリアの三大文学賞の一つとなる、露天商賞(Premio Bancarella)の中にある、イタリア書店員連盟の「金の籠賞」を受賞しています。

 「露天商賞」も「金の籠賞」も初めて聞きますが、イタリアの三大文学賞の一つだというのですから、権威のある賞に違いありません。まして、イタリア人以外に贈られるのは、史上初と言いますから、きっと凄いのでしょう。

 279ページの本ですが、読みだすとやめられなくなり、柳田氏には申し訳ないことながら、『遠野物語』より面白いのではないかと思ったりします。

 「日本人なら、日本を愛して当然だ。」と考えている私ですが、イタリアへの愛を一杯にし、イタリア人の生活ぶりを語る氏に、何も違和感を覚えませんでした。だからと言って、イタリアの良いところばかりが書かれている訳ではありません。

 「地区内の、まともな大人の住民は少数である。」「ここの子供たちの親兄弟、親族、友人知人の誰かは、」「必ず警察の世話になっている。」

 「前科者、服役中もいれば、指名手配中もいる。」「ごくわずかだが、もちろんごく当たり前のイタリア系家族も住んでいる。」「地方から働きに出てきて、ミラノ市内のあまりの物価高に驚いているところへ、」「破格に廉価の賃貸住宅が見つかり、しかし住んでみて、びっくり。」

 「安いはずである。」「ご近所は皆、人生を投げたような人ばかりだからである。」「幼い子も若者も、その眼差しは憎悪と失望に満ちている。」「驚いてすぐに出ていく人たちもいれば、多少のことには目をつむり、」「ここで暮らさざるを得ない人もいる。」

 差別差別と、日本ではマスコミが騒いでいますが、イタリアは違っているのでしょうか。それとも10年前の本なので、今ではイタリアも世界の流れに乗り、「差別のない社会を ! 」と、叫んでいるのでしょうか。

 ある時氏は事情があって、着の身着のまま、港の船だまりで船上生活をすることになります。ここで暮らすにも、さぞ込み入った規則があるだろうと、船乗りの老人に尋ねます。

 「規則なんてないね。」「問題が起きるのは、そもそも自分に器量がないからだ。」

 そこで氏は、大波小波は各人の器量次第だと、得心します。

 「海であれ陸であれ、生活していれば問題があるのは当たり前で、」「難儀であるほど、切磋琢磨の良い機会で、」「乗り切った後の楽しみは、また格別なのだということが、」「次第にわかるようになった。」

 なんだかホッとするような、意見ではありませんか。イタリア人が凄いのか、日本女性である氏が凄いのか、感心させられました。

 「どの人にも、それぞれ苦労はある。」「自分の思うように、やりくりすれば良い。」「イタリアで暮らすうちに、常識や規則で一括りにできない、」「各人各様の生活術を見る。」

 「名もない人たちの日常は、どこに紹介されることもない。」「無数の普通の生活に、イタリアの真の魅力がある。」「飄々と暮らす、普通のイタリアの人たちがいる。」

 283ページの「あとがき」の中の言葉です。日本だのイタリアだの、愛国心などと、面倒なことは言いません。自分の人生ですから、好きなようにおやりなさいと、声をかけたくなります。本の中身の紹介はしませんが、「あとがき」の最初の文章だけを、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に贈ります。

 「今度こそ春がきたら、もう日本へ帰ろう、と思い、」「春が過ぎると、夏いっぱいはイタリアで過ごし、」「秋から日本で暮らそうか、と先送りする。」「そうこうするうちに、また春夏秋冬。」「何年も経った。」

 「イタリアで生活するのは、私には難儀なことが多くて、」「毎年、〈 これでおしまい 〉と固く心に決めるのに、」「翌年も、相変わらずイタリアにいる。」

 氏の言葉に励まされ、次回から『遠野物語』へ戻るとしましょう。

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『 遠野物語 』 ( 予備知識 )

2021-12-20 21:39:16 | 徒然の記

 『遠野物語』は、本棚の奥にあった未読の書です。昭和30年発行の文庫本で、角川書店が出しています。老眼鏡なしで読めない小さな活字なので、ずっとそのままになっていました。紙も黄色に変色しています。

 著者の柳田氏も、本の題名も、昔から知っていますが、詳しいことは何も知りません。kiyasumeさんとの約束がなければ、本棚の隅に置いたままだったと思います。本文は194ページですが、本文以外のものが沢山あります。

