ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ナチズム

2018-04-29 21:35:23 | 徒然の記

 村瀬興雄氏著「ナチズム」(昭和43年刊 中公新書)を、読み終えました。

 戦後の日本で73年間、反日左翼の政治家と、学者と、お花畑の日本人たちが、「日本は、ドイツに見習え」と叫び、戦争への反省が足りないと、お説教を垂れています。

 中国や、韓国・北朝鮮はもちろん、新聞の論調も、一糸乱れず「日本攻撃」です。敗戦後のこうした風潮に、疑問を抱いている私は、この際、思い切って「ナチズム」の解明に挑むことといたしました。図書館の廃棄本の中から、迷わずこの本を選んできました。

 今回も、長くなるだろうと予想していますが、書評にかかる前に、私の無知を正してくれた本に感謝しなくてなりません。結論から言ってしまいますと、「ドイツへ見習え」と言う、反日・左翼の学者、政治家、お花畑の日本人、朝日新聞に代表される腐れマスコミが、全て間違っていると言う事実でした。

 中公新書を出している中央公論社は、私の知る限りでは、左翼系の出版社です。著者の村瀬氏も、左翼系の学者であるはずなのに、左翼の不利になる本を、どうして世に出すのかという疑問があります。

 中央公論社と村瀬興雄氏を、順番にネット検索いたしますが、いつものように、退屈な内容なので、息子以外の訪問者の方は、スルーして下さい。

   〈 中央公論社 〉

  「中央公論社は、1990年代(昭和55年代)に経営危機に陥り、読売新聞社が救済に乗り出し、平成11年に読売の全額出資によって、中央公論新社が設立された。」

 「平成14年、読売グループ再編により新設された株会社本社の、子会社となって現在に至る。」

 「平成27年5月、本社が、旧中央公論社時代からの京橋の自社ビルから、大手町の読売新聞東京本社ビル19階に、移転した。」

 中央公論社が、読売新聞のグループ会社となっているのなら、反日・左翼勢力に不利な本を出しても、不思議はありません。ただ村瀬氏の著作は、経営危機となる12年前の、昭和45年の出版ですから、時間的なズレがあります。現在の朝日新聞と同じように、経営危機に陥る10年以上前から、読者に見放されていたのだと解釈すれば、納得がいきます。

 朝日新聞は、国有地を国から不当に安い価格で手に入れ、あちこちに一等地を所有していますから、新聞が売れなくても、まだ暫く悪徳不動産業者として生き延びていけます。中央公論社は、清貧を重んじる左翼出版社でしたから、倒産してしまったのでしょう。

 森友の土地が安く売られたのは、安倍総理が政治を私物化しているからだと、一年以上も、朝日新聞が大騒ぎしています。朝日の本社ビルが、安いどころか、ただ同然に払い下げられているのです。朝日の読者たちは、この嘘つき新聞の購読を、どうして私のようにやめないのでしょう。

 国有地を払い下げた総理が誰だったのか、調べる気にもなりませんが、朝日の言うモリトモの理屈で言えば、同社に土地を安売した首相は、「政治を私物化した」と、糾弾されなくてなりません。

 話が脱線し、途方もないところまで飛びましたが、要するに朝日新聞は、中央公論社に比べると、とんでもない極悪の反日・左翼だということです。

 私のように、目を覚ました読者が、次々と定期購読をやめたら、やがて不動産が手元になくなる頃は、中央公論社同様に倒産するという手順になります。今暫くの辛抱ですから、朝日新聞紙のことは、この程度で止め、村瀬興雄氏の話に、移ります。

   〈 村瀬興雄氏 〉 

 本の最終ページに、著者の略歴があります。

 「大正2年、東京に生まれる。」「昭和13年、東京大学文学部西洋史学科卒」

 これだけでは、どのような人物なのか分かりませんので、ネットで検索してみます。

 「日本の歴史学者」「ドイツ帝国、ナチズム、ナチス・ドイツを研究」「松山高等学校教授、愛媛大学助教授」

「成蹊大学教授、名誉教授」「立正大学教授、創価大学客員教授」「勲三等瑞宝章受章」

 ネットの情報は、ここまでです。歴史学者であれ、法律学者であれ、敗戦後の東大では、「反日・左翼」「敗戦思考」の持ち主でなければ、学校に残れず、出世コースも歩けません。東大から出され、彼らから見れば二流どころの大学で糊口をしのいでいた、氏の経歴を見ますと、納得できるものがあります。

 「西ドイツの政治家たちは、戦争責任を逃れるために、」「ナチズムを、ヒトラー個人の異常性に帰したが、」「実際には、ドイツ保守思想のなかに連綿とつづく思考なのである。」

 近年では、ヨーロッパにおいても、村瀬氏に似た主張が出始めていますが、日本ではまだ、反日・左翼教授のたわ言が幅を利かせています。平成12年に、86才で逝去された村瀬氏の無念を晴らすためにも、私は明日から、頑張ろうと思います。

 楽しみを長引かせるためにも、今晩は、ここで終わりと致します。

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闘う保守がいない

2018-04-28 13:13:22 | 徒然の記

  我那覇真子さんの、3月16日づけ「おおきなわ」の動画を見ました。第10回目の動画です。

 彼女の訴えは、沖縄の議会で、「オスプレイによる落下物に関する、抗議書」が、全会一致で可決されたことへの怒りでした。オスプレイからの落下物防止に対し、米軍と政府は、もっと本気で取り組めという抗議なら、私は最もだと思います。しかし、抗議書の中には、こんな要求が含まれています。

 「在沖海兵隊を、沖縄から国外、県外へ移動すること。」

 中国による侵略の危機が迫っている時に、沖縄の保守政党までが、全会一致で、こんな決議をするのは言語道断でないのかと、我那覇さんの怒りはここにあります。

 中国は尖閣の領海に、最初は漁民と称する工作船で侵入して来た、次には公船で来て、ついに軍艦もやってくるようになった。ところが今では潜水艦を潜らせ、領海周辺を航行させている。いくら公海に当たるとはいえ、日本の領海のすぐ近くを、潜った潜水艦が通るというのは、世界の常識では戦闘行為とみなされる。

 しかも中国は、尖閣を自分の領土だといい、最近では、沖縄も中国のものだと言い始めている。沖縄に住む人間は、中国の危機を感じているのに、沖縄の新聞は、こうしたことはほとんど報道しない。こんな危険な状況にある時、沖縄の議会で、保守と言われる議員が、「在沖海兵隊を、沖縄から国外、県外へ移動すること。」などと、全会一致で賛成するのは、許せない。

 「沖縄には、闘う保守がいない。」

 と、彼女の訴えは、以上のようなものでした。ここで念のため、沖縄の県議会で、各党の勢力がどうなっているかにつき、ネットで調べてみました。県会議員の総数は、48名で、内訳が次のようになっています。

   [ 議会与党  27名   ]

      社会民主党と沖縄社会大衆党の連合  12名 

     おきなわ ( 旧称:  県民ネット ) 9名      共産党   6名

   [  中立会派   6名 ]

               公明党  4名  維新の会   2名

   [  議会野党    15 名  ]

