ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『敗戦日本の内側 』- 6 ( 昭和天皇のお言葉 )

2018-02-28 15:40:00 | 徒然の記

 松岡外相の続きです。氏の本から、そのまま紹介します。

  ・昭和15年の組閣当時は、一にも総理、二にも近衛公、近衛公を立て、なんでも総理に相談し、あくまでも総理を援けるという松岡氏であった。

  ・ところが独伊ソ訪問から帰った氏は、もはや以前の松岡氏ではなかった。

  ・彼は、日本のヒットラーになったのである。

  ・近衛なにするものぞ。陸軍がなんだ。そんなことでは、今日の外交はやっておれない。

  ・松岡一人ある限り、日本国民よ安心せよ。陛下も、ご安堵願いたい。私に、一切任せておけばいいんだ、という態度であった。

 4月22日に帰国して以来、松岡外相は米国への回答を故意に遅らせ続け、5月8日に陛下に拝謁しました。そして次のような意見を述べています。

  1. 米国が参戦した場合、日本は独伊側に立ち、シンガポールを打たねばならない。

  2. 独ソの衝突があった場合、米国との中立条約を破棄し、ドイツ側に立ち支援する。

  3. いずれにせよ、米国に専念するあまり、独伊に対し信義にもとることがあってはならない。

 この後で近衛公は、木戸内大臣から次のように伝えられています。

  「松岡は陛下の御信任を失った。」

  「8日の松岡拝謁後、陛下は、外相をとりかえてはどうかと、仰せられた。」

 ドイツ駐在の大島浩一大使は次々と外務省に電報を寄せ、ドイツ首脳部が日米交渉に対し非常な反感と疑惑を抱いていることを、報告してきました。同時に彼は激越な調子で、日米交渉に対する自分の反対意見を述べました。富田氏の意見です。

 ・私も近衛総理と一緒に、大島大使の度重なる日米交渉への反対意見を、読んだことであるが、その文章は、中学生が書くような、興奮性文字で連ねられており、内容は日本大使でなく、ドイツ大使の主張でないかと、思わされるようなものもあった。

  松岡外相は、大島大使と一緒にドイツへ傾き、彼を通じて政府の内部情報をドイツ側に流していたと言います。

 陛下もそうした事情を知られた上で、外相交代を口にされたのかも知れません。松岡外相が意固地になり孤立していった原因の一つを、氏が説明しています。海軍が、アメリカ駐在のイギリス大使ハリファックスの、本国へ出した電報を傍受すると、次の内容だったそうです。

  ・野村がハルに対し、日本では陛下をはじめ、政府、陸海軍の首脳、ことごとく日米交渉の成立を希望しているのに、ただ一人、外相だけが反対している。

 戦前の日本は、米国駐在のイギリス大使の電報まで傍受していたのかと驚きましたが、氏には普通のことなのでしょう。松岡外相のことしか述べていません。

  ・これを知ったため、松岡の憤慨は極点に達することとなった。

 おそらくこれが、独立国日本の普通の情報活動なのだと思います。敗戦後の日本は諜報機関を失い、他国になされるがままのスパイ天国となっています。

 昭和16年6月22日、世界は独ソ戦争の勃発に驚かされます。富田氏の説明の主要部分を紹介します。

  ・松岡外相は、5時半、宮中に参内。

  ・独ソ開戦につき奏上したが、その際、

   日本はドイツと協力してソ連を打つべきこと、

   南方は一時手控えなくてはならぬが、早晩、戦わねばならぬこと、

   結局日本は、ソ、米、英を、同時に敵として戦うことになる旨を、勝手に申し上げているのである。

  ・陛下は大いに驚かれ、即刻総理の許へ行って相談せよと仰せになり、同時に木戸内大臣を通じて、松岡奏上の内容を伝えさせられた。

 ドイツが日本との約束を破りソ連と戦争を始めたため、三国同盟は基盤を失ってしまいました。ドイツの仲介でソ連に接近して、米英を牽制し、シナとの戦争を処理する計画も台無しになりました。

  ・しかし松岡氏は問題にせず、軍部大臣も、ドイツの破竹の進撃に目が眩み、「独ソ戦は、ドイツの圧倒的勝利で3、4ヶ月で終了すると、思い込んでいる始末である。

  ・岡本少将のごときは、宮中での連絡会の席上、ドイツは、遅くとも8月下旬までにモスクワを占領するだろう、との観測を述べたくらいで、誰も同盟の破棄など、真剣に考える空気はなかった。

 この間の事情を説明するものとして、氏が近衛公の手記を紹介しています。

  「事ここに至れば、ドイツとの同盟に拘泥することは、わが国にとりて危険なる政策である。」

  「危険と感じたる以上は、すみやかに方向転換を図らねばならぬ。」

  「ここにおいて、日米接近の必要が生じたのである。」

 氏の説明によりますと、当時は東条陸相も及川海相も、同様の気持ちであったと言います。公、がルーズベルト大統領と直接会談するという申し出は消えた訳でなく、まだ外交ルートとして生きていました。ところがここでまた、問題が生じます。

  ・ルーズベルト大統領は、7月4日付で、近衛総理に当てたメッセージを、直接送って来たのである。

  ・松岡外相宛でなく直接総理宛であったことは、いかにアメリカが松岡忌避であったか分かると同時に、このことが感情家の松岡をして益々反米感を懐かせ、日米交渉の妨害となったことは、その後、明らかな事実となって示された。

 米国で交渉していたのは野村大使で、日本ではグルー大使でした。松岡外相は、益々非協力的となり、問題は交渉打ち切りの時期だけであると主張するようになります。交渉をまとめようとしていた野村大使は、ハル国務長官と松岡外相の険悪な関係に窮し辞意を表明しました。

  ・かくして事態は、重外交問題を処理するどころではなくなってきた。

  ・公は陸海相と協議し、異見を持つ外相一人を辞めさせるのが適当と、そういう意見も成り立ったが、時局重大の折柄、総辞職するのが良いという意見に一致した。

 しかし陛下は、松岡だけを辞めさせられないかと仰せになりました。この折の、木戸内府と近衛公の意見を紹介します。

 木戸内府・・・ 

 ・この緊張した時局の中で、理由の不明確な政変は絶対避けるべきである。

 ・松岡一人が辞めるべきで、もし松岡が退かないならその時初めて総辞職となる。

 近衛公・・・

 ・組閣の当初、陛下も案ぜられ木戸内府も反対、その他多くの、松岡を知る人たちから、猛反対があったに拘らず、日米交渉を妥結させる唯一の同志として、能力ある者として、彼を推薦したのであるから、この責任は重大であり、辞表を提出すべきものと考える。

 第二次近衛内閣が総辞職し、ここまでが近衛公が直面した難局の一つでした。しかし次には、東条陸相が前に立ちはだかります。

 このまま紹介したいのですが、スペースがオーバーしてしました。頭を冷やすためにも、一息入れるのが良いのかもしれません。こう言う事実を知りますと、昭和天皇が松岡氏の靖国合祀以来参拝をお止めになられた話に辻褄が合います。

 歴史上の人物は、見る人の立場の違いで善人にも悪人にも変じます。氏の説明が客観的事実であるかどうかは、時の経過が証明するでしょうが、そう考えながらも、初めて知る事実の数々にただ驚いています。

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『敗戦日本の内側』- 5 ( 傲慢、不遜、非礼な松岡外相 )

2018-02-27 21:19:22 | 徒然の記

 息詰まるような政治の動きに、胸が苦しくなります。

 328ページの本を、やっと166ページまで読み進みました。日米戦争を回避するため、近衛公が心血を注いだ行動がつぶさに書かれています。この時点での意見は、一言です。

 「日本を破滅に追いやった張本人は、松岡洋右外務大臣だった。」

 昭和天皇を初め、内閣の主要大臣、陸・海軍の大臣も含め、公のまとめた日米交渉案に賛成し、内々に米国の同意も得ているため、すべての関係者が戦争回避を予測し、祝杯気分で安堵していました。

 松岡外相だけが、独伊ソ訪問中のため不在だったので、最終決定は外相の帰国後ということになりました。

  国の存亡のかかる重大時に、政治家がどのように動いたのか。陛下はどのようにされたのか。初めて知ることばかりで、驚きと緊張でした。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々のため、この状況を紹介しようと思います。

 松岡外相の経歴を、別途調べました。

 ・生年月日 : 明治13年  ・没年: 昭和21年(66才)   ・出生地: 山口県光市

 ・大     学 :  明治大学 オレゴン大学    ・主な経歴: 外務省官僚 満鉄総裁

  オレゴン大学留学時代の氏は、働きながら学んだ苦学生で、人種差別の辛さを味わったと言われています。氏の意見としてよく言われているのが下記で、米国人への怒りと憎しみがこもっています。

