ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 日本が軍事大国になる日 』 - 19 (ベトナム軍の内情 )

2022-02-28 17:07:26 | 徒然の記

 江畑氏の28年前の著書ですから、ベトナムのカムラン湾のソ連軍基地がどうなっているのか、私は知りません。

 基地の情報収集範囲が、南シナ海全域も含まれていたとすれば、ベトナムはロシアと喧嘩別れするより曖昧なまま残し、中国やフィリピンやマレーシア、台湾の情報がもらいたかったのではないでしょうか。

 今回氏はこの問題に深入りせず、当時のベトナム軍の内情を説明しています。

 「ベトナムがいくつかの軍事的問題に直面しているのも、事実である。」「南シナ海の中国をはじめとする周辺諸国との、領有権問題に加えて、」「カンボジアとの、領有権問題も抱えている。」「1993 ( 平成5 ) 年末現在、まだ表面化していないが、」「近い将来、外交の場で解決せねばならない。」

 「その際にベトナムが、軍事力を背景にすることはマイナスであろうが、」「軍事力の背景がないと、外交の場で非常に不利な立場に立たされることは、」「否定できない現実である。」

 やはりそうかと納得すると同時に、軍事力なしの平和外交を掲げてきた、日本の戦後を考えてしまいます。

 「ベトナム軍の近代化は、東南アジア諸国の中で極めて遅れている。」「一言で言えば、ベトナム戦争の終結以来、ほとんど変化していない。」「装備は旧ソ連製か、南ベトナム政府軍から引き継いだ、」「米国製の古いものである。」

 氏の説明によりますと、軍の組織に柔軟性が欠けているせいだそうです。ベトナム軍は陸軍が110万人、海軍3万6千人、空軍2万人で、極端な陸軍偏重となっています。

 「これからは海上の軍事能力が重要になるから、これでは冷戦後の戦略状況に対応するのは難しい。」「ベトナムの海岸線の長さだけでも、3,444キロもある。」

 日本と比較するため、2020 ( 令和2 ) 年現在の防衛省の資料を調べました。

  ・陸軍が13万8千人、海軍4万3千人、空軍4万3千人

  ・海岸線の長さ 3万6千キロ

 日本の海岸線の長さは世界で6番目に長く、ベトナムの比ではありませんでした。自衛隊の戦力が適切なのかどうか、素人に判断できませんので、先へ進みます。

 「6,900万人の人口に115万人の軍隊は、いかにも過大だが、」「陸軍を削減し、予算を海軍や空軍に振り向けようとすると、」「失業問題を生じてしまう。」「それに、陸軍の削減を良しとしない組織上の問題も存在するようだ。」

 専門家の説明を聞きますと、ベトナムの軍隊にもいろいろ問題があるようです。詳細な説明をされても理解できませんので、簡単な部分だけを紹介します。

 ・空軍の戦闘機は、もしこれが稼働できるなら、東南アジアではかなりの攻撃能力を持つと言える。

 ・しかしこれらは全天候作戦に使用できないし、洋上作戦能力はほとんど期待できないだろう。

 ・小型輸送機は使われているが、大型輸送機は部品の入手に不自由しているのだろう、必要最小限の機数が動いているに過ぎないだろう。

 ・ヘリコプターも台数だけは多く、ほとんどソ連製だが、どのくらいが稼働しているのか不明である。

 これだけでも散々な評価ですが、氏はさらに貧しいベトナムの内情を説明します。 

 ・1987 ( 昭和62 ) 年から1991 ( 平成3 ) 年まで、ベトナムが購入した兵器は、600万ドルで、他のアジア諸国に比べると群を抜いて少ない。

 ・インドの15億7千万ドルは別としても、ラオスですら1億3千3百万ドルと推定されている。

 ・ベトナムの兵器購入額は、他の国と比べて二桁から三桁少ない。

 ・そこでベトナムは、米国供与の兵器を外国に売却し、外貨とソ連兵器のスペア部品の調達を計画したらしい。

 ・一説にはイランが、自国兵器用部品を取る目的で一機購入したと言われる。

 ・同じ機を所有するヨルダン、インドネシア、タイの軍隊は、購入を見合わせたとも伝えられる。

 ・ヘリコプター用タービン・エンジンは、100機以上輸出用の梱包がされたままになっているという。

 どこから入手するのか、軍事専門家というのは、相手国の懐具合だけでなく、放置された輸出用梱包の数まで把握しています。ということは、何の警戒心もない日本の軍事情報は、周辺国に筒抜けであることが分かります。まして「平和憲法」で動けないのですから、なんの脅威も与えません。

 氏の説明が続きます。

 ・空軍が洋上作戦能力を欠くなら、海軍も同様である。

 ・最大の戦闘艦は旧ソ連のフリーゲートで、5隻所有しているはずだが、現在何隻が稼働状態にあるのか分からない。

 ・他に2隻、南ベトナムから引き継いだ戦闘艦もあるが、果たして動けるのかも疑問である。

 兵器の名前と数が詳しく説明されますが、どれも動いているのかどうか分からないと言います。面倒なので結論の部分だけを紹介します。

 〈 結論 1.  〉

 「決定的に不足しているのは、空軍海軍を含めての、機動展開、緊急展開能力である。」「有事に短時間で必要な場所に駆けつけるという、冷戦後の世界で最も重視されている、」「軍事機能に大きな欠陥がある。」

 〈 結論 2.  〉

 「もしベトナム軍が、近代装備を持つ軍隊に生まれ変われるのなら、」「南シナ海と太平洋を結ぶ交通の要所という、戦略的位置から、」「アジアにとどまらず、世界の安全保障に大きな役割を演じることになろう。」

 ここまで明快に他国の事情を説明する氏が、果たして日本についてどのように語るのか。関心が高まります。しかしまだ著書はやっと半分の110ページで、次回は「フィリピン」です。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 18 ( プーチンのひと言 )

2022-02-27 17:22:01 | 徒然の記

 丸1週間、ブログの更新が止まりました。

「ロシアには、核がある。」 ・・・プーチンの、このひと言のせいでした。ソ連崩壊後のベトナムも大事ですが、プーチンのひと言は、現在、只今の危機です。ソ連崩壊後の「ウクライナ」の出来事ですから、生きた歴史です。

 ロシアに核があるのなら、アメリカにもイギリスにもフランスにもあります。最初の一発がロシアから発射されるのなら、座して死を待たないと、各国が一斉にロシアを核攻撃します。こうなると、「人類の破滅」です。

 今も危機は続いていますが、日本にいる私たち庶民はどうすることもできません。核戦争になったら、米軍基地のある日本も無事では済みませんが、核のない日本はソ連を攻撃することができません。