      自由民主党 15名

  認識不足でした。沖縄の自民党議員は、二、三人しかおらず、悪戦苦闘しているのだとばかり思っていましたのに、なんと15名もいます。公明党や維新の会を加えますと、保守らしき議員は、21名となります。これでは、我那覇さんが嘆くのも無理はありません

 沖縄に限らず、最近の自民党議員諸氏は、全国的にポピュリストが増え、マスコミのマイナス・イメージ報道を恐れ、反日・左翼に迎合ばかりしています。卑近な例では、昨年11月の、大阪の市議会がそうでした。

  姉妹都市であるサンフランシスコ市が、韓国の売春婦像を建てたことに対し、吉村大阪市長が、抗議声明を出そうとしました。これに自民党議員は、共産党と一緒になって反対し、声明の発信を否決しました。

 いくら市長が「維新の党」であるとは言え、自民党はここまで落ちぶれたのでしょうか。保守の矜持を失い、左翼共産党と手を組み、サンフランシスコ市の反日行為に目をつぶるというのですから、恥を知れと言いたくなります。

 まさに、保守の名が泣く、大阪市の自民党議員たちでしたが、参考までに、ネットの情報を調べてみました。市会議員の総数は、86名で、内訳が次のようになっています。

  [ 議会与党  56名   ]

   大阪維新の会  37名   公明党   19名

  [ 議会野党  30名   ]

         自由民主党   20名   共産党   9名   その他  1名

 大東亜戦争の時、敵である蒋介石に協力したスターリンのように、「敵の敵は味方」と、大阪の自民党議員は考えたのでしょうか。保守の矜持を失った、「獅子身中の虫」とは彼らのことです。

 地方議会ばかりではありません。連日連夜の安倍政権攻撃で、腐れマスコミの報道に惑わされ、「安倍おろし」に走ろうとする議員が、世間の風を見ながら、うごめいています。節操もない、信念もない、クズのような自民党議員が、今、国民の前に姿を晒しています。

 だから私は、我那覇さんの訴えを、わがことのように聴き、胸を打たれました。彼女に届くのか、届かないのか、それは分かりませんが、千葉県からエールを送ります。

 我那覇さん、頑張れ。闘う保守がいないのでは、ありません。自民党の議員にいなくなっているだけで、国民の多くは、闘う保守です。表に出ませんが、選挙の一票で、あるいはこうしたネットの世界で、あなたを応援しています。

 日本中の、国を大切にする保守は、決して貴方を一人にはさせません。

 

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小さな驚き

2018-04-27 11:42:36 | 徒然の記

 今から14年前、60才となった私は、定年退職いたしました。それから5年後の平成21年から、長男の手助けを得て、ブログを始めました。

 早いもので、9年が経過しています。現在のブログは、「ねこ庭の独り言」ですが、始めた頃は、「気まぐれ手帳」と名前をつけていました。年金暮らしの人間が、勝手な思いつきを書く、という意味でした。

 勝手が分からないまま、ブログを続けていますと、世の中の出来事を、改めて考えるようになりました。新聞やテレビとも、真面目に向き合うようになり、時には本も読みました。そうなりますと、この世には私の知らないことが沢山あり、一人前に意見をいうのが恥ずかしくなりました。

 そこで、「みみずの戯言」と、ブログの名前を変更しました。「ごまめの歯ぎしり」でも良かったのですが、要するに、名もない庶民が、地面の下で呟いていると、自嘲を込めたつもりでした。ところがこういう名前にいたしますと、訪問される方が、私のことを、「みみずさん」と呼ばれるようになりました。

 もともと虫の嫌いな私は、とりわけ、土のなかにいる「大みみず」が好きになれず、想像するだけで鳥肌が立ちます。いつかブログの名前を変えようと、心に念じつつ日が過ぎました。忘れもしない平成26年の6月に、可愛がっている猫が死にました。空気の大切さが、切羽詰まった時、肌身で分かると同じように、飼い猫の大切さが、失なって初めて分かりました。

 いつでもそこいらにいる、ごく当たり前の存在と、思い込んでいましたから、消えた猫が、私の元気を奪いました。背を丸めた猫が、一日中眺めていた庭に立ち、季節の花を目にしていますと、今でもこみ上げてくるものがあります。

 だから私は、大切な猫や犬を亡くし、老け込む人の気持ちが、よく分かります。幸いにも私には、喧嘩相手の家内がいて、たまに真剣勝負ができますので、老け込まずに済んでいますが・・。ということで、いつもの通り、私のブログは本題を離れ、どこまでも迷走していきます。

 表題の「小さな驚き」は、どうなっているのか。ブログの名前が、それからどうなったのか。そろそろ、本筋に戻らなくてなりません。

 愛する猫を、いつまでも忘れない自分がいると、あの世か天国か、宇宙のチリとなっているのか、知る由もありませんが、「忘れないぞ」と伝えたいので、「ねこ庭の独り言」と決めました。私はこの名前が気に入っており、生きている限り、というより、元気でブログを続けている限り、この名前で行きたいと思っています。

 さて、いよいよ「小さな驚き」の話に移ります。

 自分がブログを始めた頃の、なんとも知れない、拙い話を、読んでくださる読者がいると知った、驚きです。自分でもすっかり忘れている、8年も前のブログを、わざわざ読んでいる人がいるという、信じられない出来事です。一度や二度なら見過ごしますが、日々表示される「このブログの人気記事」に、毎日出てくるので、唖然とします。私もたいてい物好きですが、なんとも稚拙な、「たわごと」を読む人があるなど、どうして想像することができましょう。

 8年前の私は、まだ朝日新聞の定期購読者でしたし、NHKの信奉者でした。それよりなにより、金権腐敗の自民党に愛想を尽かし、反日・売国の民主党に一票を入れていたのですから、思い出しても汗一斗です。

 私の驚きが、嘘でない証拠に、平成21年の12月に、初めて書いたブログを紹介いたします。表題が「年末風景」で、本文が、

 「寒い年末です。」・・、だだこれだけです。

 これでまだ不十分なら、もう一つだけ、証拠を提出いたします。「今年の目標」と題した、二回目のブログです。

「 三十年くらい前は日記を書いていたが、今はすっかりやめている。

 最近、何かを書きたいというか,思いを表現したいというのか、

要するに,気まぐれが生じてきたということで、
息子たちの力を借りて今年は自分のブログを作ろうと思うようになった。

時には,携帯で撮った写真ものせてみようと,日頃は縁のない、というより、むしろ敬遠してきたバソコンと

携帯に近づく決心をした。会社を円満退職して以来,金はないが

時間はたくさん持てるようになったから、これ
を活用することが人生を楽しむことにつながると独り合点している。

 これからの予定は,息子の助言を得ながら携帯からパソコンに写真を取り込むためのケーブルなども購入しなけ

ればならない。 

 誰に読まれずともよいから、自分の心の記録として続けて行き、楽しんでみたいと、少し気持ちがはずんでいる。」

 前回より少し長いのですが、内容は何もありません。改行もまともにできず、ブツ切れのうどんのような文章です。一体こんなものの、どこが面白いのでしょう。こういう読者がおられなければ、自分でも、再読しなかった昔のブログでした。