 「アメリカ人には、たとえ脅かされても自分の立場が正しい場合には、道を譲ったりしてはならない。」

 「対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない。」

 氏の著書へ戻り、日米交渉案に関する富田氏の意見を紹介します。

  ・了解案は終戦後、幾多の文書に掲載せられ、周知のものになっているが、今ここに、私がこれを掲載するゆえんは、この案に難癖をつけた松岡外相や、この案を詳知せぬまま、ただ反米一点張りであった日本人がいかに常識外れであったかを、今一度認識してもらいたいからです。

  どのようなものが了解事項だったのか、項目だけを紹介します。

   1. 日米両国の抱懐する、国際観念並びに国家観念

   2. 欧州戦争に対する両国政府の態度

   3. 支那事変に対する両国政府の関係

   4. 太平洋における、海軍兵力及び航空並びに海運関係

   5. 両国間の通商及び金融提携 

   6. 南西太平洋方面における、両国の経済活動

   7. 太平洋の政治的安定に関する、両国政府の方針

 この了解案を得て近衛総理は、即日夜の8時から政府統帥部連絡会議を招集し、検討を要請しました。

  政府からの出席者・・首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官

  総帥部からの出席者・・杉山参謀総長、永野軍令部総長

  幹事役・・富田内閣書記官長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長

  ・米国の提案を議題にして、全員が緊張した協議を行ったのである。

  ・細かい議論も出たが、案全体に対しては、誰もがオーケーであったし、東条陸相も、武藤局長も、岡局長も、大変なハシャギ方の喜びであった。

  ・そこで直ぐにも、原則賛成の返電を打ったらどうか、という議が起こった。

  ・松岡外相が、独伊ソ訪問で不在であったため、二三日すれば帰国する外相の意見も一度聞いてからという首相の意見で、一同これに賛成した。

  ・昭和16年4月22日午後2時過ぎ、松岡外務大臣は、立川飛行場に降り立った。外相を乗せた飛行機は、だんだん接近して、ふんわりと着陸した。

  ・当時世界的に日の出の勢いであったヒットラーや、最近他国の外交官には、絶えて逢ったこともないと言われるスターリンと日ソ中立条約を結び、モスクワの駅頭まで、見送りを受けたという松岡外相だった。

 ここから先、松岡外相の信じられない態度が語られます。

  ・その夜8時から、政府統帥部の連絡会議が総理官邸で開かれ、早急に米国への返事を出すべく、松岡説得の会合が待っていたのである。

  ・飛行場到着以来、祝杯、乾杯を重ね、宮中でも杯を重ね、上機嫌、大得意の松岡は、ろれつも回らぬくらい酩酊してこの会議に臨んだ。

  ・皆の顔は、いかにも不快そうに見えた。さすがの公も、今はもどかしと、日米了解案のことを切り出した。

  ・陸軍や海軍が何と言っても、そんな弱いことには同意できないのである。第一、独伊に対する信義についてどう考えているのか。

  ・自分はあちらで歓迎攻めに会い、全く疲れてもいる。二週間くらい、静かに考えさせてほしい。一月くらいは、考えをまとめさせて欲しいものだ。

  ・と自分独り、言うだけのことを言って、今日は何分疲れているから、失礼しますと、さっさと帰宅してしまった。

  ・後に残された一同はポカンとして、失望するやら憤慨するやらだった。

 ヒトラーとスターリンと会談したと言う事実が、どれほど大きな出来事だったのかが窺われる叙述です。これだけの非礼を働いても、誰にも咎められない勢いを松岡氏が持っていたことになります。

  ・翌日から、松岡説得が始まった。近衛総理は、次の朝から始めて、何度も松岡に説いた。

  ・東条陸相、及川海相も、或いは、両相一緒で、或いは各々単独で、熱心に外相を口説いた。武藤、岡の陸海軍務局長も出向いた。

  ・しかし松岡氏は強硬で、あの程度の内容で自分は納得できない。外交のことは俺に任しておけ。でなければ、辞める以外はないぞという始末であった。

 驚かされるのは、松岡外相の傲慢さだけではありません。国の存亡をかけた戦争が眼前にありながら、総理以下の指導者たちがこういう状態だったのかと寒気を覚えます。

 帰国した松岡外相は、公の意見に耳を貸さず強固な反対論を述べ、返事を待つ米国を無視し、ひと月以上も待たせ、結局は、この交渉をご破算にしてしまいます。

 陸軍内の強硬派と言われていた東条陸相と武藤局長が、賛成側に立っていたのに、松岡外相が一人で異論を唱え続けました。当時の氏は華々しい戦果を挙げるドイツへ傾倒し、もてなしてくれたスターリンを賞賛し、誰の意見も聞かなくなっていました。

 なぜ近衛公に外相の首が切れなかったのかと、不思議になりますが、それほど松岡氏は、周囲の誰からも畏怖される存在であったと書かれています。たった一人の松岡外相を辞任させるため、思案の末近衛公は内閣の総辞職を決意します。

 敗戦の結果を知っているので松岡氏が憎くなるのでしょうが、当時は、明日がどうなるのか誰も見通せない時です。無責任に批判するのを止め、怒りをおさめた富田氏の意見を紹介したいと思います。

 スペースの都合で一区切りし、直ぐ続きにかかります。眠れない夜となります。

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『敗戦日本の内側』- 4 ( 三国同盟を結んだ近衛公の弁明 )

2018-02-26 17:54:46 | 徒然の記

 歴史から見ると、日英同盟は国益に叶うものでしたが、日独伊三国同盟は、日本の命運を狂わせたものとして語られています。

 国民も良い印象を持たず、ましてGHQの占領以後の日本では、間違った政策として否定されています。富田氏が、三国同盟を結んだ公の手記を全文公開していますので紹介の前に、氏の説明を先にします。

  ・近衛公は三国同盟につき、陛下に対し、また国民一般に対し、深くその責任を感じていた。

  ・ドイツ崩壊後公は自ら筆をとり、 『三国同盟について 』なる一文を草した。

  ・まさに公が、心血を注いだ一文である。もとより当事者として、弁解と思われる節無しともしないが、歴史的文献として、公の真意を知る文献として全文を掲げることとする。

 全文はブログに収まりませんので、割愛します。北朝鮮の情勢をめぐる、現在の米、中、韓、ロの動きを見ていますと、国際社会が一筋縄でいかないものであることがよく分かり、三国同盟が昔話と割り切れなくなってきます。 

 「独伊との間に、軍事同盟を締結すべしとの議は、昭和13年の夏、大島駐独武官を通じ、ドイツ側より提案されたものである。」

 「当時すでに存在せる、日独伊防共協定の延長としてだった。このときの同盟が仮想敵としていたのは、ソ連であった。」

 「防共協定を同盟にする議は、近衛内閣から平沼内閣へ引き継がれた。」

 「平沼内閣では、五相会議を開くこと七十数回に及びたるもまとまらず。」

 「しかるに昭和15年8月、ドイツは日本に何の相談もなく、突如、防共の対象としていたソ連と不可侵条約を結んだ。」

 「これがため平沼内閣は、複雑怪奇なる国際情勢云う々の言を残して退陣し、かくして、ソ連を仮想敵とする三国同盟の話は立ち消えとなったのである。」

 「昭和15年の春に至り、ドイツは破竹の勢いをもって、西ヨーロッパを席巻し、英国の運命もまた、すこぶる危機に瀕するや、再び三国同盟の議が猛烈な勢いで国内に台頭し来った。」

 「前年の同盟はソ連を対象としたるに対し、今度は英米を対象とする点において、根本的に性質が異なるのである。」

 「昭和15年7月に、余が第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、反米熱と、日独伊三国同盟締結の要望が、陸軍を中心として一部国民の間にも、まさに沸騰点に達したる時であった。」

 同盟締結の交渉は、松岡外相とドイツ外相特使だったスタマー公使が、東京で事前の打ち合わせをしています。14項目に及ぶ会談内容は、詳細に記録されていますが、一番大きな目的は、次の2点でした。

  1. アメリカの参戦を防止し、戦禍の拡大を防ぐこと

  ドイツは日本に対し軍事的援助を求めないが、あらゆる方法で、日本がアメリカの参戦をけん制し、防止してくれることを望む。

  2. 対ソ親善関係の約束

  ドイツは日ソ親善の仲介をし、これにより英米に対する日本の地歩が強固になれば、支那事変の処理が出来やすくなる。

  しかし三国同盟は、呆気なく空文となってしまいます。先に約束を破ったのはドイツで、翌昭和16年の6月にソ連に奇襲攻撃をかけ、殲滅作戦に突入します。

 これではもう、日本のためソ連との仲介どころか、ヒトラーの大嘘が判明します。次に約束を反故にしたのは、日本でした。「アメリカの参戦を牽制する」と、ドイツに約しながら、同年の12月に真珠湾攻撃に踏み切っています。

