ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 32 ( 聖徳太子の武勇 )

2022-12-30 14:26:51 | 徒然の記

 「日本で仏教に改宗なさったのは、聖徳太子の御父の用明天皇である。」

 どのようにして用明天皇が改宗されたかについて、本日は渡部氏の解説を紹介します。

 「敏達天皇の次に即位された第三十一代の天皇が、敏達帝の弟の用明天皇である。この方の母は、蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)であり、馬子の妹でもある。そのせいか、用明帝は仏教に関心があった。」

 有力貴族が自分の娘を天皇の妃にしたのは、平安朝の藤原氏からと思っていましたら、古代にもありました。

 「用明帝は即位の翌年の新嘗祭の後、ご病気になられた。その時天皇は群臣を招集され、〈自分は仏教に帰依しようと思うが、お前たちで相談してくれ〉と言われた。また同じパータンの議論が繰り返されます。」

 〈 物部守屋と中臣勝海の意見 〉

  「どうして我が国の神々(くにつかみ)を捨てて、他国の神(あだしかみ)を拝まれるのですか。こんな例はありません。」

 〈 蘇我馬子の意見 〉

  「そんなことを言っても、天皇ご自身が仏法を信じたいと言っておられるのだから、そのお心に従ってお助けすべきである。誰もその御心と異なることを計画すべきではない。」

 用明天皇は馬子の娘の子供ですから、馬子には孫に当たります。ここまで説明されると、用明天皇が改宗された背景が分かりました。しかしこれからが、また不幸の始まりです。

 「その後、群臣の間に睨み合いがあり、中臣勝海が暗殺された。」

 宗教戦争で初めての殺人となり、ご不幸が続きます。

 「一方天皇のご病気はますます重くなり、いよいよご臨終という時、一人の廷臣が進み出て申し上げた。」

 「私は陛下にために出家して仏法を行い、大きな仏像を作り寺も作ります。」

 天皇はその言葉を聞いて大いに悲しみ、惑われ、おかくれになったそうです。氏の説明では争いの凄まじさが感じられませんが、切迫した宗教戦争の始まりでした。深刻さを避けるため、故意にしているのか、氏の解説がぼんやりとしています。

 「惑うというのは、仏法を信ずることに惑われたのではなく、廷臣の言葉を大いに悲しまれたということであり、天皇は仏教徒として亡くなられたと考えられる。聖徳太子は、用明天皇の第二子である。」

 ここで初めて聖徳太子の名前が出てきて、同時に本格的な宗教戦争が始まります。

 「天皇と信仰を同一にするに至った馬子は、意気軒高である。泊瀬部皇子( はつせべのおうじ・後の第三十二代崇峻天皇  ) と共に、宿敵物部守屋の討伐に向かう。」

 渡部氏の解説は『日本書紀』に基づいてされていると言いますが、こんな内容だとすれば、同書は天皇や皇室を美化し正当化する書籍と言い難くなります。ここまで事実を赤裸にしなくて良いのではないかと、むしろそんな気持ちがします。

 「討伐に向かう馬子を、もちろん守谷の一族は迎え撃つ。守谷の軍勢は強勢で、家に満ち野に溢れた。泊瀬部皇子や馬子の軍は恐れて、三度も退却する有様だった。」

 「この時十四才の少年であった厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)も従軍し、後ろの方にいたのだが、これは誓いを立てなければ成功すまいと言い、ぬりでの木を切り取り、四天王の像を作り、それを頭においてこう宣言された。」

 「私を勝たせてくだされば、必ず護世四天王のため寺塔を立てます。」

 馬子も同じような誓いを立てたため、守屋の矢は太子を傷つけることができず、自分が矢を受けて倒された。この時の太子の武勇伝が頼山陽の次の二行だと説明します。

   皇子は 頭 ( かしら  ) に四天王を戴き 

   大連の箭 (や ) は 傷つくるを得ず

 「戦勝の後に、守屋の奴の半分とその邸宅とを分けて、寺の奴と田荘(たどころ)にしたと言い、これが次の一行の意である。」

   汝の家をすきて 我が家を建つ

 こうして建立されたのが、今の大阪の四天王寺の起源だそうです。壮大な建物は雲に連なるほど高く、金・銀・瑠璃・玻璃・珊瑚・瑪瑙・しゃこの七宝が輝き、この四天王の他には国家鎮護の天神はないかのようであると、これが最後の二行の意味だそうです。

   伽藍雲に連なりて 七宝輝く

   四天王の外 天王なし

 「わずか五行の中に、聖徳太子らが天孫降臨派の旧豪族を滅ぼして、仏法を興隆せしめたことをまとめた頼山陽の腕前には、いつものことながら驚く。」

 渡部氏は褒めていますが、私はそのような気になりません。むしろ日本古来の神々を大切にした物部氏と中臣氏の方に理があると思い、氏の言葉に違和感を覚えます。聖徳太子に関しても、このような姿で現れるとは考えてもいませんでした。もしかすると氏も、心のどこかで私と同じことを考えていたのか。結びの叙述が気にかかります。

 「最後の行の中に、仏教を背景にした蘇我氏の専横に対する山陽の批判を、読み取ることもできよう。」

 次回は「五闋 大兄靴  ( おほえのくつ ) 大化の改新」へ進みますが、最後の叙述がないと歴史の流れがつながりません。なぜなら蘇我馬子は、日本史の中では好しからざる人物として語られているからです。

   四闋 四天王  ( してんわう )    用明天皇の「改宗」     5行詩

   五闋 大兄靴   ( おほえのくつ )   大化の改新                       7行詩

   六闋 復百済   (くだらをふくす)     白村江の戦い                  9行詩

   七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                7行詩

 八百万の神々と仏教がどのようにして共存していくのか、渡部氏の解説がどのように展開していくのか興味津々ですが、とても大事な部分なので、今年はここで終わりといたします。12月30日ですから、もう「ねこ庭」に向かっている時間がありません。続きは、年明けの落ち着いた日に始めようと思います。