 感謝するというより、やはり、「小さな驚き」です。世間は広い。自分より物好きな人が、いるんだ・・・

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ポピュリスト江田氏の安倍首相攻撃

2018-04-25 19:37:05 | 徒然の記

 少し古いのですが、2月5日の、動画を見ました。

 衆議院予算委員会での、国会審議において、江田憲司氏がモリカケ問題で、総理を追求していました。持ち時間40分の中で、森友問題に関する質問が28分、残り12分が加計学園問題でした。

 緊迫する国際情勢や、国の安全保障問題については一言も触れず、マスコミの画策する倒閣運動に参加したポピュリストの姿に失望しました。

  本題に入る前に、氏についてネットで調べてみました。昭和31年生まれの氏は、東大卒業後に通産省へ入り、平成6年の村山内閣で、通産大臣となった橋本龍太郎氏の秘書官となります。平成8年に橋本氏が総理になると、総理秘書官に起用されますが、橋本内閣の退陣後は通産省に戻らずそのまま退官しています。

 東大卒の官僚や政治家には、立派な人物が無数にいますが、たまに馬鹿としか言いようのない人間が出現します。私が知る東大卒の愚か者が、江田氏を入れると、三人になります。「私が憲法の専門家です。」と国会で公言する、恥を知らない民進党の小西議員。もう一人は中曽根元首相の甥で、「面従腹背」が座右の銘だと公言する、これもまた恥をどこかへおき忘れた前川喜平氏です。

 反日・野党の議員になっていながら、未だに「総理秘書官だった」と、自慢して憚らない江田議員・・。私は彼らを「東大卒の、三馬鹿トリオ」と、呼びたくなります。

  江田氏は平成12年に、現官房長官の菅義偉人(よしひで)氏の勧めもあり、自民党公認で神奈川8区から立候補し、落選しています。その後自民党を離党した渡辺喜美氏らと共に「みんなの党」を結成し、次には「結いの党」、「維新の党」、そしてさらに現在の「民進党」と、政党を渡り歩いた風見鶏です。

 議席欲しさの言動でマスコミに話題を提供し、国を思う心もなく、その場その場の風に任せる、根無し草の経歴しかありません。江田氏にも小西氏にも、投票する国民がいるのですから驚きです。民主主義の日本と思えば、「三馬鹿」トリオにも、存在する権利は認めなくてなりません。

 ここで、本題の動画に戻ります。

 ・かって私は総理官邸で、総理の秘書官をしていました。その私の経験からしましても、森友問題に関する総理の答弁はまったく納得できません。

 やはり氏の質問は、秘書官時代の自慢から始まりました。

 ・森友問題の原因は、昭恵夫人が名誉校長を引き受けた時から、すべて始まっています。

 ・そもそも総理夫人たる者は安易に肩書きを他人に貸すなど、厳に慎まなければなりません。」

 ・私が総理秘書官だった時は、同時に総理夫人の担当でもありました。

 ・総理夫人の立ち居振る舞いは、首相の代理や分身の行動として見られます。総理夫人は個人といえども公人であり、総理と同じく、国民全体の奉仕者であり、一部の私人や、学校などの奉仕者になってはならないのです。

 ・私が総理夫人の担当秘書官だったときは、こうした観点から、厳正な対処をしていました。

 ・総理は昭恵夫人への多くの私的な依頼や、要請を、どのように捌いておられたのか、またどのように指導されていたのか。お聞かせください。」

 氏の話は正論と言えます。しかし正論でも、腹に一物のある風見鶏が口にすれば、愚論に変じます。総理秘書の経験者と新しい切り口から喋っていますが、中身は反日・売国の野党議員諸氏が、国会審議を止め、国民をうんざりさせた話と同じです。

 私も先月のブログで、「国民の負託を勘違いした総理」について下記のように述べています。「三馬鹿トリオ」から教えられなくても、問題点を整理しています。

   1. 安倍総理は、昭恵夫人を総理としてコントロールできなかった。

  2. 昭恵夫人の愚かな行動が、モリカケ問題を発生させた。

  3. 野党に付け込まれる、原因を夫人が沢山作った。 

  4. 総理は、夫人を守るため、官僚に無理をさせた。

  5. 野党が言うまでもなく、保守の国民が失望している。

 江田氏は事実をパネルに並べ、疑惑を深めた昭恵夫人の行動を7項目指摘しています。

   1. 問題の小学校の校長に就任した
   2. パンフレットに、顔写真とメッセージを掲載させた
   3. 森友を何度も訪問し、講演をしている
   4. 訪問には、経産省出向の「夫人付き」が同行している
   5. 「夫人付き」が、財務省に照会している
   6. 籠池氏と、学校予定地を訪問
   7. 大阪府の私学審議会会長と面談している
 
 これらの問題は、すでに国会で何度も総理に質問され、国民も耳にタコができるほど聞かされています。総理の答弁も、同じでした。
 
 ・私と総理のやり取りを聞いて、正しいのはどちらかと判断するのは、国民です。裁判官は、国民であります。
 
 ・総理は分かっておられますか。マスコミの各社が実施するアンケートで、国民が上げている理由のトップは、総理の人柄が信頼できない、・・これですよ。
 
  ・私はこの問題の解決のため、昭恵夫人の国会招致を要求いたします。」
 
 国会で総理を追及して辞職を要求し、総理の個人的印象にダメージを与えるのが、反日野党と、マスコミの戦術です。自民党の中にいる風見鶏たちが影響され、「首相の三選はない。」と言い始めています。
 
 これだけ叩かれても、昭恵夫人は酒場の仕事をやめず、総理は開店記念日にお祝いのメッセージを送り、これがまた、動画で配信されているというのですから、総理夫妻も三馬鹿トリオの江田氏も、私に言わせれば「どっちもどっち」です。
 
 これが国民の本音です。
 
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日中戦争 - 5 ( 日本の文化と他国の文化 )

2018-04-23 20:02:01 | 徒然の記

 アジア侵略をする、欧米列強の餌食になるまいと、懸命に文明開化をし、富国強兵の道をひた走った日本が、 アジアの一等国となります。得意の絶頂に我を忘れますが、その喜びは短期間で終わり、世界の強国から寄ってたかって打ちのめされます。

 戦前の日本史を復習していますと、なぜか平家物語の一節が頭に浮かんできます。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、」「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。」「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し。」「猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風前の塵に同じ。 」

 「驕れる者は久からず。」・・、まさに戦前の日本は、そうだったとうなづきます。

 アジアの片隅の小国が、あっという間に近代化を達成し、清国を破りロシアを打ち負かし、世界の国々が目を見張りました。敗戦後の日本がまた性懲りも無く、同じ奇跡を世界に見せました。

 焦土と化した国を、瞬く間に世界第二の経済大国として甦らせ、他国が驚嘆し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なとど、持て囃されました。しかし、これもまた、つかの間の有頂天で、再び日本は世界の国々から打ちのめされます。

 なぜ日本という国は、成功をおさめると諸外国から叩かれるのか。日本人はなぜ、いつも国を挙げ、他国の言動に一喜一憂するのか。どうして他国と、普通の関係が維持できないのか。最近、どうやら答えは日本の中にあり、日本人の思考法の中にあるのでないかと思えてきました。