 米国が参戦した後に戦いがどうなったか。それはもう誰もが知る、日本の敗戦です。

 「余は今もって三国同盟の締結は、当時の国際情勢下においては、止むおえない妥当の政策であったと考えている。」

 「すなわちドイツとソ連は親善関係にあり、欧州のほとんど全部が、ドイツの掌握に帰し、英国は窮地にあり、米国はまだ参戦せず。」

 「かかる情勢下においてドイツと結び、ドイツを介してソ連と結び、我が国の地歩を強固ならしむることは、支那事変処理に有効なるのみならず、これにより、対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。」

 公は、ドイツ敗戦後の事情を見て、後づけで三国同盟を批判する国内親米派に反論します。我が国の外交は感情論が多く、冷静さに欠けた意見が多いと批判し、ドイツ敗北後こそが、日米接近の好機と捉え公が政策を転換しました。

 「しかるに陸軍は此の期に及んでなお、ドイツとの同盟に執着し、余の心血を注ぎたる日米交渉に対し、種々の横槍的注文を発し、ついに太平洋の破局をもたらしたのである。」

 「これまた、冷静なる検討の結果に非ずして、主として親独的感情から発したるものと思う。」

 陸軍に対する公の怒りには激しいものがあり、この部分を富田氏が、「当事者として、弁解と思われる節なしともしないが、」と評したと推察します。私もまた同じ印象を、公の手記から得ました。根拠は、去年の夏に読んだ、岡義武氏の著書『近衛文麿』です。

  氏は、大正7年に27才の近衛公が、雑誌『日本及び日本人』に寄稿した文を紹介していました。第一次世界大戦で敗北した、ドイツに関する意見です。

 ・われわれもまた、戦争の主たる原因がドイツにあり、ドイツが平和の撹乱者であったと考える。

 ・しかし英米人が、ただちにドイツを正義人道の敵となすのは、狡獪なる論法である。

 ・平和を撹乱したドイツ人が、人道の敵であるということは、戦前のヨーロッパの状態が、正義人道に合致していたという前提においてのみ、言いうることであるが、果たしてそうであろうか。

 ・ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と、未成の強国との争いであった。現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。

 ・戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは、決してそうとは言えない。

 青年時代の意見ですが、これを読み、初めて公の実像に触れた思いがしました。若い時の文章とは言え、大胆な意見をよくも発表したと驚きました。

 ・英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、その利益を独占していたため、ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、膨張発展すべき余地もない有様であった。

 ・このような状態は、人類機会均等の原則に反し、各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。

 ・ドイツがこのような状態を打破しようとしたことは、正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。

  ヨーロッパに先進の強国と、ドイツのような後進の強国があったのは事実です。

 岡氏は大東亜戦争の筆頭責任者を、東条元首相と松岡元外相に絞っていましたが、「ねこ庭」は違う意見でした。日中戦争不拡大と言いながら、結局拡大し泥沼化させた遠因は、公が青年時代から持っていた思想にあったのでないかと、そういう思いが捨てられません。

 反対したけれど、陸軍の横暴に抗しきれなかったと本人が言い、岡氏も認めていますが、事実は違うのでないかと、かすかな疑問を抱いています。

  公の青年時代の寄稿文を思い返すと、「当事者として、弁解と思われる節なしともしないが、」という、富田氏の評が「ねこ庭」の疑問の裏づけとなります。
 
 晩年の公は、青年時代の寄稿文を忘れていたのかもしれません。人は都合の悪いことは、往々にして忘れます。まして公は激動の時代の政治家ですから、公開した意見を忘れたのかもしれません。
 
 平和な時代なのに自民党の議員諸氏は、公約した「憲法改正」を忘れています。
どうして、近衛公だけを責められるでしょうか。
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『敗戦日本の内側 』- 3 ( 政党人こそ、民主主義を守る騎士 )

2018-02-24 17:35:37 | 徒然の記

 示唆に富む氏の著作は、どの部分を取っても啓蒙してくれます。元勲西園寺公望公を語る近衛公の言葉を、氏が紹介しています。

  ・西園寺公は、偉い人だった。終始一貫自由主義者であり、議会主義、政党主義で、徹しておられた。

  ・私が進めた大政翼賛会は、拙かった。やはり政党が良かった。

  ・しかし自分が、強く陸軍に対抗して、一国一党の独裁政党を作らせなかったことは、せめて誉めてもらっても良い。

 公の言葉を聞いた富田氏は、当時の陸軍の勢力を知り抜いていた身として、公の述懐に共感しています。

  「それにつけても、政党人たるもの、自守自負しなければならぬ。」

  「顧みて現在の政党を見、政党人の行動を見せつけられる時、このままでは、昭和15年の新政治体制発足時のごとき、議会軽視、政治家不信の空気が、断じて起こり得ないとは、果たして言い切れるか、どうか。」

 氏が公を回想しつつ、昭和31年に語った言葉です。この時は自民党の衆議院議員でしたから、自戒を込めた叙述だったのでしょう。

 神武景気とも言われていた昭和31年出来事を、調べてみました。当時の世相と重ね、氏の言葉を読みますと心に響きます。

  1月  鳩山首相「軍備をもたない現行憲法には反対」と答弁(2.2取り消し)       

        3月    羽田など4空港管制権、米側から日本へ

  4月    衆院本会議、新教育委員会法案をめぐり大混乱。議長職権の暁の国会
                   ・衆院本会議、小選挙区法案をめぐり大混乱、散会(審議未了・廃案)

  5月   科学技術庁発足

  7月    沖縄問題解決国民総決起大会、東京で開催。返還運動高まる。

                 ・経済自書発表「もはや戦後ではない」流行語に

   10月   砂川町第二次強制測量。警官隊と地元反対派学生など衝突。政府、測量中止を決定
                  ・炭労、波状スト(~12.8)  佐久間ダム完成
     ・日ソ国交回復共同宣言(12.12発効)

   11月 東海道本線全線電化。 

   12月 日本の国連加盟、総会で可決

     ・鳩山内閣総辞職  石橋湛山内閣成立

   鳩山首相が、「軍備をもたない現行憲法には反対」と答弁し、三日後に取り消していたと初めて知りました。病を押し日ソ国交回復を実現するなど、功績のある政治家ですが、戦前は「統帥権干犯」と政府攻撃をして軍部に歩調を合わせ、戦後は「軍備のない憲法には反対」と答弁をしたりと、不思議な政治家です。

 今のルーピー鳩山氏は、祖父の軽率さという悪いところだけを受け継いだのでしょうか。興味深い政治家の系譜です。

 民主主義は「衆愚政治」とも言われますが、民主主義と議会主義が人類の英知の産物と思えてなりません。運用を誤れば「衆愚政治」に堕しますが、賢明な国民が多数を占めれば立派な政治が出現します。

 富田氏の言葉が、読むたびに胸に響きします。

 「議会主義は、民主政治の真髄である。」

 「しからば、議会政治を実践する政党は、極めて重要なものである。」

 「政党人こそ、民主主義を守る騎士でなければならぬ。」 

 「ねこ庭」で野党議員はもちろんのこと、保守自民党の議員にも悪態をつきますが、「議会主義は、民主政治の真髄である。」と信じる人間の一人です。だからこそ、議員諸氏に訴えています

  「政党人こそ、民主主義を守る騎士でなければならぬ。」 

 利口者には利口者の言い分があり、馬鹿には馬鹿なりの理屈があります。与党と野党のいずれが利口で、いずれが馬鹿か、「ねこ庭」にそんな区分はありません。与野党共に、利口がいてバカがいます。「騎士でなければならぬ。」と、双方の議員諸氏へ語りかける理由がここにあります。

 そうすると、自ずから答えが導かれます。

   ・日本の歴史、伝統と、ご先祖を忘れる政党は「獅子身中の虫」であり、「駆除すべき害虫」

  そうであれば、期待できるのは保守自民党の議員諸氏しかいません。

 いつもの提案を、自民党の議員諸氏にします。

  1.  国会議員の二重国籍禁止法を立案、可決し、実施すること。

     2. NHKに関する特別法を制定し、役員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促し、帰化しない者は退職させる

  外国人が介入し混乱させている国会に、敗戦後73年経った今、一つのケジメをつけるべき時でしょう。「差別」や「排他」などという感情論でなく、「国としてのケジメ」です。
 
 このくらいのことができないのなら、保守自民党肩書きを捨て、「獅子身中の虫」や「駆除すべき害虫」の党へ移るべきでありませんか。
 
 富田氏の著書が、以上のことを教えてくれました。
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『敗戦日本の内側』- 2 ( 大政翼賛会誕生前の日本 )

