ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

笹川良一研究 -2

2015-12-29 19:32:21 | 徒然の記

 衆議院議員だった笹川良一氏は、A級戦犯として逮捕されることを自ら望み、大阪の各地で占領軍を挑発する演説を度々行った。

 彼は、情報大尉ジェイムス・ゲインによる報告文書に、次のように記録された。

 「笹川は、以下の理由により、逮捕されるべきである。」「第一に、侵略とナショナリズムの賛美、および米国への敵意を扇動する運動を率いたこと。」「第二に、日本での民主主義の発展を、阻害するおそれの強い組織で、今なお盛んに活動していること。」

 これについて佐藤氏が、次のように解説している。

 「笹川の常識を無視した行動に対して、無罪を見越したスタンドプレーだという批判が、後年なされている。」「しかし当時、A級戦犯容疑者として逮捕され、起訴されることは、」「死刑に処せられる可能性が、高いものと理解されていた。」

 緊迫した当時の状況を考慮せず、後になって批判する愚を、氏は、岸信介氏の回想録を引用することによって語る。

 「裁判の結果を色々と想像し、死の問題を刑として考えるとき、」「すでに覚悟している、とは言いながら、」「現実問題として、又違った様相を、呈せざるを得ないものがある。」

 「裁判は、先方の恣意で行われる。」「あくまで生き延びんとする願望は、非常な不安を齎さざるを得ない。」「死の問題が、違った形で心を捉えるに至った訳である。」

 児玉誉士夫氏の回想録でも、当時の状況の一端が示されている。

 「最悪の場合は、極刑かあるいは無期か、軽くても30年か、」「その見通しが、まるで立っていなかったことにもよるのだろうが・・。」「思えば拘置所の三年間は、ひどく苦しく、そして、たいそう長いものに感じられた。」「しかもまた、裁判はいつ始まるのか、それさえ皆、皆目見当がついていなかったからだ。」

 笹川氏は、入獄する直前に、父親の墓の隣に自分の墓をつくり、生きて出所できないことを想定し、鎭江夫人と二人での写真を撮っている。こうした事実から、売名行為だとか、ドンキ・ホーテだとか、そんな後ずけの批判を、私は無視する。ここにみるには、ただ一つ、笹川良一氏の覚悟だ。

 逮捕されることを願い、昭和20年の10月から11月にかけて、氏が大阪で行った演説は次のようなものだった。

 「日本が侵略者として決めつけられると、全国民は、不義の片棒を担がせられたことになり、」「祖国のために生命を捧げた勇者たちが、犬死したことになる。」「これはなんとしても防がなくては、英霊には無論のこと、祖先や子孫に対して申し訳が立たない。」

 「しかし、続々と逮捕されていく大臣、大将は、みな立派な人たちながら、」「裁判の経験がない。」「このまま打ち捨てておくと、侵略者にされてしまう。」「私には獄中生活三年と、四年に四度の裁判で、無罪を勝ち取った経験がある。」「そこで私が戦犯となって入獄し、被告の指導にあたり、意思統一をはかる必要があるのだ。」

 昭和22年に、GHQ情報担当部局が、氏に関し、次のような記録を残している。 

 「笹川は、日本の政治の将来にとって、潜在的に、危険な存在である。」「彼の戦前の言動と、将来の危険性にかんがみ、G-2としては、起訴することも考慮して、徹底的に調査されるべきである。」

 ニューヨーク・タイムズのバートン記者は、署名入りで記事を掲載した。

 「ダグラス・マッカーサー元帥が発表した、最新の戦犯リストに名前の載った者のうち、告発されたことを名誉と心得る者が、少なくとも一人いる。」「それが笹川良一である。」

 「この超国家主義者は、連合国軍により、戦犯に指名されたことは、」「自分が戦争遂行に、全身全霊をあげて取り組んだことを、最も雄弁に証明していると、言い放った。」「彼はまた、戦犯リストに名の載った日本人は、ことごとく、第1級の日本人である、とつけ加えている。 」
 
 ここまでアメリカから目をつけられると、大抵の日本人は、氏に近づかなくなる。
占領軍は、日本軍を残虐な侵略者として糾弾し、軍人を公職から追放し、すべてが犯罪人であるかのように、報道させた。

 当時の知識層の多くは、やがて日本が共産主義の社会になると、錯覚し、昨日まで皇軍の勝利を叫んでいたのに、一夜にして軍国主義の否定者となり、平和愛好の民主主義者へと変じた。

 朝日新聞を筆頭にマスコミがすべて、GHQの統制下に入り、変節した論調を、恥じらいもなく報道した。

 こうなると、笹川氏のまともな意見が「超国家主義的」となり、卑怯なマスコミは故意に無視した。理解を示したり報道したりすれば、GHQに睨まれるため、氏が何をしても、何を言おうと一瞥もくれず、記事にもしない。

 保守論客と言われた人間も、政治家も、すべてが占領軍の意向を斟酌した。己の保身を優先し、笹川氏とのつながりを切り捨ててしまった。これが今に続いている状況だが、同じ日本人として、恥ずかしくてならない。

 怖いもの無しの彼は、獄中から、トルーマン大統領やマッカーサーへ、何度も手紙を出している。宛先に届いたのかどうか、彼自身も知らないが、死を覚悟した人間にしかできない行為だった。

 「戦争法規違反者を、厳重に処断することは、当然であります。」「米軍は、日本軍人が捕虜の横ビンタを、一つ二つ打った軽罪の者を始め、」「何ら事件に関係なき者までも、多数長期にわたって、逮捕拘禁しておられますが、」「これに反し米軍は、神社仏閣病院など、民間の無差別爆撃をなし、」「全国至る処にて、非戦闘員の婦女子まで銃撃、多数殺傷いたし、」

 「広島のごときは、一瞬にして死者7万8千人を出し、」「呉軍港を除外すれば、軍事施設少なき広島を、攻撃目標に選びたるは、」「まさに戦争法規違反の、最大なるものであります。」「然るに、その責任者の処断されたるを、今持って耳に致しません。」「法律の規則なるものの適用は、貧富勝敗によって、二途あってはなりません。」

 戦後70年たった今ですら、保守自民党の議員でも、ハッキリと米国に主張できる者はいない。敗戦直後の日本で、ここまで正論を述べた人間がいたのかと、私は感激した。

 佐藤氏の賞賛文には心を動かされないが、参考資料として引用された、日記の断片に、武士道にも通じる、日本人の心を見た。

 「日本はソ連とは、戦争いたしておりません。」「従って負けてもおりません。」「しかるにソ連は、日ソ中立条約を蹂躙し、満州、朝鮮に兵を進め」「、侵略略奪を、思う存分敢行いたし、」「機械その他、膨大なる物資を搬出いたしました。」「この行為を是認致しますれば、極東軍事裁判は無意義であり、する必要がありません。」

