ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

憧れの老人

2010-03-26 09:08:50 | 随筆

 今日は、心が沈む日だ。

 どんよりとした、曇り日のせいだけでなく、もの倦くてならない。最近時々こうなる。中学生だったか、高校生の時だったか、もう忘れてしまったが、年を重ね、老人になるに従い人は枯れ、人格円満になると本で読んだ。

 ずいぶん若い頃から、変な奴だと笑われそうだが、いつか穏やかな老人になれるという事実が、心の片隅で、希望みたいな位置を占めていた。ところが、いざ自分が年をとってみると、どうもそうでないような思いがしてきた。

 六十の半ばを過ぎたというのに、この私は、いっこうに枯れもせず、人格円満にも近づかず、年ごとに癇癪持ちになり、短気になっていくような気が・・でなく、実際にそうなっている。

 会社に行っている頃は、仕事が忙しく、顔を合わせる時間が、短かったせいもあるのだろうが、家内に声を荒げることなど、( もしかすると、思い違いだったかも知れないが )無かったのではないかと、思っている。

 愛妻家だと自分で思ってきたし、妻と子供を大切にしてきたと、自負しているだけに、現在の自分に、驚きと失望を感じる。身近にいる家族を思いやれない人間が、なんで愛とか正義とか、いっぱし語れるのか、なんで世間について、意見を言う資格があるのかと、最近そう思ってきただけに、ブログの「きまぐれ手帳」で、分かったようなことを述べている自分に、愛想が尽きてくる。

 とは言いながら、「気まぐれ手帳」をやめる気はないのだが、気分がすぐれないのだけは、いかんともしがたい。

 まったく自分は、些細なことで、家内を怒鳴ったり、へそを曲げたりしているのだ。

 例えば、
   1. 話しかけているのに、返事が即座にない場合。
     2. 話しているそばから、何度も聞き返されるとき。
   3. 軽い気持ちで尋ねたのに、それはこの前も説明したと言われるとき。

 と、まあ、こんな具合で、一日に何度か癇癪を起こしている。この頃では、家内の方が気配を察し、怒鳴り声になる前に、妥協してくれるようになったので、それがまた心の傷みとなる。自分は、何と言う度量の狭い人間になり果てたのか・・と。

 救いがあるとすれば、最近になり、突然心の狭い人間になった訳でなく、もともとずっとそういう人間だったと、自覚できたことだろうか。「雀百まで踊り忘れず」の言葉どおり、自我に目覚めて以来、学校時代はいうまでもなく、会社にいた頃だって、人格円満には生きられなかった自分だ。

 右だったか左だったか、キリスト様の教えは、片方の頬を打たれたら、もう一方も差し出せと、愛と犠牲の精神を説かれている。

 イスラム教徒でもないのに、むしろ私は、「目には目を、歯には歯を」の生き方で、日々を過ごしてきたような気がする。いじめられても、泣き寝入りや自殺なんかせず、同じ方法でお返しをする。

 体力に勝る相手だとしても、しゃにむに挑んでいく。やられたらやり返す。やられなければ何もしない。日々はまさに、生きるための闘争のように、緊張感に満ちていた。だからこそ、私は若い時から、老年の穏やかさに憧れてきたのかもしれない。

 会社を円満に定年退職したからといって、自分のような人間が、春の海のように穏やかな老人に、突然変貌できるなど、あり得るはずがないのだ。それこそが、常識というものでないか。

 テレビやを新聞など見ていても、七十代の老人たちが、近隣の人間と争い、相手を刺したり殺したり、果ては老人ホームで、恋のもつれから他人を殺傷したりと、とんでもない事件が報道されている。

 七十代になっても、人間がそんなことをするというのなら、人はいつになったら、穏やかな素晴らしい老人になれるのか。残り少なくなりつつある人生だというのに、生きる希望すら、消されてしまいそうになる。

    村の渡しの船頭さんは  今年六十のお爺さん
    年は取ってもお船をこぐときは  元気一杯櫓がしなる

 小学生の頃だったと思うが、確かにこんな歌を、学校で習った。当時は誰もが、六十代を老人だと思い、お爺さんと認めていたのだが、今ではいったい誰がそんなことを信じるというのか。

 歌はいつの間にか、教科書から消え去り、世間からも忘れられてしまった。毎日何気なく生きてきたが、この歌を思い出すと、確かに、時代が大きく変わったのだと、知らされる。

 忌々しいのは、流れに便乗した厚生省の役人どもが、目敏く、年金の受給年齢まで変えてしまったことだ。お爺さんでもない、六十才からの支給など考えられない、と言わんばかりに、六十五からに引き下げというのか、引き揚げというのか、やってくれた。

 お陰で定年退職後に、満額年金のない私は、よけいな苦労をさせられてしまった。( 腹立たしさのあまり、またしても、本論から外れつつあるので、年金について言うのは、もう止めよう )

