ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

共同通信社 - 4 ( 草創期、200を超える通信社 )

2018-06-30 20:12:54 | 徒然の記

 通信社の歴史を概略知りたいと思いましたが、簡単なものではありませんでした。

 新聞も似たような歴史を持っていますが、通信社は大きな資金が必要なためか、 最初から政党や財閥が関わっています。

 裏金や政略など暗い話が敬遠されたためでしょうか。なぜかこれまで、通信社に関する本を目にしませんでした。

 こうした世界を好むものではありませんが、やめる訳にいきません。調べた資料が煩雑なので、できる限り省略しようと思います。

  「日本では江戸時代に、米相場の動きを手旗信号によって、遠方に伝える手法が、存在したが、」「近代的通信社が生まれたのは、明治時代のことである。」

 通信社の歴史は、こんなところから始まります。

 「板垣退助らが中心となって展開した、自由民権運動を契機として、」「国会設立の機運が高揚し、明治23( 1890 )年に、第1回帝国議会が開かれた。」「この動きに乗って続々と新聞が発刊され、同時に、国政の動向や政論を配信する通信社も、数多く設立された。」

 日本史の授業と同じで退屈しますが、偏見の記事を溢れさせている共同通信社を知ろうと思えば、続けるしかありません。

 「当時は、東京だけで、200を超える通信社が存在したが、草創期の通信社は総じて小規模なものであった。」

 ここからは文章でなく、事実だけを抜き書きします。

    ・明治20年(1877)

         六角政太郎が「東京急報社」を創業。大阪・堂島の米市場の情報を、江戸橋電信局

     に打電し、東京の顧客に伝達。これが、日本における近代的商業通信の嚆矢。

   ・明治37年(1904)

     同社は、「合資会社商業通信社」として再生。

   ・大正8年 (1919)

     株式会社化され、1937年(昭和12年)に「日本商業通信社」に吸収された。

   これが一つの流れで、ここからは別の会社の話です。

   ・明治21年 (1888)

          11月4日、三井物産創業者の益田孝により「時事通信社」(現在の時事通信社とは

     無関係)創立。当時の内務省警保局長、清浦奎吾(のち首相)の肝煎りで設立され

     た御用機関。激しい内紛のため、3年足らずで休業。

   ・明治23年  (1890)

     郵便報知新聞社(のちの報知新聞社)社長、矢野龍渓が「新聞用達会社」を創業。

     郵便報知新聞社と同様に、立憲改進党支持の姿勢。

   ・明治25年  (1892)

     時事通信社と新聞用達会社が合併し、「帝国通信社」(以下「帝通」)誕生。

     初代社長は、新聞用達会社主幹だった竹村良貞が就任。同社の記事は、政府方針に

     反するとして、度重なる発行停止処分を受けた。帝通は官庁の発表記事に強く、新

     聞各社は帝通の記事を欲した。日清・日露戦争を通じ、業務を拡大し、抜きん出た

     存在に成長した。

 当時生まれた通信社としては、他に、

   ・明治23年(1890)、清浦奎吾が警保局の機密費を使い設立した、「東京通信社」、

   ・明治24年(1891)、漆間真学が設立した「日本通信社」、

   ・明治26年(1893)出版界の雄・博文館の大橋左平が設立した「内外通信社」、

   ・明治32年(1899)自由党代議士の星亨が設立した「自由通信社」

 煩雑ですが、通信社が政治家や財閥よって作られる大金を要する会社と理解できました。

 資料ではさらに、政治家とのつながりが語られてます。

 「日本通信社は、明治39年(1906)に、庇護者の伊藤博文が、」「自ら初代統監に就任すると、京城に支局を設置した。」「日本の通信社が、海外に拠点を置いたのは、これが最初である。」

 「内外通信社は、ロイターとの直接契約に成功し、外電を国内に配信した。」「しかし当時は、外電の需要が低く、売り上げは低迷した。」「結果、明治30年(1897)に、博報堂の瀬木博尚に譲渡され、」「昭和30年(1955)に博報堂に吸収された。」

 「自由通信社は、自由党の宣伝機関として機能し、星の死後は、」「西園寺公望がこれを継いだが、関東大震災以後凋落した。」

 ここまでで生き残っている通信社は、時事通信社と、新聞用達会社が合併してできた、「帝国通信社」です。そして出現するのが「電通」です。電通は広告代理店と思っていましたが、通信社の業務も行っていました。

 現在マスコミ界を牛耳るのは、巨大な共同通信社と電通です。知ることは国民の武器でもありますので、次回は電通の誕生について紹介します。

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共同通信社 - 3 ( 通信業界も、弱肉強食の世界 )

2018-06-30 15:57:37 | 徒然の記

 通信社へ好奇心が、予想もしなかった世界へと私を導きます

 無作為に情報を探していますため、どこからの引用なのか忘れていますが、 興味深い叙述を見つけました。

 「国家を代表する、通信社の栄枯盛衰は、往々にして、」「その社が属する、国家のそれと、軌を一にしている。」「即ち、国家の勢力圏の拡大は、通信社の販路の拡大に直結するものであり、」「通信社の配信する記事の増大は、国家の発言力の増大を意味する。」

 国産会社が多い理由は、こう言うところにもあるのかと、納得させられます。

 「国営通信社に、その傾向が顕著であることは、もちろんであるが、」「その他の通信社も、多かれ少なかれ、同様の性格を帯びている。」「フランスのアヴァンスや、日本の同盟通信社は、国家の降伏直後に解散した。」

 「これに対し、アメリカのAPは、第二次大戦後の、国家の隆盛と歩調を合わせて伸長し、」「世界最大の通信社として、躍り出た。」

 前回世界の通信社を調べた時、イギリスにロイター社の名前がないことに疑問を抱きました。私の記憶には、ロイターはイギリス最大の通信社だと刻まれていたからです。日本の同盟通信社もそうですが、ロイターも同じだったのです。

 「国家を代表する、通信社の栄枯盛衰は、往々にして、」「その社が属する、国家のそれと、軌を一にしている。」・・と言うことです。話が横道へそれるとしても、息子たちに伝えるため頑張らなくてなりません。  

 青木周蔵といえば、明治、大正期の外交官であり、政治家です。勲一等を叙勲され、爵位は子爵です。幕末の混乱時に列強に結ばされた不平等条約を、対等のものに改正した功労者の一人として高名な人物です。 

 イギリスのロイターは、日清戦争の末期 ( 1894年 ) に、青木周蔵と五箇条の密約を交わしています。

  1. 青木は、日本政府が公式に発表するニュースを、ロイターだけに提供する。日本の近代化を理解できる出版物と、政治・軍事に関する特別電報とを、ロイターへ送るよう日本政府へ働きかける。
  2. ロイターは、イギリスの政治関係電報を、公表前に青木に知らせる。国益に関わるものは、ロイター社独自に集めた情報も与える。
  3. 日本政府は、毎月50ポンドをロイターに支払う。
  4. ロイターは、日本の財政と商業の必要に応える。
  5. 契約は、明治27(1894)年8月1日から、1年間有効とする。

          明治32 ( 1899 ) 年、ロイターは、日本の国内10紙と契約しています。

 東京日日新聞、日本新聞、萬朝報、東京朝日新聞、毎日新聞、中央新聞、都新聞、国民新聞、中外商業新報、報知新聞、の10紙です。密約の中身を読みますと、ロイター通信社が、英国政府と密接につながっていることが伺われます。 