  どなたも、良いお年をお迎えください。

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 31 ( 敏達(びだつ)天皇の御世 )

2022-12-29 17:53:09 | 徒然の記

 第二十九代欽明天皇の後を継がれたのは、皇子である第三十代敏達天皇です。渡辺氏の解説を紹介します。

 「この天皇について『日本書紀』では、〈天皇 ( すらみこと  ) 仏の法を信(う)けたまわずして、文史(しるしぶみ) を愛(このみ) たまふ〉とある。つまり敏達天皇は仏教を信じないで、書物としては詩や歴史のものを好まれた、ということである。もちろん天皇のお仕事として、神々を祀ることは旧来どうりなされていた。」

 そしてこの時、欽明天皇の御世と全く同じタイプの宗教の争いが起こったと言います。

 「今度は蘇我稲目の子馬子が、百済より渡来した弥勒菩薩の仏像二体を祀り、また尼寺も崇敬した。仏殿を作り、仏舎利を塔の柱頭に入れたりし、盛大に仏教信心の行事をした。」

 ところが馬子が病気になり、卜者 ( うらへびと ) にたずねてみると、父(いなめ)の時の祀り方が仏の御心に合わなかったからだと言いました。

 「このことを馬子が天皇に申し上げたら、〈卜者のいう通り、父の仏を祀るがよかろう〉ということだったので、石の仏像を拝んで延命を祈願した。」

 するとまた国中に疫病が起こり、民衆の間に多くの死者が出て、物部尾輿の子守屋と中臣鎌子の子勝海が天皇に申し上げたと言います。

 「どうしてわれわれ ( 天孫降臨派氏族 ) のいうことを、お聞きくださらないのですか。先帝の時も今も、疫病が多く、このままでは人民がいなくなってしまいます。これはすべて蘇我氏が、仏教を興したからではありませんか。」

 「お前たちのいうことは、きわめて明らかである。仏教をやめさせよ。」

 もともと仏教を信じておられなかった敏達天皇はそう言われ、物部守屋は寺へ行き塔を倒して火をつけ、仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に投棄したと言います。このままで話が終わると、父の代の争いを息子たちが繰り返したことになりますが、今度は違いました。

 「天皇も、物部守屋も天然痘にかかってしまった。しかも国中に流行し、かかった者は体が焼かれ砕かれるように痛いと、泣きながら死んでいった。それでみんなひそかに、これは仏像を焼いた罪のためではないかと思うようになった。」

 「自分の病気は、今になっても治りません。仏様の力をかりないことにはなおすことができません。」

 馬子が奏上すると、天皇がお応えになります。

 「お前は一人で仏法を行うが良い。しかし他人にやらせることは、やめよ。」

 馬子は寺を再建し、監禁されていた尼僧を迎えいたわりましたが、一方天皇は回復されずおかくれになりました。欽明天皇の御世と同じような豪族同士の争いなので、仏像についても、似たような後日談があります。

 愛知県の甚目寺(じもくじ)にある伝承を紹介します。

  ・伊勢国の海人豪族・甚目龍麿(はだめたつまろ)が漁をしていた

  ・当時海であったこの地で、観音像が網にかかった

  ・龍麿は近くの砂浜に堂を立て、安置したのが甚目寺のはじまり

 『日本書紀』では難波の堀江へ投棄したと書かれていますが、『甚目寺伝承』では海へ捨てられたとなっています。この時物部守屋が海へ捨てた仏像は三体で、それぞれ別の海岸で引きあげられ祀られていると言います。『日本書紀』と『甚目寺伝承』を読み比べますと、事実が少し異なり仏像の数も合いませんが、歴史学者でない私は気にしません。

  1. 観音像  ・・愛知県甚目寺

  2. 阿弥陀如来・・長野県善光寺

  3.  勢至菩薩 ・・安楽寺 ( 太宰府天満宮  )

 渡部氏の解説では、仏教渡来に関し4回の宗教戦争があったということで、そのうちの1. と2. を紹介しました。この段階では蘇我氏と物部・中臣氏の争いで、戦争とまでは言えませんが、3. と4. の段階では文字通り戦争となります。 

  1.  欽明天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い

  2.  敏達天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い

  3.  用明天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い

  4.  推古天皇の御世 ・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い ( 摂政・聖徳太子  )

 次回は、用明天皇の御世の宗教戦争の話です。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 30 ( 新氏族と旧氏族 )

2022-12-29 07:30:09 | 徒然の記

 今回は、蘇我、物部、中臣氏に関する系譜を氏の解説に従い紹介します。古代から有力豪族が争ってきたことは知っていましたが、「宗教戦争」という視点から見たことはありません。

 それだけに新鮮な、新しい発見をしたような驚きがあります。氏のタイトルでは国際派貴族 ( 新氏族  ) が蘇我氏で、国粋派 ( 旧氏族  ) 貴族が物部・中臣氏になります。分かりやすく言うと、新氏族は天孫降臨と関係のない豪族で、旧氏族は天孫降臨と関係のある豪族という意味があるそうです。

 〈 蘇我氏の系譜 〉

   ・蘇我氏は、第八代孝元天皇を祖とする氏族

   ・「三韓征伐」の主役の一人である武内宿禰 ( たけのうちのすくね  ) の子孫

   ・以来朝鮮半島との関係が深かった氏族

 〈 物部氏の系譜 〉

   ・物部氏は饒速日命 ( にぎはやひのみこと ) の子孫

   ・この神は大和に降臨し、神武天皇の大和平定を助けた豪族

 〈 中臣氏の系譜 〉

   ・天児屋尊 ( あめのこやねのみこと ) を先祖とする氏族

   ・この神は天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、その岩戸の前で祝詞 ( のりと  ) を申し上げたという

