ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

公と私

2021-11-30 00:31:01 | 徒然の記

 ブログを始めてから12年。あっという間の12年ですが、それでもやはり長い年月だったのかも知れません。

 自分の住む国と、共に生きる家族、友人、知人、そしてついには日本国民と、その行く先を案ずる切なる思い、憂国の情・・・私はそういう方々のブログを読みながら、自分の生きる指針としてきました。

 しかしこの12年間で、熱い思いを語ってきた人たちが、何人消えてしまわれたことか。あの人、あの人と、たくさんの言葉を交換していたのに、音信不通となった方々。

 「お世話になった皆様に、主人の訃報をお伝えします。ありがとうございました。」

 そんなコメントもありましたが、何のメッセージもなく、いつの間にかいなくなった方もいます。

 自身の老いが、国や国民への思いを語るエネルギーを超えてしまったとき、人は静かに消えていくのでしょうか。

 「公」に向けるエネルギーを、「私」の老いが超えたとき、人は静かに姿を隠していくのでしょうか。そんな人の気持ちが、なんとなく分かるような日です。

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青山繁晴氏と高橋洋一氏

2021-11-28 17:55:16 | 徒然の記

 大東亜戦争の歴史を辿り、毎日書評に精を出していますが、それで一日が終わっているのではありません。

 現在の日本の課題を知るため、青山繁晴氏と高橋洋一氏の動画を見るようにしています。この二人は、反日左翼勢力を批判するだけでなく、自民党の議員や政府役人への批判も、遠慮なくしています。

 どこまで本気で受け止めるかは、私たち次第ですが、率直な意見に敬意を表しています。政府の周辺にいるから知られる情報、私たち庶民には伝わらない話を、二人は語ってくれます。

 安倍総理の時代に冷遇された宏池会が、岸田総理というトップを得て、その仕返しをしている具体的な例なども、二人の話から知ることができます。政治家の権力構図を見ながら、官僚諸氏が動いている様子も、伝えてくれます。二人の動画に多くの視聴者がいる理由が、うなづけるというものです。

 私のマイナーなブログでさえ、反対したり冷笑したりする人がいるのですから、二人のように、自分の意見を発信していたら、激しい批判や攻撃があるのは、言われるまでもなく理解できます。

 名前を名乗り、顔を出し、動画を発信し続ける二人の勇気に、敬意を表さずにおれません。

 石油価格が高騰し、せっかく回復しつつある景気をダメにしている時、日本の周辺海底にあるメタンハイドレートに、政府はなぜ力を入れないのか。豊富なエネルギー資源があるのですから、中東やロシアやアメリカの石油に依存しなくても済みます。青山氏の主張する海洋資源の開発は、そのまま日本経済の発展につながります。

 なぜ歴代の総理と、通産大臣は、青山氏の意見に一瞥もくれなかったのか。大きな利権が存在し、日本だけで決めさせてくれない、巨大な外国勢力もあるのだと、薄々わかりますが、国の将来を考えれば、氏の意見には無視できないものがあります。青山氏は、まずは「護る会」の議員の賛同を固め、日本の安全保障のためのエネルギー自立に向け、頑張って欲しいと期待します。

 「自民党の中で、遠慮なく意見を述べるためには、政府の役職や党の役職が邪魔になります。」「だから私は、これから先も、無位無冠で、一人の議員として生きます。」

 氏の言葉通りで、氏が動画を続けられるのも、無位無冠だからできることで、政府の一員となればこうはいきません。

 「青山氏が議員になったら、外務省が変わる。」(拉致問題への障害)

 「青山氏が議員になったら、経産省が変わる。」(エネルギー利権の打破)

 「青山氏が議員になったら、自民党の議員が変わる。」

 氏が立候補をためらっていたとき、安倍総理から電話がかかり、このように言われたと言います。氏は現在、この通りを実行しているのですから、このまま頑張ってもらえば日本が変わります。

 利権にもあずからず、ちやほやされることもなく、むしろ敬遠される立場に立つのですから、無位無冠で通すのは、他の議員には真似られません。安倍元総理の言葉を、動画で伝える軽さも、真似られません。「私は口が固い」「口が裂けても、秘密は守ります。」と、常に言いますが、安倍総理の言葉も本来は秘密にしておくべきものです。

 真剣さと軽さが、氏の中では同居しています。強い信念から来る激しい使命感と、肩透かしをさせるようなひょうきんさが、矛盾なく同居する不思議な人柄です。この憎めない個性は、高橋氏にも共通しています。二人の動画を見ていますと、現在の日本の問題点が分かります。

 「大東亜戦争の歴史を辿り、毎日書評に精を出していますが、それで一日が終わっているのではありません。」と、息子たちに言いたくて、このブログを書きました。

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『太平洋戦争 - 上』 -9 ( 学者もする、「説明しない自由」の例 )

2021-11-28 08:47:16 | 徒然の記

 113ページからは、日米開戦前の重要な事実が二つ述べられています。

  1. 日本の秘密電報が、アメリカに傍受され、解読されていたこと。

  2. 駐米日本大使館が、本国から受け取った対米最後通牒を、指定された時間に渡さなかった大失態があったこと。

 この二つの事実から、「アメリカを騙し打ちにした、卑怯な日本」と言うプロパガンダが作られ、「真珠湾を忘れるな ! 」と言う、米国民の怒りと憎しみが生まれました。現在では事実の背景が明らかになっていますが、多くの国民は知りません。

 「日本だけが間違っていた。」「日本だけが、悪い国だった。」と、終戦の日が来るたび、日本のマスコミがこのような報道を全国に溢れさせ、上記二つについては、何も伝えないからです。

 113ぺージに書かれているのは、野村大使がハル長官と交渉をしている時の有り様です。

 「ハル長官の手には、日本の開戦決意を示す電報が握られていた。」「その電報は、東京からベルリンの大島大使に宛てた、秘密電報である」

 「武力衝突により、日米戦争突発の危険があることを、」「ヒトラーとリッペンドルフに、秘密裏に伝えられたい。」「戦争の開始は、意外に早いかもしれない。」

 電報の内容はこのようなものでしたが、当然のことながらハル長官は、知っているとはおくびにも出しませんでした。しかし大事なのは、次の叙述です。

 「この電報ばかりでなく、日本の秘密電報はことごとくアメリカに傍受され、解読されていた。」「暗号解読機は、ワシントンの陸海軍省に一台、フィリピンに一台、」「英国に一台備えられていたのである。」「この解読された電報は、アメリカ高官の10名だけに配布された。」