 通信社と日本政府の密約は世間で公にならないだけで、中身は政府間協定や条約と同じです。

  「通信社はその業務の性格上、膨大な資金力を必要とする。」という説明も、私の予測を裏付けています。しかしその通信社でも国家の消長に左右され、七つの海に翻った「英国旗」が、第二次世界対戦後は威力を失い、アメリカに取って代わられます。

 ロイターは経営不振となり、カナダの通信社に買収され、その後米国の会社に買い取られ、現在のトムソン・ロイターとなっています。この会社の本社が米国でなく、今も、イギリスのロンドンにあるという事情が理解できました。

 「かつて栄華を誇った、同社の一般ニュース部門は、」「1960年代には、不採算部門の烙印を押され、一時は売却すら検討された。」

 ロイターは方向転換し、一般ニュースの提供から経済関連ニュースへと重点を移しました。経済通信部門が隆盛を極め、現在では同社の売り上げの大半を占めるまでに成長し、ロイターの事業規模は、一般ニュース部門ではAPの後塵を拝していますが、社全体ではAPのおよそ10倍に達しているとのことです。

 「今や、経済・金融情報分野の勢力図に、目を向けることなくしては、この業界の全貌を知ることは、できなくなっている。」・・

 金融業界だけが世界を荒し回っているのでなく、通信社業界も、同じ弱肉強食の世界であることが分かりました。この世界の移り変わりの激しさを示す、興味深いデータがありましたので、紹介します。

 明治3 ( 1870 ) 年代の、世界の通信社の支配圏です。

  1. アヴァス:(フランス)

     イタリア、スペイン、スイス、ポルトガル、エジプトの一部、フィリピン、

    ラテン・アメリカ諸国

  2. ヴォルフ:(ドイツ)

     オーストリア、オランダ、北欧、ロシア、バルカン諸国、

  3. ロイター:(イギリス)

      大英帝国、トルコ、エジプトの一部、中国、日本
 

 3大通信社が、世界市場を3分する体制が確立し、アメリカのAP ( Associated Press )は、まだ遅れを取っていました。しかし第二次世界大戦でアメリカが台頭し、世界市場は一変します。

  ドイツのヴォルフも、フランスのアヴァスも社名がなくなり、ロイターは社名が残っていても、今は米国の会社です。情報が少ないため、私たちが知らないだけで、通信社業界は、世界支配をめぐる各国の戦場だったのです。

 ここまで分かったところで、いよいよ次回から、本題の共同通信社へと移りたいと思います。

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共同通信社 - 2 ( 通信社の社名を表示しない、地方紙 )

2018-06-30 08:16:43 | 徒然の記

 本日は世界のどのような国が、どんな通信社を持っているのか、というところから始めます。以下が現在の世界にある、通信社の一覧です。

  [ ア ジ ア ]

   日 本   共同通信社  時事通信社 ラジオプレス  東京ニュース通信社

       JX通信社

   韓 国   聯合ニュース

   中華民国  中央通訊社

   中 国   新華社  中新社

   北朝鮮   朝鮮中央通訊

   ロシア   RIAノーボスチ  インテルファックス通信

   ラオス   ラオス通信社

   インド   PTT通信(PTI)  インド連合通信(UNI)

  [ 南北アメリカ ]

   アメリカ  AP通信   トムソン・ロイター  UPI通信社

   カナダ   カナディアンプレス

   アルゼンチン テラム通信

  [ ヨーロッパ ]

   ドイツ    EPA通信  ドイツ通信社
 
   フランス   フランス通信社 ( AFP通信 )
 
   イタリア   ANSA
 
   ロシア         ロシアの今日  イタルタス通信  インテルファックス通信
 
   ウクライナ  ウクライナ独立通信社
 
   ポーランド  ポーランド通信社
 
   ハンガリー  ハンガリー通信 ( MTI )
 
   アゼルバイジャン  アゼルバイジャン国営通信

  「日本の通信社は、1940 ( 昭和15 )年代に、国策通信社である同盟通信社が、ほぼアジアを制覇し、」「日本国外に満州国通信社、蒙疆通信社を置き、中国、ヨーロッパにも、」「日本の目と耳となる、特派員が情報網を形成していた。」

 共同通信社の前身が。同盟通信社だったことが分かります。

 「同盟は、7大通信社の一角を占め、ロイター、AP通信とも、互角に勝負ができる、大通信社を形成したが、」「第二次世界大戦後、古野伊之助が、同盟を分割した。」

 「政治や社会、国際ニュースを扱い、社団法人の形態を取る共同通信社と、」「経済ニュースと、出版を手掛け、株式会社の形態を取る時事通信社の2社が、誕生した。」

 戦前の同盟通信社は、世界の7大通信社の一角を占めていました。しかも国策会社だったとすれば、普通の会社ではありません。

 「共同通信社は、地方紙などの加盟社から、定期的・継続的な収入を得て、」「経営が、比較的安定している。」

  「日本の通信社は、特に地方紙において、その役割が大きく、」「国内の政治、経済、スポーツ記事、」「そして、世界の通信社からのニュース等を、地方の新聞社、」「放送局等に配信する役割を、担っている。」

 「また、加盟社が取材したニュースを、他の加盟社へ配信したり、」「船舶などへの、ニュース配信業務も行っている。」

 新聞だけでなく地方の放送局や、船舶にも配信しています。

 「欧米の主要紙においては、文責を明確にするため、配信記事には、」「配信した通信社の、名前が付されるのが一般的である。」「これに対し、日本では、沖縄県を除き、」「配信記事であることを示す、通信社名を表記することは、まれである。」

 「共同通信社の定款によれば、共同通信社が配信した記事を、」「加盟新聞社に供給する場合には、『共同通信』の社名をつけないといけない、 と規定がある。」

 「 しかし、記事を提供されている地方紙では、この規定は遵守されていない。」「配信元の社名表記がないため、一般読者からすると、あたかも独自に、取材・制作した記事に見えてしまう。」

 「これは日本独自の慣行であり、通信社側も、黙認していることではあるが、」「社名が本来負っているはずの、文責があいまいとなり、問題が生じたとき、」「責任の所在が、不明確になるという弊害がある。」

 千葉日報の記事に、通信社名が付記されていたり、なかったりする理由が分かりました。何も知らない読者は、社名の無い記事は、購読している新聞社の取材だと勘違いします。一流新聞社と同じ取材力を持っていると思いますが、地方紙はそうした読者の誤解を期待しています。

 零細地方紙の内情を知ると、通信社を取り巻く状況がますます知りたくなります。続きは、次回といたします。

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共同通信社 ( 通信社と新聞社の関係 )

2018-06-29 16:27:24 | 徒然の記

 共同通信社について述べる前に、そもそも通信社とはなんであるのか。世界には、どんな通信社があるのかについて、調べました。

  〈 一般的な説明 〉

  「通信社とは、報道機関や民間企業の需要に応えて、大きく一般向けニュースと、経済・金融ニュースの、収集・配信を行う、二つの組織に分けられる。」

  「国内通信社、国際通信社、専門通信社の、三つにも区分される。」

  〈 国際通信社 〉

  「国際通信社は、世界100カ国以上に支社局があり、24 時間活動し、」「100カ国以上の新聞、放送、通信など」「数千の顧客に記事を配信する。」

  「英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、」「ロシア語、アラビア語など、多言語で配信する組織。」