   ・高天原 ( たかまがはら  ) 時代の最重要の神であり、天孫降臨の際にニニギノミコトのお供をして、日本に降りてきた

 私にすれば3氏共、一括りにして古代日本の豪族ですが、夫々ちゃんと区別がありました。神話的伝承が歴史の事実とされていた時代の人々ですから、天孫降臨系の旧豪族にとっては、外国の仏教を取り入れようとする蘇我氏はとんでもない新豪族ということになるようです。

 欽明天皇は百済の聖王から献じられた仏像を見て、「相貌端厳 ( みかおきらきら ) し」と言われ、「敬うべきか否か」を群臣に問われたと言います。群臣を代表する3氏の答えです。

 蘇我稲目 ( そがのいなめ ) の答え

  「西の国々では皆ひたすら敬っていますから、日本だけが敬わないのは良くないでしょう。」

 物部尾輿 ( もののべのおこし ) と、中臣鎌子 ( なかとみのかまこ  ) の答え

  「わが国は日本で、天下に王 ( きみ ) たるお方は、天神地祀、百八十神を一年中、春夏秋冬にわたって祭り拝むのがその仕事です。今急に外国の神を拝まれるならば、おそらくわが国固有の神々が怒られるでありましょう。」

 そこで欽明天皇は仏像を礼拝することを思いとどまられて、願望している蘇我稲目に下賜されました。稲目は大喜びで寺を作り祀ったのですが、その直後から疫病が流行し、多くの人が死にました。疫病は長く続き、治る気配がなかったと言います。

 「私たちが申し上げたことをお聞きにならなかったので、こんな疫病で死ぬ人が多く出ているのです。早くその仏像を投げ捨てれば、必ず良いことがあるでしよう。」

 物部尾輿と中臣鎌子が天皇に奏し、「じゃあ、そうしなさい。」と欽明天皇が言われ、役人たちが仏像を難波の堀江に放り捨て、寺も焼き尽くしてしまったそうです。

 これを宗教戦争というのか判然としませんが、その後疫病が鎮まったとも書かれていません。

「旧氏族は、蘇我氏などの新氏族が外国の仏教を導入することに反感を持ったのであり、その心情は理解できるし、主張の根拠もそれなりに通っている。」

 渡辺氏はこのように述べ、仏像の後日談を紹介しています。

 「後世の縁起物語では、この仏像が通りかかった信濃の人本田義光に、泥の中から呼びかけたことになっている。」「義光が怪しんで見ると、黄金の仏像である。義光は仏像を拾い、郷里に持ち帰って祀った。」「これが長野の善光寺の起源である。」

 今の私たちは知りませんが、昔は有名な話だったらしく、氏が江戸時代の川柳を三句紹介しています。

 ・義光と呼ぶは仏の土左衛門

   ( 仏像も堀江にはまっていたのでは、土左衛門に違いない )

 ・義光も木佛ならばうっちゃる気

   ( いかにも川柳らしい。金目のものだから拾ったのだろうという冗談 )

 ・善光は掘り出し物の元祖なり

   (  これは三韓渡来の仏像。日本最古の仏像なので、文句なしの掘り出し物、しかも堀江の泥の中から掘り出した )

 次回は、敏達天皇の御世の宗教戦争の話です。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 29 ( 蘇我氏対物部・中臣氏の争い )

2022-12-28 17:06:55 | 徒然の記

   四闋 四天王  ( してんわう )    用明天皇の「改宗」     5行詩

   五闋 大兄靴   ( おほえのくつ )   大化の改新                      7行詩

   六闋 復百済   (くだらをふくす)     白村江の戦い                  9行詩

   七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                7行詩

 今回は、シュナイダー教授と氏の会話を紹介します。

 〈 渡 部 〉

   ・日本の天皇は古代の神々の直系ということになっており、今でも神道の最高司祭のような方です。

 〈 教 授 〉

   ・それは、古代のゲルマン人の間でもそのようなものだった。仏教が来た時、天皇はどうしたのか。

 〈 渡 部 〉 

   ・日本では神道と仏教が共存しました。天皇が仏教の寺院を建てられたり、皇子や皇女が仏門に入ったり、天皇だった人が仏門に入る(法皇)になることもよくありました。

 〈 教 授 〉 

   ・天皇が神道の最高司祭であって、仏教徒でもあるようなことはいつ頃からなのか。

 〈 渡 部 〉

   ・六世紀末で、イギリスに聖アウグスティヌスが来た頃です。  

 会話の後自宅へ戻り、氏は教授の質問に正しく答えていなかった自分に気づきます。仏教渡来時の天皇について聞かれていたのに、そのことについて答えていなかったからです。

 「私自身最初に仏教に改宗した天皇について、聞いたことがなかった。日本史の本や年表を持ってきていたのに、どこにも〈天皇の改宗〉ということは書いてなかった。ヨーロッパならば、コンスタンティヌス大帝の改宗から始まって、王様や皇帝の改宗ということは重大事件である。」

 しかし日本では〈天皇の改宗〉について、歴史家の意識にほとんど上っていなかったのだということに気がつきます。帰国後に『日本書紀』を丁寧に読み、最初に仏教に改宗した天皇が用明天皇であることを知ります。

 「私の知る限り日本史の本では、古代の仏教については、欽明天皇の御世(538年)に仏教が渡来したとか、聖徳太子が仏教を興隆したとかいう話が中心で、どの天皇が最初に改宗したかという話は、無視されていたと言って良いと思う。」

 言われてみればその通りで、私も改宗した天皇について教わった覚えがありません。そもそも神道の最高位におられる天皇が、他の宗教へ変わられるなど考えたこともありませんでした。

 「頼山陽も、天皇改宗という問題意識は鋭くなかったようで、『日本学府(がふ)』においても、すぐに聖徳太子と四天王の仏像の功徳を扱う闋(けつ)となっている。しかし日本で仏教に改宗なさったのは、聖徳太子の御父の用明天皇である。」