2018-02-23 22:03:31 | 徒然の記

 去年の夏、 岡義武氏の著書『近衛文麿』( 昭和47年刊 岩波新書 )を、読みました。氏は公を優柔不断な政治家として語り、日本を敗戦に導いた一人と酷評していました。

 富田氏は世間の悪評を修正し、むしろ立派な政治家として語ります。内閣書記官長は、現在の内閣官房長官に当たると言いますから、仕えた総理を悪し様に語るとは考えられません。

 距離を置いて読もうと思うと同時に、国難の中で公を支えた氏の著書には、知らない事実があるのではないかと言う期待も湧きました。

 近衛公が、軍部、政界、財界、そして庶民からも熱望され期待され、第二次内閣を作った時の状況が、田中角栄氏が総理になった時と似ています。国民が喝采し、「今太閤」、「コンピュータつきブルドーザー」、「庶民の政治家」などと、マスコミが大騒ぎし報道が加熱しました。

 しかし田中氏最後はどうなったか。マスコミが「金権腐敗政治の張本人」、「政治を金まみれにした犯罪人」、「闇将軍」と悪の権化のように書き立て、政界から葬ってしまいました。

 今も昔も騒げば売れるマスコミは「売るための記事」を書き、国民は記事に流されます。

 第二次近衛内閣の使命は、支那事変の早期解決でした。先ず実行しなければならなかったのが、新政治体制の確立だったと氏が言います。近衛公は対立、混乱している国内の諸勢力を一本化にし、支那事変の解決を早めるという考えでした。

 「対立の第一番目は、国務と統帥の対立というより、むしろ、統帥 (軍部) の、国務 (政府) に対する、干渉、専横ということであった。」

 国務から統帥権を切り離してはならないと言う氏の意見は、この経験から生まれています。

 「総理大臣の知らぬ間に、陸軍がどんどん支那事変を拡大しているのが、当時の実情であった。」

 「近衛公は、第一次近衛内閣の苦い経験に基づいて、このことを、一番意識していたのである。軍部を抑えるためには、政府への国民の強い支持がなくてはならない。」

  国民を代表すべき政党が腐敗堕落し、国民から浮き上がり、不信の底にありました。そこで公は、全国各階層の国民の組織というものを考えました。氏はここで、当時の社会にあった3つの動きにを、読者に説明します。

  〈 1. 既存政党の動き 〉 

   ・ 各政党は凋落不信の状態から抜け出すため、公を総裁として一つになろうとする動きがあった。

   ・ 公が新党結成を提唱すれば、党を解体し、合流しようとする情勢だった。

    〈 2. 軍の動き 〉

          ・ 長引く支那事変が泥沼の様相となり、国民の信を失った軍は、国民を引きつけるための国民運動の必要性を痛感していた。

   ・ 民間の右翼組織が軍と結託し、近衛の運動を利用し親軍的な一国一党へ導こうと画策していた。

   ・ 政党の議員の中に親軍派議員と呼ばれるものがいて、行動を共にしていた。

  〈 3. 国民一般の動き 〉

   ・国民大衆は声に出さないが、親軍的一国一党の動きに不信を抱いていた。

   ・同時に国民は、既成政党もほとんど信用していなかった。

   ・ 国民は、産業人も文化人も教員も、宗教家も、婦人も学生も、青年も参加する、一大国民運動を期待し、支那事変を終結に導くことを切望していた。

 これが有名な「大政翼賛会」誕生前の日本の状況です。

 軍は気に入らないことがあると、政府に陸軍大臣や海軍大臣を送らず、内閣を倒していました。時の政府は米内内閣で、軍の不評を買い倒閣の対象となっていて、この意味からも公の総理就任が切望されていました。

 公は軍と対決する全国的組織を作る時間が欲しかったので、米内内閣の継続を望んでいましたが、熱狂した世論が許しませんでした。しかも三つの動きの内の二つは、公の考える挙国一致内閣では不要なものである以上に、敵対するものでした。

 公の頭にあるのは第三の国民組織でしたが、当時の治安維持法では、官吏、教員、学生、婦人等々は、政治結社への参加が禁止されていました。
 
 「さればと言って、政治活動をしない単なる結社では、軍部に対抗しうるような、政治力の集中は不可能である。」
 
 「要するに、公の思想を具体的に実現する方策は、率直に言えば有りえなかったと、言えるかも知れないのである。」
 
 「さりとて、国民の期待を裏切るわけにもいかず、最善を尽くして、新体制を作ろうということになった。」
 
 ・・と、これが氏の述懐です。事実だとすれば、近衛公の政策は初めから困難を極めていました。
 
 ある議員が大政翼賛会に参加しようと、党の解党に働いたという話を聞いた時、近衛公が語った言葉を紹介します。
 
  ・余はかって、政党の解党を要求したことはない。
 
  ・政党の解消はこの運動に乗り遅れまいとした、政党自身だった。
 
  ・矢が飛ぼうが槍が降ろうが、死ぬまで解党するものかと頑張る政党が、一つくらいあっても良いではないか。
 
  ・これだから政党が意気地なしと言われ、軍部からも馬鹿にされるのだ。情けないし、寂しいではないか。
 
 公は、ため息をついたそうです。現在の日本に軍はありませんが、議員たちの情けない姿は変わりません。落ち目になったからと党を見捨て、「希望の党」へ、なだれ込んだ民進党の議員たちや、行き場が無くなり止むなく新党を作った生き残りの議員たち・・
 
 国民の負託を得て国会で多数を占めながら、憲法改正の議論もできず、野党の「モリ・カケ」攻撃になすすべもない自民党議員の不甲斐なさに、公と同じため息が出ます。
 
   「情けないし、寂しいではないか。」
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『敗戦日本の内側』- ( 憲法改正後の自衛隊 )

2018-02-21 21:28:13 | 徒然の記

 富田健治氏著『敗戦日本の内側』( 昭和37年刊 (株)古今書院 )を、読んでいます。山岡明氏著の『占領下の犯罪事情』の読後は、どぶ川の水をコップに入れ、間違って飲んでしまったような不快感が残りました。

 富田氏の著書に接し、渓流に触れた清涼感を得ました。同じ敗戦後の日本を扱い、明るい内容ではないのに、これほど印象が違うのは何故か、ひとえに著者の人柄の違いと、そんな表現しかできません。

 328ページの本の、26ページを読んでいるところですが、誉め過ぎてもいけませんので、先ずは本の裏扉にある氏の略歴を紹介します。

 ・明治30年神戸市に生まれ、大正10年京都帝国大学法学部を卒業。

 ・内務省に入り、静岡、岐阜、神奈川県等で、警視を務める。

 ・大阪府警察部長、内務省警保局長、長野県知事を歴任。

 ・第二次、第三次近衛内閣で、内閣書記官長を務め、後に貴族院議員となる。

 ・戦後は、自民党衆議院議員として現在に至る。

 近衛内閣の書記官長だった氏は、GHQにより「右翼・軍国主義者」として政界から追放されます。昭和22年に「トルーマン・ドクトリン」が出されると、追放が解除されますが、日本が左翼主義者の天下となった現実は変わらず、保守言論人は「右翼・軍国主義者」として否定・忌避されます。

 氏の著書の「序」は、国粋主義者として名高い平泉澄 ( きよし ) 氏が書いています。平泉氏はGHQからは勿論、左翼系学者や政治家たちから、蛇蝎のごとく嫌悪され、否定されました。氏の「序」にも歴史の香りが漂いますので、一部を紹介します。

   ・富田氏の実直さは、本書の序文を当世顕栄の人に求めないで、私に徴したによっても知られるであろう。

 ・私は今の世に、用いられざる男である。私の序文を附するは、一利なくして、むしろ害があるであろう。

 ・止められるがよいと、固く断ったが聞かれない。

 ・考えてみれば、富田氏を近衛公に紹介し、推挙したのは私である。

 ・序文を書くのも、免れ難き責任だと言われては、仕方がない。敢えて、拙筆を執った次第である。

 戦前の平泉氏は、国体思想の理論的第一人者と言われ、権勢を誇った東大教授の一人でした。

 それだけに敗戦後に境遇が激変し、多くの人間が氏を離れていきます。雑学的知識で知っていましたが、本人の言葉を読むとは思っていませんでした。

 5.15事件、2.26事件、そして、皇道派と統制派に別れた軍人の対立など、沢山本を読んできました。皇道派も統制派も双方とも厄介な軍人たちで、昭和天皇を悩ませている存在だったと、富田氏が書いています。26ページまでのところで、一番心を動かされたのは次の意見でした。