 「小生、たとえ復讐心深きソ連へ連行され、この身八つ裂きに処せられますとも、」「最後の一人になりましても、ソ連の略奪搬出した物件はもちろん、」「千島、樺太の返還を、絶叫致すのであります。」

 こうした「巣鴨日記」からの引用が、本書のあちこちにある。順不同だが、書き写してみたい。

 「本間中将の裁判のごときは、米国憲法の高尚なる精神にて、行われないならば、」「われわれの目には、正義の主張を放棄するか、或いはまた復讐心にみちた、血の粛清といった、低い水準へ堕落するに等しい。」

 「死刑の判決は、明らかに後者の道を選んだものである。」「予はこれに、加担することはできない。沈黙の黙認を以ってさえも、なし得ない。」「山下大将、本間中将への処刑は、一連の法制的リンチへの道を開くものである。」

 これに関する佐藤氏の説明が、なんと情けない文章であることか。さんざん持ち上げておきながら、足蹴にしているのと同じだ。

 「巣鴨プリズンから、このような手紙を出すことは、はなはだ勇気のいることであるが、それが有効であるとは考えられず、」「第三者的な立場からは、危険で無謀な、ドンキ・ホーテ的行為に見えたとしても、当然であろう。」

 残念ながら、私の心は、佐藤氏の意向とは逆になった。笹川氏の行為は、佐藤氏が語るような、通り一遍の無謀な勇気でなく、日本人としての覚悟に見えた。父親の墓の隣に自分の墓を建て、妻との最後の写真を撮った氏を叙述していると、佐藤氏の目は一体何を見ていたのかという疑問が湧いてくる。

 これだけでも、氏は、笹川氏の研究をする資格のない人物だと分かる。この本の本当の価値は、佐藤氏の冗長な文章をすべて削除した後の、笹川氏の「巣鴨日記」や、別保管されている手紙や書類の方にある。

 天皇陛下をお守りしたい一念で、巣鴨入りを希望し、東条首相と話をする機会を切望していた笹川氏は、やっと本望を遂げた。陳述を終えた東条首相が、最後に笹川氏に語った言葉を書き記しておこう。

 「笹川くん、幸い陛下にご迷惑を及ぼさないで済んだ。」「証言台では、僕は思う存分やった。」「ただ遺憾なのは、歴史を遡り、歴史を掘り下げて語ることを、許されなかった一事だ。」

 「僕には、あなたが、最後まで僕を激励してくれたことが、どんなに大きな教訓となったことか。」「全くあなたの毅然たる態度は、敬服のほかありません。」

 だから私は、笹川氏の金の出所を詮索する気が無くなり、そんなことは、すべて些事と思えてきた。笹川氏も、東条氏も、今の私から見れば、「立派な日本人」の一人である。

 ここで終わりたいと思ったが、もう一言だけつけ加えずにおれない。

 万感の思いを込め、今上陛下と、皇后陛下へ送る言葉だ。

 「このようにして命を散らした者たちを、それでも戦犯と蔑まれますか。」「何のため、先人たちは生命をかけたのでしょう。」「国のため、愛する家族のため、そして敬愛する天皇陛下のためでした。」

「世界中の人間が、大切なもののために、今でも命を投げ出しております。」
「陛下のおられない国では、国歌と国旗に忠誠を捧げております。」


  書き切れないほどの資料がまだあり、とても終われそうもないが、そうなると、今年の方が終わりそうなので、完了することにしよう。

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笹川良一研究 -1

2015-12-28 19:18:11 | 徒然の記

 佐藤誠三郎氏著「笹川良一研究」(平成10年刊 中央公論社)を、読み終えた。 

 佐藤氏は、昭和7年に生まれ、東大の文学部と法学部を卒業後、同大学の教授となった。この本の出版時は、政策研究大学院大学の副学長である。

 正直に言うと、こんな難しい本を初めて読んだ。難解な書というのでなく、感想を述べるのがとても難しいと、そういう意味だ。著者の言葉を借りて語ると、私の戸惑いが明確になる。

 「生前、笹川良一ほど、評価が大きく分かれていた人物は、日本では珍しい。」「しかも非難攻撃し、悪意のある目で見る人の方が、」「好意的に評価したり、賞賛したりする人よりも、はるかに多かった。」

 「マスメディアが伝える、笹川のイメージは、第二次大戦のA級戦犯 、」「右翼の大立者 、日本の黒幕 、ギャンブルの胴元、」「  自己顕示欲の塊といった、おぞましく、また不気味なものだった。」

 テレビや新聞や雑誌などがそう伝えるから、今でも私は、「何かしらうさんくさい人物」として氏を捉えている。笹川氏と一度も面識のなかった佐藤氏も、最初は私と同様の印象を持っていたらしい。

 考えが変わったきっかけは、A級戦犯容疑者として、巣鴨プリズンに収監された笹川氏が、獄中で書いた日記や手紙を収めた「巣鴨日記」を読んでからだという。

 それまで抱いていた自分の印象と、「巣鴨日記」から得た印象の、あまりに大きな違いに驚き、それが強い興味から関心へと変じ、笹川良一の研究を始めたとのこと。

 週刊誌や新聞には、「提灯記事」というものがある。会社や個人の記事が、ドキュメントを装って書かれるが、中身は徹頭徹尾賞賛の言葉で飾られる。いわば不動産屋の広告みたいな、大風呂敷の宣伝記事だ。依頼主の会社や個人から、謝礼をもらって書くのだから、それは当然そうなる。

 氏が本を書くにあたり、笹川氏の遺族から、謝礼を貰っていたとは思えないが、中身は「提灯記事」そのものと私には思えた。三流の伝記作家が、無闇に主人公を賞め、読者をうんざりさせるのと、同じ状況になった。

 東大の教授が、こんなつまらない本を書いて、恥ずかしくないのかと幻滅したが、それでも、何時ものように最後まで読んだ。

 「笹川良一の生涯を通じて見られる特質は、礼節を重んじ、下の者や弱者には優しく、」「いつも、その立場に立って考え、行動したことである。」「笹川は、徹底した楽天主義者であり、そしてこの楽天主義は、」「強烈な自負心と忍耐力、および負けず嫌いの精神と、健康な肉体とに支えられていた。」「これらの特質は、彼のたぐい稀な行動力と、責任感をはぐくむ土壌ともなっていた。」

 こんな調子で語られるページを、何枚も読まされるのだから、たまったものではない。

 川端康成と幼馴染だと言う笹川氏は、世界中に寄付金をばらまく、日本船舶振興会会長として、有名だった。カーター大統領と親交を持ち、サッチャー首相と対談し、マッカーサー夫人と握手し、そうかと思えばエリザベス・テイラーや美空ひばりと談笑し、ちょび髭でお洒落な銀髪の彼は、テレビのコマーシャルにも笑顔で登場した。

 「巨万の富を築き、それを自己の信ずる目的のため、惜しみなく使いながら、」「個人生活の面では、笹川は、戦前から極めて質素であった。」「質素な生活を、自分にも他人にも要求したのは、」「自尊という笹川の、基本的態度に由来するものであろう。」