 頼山陽の詩の背景にあるのが、4回の宗教戦争だったというのが氏の解釈です。用明天皇になられるまで、欽明天皇と敏達天皇がおられ、それぞれの御世に仏教に関し争いが起こっています。事件そのものは『日本書紀』に書かれているが、歴史家がこの争いを「宗教戦争」と見なかっただけであるというのが、氏の解釈です。

  1.  欽明天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い

  2.  敏達天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い

  3.  用明天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い

  4.  推古天皇の御世 ・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い ( 摂政・聖徳太子  )

 4回とも、蘇我氏対物部・中臣氏の争いとなっており、氏はこれを「六世紀における国際派と国粋派の戦い」とタイトルをつけています。どうしてそうなるのかは、蘇我、物部、中臣氏の系譜を読むと分かります。4回の宗教戦争の内容を知る前に、興味深い各氏の系譜を紹介します。今の日本は、保守対反日左翼勢力の対立・争いとなっていますが、当時は国際派と国粋派の争いだったということになります。

 古代から日本は、保守と外国に影響された勢力とが争ってきた事実を知ると、なんだそういうことだったのかと思えてきます。徳川300年間の鎖国時代が例外だった訳で、他の時代は国粋派が国際派と対立していました。これが普通の状態なら、今をめくじらを立て大騒ぎする必要もなさそうです。

 「外国の影響は受けても、日本の国そのものの本質は変わらないで続いている。考えている以上に日本は、柔軟性のある国ではないのか。」

 暮れも押し詰まった慌ただしい毎日ですが、大掃除や買い物の合間を縫い、余裕を持ってブログへ向かえる有り難さです。平常心を失わず、次回は氏が解説する蘇我、物部、中臣氏の系譜を紹介します。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 28 ( ドイツ留学での発見 )

2022-12-28 09:29:30 | 徒然の記

   四闋 四天王  ( してんわう )    用明天皇の「改宗」     5行詩

   五闋 大兄靴   ( おほえのくつ )   大化の改新                       7行詩

   六闋 復百済   (くだらをふくす)     白村江の戦い                  9行詩

   七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                7行詩

   八闋 和気清    ( わけのせい )    和気の清麿と道鏡       6行詩

 本の構成に従い、本日は四闋(けつ)の内容を紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉

   皇子は 頭 ( かしら  ) に四天王を戴き 

   大連の箭 (や ) は 傷つくるを得ず

   汝の家をすきて 我が家を建つ

   伽藍雲に連なりて 七宝輝く

   四天王の外 天王なし

 〈 「大 意」   ( 徳岡氏 )  〉

   聖徳太子は 頭に四天王を頂いて戦った

   大連 ( おおむらじ  )物部守屋の矢は、だから太子を傷つけることができなかった

   そなたの邸宅の後に 仏の寺を建てようぞ

   伽藍は高々と雲に届きそうに聳え 七宝の荘厳がてりかがやく

   四天王の外に 天王と呼ぶべきものはない

 頼山陽の「書き下し文」と徳岡氏の「大意」を読んでも、なんという感慨も湧きませんが、渡部氏の解説を読むと内容が生々としてきます。

 〈「解 説」    渡部氏 )     

  「日本には、ヨーロッパにおけるような宗教戦争がなかったと、よく言われる。たしかに中世や近世において、あるいは近代において宗派や宗教の間で、血を流すような戦争をやったことはないと言ってよかろう。」

 「しかし六世紀の後半には、仏教渡来に伴って、宗教戦争らしきものはあった。ただわれわれが教えられたきた日本史では、その頃のごたごたを〈宗教戦争〉というふうに把握していなかったので、何となく〈日本には宗教戦争なし〉という印象が残ったのだと思う。」

 氏は宗教戦争の本場とも言えるドイツに留学した時、「天皇の改宗」と「宗教戦争」について目を開かせられたと言います。

 「イギリスもドイツも、キリスト教が来るまではゲルマンの神々の地域であった。」

 ゼウスやアフロディテなどというギリシャ神話の神々を信じていたギリシャが、今ではギリシャ正教の国になっているのはなんとなく知っていましたが、イギリスやドイツが似たような道を辿っていたとは意外でした。ドイツの大学で氏の指導教官だったシュナイダー教授は、キリスト教渡来以前のゲルマン人の宗教や文化の権威だったそうです。

 ある時教授の自宅に招かれた時の会話が、氏の目を開かせたと言います。次回は氏が語るシュナイダー教授との会話を、省略せずに紹介します。ここで私が注目したのは、やはり「日本の特殊事情」でした。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 27 ( 仁徳天皇の人となり )

2022-12-25 18:48:36 | 徒然の記

 仁徳天皇の人となりについて、渡部氏の解説を紹介します。

 「応神天皇は晩年に、年の若い菟道稚郎子 ( うじのわきいらつこ )を皇太子に立て、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと) ( 後の仁徳天皇 )を補佐役とし、長男の大山守命 ( おおやまもりのみこと  ) を山川林野の監督役にした。」

 「当時は必ずしも長子相続でなく、可愛い子を皇太子にした例である。」

 父系相続であれば、長男に拘らない時もあったのだと知りました。そうなるとやはり、問題が生じます。

 「応神天皇が亡くなられると、大山守命は自分が皇太子にしてもらえなかったことを恨み、皇太子を殺して自分が皇位につこうとする。これを知った二人の兄弟が協力して、謀反を起こした大山守命を川に落として殺してしまう。」

 可愛いからと一人の子を溺愛すると、後々の不幸につながると言う話ですが、ここで氏の注釈が入ります。

 「このように『記紀』には、天皇とその近親者の殺し合いのことがかなり多く書かれていて、左翼史家の言うように、皇室美化の歴史だとはとても思われない。」

 歴史を飾るために、凡庸な人物が傑出した偉人になったり、非凡な人間として語られる例がいくらもあります。かって読んだ『金○成伝』は、その良い例でした。

 「菟道稚郎子は、自分が兄をさしおいて皇太子になったのは、常道に反すると言って即位しない。兄の大鷦鷯尊も、先帝が決められたことだから自分が即位するわけにいかないと、これまた即位しようとしない。このような状態が3年も続いた。」