 それどころか、日本の自衛隊は「専守防衛」ですから、飛んでくるミサイルを待って、迎撃するしかありません。勇敢な自衛隊員がいて、核ミサイルをソ連上空で迎撃しようとしても、共産党が、「それは誰が命令したのか。」「命令なしの攻撃は、憲法違反だ。」と大騒ぎし、反日野党が同調します。

 こういうことをしている間に、日本の主要都市上で核が破裂し、馬鹿な共産党も、罪のない国民も、一まとめに核の閃光で消滅させられます。だから、覚悟を決めました。

 息子たちに言います。これが現在の日本であり、世界の現実です。反日左翼の愚か者たちと、自民党の中にいる反日リベラルがどういう人間たちなのか、少しは理解できたのではないでしょうか。父がした覚悟を、お前たちにも伝えておきます。

 ・馬鹿な政治家が起こした核戦争は、誰にも止められないが、全面核戦争なら一蓮托生、みんな死ぬ。

 ・プーチンのような馬鹿者と死ぬのは、我慢のならない話だが、共に綺麗さっぱり消滅するのならそれでも良いか・・・これが覚悟です。

 ・こんな愚かな人類なら、地球から消えても、惜しくはありません。

 やり残したことがあるとすれば、「憲法改正」と「軍の再建」です。全面核戦争になれば、今更そんなことは無意味だと、お前たちは笑うのかもしれません。無意味であろうとなかろうと、父にとっては、「日本人としての大事なケジメ」です。

 「国が独立するためには、軍がいる。」「国を守るには、軍がなくてならない。」

 プーチンに劣らないバカなNHKが教えてくれましたが、これは、昭和天皇のお言葉でした。というより、陛下の信念であり、世界の常識です。全面核戦争の危機を引き起こしつつあるプーチンの言動を見れば、昭和天皇のお言葉の正しさが分かります。何時の時代になろうと、人間がいる限り、「国が独立するためには、軍がいる。」「国を守るには、軍がなくてならない。」のです。

 今日本に軍があれば、たとえ核兵器がなかったとしても、軍は国民を守るため行動します。飛んでくる核ミサイルを迎撃し、護国の使命を果たします。それが軍であり、軍人です。だから父は、反日左翼政党と、自民党の中にいる左傾の議員たちが、軍の再建をおざなりにした過去を悔います。

 国を守る自衛隊と隊員を、誇りのある軍人に戻せなかった自分を悔います。日夜厳しい訓練に勤しむ隊員たちを、共産党や反日野党に「人殺し」とか「税金の無駄遣い」と、言わせてきた自分が残念です。国のために殉じる軍人に対し他国が敬意を払っているように、せめてその立場に戻したかったと思います。

 世界の終末という危機が迫る時、こんなことを思わずにいられないところに、日本の異常さがあると、息子たちが知ってくれれば有難いことです。

 

 ここまで述べ、少し気持ちが晴れました。カムラン湾の通信基地について、江畑氏の説明の続きを紹介します。

 「カムラン湾がロシアの今後にとっても、大きな軍事戦略的意味を持つことは、」「すでに述べた通りである。」「ここに旧ソ連軍が設置した、信号情報収集施設は、」「旧ソ連国外に置かれた同種の施設としては、三番目に大きなものである。」

 この施設がカバーする領域は、

  ・米国の軍事施設があるインド洋中部から南シナ海全域

  ・さらには、太平洋のグァム島まで

  そのほかに衛星通信傍受施設やHF通信方位探知機もあり、情報収集基地として、極めて大規模なものだといいます。

  ・1980 ( 昭和55) 年代には、4000 ~ 7000人のソ連軍人が駐留していた。

  ・1990 ( 平成2) 年の情報では、1000人程度に削減されているらしい。

  ・今でもこの施設は、ロシアが海外に駐留する基地としては最大規模である。

 これではロシアが、簡単に撤退するはずがありません。さらに次の説明があります。

 「中国、特に海南島周辺の動きを知ることができる、これらの施設は、」「もしベトナムが、ロシアから情報をもらうことができるとするならば、」「ベトナムにとっても、非常に貴重なものであろう。」

 「ベトナムがロシアとの関係を悪化させ、カムラン湾から追い出すなら、」「ロシアは必ず施設を撤去するか、破壊してしまうだろうから、」「それはベトナムにとっても、好ましいことではない。」

 少し疲れましたので、続きは次回といたします。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 17 ( 冷戦後のベトナム -2 )

2022-02-20 23:13:49 | 徒然の記

 ソ連崩壊後のベトナムの動きを、江畑氏の本から抜粋し、箇条書きにします。

  ・米国との関係改善に乗り出し、ベトナム戦争中の、行方不明米軍兵士の捜索に協力している。(  経費は米国負担 )

  ・ベトナム自身も、30万人以上の行方不明兵士を出したままになっているが、それでも米国に協力せざるを得ない。

  ・努力が功を奏したのか、米国はクリントン政権になり、態度を大きく軟化させた。

  ・IMFのベトナム支援を、黙認する政策を取り始めた。

  ・1993 ( 平成5 ) 年、米政府がベトナムへの禁輸措置解除に向け、動いていると伝えられた。( 早ければ、平成5年の4月ごろか。 )

 一方で、長年の敵対国である中国への動きもあります。

  ・1991 ( 平成3 ) 年、ベトナムのムオイ書記長とキエト首相が北京を訪問し、江沢民総書記、李鵬首相らと首脳会談を行い、両国関係の完全正常化を宣言した。

  ・1993 ( 平成5 ) 年、レ・ドク・アイン大統領が国家元首として、初めて訪問し、経済協力と領土問題につき会談した。

  ・同年11月、中国人民解放軍の干永波政治部主任が、ベトナムを公式訪問した。

 中でも、アメリカの態度を軟化させた最大の要因は、「カムラン湾のロシア軍通信傍受施設」の縮小だったそうです。詳しく説明されていますので、紹介します。

 通信傍受施設は、通信傍受人工衛星のない時代、米ソが相手国の情報を得るための、極めて重要な施設だったといいます。日本にも、米軍による巨大な通信傍受施設が二つありましたので、関心を抱きました。

  ・ 沖縄県楚辺通信所( 平成19年撤去 )

  ・ 青森県姉沼通信所( 令和4年現在解体計画検討中 )・・三沢飛行場

  通称「象の檻」と呼ばれる、三沢の施設を管理しているのは、在日米軍ではありません。米国メリーランド州にある、 NSA ( National Security Agency : 国家安全保障局 ) の指揮下にあるのだそうです。

 日本のことは氏の著書にありませんが、参考のため調べてみました。本を読まなければ、無関心のままでしたが、アメリカにとっては今も重要な施設であるようです。大事なのは日本との比較なので、このことを頭に入れながら、先へ進みます。