 しかし肝心なことは、どうして笹川氏が、毎年毎年大金をバラマキ続けられるのか。どこからそんな金が手に入るのかだ。

 「商才に恵まれた笹川は、株取引などで、間も無く、」「巨万の富を、手にするようになった。」と、氏は語るが、それは、巨万どころか、巨億の富を入手する方法の説明としては、不十分すぎる。

 題名に「笹川良一研究」と付けたのなら、資金の入手経路の研究が基礎に無くては、お話にならない。だから私は、氏の著作そのものも、笹川氏と同様に、「何かしらうさんくさい」として、読み進むしかなかった。ところが本の一番最後に、これに関する著者の弁明があり、思わず笑ってしまった。

 「笹川の行動を調べていて、一番わからないのは、彼がどのようにして、莫大な私財を蓄積したかである。」

 正直な教授だと感心させられもするが、これでは「研究」の名前が泣くというものだろう。

 「株式や、商品の取引によって得られたと、言われているが、」「実際そのとおりであろうが、現在でも透明性に欠ける、日本の株・商品取引市場の実情では、」「その詳細を解明することは、当然ながら不可能である。」

 だとすれば、結局笹川氏は、何かしらうさんくさい人物のまま、という話になり、次のような賞賛も虚しいだけになる。

 「笹川が、名誉心と自己顕示欲の塊という印象を、多くの人が持ったのは、理解できる。」「しかし私が調べた限りでは、笹川が自分から、名誉や地位を求めたという証拠はない。」「ましてノーベル賞か欲しいために、世界に金を配って歩いたなどというのは、下司の勘ぐりにすぎない。」

 「この世の欲を捨てたにもかかわらず、この世で成功した笹川良一に対する、バランスのとれた評価が、」「日本でも可能になるのは、いつのことであろうか。」

 これが本の一番最後に書かれた、著者の言葉だ。残念ながら、このようにつまらない本が世に出される限り、バランスのとれた評価は、永遠になされないはずだ。

 私みたいに、他人を貶してばかりいる者が言うのはおこがましいが、佐藤氏のように他人を誉めそやすだけの人間も、第三者から見れば、下司の仲間になるのではなかろうか。

 褒めさえしておけば、誰にも嫌われないし、返って尊敬されるのでないかと、大きな勘違いをしている人物を、時々見かける。人を褒めるのは、人を貶すのと同じ難さしさがあるのだと、佐藤氏は知る必要がある。

 私が会社勤めをしていた頃、立派な社員を貶す人間と対面した時、私はその人物の心の貧しさを軽蔑した。

 逆に、詰まらない社員を、やたら褒める者に会った時、私は彼の人間性のお粗末さに、眉をひそめた。こうなると、それはもう、佐藤氏の著作の話で無く、自分も含めた謙虚な反省になる。

 ブログに向かっている自分は、たいてい人を貶したり、悪し様に言ったりしているが、良識のある第三者には、そっぽを向かれているのかもしれない。

 「人の振り見て、我が身を直せ。」「他山の石」、昔から言われている言葉を、実感として知らせてもらった。だから本日は謙虚になり、駄作を世に出した佐藤氏にも感謝しよう。

 だがこのブログは、ここで終わらない。長々と述べてきた背後には、自分なりの意図がある。実は私も、笹川良一氏の「巣鴨日記」の断片から、心の記録に残しておきたいという、不思議な感銘を受けた。

 それを明日、続きとして叙述し、今年最後のブログとしたい。もしかしたらそれは、佐藤氏の願う「バランスの取れた評価」につながるのかも知れない。

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親子二代の恥かき政治家

2015-12-27 13:56:13 | 徒然の記

 昨日の朝の10時、久しぶりにNHKの番組を見た。

 というより、家内が見ていたものを、横から覗いたというのが正しい。油井宇宙飛行士への独占インタビューを、糸井重里氏と女子アナウンサーがやっていた。若狭飛行士の話なども挟みながら、あっという間の一時間だった。

 地上で対立している、米国とロシアの飛行士も、宇宙では協力し合っており、任務成功の裏話とか、なかなか面白かった。呑気に船内を遊泳しているように見えても、飛行士たちがそれぞれの国を背負い、懸命に働いているのだとは、思ってもいない話だった。

 宇宙で自分がする行為の背後には、沢山の人たちの献身があり、それを思うと感謝が湧き、たとえ無機質の機械一つにでも、愛着が生まれると、油井さんが語っていた。

 宇宙の平和利用のため、人類の夢に向かい、異なる国の飛行士たちが協力する姿は、国際協調のシンボルのように思える、などと聞かされると、宇宙飛行士は、やはりひとかどの人物たちだと、敬意を表したくなった。

 厳しい訓練を積み重ね、専門の知識や技能を身につけ、目的に邁進する彼らは、当然ながら、私などとは違う、精神世界の豊かさを持っていた。

 日本人の優秀さや、日本の技術力の高さが評価されるだけでなく、日本人が、他国に信頼されている事実は、そのまま、国際社会での日本の立場につながると説明されれば、ここにも、「たかが宇宙、されど宇宙」、という世界があるのだと教えられる。

 小惑星イトカワに向かい、7年の歳月をかけて帰還した「はやぶさ」の快挙にしても、どれだけ多くの日本人に、感動と勇気を与えてくれたことか。

 南極の昭和基地に向かう、日本隊の涙ぐましい活躍や、基地での地道な研究活動も、宇宙と同様に、困難だが、夢と希望に満ちた事業だ。なんとも場違いな話だが、番組の途中で、なぜか河野太郎氏の談話が挿入された。

 国家公安委員長である氏は、同時に行革推進本部長も兼ねている閣僚の一員だ。正確に覚えていないが、概略次のようなことを話していた。

 「宇宙に行ったとか、帰ってきたとか、そんなことだけで大騒ぎする時は、終わっている。」「かけた金額に見合うだけのメリットがあるのか、無駄はないかを、検討すべきでないか。」

 得々と喋る氏の顔を見ていたら、一瞬、ある言葉がよぎった。

 「親子二代の恥かき政治家」・・・、これである。

 民主党の蓮舫氏でもあるまいに、国の未来のため費やす金と、官僚や議員たちが浪費する無駄金と、そんな区別もつかないのかと呆れてしまった。

 スーパーコンピュータの開発事業を指し、「2位では駄目なんですか。」と詰問し、日本の技術開発を遅らせた蓮舫氏は、後々バカの代名詞みたいに酷評された。それでも彼女は、一代限りのバカだが、河野太郎氏は、親子二代の恥かき政治家だ。

 父親の洋平氏は、単なる恥かきでなく、国を貶め、国民に多大の苦痛を与えた、反日政治家だ。慰安婦問題に関する、官房長官談話の重大な過ちは、無駄遣いの範疇を超え、金に換算できないほどの、国益損失をもたらしている。