 「ルーズベルト大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長、陸海軍作戦計画部長、陸海軍情報部長などである。」

 118ページには、真珠湾に向けて秘密裏に出発した日本艦隊と、東京との交信の様子が詳細に叙述されています。もし真珠湾にアメリカの艦隊がいなかったらどうすべきか、真珠湾で確認された戦艦名など、電報が全て傍受されていました。

 ここまでの事実を述べながら、氏はルーズベルト大統領を擁護する説明をします。

 「日本からの最後通牒の電文は、日本時間の12月7日2時ごろ、日本大使館に届いた。」「それは同時にアメリカ側にも傍受され、解読が進められた。」

 日本時間の12月7日2時ごろというのは、アメリカ時間では、12月6日午前10時頃になります。氏の説明によりますと、ルーズベルト大統領は、12月6日午後9時半に電文を受け取り、叫んだと言います。

 「これは戦争だ ! 」

 氏の説明の間違いを、指摘できる人は沢山いるだろうと思います。ルーズベルト大統領は、12月6日午後9時半に電文を受け取り、初めて真珠湾攻撃を知ったのでなく、ずっと以前から知っていました。国民に知らせなかったのは、不意打ち攻撃を受けたことにすれば、戦争に反対しているアメリカの世論を戦争へと誘導できるからでした。

 大統領は、日本の攻撃を知りながら、真珠湾の艦隊を避難させず、日本の攻撃に晒しました。氏が著作を書いた昭和41年当時、こうした事実が明らかになっていたのかどうか知りませんが、それにしても理屈に合わない文章です。

 アメリカが秘密電報を解読しているとも知らず、日本は電波を発信していた、何と愚かな日本かと、氏の説明は暗に自分の国の指導者たちを蔑視しています。ここまで述べるのなら、真珠湾攻撃を大統領がとっくに知っていて、何も対策を取らなかった事実にも言及すべきでしょう。

 「国民に対しては、ABC包囲網が日本を囲い、」「経済的にも軍事的にも絞め殺そうとしいてると、敵対心を煽る宣伝をしながら、」と、近衛首相を批判するのなら、ルーズベルト大統領にも同じ批判ができます。

 「国民に対しては、〈卑怯な日本の不意打ち〉と、敵対心を煽る宣伝をしながら、」「大統領は、真珠湾に停泊する艦船と軍人を見殺しにした」と、なぜ批判しないのでしょう。

 今一つは、日本大使館の大失態事件です。

 朝日新聞が「慰安婦問題」の捏造記事を報道して以来、少女を慰みものにした日本軍として、世界の国々から批判と攻撃を受けましたが、日本大使館の大失態は、これに劣らない国辱事件です。彼らが本国の指令通りに最後通牒を届けていたら、「リメンバー・パールハーバー」の大合唱はなかったのです。126ページから、転記します。

 「アメリカ側が、既に解読を終えた最後の電報を、」「日本大使館が見つけたのは、その翌朝であった。」「9時頃登庁してきた、実松海軍武官補佐官が、」「郵便受けの蓋もできないほど、配達電信で詰まっているのを発見したのである。」「実松はすぐさま電信文を仕分けしたが、事務所にはまだ誰も来ていない。」

 「9時半ごろになって、館員がようやくやって来て解読にかかった。」「ところが解読したものをタイプに打つため、机に向かったのは、奥村書記官一人だけだった。」

 「この14通の覚書は、東京からの指令で、」「奥村以外のタイピストが、絶対に扱ってならないことになっていた。」

 「これが、最後通牒の手交時間を遅らせた原因になってしまったのだが、」「まさに外務省員の常識を超えたものだった。」「局面が窮迫した場合には、館員中の3名は夜勤をさせ、」「刻々送られる電文を徹夜で解読し、重要なものは夜中であろうと、」「閲読に回すのが、外交官の長い間訓育されて来たところであるはずだった。」

 こうして野村大使が、ハル長官に最後通牒を手渡したのは、本国の指令した時間を1時間20分遅れた、午後2時20分で真珠湾攻撃後50分が経過していました。氏の説明はここで終わっていますが、もう一つの情報をお伝えします。

 平成27年に、故渡部昇一氏が「本当のことが分かる昭和史」というシリーズの講義で、次のように語っています。長くなりますので、文章でなく、項目で列挙します。

  ・現地時間で昭和16年12月6日の朝、東郷茂徳外務大臣から駐米日本大使館に宛てて、「対米覚書を発信するので明日、本国からの訓令十四部が届き次第、アメリカ政府にいつでも手渡せるよう準備するように」、と命じる電報が届いた。

  ・ところが6日夜は、戦後に『昭和天皇独白録』を書いたことで知られる、寺崎英成一等書記官の送別会があり、大使館員たちは出払っていた。

  ・翌朝7時に最後の十四部が届いたが、大使館員は出勤しておらず、膨大な電報が届いているのを見つけた、海軍の実松武官補佐官が大使館員に連絡した。

  ・日本大使館には、最後通告をワシントン時間の12月7日午後零時半(日本時間の12月8日午前2時半)にアメリカ政府に渡すよう命令があった。

  ・そのあとで、30分繰り下げて午後1時に、アメリカ政府に渡すように変更指示がなされた。ハル長官に1時に会ってもらうアポイントを取った。

       ・暗号解読とタイプが間に合わないため、彼らは、とんでもない判断を下した。

  ・ハル長官に電話をかけて、独断で「面会時間を延ばしてほしい」と頼んだ。

  ・野村吉三郎大使と来栖三郎特命全権大使が、最後通告をハル長官に手渡したのは、1時間20分遅れの2時20分だった。

 平成時代になり、渡辺氏が初めて言い出したという話でなく、東京裁判の時から、東郷外相が、大使館員の不手際を責める証言をしていたと言いますから、危機感のない前夜の送別会を、大畑氏が知らないとは思えません。「報道しない自由」を駆使し、マスコミが世論を誘導するのと同じように、大学教授も、「説明しない自由」を使い、正しい事実を学生に伝えないことが、これで分かります。「学者が作る歴史」・・の見本でもあります。