 徳川時代の三百年の鎖国を含め、二千年余の歴史の中で、私たち日本人は、日本でしか通用しない精神文化を、完成させていたのではないのでしょうか。ぼんやりとした予測でしかありませんが、弱肉強食の国際社会にありながら、日本は、他国と違う独自の文化を形成してしまった。

 武士道や、大和心や、侘び・寂び、あるいは「おもてなし」や「忖度」など、世界に似たものはありますが、それらはすべて「似て非なるもの」でないのか。しかも私を含め、日本人のほとんどが、それに気づいていない。

 私たちの言葉や気持ちは、日本人同士だけで通用し、他国には誤解されるものでしかない。そうと考えなければ、戦前・戦後の日本の置かれた状況に、説明がつきません。私たちの覚醒がなければ、国際社会での孤立感や疎外感は克服できません。日本人と同じ人間同士という感覚で、他国と条約を結ぶから間違いが生まれるわけで、初めから違う人間の国と自覚していれば、失望も怒りも、生じません。

 韓国が売春婦問題につき、「未来永劫、不可逆的に解決する。」と約束しても、韓国との取り決めだから、当てにならない考え相手にしなければいいのです。「尖閣も、沖縄も、自国のものだ。」と、中国が言っても本気にせず、「侵犯したら、やり返す」と、相手を睨み返せばいいのです。

 そうなると、夢見る宰相だった幣原氏が自慢する憲法を、国際社会のレベルに合わせ、すぐにも改正しなくてなりません。

 いつものことですが、書評を離れ、脱線してしまったように見えますが、私の中では連続しています。日本以外の国で、「謝る」という行為が中国や、韓国・北朝鮮で常識としてどうなっているかを知れば、書評がつながります。

 「自分の非を認め、率直に謝ること」は、日本人同士なら立派な行為として褒められもします。しかし隣の国や、他のアジア諸国ではどうなのか。

 「非を認めて謝ると、その人間は身ぐるみ剥がされて、奴隷にされる。あるいは、即座に、殺される。」

 生活習慣も風俗も宗教も言葉も違う他民族が、隣り合わせに混在して生きる大陸では、情けや情状酌量など、そんなことをしていたら、命を失います。日本と、他国では「謝罪」の意味からして違います。日々は命がけの戦いですから、彼らは決して謝りません。これを文化というのか、生活習慣と言うのか、正確な言葉を知りませんが、厳しい現実です。

 彼らのために弁護すれば、それだけ厳しい世界で生きているということです。う。会社勤めをしていた時、東南アジアの現地法人に出向していた社員が、こんな話をしてくれました。

 「車のタイヤを交換しようと、事務所の前に、新品のタイヤを置いてたんだ。」「そのタイヤを、抱えて持って行こうとする奴がいたんで、」「追いかけて行って、返せと言ったら、そいつがなんといったと思う。」

 大切なタイヤなら、人通りの多い道路に置くはずがない。道路にあるというのは、落ちていたのだから、拾った自分のものだ。男はそう言い張って、返そうとしません。謝れば許そうと思っていたのですが、本気で怒ったそうです。

 社員は体が大きく、格闘技もやっていたため、最後には男がタイヤを返しましたが、「落ちていた物を拾ったのに、泥棒扱いとは、日本人はひどい奴だ。」と、捨て台詞を残して去ったと言います。この男が特別珍しいのでなく、現地ではトラブルがありふれていると聞きました。ですからこれはもう、文化の違いとしか言いようがありません。

 南米やアジア諸国で数々の悪行を重ねた列強が、一度でも相手国に謝罪したことがあったでしょうか。「謝罪」すれば法外な代償を要求されるだけでなく、白人社会の劣等生として叩かれます。彼らは誰も、謝罪など考えもしません。ところが、国際常識に欠けたお人好しの日本政府と、「お花畑の住民」が、平身低頭しますから、未来永劫叩かれ続けることになります。

 中国での侵略を個人として反省することと、国際社会で非を認めることは、区別しなければなりません。ですから私は、そういう意味で、臼井氏の著作を評価しません。知らない事実を教えてもらいましたが、他国の常識を説明しなかった著書には、感謝できません。

  「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し。」です。今後私たち日本人は決して奢ってはなりません。他国と付き合うときは国際常識で生き、日本的反省は、通用する日本の中でやればいいのです。

 今回のブログも、息子たちに贈りる遺言です。長い文章を敬遠せず、理解できる人間となったとき、読んでくれたら有難いと思います。

 まだ紹介しない事実が残っていますが、書評はここで終わりと致します。

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日中戦争 - 4 ( 著者により異なる、近衛公の評価 )

2018-04-22 22:34:07 | 徒然の記

 昭和12 ( 1937 ) 年の南京陥落後、日本政府は、蒋介石との平和条約締結に関し、ドイツに斡旋を依頼しました。広田外相から、ディルクゼン駐日独大使に、条約案が手交されました。

 第一次近衛内閣の時の話です。これまで私は、強硬な軍部を近衛首相が抑えきれず、独走しているのは陸軍とばかり思っていましたが、臼井勝美氏のおかげで、逆の事実を知りました。

  国民党政府は、漢口、重慶へと後退しながら、尚も抵抗を続け、日本への回答を遅らせたままでした。こうした蒋介石への対応に、内閣と統帥部の間に、深刻な対立が生じます。分かりやすいので、、氏の叙述を転記します。

 「参謀本部はすでに、速戦即決による中国屈服政策の失敗は明らかであると、認識していた。」「もはや戦局の収拾は、ほとんど予測できないという窮地に、立たされていた。」

 「もし日本が、国民党政府を否定すれば、長期間にわたり、中国分裂の状況が継続し、その間に必然的に、ソ・米・英の干渉を招くことになる。」「永久抗争のため、帝国は長き将来にわたり、莫大の国力を吸収せられ、」「かつ東洋を、英米の好餌に供する恐れがある、という見解に達していた。」

 「これを防ぐには、国民党政府が一地方政権に転落しない前に、対面を保持したまま、講和に移行させる必要があったのである。」

 大本営会機で近衛首相が、蒋介石との交渉を速やかに打ち切り、態度を明瞭にすべきと発言したのに対し、多田参謀次長は、交渉の継続を主張して譲りませんでした。しかしそのに翌日、かの有名な「近衛声明」が発表されます。昭和13 ( 1938 ) 年のことです。

 「帝国政府は、以後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するに足る、新興支那政権の成立発展を期待し、」「これと国交を調整して、更生新支那の建設に協力せんとす。」

 陸軍の反対を押し切ったこの声明は、中国国民のみならず、列強からも強い反発を招き、日本の孤立を一層深めてしまいました。そこで近衛総理は、米国との直接交渉により事態の解決を図ろうとします。 

 第二次近衛内閣は、対米交渉を成功させたいがため、三国同盟推進者であり対米強硬派の松岡外相を罷免するため、総辞職しました。ところが第三次近衛内閣では、対米交渉を進める総理と、東條陸相との対立が激化し、また総辞職します。日本が窮地に追い込まれ、先の見通しが立たなくなった時の辞任でしたから、臼井氏が、厳しい意見を述べています。