 信念のある政治家なら、国会で、談話を出した自分の正しさを、堂々と説明すれば良い。然るに洋平氏は、新聞やテレビで、弁解がましい口吻を漏らすのに、国民に説明する勇気は、とんと持ち合わせていない。

 そんな氏の子息で、これもまた問題児としか思えない太郎氏を、どうして阿部総理は、国家公安委員長にしたのか。平成の不思議人事の一つだ。親子二代の恥かきで済めば良いが、二人は揃って親中・親韓だから、国家機密が敵対国に筒抜けになるのではないか。

 そのほうが心配でならない。

 楽しい朝のひと時、宇宙飛行士の有意義な話に感動していたのに、河野太郎氏が、ぶち壊してくれた。

 年末の忙しい時だから、家内の掃除を手伝わなくてならないのに、河野氏の愚かしい意見を聞かされ、黙っておれなくなった。ブログに向かい怒りを発散させ、心を静め、大きく深呼吸でもして、さあ、これから昨日の続きの大掃除だ。

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環境副大臣と千葉市長

2015-12-26 21:56:10 | 徒然の記

 12月15日の、千葉日報の記事だった。

 東電千葉火力発電所の跡地に、汚染消却灰の処分場を作りたいという副大臣と、調査を受け入れられないとする市長の、せめぎ合いだ。現在分散管理している、県内の仮処分場を、一箇所に集約したいとする副大臣に、あくまで分散管理を主張する千葉市長だった。

 東日本大震災の当時もそうだったが、放射能汚染となると、何が何でも反対という人々の意見が、まるで正義そのもののように、大きく報道される。私には、これが不思議でならない。

 ゴミ焼却場の建設についても同じことだが、自分たちが、享受している利益への対価として、嫌なものも、誰かが受け入れなければ、社会は成り立たない。それなのに、自己主張だけをし、他人について、一切考慮しない人間が増えている。いくら反対しても、いくら無茶を言っても、国になら許されると、そんな思い違いをしている人間が、あまりに多い。

 こうした反対運動は共産党とか、社民党とか、民主党とか、左翼活動家がたいてい主導している。東電の原発事故は、確かに恐ろしかったが、電気の恩恵に浴していない国民は、いないというのも事実だ。隠蔽したり誤魔化したり、政府と東電の対応が、不安や不信感を与えたのも間違いない事実だ。

 発生した汚染消却灰の処分が、このままで良いはずがない。政府や関係者が知恵を絞り、現在考えられる最大限の安全対策をしながら、処分場を建設しようというのなら、まず耳を傾けなくてどうするのだろう。

 絶対に安全かと、威丈高に質問されれば、絶対安全のはずだった、東電の原発事故の例があり、そうだと答えられる人間のいるはずがない。常識の話なのに、いい年をした大人が、子供のように「絶対の保証」を求める。じゃあどうすれば良いのかと、反対者たちに聞くと、「原発の即時廃棄だ」と答える。

 即時に廃棄したら、日本の経済や社会がどうなるのか、反対者たちは、そんなことはどうでもいいのだ。

 しかもその活動には、常に「市民」とか「国民」とか、あたかも多数の人間が参加しているような、紛らわしい名前がついている。国の安全保障にも絶対反対、国がどうなっても構わないと、反日の党や活動家たちの姿勢は、何処で何をやろうと、常に同じだ。こうした無責任な反日たちに、振り回されるのは、もうごめんだと言いたい。

 千葉市長は、若くて良識のある人物とばかり思っていたが、氏もポピュリスト政治家の一人だったのだらしい。選挙で支援してくれた団体が、反対しているのだと思うが、いざ市長になったら、声の大きな一部住民の意向ばかりでなく、国政の中の市の立場も忘れてはなるまい。

 私は千葉県民として、処分場建設に、何がなんでも反対ではない。誠意を持って、国が安全な設備を建設するのなら、汚染消却灰の受け入れをすべきだと考えている。

 私が市長に望むのは、初めから結論ありきの反対でなく、副大臣と交渉のテーブルにつき、安全な設備とはどんなものなのか、どのような基準で、どのような形で作られるのかと、議論をしてもらいたい。交渉の過程と中身については、全てマスコミに公開するとすれば良い。

 これなら政府も、いい加減な説明ができないし、本気で取り組んでいるのか、誠意があるのか、住民にも国民にも即座に分かる。こんな時にこそ、社会の木鐸を自称するマスコミの出番でないか。

 朝日新聞みたいに、偏見や捏造を交えず、ありのままの交渉過程を、好きなだけ報道すれば良い。前向きの提案の一つもせず、話が平行線であるとか、先行き不透明だとか、他人事みたいな報道をしている記者は、無責任でないのか。記者に、意見記事が書けないというのなら、論説委員などという社説専門の幹部記者が、いくらでも提言できるはずだ。

 新聞社は、社会変革の先導者などと、自惚れる暇があったら、先導者らしい議論を展開したらどうなのだろう。

 千葉日報の記事にはないが、他社の記事では、副大臣の進める廃棄物処理場の建設について、「安倍独走」とか「安倍独裁」とか、活動家に言わせているが、そもそも原発の事故は、民主党時代に起こったものでないか。

 適切な事故対応をせず、菅総理のパフォーマンスと、枝野君のまやかし会見で、どれだけ国民が右往左往させられたか。少しは頭を冷やして考えてはどうかと言いたいい。安倍総理の政策には、安保関連法案を除けば、私には沢山異論がある。全面的に支援していないが、それでも亡国の民主党政権に比べれば、格段にましだ。

 民主主義の日本なので、沢山の意見があって結構だし、日本は、中国が逆立ちしても真似られない社会だと思うが、千葉市長が、中国や韓国みたいな、頑なな姿勢では困る。絡まった糸をほぐし、懸案の解決に努力するところに、政治家の偉大さがある。

 反日の市民活動家に支援されたからといって、それだけで当選した市長ではないはずだ。沢山の物言わぬ市民の票があって、市長に選ばれたのだと、初心に帰ってもらいたい。派手な左翼活動家に迎合するのでなく、彼らを説得する熱意と良識を、期待する。

 それでこそ、若くして選ばれた市長だと、私は思う。

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起て、不屈のペン -2

2015-12-21 22:17:04 | 徒然の記

 「中国偏向報道の端緒となった、文化大革命とは何であったか。」
「巨大な傷跡を残した文化破壊革命を、なぜ朝日新聞は、再三の誤報まで犯して礼賛しなければならなかったのか。」

 三島氏は自問自答しつつ、又しても驚きの事実を私に示す。「諸悪の根源は、日中記者交換の時、中国政府と朝日出身の親中派国会議員らによって決められた、" 政治三原則 " を日本の報道界が受け入れたからだと言われている。 」「その三原則とは、1. 中国敵視策を取らない 、2. 二つの中国をつくる陰謀に加わらない、3. 日中関係の正常化を妨げない、である。 」