 このくらいまでなら何となく知っていますが、次のようになりますと、啓蒙してもらうしかありません。

  〈 設立形態 〉

 「営利を目的とした会社法人と、報道機関が共同出資した組合法人(社団法人)と、半国営企業の外観を備えた国家機関に三分できる。」

 「UPIの破綻や、時事通信社の経営不振が象徴するように、民間通信社は、経営が厳しく、」「APやAFP、共同通信社などの社団法人や、」「中国の新華社、ロシアのイタルタス通信などの半国営企業形態が、中心的存在である。」

 中国の新華社や、ロシアのイタルタスのような国家の宣伝機関と、報道機関が共同出資した会社しか生き残れないほど、激しい競争世界であると教えられました。

 ロイターのような純粋民間企業の通信社は、伝統的な通信社業務から撤退し、経済情報に特化したサービス会社の方向を目指しているといいます。

 通信社の役割や位置付けについては、予想していた以上の中身がありました。

  ・外国のニュースなどを、独自に購入したり、外国に特派員を独自に派遣したりする費用を負担できない新聞社を、支えるものとして、通信社は生まれた。

  ・多数の報道機関に記事が採用されていくにつれ、報道全体への影響力を増していった。

  ・この経済的理由から、需要側のマスコミと、供給側の通信社の関係が、生まれた。

  ・逆に言えば、通信社が国内外の情報を収集するためには、報道機関の支えが必要である

  ・多くの新聞社は、費用を分担して運営する新聞組合の通信社に、加盟している

  ・特殊な分野では独立系通信社も存在する。

  ・マスコミは、政治的、地理的な理由からも、通信社と契約している。

 千葉日報のような零細な地方紙と異なり、大規模な全国紙はほとんどのニュースを自社の記事で埋めていると思いがちですが、注意してみますと、ニュースの最後に配信した通信社名が、カッコ書きされています。

 通信社の仕事は、ニュースを新聞社へ届けるまでで、紙に印刷し、販売し、配達するのは新聞社の仕事です。こうして彼らは、分業体制を確立しています。

 「ただし報道機関は営利企業であり、資本の蓄積や拡大を宿命として抱え、」「ニュース情報も、一元集中させようとする動きが、特に大新聞の、過去の歴史から見てとれる。」

 「つまり新聞と通信社は、互いに依存しながら、潜在的に、敵同士であるという、複雑な関係にあり、」「これが新聞人や、通信事業経営者を主役とした、いくつかの事件を生んできた。」

 世界各地の情報は、路端に転がっているのでなく、結局はその国の人間から得ます。間違いの少ない、正確な情報を得ようとすれば、ニュース源となる人間は、政府の高官、経済界の有力者、著名な政治家などに絞られてきます。

 極秘ニュースや特ダネを得るには、日頃のつき合いがなくてはできません。政治、経済、軍事、文化、芸術等々、世界中から情報を掴むためには、いったいどれほどの陣容と資金がいるのでしょう。

 「中央紙と地方紙の、販売部数競争においても、地方紙の主要面の記事を提供する、通信社の役割は重要であるが、」「現在は、多くの新聞の紙面の特色が薄れた。」

 「地方紙も全国紙も、ほとんどの記事を通信社から買うため、新聞の特色が無くなっている。」と、こう言っています。

 「テレビ番組や、紙面の外信が、通信社の配給ニュースで構成されることから、」「通信社は、ニュースの卸し問屋と呼ばれる場合がある。」

 全国規模の卸し問屋から、ニュースを買っているのですから、新聞やテレビの報道に特色がなくなり、横並びの報道になります。そうなりますと、「安部があー」とか、「モリカケ」報道を、氾濫させているのは通信社ではなのかと、そんな背景が見えて来ます。

  これを裏づける事実として、共同通信社が配信している地方紙の一覧表がありますので紹介します。
 
  北海道新聞  室蘭民報  河北新報  東奥日報  デーリー東北
 
  秋田魁新報  山形新聞  岩手日報  福島民友新聞  ジャパンタイムズ
 
  東京新聞   下野新聞  茨城新聞  上毛新聞   千葉日報
 
   神奈川新聞  埼玉新聞  山梨日日新聞  信濃毎日新聞  新潟日報
 
  中日新聞   中部経済新聞  伊勢新聞  静岡新聞  岐阜新聞
 
  北日本新聞  北國新聞   福井新聞   富山新聞  北陸中日新聞

  日刊県民福井 京都新聞   神戸新聞   奈良新聞  大阪日日新聞

  山陽新聞   中国新聞   日本海新聞  四国新聞   愛媛新聞

  徳島新聞   高知新聞   西日本新聞  大分合同新聞 宮崎日日新聞

  長崎新聞   佐賀新聞   熊本日日新聞  南日本新聞  沖縄タイムズ

  琉球新報   スポーツ日本新聞東京  スポーツ日本新聞大阪

  報知新聞   日刊スポーツ新聞東京    日刊スポーツ新聞大阪
 
  ディリースポーツ  47NEWS
 
 地方紙一覧ですから、全国紙の朝日新聞や毎日、産経は除外していますが、これを見ると日本の世論を誘導し、反日左翼の思想を拡散しているのは、誰なのかも見えてきます。
 
 本日はこれまでとし、続きは明日といたします。
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今もなお、これが日本の現実

2018-06-27 23:46:23 | 徒然の記

 少し古い話題ですが、6月8日の千葉日報に、日高六郎氏の記事が掲載されました。

 「日高六郎さん死去」「101歳 行動する社会学者」、と言うタイトルで、氏の写真付きの三段組みの記事です。単なる訃報でなく、足跡を讃える内容です。長くなりますが、そのまま紹介いたします。

 「行動する学者として、戦後の平和運動をリード、」「ベトナム反戦や、水俣病問題などにも取り組んだ、」「社会学者日高六郎さんが、老衰のため、」「京都市の、高齢者施設で死去した。」「101歳」「個人の意思で、葬儀は行わない。」

 「中国、青島の生まれ、東京帝大卒。」「戦中の、海軍技術研究所嘱託を経て、」「戦後は東京大新聞研究所助教授を経て、1960年から、教授。」「60年安保闘争をはじめ、数多くの市民運動の中心となって、」「理論と実践の両面で、活躍した。」

 ここまでで、やっと半分の、長い記事です。60年安保闘争は、忘れもしません、昭和35年に展開された、日米安全保障条約に反対する、国会議員や労働者、学生たちが参加した、日本史上で空前の規模の、反政府、反米運動でした。これはまた、傷害、放火、器物損壊などが伴う、大規模暴動でもありました。

 安保の仮想敵国は、ソ連でしたから、ソ連が激しく反対し、当時の共産党や社会党に、ソ連からの資金援助があったことが、後年に明らかになりました。今沖縄で、基地反対運動の中心にいる高齢者は、この時の学生たちです。年を取っても、左翼過激派は、いつまでも学生時代を忘れない、信念の馬鹿者かと、私は呆れるしかありません。

  「知識人の、社会的責任を持論とし、」「作家の小田実さんや、評論家の鶴見俊輔さんらと共に、」「在野の立場から、主張を続け、」「平和や教育、公害、人権などの問題で、」「戦後の民主主義を擁護する、論陣を張った。」

 「60年代末の、東大紛争では、大学への機動隊導入に抗議して、」「教授を辞職。」「ベトナム反戦運動では、脱走米兵を自宅にかくまうなど、」「社会の課題に、積極的に関わった。」「一方で、市民運動の拠点として設立された、」「国民文化会議の代表も務めた。」