 「首相と陸相の意見の衝突が、日米交渉の進展を阻害したように見え、」「首相自身の意識も、それに近かったようだが、」「日中戦争は、近衛内閣の時勃発したのであり、その時点までの、ほとんどすべての、基本的な対外政策は、近衛内閣の所産であった。」

 「独占的な、中国管理方式の確立、国家総動員法の成立、新体制運動の推進、三国同盟の締結、仏印進駐の実施と列挙しても、」「近衛内閣こそ、現時点において、最大の責任を負わねばならぬのは、事実であった。」「東條首相は、近衛内閣の政策を、忠実に実行しているに、過ぎなかったのである。」

  同じ近衛公の評価も、著者が変わるとここまで異なるのかと、これもまた、新しい発見でした。昨年の5月に読んだ、岡義武氏の『近衛文麿』(岩波文庫)では、近衛総理は優柔不断で、決断できないまま、周囲に引きずられる政治家だったと、酷評していました。

 先日手にした、富田健治氏の著『敗戦日本の内側 (近衛公の思い出) 』では、陸軍と懸命に戦う姿が語られていました。富田氏は、第二次、第三次近衛内閣で、内閣書記官長を務めていますから、身びいきの評価であって当然です。聡明でしたが、ここぞという時の決断ができなかった政治家だと、私自身は見ております。

 様々な角度から、多様な見方ができる頭脳の持ち主だっだけに、迷いが常にあったと、そのような気がしています。臼井氏が近衛内閣の責任として列挙する、対外政策は、陸軍に押し切られ、やむなく認めたものが大半です。その陸軍の強硬派の中心に、東條陸相がいたのですから、「東條首相は、近衛内閣の政策を、忠実に実行しているに過ぎなかったのである。」という、臼井氏の説明は適切でありません。

 「東條陸相は、かねてから主張していた中国政策を、近衛内閣においても曲げなかった。」と、こう表現するのが正しいと思います。そうでなければ、後世の人間に、正確な史実を伝えることにならない、気がします。

 氏に感謝したいのは、昭和13年に発表された、有名な近衛声明が、陸軍の反対を押し切って出されたと教えられたことです。そうなりますと近衛公も、ここぞという時の決断は、やれる政治家だったという話になります。

 しかしどうせやるのなら、「以後国民政府を相手にせず。」などという、とんでもない声明の発表を決断せず、最初の内閣の時、陸軍を抑える決断をすれば良かったのにと、私はやはり、近衛公に好意的な解釈をします。客観的でありたいと、異なる著者の本を読んでも、自分の感情が入りますから、過去を知る作業も簡単ではありません。

 だが私は、何度でも息子たちに言いたくなります。自分の国を自画自賛するためでなく、敗戦思考に毒されるためでもなく、自分の手で、日本の過去を知って欲しい。そこから日本を考え、選挙の一票を決められる人間になってもらいたいと。

 反日左翼の政治家や、偽物の保守政治家に惑わされず、国を愛する政治家に、大切な一票を行使できる国民になって欲しいと願います。

 愚かしいまでの国会の混乱と機能停止は、どこから生じているのか。あるいは、マスコミの偏見報道の拡散は、どこから来ているのか。

 本物の保守自民党議員なら、私と同じことを考えるはずですから、いつもの提案を繰り返します。 

 1.  議員の二重国籍禁止法を立案、可決し、実施すること。

  衆議院参議院を問わず、議員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促し、帰化し

  ない者は国外退去とする。

   2. NHKに関する特別法を制定し、役員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促

  し、帰化しない者は退職させる。

 「継続は力なり」です。一人の声は小さくとも、数が増えれば、世論となる日が来ます。愚かと言われても、子供たちの明日のために繰り返します。

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日中戦争 - 3 ( 常識は、歴史と共に変化する )

2018-04-21 18:50:53 | 徒然の記

  昭和9 (1934 ) 年、蒋介石は軍官たちを前にし、次のような演説をしました。

 「現在華北は、事実上日本の支配下にある。」「もし日本が軍事力を発動すれば、中国の重要地点は三日以内に占拠されるであろう。」「中国の命脈は、日本人に掌握されていると言っても、過言ではない。」「もし対日戦争が勃発したら、国内の反動派が跳梁し、内乱が起こり、とうてい日本には抵抗し得なくなる。」

 蒋介石は、国内で広範に活動する共産勢力を完全に掃討した後、外敵日本と戦うという姿勢を持ち続けていました。彼にとって、日本軍の侵略は、皮膚のただれのようなものでしたが、共産勢力は体内の患いであり、脅威の比重は共産勢力にありました。彼は共産軍を「共匪」と呼び、これを人道上の敵としたところが、日本との共通点でした。

 戦国時代の武将達が、天下を取ろうと狙っていたように、中国の軍閥たちも、統一中国の皇帝への野望を抱き、せめぎあっていました。その軍閥の中で一番抜きん出ていたのが蒋介石でしたが、それでも単独では国家統一の力に欠けていました。

 昭和11 ( 1936 ) 年に西安で、有名な「蒋介石の監禁事件」が発生します。共産軍殲滅の指示を出した蒋介石を、部下である張学良が監禁するという事件でした。張の率いる将兵の中には、共産党の言う「内戦停止」と「一致抗日」の主張に共鳴する者が多数いたため、蒋介石も逆らえませんでした。

 「蒋監禁の報が伝わると、共産軍の根拠地では、大祝賀会が開かれ、」「毛沢東の演説があった後、蒋介石を反逆者として人民裁判に付するよう、全会一致で採択されたと、言われている。」

 「しかしスターリンから、蒋を解放せよという指示があり、周恩来が、その線で動いた。」「スターリンは、蒋の死によって内戦が惹起され、中国の対日抵抗力が弱体化するのを、恐れたのであろう。」

 以上著者の説明ですが、「敵の敵は味方」という、策略の実例を見せられました。

 こうして蒋介石は、スターリンからだけでなく、英・米からも、抗日のための有力な抵抗勢力として珍重されます。時として蒋介石は共産勢力撲滅のため、日本と単独で講和しようとも試みますが、米英ソがそれをさせませんでした。

 軍国主義者たちが無謀な戦争に国民を引きずり込んだと、現在では多くの学者が説明していますが、彼らは、列強の動きを故意に伝えていません。「日本だけが間違った戦争を続けた。」という、東京裁判史観を国民に広めるため、変節した学者たちが改ざんした歴史を、再検討する必要があります。

  渡部昇一氏の『東條英機 歴史の証言』を読んだことがあります。東京裁判における東條元首相の宣誓供述書の、詳しい解説です。私はこの書で、元首相の法廷での発言を知りましたが、大戦中の主張は聞いたことがありませんでした。今回臼井氏の著書で、知り大変参考になりました。

 「東條ならば、陸軍を抑え、戦争を止めることができる。」と、昭和天皇からも期待され、大戦末期に組閣を命じられたのに、実際の氏は私の想像を超える軍人でした。

 氏の著書から、元首相の主張を二つ紹介します。

 〈 関東軍参謀時の発言 〉

  「国民政府に対し、日本から進んで親善を求めるのは、中国の民族性にかんがみ、」「排日、侮蔑の態度を増長させるに過ぎないから、逆に、一撃を与えることが必要である。」

 〈 陸相時代の、閣議での発言 〉( 近衛内閣  )