 「部数拡張にしのぎを削る日本の大新聞が、北京駐在特派員を置きたいと願うあまり、" 言論の自由 " と引き換えに、中国側の要求を呑んでしまったのである。 」「つまり、中国政府にマイナスとなるようなニュースは報道しないという、" 秘密協定 " を結んでいたのだ。」

 そうでないかと推測していたが、やはりそうだったかと納得した。
中国報道に関し、日本と米国の報道姿勢には天と地ほどの差があると氏は言い、実例を挙げてみせる。「かってニューヨークタイムズが、台湾政府関係の全面広告を載せたことがあった。」「中国の国連代表部がこれに怒り、北京特派員は認めないと脅した。」「ニューヨークタイムズは、それなら結構だと言って、このことを記事にして報道し、中国の脅しをはね除けたのである。」

 日中間の秘密協定を重視した日本を、ロスアンゼルス・タイムズが、「身売りする日本の新聞」と題する社説で、厳しく批判したという。氏がその要約を載せているので、引用する。
「日本のマスコミの大多数は、中国をめぐる問題に関して、不正直な報道と論評を基準とすることを、自発的に誓約している。」「すなわちそれは、北京の諸政策に批判的な、あるいは北京の利益に反するような、ニュースや論評を一切載せないという行為となる。」

 「日本のマスコミ各社が、報道の使命を放棄してまで手に入れたがっている代償は、北京駐在特派員の入国許可にほかならない。」「これらの連中(もはや記者と呼ぶのもふさわしくない)は、中国問題に関して、一切の批判を含まない電報を送っている。」「それは日本の新聞の恥ずべき行為の犠牲者である、日本国民にとって、重大な関心事であるばかりでなく、全世界の日本の友人にとっても、大いに懸念すべき事柄だと言わねばならない。」

 米国の新聞にここまで批判されていた事実を、いったいどれだけの国民が知っていただろう。朝日新聞が率先して 、 " 報道しない自由 " を駆使したから、今に至るも庶民はつんぼ桟敷にいる。目を丸くしている私にお構いなく、三島氏の告発がに続く。

 「徹頭徹尾中国の当局寄りだった秋岡特派員は、朝日新聞を定年退職後、人民日報の日本販売総代理店の責任者に迎えられた。」「中国政府への貢献度が報いられたのであろう。」

 韓国政府が捏造する慰安婦問題について、徹頭徹尾韓国を擁護し、醜いまでに日本を攻撃した、朝日新聞の論説委員だった若宮啓文が、朝日新聞定年退職後に韓国の大学教授として招聘されたが、同社の売国体質は繰り返される歴史にも似ている。

 三島氏は恥も外聞も厭わないという勢いで、秘密協定に基づく報道の実例を挙げてみせる。
「ここでいちいち礼賛記事を並べるよりは、広岡社長自身が北京に乗り込み、第一面に署名入りで堂々と載せた " 社長ルポ " を抜粋してみる。」「広岡社長は1970年の4月に、日中政治のパイプ役だった松村謙三を団長とする、訪中使節団に同行し、中国入りをした。」

 当時の朝日の報道は、大躍進する素晴らしい中国への礼賛ばかりだから、社長であれ特派員であれ、区別がつかなかった。すっかり忘れているが、きっと私も目にした記事の一つに違いない。ここまで舞台裏を明らかにされると、本気で記事を読んでいた大学時代の己が哀れになってくる。

 さて、問題の " 社長ルポ " だ。
「中国人の消費生活の水準は、日本からみればまだかなり低いと思うが、しかし彼らは、今の状態に一応満足し、これから大建設に向かうのだという気概に満ちているようにみえる。」「一般大衆にとっては、現在の生活の安定が、苦しかった昔の思い出と結びついて、よりいっそう強い満足感となるのではないかと思う。」

 「文化大革命後の中国では、都市と農村、頭脳労働者と肉体労働者、農業と工業面の格差をなくすための運動が、かなり広範に、徹底的に進められている。」「こうした基礎の上に立って、初めて平均化ということが、思い切って実施されるのであろう。」「私は、日中関係の現状を、もっと日本人の多くが、いま真剣に、勇気を持って直視する必要があると思う。」

 広岡社長が訪中した時期は、劉少奇を打倒した四人組が最も権勢を振るい、毛沢東崇拝を煽った林彪が、周恩来を飛び越えてナンバー2に特進していた時だ。党中央では権力抗争が進行し、周恩来を飛び越えた林彪への不満が民衆の間にくすぶっていた。社長が書いたような、安定と満足感が深まっているような状況ではなかったと、氏は指摘し、厳しい批判をする。

 「勇気を持って、中国の実情を直視せねばならないのは、歴史の証人を自認した、他ならぬ朝日新聞ではなかったのか。」

 笠信太郎ほどには酷評していないが、厳しい論調から推察すると、氏は、広岡社長も笠氏同様朝日新聞を劣化させた張本人の一人だという認識らしい。

 「中国報道における " 連続誤報 " は、責任がまったく追求されないままになっている。読者への謝罪もされていない。」「社長方針による偏向報道の結果生じた誤報であるため、処分のしようもないのであろうが、北京特派員はむしろ犠牲者でもあったと言える。」

 「しかし、社内では無責任体制が通っても、言論報道機関としての 社会的責任は免れられない。」「特に朝日は、経営の基本方針に、社会の公器として " 朝日新聞は国民の共有財産 " と明記しているだけに、国民に謝罪し、過去を修復する当然の義務がある。 」「それができなければ、 " 国民の共有財産 " などという奢りの表現は、取り消すべきであろう。」

 私みたいな市井のへっぽこ親父が言うより、格段の影響力があるはずだろうに、ここまで反省する人間がいても、微動だに変化しない朝日新聞とは、いったい何なのだろう。編集委員という氏の立場が、社内でどのくらいの力を有する地位なのか知らないが、不思議といえば不思議な話だ。

 昭和27年の独立を節目に、朝日新聞は新時代にふさわしいものとして、四ヶ条からなる「朝日新聞綱領」を制定した。こんなものがあるとも知らなかったが、今の私から見れば、恥ずかしいばかりの宣言である。わざわざこれを著書に挿入した氏は、どんな気持ちでそうしたのだろう。

 一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
 一、正義人道に基づいて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
 一、真実を公正迅速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中生を期す。
 一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。

 戦時下の報道姿勢を総括するため、社主、社長以下の経営陣が、知恵を絞って作り上げたものだという。当時はそんな気持にかられたのであろうが、できもしないことを、よくもまあ、並べ立てたものだと感心する。熱い心で朝日新聞の再生を願う氏が、ここでもまた厳しい意見を述べている。

 「敗戦に次いで、独立という日本の重要な節目にあたり、朝日新聞は、" 米軍の軍剣に屈してきた占領下の反省 " を、全社的に行うとともに、 」「読者に対しても、プレスコードに縛られてきた報道管制について、誠意ある釈明をすべきであった。」「それが新聞の責務であったのに、またもその検証を怠り、" 綱領発表 " のみに留まったのは、再び悔やまれるのである。」