 記事は、まだ続きます。私も、諦めずに、辛抱強く転記いたします。

 「護憲の立場から、ドキュメンタリー映画、」「"日本国憲法"に出演。」「戦時中の、自らの精神史を振り返る、」「"戦争の中で考えたこと"、を出版するなど、」「日本の平和主義を守るために、発言を続けた。」

 「著書に、"戦後思想を考える"、"現代イデオロギー"、」「編著に、"1969年5月19日"、など。」「E・フロムの、"自由からの逃走"の、訳者としても知られる。」「妻の暢子さんは、画家、エッセイスト。」

 ここでやっと、記事が終わりました。亡くなった後にも、氏の著作が売れるようにと、本の題名まで書き、ついでに、奥さんまで紹介しています。私がなぜ、面倒さも厭わず、長々と記事の引用をしたのか、ここでやっと、本日のブログのタイトルとつながります。

 「今もなお、これが日本の現実」・・

 記事の中に出てくる、小田実氏や、鶴見俊輔氏は、私が過去のブログで、「獅子身中の虫」として、強く批判した人物です。国際社会において、捏造のプロパガンダで、日本に敵対する中国や、韓国・北朝鮮に、心を寄せる反日の人間ですから、その仲間である日高氏も、日本のためにならない人物です。

 最近は、ネットの世界でも、やっとマスコミの偏向報道が語られるようになり、反日と売国の人間が、嫌悪されるようになりました。左に寄りすぎたマスコミの記事に騙されないようにと、日本を大切にする人間が、少しずつですが増えています。

 しかし、どうでしょう。日高氏の訃報を知らせる記事は、反日・左翼である氏を、褒め称えている内容です。ネットの中で、目覚めた保守たちが、朝日新聞やNHKの凋落を語っていますが、しかし、この記事を読めば、呟かずにおれません。

  「今もなお、これが日本の現実」・・

 昭和49年に、日高氏の細君は、日本赤軍との関係を疑われ、フランス警察に捕まっています。容疑が晴れて釈放されましたが、これ以後昭和64年まで、フランス政府は、日高夫妻に対し、長期滞在ビザを発給しませんでした。

  昭和56年に、氏が、オーストラリアの大学から客員教授として招かれた時、オーストラリア政府から、ビザの発給を拒否されたこともありました。

  平成9年には、 日高氏が理事長を務めていた、「社団法人神奈川人権センター」が、三浦商工会議所の新春経済講演会に、櫻井よしこ氏が講師として招かれることについて、反対しました。

 その理由は、慰安婦問題で、差別的発言をしている櫻井氏を招くことは、参加者に悪影響を与える、というものでした。このことが新聞に出ますと、商工会議所に、抗議が殺到し、三浦商工会議所は、神奈川人権センターの圧力に屈する格好で、講演会の中止を決定しました。

 こうした事実を知るだけでも、生前の氏は、社会運動家とか、平和活動家と言うより、日本の社会に害をなす、反日・左翼の活動家です。しかもフランスやオーストラリアの政府からも、忌避されるような、危険人物なのに、新聞の記事は、ひたすら氏を誉めています。ですから、「今もなお、これが日本の現実」・・という話になります。

 しかし本日の私は、この記事をもって、千葉日報社を非難することは、いたしません。以前にも書いたことがありますが、地方紙である千葉日報社の記事のほとんどは、共同通信社からの配信です。千葉県内のことなら、千葉日報の記者が書きますが、国際政治や全国の出来事については、共同通信社から記事を買っています。

 記事の掲載を断れば、通信社から以後の配信を拒絶され、新聞が続けられなくなりますから、弱小な地方氏は、いわば共同通信社の支配下にあります。NHKや朝日新聞ばかりが、捏造、反日として、世間で騒がれていますが、共同通信社には、誰も注目していません。

 電通と同様に、世間から注目されていないのに、マスコミ界で隠然たる力を持ち、世論をリードしています。明日から私は、共同通信社につきまして、調べてみたくなりました。

 ブログにまとめられたら、息子たちに教えたいと思います。訪問される方は、あまり期待されませんように、お願いいたします。根気よく探しますが、なにしろ、私には、ネットの情報しかありませんので・・。

 

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国防婦人会 - 4 ( 不思議な著作 )

2018-06-26 06:50:55 | 徒然の記

 昭和11年から始まった日中戦争は、事変という名称でしたが、政府内では総力戦と認識されていました。

 当時の状況を藤井氏が、語っています。

 「政府は自ら音頭をとって、総力戦にふさわしい銃後の形成に、向かわねばならなくなった。」「昭和12年9月9日、近衛内閣は国民精神総動員を告諭した。挙国一致、尽忠報国、堅忍持久が、そのスローガンである。」

 「10月12日には、国民精神総動員中央連盟 ( 精動 ) が結成され、国内の諸団体を糾合した。」「内務省と文部省が主務庁となり、各界の代表が役員についた。」

 この辺りの動きは、2月に読んだ富田健治氏の著作と一致します。富田氏は近衛内閣の内閣書記官長で、今で言う内閣官房長官でした。近衛首相は陸軍の独走を快く思わず、陸軍もまた首相に協力しませんでした。

 富田氏は元内務官僚で下から、内政の主導権を、陸軍から内務省へ移そうとしていたのかも知れません。特に陸軍の指導下にあった国防婦人会について、首相は何とかしたかったに違いありません。

 昭和12年、近衛内閣が国民精神総動員を告諭した、6年後の昭和18年には、国防婦人会が消滅しています。この間の各団体の合併、統一、名称変更について、藤井氏が詳しく説明していますが、煩雑なので省略します。

 国防婦人会を除けば、他の団体は内務省とのつながりが深いので、一気に参集しています。市川氏がリーダーだった市民運動家の団体も、内務省にパイプを通じていました。

 「国防婦人会が一人不参加で、あたかも、国防婦人会包囲網のようにも見えた。」

 この状況を、氏はこのように語り、市民運動家の動きについても説明しています。同じ左系の仲間だと思うのに、氏の語り口は冷淡です。

 「婦人たちの活動内容が、経済と暮らしが主要なものとなるに及んで、」「ヘゲモニー ( 主導権 )」を取るべく画策していたのが、従来の市民的婦人運動家たちであった。」「彼女らは、国民精神総動員中央連盟 ( 精動 )の委員に加わり、各種委員会が設けられるとその委員に加わり、指導者の位置に立った。」

 こうなると、市民運動家たちの動きは、現在と同じ政争そのものです。市川房枝氏以外は知らない人物ばかりですが、参考のため、他の運動家の名前も紹介ておきましょう。

 山田わか、吉岡弥生、西野みよし、高良富子、井上秀子・・まだ、8人の名前がありますが面倒になりました。

 各種の団体は、団体そのものは解散せず、国民精神総動員中央連盟 ( 精動 )という大きな中央組織に、連合体という形で集まっていました。結局国防婦人会も、これに参加しますが、この時の状況を氏が語っています。

 「この機を捉えて、20年代の婦人運動家たちが戻ってきた。」「国防婦人会は、国民精神総動員中央連盟 ( 精動 )の、下部実行団体になったのである。」「昭和7年以来、婦人運動が対抗し系列化してきた後に、このような形で統合に向かったのも、歴史の揺り戻しなのだろうか。」「 ( 精動 )入りした市川らは、しばしば地方の国防婦人会の会員に対して、講演者の立場になるのであった。」