 書評はまだ126ページで、前途遼遠です。

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『太平洋戦争 - 上』 - 8 ( 学者が作る歴史 )

2021-11-27 09:22:17 | 徒然の記

  4. 米内内閣  昭和15年1月から、15年7月まで ・・6ヶ月間

     5. 近衛内閣  昭和15年7月から、16年7月まで (第二次近衛内閣) ・・約1年間

     6. 近衛内閣  昭和16年7月から、16年10月まで (第三次近衛内閣) ・・3ヶ月間

     7. 東條内閣  昭和16年10月から、19年7月まで ・・約3年9ヶ月間

  82ページ、「日米交渉」のタイトルの叙述になりますが、大畑氏の説明を理解するには、やはり上記の内閣データが便利です。

 昭和16年の4月、松岡外相はヨーロッパを訪問し、〈日ソ中立条約〉結ぶため、帰路モスクワに立ち寄るというスケジュールで、動いていました。

 その傍らで、近衛内閣はアメリカとの戦争を回避するため、国交調整を続けていました。協議は、野村駐米大使とハル長官の間で進められ、4月には「日米了解案」が、次の内容でほぼ纏まります。

  1. 日中間の協定によって、日本は中国から撤退する。

  2. 中国の満州国承認

  3. 蒋・汪両政権の合流

  4. 日本の南方資源獲得に対する、アメリカの理解

  5. 日中間の和平斡旋

 この案は、先に紹介しました、今井少将の 『中国との戦い』 の叙述と重なります。帰国した松岡外相が、〈日米了解案〉を大幅に修正したため、交渉が行き詰まり、中断してしまう状況も同じです。

 この時は書きませんでしたが、近衛首相が、英断を下しています。日米交渉の打ち切りを主張する松岡外相を辞任させるため、総辞職しました。総理の権限で、外相一人を罷免すれば良いという意見もありましたが、任命責任が自分にあるからと、総辞職を選びました。

 今井少将に比べますと、大畑氏は近衛公に対し厳しい意見を述べます。これもまた、学者によって違う歴史が伝えられる例です。

 「しかし、日米交渉を推進するため行われた、松岡罷免は、」「皮肉にも、日米交渉には何の役にも立たなかった。」

 「松岡の反対を押し切り、第三次近衛内閣で行われた南部仏印進駐は、」「アメリカを決定的に反発させ、交渉の重大な障害となってしまった。」「近衛は、日米国交調整を何とかはかりたいと考えたが、」「こじれた局面を打開するうまい手も見つからず、右顧左眄していた。」

 今井少将はこの局面を説明する時、軍部内での激しい意見の対立を語り、総理の決断の困難さを読者に伝えていました。

 〈 参謀本部・・北進論  陸軍省・・南進論  海軍・・情勢を見極めて決める 〉

 「国民に対しては、ABC包囲網が日本を囲い、経済的にも軍事的にも、」「絞め殺そうとしいてると、敵対心を煽る宣伝をしながら、」「開戦に踏み切る決心も、もちろんなく、」「近衛は結局、局面打開の最後の手として、」「ルーズベルトとの、直接会談を考えた。」

 近衛首相が、ルーズベルト大統領との直接会談を進めようとしたのは事実ですが、軍の意見が激しく対立している時、どうすればよかったと、大畑氏は言いたいのでしょう。

 「アメリカは元来、事務レベルで見通しを得られないのに、」「首脳会談を開いて解決すると言った方式を、好まない。」「何の対策もなく、〈話せば分かる〉式に会議を開こうとした、」「近衛の甘さと不用意が、日本側での失敗の一因であろう。」

 近衛首相を酷評し、松岡外相を冷笑する氏には、困難の中で苦労している当事者への理解がありません。海軍と陸軍の信じられない対立関係と、陸軍と参謀本部の激論など、氏は読者に説明すべきではないのでしょうか。

 結局、近衛第三次内閣は、閣内の意見不一致のため3ヶ月で総辞職し、同年10月に東條内閣が成立しています。

 氏が近衛首相を目の敵にすると、つい異論を挟みたくなります。公の戦後の談話を紹介した、富田健治氏著『敗戦日本の内側』 を重複しますが転記します。面倒と思われる方は、スルーしてください。

 「昭和15年の春に至り、ドイツは破竹の勢いをもって、」「西ヨーロッパを席巻し、英国の運命もまた、」「すこぶる危機に瀕するや、再び三国同盟の議が、」「猛烈な勢いで国内に台頭し来った。」

 「昭和15年7月に、余が第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、」「反米熱と、日独伊三国同盟締結の要望が、」「陸軍を中心として、一部国民の間にも、」「まさに沸騰点に達したる時、であった。」

 三国同盟締結時に、ドイツは日本に、ソ連との親善関係を仲介する約束をしていました。近衛公の判断は、英米に対する日本の立場が強固になれば、日中戦争の収束がしやすくなるというものでした。三国同盟にソ連を加え、同盟を強化しようという考えは、近衛公だけでなく、松岡外相にも、陸軍にもありました。

 他人事のように近衛首相だけを、批判攻撃して済む話ではないはずです。

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『太平洋戦争 - 上 』 - 7 ( 若き日の近衛公の論文 )

2021-11-26 13:03:26 | 徒然の記

 近衛公が寄稿した論文は、雑誌『日本及び日本人』の、大正7年12月号に掲載されました。「英米本位の平和主義を排す」というタイトルで、公が27才の時の意見です。長いので、一部分を紹介します。

 「われわれもまた、戦争の主たる原因がドイツにあり、」「ドイツが平和の撹乱者であったと考える。」「しかし英米人が、平和の撹乱者をもって、ただちに正義人道の敵となすのは、狡獪なる論法である。」

 「平和を撹乱したドイツ人が、人道の敵であるということは、」「戦前のヨーロッパの状態が、正義人道に合致していたという前提においてのみ、言いうることであるが、」「果たしてそうであろうか。」

 ヒトラーが政権を取るのは、日本で言えば昭和8年の話で、近衛公の論文は、その18年前に書かれています。このような考え方が、当時すでにあったのでしょうか。ヒトラーは『我が闘争』の中で、同じょうな主張をしていますが、公が彼の影響を受けたのでないことだけは、確かです。