  「撤兵問題は、心臓だ。撤兵を、なんと考えるか、陸軍としては、これを重大視している。」「米国の主張にそのまま服したら、支那事変の成果を壊滅し、満州国も危うくする。さらに朝鮮統治も、危うくする。」

 「支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数百万の軍隊と、一億国民に、」「戦場および内地で、辛苦を積ませており、数百億の国幣を費やしている。」「普通世界列国なれば、領土割譲の要求をするのは、むしろ当然である。」

 「北支蒙疆(もうきょう)に、不動の体制をとることを遠慮せば、満州建設の基礎は、如何になりますか。」「これを回復するため、またまた戦争となるのであります。」「満州事変前の、小日本に還元するなら、何をかいわんやであります。将来子孫に対し、禍根を残すこととなります。」

 「撤兵は、退却です。駐兵は心臓である。」「主張すべきは主張すべきで、譲歩に譲歩を加え、そのうえに、基本をなす駐兵まで譲る必要がありますか。」「これまで譲り、それが外交とは何か、降伏ではありませぬか。」

 日米開戦を辞さないとする東條陸相を説得できず、近衛首相は翌々日辞表を上奏しました。私が一番注目したのは、東條陸相の次の言葉でした。

  「普通世界列国なれば、領土割譲の要求をするのは、むしろ当然である。」

 敗戦後の変節した学者や政治家たちが、「彼は極右の軍国主義者だった。」「過激な国家主義者だった。」と言い、、肉声のほとんどを消し去ったのは、何故なのか。国を愛する者ならば、暴論と批判されても言いましょう。

 「当時の日本がやったことは、世界常識の範囲内だった。」

 東條氏の発言が国内に広がれば、このような受け止め方をする者が当然出てきます。アメリカの復讐裁判が、土台から揺らぎ、「日本だけが間違った戦争をした。」「日本だけが、侵略国家だった。」という捏造が通用しなくなります。

 息子たちが、いつ私のブログを読む日が来るのか。知りません。親ばかと言われるのでしょうが、息子たちは、皆真直ぐな人間として育ちました。他人を疑うことをせず、先生の言うことを聞き、真面目に新聞を読み、普通の国民として生活しています。

 しかし私は、「自分の国を愛せない」息子たちを悲しみます。息子たちの子も、その次の子も、また次の子も、「国を愛せない」国民であって良いのかと、年を重ねるにつれにその思いが強まります。

 敗戦以後、日本の過去はあまりに過小評価されました。過少評価だけでなく、汚され、罵られ、足蹴にされました。戦勝国のアメリカがするのならまだしも、日本人自らが、敗戦以来73年間にわたり、それをしてきました。このような愚かな国民がいる国としたまま、死ぬ気になれるでしょうか。

 「国の過去を、せめて世界の常識に戻したい。」

 息子たちが、いつか分かってくれると信じ明日も本に向かいます。

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日中戦争 - 2 ( 満洲国の現実と軍閥が虐げた中国人 )

2018-04-20 13:18:30 | 徒然の記

 石原参謀の考え方の基本には、一つの中国観がありました。つまり中国人には、統一的な近代国家を形成する能力がないという断定です。

 各地に割拠する軍閥による内紛が絶えず、軍閥は列強と手を結び、半植民地となりながら分裂し対立していました。この状態が中国であるのなら、張学良の軍閥に虐げられている中国人は、むしろ日本軍の支配下に入った方が幸福でないかと石原参謀は確信していました。

 彼は後に「五族共和」と「王道楽土」を目指し、満州に新しい国づくりをしますが、私が教えられたのは、軍人の独りよがりな思い込みだったとする批判だけでした。しかし今一度中国の状況を、氏の著作で確かめてみました。

  大正14 ( 1925 ) 年の10月に、中国の関税自主権の回復に関する会議が、北京で開かれました。中国代表は関税自主権を強く主張しましたが、英国もアメリカも賛成しませんでした。彼らの意見は一致していました。

 「中国が、まず内戦を終結させ、外国人の生命財産の保護を全うし、統一ある国家としての体制が整ったとき、初めてこの問題は、列国によって討議されるべきである。」

 英米の主張を読みますと、「中国人には、統一的な近代国家を形成する能力がない。」とする、石原参謀の意見も暴論とは言えなくなります。満州には、内戦に疲弊した中華民国から、漢人や、朝鮮人や、政府の政策に従った満蒙開拓団などの移住・入植が相次ぎ、人口が増加していました。

  しかし昭和7 ( 1932 )年に設立された満州国は、「五族共和」「王道楽土」とは程遠い国でした。満州国政府の官吏は日本人が70%を越え、中国人は30%を切っていました。皇帝溥儀は就任の翌日本庄関東軍司令官に対し、次のような意に反する書面を出しました。

     1. 満州国の治安維持および国防は、すべて日本軍に委嘱する。

      2. 満州国は、日本軍が国防上必要とする鉄道、港湾、水路の管理、また今後の鉄道敷設権を、日本に委嘱する。

      3. 日本人官吏の選定は、関東軍司令部の同意を得る。

 中国人の反日感情には、深刻なものがあったと言われています。満州国政府の中国人大臣の言葉を、氏が紹介しています。

 「満州国成立当時われらは、日満人相提携して、立派な新国家を建設する覚悟であったが、この現状では何もする気になれない。」「こんな状態で、もし日ソ戦争でも勃発すれば、全満州人は、日本に反抗して立つであろう。」 

 私は5年前に読んだ、愛新覚羅浩(ひろ)氏の『流転の王妃』を思い出しました。浩氏は、嵯峨公爵家の長女として生まれ、関東軍によって、満州国皇帝溥儀の弟溥傑と政略結婚をさせられた人です。

 氏の目を通して眺めた日本が書かれています。臼井氏の叙述を重ねますと、もう一つの日本の顔が嫌でも見えてきます。長くなりますが、浩氏の著書を転記します。

 「満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。」「清朝最後の皇帝(溥儀)を、満州国皇帝にかつぎあげたのも、関東軍でした。」「溥儀皇帝は三歳で、清朝の帝位に就かれました。」「不幸なことに、在位4年で清朝は倒れますが、廃帝として、そのまま紫禁城で成長されます。」

 「後に城を追われて北府に逃れ、その後北京の日本公使館に避難されました。」「満州国建国の翌々年、宣統廃帝は二十八歳で満州国皇帝となります。」「しかし、当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、関東軍によって行動の自由も無く、意思表示もできない、傀儡の生活に、甘んじなければなりませんでした。」

 「関東軍のなかで、宮廷に対して権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。大佐は、私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。」

 吉岡大佐は、氏のお見合い時からの付き添いで、やがて中将になった人物です。他人を悪し様に言わない著者が、溥傑氏に無礼を働く様を、何度か書いているところからしますと、余程腹に据えかねていたと推測できます。

 「吉岡大佐に限らず、〈五族協和〉のスローガンを掲げながらも、満州では、全て日本人優先でした。」「日本人の中でも、関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。」「満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば、虫けら同然の存在に、映ったのかもしれません。」