  1.    初版序文 (  柳田国男氏  )   ・・  3ページ 

  2.    再版覚書 (  柳田国男氏  )   ・・  3ページ  (  昭和10年 )

  3    初版解説  (  折口信夫氏  )   ・・   5ページ  (  昭和10年 )   

  4.    解       説  (  大藤時彦氏  )    ・・19ページ  

  5.    年  譜 (  鎌田久子氏  )   ・・13ページ

  6.    索  引          ・・   9ページ

 解説と序文を読むだけで、しっかりと時間がかかり、まだ本文には届いていません。解説を読んでいますと、これは大変な本だと身が固くなります。

 大藤時彦氏の解説の一部を紹介します。

 「『遠野物語』は、日本民俗学開眼の書であるが、」「その初版の発行以来、今日まで、文学の書としても味読されてきた。」「昭和43年9月には、明治後期の文学書として、」「日本近代文学館の、名著全集の一冊に加えられた。」

 「柳田先生には、民俗学者より前に、」「文学者としての生活があったのだから、」「これを文学書として読むことは、結構である。」「詩人であった先生の溢美の文章は、醇乎たる文芸作品となっているからである。」

 元々私は本の解説を、作者と作品を褒めるための宣伝文だと思っていますから、重きを置いていません。中身はそれほどでもないのに、日本はおろか、世界にも通用する一流作品と、歯の浮くような解説もありました。私は密かに、本の解説は不動産屋の広告みたいなものだと思っています。

 有名な本なので、どういう経緯でそうなったのか、簡単な事情を知りたいだけですが、そうはいきませんでした。「序文」「解説」や「年譜」・「索引」まであるのですから、何重もの扉に守られた寺の御本尊様のように思えてきます。自分のような罰当たりに、氏の著作が理解できるのだろうかと、そんな不安さえ湧いてきました。

 本の最初にある「初版序文」を、紹介します。柳田氏自身の言葉です。

 「この話は全て、遠野の人佐々木鏡石氏より聞きたり。」「明治42年の2月頃より初めて、夜分おりおり訪ね来たり、」「この話をせられしを筆記せしなり。」「鏡石君は、話上手にはあらざれども、」「誠実なる人なり。」

 「詩人であった先生の溢美の文章は、醇乎たる文芸作品となっている」と、大藤氏が説明していますが、古めかしい文章に、私は溢美を感じませんし、醇乎たる文芸作品とも思いません。時代が違えば、同じ日本人でもこのようになるのかと、まさに生きた勉強です。

 そうなると、著者である柳田氏について知りたくなります。巻末には、鎌田久子氏による「 年譜」が、13ページに渡って詳述されています。生まれてから氏が88才になるまで、通った小学校・中学校の名前、両親、兄弟、親類縁者の名前と経歴。さらには氏が著した著作とその年齢など・・しかしこれは詳しすぎて、私の目的に叶いません。

 私が知りたいのは、著作を読むための予備知識ですから、おおよそどのような人物であったかで十分なのです。常緑樹の森か、落葉樹の森か、木は針葉樹なのか、広葉樹なのか。森の全体が分かればいいのですから、森の木の一本一本を語られると用を足しません。

 結局は、ネットで調べることになりました。

 「明治8年に生まれ、昭和37年に88才で没。」「日本の民俗学者。官僚」「明治憲法下で、農務官僚、貴族院書記官長」「終戦後から廃止になるまで、枢密顧問官」「日本学士院会員、文化勲章受賞、勲一等旭日大綬章」

 これで、私などお呼びもつかない雲の上の人であることが分かりました。

「〈 日本人とは何か 〉という問いの答えを求め、日本各地や、」「当時の日本領の外地を、調査旅行した。」「初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で、」「〈  願わくは之を語りて、平地人を戦慄せしめよ 〉と述べた。」「日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。」

 〈 日本人とは何か 〉という問いの答えを求めているところは、私と同じですが、それ以外は共通点がありません。

 『遠野物語』が、〈  平地人を戦慄せしめよ 〉という内容なのか、それはこれからの楽しみです。私と氏は、どこで交わるのか、興味深くもあります。しかも『遠野物語』は、吉本隆明氏の『共同幻想論』を理解するための、参考書の一つでしかありません。どこで交わるのかという疑問は、柳田氏で終わるのでなく、吉本氏まで続きます。

 kiyasumeさんは、師走の慌ただしい時に、大変なプレゼントをくれました。どんな世界が見えてくるのか、腰を落ち着けて向き合いたいと思います。

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