 誰の本で引用されていたのか、もう思い出せませんが、公の論文は、英米でかなり注目されたと聞きます。意見を雑誌に寄稿した公は、はたして賢明だったのか、若気の至りだったのか、いずれにしても私は驚きました。

 「ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と、未成の強国との争いであった。」「現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。」「戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは、」「決してそうとは言えない。」

 「英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、」「その利益を独占していたため、」「ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、」「膨張発展すべき余地もない有様であった。」「このような状態は、人類機会均等の原則に反し、」「各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。」

 公の論文のこともさることながら、こうした意見が世間にあったことも、何もかも知らない私でした。

 「ドイツがこのような状態を打破しようとしたことは、正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。」

 第一次世界大戦に敗れたドイツを弁護し、英米を批判する率直な意見です。ある意味では、正論の一つです。公に関する本をかなり読んでいましたが、読後の意外感はずっと残りました。(大正七年十一月三日夜誌す)・・と論文の最後に書かれていましたが、記念すべき一文を書いたという、自負が感じられました。

 つい二、三日前、ある方のブログを見て、偶然論文の原文を知りました。

 「戦後の世界に、民主主義人道主義の思想が益々旺盛となるべきは、最早否定すべからざる事実というべく、」「我国亦、世界の中に国する以上、此思想の影響を免かるる能わざるは当然の事理に属す。」

 「蓋し民主主義と言ひ、人道主義と言ひ、」「其の基く所は、実に人間の平等感にあり。」「之を国内的に見れば、民権自由の論となり、之を国際的に見れば、各国平等生存権の主張となる。」

 区切り点を入れたのは私ですが、原文は、口語文でなく、昔風の読みづらい文体で、文の切れ目もありませんでした。私の目的は、公の論文の全体を紹介することでなく、若い頃の公がどのような意見を持っていたのかを、報告することです。

 若い公の才を認め、政治家として期待したのが、元老の一人だった西園寺公望公です。西園寺公が元勲伊藤公に目をかけられ、引き立てられたように、西園寺公は近衛公を育てようとしたと聞きます。

 「世界では強い者に、逆らってばかりではいけない。」

 西園寺公は、論文を寄稿した近衛公を、こう言って叱責したと言います。おそらくそれ以後、近衛公は自分の意見を言わないようになり、胸に収めたのではないでしょうか。そうすると、色々な推理が成り立ちます。

 ・ソ連のスパイである尾崎秀実を、ブレーンとしてそばに置いたのは、公自身の意思ではなかったのか。

 ・政府の情報を故意に尾崎に漏らしながら、逆にソ連の動きを探っていたのではないか。

 ・東條陸相が、尾崎秀実のスパイ行為を徹底的に調べようとしたのは、近衛内閣を倒すためだったが、公は捜査が自分に及ぶ前に辞職した。

 ・近衛公は、東京裁判に不信感を持ち、自分が何を言っても彼らが有罪にすると考えていた。

 ・死刑となった尾崎秀実やゾルゲついて聞かれ、何か答えると、こじつけの罪が作られる。

 ・五摂家筆頭の自分が裁判で有罪となれば、陛下に無縁で済まされなくなる可能性がある。

 東京裁判の裁判官は、いわば氏の言う「英米本位の平和主義」の人間たちです。彼らに裁かれるなどと言うことは、公の誇りが許さなかったのではないでしょうか。

 誰も私のような意見を言いませんが、公の論文を読み、遺言を読みますと、こんな推測もできないわけではありません。日本の過去を見直す意見の一つとして、「ねこ庭」を訪問される方々に、読んで頂けたらと思います。その上で、それぞれの方が、自分なりの近衛像を描かれたら良いと思います。

 次回はまた、氏の著書に戻ります。

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『太平洋戦争 - 上』 - 6 ( 二つの近衛公像 )

2021-11-25 19:13:31 | 徒然の記

 「こうして、米内内閣は倒れた。」「代わって近衛が、第二次内閣を組むことになる。」

 48ページの書き出しの文章です。慌ただしい内閣の入れ替わりですから、やはり下記のデータを参考に入れます。

   1. 近衛内閣  昭和12年6月から、14年1月まで

     2. 平沼内閣  昭和14年1月から、14年8月まで

     3. 阿部内閣  昭和14年8月から、15年1月まで

     4. 米内内閣  昭和15年1月から、15年7月まで

     5. 近衛内閣  昭和15年7月から、16年7月まで (・・第二次近衛内閣  ) 

     6. 近衛内閣  昭和16年7月から、16年10月まで (・・第三次近衛内閣  ) 

     7. 東條内閣  昭和16年10月から、19年7月まで 

 相変わらず大衆小説家が読者を喜ばせるような、軽い文章が続きます。

 「この時新外相として、脚光を浴びて登場した人物こそ、」「ドイツと固く手を握り、あえて心中も辞さないという、」「元満鉄総裁松岡洋右であった。」「自信過剰で我が強く、話し出すと、自らの雄弁に自ら陶酔し、」「大風呂敷を広げるような、男であった。」

 48ページから、この章の終わりの66ページまで、松岡外相の独走ぶりが語られます。三国同盟締結、日ソ不可侵条約の締結など、よく知られている松岡外相の行動です。ヒトラーと対談し、スターリンと対話し、得意の絶頂にあった彼は、日米協調の有田外交をひっくり返します。その出発点が、荻窪会談でした。

 「組閣の大命を受けた近衛は、外、陸、海相に予定していた、」「松岡洋右、東條英機、吉田善吾の三人を、」「組閣前に荻窪の私邸に招き、重要国策について意見を交換した。」

 ここで決定された基本政策が、次の4項目です。

  1. 日独伊枢軸の強化

  2. 対ソ不可侵条約の締結

  3. 「東亜新秩序」に、英仏蘭葡の植民地を含ませ、南進を図る

  4. アメリカの実力干渉を排除する

 「ここで決定された政策は、日本の重大な転換をなすものであった。」「南方の資源を確保するため、従来の北進から南進へきっぱり進路を定め、」「アメリカの干渉を排除する覚悟を明らかにした、強硬な瀬戸際政策であった。」