 「日本の警察や兵隊が店で食事をしても、お金を払わず、威張って出て行くということ。」「そんな話に、私は愕然としました。」「いずれも、それまでの私には、想像もつかない話ばかりでしたが、そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の、」「 五族協和 というスローガンが、このままではどうなることかと、暗澹たる思いにかられるのでした。」

 「日本に対する不満は、一般民衆から、満州国の要人にまで、共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。」

 当時の列強がアジア人に対し、傲慢に振舞っていたとしても、日本人が同じことをして良いはずがありません。浩(ひろ)氏の羞恥を、共有します。しかし一方では日本を悪しざまに批判する、現在の中国共産党の政治家には、一言返さずにおれません。

 私利私欲に固まる軍閥の横行を許し、国の乱れを長年収められず、列強から蔑視されていた自国の情けない有様も、少しは反省したらどうなのか。大正14 ( 1925 ) 年の10月に、関税自主権回復の会議が開かれた時、中国の意見に賛成したのは、日本だけではなかったのか。あの時中国人は、日本政府に感謝し、反日運動をやめ、英国への激しい敵対活動を開始したのではなかったのか。

 感謝はその場かぎりでも構わないが、不甲斐ない自国の有様について少しは反省し、「歴史認識」を改めてはどうなのか。

 息子たちに言います。反日左翼の愚か者たちに言われずとも、日本人として恥ずべきことは自ら認め、必要以上の卑屈さに身を屈めてはなりません。歴史は日本だけが作っているのでなく、他国が同時に参加しているのだと、その当たり前の事実に気づいて欲しいと思います。

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日中戦争 ( 北一輝、大川周明、石原莞爾の意見 )

2018-04-19 21:10:03 | 徒然の記

 臼井勝美氏著『日中戦争』( 昭和42年刊 中公新書 ) を読了。

  氏は大正3年に栃木県に生まれ、昭和23年京都大学を卒業後、外務省に入り、外交文書の編集に携わっています。九大助教授をへて昭和50年筑波大教授、のち桜美林大教授となりました。日本の歴史学者として著名な氏は、特に大正から昭和前期における、日中関係史研究の第一人者と言われています。

 前回読んだ、馬場伸也(ばんばのぶや)氏著「満州事変への道」も、同じ中公新書で、日中戦争を扱っていますが、東京裁判史観に立つ馬場氏と異なり、氏は事実を中心として叙述しています。

  馬場氏は、田中義一氏と幣原喜重郎氏を中心に、日中戦争を説明しましたが、臼井氏は、関係するほとんどの人物を登場させます。内容が広がり複雑になりますが、客観性が増し偏見が少なくなります。

 氏は「まえがき」のなかで、本書執筆の理由をつぎのように述べています。

 「日中戦争は、すでに過去の出来事として、歴史家の研究対象となっていますが、今日の事態を考える上で、なにがしかの助けになるかもしれません。」

 過去の歴史を忘れるな、日本は歴史認識が足りないと、事あるごとに中国の政治家が言うのは、日中戦争時の話が中心です。

 書き出しの部分を、紹介します。

 「日本のファシズム運動の中心的存在として、青年将校たちに大きな影響を与えていた北一輝が、」「二・二六事件の関係者として、代々木原の一角で銃殺に処せられたのは、昭和12年の8月19日であるが、この時既に日中両国間では、全面戦争が開始されていた。」

 「それは、アジアを舞台にした最大の戦いであった。」「十九世紀の中葉、イギリス、アメリカなどの欧米諸国によって、開国されてから数十年、」「それぞれ苦難の道を歩んできた、アジアの二大民族の文字通りの死闘であった。」

   北一輝が『日本改造法案大綱』の草稿を書いたのは、大正8年の夏、中国の上海にいた時です。おりしもベルサイユ講和条約で、中国が返還要求した山東省のドイツ権益を、日本へ渡した事に対し、激しい排日運動が起こっていました。北は当時の状況を回顧し、「ベランダの下は見渡す限り、私の故国日本を、怒り憎みて叫び狂う群衆の、大怒涛であった。」と伝えています。

 歴史では、日本だけが中国を侵略した国であると語られますが、そうでなかった事実を、息子たちには知って欲しいと思います。日本の侵略が正当化されるものでありませんが、事実を把握することは大事です。
 
 氏はここで、北一輝、大川周明、石原莞爾の各氏が、大正8年当時の欧米列強と、中国をどのように見ていたかを、教えてくれます。
 
 〈 北一輝 〉
 
 「英国は全世界にまたがる大富豪にして、露国は、地球北半の大地主なり。」「国際間における、無産者の地位にある日本は、正義の名において、彼らの独占より奪取する戦争の権利なきか。」
 
 「国内における、無産階級の闘争を容認しつつ、国際的無産者の戦争を、侵略主義なり軍国主義なりと考える、欧米社会主義者は、根本思想からして自己矛盾なり。」
 
 国際社会で無産国家の日本が、他国を侵略しても、列強から文句を言われる筋合いはないと、北一輝はこのような意見を持っていました。上海にいた北を、日本から迎えに来たのが大川周明で、国家改造運動の中心となる二人は、ここで初めて顔を合わせています。大川の目にも第一次大戦後の現状維持を基本とする国際連盟が、欺瞞に見えていました。
 
 〈 大川周明 〉
 
 「国際連盟は、隷属する国民より自由を回復する権利を奪い、弱小国民から、より強大にならんとする権利を奪う。」「ヨーロッパの世界制覇に挑戦する気勢が、全有色人の間にみなぎってきており、アジアは、惰眠より覚めねばならない。」
 
 「日本が、英、米、ソ、華などと対抗していくためには、積極的に、自給自足のための経済領域を、持たねばならない。」「その発展のためには、満蒙以外になく、満蒙を編入した大経済単位を確保し、日本経済を革新しなければならない。」
 
 「日本の生存のためには、満蒙問題の解決が必要であり、やむを得ない場合は、武力解決も辞さない覚悟を、持つべきである。」
 
 〈 石原莞爾 〉 (関東軍参謀)
 
   「今後の戦争においては、総動員計画による全面戦争のための、体制整備が必要である。」「それには、速やかに敵側の一定地方を占領し、その占領より得られる資材・財源を活用し、全面戦争を有利に展開させる。」
 
 「これにより、疲弊することなく、長期戦の遂行が可能となる。現実の問題としては、満蒙地方が最も優位なる占領対象地域である。」
 
 「満蒙が、日本の国防上必要なのは言うまでもないが、」「朝鮮統治の安定を図る上からも、また経済的に、日本の不況を救うためにもそれは重要である。」「満蒙における日本の権益の危機を救う唯一の道は、これを併合して、日本の領土とすることである。」
 
 東京裁判史観に縛られた馬場氏は、「満州事変への道」の中で、田中義一首相が特別な侵略主義者であるように説明し、平和外交を掲げる幣原氏が、日本の良心であるように叙述しました。しかし臼井氏の著作を読みながら、馬場氏の説明の誤りを確信しました。
 