 「それで漁師が魚を献上しようとしても、どちらも自分が天皇でないと受け取られないので、菟道と難波を往復しているうちに鮮魚が腐ると言うこともあったと伝えられている。」

 『古事記』に書かれているとは言え、この辺りになりますと、初めて聞くことばかりです。

 「皇太子の菟道稚郎子は、どうしても兄が即位してくれないので、自分が長生きしていると天下の災いになると言って、自殺してしまった。それを嘆く大鷦鷯尊の様子など、『日本書紀』は詳しく記述している。」

 「皇太子はこうして夭折されたので、大鷦鷯尊が即位された。これが仁徳天皇である。」

 応神天皇の三人のお子が、順に大山守命、大鷦鷯尊、菟道稚郎子の三人であったことを知りました。もしかするとこれを教訓として、長子相続が守られるようになったのでしょうか。

 「今まで繰り返した詠嘆をもう一度繰り返すならば、アカデミックな権威ある年表と見なされる、歴史研究会編の『日本史年代表』( 岩波書店・昭和41年 ) には、仁徳天皇の名前が一度も出してもらえないと言うことは、何たることであろうか。」

 珍しく年表名が出されていますので、ネットで検索してみることにしました。簡単なようで難しい作業で、該当の本がなかなか見つからず、見つかったと思うと肝心の執筆者名が書かれていません。ネット販売のため、表紙や裏扉などが写真撮影してあり、何人かの学者の名前が見えました。開かれたページが曲がっているため、全員を確認できませんでしたが、読み取れた学者名を紹介します。中には学者と言えない朝日新聞記者の名前もありますが、そのまま転記します。

 遠山茂樹  松島栄一  新田英治  原田勝正  藤原彰  前川明久  百瀬今朝夫

 中村尚美  彦由一友  古島和雄  山口啓二  稲垣武 ?

 岩波書店も氏が言うほどに権威のある書店でなく、反日左翼の学者や評論家の悪書を数多く出版していますから、要注意です。「年表」の話に深入りせず、氏の解説に戻ります。

 「上代の天皇の中には、大仏を建立したり、大寺院を造営した方もおられる。それは宗教のことで国家鎮護・万民安寧の祈りのためであり、自分の宮殿を豪華にしようと言う情熱は、日本の皇室には甚だしく薄いのである。」

 「平安朝には唐の影響で都を大きくしようとしたが、宮廷そのものの贅沢さは大したことはない。皇室は贅沢してはいけないのだと言う、仁徳天皇以来の心理的チェックの要素があったと、考えられる。」

 「明治天皇は先祖崇敬の念の強い方であったから、倹約についてのエピソードは数多くある。昭和天皇も皇居造営には熱心でなく、国民の方を先にするようにとのご意向であった。」

 「日本が経済大国として再浮上すると、国際儀礼的にも宮殿が必要になり、新しい建物が作られるようになったが、その時も陛下の希望は質素ということだったと伝えられている。今の皇居が立派なのは、徳川幕府の城跡だったからである。」

 「徳川時代の江戸城はさらに巨大だったし、大阪城も然りである。その一方で京都の皇居は、大身の旗本屋敷か大名の下屋敷と大差なかった。江戸城が皇居になってからも、仁徳天皇以来の理念は生きているというのに、その仁徳天皇が歴史から抹殺されているのは、歴史というものを知らない学者たちのためである。」

 繰り返される氏の詠嘆を読んでいますと、左翼学者の罪深さが分かります。ホイットニー准将から「日本国憲法」の草案を受け取った、東大の左翼学者たちが明治憲法とのつながりを捏造したことだけを重要視してきましたが、こんなところまで手を突っ込んでいました。

 許し難い彼らへの「詠嘆」が、最後の締めくくりにも書かれています。

 「仁徳陵という遺物があるだけでなく、『日本書紀』や『和漢朗詠集』を通じ、庶民の川柳にまで浸透しているというのに、仁徳天皇が全く存在しないという発想は、どう考えてもまともでない。」「キリスト教会があるのに、キリストはいなかったと言った歴史家と同列と見て良いであろう。」

 氏は「詠嘆」という言葉を使いますが、私なら「怒り」としか言いません。

 次回は63ページ、

  「 四闋 四天王  ( してんわう )   用明天皇の「改宗」  5行詩  」

 の書評へ進みます。

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 26 ( 仁徳天皇の仁政 )

2022-12-24 19:56:04 | 徒然の記

   一闋 日出処 ( ひいずるところ )  「日本」という国名の起源   6行詩

   二闋 三韓来 ( さんかんきたる)  古代の大英雄、日本武尊   11行詩

                     神功皇后の「三韓征伐」

   三闋 炊煙起 ( すゐえんおこる  )  仁徳天皇の仁政       6行詩 

 最後の二行に関する、渡部氏の解説を紹介します。

  ・一方民衆の方では、みんな豊かになり家にも蓄えができ、落とし物を拾う人もいなくなった。

  ・自分たちがこんなに豊かになったのに、宮殿の修理もしないでいては天罰が当たると人々が申し出ても、天皇はお許しにならなかった。

  ・ようやく治世10年の10月に宮殿を造ることになったが、上から促されなくとも、老若を問わず民衆が自発的に材料を選ぶなどして、昼夜の別なく競走するように働いたと言う。これが、次の二行の詩の背景である。

  「八洲に縷縷たり 百萬の煙」

  「皇統をそうようして 長く天に接す」

 「この話はあまりにも美談的であるが、仁政を行われた天皇であることに間違いない。このような善政が続けば、この大八洲(おおやしま)の民は富み、炊煙が縷縷として立ち昇ったことであろう。」