 国運を左右する重大な会議ですが、誰がどの政策を強く主張し、誰が異を唱えたのか、氏は説明していません。

 「近衛首相は、このような会議の場合はもっぱら聞き役にまわり、」「率先して、五相会議をリードするようなことをせず、」「ある時は右の如く、あるときは左のごとくで、自分の意見を示さず、」「非常に曖昧な態度をとっていた。」

 第一次近衛内閣時を説明する時、氏は近衛公を、意見を言わない総理として描いていました。第二次内閣の組閣前に、私邸で大事な会議をする時も、公は聞き役で終始したのでしょうか。東京裁判で、戦争遂行の首謀者として死刑宣告をされた東條氏と、獄死した松岡氏の名前を挙げておけば、二人が会議をリードしたように見えると思ったのでしょうか。

 大畑氏が学者の一人なら、国民をみくびらず、事実を省略せずに叙述して欲しいと思います。氏は公については、世間の評判どうり、優柔不断な愚かな人物として語っていますが、私の知る公は別の姿をしています。

 「当時華族の子弟は、学習院高等科に進学するのが通例だったが、」「近衛は一高の校長だった新渡戸稲造にひかされ、一高に入った。」

 「卒業後、哲学者になろうと考え、東京帝国大学哲学科へ進んだ。しかし満足せず、」「京都帝国大学に転向し、河上肇や米田正太郎に学んだ。」

 河上肇は有名な『貧乏物語』の著者で、マルクス経済学者であると共に共産主義者でした。米田正太郎は、被差別部落出身の社会学者です。河上肇との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、公は社会主義思想に共鳴していたと言われています。

 五摂家の筆頭という家柄の公は、加えて二つの帝大へ行ったという高学歴の持ち主です。180cmを超える高い身の丈で、貴公子然とした風貌の公が、対英米協調外交に反対し、既成政治打破的な主張をするので、大衆的な人気もあり、早くから将来の首相候補と目されていたと、・・こういう情報があります。

 対英米協調外交に反対するということは、ドイツ側に立つということですし、河上肇を通じて社会主義に共鳴していたのなら、対ソ不可侵条約に反対を通すことはないだろうと、推測されます。松岡外相や東條陸相の意見に押し切られるまま、重要な国策を認めたというのではないと、私は考えます。

 決断力のない、臆病で無責任という世間の評価に、私は最近疑問を抱いています。むしろ公は、さまざまなことを理解し、思索を巡らせながら、他人の意見を聞いていたのではないでしょうか。大東亜戦争の敗北の責任というものが、もしあるとすれば、東條元首相以下5人の殉難者にでなく、近衛公にあると私は考えます。

 公は、東京裁判所からの出頭命令を受けた時、家人の寝静まった明け方に、青酸カリを飲み自決しました。世間では裁判での死刑判決を恐れ、自殺したと言いますが、自殺ではなく自決だと、私はこの通説にも異を唱えます。

 自殺は個人的なものですが、自決は軍隊や政府などの組織で、指導者が責任を取る場合や、自分の主義主張を貫くために選ぶ死です。公の遺言を読みましたので、更にその感を深くしています。遺書から読み取れる自決の理由を、私なりに考えて見ました。

  ・総理として、敗戦の責任をとる。

  ・陛下へ累を及ぼさないため、裁判を拒否する。

 優柔不断で臆病な人物に、自決はできません。異論は多々あると思いますが、自分の考えを述べさせて頂きました。次回は著作を離れ、横道へ進み、大正7年に公が、雑誌『日本及び日本人』に寄稿した一文を紹介いたします。

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『太平洋戦争 - 上』 - 5 ( 独ソ不可侵条約と日本 )

2021-11-24 21:18:43 | 徒然の記

 平沼内閣で「小田原評定」が続けられていた昭和14年の8月23日、突如「独ソ不可侵条約」の締結が発表され、国際政局に大波乱を呼びました。この報を受けると、さすがの陸軍も色を失い、政府も大いに狼狽します。

 「ドイツの行為は、日独防共協定違反であるから、」「これまでの三国同盟についての協議は打ち切る、と有田外相は早速大島大使に、抗議を命じた。」「ところがすっかりドイツびいきの大島は、これをすぐにドイツ政府に取り次がず、」「9月18日になり、やっとドイツに伝えた。」

 大島武官は外相の命令を無視し、とんでもないことをしていますが、彼の独断でなく、国内の親ナチ勢力の指示があったのではないかと思います。ネットでは、こんな情報があります。

 「防共を標榜し、ドイツと共に反ソを課題として討議していた平沼は、」「日本政府を無視し、容共姿勢に転じたドイツのやり方に呆れ、」「8月28日、〈欧州の天地は、複雑怪奇〉という声明と共に、総辞職した。」

 大島武官は、ドイツへの政府の抗議を、平沼内閣の総辞職後に伝えたということになります。大島氏がいくら有能だったとしても、政府の重大な命令を遅らせるなど、陸軍の後ろ盾なしでは考えられません。

 どのくらい著名な人物なのか知りませんが、氏がニューヨーク大学のスナイダー教授の談話も紹介しています。

 「驚いた !   まさか  !  信じられない  !  」「これは今世紀の、最も驚くべき突発事件である。」「ヒトラーは、ボルシェビズムを文明の敵として罵倒し、」「スターリンは、ナチスをファシストの怪獣と非難してきたのである。」

 「しかし突然、この戦いは中止されたのである。」「ナチとソビエトの独裁者は、互いの利益のため結合し、」「自らの利益になる間だけ、提携関係を維持しようとしている。」

 ドイツは直ちにポーランドへ攻め入り、ポーランドと同盟関係にあるイギリスとフランスが、戦争に巻き込まれます。平沼内閣の後を受けた阿部信之陸軍大将の内閣で、第二次世界大戦が始まりました。当時の朝日新聞の記事を、氏が紹介していますので、これも一部を転記します。

 「イギリスの宣戦布告と共に、事態は遂に、全欧の大戦と化した。」「全体主義が勝つか、民主主義が勝つかの、各国の運を賭する大戦たらんとする感がある。」「勝利か、しからずんば死かと、民族の運命を賭したヒトラー総統が、」「この惨劇の作者であり張本人であるが、翻って、」「総統を立たざるを得なくした、ベルサイユ条約の起草者が、」「この責任を負うべきであるか、それは将来の史家の断ずるところであろう。」