 一部の軍人の考えが日本を破滅に導いたのでなく、ほとんどの指導者たち、あるいは国民が、北、大川、石原氏と似たような考えを抱いていたのです。
 
 昨年の5月に、岡義武氏の『近衛文麿』(岩波文庫)で読みましたが、若き日の近衛公が、雑誌に投稿した記事が紹介されていました。あの時は意外に思いましたが、当時の世界情勢を考えると、軍事力を行使する侵略は当然の意見でした。もう一度、近衛公の論文を紹介します。
 
 「われわれもまた、戦争の主たる原因がドイツにあり、ドイツが平和の撹乱者であったと考える。」「しかし英米人が、平和の撹乱者をもって、ただちに正義人道の敵となすのは、狡獪なる論法である。」
 
 「ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と未成の強国との争いであった。」「現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは、決してそうとは言えない。」

 「英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、その利益を独占していたため、ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、膨張発展すべき余地もない有様であった。」

 「このような状態は、人類機会均等の原則に反し、各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。」「ドイツがこの状態を打破しようとしたことは、正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。」

 公の国家平等論は、先進国と後進国の植民地保有の平等で、北、大川両氏が似た考えをしています。もっといえば、「機会均等」「門戸開放」と言って中国大陸に出てきたアメリカも、同じことを言っていました。

 東京裁判で、日本だけが断罪されましたが、当時の世界では他国への侵略が当然視されていたことを、なぜ日本の歴史家たちは隠そうとするのでしょう。政治家もマスコミも右へ倣えの姿勢ですが、これこそが日本人が身につけた「敗戦思考」です。

  胸を張ることではありませんが、「日本だけが間違った戦争をした」というのは、捏造の最たるもので、中国の政治家が日本だけを攻撃するのは、「敗戦思考」で萎縮した日本人がうなだれてばかりいるからです。
 
 本日は、ここで一区切りといたしますが、一日も早く日本が、反日左翼の汚染から抜け出す日が来ることを願いつつ、千葉の片隅から愛国の発信を続けたいと思います。
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満州事変への道 -4 ( 馬場氏と塩田氏が語る、二つの幣原氏 )

2018-04-11 19:42:46 | 徒然の記

 知らない訳ではありませんが、ここまでハッキリ書かれますと無視出来なくなります。大事なことですから、息子たちにはしっかり読んで欲しいと思います。

 前置きなしで、氏の意見を紹介します。

 「世に現憲法は、マッカーサー憲法とも呼ばれるが、」「戦争放棄を明記した前文と、九条に関する限り、発案者は幣原であったことを、マッカーサーも当の幣原自身も認めている。」

 氏は、幣原氏の回顧録の一文を紹介します。長いのですが、なるべく省略せず転記します。

 「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたときすぐ頭に浮かんだのは、あの野に叫ぶ国民の意思をなんとかして実現すべく、努めなくちゃいかんと、固く決心したのであった。」

 「それで、憲法の中に、未来永劫戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。」「つまり戦争を放棄し、軍備を全廃し、どこまでも、民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私に関する限り信念からであった。」

 「軍備に関しては、少しばかりの軍隊を持つことは、日本にとってほとんど意味がないのである。」「外国と戦争をすれば、必ず負けるような劣悪な軍隊ならば、誰だって、軍人となって身命を賭するような、気にはならん。」

 「軍隊を持つとだんだん深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。」「戦争の主な原因は、そこにある。」「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に、軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが一番確実な方法と思うのである。」

 この部分を引用した後、氏は昭和26 ( 1951 ) 年の5月に米国の上院で行われた、マクマホン議員と、マッカーサーの問答を紹介しています。質問者がマクマホンで、答えているのが、マッカーサーです。

 「ところで将軍、戦争というものは、なくならないものですかね。」

「実は私も、そのことを言おうと思っていたんですよ。それは、戦争を全面的に放棄することです。」

 軍事外交委員会でのやりとりだと説明していますが、まゆつば物と思えてなりません。翻訳も拙く、まるで中学生の放送劇を聞いているようで、紹介するのがバカバカしくなります。

 「現に日本に、その偉大な例が見られます。日本人たちは、自分の意思で、戦争を放棄することを、憲法に盛り込みました。」

   「ときの首相の幣原という人ですが、私のところへ来て言いました。」「私は長い間、この信念を抱いてきたのですが、世界平和のためには、戦争する権利を全面的に放棄するしかありません、とね。」

  「彼は私に、軍人である貴方にこれを話すのは、非常に躊躇したのですが、」「私は思い切って、今草案されつつある憲法に、戦争放棄の条項を盛り込むよう一生懸命努力してみようと思うのです、とね。」

 「私は立ち上がって、その老人と握手せざるを得なかった。」「そして私は彼に、それは人類が取りうる、最も建設的な手段だと勇気づけました。」「そして彼ら日本人は、本当にこの条項を盛り込んだのです。」

 最もらしく氏が紹介していますが、私が不信感を持つには、それなりの理由があります。朝鮮戦争の勃発が1950年 ( 昭和25年 ) ですから、戦争の真っ最中です。しかもマッカーサーは1951年の4月に、中国軍を殲滅させるため原爆を投下すると言って大統領に逆らい、トルーマンから解任されたばかりです。

 その同じ年の、しかも5月に米国の議会で、このように呑気な問答を果たしてするでしょうか。

 馬場氏の著書が出版されたのは、昭和47年ですが、当時の学者たちの本には、かなりいい加減なものが混じっています。国民の多くが無知であるのを良いことに、捏造の資料が使われても、そのまま通用していました。

 その根拠の一つとして、塩田潮氏の著書『最後のご奉公』について述べます。これは幣原元総理の伝記で、塩田氏が吉田元総理の言葉を紹介しています。

 「戦争放棄の条項を、誰が言い出したかということについて、幣原総理だという説がある。」「マッカーサー元帥が米国へ帰ったのち、米国の議会で、そういう証言をしたということも、伝えられておって、」「私もそのことを質ねられるが、私の感じでは、あれはやはり、マッカーサー元帥が先に言い出したことのように思う。」

 「もちろん総理と元帥の会談の際、そういう話が出て、二人が大いに意気投合したということは、あったろうと思う。」

 また塩田氏は、マッカーサー元帥が解任された後、幣原氏が総司令部を訪ねた折、ハッシー大佐からこの話を持ち出された時、口にした言葉を紹介しています。

 「元帥が、憲法第九条の発案者が私であると述べたことについては、正直に言って、迷惑している。」

 塩田氏の『最後のご奉公』は平成4年の出版ですから、馬場氏が著書を出した時には知られていなかった事実が使われています。幣原氏の回顧録の言葉が本当だとしても、幣原氏は持論を述べているだけで、憲法の条文とのつながりについて具体的に語っていません。塩田氏の紹介する青字の言葉が本当だとすれば、馬場氏の意見は捏造となります。

 幣原氏の回顧録の言葉が、憲法九条の条文を語っているのだとすれば、戦後最悪の遺産を国民に残した宰相として、記憶に残さなくてなりません。しかし馬場氏の語る幣原氏と、塩田氏の語る幣原氏のいずれが実像なのか、事実はまだ解明されていません。
 
 息子たちに言いたいのは、右でも左でも、学者の言葉を鵜呑みにしてはならないということです。もし贈る言葉があるとすれば、平凡な言葉しかありません。

  「自分の国を愛せない人間の言葉を、信じてはいけません。」

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