 一日を費やしてここまで叙述したが、まだやっとほんの半分を過ぎたところでしかない。
企業と政府サイドに立ち、住民を軽視し続けた水俣病のこと、自らサンゴに傷をつけた「サンゴ事件」のこと、捏造の特ダネだった「伊藤律事件」など、三島氏の告発はまだまだ厳しく続く。いくら重要な事柄だとしても、朝日新聞の不正や奢りや過ちを、これ以上同じ調子で続ける気にはならない。

 三島氏は「はぐれ記者」と自らを卑下してみせるが、彼がここまで自由に、遠慮なくものが言えるのは、社内に庇護してくれる有力者がいたからである。氏を許容する朝日の懐の深さに注目したいという気もないではない。部外者の私には、どこまでも許せない反日と売国の新聞社だが、氏個人にはいくら感謝しても足りない会社であるはずだろう。願わくば氏の志を継いで、朝日の体制を変革する後輩たちが、続々と無数に育ってもらいたいものだ。

 大層な理屈で身を飾っていても、結局は朝日も日本の会社であり、底流には義理と人情が流れていると知った。度し難い憎っくき朝日と目の敵にしても、三島氏をめぐる一団の日本人の存在が見えるため、私の攻撃力が鈍り、割り切れない読後感となってしまう。

 だらだらと語るのをやめ、最後に自分の希望を述べて、今回のブログにケリをつけたい。
「私のブログが沢山の人に読まれ、沢山の朝日購読者が、私のように定期購読をやめてくれる日が来て欲しい。」「読者の激減した朝日が、静かに、ゆっくりと傾き、日本のマスコミ界から消えて欲しい。」「朝日新聞の記者たちは、桐生悠々や武野武治を手本として辞職し、貧苦をものともせず個々人の生を全うしてもらいたい。」

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起て、不屈のペン -1

2015-12-20 09:32:07 | 徒然の記
 三島昭夫氏著「起て、不屈のペン」(平成3年刊 (株)情報センター出版局)を、読了。
氏は昭和3年に岐阜県で生まれ、同志社大学卒業後に朝日新聞へ入社した。編集委員となり、率先して地球環境危機問題に取り組んだ名高い人物らしい。

 この本は簡単に言うと、朝日新聞社の内部告発書であり、愛社精神で綴られた先輩から後輩へ送る檄文でもある。知らない事実を教わった点で、久しぶりに満足したが、正直に言えば共感と反感がせめぎ合い、スッキリしない割り切れなさが残った本でもある。

 「私は古巣の朝日新聞に弓を引く気は毛頭ない。」「もう一度やりたい仕事は、と聞かれたら、朝日新聞記者と答えたい。」だから厳しい内容で書いていても、朝日新聞への単なる批判ではないと強調する。こうして本の最後に書かれた氏の弁明は、反日の朝日を糾弾する私とは決して相容れない。

 「朝日は優れた人材を多く抱え、影響力も伝統的に群を抜いており、日本を代表する新聞である。」「だからこそ国民の機関と宣言し、国民共有の文化財産と自負できるのであろうが、」「それだけに責任も重く、これからは国民の信頼と期待をいささかたりとも裏切ってはならない。」

 このような高揚した自負心に、私は共感を覚えない。自己陶酔の使命感を聞かされると、一歩引きたくなる。共同体の一員としての誇りや使命感を、高ぶった言葉で語る独善を厭わしく思うからだ。日本に生まれ、日本人の誇りを持っていても、それは一人一人が心のうちで大切にすれば良いのであり、外に向け力説するものでないのと同じことだ。

 それでも、皇室記者の板垣氏と同列にして軽蔑しないのは、氏の真摯さに惹かされたからだ。
反戦・平和、反権力、反天皇制を標榜する氏の、強い使命感やエリート意識に辟易させられたが、愛する新聞社の誤りと不正を語る勇気に感銘を覚えた。

 尊敬するジャーナリストとして、氏は元朝日新聞記者だった桐生悠々と武野武治の二人を挙げている。
桐生悠々は戦意高揚の真っ最中だった戦前にあって、一人反戦と平和を唱えた記者だ。朝日をやめ、自ら「他山の石」という新聞を発行し、六男五女を抱えた生活苦のなかでも節を曲げなかった。官憲の弾圧と迫害のなかで一生を終えたが、信を貫いた人物としてその名が記憶されている。

 武野武治は、敗戦の日の朝日新聞の社説に納得せず、「戦争報道の責任を取り、全員退職すべきでないか」と、提案する。意見が誰にも受け入れられなかったため、彼は一人で朝日を辞職した。妻と子供二人を連れて郷里の秋田へ戻り「たいまつ」という新聞を発行し、桐生悠々と同じく自己の信念を貫徹した人物だという。

 「日本の新聞は、軍部をはじめとする右翼に言論の自由を奪われ、自らも軍部に加担して墓穴を掘った。」「戦後自由になっても、新聞は被害者意識から抜けきれず、保守勢力と対決する左翼思想(社会主義)に共感を抱くようになった。」

 「特に朝日は、全体として、親左翼が反権力・進歩的であるという考えに傾いていった。」「戦後急増した左翼読者を狙うという販売政策も加わり、朝日の左翼路線がさらに強く印象づけられた。」「左翼思想は急進的ではあっても、真の進歩主義ではあり得ないのであるが、朝日のこうした親左翼の姿勢が紙面作りに反映し、全学連などの新左翼に共鳴する記者が目立つようになった。」

 敗戦後の朝日新聞に関する氏の分析の率直さに、まず驚いた。次は語られる事実の意外さと重大さに、氏の勇気の本気度を知った。気負った使命感も不自然と思えなくなり、敬意を表したくなった。
「偏向報道が最も顕著に現れた最初の出来事は、安保騒動であったが、そのときの立役者が、戦後14年間にわたって論説主幹を務めた笠信太郎であった。」

 「笠信太郎の批判は、朝日内部ではいわばご法度なのだが、安保報道の偏向は、笠主導による歴史的事実として指摘しておかねばならない。」
忘れもしない。笠信太郎が書いた「ものの見方について」という本はベストセラーとなり、人々の心をとらえた。物事を捉えるとき、一つの固定した立場から考察しないで、いろいろな立場から観察・研究しなくてはならないという、柔軟な思考の提案だった。だから国民の多くは、彼が書く社説がそうした立場で書かれていると受け止め、朝日の記事を信じた。私も間違いなくその内の一人だった。

 しかし三島氏によって明かされる内実の何という、いかがわしさか。
笠氏は柔軟な思考であるどころか、マルクス主義者として官憲にマークされていた記者だった。マルクスかぶれとして睨まれていた彼の身を案じたのが、郷里の先輩であり、主筆をしていた緒方竹虎だった。ドイツ駐在として国外へ逃された彼は、戦後になってやっと帰国し、論説主幹となったという。