 現在の朝日新聞は、独裁者ヒトラーを極悪人として非難し、かっての安倍内閣を倒すため、「独裁者安倍の暴走を許すな。」と、ヒトラーと並べて連日酷評していました。戦前の朝日は、ヒトラーを立たせたのはベルサイユ条約にも責任があると、暖かい理解を示しています。

 日本政府を蔑ろにしたヒトラーの変節も、ひどいものですが、戦後にヒトラー批判一本槍に変節した、朝日新聞もひどい会社だと思います。

 「このようなドイツ軍の圧勝を見て、日本の枢軸派が黙っているはずがない。」「陸軍や参謀本部の急進派将校たちは、」「再び熱狂的な、ナチ崇拝のムードを生み出した。」

 ヒトラーと朝日新聞の変節もひどいのですが、説明を書いている氏の軽薄さにも、眉を顰めたくなるものがあります。大衆小説作家が読者を喜ばせるため、軽い文章を書きますが、教授らしくないトーンになっています。

 「すでに阿部内閣は退陣し、この時枢軸派にとって、」「最も好ましからざる人物、米内光政が首相になっていた。」

 頻繁に内閣が交代し説明が面倒なのか、話が飛びますので、前後のつながりが見えなくなります。当時の内閣をもう一度、一覧にしてみます。

 1. 近衛内閣  昭和12年6月から、14年1月まで

    2. 平沼内閣  昭和14年1月から、14年8月まで

    3. 阿部内閣  昭和14年8月から、15年1月まで

    4. 米内内閣  昭和15年1月から、15年7月まで

    5. 近衛内閣  昭和15年7月から、16年7月まで (・・第二次近衛内閣  ) 

 阿部首相は、三国同盟締結が米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げたため、陸軍の反対を受け、およそ5ヶ月で退陣しています。

 「枢軸派は米内内閣を倒すため、行動を起こした。」「憲兵隊による外務省幹部の喚問、親英米派要人の暗殺計画など、一連の嫌がらせの後で、」「陸相畑俊六を、単独辞任させた。」「陸軍は後任推薦を拒否することによって、米内内閣を総辞職に追い込んだのである。」

 どうしてこういうことができるのかと言いますと、「天皇の大権」「軍務と政務の区分」「統帥権干犯」など、複雑な要因が絡みます。今後「憲法改正」をし、自衛隊が軍隊として再建されるときは、こうした軍の横暴が生じないよう工夫することが重要です。今は本題でありませんから、ここでは言及せず、次回も氏の著書に沿い歴史をたどります。

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『太平洋戦争 - 上』 - 4 ( 三国同盟と日本 )

2021-11-23 17:10:52 | 徒然の記

 1. 近衛内閣  昭和12年6月から、14年1月まで

         ・外務大臣 広田 => 宇垣 => 有田 ・・反ナチス

   ・陸軍大臣 杉山 => 板垣    ・・親ナチス

 2. 平沼内閣  昭和14年1月から、14年8月まで

     ・外務大臣 有田   ・・ 反ナチス

     ・陸軍大臣 板垣   ・・ 親ナチス

 大畑氏が、内閣を明示せず説明していますため、前後関係が曖昧なので、当時の内閣を調べてみました。反ナチス、親ナチスの区分は、氏の文章を参考に私が付記しました。これを参考にして読みますと、相互の関係が分かります。

 「宇垣は、陸軍武官が外交路線を通さずにやったことであるから、」「政府としては、一種の参考情報と解していると、強調した。」

 「それから間もなく宇垣が辞職したが、三国同盟に積極的でなかったことなどから、」「陸軍が、辞職に追い込んだものと見られる。」

 板垣陸相は一貫してドイツを支持し、海相の米内大臣は一貫して陸軍に反対しています。近衛内閣では、重要案件を五相会議にはかっていましたが、これは昭和時代前期、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣の5閣僚によって開催された会議のことを言います。

 「近衛首相は、このような会議の場合はもっぱら聞き役にまわり、」「率先して、会議をリードするようなことをせず、」「ある時は右の如く、あるときは左のごとくで、自分の意見を示さず、」「非常に曖昧な態度をとっていた。」

 近衛首相の政治姿勢を示す、興味深い一文です。総理大臣が主催する会議ですから、何も意見を言わないのでは、何も決まらないということになります。35ページを読みますと、実感できます。

 「米内海相は、板垣陸相との5時間半にわたる激論の中で、」「自分は職を堵しても、三国同盟を阻止する、」「と言い切っている。」

 「三国同盟に対する紛糾が片づかないままに、政府は一方で、」「日中戦争の解決にも自信を失い、内外の山積する問題を抱えたまま、」「近衛首相は、ついに内閣を投げ出すことになる。」

 こうして平沼騏一郎氏が、首相となります。氏は国粋主義的政治家であり、社会主義、共産主義やナチズムなど、外来の思想を危険視する人物でした。近衛首相と異なり、自分の意見を述べますから、陸軍とはうまく行きません。

 「それにもかかわらず、〈小田原評定〉は、平沼内閣になってからも、」「同じ顔ぶれ、そして実質的には、」「ほぼ同じ内容で続けられた。」

 その年の昭和14年の8月に、ノモンハンで日本軍がソ連と衝突して敗北し、相変わらず満蒙の地では、ソ連との緊張関係が続きます。三国同盟を結ぶということは、英米を敵に回すことになりますので、内閣は方針が定められません。陸軍と海軍の対立が明らかになると、同盟に賛同する右翼団体が騒ぎ出しました。

 「米、英と戦争のできない海軍なら、やめてしまえ。」「海軍は人形か。」と、彼らは海軍省に押しかけ怒鳴ったと言います。

 「政府内部の対立が混迷状態になると、国内の情勢も、次第に泥沼に落ち込むようになった。」「山本五十六長官、湯浅内大臣、平沼首相らの、暗殺計画も発覚した。」「陸軍の横車は、軍内部まで分裂させ、内乱を思わせるような状態であった。」