 「ここで頼山陽が述べているのは、『日本書紀』の記述を詩によってまとめると共に、日本における皇室と国民のあり方を示す理念を語ることであった。」

 氏の解説が終わりますが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介したいのは、続く氏の次の意見です。

 「『日本書紀』の記述で、仁徳天皇の事績は主として国内のことに限られている。新羅が朝貢を怠ったので催促したと言うことが、二、三件記されているが、遠征もなければ、侵略もされなかった。このような天皇の事績について、外国の歴史書に記録が残っているわけがない。」

 「ところが戦後の日本の専門家たちは、外国の記録にあるものしか資料としてまともに考えなくなったので、仁徳天皇の名は年表にも入れらず、それを取り扱えば右翼的だと左翼に非難されている。」

 やはり氏の意見は、ここに集約されます。

 「交通も通信も極めて不自由な古代の歴史を、外国の歴史書によって再編成しようと言うことほど、おかしなことはない。」

 何と言う学者が、どんな歴史書を書いているのか、具体的に氏が述べていないので紹介できないのが残念です。歴史をきちんと整理せず、曖昧のままにしているから、GHQの押しつけ憲法で過去を否定されても、何も感じない人間が生まれてきます。著名な学者たちが、イデオロギーを優先し過去を改竄するから、おめでたい「お花畑の住民」が増えます。

 渡部氏が指摘している問題点は、現在の私たちに直結しており、過去の話で終わっていません。日本の戦争が自衛のためであったことを教えられていないため、歴史を知らない左翼活動家たちが、国を守るための自衛隊の整備に反対しています。敵対国の核爆弾で、一瞬のうちに国民もろとも破壊されると言うのに、反撃は憲法違反と寝言を言っています。

 12月17日の千葉日報の記事が、日本の無惨な実情を語っています。防衛費増と、安保三文書の閣議決定に関する、2ページ全面を占める反対記事です。

 「反撃力保有へ歴史的転換」「長射程ミサイル26年配備」

 「兵器で国民守れない」「戦争ヘの道たどるのでは」「慎重審議求める声も」「攻撃対象になる」

 中国、北朝鮮、ロシアの核ミサイルが、日本の都市と在日米軍基地に照準を合わせ、配備されていると言うのに、反日左翼と自民党内のリベラルと称する議員たちは、何を考えて反対しているのでしょう。

 歴史を大切にしない馬鹿者には、日本を大切にする心がありません。自分の国を愛することもできず、憎むべき自民党と共に国ごと消えて仕舞えば良いと、自暴自棄になっています。歴史教育を軽んじてきた戦後が、こうした一部の国民を育てたことを考えますと、渡部氏の意見を真面目に受け止めずにおれません。

 「仁徳天皇については、自国の歴史 (『日本書紀』の記述 ) では、20ページもの記録がある。」「固有名詞の地名・人名が沢山あり、兄を殺した話も、皇后が不従順だと言う話もある。左翼史家の言うような、皇室美化の歴史書だとはとても思われない内容である。」

 「重要なことは、仁徳天皇の行為が日本の統治理念として、その後も日本の歴史に定着したことである。」

 反日左翼学者たちは、どうやら朝鮮の『三国史記』を元に『記紀』の記述を否定しているようですが、ハッキリと説明していません。平成2年の出版ですから、当時は今以上に反日左翼勢力が幅を利かせていたため、具体的に語れなかったのかもしれません。頼山陽の詩と離れた解説になりますが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には、紹介しようと思います。

 仁徳天皇について、次回も続けます。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 25 ( 民のかまど )

2022-12-24 17:13:35 | 徒然の記

 久しぶりに、書評に戻りました。青色表示の三闋(けつ)です。 

   一闋 日出処 ( ひいずるところ )  「日本」という国名の起源   6行詩

   二闋 三韓来 ( さんかんきたる)  古代の大英雄、日本武尊   11行詩

                     神功皇后の「三韓征伐」

   三闋 炊煙起 ( すゐえんおこる  )  仁徳天皇の仁政       6行詩 

 本の構成に従い、内容を紹介します。

 〈「書き下し文」(頼山陽) 〉

   煙未だ浮かばず 天皇愁う 

   煙已に起こる 天皇喜ぶ

   漏屋へい衣 赤子を富ましむ

   子富みて父貧しき この世の理なし

   八洲に縷縷たり 百萬の煙

   皇統をそうようして 長く天に接す

 〈 「大 意」(徳岡氏)  〉

   民のかまどの煙が立たず、天皇は心配した

   やがて煙が立つようになって、天皇は喜んだ

   雨の漏る家、破れた衣に堪えて国民を富ませた

   子が富んで 父が貧しいわけはないのだと

   国中に縷縷としてたちのぼる百万の炊煙が

   皇統をむらがりつつんで、長く天につらなっている

 〈「解 説」(渡部氏) 〉   

   ・仁徳天皇の四年の春二月、高殿に登って国を望見なさったが、炊事をする煙が見えなかった。

   ・これはきっと民が疲弊しているからであろう。これから3年間は年貢などを免除し、百姓(こくみん)の生活を楽にしてやろうと言われた。

   ・これが、「煙未だ浮かばず 天皇愁う」という一行の意味である。

   ・そのため天皇の着物や履き物が破れてきたが、そのままにした。食事も倹約し、垣根が壊れても修理させず、屋根が傷んでも葺き替えさせなかった。

   ・その後3年間気候も順調で、百姓は豊かになった。百姓の間にも、御世を讃える声が上がった。

   ・高殿に登ってみると、至る所から炊事の煙が上がっている。それで天皇は皇后岩の媛の命 (いわのひめのみこと) に、「自分はもう豊かになった。これで心配することはない。」と言われた。

   ・これが、「煙已に起こる 天皇喜ぶ」とい一行の意味である。

 『日本書紀』によると、皇后は頑固者で天皇の言うことをなかなか聞かない女性だったそうです。垣根が壊れても修理せず、破れた屋根で着物が濡れる有様なのに、どうして豊かになったと言われるのか。子が豊かになっていて、親が貧しいと言うことは理に合わない、皇后は意味が分からないと問い返されたと言います。次が天皇の言葉です。