 「カムラン湾駐留のロシア軍の縮小は、ベトナムの努力によるものでないとしても、」「両国の関係が、かってほど緊密でないことは、」「ベトナムが外部勢力による前進基地として、機能する危険性が非常に少なくなったと解釈された。」

 「しかしロシアが、カムラン湾を手放す様子も、まだみられない。」

 なぜそうなのかについて、氏の説明を読み、歴史的事実に意外感を覚えました。

 「カムラン湾は、日露戦争中極東に回航されたロシアのバルチック艦隊が、」「最後に寄港した場所であることからわかるように、アジア有数の、」「天然の、優れた泊地である。」「投資さえすれば短時間で、立派な貿易港になる特質を備えている。」

 ここで氏が、興味深い事実を説明していますので、箇条書きで紹介します。

 ・1992 ( 平成4 ) 年1月、訪問したタイのスチンダ軍最高司令官に対し、カムラン湾視察の要請を、次回に受け入れる意向を示唆した。

 ・ベトナムが同湾を、石油開発や貿易の拠点とする意図を持っていると、解釈された。

 ・同年2月、ベトナム外務省が次のように述べた。

   「カムラン湾はベトナムの港湾であり、旧ソ連海軍は両国間の協定に基づいて、補給その他の便宜を受けてきた。」

   「その将来は、ロシア等独立国家共同体との協議に委ねられるが、」「我が国の優先課題は、経済発展であり、」「同湾は、その方向で活用される。」

 ・しかし同年5月、ロシア外務省が、カムラン湾の自由貿易港構想を打ち出し、使用権がなおロシアにあることを、印象付けている。

 ・ベトナムに対する旧ソ連の債務問題が絡み、ロシアはカムラン湾を、一種のカタにとっているものと推測される。

 日本の三沢にある米軍の通信施設と、カムラン湾のものがどう違っているのか、よく知りませんが、まずは氏の詳しい説明を紹介します。スペースの都合で、本日はここで一区切りとしますので、関心のある方は、次回までお待ちください。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 16 ( ソ連崩壊後のベトナム )

2022-02-20 14:29:30 | 徒然の記

 東西冷戦時代のベトナムが、超大国アメリカと10年間も戦い、最後に勝利しました。なぜそういうことが可能になったかについて、二つの要因が言われています。

  1. アメリカは、核兵器を使用しなかった。( できなかった。)

  2. ベトナムは、武器、資金、食料等、あらゆる援助をソ連から受けていた。

 ゲリラとの戦いに核は不向きであるとか、理由は様々ありますが、ベトナムを支援しているソ連が本気で反撃してくると、核戦争の恐れがあるため、核が使用できなかったというのが、妥当な意見ではないかと思います。

 1965 ( 昭和40 ) 年から、1975 ( 昭和50 ) 年にかけて、10年に及ぶベトナム戦争について、日本のマスコミの報道は、弱者であるベトナムを、超大国のアメリカが痛めつけているというトーンでした。私は、これに続くベトナムのカンボジア侵攻について、氏の著作を読むまで知りませんでした。

 カンボジア侵攻は、「ベトナム戦争の影に隠れた、カンボジア戦争」とも呼ばれ、ベトナムが一方的にカンボジアを攻撃した戦争です。1975 ( 昭和50 ) 年から、1977 ( 昭和52 ) 年の2年間、弱者のはずのベトナムが、カンボジア国内を占拠し、国民を苦しめました。苦しめただけでなく、周辺国が明日は我が身かと、ベトナム軍の侵攻を恐れたと言います。

 シンガポール、マレーシア、タイといった、反共のアセアン諸国が連携して、アメリカの支援を求め、外交努力を重ねたとのことです。事情が複雑なため、言外に匂わせるだけで、氏が省略していますので、別途調べて理解しました。ここを知らないと氏の叙述が、正確に理解できません。101ページです。

 「ベトナムは、カンボジアからの撤退により、」「次第に国際社会から認められつつあり、アセアン加盟も、」「そう遠い将来の話とは、言えなくなっている。」

 「ベトナムの軍事力を、脅威と感じる東南アジア諸国は少なくなっているが、」「ベトナムの軍事力が、あまりに他の国と格差があるため、」「問題を複雑にするかもしれない。」

 しかしベトナム軍の近代化を阻んでいるのは、教条主義的な幹部の若返りや、民兵組織に依存している軍の再編などであると、氏が説明します。

 「だがそういう内部的な問題より、最も基本的な問題は、」「米国との国交正常化と、経済の発展である。」「米国による経済制裁が、全面的に解除されない限り、」「この国の経済発展は、期待薄であろう。」

 米国の経済制裁の威力を、氏の説明でやっと理解しました。同時に、日本の政府や経済界が、アメリカの意向を常に伺う意味も分かりました。現在のアメリカが、まだそうであるのかは知りませんが、当時のアメリカは、文字通り世界の超大国でした。

 「米国の経済制裁の力は凄まじいもので、極端な表現をすると、」「ベトナムは、ほとんど一切の物が入手できない。」

 密輸で色々な物は入ってきますが、最新の工作機械や化学プラントなどを、密輸で入手することは不可能です。この密輸が、さらにベトナムの経済を悪化させていると言います。

 「ベトナム経済の半分以上は、密輸で構成されると言われている。」「政府ですら、50%が密輸経済であることを認めているが、」「しかし裏の経済では、国庫は潤わない。」「税収のない経済活動では、いくらそれが盛んでも、」「国は貧しいままである。」

  密輸経済の比率は50%でなく、60 ~ 70%という説もあるそうです。1991 ( 平成3 ) 年のGNPが150億ドルで、一人当たりにすると120ドルですから、アジアの最貧国の数字です。

 「しかし国民生活は、それほど貧しくない。」「これは明らかに、裏の経済が発展しているからである。」

 この説明は、そのまま現在の北朝鮮に当てはまるような気がします。或いは、イランにも当てはまるのでしょうか。北朝鮮の密貿易については、時々マスコミが報道していますので、なるほどと思わされます。

 「しかし密貿易のままでは、国でなければできないこと、」「例えば社会保障や、鉄道、道路、通信網といったインフラの整備などが、」「ベトナムでは、徹底的に遅れている。」

 「冷戦時代、東側経済ブロックがまだ健在だった頃は、まだやっていけた。」「東欧諸国からの経済援助は、年間10億ドルに達したと言われている。」「ベトナム貿易の80%が、ワルシャワ条約機構諸国とのものであっが、」「冷戦後は北側ブロックの崩壊により、14%にまで激減した。」