 ここでもう一度、渡部昇一氏の言葉を思い出し、「東京裁判」の不合理性を確認します。

 「しかるにキーナン以下の検察側は、」「28人の被告の、全面的共同謀議により、」「侵略戦争が計画され、準備され、」「実施されたという、法理論を打ち立てた。」

 キーナン主席検察官とウエッブ裁判長が協力し、東條元首相以下の政治家と軍人が「全面的共同謀議」をし、大東亜戦争を遂行したと結論づけました。大畑氏の著書を読みますと、そのような事実はなく、まだ東條首相の名前も表れていません。大畑氏は、陸軍とナチスドイツが緊密な関係を持ち、大東亜戦争を遂行したと主張したい様子ですが、政府一体となった「全面的共同謀議」の事実はありません。

 従って処刑された6人の方々は、米国による復讐裁判の犠牲となった「殉難者」となります。昭和23年12月23日に刑執行が執行されていますが、「判決理由」の曖昧さといい加減さを、今一度確認してください。

           判 決 理 由

  板垣征四郎  中国侵略・米国に対する平和の罪

  木村兵太郎  英国に対する戦争開始の罪

  土肥原賢二  中国侵略の罪

  東條英機   真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪

  武藤章    一部捕虜虐待の罪

  松井石根   捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件

  広田弘毅   近衛内閣外相として、南京事件の残虐行為を止めなかった不作為の責任

 適用された法律は、第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判と、極東国際軍事裁判  (  東京裁判 ) のために制定した「事後法」です。国家でなく、個人の責任を追及し処罰することは、「法の不遡及の原則」に反しています。戦争当時になかった法律で、6人の方々は裁かれたということです。もう一つ付け加えますと、「南京事件」は捏造の事件でした。

 こうなりますと、賀屋興宣氏の言葉の正しさが更に明確になります。私たちは、6人の方々の名誉回復を進めなくてなりません。

 「ナチスとともに、17年間、超党派で、」「侵略計画を立てたと、言いたかったのだろうが、」「そんなことはない。」「軍部は、突っ走るといい、政治家は、困ると言い、」「北だ、南だと、国内はガタガタで、」「おかげで、ろくに計画もできないまま、」「戦争になってしまった。」「それを共同謀議など、お恥ずかしい話だ。」

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『太平洋戦争 - 上』 - 3 ( 日独防共協定の失敗 )

2021-11-22 19:09:18 | 徒然の記

 上田主席秘書官の談話です。

 「その結果、大使館員とナチとの連絡も密接になったが、」「陸軍側とナチとの関係は、想像以上に深く、」「最後には、大島中将のような陸軍武官が出て、」「日本軍人かドイツ軍人か、全くわからぬ態度や行動をとった。」

 大島浩武官の父親の大島中将まで登場し、初耳の話が、さらに続きます。

 「この日独防共協定に対して、ヨーロッパ各国に駐在する、日本の外交官たちからは、」「ドイツはヨーロッパの嫌われ者で、そんなものと提携しては、」「日本はますます、国際間での孤立を深める、」「断じて不可 ! という反対意見の電報も、連日、」「広田弘毅首相や有田八郎外相の元に、寄せられていた。」

 「西園寺公望公も、結局ドイツに利用されるばかりで、」「日本はむしろ、非常な損をしたように思われる。」「日本の地理的環境から言えば、英米と仲良くすることが最も良いのである、」「との態度をもらしていた。」

 しかし昭和10年から11年にかけて、大島武官とドイツ側の交渉で条約案文が出来上がり、覆せませんでした。

 「一度墨で書かれたものは消えないから、せめて濃い墨でなく、」「薄墨色程度の協定を結ぶ、」「と有田外相が語り、この協定はソ連を対象とするものではないという、声明を出した。」

 しかしその秘密付属協定には、次の二項が含まれていました。

  1. 日独両国の一方が、ソ連から攻撃または威嚇を受けた時は、他方は、ソ連の負担を軽くするような措置を取らない。

  2. 両国はこの協定と両立しない、ソ連との政治的条約を結ばない。

 戦後史を語る学者の意見で、近衛文麿首相は優柔不断で国の運命を誤らせたと教えられましたが、広田首相や有田外相も似ていたことが分かりました。

 「昭和3年から、敗戦の20年までの17年間、」「内閣は、16回交代している。」「しかもその理由は、主として、閣内の意見不一致によるものである。」

 渡部昇一氏の言葉を読めば、戦前のご先祖さまは、惑いつためらいつつ、その場その場を凌いできたのだと、分かります。緊張した国際情勢の中で、総理大臣の決断がいかに難しいのかという、証明でもあります。先日組閣したばかりの岸田総理についても、「優柔不断」というレッテルが貼られ、保守の評論家も批判していますが、もう少し様子を見てはどうかと言いたくなりました。

 現在は岸田派と名前を変えていますが、元々リベラルと言われる宏池会は、左翼系親中派の議員が多い派閥です。憲法改正反対、再軍備反対、中国の反対する政策に反対という、いわば党内野党勢力です。派閥領袖の岸田氏が、外相に親中派の林芳正氏、幹事長に同じく親中派の茂木敏充氏を当てましたが、私は驚きません。

 そんな岸田氏が、安倍内閣以来の日本学術会議委員の任命拒否を踏襲していることや、中国が嫌がるクアッドの、日本開催を進めていることの方に注目しています。

 世界の大国アメリカも、不正選挙で当選した大統領が、反トランプ政策を標榜しながら、中国に妥協するようなしないような、不思議な舵取りをしています。一方の大国中国の習近平氏も、毛沢東を真似て「漢民族の帝国」を再興しようと頑張っていますが、頑張りすぎて、「世界の嫌われ者」になっています。

 歴史を振り返りますと、岸田氏ばかりを責めるわけにはいきません。批判することは大事ですが、憎しみを先行させ、汚い言葉を浴びせるのだけはしたくないものです。衆議院の選挙で、国民の多くが岸田氏の自民党に票を入れたのですから、感情的な批判はやめようと思います。

 話が脱線したと思われる方もいるのでしょうが、そうではありません。本を読んでいても、「憲法改正」と「皇室護持」の旗を忘れることはしません。

 ここでもう一度、大畑氏の著書に戻ります。28ページです。

 「防共協定を各国との間に広め、日本の国際的地位の向上に役立たせたいとした、」「広田首相の構想は、民主主義諸国との関係では、見事に失敗した。」

 「こうして防共協定は、実際には、現世界秩序に叛逆しようとする、」「ファッシズム諸国との団結を、誇示する結果となった。」「このことはその後の日本の進路を制約し、新しい問題を今後に残すこととなった。」