 当時の一番の問題は、日本の独立を全面講和でやるべしか、単独講和ですべきかだった。笠はソ連の参加しない講和に終始反対し、論説主幹として全面講和の論を展開したのだというから、いろいろな立場からの検討などどこ吹く風、頑固なマルキストの面目躍如だった。続く三島氏の叙述は、お人好しだった自分をさらに驚かせる。

 「日本独立によって、笠の全面講和論は敗れたのであるが、今度は、その全面講和と抱き合わせになっていた非武装中立論が一人歩きする形となり、」「次の標的が日米安全保障条約の改定に向けられ、朝日の安保批判キャンペーンが展開されるのである。」

 「これが野党の " アンポハンタイ " を勢いづけ、さらに全学連の " アンポハンタイ " に点火され、」「ついに、国会乱入の流血事件へとエスカレートしていく。」
当時の過熱した報道ぶりと、学生たちの激しいデモは、高校生だった私にも鮮明な記憶だ。アイゼンハワー大統領の来日のため、打ち合わせに来たハガチー氏の車が、羽田で学生に囲まれ、投石され、持ち上げられ揺さぶられた。命の危険を感じたハガチー氏は、米軍のヘリコプターで脱出するという騒ぎになった。

 この間の消息について、三島氏が遠慮なく解説している。
「 " 死の国会乱入 " に驚き、そして不安に襲われた朝日新聞の笠論説主幹は、自ら社説に書いた " 最悪事態 " を収拾するために、主要新聞7社の " 共同宣言 " を打ち出すことを決意する。 」「朝日から飛び火して、全学連に燃え移った火の手が、国の安全も脅かすような火勢となったため、各社を結束させて、消火にあたらせようというものであった。」

 さらに氏は、笠主幹の卑劣さをつまびらかにする。
「笠は、一面トップの社説が全学連を煽る引き金になったことを認めながら、岸首相を攻撃した学生の運動は、迷惑だったと突き放し、あれは社会党がシッカリしなかったからだと、責任を転嫁した。」

 「どの新聞も少々一面的な報道をしたと言うが、朝日こそが一貫して反安保に偏り、全面的にデモ報道を優先したのである。」「散々デモを煽っておいて、" 死の騒動 " が起きると、 " あとの祭り " として、今度は新聞全体の共同責任にして、7社の警告を出し、ケリをつけた。」

 これが、今になって知る60年安保の背景である。
空論でしかない非武装中立論は、今も反日左巻きの野党や学者や学生たちが主張しているが、げにも罪深き朝日主幹の笠信太郎でないか。三島氏が語ってくれなかったら、今でも私は笠氏を立派な新聞人と思い続けていたはずだ。彼への批判が朝日内部でタブーだった理由がよく分かる。彼の偶像が破壊されることは、朝日の崩壊につながる爆弾だったからだ。

 以前ブログで述べたが、私は平成25年の5月まで、45年間朝日新聞の定期購読者だった。
笠氏の実態を知らないまま、氏の本の良識めいた空言を信じ、朝日の良識を信じてきた自分だ。覚醒のキッカケは、韓国による執拗な慰安婦問題のプロパガンダと、中国の尖閣領海への侵犯事件だった。捏造と大嘘の隣国を批判せず、かえって日本を悪しざまに言う反日の朝日に強い疑問を抱いたのが始まりだった。

 知るほどに朝日新聞の記事は偏向し、国を貶める売国の中身だった。
慰安婦報道の誤りが判明しても、国民へ謝罪もせず、罪の意識も見せず、平然としている朝日新聞への怒りは治まらないが、こうしてみると、朝日の大罪は、戦前前後を通じて限りない数だ。厚顔なこの新聞社が、慰安婦問題で謝罪などするはずもない。購読する国民の無知なる優しさを良いことにして、踏ん反り返る朝日の体質をしかと理解した。

 さて、ここまでで、本の半分の感想を述べた。
疲れたなどと言っておれない大切な事実ばかりだから、明日も続きを述べたいと思う。三島氏は愛する朝日の後輩へ檄として本を書いたが、自分は愛する国を大切にする人々のために語りたい。この度し難い反日朝日の、許すべからざる内情を。
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無頼記者-2

2015-12-14 11:13:57 | 徒然の記

 平成 23年の11月のことだったと思うが、板垣氏によく似た、詰まらない記者の話を思い出した。

 皇太子殿下が列席された式典で、全員が起立しているのに、ただ一人足を組んで椅子に座り、最後まで君が代を歌わなかった者がいた。朝日新聞の皇室記者、岩井克己氏だ。彼は現在、朝日の編集委員になっている。

 「そんな人が 、どうして皇室記者なんかしてるの。」
ブログで疑問が投げかけられていたが、こうして見ると、ろくでもない皇室記者は何人もいるのだ。

 板垣氏にしても、天皇制廃止論者と公言していながら、美智子妃殿下には熱い支援をしていたのだから、矛盾だらけの姿を笑ってしまう。

 一番不愉快だったのは、本に登場させる人物を、全て呼び捨てにするところだ。「宇佐美が言った。」「入江が笑って見せた。」「東園が困った顔を見せた。」「松平が佇んでいた。」

 氏が呼び捨てにするのは、宮内庁長官、侍従長、侍従次長、皇后侍従である。現役時代には、記事ネタの入手に、便宜をはかってくれた人々である。あるいは、彼を自宅に招いた、東条元首相の未亡人を「勝子」と呼び捨てる不遜さだ。いくら回想記だとしても、仕事で世話になった方々を、呼び捨てにする礼儀知らずというか、無礼さというのか、堪忍袋の緒が切れそいうになった。

 私もブログで、政治家や大学教授や記者の名前を、呼び捨てにすることがあるが、我慢のならない反日と売国の人間への、怒りからするのであり、感謝すべき人々を蔑むような、恩知らずの呼び捨てとは訳が違う。

 氏の頭の中には、旧華族は悪であり、民間が善であるという、単純化された図式があるらしく、そこから皇后陛下が悪で、美智子妃が善であるという記事が書かれていく。

 どのような記事か、いちいち書くのが馬鹿馬鹿しくなるが、一つだけあげると、「美智子妃は、皇后陛下にいじめられた。」「いじめに耐えられず、発狂状態になり、」「一人で葉山の御用邸で、静養された。」などと、皇后陛下を悪辣な方として、世間に発信する記事を書いている。

 「妃殿下のご病気は、流産問題に関する興味本位の雑誌、」「週刊誌の記事が、原因であると言われているが、」「本当は、皇后陛下のイジメが原因の、ショックによるものだ。」とまで、書いている。

 この章には、「高松宮妃と皇后一味の陰謀」、などというおどろおどろしい表題まで、つけている。

 果たして氏は、香淳皇后陛下が、どのような苦労をされてきた方か、知っていたのだろうか。昭和天皇とのご結婚に際し、元老の山県有朋が、色盲の遺伝があるとして異議を唱え、久邇宮家に婚約辞退を迫り、大騒ぎになったことがある。