 「1993 ( 平成5 ) 年現在では、80%がアジア諸国との交易である。」「シンガポール、日本、香港、韓国、台湾などが主なもので、」「欧州諸国は、かっての宗主国だったフランスが多いものの、」「他の国はいずれも、米国の目を気にしながらの貿易で、」「そう大した額にはなっていない。」

 「直接投資のトップが、台湾、香港、フランス、オーストラリアであるから、」「いかに他の国が、米国に気兼ねしているかが推察される。」

 世界経済をリードしているアメリカやドイツ、イギリスが加わらないと、ベトナム経済の活性化ができません。書かれてはいませんが、おそらくは日本も、アメリカに気兼ねして、ベトナムーの投資を控えたはずです。

 「さらにベトナムに、まともな金融システムが存在していないという、」「社会主義体制独特の弊害も、経済停滞の理由になっている。」

 ベトナムが、この後どのように変化していくかは、他人ごとでないものがあります。米国とは ?  欧州諸国の動きとは ? 日本とは、中国とはと、氏の説明が続きます。興味と関心のある方は、次回も「ねこ庭」へお越しください。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 15 ( 冷戦終了後のアジア諸国 )

2022-02-18 12:25:52 | 徒然の記

 シリーズも長くなりましたが、まだ98ページのところです。

 「冷戦終了後、基本的には東南アジア諸国が抱える、国内治安問題は、」「大幅に減少した。」

 ということは、社会主義国ソ連が、東南アジア諸国を勢力下に収めるため、各国の共産主義勢力をいかに支援していたかという話になります。直接に介入せず、その国にいる不満勢力を使い、反政府活動をさせ、武器や資金を支給していたという説明です。

 「ベトナムのカムラン湾における、旧ソ連軍・現ロシア軍が、」「極めて限定されたことに象徴されるように、大きな軍事的脅威も無くなった。」「旧ソ連軍の、東南アジア、インド洋からの撤退に伴って、」「米国がフィリピンに基地を維持しておく必要も、無くなった。」

 「ピナツボ火山の噴火を機に、クラーク空軍基地のみならず、」「かっては米国の世界戦略に取り、かけがえのない存在とみなされていた、」「スービック・ベイ海軍基地と、それに付随する航空基地まで手放し、」「米国はフィリピンを去っていった。」

 マスコミが大きく取り上げていましたので、火山の大噴火と、機を同じくした米軍の基地撤退について覚えています。その時の報道は、自立を目指すアキノ大統領が米軍基地を拒絶したと、そういう書き振りではなかったかと思っています。

 江畑氏の説明で、米ソ冷戦が終結した結果だと、知りました。ソ連崩壊は、それほど大きな変化をもたらしていたのです。現在の東南アジアでは、ソ連に代わり、習近平氏の中国が同じことをやっています。各国内の不満勢力に資金と武器を提供し、これらの国々を自分の支配下におこうと頑張っています。

 これについて触れると、本論を外れます。氏の著作の時点ではなかった事態ですし、今は氏の意見に耳を傾ける方が大切です。

 「かっては米国とソ連の庇護下にあり、またこの両大国が対峙していたため、」「東南アジア諸国はその下で、ある程度の安心と安定が保障されていました。」「いきなりその傘がなくなり、いつ雨が降るかわからない空の下に、」「放り出された自分たちを、発見することとなったのである。」

 先に述べました、東南アジア各国の軍の近代化と、装備の見直し拡充の原因は、ここにありました。自分の国の安全は、自分の力で守らなければならないという目覚めです。

 「日本も同じような状況であるが、日本はまだ日米安全保障条約により、」「自国の防衛力で補いきれない状況には、米国の戦力を期待できるし、」「それが抑止効果を発揮しているのだが、東南アジアの国々には、」「日米安全保障条約ほど有力な、安全保障関係がない。」

 日米安全保障条約を敵視し、撤廃を叫ぶ共産党と、同調する野党もいますが、軍事専門家から見た場合の見方は、違っています。日本共産党が、今もソ連と繋がっているのか、中国に傾きつつあるのか分かりませんが、彼らの主張が、相変わらず、現実無視のプロパガンダであることは分かります。

 専守防衛の自衛隊では、外国勢力の侵入を阻止することができませんから、条約を撤廃するのなら、憲法を改正し、軍の再建をする必要があります。ソ連崩壊後の東南アジア諸国の動きを見ればわかる通り、自国を守る軍は自分の手で整備充実させなくてなりません。これが、世界の常識です。

 「ただ各国とも、これまで保有してきた軍隊が、」「主として国内治安維持用であり、対外的対応には、不適切なものであることは認めている。」

 氏の説明は、そのまま日本に当てはまります。日米安保条約があるから、専守防衛の自衛隊でも機能していますが、条約がなくなれば、外敵に対応できない国内治安部隊では、国が崩壊します。

 反日勢力の妨害のため、政府自民党が国民に説明できないのだとしたら、私たち自身が氏の著作で、「現実」を学ぶしかありません。

 「1991 ( 平成3 ) 年の湾岸戦争によって、各国は、最低限の最新兵器、」「いわゆるハイテク兵器を持たなければ、相手と同じ土俵にすら上がれず、」「いくら旧式兵器を多く持っていても、なんら国家安全保障には役に立たない、」「という現実を、見せつけられた。」「いわゆる、ハイテク兵器ショックである。」

 「その意味で、東南アジア諸国が進めているのは、」「軍備の近代化であって、量的に増強する軍拡ではないと言える。」

 もしかすると中国の軍事費の増大も、この要素が大だったのかもしれませんが、今の所中国への理解は要注意の面が大です。

 「しかし軍備は相対的であるから、ある国が増強に着手すると、」「その周辺国もそれに応じて、軍備の増強に着手せざるを得なくなる。」

 どこまでが旧式装備の近代化なのか、どこからがそれを超えた軍拡なのか、外から見ては分かりません。どこまでが軍事力の「域内」なのか、どこからが「域外」なのか、客観的に定めることが難しいと氏が言いますが、まさにその通りです。

 「ただ東南アジア諸国の場合は、非常に冷静なものであり、」「中東の最新兵器導入計画とは、かなり質を異にしている。」

 「反面東南アジアが、現在世界で新型兵器が売れる数少ない市場であるため、」「冷戦終了後の先進国軍需産業が、売り込み先として、」「熱い視線を注いでいるのも、事実である。」

 「軍備競争は、地域の軍事バランスを変化させ、」「紛争の危険性を高めるだけでなく、各国の経済的疲弊が生じるという、」「大きな問題がある。」「特に貧しい国にとっては、軍備競争の発生は、それ自体が大きな脅威である。」