   ・そもそも君主というものがあるのは、百姓のためである。昔の君主は百姓が一人でも飢えたり凍えたりすれば、自分の責任として反省したと言うではないか。百姓が貧しいと言うことは、自分が貧しいことである。百姓の富は、とりもなおさず自分の富である。

   ・これが、「漏屋へい衣 赤子を富ましむ」「子富みて 父貧しきこの世の理なし」という二行の背景である。

 皇后が頑固な女性だったと言うことを除けば、それ以外は有名な話ですから、知っている人も多いと思います。皇后が天皇の言葉を素直に聞かなかったと言う事実を教えられると、今も昔も夫婦は似ているのかと親近感が湧きます。頼山陽の詩が二行残っていますが、スペースの都合で次回にします。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 24 ( 津田左右吉氏等々 )

2022-12-22 18:08:42 | 徒然の記

 津田左右吉氏は明治6年生まれの歴史学者で、昭和36年に88才で亡くなっています。故人の酷評をなるべく控えたいので、ウィキペディアの説明をメインに紹介します。

 ・『記紀』を資料批判の観点から研究したことで知られ、日本における実証史学の発展に大きく貢献した。昭和22年帝国学士院会員選出。昭和24年文化勲章受章。従三位勲一等

 ・津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを、学術的に解明した点である。

 ・大正8年の『古事記及び日本書紀の新研究』、大正13年の『神代史の研究』が代表成果作である。

 ・津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は、系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。

 ・これらの部分は、朝廷の官人の政治的目的による造作の所産であり、記紀神話は皇室が国民を支配するという思想を前提に、それを物語として展開していったもので、神武東征もその一部であるとした

 学生時代に読んだ氏の記憶と、ウィキペディアの説明が頭の中でつながりません。今も、誠実で温厚で偏見のない学者のイメージがあります。渡部氏の説明と、ウィキペディアの解説を並べますと、津田氏が歴史を改竄した反日左翼学者の一人ということになります。津田氏の話では、戦前に天皇について調べようとした時、学内だけでなく、学界の学者たちから猛反対を受け、研究を断念させられたということでした。

 ウィキペディアの解説では、大正8年に『古事記及び日本書紀の新研究』、大正13年に『神代史の研究』を完成しています。研究を断念させられたのでなく、猛反対の中で出版したのでしょうか。歴史のつなぎ目について、曖昧な部分が多いので想像するしかありませんが、戦前の不遇が戦後のGHQ下の反動で逆に評価され、昭和22年の帝国学士院会員選出、昭和24年の文化勲章受章、従三位勲一等へとつながったのでしょうか。

 敗戦を境に、日本の思潮が大きく反転したことは事実です。戦後に変節した学者が沢山いたことを思えば、節を曲げなかった氏に敬意を表しますが、日本にとっては有り難くない人物だったことになります。

 ネットで検索していましたら、「邪馬台国の会」のホームページを見つけました。昭和58年に作られた、日本の古代史愛好会員の集まりだそうです。

 「『古事記』『日本書紀』などに記されているいわゆる日本神話が、史的事実とは、まったく関係がないことは、すでに、証明ずみであり、神話から邪馬台国の所在をさぐろうとするのは、邪馬台国問題じたいの研究史からみるとき、学問の逆行である。」

 今も残る日本史の謎は、「卑弥呼の邪馬台国」の存在です。『古事記』『日本書紀』に記述がありませんが、『魏志倭人伝』には詳しく書かれています。西暦280年頃、中国の陳寿という人物が書いた書です。『古事記』は西暦712年、『日本書紀』は720年に編纂されていますので、『魏志倭人伝』の方が400年以上前の書です。

 「邪馬台国の会」は、古代史愛好家の会ですが、毎月の例会で講演するのは有名大学の教授です。邪馬台国の存在を信じる人物がほとんどだということは、『古事記』『日本書紀』の記述を事実と認めない学者の集まりとも言えます。教授たちの意見が氏名・大学名と共に詳しく紹介されています。東京大学、東京教育大学、日本大学、東洋大学の中でも、多数を占めているのはやはり東京大学です。紹介するのは簡単ですが、それをするとgoo事務局から警告が来るだけでなく、また100人以上のトラッカーが「ねこ庭」へ侵入してきます。

 煩わしさに辟易していますので、学者名を知りたい方は「邪馬台国の会」を検索されることをお勧めします。

 こうした学者の意見が大勢を占めている結果として、先日紹介した宮台真司教授の東大での指導教官も『古事記』『日本書紀』の記述を事実と認めない学者の仲間でないかと思います。

  広松渉教授・・元共産党員
  小室直樹教授・・保守言論人
  見田宗介教授・・・曖昧マルキスト
  吉田民人教授・・上野千鶴子氏と宮台氏の恩師

 次回は学者の話を止め、「三闋 炊煙起 ( すゐえんおこる  ) 仁徳天皇の仁政へ進みます。

   一闋 日出処 ( ひいずるところ )  「日本」という国名の起源   6行詩

   二闋 三韓来 ( さんかんきたる)  古代の大英雄、日本武尊   11行詩

                     神功皇后の「三韓征伐」

   三闋 炊煙起 ( すゐえんおこる  )  仁徳天皇の仁政       6行詩 

   四闋 四天王  ( してんわう )    用明天皇の「改宗」     5行詩

   五闋 大兄靴   ( おほえのくつ )   大化の改新                         7行詩

   六闋 復百済   (くだらをふくす)     白村江の戦い                    9行詩

   七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                  7行詩

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本史の真髄』 - 23 ( 日本の特殊事情 )