 ・昨今、現行日本国憲法の再検討が云々されており、その重要な点の一つに、再軍備の問題がある。

 ・再軍備問題は、今日のわが国内の国民感情、特に婦人層並びに青年層の考え方や、国家財政の上から、いろいろ問題があるけれど、独立国としていつの日にか、軍備を持たねばならぬと思う。

 ・その時、一番心しなければならないことは、軍の統帥を、絶対に国務から独立させてはならないと考えている。

 ・端的に言って、統帥の国務からの独立を許したことが、支那事変を拡大し、そして大東亜戦争に発展せしめ、これが敗戦を導いたと断じてよいと、私は信ずるものである。

  氏が言っているのは、「天皇の大権」つまり「統帥権」のことです。

 陸・海軍の統帥権は天皇の大権で、政府や帝国議会は介入できないとする考え方で、政府に反対する者は何でもこの理論で攻撃しました。

 始まりは、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議で、浜口内閣が軍縮条約を締結したのが、統帥権を犯したという激しい反対論でした。海軍軍令部長だった加藤寛治大将だけでなく、野党政友会総裁の犬養毅氏と鳩山一郎氏までが一緒になり、「統帥権の干犯」で浜口首相を攻撃しました。

 条約の批准権は昭和天皇にあったので、浜口首相は反対論を押し切り帝国議会で可決を得、天皇に裁可を求めました。

 条約は批准されましたが、同年11月浜口首相は、国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、総辞職しました。翌年8月に首相は、この傷が因で亡くなっています。

 以後軍部に反対する者は、「統帥権の干犯者」として弾劾され、軍の作戦に異を唱える者がいなくなります。富田氏が戒めているのは、「天皇の大権」や「統帥権の独立」を、認めてはならないということです。

  昨年の8月、高橋政衛氏の著書『2.26事件』を読んだ時、同じ危惧を抱きました。その時の「ねこ庭」の記事を、一部紹介します。

 ・自衛隊については、私たちは何も知りませんが、おそらく内部には派閥や対立があるはずです。

 ・憲法改正以後の軍隊について、国民である私たちは、今から考えておく必要があります。」

 ・国土防衛の使命を持つ、誇り高い軍であるにも拘らず、戦後72年の間、自衛隊は日陰の存在でした。

 ・憲法改正と同時に軍隊となり、彼らが軍人として目覚めたとき、強い反動が来るのではないでしょうか。

 ・節度のある軍隊として、国民の信頼を保持し続けるため、どんな工夫が必要なのでしょう。」

 5・15事件や2・26事件を知る「ねこ庭」は、憲法改正後の自衛隊について考え、富田氏の意見が答えの一つでした。

 「軍の統帥を、国務から独立させてはならない。」

 つまり、統帥権という恐ろしい言葉を、再び蘇らせてはならないという戒めです。国の独立国には軍が必要で、やがて軍備が整えられる日が来るという考えは、氏も私も同じです。

 国際情勢が緊迫していますから、氏のいう「いつか、再軍備が必要となる日」というのは今です。国会で反日の野党と、マスコミが連日騒いでいる、モリ・カケやサガワで、政府を揺さぶっている時ではありません。

 「独立国として、節度ある軍隊を保持するには何が大切なのか。」

 今の私たちが考えなくてならないのは、これです

 国難を前にした国会が、愚かな政争で空費されるなどあってはなりません。軍部の暴走を批判しても、反日でない氏の意見に引かされました。まだ本の初め部分ですから、これからどう変わるのか分かりませんが、心に残る氏の言葉を、もう一つ紹介します。

 ・日本の歴史、伝統、そして祖先を忘れて、何処に自分があるか。

 ・私はこの夏、欧米を回遊して、一層その感を深くしたのである。

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『占領下の犯罪事情』( 山岡明氏の著書 )

2018-02-18 21:24:34 | 徒然の記

 山岡明氏著『占領下の犯罪事情』( 昭和52年刊 (株)日新報道出版 )を読了。

 氏は大正9年に高知県に生まれ、昭和13年に県立高知工業学校を卒業後、化学工場に勤務し、研究所助手、分析技術者となります。

 海軍下級衛生兵を経て、敗戦を迎え、戦後は大衆雑誌の編集者をし、現在は作家・評論家であると、本の略歴に書いてあります。

 著名な作家でないため、初めて氏の名前を知りましたし、図書館の廃棄本でなかったら、決して手にしない作品です。ちょっと目次を眺めるだけで、ゴシップ週刊誌の匂いが漂ってきます。

 ・一億総犯罪者であった時代

 ・雨の夜の浜町河岸に銃声轟く

 ・若い女がボスの、ピストル一味までいた

 ・かっぱらった金で贅沢の限り

 読み終わった後でも、作者が何を言いたかったのか、理解できないままです。日本人の魂のある作家なら、戦後を批判するなり肯定するなり、自分なりの意見を述べ、無知な読者を感心させるたりするのでしょうが、そんなものは何もありません。

 敗戦後の日本で殺伐とした事件が頻発し、その犯罪をこれでもかと語る。強いて言えば、「日本人は何食わぬ顔をしているが、誰だってこんな犯罪者になる可能性があったんだそ。」と、警鐘乱打したかったのかもしれません。

 私の心に刻まれている戦後の日本は、貧しかったけれど、みんなが頑張って生きていた感慨深い風景です。父や母への尊敬は、苦労を苦労とも言わず働いていた後ろ姿から生まれています。私と同年代の少年や少女たちも、そんな親に感謝しているはずと思っています。

 氏はそんな私に向かって、「綺麗ごとばかり言うな。」「現実はもっと、汚くて、残酷なんだ。」と、威嚇しているようにも見えます。

 (株)日新報道出版というのは、今は倒産しましたが、かって日本中の話題をさらった本を出した会社です。本題と離れてしまいますが、ネットの情報から、この会社がからんだ事件を紹介します。

  ご記憶の方もおられると思いますが、昭和44年に、政治評論家の藤原弘達氏が、創価学会・公明党を批判した『創価学会を斬る』の出版を計画しました。

 出版予告が出ると、藤原氏や出版元の日新報道出版に、電話や手紙で抗議が殺到し、公明党の都議会議員幹部や、聖教新聞主幹の秋谷栄之助氏が、元資料の提供を求め、書き直しや出版中止などを要求しました。

 氏に拒否されると、公明党の執行委員長竹入義勝氏が、自民党の幹事長だった田中角栄氏に、事態収拾の依頼をします。角栄氏も藤原氏と出版社に、出版中止や書き直しを求め、「初版分は全部買い取る」という条件までつけ働きかけましたが、結局藤原氏と出版社の決意を変えることができなかったという事件です。

 一時は日本中を騒然とさせた事件ですが、この時の出版社が、山岡氏の著作を出した会社ですから、「ねこ庭」はすぐに影響されます。

 「ゴシップ狙いの、会社が出す本など、たいしたものであるはずがない。」

 ・・と、読後の今も変わらない感想です。

 取り上げられている様々な残虐事件は、色と欲と金の絡むものばかりで、言及する意味が大してないと思うのですが、前書きの部分には、最もらしい理由が述べられています。感心したり、納得したりする人がいるのかもしれませんので、参考までに用紹介しましょう。

  ・敗戦直後の占領下にあった時代は、あらゆる分野にわたって、空白と不明の部分が多いと言われている。

  ・昨日まで戦ってきた敵軍に無条件降伏し、占領されたということに加えて、都市という都市は焦土と廃墟に化し、民心も荒廃し尽くしていたため、「 騒然 」という言葉がふさわしい、混乱の極みにあった。

  ・日本は戦前とあまり変わりがないと、この頃よく言われるが、そのようなことはない。

  ・8月15日の敗戦を境にして、それまでとはガラリ変わってしまったのである。それまでは、ひたすら戦争をしてきたのに、これ以後、そうでなくなったからである。 

  ・戦争中とは違った意味で、人間は虫ケラのようだった。そして、凄まじい犯罪時代であった。

  ・斬ったはったばかりでなく、日々の生活そのものが、ヤミという犯罪を犯さなくては、成り立たなかったのである。はやり言葉ふうに言うならば、「一億総犯罪者 」の時代だった。

 著者の言葉に従えば、戦争中も戦後も、人間は虫ケラだったということになります。ここからして私と氏は、大きく違います。

 はっきり書いていませんが、権力者に利用され、国民は全て虫ケラ同然だったと、言いたいのだろうと思います。政治家や軍人たちが、勝利を求めて国民を鼓舞し、美辞麗句で大言豪語したのは事実ですが、「ねこ庭」では、戦争をした国民が虫ケラだったという言い方はしません。