 全てもっともな意見ですが、実行するには困難が伴います。日本の政治家も、単なる左右の対立でなく、こうした問題を国会で審議して欲しいものですが、果たしていつになることでしょうか。

 「貧しい国での軍拡張層の脅威、そうした国の代表に、ベトナムとフィリピンがある。」

 次回は、ベトナムとフィリピンについて、できれば日本と比較しつつ報告いたします。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 14 ( 東南アジアの情勢 )

2022-02-17 18:53:21 | 徒然の記

 今から18年前の、1994 ( 平成6 ) 年の情勢ですから、そのままではありませんが、変わらない部分もあります。現在の日本を考える上で、大切なことが沢山ありますので、江畑氏の著作から紹介します。

 「ソ連や東欧の共産圏の崩壊によって、共産ゲリラによる国内治安の不安定化は、」「大幅に縮小したが、東南アジアにはなお多くの、不安定要因が残されている。」「代わりに、民族の自立・自治の主張による、」「小規模な武力浸透問題が増加した。」

 こうして氏は、各国の状況を語ります。

 〈  カンボジア  〉(  カンボジア王国 ) ・・立憲君主制国家

   ・ホルポト派がなお、新政権への協力を拒否している。

   ・新政権が軍事圧力を強めると、彼らは再びタイやラオス、或いはベトナムへ逃げ込み、周辺国の軍隊との軍事的緊張が高まる恐れがある。

 〈  ラオス  〉(  ラオス人民民主共和国 ) ・・社会主義共和制国家

   ・ラオスはなお、いくつかの小規模反共ゲリラ組織の支援を行っている。

   ・これらの組織は、外国からの資金援助が途絶え、衰退の一途を辿っている。

   ・世界情勢の変化で、再びこれらの組織が勢いを盛り返すことがあれば、彼らを支援するラオスと周辺国の緊張が高まる。

   ・とりわけ、ベトナムやミャンマーとの関係は緊張するかもしれない。

   ・1975 ( 昭和50 ) 年に、ベトナム寄りのパテトラオ政権となって以来、国内にも不安定要因が残っている。

 〈   ミャンマー  〉 (  ミャンマー連邦共和国 ) ・・共和制国家

   ・多数の民族で構成される国であるため、旧ユーゴスラビアと同様、民族・宗教による分裂、紛争が生じる危険性をはらんでいる。

   ・軍事政権の強権政治で、現在のところ民族武装集団 ( ゲリラ  ) は抑え込まれている。

   ・ミャンマー政府自体が、多くの民族で構成されているため、ゲリラ制圧に過激な手段が取れない、という矛盾もある。

 日本のマスコミは、欧米の報道がメインで、アジアの出来事をあまり頻繁に取り上げません。私たちもそれに慣れ、アジアの国々のことに関心を払いませんでしたから、氏の説明を読みますと新鮮な驚きと共に、自分の知識の偏重と視野の狭さを教えられます。

  〈   タ  イ  〉 (  タイ王国 ) ・・立憲君主制国家

   ・ラオスにパテトラオ政権が誕生して以来、緊張関係にある。

   ・ラオスを追われた反共グループが、タイ側に逃れ、ラオス軍がタイとの国境に展開している。

   ・反共グループの中には、ラオス軍に攻撃を仕掛けているものもあるが、タイ政府が黙認しているため、両国間に緊張が高まっている。

   ・タイ湾での領海問題で、マレーシア、カンボジア、ベトナム、シンガポールとの問題を抱えている。

   ・周辺国が本格的に、経済専管水域の利権保護に乗り出すなら、南シナ海に劣らない緊張関係となる恐れがある。

  〈  マレーシア  〉  (  マレーシア  ) ・・連邦立憲君主制国家 

   ・世襲ではなく選挙で選ばれる、任期制の国王である。( 選挙君主制 )

   ・フィリピンと、南沙諸島の領有権だけでなく、サバ州をめぐって対立関係にある。

   ・1968 ( 昭和43 ) 年に、フィリピンのマルコス大統領が、サバの反政府勢力を援助し、マレーシア政府に軍事攻撃させようとしたが、事前に洩れ、以来両国関係は悪化した。

   ・フイリピンが、サバの領有権を放棄しない限り、両国間の問題は解決しないと強行な態度をとっている。

   ・現実的には、両国間に大規模な軍事衝突が起こる可能性はない。

   ・インドネシアとの間でも、二つの島の領有権が未解決である。

   ・現状維持で合意が成立したが、1992 ( 平成4 ) 年にマレーシアが、一つの島の開発に着手し話が難しくなった。

   ・しかしこの問題で、両国関係が悪化する心配はない。

 〈  インドネシア   〉 (  インドネシア共和国 ) ・・共和制国家

   ・インドネシア最大の問題は、東チモールとイリアン・ジャヤでの反政府活動である。

   ・武力衝突が他国の介入を招く心配はないが、人権を表に出した国際的圧力に、政府が苦しめられることはあるだろう。

   ・すでに米国の圧力により、兵器調達計画の修正を余儀なくされている。

 〈  フィリピン   〉  (  フィリピン共和国 ) ・・立憲共和制国家

   ・冷戦後もゲリラ勢力に悩まされ、世界の中でかなり特異な存在となっている。

   ・政府は懐柔策と、治安維持の強化という飴と鞭の政策で鎮圧を図っている。

   ・1993 ( 平成5 ) 年に、政府と反政府イスラム教徒ゲリラ「モロ民族解放戦線」との間で、暫定停戦協定を調印した。

   ・だがこの国の貧困や、国が多数の島で構成されているという条件と結びつき、共産ゲリラの活動を封じ込めることは、近い将来は不可能と見られている。

 ベトナム、シンガポール、ブルネイについて書かれていませんので、今回はここで終わります。

 日本との比較で感じたことは、中国を除けば、これらの国々は国際社会では中小国です。日本も同じですから、韓国・北朝鮮の言いがかりに、あまり神経質にならず、中国の尊大な脅しにも、過度に反応する必要はないのでないかと、そんな気もしてきました。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 13 ( カンボジアの歴史 )

2022-02-16 17:42:59 | 徒然の記

 2月7日の千葉日報に、カンボジアの首相後継者が来日する、という記事が掲載されました。江畑氏の著書に添い、ASEAN諸国の実情をご報告しようとする時なので、興味を覚えました。

 「カンボジア首相後継来日へ」「政府、東南アと関係強化」・・と、これが見出しで、記事が続きます。

 「カンボジアのフン・セン首相が後継者に指名した、長男のフン・マネット陸軍司令官が、」「今月中旬に来日する方向で、調整していることが、6日、分った。」

 「政府は、今年のASEAN議長国を務める、カンボジアと関係を強化し、」「安全保障やミャンマー情勢をめぐって、連携を図る方針だ。」

 フン・マネット氏は、岸田首相や林外相、岸防衛相と会談し、陸上自衛隊の部隊の視察をすると書かれています。その後氏は、防衛協力の深化について話し合うとのことです。カンボジアの歴史を多少とも知っていると、感慨深いものがあります。