 要するに、ここで断言できることは、何歳からを老人と言うのか、分からなくなった時代に、自分が生きているということだ。八十か、九十にならないと、老人と言われない時になっているのだろうか。

 いつになれば、憧れの老人になれるのかなど、ここまでくると、もう考えるのが面倒になってきた。書き続ける根気もなくなってきたから、結論無しで、今日は止めよう。

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民主党

2010-03-24 00:04:44 | 随筆

 本来は保守党支持なのだが、このところ民主党に投票している。

 自民党は、敗戦後の日本の再建を成し遂げた後、あまりに長く権力の座に安住し、自浄力を喪失してしまった。私が民主党に一票を投じた原因は、そこにある。長期政権が腐敗するのは、政治家個人の、資質や責任感の欠如というより、制度の必然だと考えているので、自民党だけを攻撃するのは、正しくない気がする。われわれ人間は、崇高な精神を宿している一方で、身勝手なエゴが捨てられない、やっかいな生き物だ。

 自民党政治のこれまでの腐敗や、横暴や傲慢さは、人間が本来持っているエゴから生じる産物で、誰だってその立場にあれば、ならずにおれなくなる甘い誘惑だ。天下りや収賄や、裏金などといったものは、程度の差があるだけで、人間社会につきもので、世界中いたるところに存在している。権力が長く一カ所にとどまると、必ず利益集団が発生し、仲間うちだけの、心地よい共同体が形成される。

 政界だけの話でなく、経済界、法曹界、教育界、果ては文化・芸術の世界だって似たような仕組みが動いている。大人なら誰しも、自ら苦々しい、あるいは、うまい経験をし、分かっているはずなのに、そこは見ざる・言わざる・聞かざるを決め込んでいる。このオトボケに、私は開いた口がふさがらない。

 民主党も、長期政権になれば同じことをやるのだし、何の不思議もない現象なのに、マスコミがセンセーショナルに、自民党や高級官僚だけを槍玉に挙げ、騒いでいる。社会の木鐸だなどと言い取り澄ましているが、マスコミにしても、視聴率を高め、販売部数を上げなくてならない営利企業だから、面白味のない正論では、国民が飛びつかないので、建前だけのあるべき論をふりかざしている。一方的なマスコミ批判をしているのでなく、木鐸の機能を否定しているのでもなく、事実の一面を述べているということを、強調しておきたい。

 どうすれば政権党の腐敗を少なくできるか、という観点から議論をすれば、やはり二大政党論が出てくる。政権党が交代すれば、仲間内だけの利益集団は、都度解体されることになる。長期の腐敗が、短期の腐敗に止まるのではないかと、そういう期待がある。

 議員と役人が協力し、税の無駄使いができる法律を作り、法に添う高額の事業を、企業が請け負い、発生する利益を、議員と役人が献金や裏金として受け取るというのが、いわゆる政官財の利益癒着だ。

 族議員と呼ばれる政治家は、有能であると同時に、たいてい手も汚しているが、これが単発の問題追及として終わるのは、誰もが似たような行為をしているからだ。違法献金や裏金だって、政治家個人の利益のためだけに使われず、まっとうな政治活動にも流用されているから、問題がややこしくなり、政治家の良識を曇らせている。

 まさに、「赤信号皆で渡れば怖くない」ということだ。
私が、小沢幹事長の二大政党論に心を動かされたのは、かって自民党にいて、政界の清濁を知る彼が言っているからだった。議員が、聖人君子でないことはもとより承知している、身綺麗だけでやれないのが政治だと、覚悟した上で、彼のいる民主党を応援している。日教組や企業の労組に支えられる政党であっても、保守の彼がいるから、民主党を応援しているというのが本音だ。

 もし民主党に小沢、前原、岡田、野田という保守系の議員が不在で、旧社会党のメンバーばかりだったら、いくらなんでも一票を入れたりはしない。

 どんな美しい言葉で語られるとしても、社会主義の政権が作る国は、全体主義の中央集権国家であり、国民の自由な議論を押しつぶす体制でしかない。民主主義の日本は、少なくとも三権分立の制度を維持し、貧乏人は麦飯を食えなどと、時おり本音が見え隠れしたとしても、自由や平等を大切にしようと努力している。

 政治権力も資本も、党に集中する社会主義国家の恐ろしさに比べれば、少々の違法献金や裏金など、何ほどのものかと私は思っている。

 かってのソ連や、現在の中国や北朝鮮などをみれば、少なくとも日本では、粛正という名の大量殺人や、思想犯のための強制収容所がなかったことなど、保守政権の方がベターだったと思わされる。


 それにしても、鳩山総理の頼りなさはどうしたことか。

 普天間の基地問題、子供手当の財源、官僚の操縦方法、財政再建の方向、どれをとっても不安でならない。半年や一年で、自民党政治の後始末が出来るとは期待していないが、それにしても頼りない。