 自分は権力者の言いなりにならない知性があると、氏は批判精神を見せたいのでしょうが、逆に知性の乏しさを露呈しています。

 幕末以来の、欧米列強によるアジア侵略を知っていれば、こうした軽率な言辞は生まれません。ゴシップを追いかける三流週刊誌の記者のように、氏は占領下の日本で発生した凶悪犯罪を書き留めることだけに心を奪われ、日本の長い歴史にも、剣呑な国際情勢にも目が向いていません。

 それでも氏は、得意らしく主張します。

 ・敗戦直後の意識や生きざま、生活などは、そのまま今日の日本とつながっている。

 ・現在のあらゆるものすべてが、敗戦直後の状況を源流としているのである。

 ・だから、埋没している占領下の時代の空白部分を掘り起こすことは、知らなくていいものでもなければ、忘れてしまっていいものでもない。

 ・今の世相や風俗、さらには人々の意識や生きざま、生活などと大きなかかわりを持つ、そうしたものの解明こそ急がなくてならない。

 言葉だけ読んでいると、なるほどと思わされる部分もありますが、氏が著書の中で集めている、破廉恥な殺戮、暴行、強姦、悪辣な違法行為などが、現在の私たちと、どのように結びついていると言うのでしょう。

 「ねこ庭」から見ますと、氏が詳細に語る犯罪は、あくまで例外的凶悪事件で、国民のすべてが共有すべき意識ではありません。

 この本で知りましたが、「小平事件」というのがあります。

 昭和20年5月から、21年の8月にかけての一年余りで、小平は10件の連続殺人事件を重ねています。元海軍三等兵曹で、上海など中国戦線での戦闘経験があり、こうした戦争体験が、犯人を形作る要素になっていると氏は分析します。

 小平の相手はすべて女性で、強姦した後金品を奪い、全裸にして山林や物陰に放置するという凶悪さです。しかし氏の言うとおり、軍隊の経験が人を獣に戻すというのなら、戦後復員したきた軍人たちは、みんな獣のような犯罪者になったのでしょうか。

 中国大陸にだけでも、100万人以上の軍人がいたのですが、小平のような犯罪を犯した者が何人いたと言うのでしょう。

  ・小平の犯行は、確かに異常で、淫乱な性犯罪そのものであった。

  ・特殊な犯罪のようにも見えるが、しかし被害者の側に焦点を合わせてみると、徴用された女子挺身隊員だったり、買い出しにつけこまれた人妻だったり、就職を世話してやると、おびき寄せられたり、すべて当時の世相や生活に絡んでいる。

  ・たしかに異常で特殊な犯罪ではあるが、その一方では、当時の日常生活そのものであり、誰でもかかわりを持つ可能性のあった、生活犯罪といっていい一面を持っていたのである。

  ・小平事件でさえ、こうした面から見直す必要がある一例なのだ。

 具体的事例の説明に入る前段として、氏が解説したものですが、私は呆れ果ててしまいました。これこそ「我田引水」「牽強付会」というもので、作家・評論家という氏の肩書きが地に落ちます。

 私も「ねこ庭」で独断や偏見を述べている時がありますが、氏には及びません。

 こんな悪書は、小学校の有価物ゴミにも出す気になれません。本多勝一の書と同様、野菜くずや肉の切れっ端と一緒くたにして、ゴミステーションに打ち捨てます。

 ただ、一つだけ興味深いデータがありましたので、それは残しておきます。

 敗戦後GHQによって、警察官の拳銃携帯が禁止され一時丸腰になっていました。ところが拳銃を使った犯罪が多発したため、昭和21年6月に、GHQの指令で、警官の拳銃携帯が可能になります。

 指令は4項目ありますが、必要部分だけ紹介します。こんなところまで管理されていたのかと、GHQの恐ろしさを痛感させられると当時に、いまだにアメリカの桎梏から逃れられない日本の指導者たちの臆病さが、多少理解できるようになります。

 〈 日本警察官の武装に関する覚書 〉

  1. 連合軍最高司令部に入った情報によると、日本政府は、警察官の武装を差し控えてい

  る由であるが、これは武装解除指令の誤解によるものである。最高司令部より発せら

  れたる指令は、必要な場合、日本の警察官が武装することを禁止したものではない。

  2. 日本帝国政府が、必要と認めた場合、日本の警察官が拳銃を携行することは、何等

  差し支えないことをここに通告する。ただし警察官の使用し得る拳銃の総数が、最高

  司令部によって、承認された員数を超えてならないことは、規定に定めている通りで

  ある。

 GHQの司令署に驚いているのは、「ねこ庭」だけなのでしょうか。

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『解放朝鮮の歴史・下巻』- 2 ( 自民党の議員諸氏への提言 )

2018-02-13 18:17:51 | 徒然の記

 朝が来て、とうとう昼になりました。ため息ばかりついていますと、時間だけが過ぎていきます。意を決して、コンデ氏の著作の紹介に戻ります。

  ・韓国の反李承晩的政治家たちは、李承晩の政府を、封建地主、警察官僚、カリフォルニアやハワイに居る、朝鮮人移民の手先、軍国主義の青年団、西洋かぶれの教育者や、富裕な実業家たちとの組み合わせと呼んだ。

  ・批評家たちに言わせれば、彼らの大部分は、40年間の日本の統治で手に入れた権益を、失うまいとしている朝鮮人たちである。

  ・彼らは日本一辺倒でないにしても、朝鮮を統一したり、改革したりができない現状維持者たちということだ。

 氏はどうしてここまで日本を敵視するのか。何がそうさせるのか。もう一度氏の経歴を見たくなりました。第二次世界大戦中氏は、米軍の心理作戦局にいて対日宣伝戦に従事しています。

  ・明治39年にカナダで生まれ、のちアメリカへ移り、日本問題を研究。

  ・第二次世界大戦中は、米軍の心理作戦局に所属し、対日宣伝戦に従事。

  ・終戦と同時に、GHQの情報教育部映画課長となり、昭和21年に辞任

  ・ロイター特派員として活躍。

  ・翌22年に、無許可滞在を理由に、日本国外追放

  ・昭和49年、カナディアン・フォーレム・トロントの駐日特派員として再来日し、現在に至る

 軍務に着く前の「日本研究」の時から、氏は敵対心を燃やしていたのでしょうか。マルクシズムを信奉する氏にとって、当時の日本は、敵視せずにおれない存在だったのでしょうか。

 経歴からは分からないので、氏の叙述に戻ります。

  ・弾圧的な憲法、巨大な軍隊、アメリカの軍事援助とともに、李承晩が任命した閣僚は、彼の政府がたどる方向を暴露した。

  ・任命された人々は、ほとんど全部西洋風に教育され、英語を話し、故国に根を持たない、亡命者の寄せ集めであった。

  ・彼らは朝鮮人民を代表しない、法律家、将軍、警察官、もと王族の一員だった。農民も、労働者も、代表として選ばれなかった。

 反米社会主義者である氏は、李承晩政権をこのように説明し、現状維持者たちの政権を作ったアメリカの政策を批判します。

  ・自由を擁護すると公言する一方で、アメリカ軍政府は、次々と禁止令を公布した。

  ・布告第19号は、新聞、雑誌、その他の出版物の、軍政府への登録を要求した。

  ・ラジオ放送や映画も、軍政府の統制下にあったし、舞台での上演もまた、その検閲を受けていた。郵便も含め、北朝鮮との連絡も、検閲されていた。

  ・政党はその目的や組織を報告するよう、強制されていたし、パレードやデモや集会は、すべて禁じられていた。

  ・政治活動は、日本人に仕込まれた朝鮮警察の監視下にあった。朝鮮警察は、軍政府の是認のもとに、スパイや情報提供者を放ち、思想統制の手練手管を駆使した。

  ・これらはすべて、左翼の自由をいっそう制限するものだった。

  ところがその同じ頃、日本ではマッカーサー元帥が逆のことをしていました。日本政府が厳しく取り締まり、刑務所に収容していた共産党の幹部や活動家たちを、ことごとく釈放しました。

 「連合軍は、解放軍である。」と、共産党の最高幹部だった徳田球一氏が、マッカーサー元帥に感謝し、この時以来、日本では共産党の動きが公然化し、反政府運動が復活します。

 元帥は頑固な反共主義者だったのに、なぜこのようなことをしたのか。それは不思議でも何でもなく、簡単な理由でした。

 日本軍を消滅させるためには、なんでも利用する。目的のためなら手段は選ばないと、元帥の日本軍への憎悪はフィリッピンを追われた時以来、消えることのない屈辱感から来ています。その最たる手段が、東京裁判でした。

 しかしこの話は、止めましよう。別の怒りがこみ上げますので、氏の本に戻ります。

 李承晩政権を誕生させるため選挙を実施すると、アメリカはソ連を無視して政策を進めます。選挙の数日前、李承晩の政敵である金奎植と金九が平壌から戻り、ソウルで記者会見をしました。この時の様子を、コンデ氏が語っています、