 カンボジアは、1970 ( 昭和45 )年のクーデターによるロン・ノル政権(クメール共和国)発足後、ポル・ポト派がした国民の大量虐殺、ベトナムによるカンボジア侵攻など、20余年にわたり戦乱と国内の混乱が続きました。

 1991( 平成3 )年に、国連の主導で紛争当事者間において、パリ和平協定が結ばれました。1993( 平成5 )年には、民主的な総選挙が行われ、新政権が樹立し、民主的新憲法が制定され、新生カンボジア王国が誕生しました。

 この時国連は、停戦・武装解除の監視、選挙の実施、難民帰還の支援など、行政管理を行う、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)を設立しました。日本が初めて行った、自衛隊の海外派遣でもあり、UNTACのトップは日本人の明石康氏でした。今年が丁度30年になるというので、防衛省がフン氏を招待したのだそうです。

 かってカンボジアは、隣国のタイとベトナムから、常に独立を脅かされ、時にはベトナムや、時にはタイの支配に屈しました。それよりもっと以前は、フランスの植民地でした。

 カンボジア人が、タイよりベトナムへ激しい嫌悪感を抱くのは、ベトナムによる統治が、過酷だったためとも言われています。

 加わる不幸は、昭和50年から3年余に及ぶ、ポル・ポト政権下での大虐殺でした。人口の3分の1に当たる、200万人の国民が殺された、悲惨としか言えない出来事ですが、殺害された国民の数は、60万人、100万人という説もあり、確定した数字が今も不明のままです。どちらの数字にしましても、女性も子供も容赦なく、政府が、自国民をむごたらしく処刑した、信じがたい事実です。

 かってカンボジアには、周辺国を睥睨する、強大なクメール帝国の時代がありました。当時を誇りとする、極端な民族主義者である愛国のポル・ポトは、外国勢力、特にベトナムへの敵対心と猜疑心を燃やす、極左共産主義者でした。

 彼は政権を取ると、自国の独立を守るため、ベトナムの影響を受けた人間を、排斥し、追放し、それでも足りず、ついには全て抹殺という事態に至りました。一途な、激しい愛国心の、行き着く果ての行為だった、という説もあります。

 カンボジアの内戦を複雑にしたのは、ベトナムに支援されるヘン・サムリン政権と、これに対立する3派と、それを支援する外国勢力でした。

    1.  中国の後ろ盾を受けた、恐怖政治のポル・ポト派

        2.  アメリカが肩入れする、ソン・サン派

      3.  王政の流れを継承する、反ソ・親中のシアヌーク派

 カンボジアの政治は、ずっと利害の対立する集団のせめぎあいでした。激しく長いあのベトナム戦争の間、政治的、経済的、軍事的に、ベトナムを支援していたのはソ連でした。

 米ソ中という大国同士の対立が、そのまま持ち込まれたのが、ベトナムとカンボジアでした。ヘン・サムリン政権を率いるフン・セン首相に、当時シアヌーク殿下が語った言葉が、残っています。政敵であるフン・セン氏に語りかける殿下の言葉が、国難続きのカンボジアと、国際社会で生きる厳しさを教えてくれます。

 「あなたと私が中国、ソ連、ベトナムに対し、」「仲違いを止めるよう、謙虚に求めることが必要だ。」「これらの国が、友好を回復しなければ、われわれの悲劇は終わらない。」

 殿下が言おうとしていたのは、「小国は、周りの大国の一つとばかり結びついてはならず、どの大国とも仲良くし、」「さらに、大国同士が仲良くするよう、謙虚に求めなくてならない。」、ということでした。ずる賢く、卑怯に見えても、小国はそうしなければ生き残れないのです。

 戦前の日本は一時期軍事大国となり、戦後は、一時期経済大国となりましたが、米・ソ・中の大国から、即座に叩き潰されました。この経験を踏まえれば、シアヌーク殿下の言葉を、無下にできない日本ではないでしょうか。訪日するフン・マネット氏との会談も、こうした歴史を踏まえながら行って欲しいものです。

 江畑氏の著書に戻る予定が、横道に逸れてしまいました。ASEAN 11ヶ国のうちの1国であるカンボジアでも、かなり複雑な事情を抱えています。他の国々も同様に、隣国や、介入する大国と、ついたり離れたり、困難な舵取りをしています。

 こうしたことを予備知識にして、次回から氏の著作に戻ります。

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2月は、人生の一区切り

2022-02-13 21:29:31 | 徒然の記

 2月は、私にとって「人生の一区切り」というべきことが、重なりました。江畑氏の著作のおかげで気が紛れていますが、ふと我に返る時、切ないものが胸をよぎります。

  ・免許返納   ・愛車の引き渡し  ・愛猫の埋葬  ・モデルナ・ワクチン接種

 他の人には何でもない話ですが、私と家内には、大きな出来事です。60才で定年となった時、初めて車を買いました。免許は学生時代にとっていましたが、必要がないので、ずっとペーパードライバーでした。

 車がなくても私たち夫婦は、二台の自転車で買い物に出かけ、何の不自由も感じていませんでした。まだ小学生だった子供たちは、自分の家に車がないので、「僕のうちは貧乏なんだ。」と、思っていたようです。貧乏は間違いない事実でしたが、子宝に恵まれた私たち夫婦は、そんなことは何とも思わず、楽しく過ごしていました。

 車は、岐阜県に住む三男が選んでくれました。貧乏な私にも買える手頃な車で、しかも性能がいいと推奨してくれました。ホンダのFITでした。免許を持っていても、まだ運転に自信がないので、ディラーまで買いに出かける時は、次男が一緒でした。運転に自信をつけるため、自動車学校へ通い、土日には付近を走り、練習をしました。

 今年78才ですから、18年間同じ車に乗ったことになります。ディラーの担当者が引き取りに来る前の日に、近所のガソリンスタンドで、最後の洗車をしました、自宅へ戻り、磨き上げた車の中でハンドルを握ると、たくさんの思い出が浮かびました。

 益子の焼き物市へ出かけたこと、九十九里の浜で泊まったこと、千葉の小京都と言われる佐原の街を訪ねたこと・・・。茨城県に住む長男が遊びに来た時は、帰りは夫婦で送りました。富士山と筑波山を遠景に見ながら、利根川を渡り、取手の町で蕎麦を食べました。