 やはり私は、氏の説明に違和感を感じます。「現世界秩序に叛逆」という言葉で、氏は何が言いたのでしょう。ドイツと日本を除く、当時の世界秩序は、欧米列強によるアジア諸国の植民地体制でしたが、それが正しい秩序だというのでしょうか。

 氏の意見は、「現在から見た後づけの理屈」でしかありません。ドイツと日本が勝利していたら、その時はまた別の理屈で、敗戦国を語るのではないでしょうか。いずれにしても氏は、日本を愛する学者でなく、時流を上手に泳ぐ人物でないかと、そんな気がしてきました。

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『太平洋戦争 - 上』 - 2 ( ドイツと日本陸軍 )

2021-11-22 12:37:50 | 徒然の記

    1.  『日清戦争』   工学院大学教授 松下芳雄

   2.  『日露戦争』   東京大学教授 下村冨士夫

   3.  『第一次世界大戦』 早稲田大学教授 洞富雄

   4.  『満州事変』   武蔵大学教授 島田俊彦

   5.  『中国との戦い』  評論家 今井武夫

   6.  『太平洋戦争(上)』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

   7.   『太平洋戦争(下) 』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

 読書計画も、あと二冊となりました。今井氏と大畑氏の著作は、同じ時代を扱っていますため、内容が重なります。著者が違うと、視点が異なりますので、同じ事柄でも印象が変わります。

 「満州事変と、その後の中国に対する軍事行動が、」「世界列国の反発を招いて、日本は侵略者の烙印を押された。」「昭和8年、国際連盟を脱退し、日本は極東の孤児となった。」

 今井氏は満州事変について、もう少し丁寧に説明していましたが、大畑氏は簡単に片付けています。

 「極東で日本が、中国大陸への武力侵略を続けているのと並んで、」「ヨーロッパではナチス・ドイツが、再軍備宣言、ラインランド進駐など、」「次々とベルサイユ体制打破を、実行していった。」

 「世界の現秩序に挑戦した、この東西の反逆児が、」「防共の名のもとに手を組んだのが、昭和11年の〈日独防共協定〉である。」

 ナチスドイツと並べて語るトーンに、日本を犯罪国家として描く意図が感じられる気がします。私の理解では、大東亜戦争は「世界秩序の破壊」でなく、自衛のための戦争です。ドイツにしても、第一次世界大戦の敗戦の結果、過大な賠償金を要求されたと言う事情がありました。

 「元々〈防共〉は広田内閣にとっても、外交上の一枚看板であった。」「広田は中国に対し、〈防共提携〉を要求しているが、」「この提携を列国との間に広め、これによって国際的孤立を脱却するとともに、」「外交のイニシァティブを、なるべく軍から政府の手に回復していこうと言うのが、彼の大きな狙いであった。」

 「しかし現実には、日独防共協定の交渉は、軍のイニシアティブによって進められ、」「ドイツ駐在陸軍武官の大島浩と、リッペンドロップとの間で、」「正規の外交ルートを無視して進められたもので、それをのちに、」「政府の方針として決定、承認したものであった。」

 この意見も私には新しい視点です。ドイツとの連携を主張し、強引に押し進めたのは松岡外相と聞いていますが、氏の著書ではほとんど語られません。学者次第で歴史が書き換えられるという、一つの例と言う気がします。

 「問題の立役者大島武官は、初め対ソ情報入手のため、」「ドイツとの協力を使命の一つに課せられていたが、やがて大使館や外務省にも知らせず、」「ドイツ側と、防共協定の交渉を行っていたのである。」

 「彼は、大隈内閣・寺内内閣の陸相、大島健一中将の長男で、」「陸軍屈指のドイツ通であり、ドイツ語の会話力は、」「ドイツ在留邦人の中でも、並ぶ者がなかった。」「ドイツの政界、軍部に非常な信頼があったが、」「それだけにまた、ドイツの利益は、日本の利益であると考えるようになったところがあった。」 

 日本が国際連盟を脱退した昭和8年に、ヒトラーが政権を獲得しています。大畑氏の説明では、この時から日本の陸軍とのつながりが始まったとし、当時のドイツ大使だった小幡酉吉 (  ゆうきち ) 氏の談話を紹介しています。

 「ナチが政権を把握すると、日本の軍人が、ナチの言うことを無条件に信用し、」「次第に接近して行き、ナチと日本軍人が結びつき、」「ドイツ人のような日本軍人が、出て来るのではなかろうか。」

 ドイツ大使だった時の談話か、退任した後のものなのか、氏は時期を書いていません。

 「それでなくとも日本軍人の中には、ドイツ贔屓が多いのに、」「この上ドイツ心酔者が多くなってきては、国家のために大変なことになる。」「できるなら、ドイツグループ以外の軍人を、」「大使館付武官や、補佐官に持ってくるようにしたい。」「またナチとの連絡も、陸軍側ばかりにせず、」「大使館の書記官が努めてナチと接近し、連絡を緊密にしていかねばならない。」

 小幡氏の名前を初めて聞きますので、調べてみますと次のような経歴の持ち主でした。

  ・1933(昭和8年)5月に、外務省を依願退官した。

  ・1934年(昭和9年)7月から、1940年(昭和15年)4月まで貴族院議員。

  ・その後枢密顧問官となり、制度が廃止される昭和22年5月まで務め、同年8月9日に死去。

 今日からすれば、重要な二人の談話だと思いますが、世間でほとんど取り上げられていません。さらに氏は、当時のドイツ大使館上田首席秘書官の談話も、紹介していますが、スペースの都合で、次回の報告といたします。

 「ナチスとともに、17年間、超党派で、」「侵略計画を立てたと、言いたかったのだろうが、」「そんなことはない。」

 賀屋興宣氏がこう言って、東京裁判の不合理性を批判しましたが、もしかすると小幡氏は、ウエッブ裁判長やキーナン検事の「共同謀議説」を肯定している学者なのでしょうか。今は判断がつきませんので、このまま読んでいきたいと思います。

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