 「昭和15年に、 ( 精動 )は、贅沢全廃運動委員会を設け、大都市を標的に、運動を始めた。各種婦人団体は、これに応じて婦人挺身隊を編成し、街へくりだし、警告カードを渡すことになった。」

 「カードは、華美な服装は慎みましょう、」「指輪はこの際全廃しましょう、というもの。」

 「街には、贅沢は敵だ、の看板が立ち並んだ。」「この街頭挺身で一番張り切ったのが、旧市民運動家たちだった。彼女たちの熱心な監視活動、指導的発言の増加は、まさに進行中の、政治経済新体制の転換にあたって、婦人団体統合の主導権を狙った動きなのであった。」

 「そこに描かれる婦人世界像は、戦争推進の先兵となった国防婦人会の解体、隣組を基礎とした、単一婦人組織への全婦人の統合、最終的には大政翼賛会への、婦人代表の進出だった。」

 元々私は、市民活動家に疑問を感じていますから、氏の説明を読んでいますと、市川房枝氏らへの怒りが湧いてきます。彼女は戦後に菅直人氏に担がれ、参議院議員となり、菅氏は鳩山氏や小沢氏と組み民主党政権を誕生させ、反日と売国の政治をしたのですから許せません。

 市川房枝氏らは、今日に続く「獅子身中の虫」と、「駆除すべき害虫」の原点ですから、むしろ、素朴で献身的な、国防婦人会の女性たちに同情します。

 内務省の主導で、全国の市町村に「隣組」が作られると、婦人活動のあり方に決定的な変更が生じました。隣組の活動に防空、防災演習が加わると、割烹着姿の国防婦人会の服装は、不便で役に立たないという批判が出るようになります。

 一口に左翼と言っても、学者の藤井氏と市川氏のような市民活動家は、肌が合わないのでしょうか。氏の説明は市川氏らに冷淡なので、その分だけ藤井氏に惹かされるという不思議な体験をします。

 「隣組は、配給制度の末端機関となることにより定着し、国民生活に粘着した。」「隣組が、国民生活のため不可欠の単位となるに及んで、旧婦人活動家たちは、実にうまく指導層を形成していった。」

 「国防婦人会と愛国婦人会は隣組が成立すると、二重組織の煩雑さに加え、細分化された隣組の単位には対応しきれない、状況が生まれた。」

 「つまり行政ルートは、軍から内務省の管轄下にある市町村へ移り、軍が国防婦人会という組織を持つこと自体が、国民統合のためのガンとなった。」

 役目を失った婦人団体は、急速に解体し消滅していきます。富田氏の著作を読んでいるので、軍部と対立していた近衛公の苦労を知っているため、納得する流れがあります。

 納得できないのは、国防婦人会の女性たちの献身まで歴史から消滅させたことと、運動を政争の具にし、自分たちの主導権を奪い取った市民活動家の女性たちです。粘り強いと言えば良いのか、狡猾と言うべきか、いずれにしても私には彼女たちの顔が、現在の反日野党の女性議員の顔と重なります。

 福島瑞穂、蓮舫、辻元清美、山尾志桜里、阿部知子氏等々、国会を紛糾させている各氏の顔です。

 本日で藤井氏の書評を終わりますが、最後まで分からないのは氏への評価です。左翼とは言いながら、この人物は国を愛する「本物の」左翼ではないのか。あるいは、最初の日に私が感じた「庶民の学者」、ということなのか。

 不思議で、有意義な、忘れがたい本となりました。感謝する啓蒙の書でもあります。

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国防婦人会 - 3 ( もう一つの昭和の顔 )

2018-06-25 18:17:45 | 徒然の記

 当時の婦人団体には、愛国婦人会、国防婦人会、大日本婦人連合会の他にも沢山ありました。

 今でも農村へ行きますと、「家の光」という雑誌が読まれていると思います。元々は農林省の所管だった、産業組合中央会(大正14年)から発行されたものです。情報に乏しかった農村部向けに出されたれた雑誌で、農協を通じての配布でしたから、農家以外の家庭は馴染みがありません。

 「家の光」は、友の会方式で農村婦人の組織化を進め、目的は、農村の疲弊を救うための自力更生運動が中心でした。節約し、生活の合理化に努め、貯蓄をすることに主眼が置かれていました。

 昭和6年には10万部だった「家の光」が、昭和10年には100万部に達するほどでした。

  愛国婦人会も国防婦人会も、発祥は都市部ですから、農村部を補うものとして、「家の光」の団体は活動していました。戦争の拡大と共に、国防婦人会や、愛国婦人会の団体も農村へ進出しますが、実態は、家の光のメンバーが参加しているようです。農村の女性にとっては、出征する兵士のお世話や留守家族の支援であれば、団体の名前がなんであっても、参加することにためらいはありませんでした。

 今ひとつ忘れてならないのは、婦人の権利向上を目指した市民団体のことです。馴染み深い市川房枝氏がリーダーとなった、「婦選獲得同盟」です。昭和7年の大会でファッショ反対を決議し、昭和8年と9年の大会では、膨大な軍事費拡大への反対を決議し、軍事国家への反対勢力となっています。

 都市部の演説会では満員になったようですが、時節柄会員は伸びませんでした。昭和9年に1,431人だった会員が、昭和14年には、690名となっています。昭和13年の、国防婦人会の会員数が755万人、愛国婦人会が360万人ですから、比較にならない数字です。

 平成30年と比較しますと、当時のマスコミには常識があったと思います。彼らは今、私ネトウヨ、右翼と攻撃しますが、朝日も毎日もNHKも、当時は主戦論の先頭で、聖戦遂行へと国民を促していました。にも拘らず、今の彼らの変節ぶりはどうでしょう。

 社会党の成れの果ての社民党が、国会の議席のほとんど失っているのに、今も野党第一党のように扱っています。共産党に至っては、国民弾圧の独裁政党であることを報道しません。

 マスコミへ批判が目的でありませんから、藤井氏の著作へ戻ります。

 「今私たちは、多くの戦争体験記を見ることができる。」「食糧不足のこと、配給のこと、焼けた家のこと、読むごとに戦争中の苦しい生活が甦る。だが、体験の伝承には大きな落とし穴がある。」「戦時下はすべて苦しかったかというと、かならずしもそうではないのである。」

 「昭和13年現在、戦闘状況はなお厳しいが、銃後はまだ普通の生活に近い。」「にもかかわらずその時期は、消費経済規制と、銃後生活のあり方が声高く叫ばれた時なのであった。」「それは一つには、戦場の苦渋と安穏な銃後生活の落差を埋めるための、精神的措置。」「今ひとつには戦争遂行のための、経済・物動計画からくる諸要請に基づいている。」

 昭和13年の閣議で、政府が経済戦強調週間の展開を決定しました。ここから、消費節約運動と貯蓄奨励運動が、経済国策の二本柱となります。それでも、中々国民の協力が得られないため、活用されたのが女性たちの組織でした。

 兵士へ慰問袋を送ったり、千人針を集めたりするだけでなく、財布を握る主婦である女性たちは、国策遂行の実働部隊でした。買い溜め禁止、贅沢禁止、貯蓄奨励などを率先して行い、様々な廃品を回収し、お金も集めました。

 女性たちの活動が、いかにすごかったかを語るエピソードとして、氏が大阪の廃品回収業者の話を紹介しています。

 彼女たちの活動が広がりを見せると、大阪市内の廃品業者の仕事が無くなり、廃業する者が現れました。これを知った女性たちは、業者へ詫びを入れ、集めたお金を分けたと言います。

 次の事実も、私の知らない昭和です。参考のため紹介します。

 「日中戦争段階の生活実態と、戦争の現実の間には、意外な開きがある。」「後に決戦段階になって、食糧も生活必需品もなくなり、本当の戦争の悲惨さを、すべての国民が味わった時期とは違う日常があった。」

 「国策の中から、一方では戦場で死ぬ者、一方では、景気が良くて儲かる者という矛盾した実像が生まれる。」「景気の良いままに、享楽の生活が浸透すれば、」「不幸にも駆り出された兵士は、戦場で死を睹して戦えない。」「この意味で、政府の、消費統制運動の主要な部分は、国民の精神統制なのであって、国民精神総動員と言われる所以である。」

 敗戦後の日本では、マスコミの報道だけでなく、学校でも世間でも、氏の話とは違った世論が作られました。

 「暗黒の昭和」「暴走する軍隊に、押しつぶされた国民」「言論の自由を奪った、国家権力」「国民の声を無視した、無慈悲な国家」・・と、私は碌でもない日本を、これでもかと学校で教わりました。

 もちろん、すべてが嘘ではありません。事実もたくさん含まれています。しかし私たちは今後、捏造の事実も知らなければなりません。敗戦国となった日本が、戦勝国アメリカの支配下で、過去のすべてを否定されられ、親も祖父母も間違った戦争に加担したと教えられたことが、捏造と偏見の強制だったということ。

 これらはすべて極論であり、偏見に満ちた思考です。左翼学者の藤井氏が、別の事実を語るのですから、私は敬意を表します。

 息子たちには、心に刻んでほしい氏の意見です。訪問される方には、今日の反日左翼たちが、偏った意見を振りまいている事実を知って頂きたいと思います。今回で終るつもりでしたが、明日もう一度だけ続けます。

 日本の隅々にまで影響を及ぼした女性の団体が、どうして消滅したのか。ここを省略したまま終わってはいけないという気がするからです。

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国防婦人会 - 2 ( 日本への憎しみを語らない、左傾の学者 )

2018-06-24 21:47:36 | 徒然の記

 国防婦人会の設立者は、三谷英子、安田せいの両氏です。発案者はせい氏ですが、彼女は、自分より人望のある三谷氏を代表として立てました。

 昭和7年に、二人は大阪から上京し、東京の同志三宅イネ氏らと会い、陸軍省へ設立趣意書と会則案を出しています。陸軍省で、氏らと会談したのは、恩賞課の中井良太郎大佐でした。

 藤井氏は、国防婦人会が中井大佐に認められ、設立趣意書の中に書いた「本会の特色」の5項目を、紹介しています。

   1. 家族主義的な、家からの国防   2. 婦徳による務め

   3. 資金でなく、熱と誠       4. 会費少額

   5. 地味な活動

 氏はこれに関し、次のように説明しています。

 「いったい、せい自身、我が家を整え、婦徳を基として、温順かつ貞淑たらんとして、国防婦人会を始めたのであろうか。」「夫の久吉がせいに対して、家庭を捨てて公共のためにつくせと励ましたので、せいが、会の結成に踏み切ったのである。」

 「せいの描いた国防婦人会は、社会的に活動する婦人会である。婦徳は、国家が求めているのであって、婦人大衆の願いではない。」「陸軍は会を通じ、出征軍人の妻たちに家庭を守り、貞操を守るように教化の対象と考えていた。せいたち活動家は奉仕のため、奉仕に出ることができる婦人を組織し、出征軍人の妻は最初から含まれていない。」

 「軍が対象と考えていた出征軍人の妻たちは、国防婦人会にとっては、奉仕される側なのである。」「当然の帰結として国防婦人会は、出征軍人の家族でない婦人層へと広がっていった。これがせいらと、陸軍のイメージのズレだった。」

 氏は軍が公認した5項目のうち、せい氏らの活動に該当するのは、3と4だけであると説明します。エプロン姿にたすきがけで、兵士たちに奉仕する彼女たちの派手な活動が、「5の地味な活動」であるはずがないという面白い説明です。

  「国防婦人会は、陸軍が与えようとした国家主義的な、あるいは家族主義的な理念についても、とりたてて深い関心を示さぬくらいに、無思想な集団であった。」「国防婦人会集団は、思想に無関心だったからこそ、歴史の舞台では大衆参集の広場となり、兵士見送りの舞台では、いつしか代表的存在にのし上がっていた。」

 「しかもこの会は、他の婦人団体のように、一般社会事業にはかかわらない。軍事後援事業一本、なのである。」「政治議論に加わらないことが、かえって政治を超えた。」

 ここで氏が、当時の日本の世相を語ります。私が知りたかった、昭和初期の日本です。氏は無意識に説明をしていますから、語られている内容は、客観的事実であろうと思います。

 「戦争が始まると、全国的な大動員ではなくても、出征が頻繁に行われ、また出て行った以上同数の兵士が、元気でか負傷してか、死んで遺骨になってか、いずれかの形でまた還ってくる。」「戦争が続けば、またその補充人員が出て行く。この繰り返しの日々が続くことを、民衆は予測できない。」

 「軍隊移動の通過地点でお世話するのは、従来これは在郷軍人会と青年団、既成の婦人会でまかなわれると、思われてきた。しかし専門の在郷軍人会ですら、数が足りなくなり、既成の婦人会は頻度が増えると、対応できなくなった。」

 「そこに専門集団としての、国防婦人会が登場し、駅と港の支配圏を取るに至る。」「銃後の務めとして国防婦人会は、体を使って奉仕し、世の社会事業の首位に躍り出た。」

 「参加する婦人の側も、この行動パターンに応ずる姿勢があった。デパートに買い物に行くかは、かならずしも二律背反の命題ではなかった。」「ことに庶民層では、婦人が見送りに行く姿には、一種の開放感さえ伺われた。」

 「これは見送りが、国防婦人会のみならず、大衆に支えられた祭りであったからで、国防婦人会はそれを組織化して、時代の優位に立った。」

  祭りという言葉には、いろいろな意味があります。当時の、日本の村々祭りを思い出してください。村の鎮守様を中心に、春祭り、夏祭り、秋祭りがあり、村人が総出で祝いました。その年の豊作の願いであったり、感謝であったり、家族の無病息災を願ったりで、先祖の代から続く重要な祭りでした。

 そこは家族や縁者、仲間や知人との親交の場でもありました。国防婦人会の女性たちに取っても同じことで、地域ごとにできた婦人会では、自分の息子や夫あるいは親しい人々の、息子や夫たちの出征を見送ることが始まりでした。

 国のため兵となった自分の家族や、知り合いの見送りですから、村祭りと似た気持ちで、彼女たちは出かけました。そこには氏が説明するような、一種の開放感もあったでしょうが、陸軍の期待するような理念でなく、村民としての一体感が優先していたのでないかと、解釈します。

  整理しきれないまま、氏の著作から引用しブログを書いています。他の人が氏の著作を読むと、別の解釈をするのかもしれません。

 わざわざ言うのは、反日左翼の学者の著書に、感動してしまったからです。自分の読み方が間違っているのかと思いましたが、それでも良いと割り切ることにしました。次の文章に、私は感動しました。

 「戦争中の少年時代、たまたま母と二人でいた時、私は兄戦死の公報に接した。」「母は近郷では、立派な靖国の母であり、軍国の母であったが、私と顔を見合わせるや、電報を握りしめて慟哭した。」「私には、言葉もなかった。」

 「旬日を経ずして、私が軍の学校へ入ることになった。母は、さめざめと泣いた。私は、深く、母の心を知った。」

 「戦場に出た青年たちが倒れて死ぬ時、天皇陛下万歳と言うことになったのは、近々、日中戦争以後に過ぎない。」「満州事変段階では若者たちはみな、お母ちゃんと言って死んだという。」「私は天皇陛下万歳の方を、先に学校で教えられたが、戦場帰りの兵士から、みんなお母ちゃんと言うのだと聞かされた時の、割り切れない気持ちを忘れない。」

 これも事実だと思います。氏の説明には、左翼特有の国への憎しみや恨みがなく、私の心にそのまま事実として届きました。使い古された雑巾のような、無意味な言葉で叫ばなくても、事実を述べれば、「戦争をしてはならない。」「平和が大切だ。」と誰にでも分かります。

 しかし息子たちには、ここで考えて欲しいのです。戦争反対と平和を願えば、即座に軍隊はいらない、軍事力は不要と、そんな結論に結びつくものなのか。あるいは、結びつけてよいのか。

 憲法改正を言えば、軍国主義者で右翼だと、お前たちは思っているのだろうか。こうした話題で、話をして来なかったが、それが良かったことか、間違っていたのか、今でも分からない。

  左翼学者の中にも、氏のような人物がいたと知ったことは、一番の喜びでした。明日もう一回、氏の本とおつき合いし、それで終わろうと考えています。

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国防婦人会 ( 設立の経緯 )

2018-06-23 23:54:32 | 徒然の記

 藤井忠俊氏著『国防婦人会』( 昭和60年刊 岩波新書 )を読了。

 藤井氏は、昭和6年に山口県に生まれ、昭和30年に早稲田大学を卒業しています。駿河台大学の講師を務め、専攻は、日本近現代史、民衆史です。氏は今年の一月に86才で亡くなり、つい先日まで存命だったということです。

  一般国民のことを「民衆」と言い、訃報を朝日と毎日が掲載していますから、反日左翼の学者なのでしょうが、著書を読む限りでは、客観的事実が述べてあります。

 私の無知を埋める知識を沢山頂き、むしろ感謝しています。学界でも目立たない学者でなかったかと、そんな気がいたしますが、氏のような人物こそが「庶民の学者」だと思います。 

 戦時中の知識として記憶にあるのは、エプロンともんぺ姿の女性たちが、甲斐甲斐しく働いたり、訓練に励んだりする写真です。氏は昭和6年の満州事変から、昭和12年の日中戦争以後、敗戦までの推移を教えてくれました。

 「日中戦争が、女性を組織化した側面は意外に評価されていない。」「女性も組織した、と言われる程度である。けれども銃後の組織化現象の中では、女性の組織化が、むしろ最大級の特徴を示しているのだ。」

 「日中戦争以後、市町村内の団体行動で、新設や構成員の著しい増加があったのは、婦人団体だけである。」「全面戦争を境に、婦人団体の活動量は一挙に、数倍になった。」

 「国民精神総動員運動の事例にも見られるように、すべての団体が、結集されながらも、結局は学校と青年婦人団体が、実線の主力となる。」「戦時生活に於いて、消費統制が経済の主要な柱となるに至っては、なおさらである。」

 婦人団体の活動はどれも同じと思っていましたが、大きな三つの流れがありました。

  1. 愛国婦人会 内務省・警察系 ( 設立 昭和6年 ? )

    2. 国防婦人会 陸軍省系  ( 設立 昭和7年 ? )

  3. 大日本婦人連合会 文部省系  ( 設立 昭和6年 ? )

  まず1.の愛国婦人会について、氏の説明を紹介します。

 「その頃愛国婦人会は、どんな陰口を叩かれていたか。」「愛国婦人会は、一部上流婦人や、有産婦人の会合である。白紋付でなければ、出られない会である。」「一般会員から、金を集めるばかりで、何もしない会である。」

 「要するに愛国婦人会は、大衆とは縁のない上流階級の会であって、会費だけ集めて、何もしないと思われていた。」「大衆基盤がないのである。」

 「会は元々、会費という形で寄付を集める団体として設立され、集まっ金を軍事後援と、社会事業に運用するのが本務である。」「会の組織には、幹事と一般会員という区分の他に、会費提供額により勲章と階級章を兼ねたような有功賞があり、会合にあたって胸につけた。」

 「支部長が県知事婦人で、役員会は、知事婦人を中心に上級官僚婦人と、地域名望家婦人たちの交流の場だった。」「満州事変の始まる昭和6年の初め、文部省系の大日本連合婦人会が設立するまでは、日本最大の婦人組織として、会員153万人を擁していた。」

  次が日本最大、最強の婦人団体となる、国防婦人会についての説明です。

 「大阪国防婦人会が、エプロンを着て集まることにしたのは、奇抜ながら卓見であった。」「エプロンは、正確にはカッポウ着だが、今やカッポウ着は、国防婦人会のシンボルであり、活動姿勢を端的に表現した。」

 「当初彼女らは、出征、入営兵士にお茶の接待をするため、カッポウ着のまま、ヤカンをさげて、港へ行ったのに過ぎなかった。」「カッポウ着の奉仕姿は、市民に予想外の好評を博し、陸軍当局もエプロンこそ、国防婦人会の精神と持ち上げた。」

 「カッポウ着は、台所の労働着である。」「それは第一に、国防婦人会の、働く姿を現していた。」「第二に、着替える間もなく、台所から飛び出してきたと語っていた。そして第三に、予想もしなかった効果が現れてきた。」

 「着物を飾る、上流婦人たちへの反発から、大衆婦人層の好感を呼んだのである。」「カッポウ着なら誰も同じ、どんな着物の上にも着けて出かけられた。」

 大阪港から出征する兵士の見送りからはじまった、彼女たちの活動は、戦線の拡大と共に、瞬く間に全国へ広がっていきます。出征兵士の見送りが出発点ですから、陸軍省へ設立届けを出したという経緯も理解できます。

 陸軍省の許可を得たとはいえ、彼女たちの思惑と陸軍関係者の考えには、ズレがありました。ズレを物ともせず自分たちの思いを貫き、運動を展開する女性たちの姿を表して、著者である藤井氏はこれを、草の根から起こった、大衆的運動と捉えています。

 戦後に出された左翼の出版物は、「国民は軍部に騙された。」「軍隊の弾圧に、国民は抗うすべがなかった。」と、すべての国民が被害者だったと説明しています。軍部を罵り政府を攻撃し、ついには日本のすべてを否定します。

 しかし氏は国防婦人会の活動を通じて、戦う兵士を支援するため、国を愛するため、積極的に活動する女性たちを描き出します。結果として、私が求めてやまなかった戦前の日本の姿が、この本にあったということです。右や左の色ガラスを通じて、沢山の極論で溢れるウソ混じりの本を、これまで私は手にしてきました。

 それだけに氏の語る事実を、私は貴重な歴史として読みました。政府と国民が一つになり、戦争に向き合ったという事実を、私は息子たちに知ってもらいたい。またブログを訪問される方々にも、お伝えしたいと思います。

 本論は、明日からとしますが、左翼の学者が語る捏造のない戦前を知るため、どうかおつき合いください。

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大丈夫なのか、千葉日報

2018-06-19 13:21:17 | 徒然の記

 6月12日の、一面のトップに、ページの半分を使い、朗報が飾りました。喜びの見出しを、そのまま転記します。

 「ロケ地いすみ、喜びに沸く。」「カンヌ最高賞 万引き家族」「役所に横断幕、興行にも協力。」「大原海水浴場での、映画撮影風景。」「大原海水浴場で、撮影されたシーン。」

 映画のシーンが、三枚の写真で紹介されています。記事は、勝浦支局の廣田記者が、署名入りで書いています。

 「第71回カンヌ国際映画祭で、最高賞に輝いた邦画、[万引き家族]  (是枝裕和監督)の、」「海水浴シーンが撮影された、いすみ市が、」「受賞の喜びに沸いている。」

 「同市は、二年半前から、ロケ誘致を進めてきたが、」「世界的映画賞の撮影地となるのは、初めて。」「劇中、海水浴場は、万引きで糊口をしのぐ仮面家族の、」「偽りの幸せを象徴する、シーンとなっている。」

 「同市は早速、役所に横断幕を掲げるなど、興行成功に協力。」「担当者は、受賞を弾みに、」「今後も、ロケ地に選ばれるように、取り組みたいと、」「声を弾ませた。」

  新聞記事の一部ですが、これ以上転記する気力がありません。私の意見を述べる前に、「BBの覚醒記録」というブログから、管理人さんの意見を引用いたします。長くなりますが、千葉日報社やいすみ市の関係者は、はしゃぎ回る前に、こうした意見もあるという事実を知るべきでしょう。

 「映画的意図を込めてのことでもあるのは、解かるのですが、」「故意に、日本の底辺の、汚い風景ばかりを写し、」「それがあたかも、日本という国の印象となって、海外の観客の脳裏には、印象付けられるのでしょう。」

 「清潔な町並み、日本人の美点、文化など、片鱗も映画には存在しません。」「それが映画で狙った世界表現なら、それもよしとしましょう。」「しかしながら、ここまで敢えて汚くする必要があるのか? と思われたのは、」「相変わらず食事シーンです。何というお行儀の悪さ、ちゃぶ台の上の小汚さ。一家の醜い佇まい。」

 「映画で唯一現れる、日本の「先進文化」は、遠くにそれとなく見える、スカイツリーだけですが、」「となればエリアは、荒川区(町家~日暮里~三河島)江東区(枝川など「パッチギ」の舞台となったところ)、足立区(千住)など、要するに朝鮮人が多く占めているエリアです。」

 「これをもって、何かを断言するほどの確証は持ちませんが・・・・しかし、率直に言えば、食事シーンで、」「(あ、これ韓国)ととっさに思ったのでした。」「付記 もっと率直に言えば、これ朝鮮人の家族じゃないの? と。」

 「ただしB級ではない、とそこはフェアに、お伝えしておきます。」「物語の運びも描写も、退屈はさせません。」「しかし、全体にうんざりしながら、見終わったのでした。」「何しろ、描写が、食べ方一つ、せりふ一つ「汚い」のです。」

 「挙句の果て、欧米では放屁より下品だとされているゲップを、ヒロインにさせる始末。しかも子供の前でわざわざ。」「食事の時の立膝といい、この監督の生活倫理みたいなものが変です。」

「監督の主張がどこにあるのか、あるいは、」「家族制度そのものの否定、ではないかとも、勘ぐれるのです。」「是枝監督の政治的発言と併せて、アベノミクスの成れの果ての犠牲者たちが、彼らだ、と言わんばかり。」「勘ぐり過ぎかもしれませんが、その発言からそう思われても仕方ないでしょう。」「(フィガロ紙の論調はそうです。「政府への強烈な批評」と記述しています。」「あたかも、万引きも人殺しも、政府が悪いからよ、と言わんばかりに)」

 「疑似家族の男は工事現場で、女はクリーニング工場で、娘役は風俗で働いているので、」「一家を支えるには、何も万引きなどしなくても、暮らしは成り立つし、」「祖母役の年金にたからなくても、普通に暮らせるはずの家族です。」「その設定じたいの不自然さが、最後まで気になりました。」

「声高に、何かを主張しているわけでもないのですが、それだけに、じわじわと、」「日本人のみならず、とりわけ海外の人たちの脳裏に、」「日本の負の部分を、過剰に拡大して、刻みつけることになるでしょう。」

 次に、是枝氏の受賞を報道した、朝鮮中央日報の記事を、紹介いたします。

 「是枝監督は、安倍政権が進めた、安保関連法反対集会に参加し、」「放送に対する政府と、与党の圧力を懸念する発言をするなど、」「公然と、安倍政権に対する反対の意思を、明らかにしてきた。」「このため安倍政権の「沈黙」に対して、野党・立憲民主党の、」「神本美恵子参院議員は、安倍首相が好む人だけを祝っている、と批判した。」

 神本氏が国会で、林文科大臣にこの件で質問し、大臣は是枝氏に祝意を伝えると、答弁しました。大臣の意向を知ると、是枝氏は「自分は、公権力とは潔く、距離を保つ」と言って、これを断りました。

 おかしな話です。もともとカンヌ映画祭は、フランス政府が始めたものです。現在も映画祭の予算の半分を、フランスの文化省などの、公金でまかなっています。是枝氏が、公権力とは潔く距離を保つ、と言うなら映画賞も辞退するのが筋というものです。氏は、文部科学省の中にある文化庁から、助成金を2000万円もらっているのですから、事情を知る者に、恥知らずの嘘つきと言われても仕方がありません。

 日本政府から助成金を黙って貰い、管轄の大臣の祝意は拒絶するが、フランス政府からの映画賞は、嬉々として受け取る。氏を見ていますと、私には、あの反日・左翼の大江健三郎氏の姿が重なります。

 大江氏は、スウェーデン王立科学アカデミーが授与する、ノーベル賞は笑顔で受け取りましたが、日本政府からの文化勲章は、辞退しました。

 しかも是枝監督は、「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の中にある、「放送倫理検証委員会」の委員を務めています。偏向マスコミのお目付役、という唄い文句の委員会ですが、実態は「偏向番組護衛委員会」です。

 今は交代していますが、平成27年には、精神科医香山リカ氏が名前を連ねていました。私に言わせれば、香山氏も、大江氏も、是枝氏も、日本に害をなす、「獅子身中の虫」でしかありません。

 それだけに私は、6月12日の千葉日報の記事を見て、呆れ果てました。外国の有名な賞なら、貰えばなんでも素晴らしいと、バカ丸出しの報道です。廣田記者だけを批判する気は、ありません。こんな能天気な記事を、一面トップで扱った、編集委員の常識を疑っています。

 千葉のことなら、目出度いことは何でも特別記事にするというのでは、あまりに単純で、田舎者丸出しの振る舞いではありませんか。千葉には、伊能忠敬をはじめとし、立派な人物が沢山いるのですから、まずそこから勉強し直してもらいたい。

 こんなことばかりしていると、千葉日報を読むのは、私のようなバカばかりとなり、賢い読者から見放されます。そうなっては、私の読む新聞が、日本から無くなりますので、困ります。


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