 孫を乗せ、孫と遊び・・何もものを言いませんが、車はいつも私のそばにいて、たくさん働いてくれました。人間でなくても、家族と同じ気持ちになるのだと知りました。引き取りに来たディラーの担当者が、車の窓から手を振り、頭を下げ、走り出した時、家内が家から飛び出してきました。

 コロナの感染を恐れ、会わないと言っていたのに、手を振っていました。

 「涙が出たよ。」

 照れ隠し笑いをしていましたが、私の目にも浮かんでいました。ガランとした駐車場が、息子たちと別れた時のように、寂しさを覚えさせました。

 警察署に免許証を返納する時、便利な車がありませんので、モノレールと電車とバスを乗り継ぎ、ステッキをついて出かけました。交通課の窓口で1,100円支払い、「運転経歴証明書」を申し込みました。さらに900円を払うと、郵送してもらえるので、それも頼みました。これからは「免許証」の代わりに、これが私の身分証明書になります。

 モノレールと電車はまだ良いとして、バスは一時間に2本しかなく、とても不便になりました。郵便局、銀行、スーパー、駅など、車ならいつでも行けましたが、これからはそういきません。長距離が歩けなくなり、若い時のように徒歩も難しくなりましたが、まだ78才です。100まで生きる予定ですから、泣き言は禁物・・車なしの暮らしに順応しなくてなりません。

 愛猫は今から18年前の、平成26年に亡くなりましたが、骨壷を2階の窓際の台に飾ったままにしていました。いつか「ねこ庭」のどこかに埋めてやろうと、家内と決めていましたが、何となく今月を迎えました。2月1日の午後、思い切って庭の隅を掘り、壺から骨だけを取り出し、ハンカチに包んで埋めました。

 小さな頭蓋骨や、手足の骨がまだ形を残していました。土に戻してやれば、何年かしたらみんな消えてしまうのでしょう。埋めた後の土に、小さな猫の置物を載せました。

 私の家には墓がありません。子供たちもバラバラに暮らしていますから、墓地を買うことはしませんでした。先祖代々暮らしていた土地があるとするなら、それは熊本の田舎ですが、そこにはもう誰もいません。転勤を繰り返してきた私たちですから、子供たちには、故郷と呼べる土地がありません。今住んでいる千葉も子供たちには、一時的に住んでいた土地でしかありません。無縁な土地に墓を買っても、思い出のない土地の墓は、やがて無縁墓になります。

 思い出の地の熊本のお寺にお願いし、父の遺骨は、共同墓地で永代供養にしてもらいました。母が亡くなったら、長男である私が、父の元へ母の遺骨を届けるつもりです。私と家内の遺骨は、懐かしい瀬戸内の海か、千葉の沖にでも散骨してくれるように、長男に頼んでいます。海を汚さないように、適量の骨を、散骨できるようにしてくれる業者があると、聞いています。私と妻は、日本の海に戻り、やがて消えます。

 愛猫の小さな骨を埋めながら、自分たちのことも考えました。

 しかし生きている限り、他人様に迷惑をかけないため、元気でいなくてなりません。「武漢コロナ」と、その変異株に負けておれません。だから12日の土曜日、集団接種会場で、オミクロンワクチンを接種してきました。後遺症がひどいと聞いていましたが、一日経過しても私は平常通りです。元気な体をくれた両親と、ご先祖さまに感謝しています。

 令和4年の2月は、たくさん思い出の詰まる「人生の一区切り」になりました。

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『 日本が軍事大国になる日 』 - 12 ( ASEAN諸国と日本の概略比較 )

2022-02-13 16:33:53 | 徒然の記

 東南アジアには、11の国があります。氏の著書に入る前に、国名、首都、人口について整理します。 ( 人口は、令和2年現在です。  )

  1.  ブルネイ    ( バンダルスリムガワン )        44 (万人)

  2.  カンボジア   ( プノンペン )           1,672

  3.  インドネシア  ( ジャカルタ )         27,352

  4.  ラオス     ( ビエンチャン )         728

  5.  マレーシア   ( クアラルンプール )       3,237

  6.  ミャンマー   ( ネピドー )・・旧 ヤンゴン      5,441  

  7.  フィリピン   ( マニラ )             10,958

  8.  シンガポール  ( シンガポール )          569

  9.  タイ      ( バンコク )                               6,980

   10.  ベトナム    ( ハノイ  )                                   9,734

    11.  東チモール    ( ディリー )           132

 現在ASEANには、東チモールを除く10ヶ国が加盟しています。国の大きさを見るには、人口が一番よく分かりますので、参考のため調べました。そのまま国力には連動しませんが、目安になります。

 江畑氏は軍事評論家なので、上記国々の陸・海・空軍の装備について、詳細に述べています。しかしどんな詳しい説明でも、日本の現在に無関係では、役に立ちません。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、どのようにまとめれば氏の本意が伝えられるのか、頭を悩ませています。

 やはり大切なことは、日本との比較なので、そこを忘れないように心がけたいと思います。次回から、本論に入るとして、今は氏の本を読み、教えられたことを思いつくままに列挙してみます。

 ・兵器や武器を他国から購入すると言う意味は、やがてその武器を自国で生産し、他国へ売却すると言うことです。これらの国々は、兵器製造技術を公開しない国からは、買いません。

 ・日本は米国から、製造技術を秘密にされても兵器を買い、他国から買おうとしません。 

 ・同じASEANに加盟していても、他国との深刻な対立を、それぞれの国が抱えています。銃撃戦や殺傷事件も存在し、政府同士がその度に非難の応酬をしています。
 
 ・日本は中国・韓国・北朝鮮との間に、不快で腹立たしいトラブルを抱えていますが、政府は「遺憾である」と言うだけです。関係国の間では、「日本の遺憾砲」と呼ばれ、痛くも痒くもない反論です。
 
 ・ASEAN諸国は、日本に比較すると概して貧しく、軍の力が大きいところが、全体主義国の中国や北朝鮮とよく似ています。
 
 ・軍の力を背景にした独裁者が輩出し、兵器購入の決定権を持つ彼らに、多額の賄賂が贈られ、政治の腐敗を招いています。他国からの援助も、国民のため使われず、独裁者とその周辺が懐に入れるため、社会的投資が進まず、貧困も撲滅されません。
 
 ・独裁者のいない日本は、これらの国々に比較すると、素晴らしい国です。政治家が多少のマージンを手にするだけで、マスコミが騒ぎますから、大きな額になりません。日本には歴代、無私の天皇陛下がおられますから、私欲にまみれた政治家が独裁者になろうとしても、なれない風土があります。
 
 ・陸続きの東南アジア諸国では、武装した反政府勢力が、容易に隣国へ逃げ込むため、これを追う政府軍と、侵入された国との間で武力衝突が起こります。反政府勢力が、他国の支援を受けているため、容易に撲滅できません。
 