 有能な人材が沢山いるのだから、彼らを取りまとめ、やる気にさせる手腕を、発揮してもらいたいものだ。亡くなった小渕さんは、ブッチホンといわれるくらいの電話魔だったが、すべて、周りの人間を取りまとめるための努力だったと聞いている。鳩山さんだって、総理になるほどの人物なら、それなりの人望や指導力があるはずだろうから、もっと見せてもらいたいものだ。

 都合の良い報道ばかりする、気まぐれな新聞やテレビを通じてしか知らないので、一方的には責められないのだろうが、もっと何とかならないのか・・、周りのブレーンは何をしているのか。

 これで参院選に負けたりしたら、二大政党が根付かないでないかと、文句の一つも言いたくなる。

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趣味

2010-03-09 23:08:40 | 随筆

 趣味は何かと聞かれると、何時も返事に窮する。

 麻雀もゴルフもやらず、野球もサッカーも知らず、仲間を作ることもなく、仲間に入れられることもなく、会社の定年までよくやれたとフト思ったりする。変人学者の中島義道氏の著作を読んでいたら、「自分はセ・パの区別も知らず、野球が何人でプレイするのかも知らない」と書いてあった。ここだけ見ると、私も立派な変人の仲間に入る、とおかしくなった。

 彼と違い、一般の会社で定年まで勤められたのだから、自分が奇人・変人であるなどと、考えたことがない。しかし、改めて思い返してみると、一度だけある。同僚からだったか、お客からだったか、「何の趣味もなくて、よく生きていられるなあ」と、そんなことを言われ、苦笑いしたことがあった。

 趣味という言葉を辞書でひくと、仕事としてでなく、個人が、楽しみとしてやることがらだ、と書いてある。周りの人間を見ていると、金もかけ時間も費やし、しかも楽しむというのが、趣味だと考えているようだから、答えられなくなるのだ。

 旅行も楽しいし、散歩も面白い。読書だって時間を忘れることがあるし、ぼんやりと物思いにふけることも、馬鹿にできない面白さがある。庭いじりだって、没頭すると時を忘れる。

 時にはへたな詩にも、短歌や俳句にも手を伸ばすし、その気になれば、拙いスケッチも試みる。金に縁がないため、懐に響くようなことは何もせず、しかもそのどれにも、毎日とか毎月とか言う継続性がないのだから、果たして趣味と呼べるのかと、疑問が生じる。

 まして他人に聞かれた時の答えにして良いものか、恥じらいを知る人間なら、こんなものが趣味ですと、口にするのもはばかられるでないか。とりたてて趣味と宣言しなくても、人は不思議と何かして生きるものだし、何にでも、喜びや楽しみを発見する生き物なのだと、そう思っている。

 軽い気持ちで、趣味は何かと聞かれているのに、懸命にややこしい説明をするというのもおかしいので、結局、「趣味は特にありません」と答えることになってしまう。

 日本人の社会でならこれで済むが、欧米となると様子が異なってくる。(こうしてまた、記述が横道にそれて行くのだが)、私は会社で、5~6年間英会話のレッスンを受けたことがある。特に必要がなくても、本人が希望さえすれば、早朝とか退社後に、会社の費用でレッスンを受けさせてくれた。今なら考えられないことだが、バブル期の良き時代だった。

 この間8人くらいの、ネイティブの先生に会話の指導を受けたが、授業には、必ず自己紹介というものがあり、「私の趣味」について発表する時間がある。外国人の教師たちは、みな、趣味は特にありませんという私の答えに、満足してくれなかった。曖昧さや多様性や、何でもありの状態では納得せず、キチンとした説明がないと安心しないのだ。

 これはきっと一神教の欧米人と、八百万の神の国に済む人間との違いでないかと、その時からひそかに思っている。

 「和をもって尊しとなす」と聖徳太子が言って以来、日本人の根底には、この思いが脈々として流れているのだと、これもひそかに、しかも不思議にも感じていることだ。他人と争わず、騒ぎを大きくせず、異を唱えず、目立たずと、幼い頃から教えられ、疑問も感じなかったが、最近は良いも悪いも、日本の特質でないかと思えてきた。

 他民族がせめぎ合う国々では、常に大声で自己主張をし、アイデンティティーを明確にしていないと、命も落としかねない、緊張感があるから、私のような曖昧さでは、誰からも相手にされないし、生きてもいけない気がする。

 これまで、さんざん日本の悪口を言ってきたが、現在では、自分は、日本でしか生きられない人間でないかと、思うようになり、時々外国旅行はするものの、その土地で暮らそうなどとは考えなくなった。

 この日本で生き、この国で死ぬのだと、愛国心とまでは行かないのだろうが、そんな気持ちになっている。さて、これが「趣味」と題する文章の結論で良いのかと、疑問だらけだが、ままよ。それでこそ、「気まぐれ手帳」ではないか。
 
 いい名前のブログにしたと、ほくそ笑みつつ、終わろう。

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