  ・彼らは二人とも、北朝鮮における経済発展に、強く印象づけられていた。

  ・工場は活気に満ち満ちており、目につくロシア人の姿はなかった。

  ・彼らは、何事にも干渉する南のアメリカ人とは対照的に、遠慮がちに作業しているロシア人たちを称賛した。

 やはり氏は頑迷なマルキストで、ソ連の賛美者でした。

  ・そして二人は、アメリカの占領が、南朝鮮の腐敗と、広範な経済的混乱をもたらしたと攻撃した。

  ・アメリカ人は不正な人間を信頼し、日本占領下ですでに腐敗していた朝鮮人たちに、責任ある地位を与えたからだと語った。

  けれども二人の話はここまでで、金九は選挙の直前に暗殺されます。米軍なのか、李承晩の手勢だったのか不明のままです。残る金奎植は北朝鮮に逃れ、現地で病死したとも、銃殺刑になったとも言われています。

 李承晩氏が政権を樹立するまで、暗殺、投獄、拷問、暴行を受けた人間が多数いましたが、報道はされませんでした。

 1947 ( 昭和22 )年に、米国の世界戦略が大きく変わります。

 ルーズベルトの後を継いだトルーマンが、施政方針を打ち出したました。世に言う「トルーマン・ドクトリン」です。別途調べた内容を紹介します。

 〈 トルーマンドクトリン 〉

  ・共産主義封じ込め政策である。

  ・具体的には共産主義に抵抗している、ギリシャとトルコへの支援だった。

  ・トルーマンは、両国を援助しなければ、ヨーロッパ各国で、共産主義のドミノ現象が起きるとの警告

  ・朝鮮問題もこうした観点から捉え、ソ連との妥協を明確に拒否

 「トルーマン・ドクトリン」には、次の大きな二つの意味がありました。

    1. モンロー宣言以来の「孤立主義」との決別

    2.  パックス・ブリタニカの終焉と、パックス・アメリカーナの到来

 ギリシャの内戦に介入していたのはイギリスでしたが、財政的負担の重さに耐えきれなくなっていました。英領インド、パキスタン、バングラディシュを手放すなど、斜陽化が進むイギリスに代わり、アメリカが積極的にかかわるという宣言でもありました。

 マッカーサーの日本統治も、大きく変わります。

 トルーマンによって日本と韓国は、アジアにおける、共産主義勢力への砦と位置づけられます。共産主義者が再び敵となり、日本国内で「レツドパージ」が始まります。

 財閥の解体もうやむやになり、軍の再建も図られます。警察予備隊、保安隊、そして自衛隊へと目まぐるしく変動した背景が確認できます。朝鮮も日本もアメリカの世界戦略に組み込まれ、今もその状況が続いています。

 「日本は、独立した国である。」

 「成熟した民主主義国家である」と言うのは、現実の一面しか見ていない意見だと理解しなくてなりません。

 コンデ氏の偏見と戯言ばかりですから、これ以上の紹介は人生の無駄になります。保守自民党の政治家と、保守論客と言われる人々の不甲斐なさも見えてきました。市井の年金生活老人にすぎない自分が、「敗戦後の日本」の異常さを無念に思い、日本を取り戻したいと頑張っているのに、彼らは何をしているのかと諫言せずにおれなくなります。

 自死した江藤淳氏や西部氏は、「ねこ庭」の私より遥かに頭脳明晰で、人的ネットワークを持つ著名人なのに、なぜ自死を選んだのか。

 愛国心のある保守人なら、なぜ吉田松陰のように、私塾を作ってでも後進を育てる気概がなかったのか。歴史の曲がり角にある日本に生きていながら、黙り込んでいる保守の人々は江藤氏や西部氏と同じで、国の役に立ちません。

 ここで「ねこ庭」は、もう一度、国民の選良である自民党の議員諸氏へ提言します。

   1.  国会議員の二重国籍禁止法を、制定すること。

   議員の二重国籍を禁止し、該当者には帰化を促し、帰化しない者は国外退去とする。

    2.  NHKに関する特別法を制定し、役員の二重国籍を禁止する。

   該当者には帰化を促し、帰化しない者は退職させる。

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『解放朝鮮の歴史・下巻 』 ( 大国に挟まれた、小国日本の危機 )

2018-02-12 18:07:41 | 徒然の記

 『解放朝鮮の歴史・下巻』を読了。とても不愉快でしたが、参考になる本でした。

 下巻の内容を簡単に言いますと、「互いに協力し、朝鮮に統一政府を作ろう」というソ連との約束をアメリカが破り、強引に李承晩政権を拵えたことに対する、激しい非難と攻撃です。

 不快感をこらえながら読みますと、今の日本の置かれた状況と朝鮮との関係が、嫌でも浮かび上がってきます。米国のアジア政策を抜きにしては、朝鮮も日本も語れないと予想していましたが、事実はそれ以上の残酷さでした。

 大国に挟まれた小国は、大国同士の対立の余波でもみくちゃにされるという事実を、教えられました。最近の沖縄では、反日政党が左翼活動家を利用し、沖縄の独立を叫ばせています。

 朝鮮が、米ソに半分ずつ支配され、国民の願いとは別に分断国家になってしまった頃、中国はまだ蒋介石と毛沢東が戦っていました。現在の中国は、アメリカと並ぶ強国に台頭し、太平洋を半分ずつ支配しようと、そんな提案を米国に持ちかけています。

 翁長知事以下親中派の政治家が、共産党や社民党と手を組み沖縄独立運動を進めるとしたら、当時の朝鮮と同様内紛と流血の惨事が生じます。

 沖縄の一般住民は、米国と中国の戦争に巻き込まれ、親兄弟や友人知人との仲を引き裂かれます。沖縄の騒動は即座に本土へ波及し、日本中が一気に不安定になります。

 幕末の日本も勤王と佐幕とに分かれ、国内で戦争をしましたが、当時の日本人はどちらの側も「愛国心」と「皇室への尊崇の念」を共有していました。

 沖縄の反日左翼には、「愛国心」と「皇室への尊崇の念」がありませんから、勝海舟と西郷が交渉し、江戸城の明け渡しを決めたような妥協は生まれません。反日左翼議員たちの忠誠心が中国にあるのか、ロシアにあるのか知りませんが、いずれにしても彼らは、日本を嫌悪する「皇室撤廃論者」です。

 流血の戦いが生じると、たちまち日本は、米・中・ロの干渉を受け、出口の見えない内戦となります。こういう事態になれば自民党の議員も目が醒めるのでしょうが、現状では頼りない保守党です。大阪市長の吉村氏が、ロサンゼルスの「売春婦像」に抗議した時も、自民党の議員は協力しませんでした。

 沖縄独立運動などと野党がバカな動きをしていても、沖縄県議会の自民党議員は、反対の声も上げません。左翼勢力が支配する沖縄なので、彼らだけを責める気はありません。本土の自民党が強力な支援をしないのですからが、彼らにだけ行動を促すのは無理です。

 敗戦後は、物分かりが良く傍観するだけの、無責任自民党議員が多くなりました。他国の武力が介入し国論が割れたら、修復不可能な日本になるはずです。

 いつものように、コンデ氏の著書の紹介から外れてたように見えるかもしれませんが、「ねこ庭」の中では繋がっています。それを証明するため、昨日のブログから、再度慶喜公の言葉を転記します。

  ・わが方の風として、朝廷の命にて兵を指揮する時は、百令ことごとく行わる。

  ・たとえ今日、公卿大名の輩より申し出たる事なりとも勅命には違反しがたき国風なり。

  ・されば今兵を交えて、この方勝利を得たりとも、万万一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名をまぬがれがたし。

  ・さすれば、昨日まで当家に志を尽くしたる大名も、皆勅命に従わんは明らかなり。

  ・従来の情誼によりて、当家に加担する者ありとも、国内各地に戦争起こりて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民その害を受けん。これ最も余が忍びざるところなり。

  つまり皇室は、武家の棟梁である将軍でさえ、その権威には刃向かうことができないものでした。信長も秀吉も、天皇から官位を得て「天下びと」となり、初めて諸国に君臨出来ました。
 
 こういう皇室の存在を、西洋風の「合理主義」や「人間平等」や「男女同権」で語ろうとするのが、そもそもの間違いです。
 
 敗戦後の日本は、朝鮮ほどには米ソに干渉されませんでしたが、それは朝鮮に比べた時の話です。「平和憲法」が素晴らしいとのんきなことを言っている時は、とっくの昔に終わっています。
 
 沖縄から、大阪市議会から、国会から、皇室まで眺めますと、「平和憲法を守れ」で済まされる話はどこにもありません。
 
 本日も本題を外れ、スペースを使い過ぎました。明日はコンデ氏の著作から、日本の危機を感じ取ってもらえるように、まとめたる予定です。怒りをこらえての読書なので、健康のため次回で終わろうと考えています。
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『解放朝鮮の歴史・上巻』- 4 ( 李承晩氏と、日本の為政者の違い )

2018-02-11 18:01:53 | 徒然の記

 昭和20年、ホッジ将軍が共産主義者たちとの戦いで四苦八苦している時、ワシントンと東京から、思いがけない話がもたらされました。朝鮮の自由の闘士、朝鮮の国父である李承晩博士の、ハワイからの帰国です。

 コンデ氏の説明を、紹介します。

  ・李承晩の第一声は、「私は一朝鮮人として来た。」 というものだった。

  ・同じ日に少し経ってから彼は、私はいかなるグループいかなる政府とも、なんの関係もないと語った。

  ・彼が朝鮮人の支持を受けていないのは、確かに本当だが、アメリカとのつながりは、まったく明白だった。

 コンデ氏は社会主義者なので、ソ連を支持しアメリカに敵意を持っています。当然李承晩氏に対しても、好感を抱いていませんから、反・李承晩の説明になります。

  ・戦争中ずっとアメリカ戦時情報局は、朝鮮向け短波放送を通じ、国父としての彼のイメージを流し続けていた。

  ・李承晩はこのときブラックという偽名を使って、アメリカの軍用機で東京まで来ている。

  ・彼はマッカーサーに歓迎され、再び米軍機でソウルへ飛んだ。彼はアメリカの招待を受けて朝鮮に赴いたのであり、たんなる 一市民 ではなかった。

  ・朝鮮到着4日後に、ソウルで開かれた解放記念集会で、5万人の聴衆に向かって李は演説をした。耳障りな声で聴衆に向かい、長広告をふるった。

 コンデ氏の悪意に満ちた叙述の次に、李承晩氏の演説を紹介します。

  ・私は、ヨーロッパとアジアに、共産主義が広まるのを見てきた。

  ・そして私は、今すぐここでこの問題に取り組むべきであり、いたずらに伸ばすべきでないという結論に達した。

  ・国を統一するために朝鮮人民は、アメリカ政府および占領軍とともに行動し、働かなければならない。

 コンデ氏のお陰で、李承晩氏がアメリカに用意された政治家だった事実を教えてもらいました。さらに重要なことは、李承晩が単なる米国の傀儡でなく、まさしく朝鮮人だったという事実です。

 コンデ氏の語る李承晩像から、朝鮮人政治家たちの苦悩と矛盾と、民族の性 (さが )ともいうべき利己主義を発見しました。

 何より彼は、強烈な反日主義者で反共主義者でしたが、同時に反米主義者でもありました。韓国によく見られる小中華思想の政治家で、内心では「韓国こそが世界一」という自負心を抱いています。

 この矜持のまま政治を実践すれば大した人物ですが、いざという時になると、氏は国より自分の利益を優先し、外国の誘惑に目がくらんでしまいます。

 目的のためなら手段を選ばずと、米国の支援を利用しますので、ホッジ将軍には信頼されません。コンデ氏の意見紹介します

  ・伝記作家アレンは、李の目的は自分の地位を守り、権力を増大させることであり、利用できるあらゆる方法を利用する考えだった、と述べている。

  ・ホッジ将軍との間では、大筋の戦略で意見が一致したため、ホッジは73歳の 「 英雄 」を認め、支持し始めた。

  ・李と彼の妻は、アメリカの自動車に運ばれ、日本の協力者だった朝鮮人億万長者が提供した、ソウル市内の贅沢な邸宅に落ち着いた。

 共産主義との戦いという点で一致し、ホッジ将軍と李氏は互いに利用し合いました。朝鮮人の指導者たちは、立派なことを言う割に行動が伴わず、すぐに公私混同をし、大義を見失ってしまいます。李承晩氏に限らず、大院君、閔妃など、過去の政治家は皆同じです。

 この時、2年前に読んだ林房雄氏の著作が頭に浮かびました。『大東亜戦争肯定論』です。

 日本の政治家と朝鮮の政治家の違いが、よく分かりますので、長くなっても紹介します。

  ・慶喜が大阪から江戸城へ戻ってくると、仏国公使ロッシュが謁見を乞うてきた。

  ・彼は慶喜に再挙を勧め、軍艦、武器、資金は、すべてフランスから供給すると言った。慶喜はこれを拒絶し、逆に彼を諭している。

  ・わが方の風として、朝廷の命にて兵を指揮する時は、百令ことごとく行わる。

  ・たとえ今日、公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命には違反しがたき国風なり。 されば今兵を交えて、この方勝利を得たりとも、万万一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名をまぬがれがたし。

  ・さすれば、昨日まで当家に志を尽くしたる大名も、皆勅命に従わんは明らかなり。

  ・よし従来の情誼によりて、当家に加担する者ありとも、国内各地に戦争起こりて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民その害を受けん。これ最も余が忍びざるところなり。

 仏公使ロッシュに向かい、慶喜公が語った言葉を林氏が紹介していました。公の決断が無用の戦乱を避けさせ、フランスの植民地になることを防止したのです。フランスの金や武器に惑わされず、毅然と決断した将軍に、「ねこ庭」は敬意と感謝を捧げました。

 時を同じくして西郷隆盛は、英国の外交官アーネスト・サトーから熱心な提案を受けていました。

  ・幕府はフランスと結びついているから、このまま放置していると幕府が攻撃してくる。

  ・幕府とフランスに対抗できる強国は、英国しかないのだから、薩摩は英国と手を結んでおく必要がある。

  ・もしフランスの援兵が幕府を助けたら、英国は同数の援兵を出す。

 サトーにこう言われた西郷が、なんと答えたか。それは将軍慶喜公に匹敵する、日本武士の言葉でした。

   ・日本の国体を立て貫いて参ることにつき、外国人に相談するような面皮は、持ち合わせては居ない。

   ・このところは、われわれ日本人で十分、合い尽くすゆえ、よろしくご賢察あれ。

 西郷がうっかり提案を受け入れていたら、英国に大きな借りを作り、やがて言われるがままの従属国になったはずと、林氏が語っていました。

 将軍と西郷は敵味方に分かれ、激しい戦いをしていましたが、異国の金銭や武器の支援には目をくれませんでした。ここが、朝鮮人の指導者である李承晩氏や大院君、閔妃との違いです。

 だからと言って、「ねこ庭」では李承晩氏を軽蔑したり冷笑したりしません。自分を第一と考え強いものに巻かれ、他人や国のことはその次に考える。

 ・・・おそらくこれは、周囲の大国に常に攻められ、強者の顔色を伺って身を守った朝鮮の歴史からくる「生き方」と思います。この国には、慶喜公や西郷のような人物を生む土壌がなかったのです。

 今でも、大統領をやめた途端刑務所に送られるという悪循環が続いているのも、いわば韓国の持つ風土なのかも知れません。収賄は犯罪でなく韓国の文化だという政治家もいるので、それこそ千年経っても改まらない利己主義の国です。

 上巻の残りが250ページあります。李承晩氏へのアメリカの支援と日本への悪口と、せめぎ合う米ソの話など、多くの資料が紹介されていますが、煩雑なだけなのでここで終わろうと思います。

  ・長い年月にわたって、日本人による民族差別政策の犠牲者とされてきた朝鮮人は、没落した大日本帝國の絶望的なあがきの時にも、犠牲者として供された。

  ・敗戦後数日ならずして、朝鮮人は数々の汚名を着せられた。

  ・やれ闇市が出たといっては非難され、やれ犯罪が増えたといっては責められれ、税金滞納者、戦争中の臆病者、伝染病の伝播者などと毒づかれた。

 こういう調子で延々と続く氏の著作に、「ねこ庭」の忍耐も切れました。

 事実無根とは言いませんが、「針小棒大」「悪意の誇張」があり過ぎます。氏の著作は、日本と、韓国・朝鮮間の憎悪を、拡大する悪書です。現在の日本で氏の意見に賛成しているのは、反日左翼議員と活動家と、お人好しの「お花畑」の住民です。

 息子たちと、訪問された方々に伝えたいのは、氏の著書でなく、慶喜公と西郷隆盛の言葉です。このようなご先祖がおられたから、私たちの現在があることを知り、日本の歴史と伝統を大切にしなければなりません。

 一日も早く、マッカーサー元帥がプレゼントした「東京裁判史観」と、「日本国憲法」を超克し、日本を取り戻さなくてなりません。

 それでも次回は辛抱強く、下巻の紹介をします

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