2022-12-21 17:08:12 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

 「日本史から消えた事実」の続きを紹介します。

  ・応神天皇は阿直岐に、「お前より優れた博士 ( ふみよみびと  ) がいるだろうか。」と聞かれた。」「王仁 ( わに ) という、もっと優れた者がいます。」と言われ、早速応神天皇は家来を百済に派遣した。」 

  ・王仁が招聘され、皇太子の菟道稚郎子 ( うじのわきいらつこ ) の師 ( ふみよみ ) になり、もろもろの経典 ( ふみ  ) を教えることとなった。

  ・かくして王仁は、書首 ( ふみのおびと ) らの始祖になった。つまり日本の漢字の始まりは、応神天皇の御世にあった。

  ・それというのも、天皇と母后の時代に、三韓、特に百済との交流が親密になったためである。

 次の説明は大事なことなので、箇条書きを止め、氏の言葉を紹介します。

 「実はこのことは、頼山陽の『日本楽府(がふ)』の中には扱われていないが、戦後日本の歴史年表には、王仁も阿直岐も出ていないので、書き加える必要を感じたのである。

 「日本への学問渡来という、文化史上の重大事件に対して、日本の歴史年表が無視の態度をとるのは、結局、神功皇后と応神天皇の事績を認めたくないからであろう。」

 「典籍は古代においては、宝物と同じ貴重品である。その渡来が何となく行われた訳はなく、しかるべき学者が持参したに違いない。輸入書籍商がいたわけではないのである。」

 「その最初の学者の名前も、最初の弟子も、日本の正史である『日本書紀』は明記している。それどころか王仁を迎えるために派遣された人たちの名前も、その家来も明記してある。それを年表で無視するというのは、どういう気なのであろうか。」

 氏の著書の目的は、頼山陽の漢詩『日本楽府』の解説です。「書き下し文」(頼山陽)→「大意」( 徳岡久生氏 )→「解説」( 渡部昇一氏 ) という本書の構成に従い、順番に中身を紹介してきました。氏自身が構成を無視して横道へ逸れ、反日学者たちの日本史改竄について言及するのですから、憤りの大きさが伺えます。

 単に反日左翼学者というだけでは、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、漠然とした話で終わります。具体的にどういう学者がいるのか、私も横道へ逸れて確認したくなりました。

 真っ先に浮かぶには津田左右吉氏ですが、良心的な歴史学者の印象が強いので、氏を反日左翼学者と断定するには、今も躊躇いがあります。氏は私が常々批判する東京大学でなく、早稲田大学の教授です。『記紀』を否定する学者の一人と断定する根拠は、以前読んだウイキペディアの説明にあります。

 実証主義に基づいて、日本史の見直しをした功労者の一人とされていますので、実証主義とは何なのか、言葉の定義から調べました。ウィキペデイアの説明です。

 「歴史学における実証主義者は、厳密な資料批判を行い、科学的な規律を確定し、事実のみに基づいた歴史記述を行うものである。」「彼らは、歴史を特定の立場に都合よく利用する思想を排し、科学的・客観的に歴史を把握しようという立場から主張する。」

 書かれていることは、学者の姿勢として当然の内容です。しかし問題は、この叙述にある気がします。

 「彼らは、歴史を特定の立場に都合よく利用する思想を排し、」

 現在の私たちが読めば、反日左翼学者たちがしていることと思いますが、学生時代に津田氏の著作を読んでいる私は、別の意味に解釈します。戦前に氏は天皇について調べようとした時、学内だけでなく、学界の学者たちから猛反対を受けています。天皇の存在について詮索するのは、とんでもない不敬罪でけしからんと、研究を断念させられた経験を持っています。

 氏にいわせると、「歴史を特定の立場に都合よく利用する思想」というのは、頑迷固陋な学者の「皇国史観」だったということになります。同じ言葉が時代の変遷とともに変化する不思議さを、私は「時の魔法」と呼びますが、今もそんな気持でブログに向かっています。

 多様な意見を認めることの難しさは、マスコミの報道でも分かりますし、「温故知新」の読書でも教えられます。一つの意見が絶対とされる社会が大抵歪んでいるのは、日本だけでなく、米国、ロシア、中国、韓国・北朝鮮、イスラム圏の国々を見ても分かります。

 大事なのは少なくとも「両論併記」で、対立する意見が存在していれば、バランスが取れます。しかし同時に私を悩ませるのは、「日本の特殊事情」です。保守と左翼が対立するだけならどこの国にもある話ですが、日本の左翼は自分の生まれ育った国そのものを否定します。歴史も文化もご先祖さまも、みんな間違った戦前につながっているとして憎み、軽蔑します。

 過去に何度も述べてきましたが、私が知る限り、社会主義の国でも、イスラム圏の国でも、彼らは自分の国そのものを否定していません。かっては偉大な国だったと誇りを持ち、そんな国へ戻ろうとして、現在の政権を攻撃しているだけです。笑う人もいますが、人類がある限り、私は次のことを普遍の事実として信じます。

  ・捻くれ者は別にして、多くの国民は自分の国を愛し、誇りを持っている。

 次は日本人だけに通用する、普遍の事実と信じていることです。

  ・捻くれ者を別にして、多くの国民は昔から天皇陛下を敬愛し、国民を束ねる中心におられると思っている。

 日本では、この二つを否定する政党と思想は、ご先祖から受け継いできたDNAが反対します。共産党の委員長が他国では国の頂点になりますが、日本では天皇陛下が国民の心の中心におられます。

 「プロレタリアートの独裁」など、日本にはそもそもマルクス主義が根づく土台がありません。金に転び女性に転び、自己保身だけに走り、国民の負託を忘れた自民党議員が沢山いるので、政権の座にある自民党を批判するのなら、それは結構なことです。反日左翼主義者が前記2点に気づいて、別の政治理論を立てられれば良いのですが、後ろ盾の学者たちが反日左翼一辺倒では、現状維持が関の山でしょう。

 私の思いを理解してくれる人がいるのかどうか、惑いつつ、ためらいつつ、次回は津田左右吉氏について述べようと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする