衆議院議員だった笹川良一氏は、A級戦犯として逮捕されることを自ら望み、大阪の各地で占領軍を挑発する演説を度々行った。
彼は、情報大尉ジェイムス・ゲインによる報告文書に、次のように記録された。
「笹川は、以下の理由により、逮捕されるべきである。」「第一に、侵略とナショナリズムの賛美、および米国への敵意を扇動する運動を率いたこと。」「第二に、日本での民主主義の発展を、阻害するおそれの強い組織で、今なお盛んに活動していること。」
これについて佐藤氏が、次のように解説している。
「笹川の常識を無視した行動に対して、無罪を見越したスタンドプレーだという批判が、後年なされている。」「しかし当時、A級戦犯容疑者として逮捕され、起訴されることは、」「死刑に処せられる可能性が、高いものと理解されていた。」
緊迫した当時の状況を考慮せず、後になって批判する愚を、氏は、岸信介氏の回想録を引用することによって語る。
「裁判の結果を色々と想像し、死の問題を刑として考えるとき、」「すでに覚悟している、とは言いながら、」「現実問題として、又違った様相を、呈せざるを得ないものがある。」
「裁判は、先方の恣意で行われる。」「あくまで生き延びんとする願望は、非常な不安を齎さざるを得ない。」「死の問題が、違った形で心を捉えるに至った訳である。」
児玉誉士夫氏の回想録でも、当時の状況の一端が示されている。
「最悪の場合は、極刑かあるいは無期か、軽くても30年か、」「その見通しが、まるで立っていなかったことにもよるのだろうが・・。」「思えば拘置所の三年間は、ひどく苦しく、そして、たいそう長いものに感じられた。」「しかもまた、裁判はいつ始まるのか、それさえ皆、皆目見当がついていなかったからだ。」
笹川氏は、入獄する直前に、父親の墓の隣に自分の墓をつくり、生きて出所できないことを想定し、鎭江夫人と二人での写真を撮っている。こうした事実から、売名行為だとか、ドンキ・ホーテだとか、そんな後ずけの批判を、私は無視する。ここにみるには、ただ一つ、笹川良一氏の覚悟だ。
逮捕されることを願い、昭和20年の10月から11月にかけて、氏が大阪で行った演説は次のようなものだった。
「日本が侵略者として決めつけられると、全国民は、不義の片棒を担がせられたことになり、」「祖国のために生命を捧げた勇者たちが、犬死したことになる。」「これはなんとしても防がなくては、英霊には無論のこと、祖先や子孫に対して申し訳が立たない。」
「しかし、続々と逮捕されていく大臣、大将は、みな立派な人たちながら、」「裁判の経験がない。」「このまま打ち捨てておくと、侵略者にされてしまう。」「私には獄中生活三年と、四年に四度の裁判で、無罪を勝ち取った経験がある。」「そこで私が戦犯となって入獄し、被告の指導にあたり、意思統一をはかる必要があるのだ。」
昭和22年に、GHQ情報担当部局が、氏に関し、次のような記録を残している。
「笹川は、日本の政治の将来にとって、潜在的に、危険な存在である。」「彼の戦前の言動と、将来の危険性にかんがみ、G-2としては、起訴することも考慮して、徹底的に調査されるべきである。」
ニューヨーク・タイムズのバートン記者は、署名入りで記事を掲載した。
「ダグラス・マッカーサー元帥が発表した、最新の戦犯リストに名前の載った者のうち、告発されたことを名誉と心得る者が、少なくとも一人いる。」「それが笹川良一である。」
「この超国家主義者は、連合国軍により、戦犯に指名されたことは、」「自分が戦争遂行に、全身全霊をあげて取り組んだことを、最も雄弁に証明していると、言い放った。」「彼はまた、戦犯リストに名の載った日本人は、ことごとく、第1級の日本人である、とつけ加えている。 」
ここまでアメリカから目をつけられると、大抵の日本人は、氏に近づかなくなる。
占領軍は、日本軍を残虐な侵略者として糾弾し、軍人を公職から追放し、すべてが犯罪人であるかのように、報道させた。
当時の知識層の多くは、やがて日本が共産主義の社会になると、錯覚し、昨日まで皇軍の勝利を叫んでいたのに、一夜にして軍国主義の否定者となり、平和愛好の民主主義者へと変じた。
朝日新聞を筆頭にマスコミがすべて、GHQの統制下に入り、変節した論調を、恥じらいもなく報道した。
こうなると、笹川氏のまともな意見が「超国家主義的」となり、卑怯なマスコミは故意に無視した。理解を示したり報道したりすれば、GHQに睨まれるため、氏が何をしても、何を言おうと一瞥もくれず、記事にもしない。
保守論客と言われた人間も、政治家も、すべてが占領軍の意向を斟酌した。己の保身を優先し、笹川氏とのつながりを切り捨ててしまった。これが今に続いている状況だが、同じ日本人として、恥ずかしくてならない。
怖いもの無しの彼は、獄中から、トルーマン大統領やマッカーサーへ、何度も手紙を出している。宛先に届いたのかどうか、彼自身も知らないが、死を覚悟した人間にしかできない行為だった。
「戦争法規違反者を、厳重に処断することは、当然であります。」「米軍は、日本軍人が捕虜の横ビンタを、一つ二つ打った軽罪の者を始め、」「何ら事件に関係なき者までも、多数長期にわたって、逮捕拘禁しておられますが、」「これに反し米軍は、神社仏閣病院など、民間の無差別爆撃をなし、」「全国至る処にて、非戦闘員の婦女子まで銃撃、多数殺傷いたし、」
「広島のごときは、一瞬にして死者7万8千人を出し、」「呉軍港を除外すれば、軍事施設少なき広島を、攻撃目標に選びたるは、」「まさに戦争法規違反の、最大なるものであります。」「然るに、その責任者の処断されたるを、今持って耳に致しません。」「法律の規則なるものの適用は、貧富勝敗によって、二途あってはなりません。」
戦後70年たった今ですら、保守自民党の議員でも、ハッキリと米国に主張できる者はいない。敗戦直後の日本で、ここまで正論を述べた人間がいたのかと、私は感激した。
佐藤氏の賞賛文には心を動かされないが、参考資料として引用された、日記の断片に、武士道にも通じる、日本人の心を見た。
「日本はソ連とは、戦争いたしておりません。」「従って負けてもおりません。」「しかるにソ連は、日ソ中立条約を蹂躙し、満州、朝鮮に兵を進め」「、侵略略奪を、思う存分敢行いたし、」「機械その他、膨大なる物資を搬出いたしました。」「この行為を是認致しますれば、極東軍事裁判は無意義であり、する必要がありません。」
「小生、たとえ復讐心深きソ連へ連行され、この身八つ裂きに処せられますとも、」「最後の一人になりましても、ソ連の略奪搬出した物件はもちろん、」「千島、樺太の返還を、絶叫致すのであります。」
こうした「巣鴨日記」からの引用が、本書のあちこちにある。順不同だが、書き写してみたい。
「本間中将の裁判のごときは、米国憲法の高尚なる精神にて、行われないならば、」「われわれの目には、正義の主張を放棄するか、或いはまた復讐心にみちた、血の粛清といった、低い水準へ堕落するに等しい。」
「死刑の判決は、明らかに後者の道を選んだものである。」「予はこれに、加担することはできない。沈黙の黙認を以ってさえも、なし得ない。」「山下大将、本間中将への処刑は、一連の法制的リンチへの道を開くものである。」
これに関する佐藤氏の説明が、なんと情けない文章であることか。さんざん持ち上げておきながら、足蹴にしているのと同じだ。
「巣鴨プリズンから、このような手紙を出すことは、はなはだ勇気のいることであるが、それが有効であるとは考えられず、」「第三者的な立場からは、危険で無謀な、ドンキ・ホーテ的行為に見えたとしても、当然であろう。」
残念ながら、私の心は、佐藤氏の意向とは逆になった。笹川氏の行為は、佐藤氏が語るような、通り一遍の無謀な勇気でなく、日本人としての覚悟に見えた。父親の墓の隣に自分の墓を建て、妻との最後の写真を撮った氏を叙述していると、佐藤氏の目は一体何を見ていたのかという疑問が湧いてくる。
これだけでも、氏は、笹川氏の研究をする資格のない人物だと分かる。この本の本当の価値は、佐藤氏の冗長な文章をすべて削除した後の、笹川氏の「巣鴨日記」や、別保管されている手紙や書類の方にある。
天皇陛下をお守りしたい一念で、巣鴨入りを希望し、東条首相と話をする機会を切望していた笹川氏は、やっと本望を遂げた。陳述を終えた東条首相が、最後に笹川氏に語った言葉を書き記しておこう。
「笹川くん、幸い陛下にご迷惑を及ぼさないで済んだ。」「証言台では、僕は思う存分やった。」「ただ遺憾なのは、歴史を遡り、歴史を掘り下げて語ることを、許されなかった一事だ。」
「僕には、あなたが、最後まで僕を激励してくれたことが、どんなに大きな教訓となったことか。」「全くあなたの毅然たる態度は、敬服のほかありません。」
だから私は、笹川氏の金の出所を詮索する気が無くなり、そんなことは、すべて些事と思えてきた。笹川氏も、東条氏も、今の私から見れば、「立派な日本人」の一人である。
ここで終わりたいと思ったが、もう一言だけつけ加えずにおれない。
万感の思いを込め、今上陛下と、皇后陛下へ送る言葉だ。
「このようにして命を散らした者たちを、それでも戦犯と蔑まれますか。」「何のため、先人たちは生命をかけたのでしょう。」「国のため、愛する家族のため、そして敬愛する天皇陛下のためでした。」
「世界中の人間が、大切なもののために、今でも命を投げ出しております。」
「陛下のおられない国では、国歌と国旗に忠誠を捧げております。」
書き切れないほどの資料がまだあり、とても終われそうもないが、そうなると、今年の方が終わりそうなので、完了することにしよう。