 ・四方を海で囲まれている日本には、武器弾薬等他国から支援を受けた、過激派集団が育ちにくく、銃刀法所持違反の摘発など、日本警察の治安維持は世界に冠たるものです。他国へ逃げ込む余地がないため、周辺国との武力衝突も生じません。
 
 以上思いつくままの感想ですが、次回から氏の著書に沿った説明をいたします。
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『 日本が軍事大国になる日 』 - 11 ( 日本政府との比較 )

2022-02-11 15:17:22 | 徒然の記

 今回は、南シナ海における、周辺国のせめぎ合いの事実を、氏の説明から抜粋して紹介します。件数が多いので一部だけにしますが、煩わしいと思う方は、スルーしてください。  

  ・1988 ( 昭和63 ) 年1月、中国が南沙諸島の岩礁に軍を派遣し、主権標識を立て、海洋観測所を作った。

  ・同年3月、中国が珊瑚礁を次々と占領し、6島を手にし、そのうちの2島に軍事施設を建設した。

  ・同年4月、台湾が南沙諸島最大の島に、海兵隊と気象観測隊を駐在させ、1000メートルの滑走路を持つ飛行場を建設した。

  ・同年4月、ベトナムが南沙諸島の22の島に軍隊を駐留させていると、初めて公表した。

  ・同年8月、中国が永暑礁に建設していた、海洋観測所が完成したと発表した。

  ・1990 ( 平成2 ) 年5月、マレーシアがスワロー岩礁に観光ホテルを建設した。

  ・1991 ( 平成3 ) 年5月、ベトナムが南沙諸島の駐留兵のため、テレビ放送用の衛星受信装置を設置すると発表した。

  ・1992 ( 平成4 ) 年9月、マレーシアが自国支配の岩礁に、滑走路等の軍事施設の建設計画を発表した。

  ・1993( 平成5 ) 年1月、中国が西沙諸島の居住環境を整備し、市制を敷き、観光と資源開発に乗り出すと発表した。

  ・同年5月、フィリピンのラモス大統領が、南沙諸島にある滑走路の拡張工事を命じ、戦闘機の運用を可能にすると発表した。

 活発な動きをしている、南シナ海の周辺国について紹介しているのは、東シナ海での日本と比較するためです。尖閣諸島に関する、氏の説明を紹介します。

 〈 尖閣諸島に関する日本政府の対応 〉

  ・1978( 昭和53 ) 年、政治結社「日本青年社」委員長・荻野屋輝男氏が、自費で魚釣島に灯台を設置した。

  ・これが正規のものとして認定され、海図と灯台表に掲載されれば、国際的に日本の領土として認められる。

  ・1988( 昭和63 ) 年、同氏は住民票を魚釣島へ移し、灯台を造り替え、10キロ先まで光が届くものに交換した。

  ・同年4月、中国が日本が領海とする海域で、操業を行なった。

  ・政府・自民党内で、灯台、監視施設、避難港の建設など、実効支配を確立すべしという意見が生まれた。

  ・沖縄開発庁が、仮設ヘリポートを建設した。

  ・灯台認知申請は、漁業関係者以外は受け付けられないということで、地元の八重島近海鮪漁協船主協会に委嘱された。

  ・1989( 平成元年 ) 年8月、第12管区海上保安本部へ、申請書を提出した。

  ・1990( 平成2 ) 年、海上保安庁が灯台の認知を決定した。

 「最初に灯台が造られてから、実に12年後であった。」と、氏が述べていますが、たった一つの小さな灯台を造るのにも、日本ではこれほど時間がかかっています。話はまだ、先があります。

  ・しかし内閣は、台湾と中国が強い反発を示しため、この認知を凍結する方針を決めた。

  ・1991( 平成3 ) 年1月と、1992( 平成4 ) 年4月の二度、荻野屋氏は行政不服審査請求をした。

  ・「国際関係に重大な影響を与える。」という理由から、いずれも請求棄却判決となった。

 江畑氏が政府の決定を是としていないことが、次の叙述で分かります。

 「日本政府は、尖閣諸島の実効支配はできているから、領土問題は存在しない、」「との見解をとっているが、具体的には、群島の6ヶ所に測点標識を設置した以外は、」「海上保安庁の巡視船が、近くをパトロールしているだけである。」

 南シナ海の周辺国の対応と比較してみますと、日本政府というより、時の政治家がいかに臆病だったかを教えられます。平成3年1月の総理大臣は、海部俊樹氏です。氏はこののち、小沢一郎氏に担がれたまま自民党を離党し、新進党、自由党などを渡り歩き、不遇のまま亡くなります。

 平成4年4月の総理大臣は、宮沢喜一氏です。中国と韓国に膝を屈し、屈辱外交を展開した有名な首相です。アメリカに言われたとはいえ、天安門事件後の中国へ天皇訪中を決定しています。慰安婦問題に関する、あの有名な「河野談話」を出させたのも、この人物の時でした。

 「日本だけが間違った戦争をした」「日本だけが悪かった」と、この二人の総理は、敗戦後の「日本国憲法」の申し子のような自民党の政治家でした。しかし当時の風潮を考えると、二人でなくとも、尖閣の灯台や監視施設の設置は難しかっただろうと思います。いわばここに、戦後日本の問題点が集約されています。

 氏の著作を読み、自分のこれまでの先入観を、二つ修正しようと思います。

    1.   国土交通大臣が公明党だから、海上保安庁が中国に対して弱腰になる。

     2.   自衛隊は、他国の軍隊に比べると、勇気がないのではないか。

 1. つにいて言いますと、公明党が国交大臣の椅子を占めるようになったのは、平成16年9月の北川一雄氏が最初です。尖閣問題への過去の対応を見れば分かる通り、中国への屈辱外交を続けてきたのは、自民党の政治家です。公明党は、その路線に乗っているに過ぎません。自民党が、公明党との連立をやめるべき、という意見は変わりませんが、国交大臣に関する思い込みは、修正します。

 2. 自衛隊が何もしないのは、勇気がないのでなく、「日本国憲法」が彼らの行動を縛り、トップの指揮官である総理大臣に、「憲法改正」の勇気がないからです。氏の著作を読み、他国の軍隊が領土・領海の防衛に活躍しているのを知り、自衛隊の不甲斐なさを感じてしまいました。

 わざわざ言う必要はないのですが、自衛隊が不甲斐ないのでなく、彼らを動けなくしている「日本国憲法」を改正できない政治家に、勇気がないのでした。ここは修正する必要があります。

 次回は、第三章「東南アジア諸国の軍備近代化」へ進みます。

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