 大正10年の「宮中某大事件」として、世に知られているが、この騒ぎを収めたのは「良子で良い」という、昭和天皇の一言だった。

 結婚されたのち、昭和4年に、二人目の皇女をお生みになった。皇后陛下は女腹だと言われ、側室制度の復活が検討された。この時も騒ぎを収めたのは陛下の一言だった。「人倫に反することはできない。」

 美智子妃も、民間から入内し苦労されたのだろうが、香淳皇后も大変な心労をされている。「いじめ」にしても、香淳皇后に対し、貞明皇后からは、酷いなされ方だったと資料にある。女官長や女官の前で、「お前は何をやらせても、相変わらず不細工なことだね。」と叱られ、周りの者が驚いたと書かれている。

 皇室のことに関し、何も知らない自分ではあるが、氏が少しでも過去の話を知っていたら、一方的な香淳皇后への非難はできなかったはずと思えてならない。

 まして美智子妃の縁談については、皇后陛下に知らされぬまま、進められていたのだから、内心穏やかであろうはずがない。

 「子供の縁談に、母親が口出しして、当たり前でないか。」「庶民でも皇室でも、母親の気持ちに、変わろうはずがない。」「皇后陛下を無視する形で縁談が進められ、しかも民間からと聞かされて、」「黙っている方が、おかしい。」と、今ではそんな意見もある。

 事実のどれが本当なのか、私は今でも、今後でも、確かめる方法がないが、前段までの氏の書きぶりから考慮し、香淳皇后の悪人説を疑わざるを得ない。

 イギリスと比較しながら氏は、皇室観を次のように述べる。
「権利と義務の意識が確立している、英国では、」「国民は、女王や王族に対して、厳しくその義務の遂行を求める。」「しかしそれで、王族に対する尊敬心や、親愛感が薄れることはない。」

 「だから日本人は、もっと成熟した皇室観を持っても、いいのではないか。」
「雑踏の中に彼らがいる。" 美智子さんお元気ですか ? 」「最近、やせているのではありません。ニンニク入りのラーメンでも食べて頑張って ! " 」「と、チョベリバのネーちゃんが、声をかける。」

 「勿論、カメラマンも、うるさくて低脳な、リポーターもいない。」

 なんとこれが、氏の理想とする成熟した皇室観というのだから、低脳なのは君だろうと言ってやりたくなる。

 皇太子ご夫妻が、メキシコへの親善旅行へ行かれた時、氏も随行記者団の一員となった。現地で美智子妃が倒れられたと、新聞に書かれ、皇太子殿下が氏を呼ばれた。殿下は傍の新聞を示され、

 「板垣さん。こんなことが出てしまって、」「美智子が日本に帰ると、ご存知のようにいろいろな人にいろいろ言われます。」「なにか、いい方法はありませんか。」

 「こうしましょう。殿下が帰りの特別機で、記者会見して、」「今回の旅行の印象を語られて、体調が心配された美智子妃殿下も、」「終始元気だったとおっしゃいなさい。」

 「それを受けて、一部外電が伝えるような事実はなかったのだと、」「私が思ったと書きます。」

 「やがて殿下は、お願いしますと言って、自室へ戻った。」「せつせつと、美智子妃をかばう殿下が、とても気の毒だった。」「改めて美智子妃いじめの凄さを、知った思いだった。」

 事実に近いものがあったのだと思うが、氏の人柄を疑わずにおれない自分がいる。
殿下に信頼されているのなら、尚更、こうした裏話みたいなことを、本にして世間に晒すなど、氏はなぜやるのだろうか。

 美智子妃の発狂状態にしても、殿下の言葉にしても、国民一般に包みなく知らせれば、ご本人たちばかりか、周囲の方々も傷つけてしまう。低脳な天皇制反対論者だから、氏は口が軽いのだろうか。

 以前に読んだ、最近皇后陛下を中傷するブログの記事に、「昔美智子さんは、新聞記者に、タバコの火をつけてやったことがある。」「まるで水商売の女みたいに。」というのがあった。

 嘘だろうと思っていたら、火をつけてもらったのは、この板垣氏だった。コメントなしで、そのまま氏の文章を引用し、そのままブログを終了したい。

 文についてのコメントはしないが、氏の本については、ちゃんと意見を述べておく。

「読み終わったこの本は、台所の野菜くずや食べ残しと一緒くたにして、ゴミステーションに投げ捨てる。朝日新聞の本多勝一の本と同様の扱いだ。」


 「メキシコ随行記者団を中心とした、皇太子ご夫妻の記者会見があった。」
( 途中にいろいろ書かれているが、面倒なので省略する。)


 「照れ隠しに、私が目の前のタバコをくわえたら、」「美智子妃が、傍のマッチをとってすりながら、」「本当にそうですねと言い、私のタバコに、火をつけてくれた。 」「私は皇太子殿下に、 失礼しますと挨拶して、吸った。」「同席していた某社記者が、ある週刊誌に、」「 皇室の民主化もいいが、バーのホステスでもあるまいに、」「タバコの火をつけるとは・・という趣旨の、低劣な内職原稿を書いた。 」

 「そこの週刊誌には、知人がいるから、誰が書いたかすぐにわかった。」「記者会見で、一言も喋らなかったやつだ。」「バーのホステスに対する差別歴然だし、会話の成り行きで、自然に発生した一幕を、」「したり顔の、 皇室民主化話 に仕立てる、精神の愚劣さは、 」「まあ最近の、ニュースコメンテイターに似ていなくもないと、恩賜の煙草  は、思うのだ。 」

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無頼記者-1

2015-12-13 18:48:51 | 徒然の記

 板垣恭介氏著「無頼記者」(平成10年刊 (株)マルジュ社)を、読み終えた。

 「やさぐれ刑事」や「事件記者」などに似た題名から、痛快アクション小説とばかり思っていた。皇后陛下の件で疲れていたから、気晴らしのつもりで読み始めたのに、とんでもない間違いだった。

 なんと氏は、警察回りの事件記者から皇室記者となり、皇后陛下の親派だという。
それならば、偏らない意見が聞け、新しい知識も得られると期待したのだが、期待も外れてしまった。

 このようなレベルの低い人物でも、皇室記者になれるのかと、確かに新しい発見だったが、楽しまない読書になってしまった。

 昭和8年生まれの氏は、早稲田大学卒業後共同通信社へ入社しており、私より10才年長だ。本の冒頭で、氏は戦前の日本を振り返りながら、当時の自分を回想している。

 「昭和20年8月15日。私は旧制中学一年生で、満12才7ヶ月だった。」「日本は戦争をしても、絶対に負けない神国だと教育された、バカな少年が、」「昭和天皇の敗戦の言葉を、山梨県の疎開先で聞いた。」

 「私は、太平洋戦争が、世界の人々を解放する聖戦だと教えられ、」「そのために死ぬことが、正義だと信じ込んでいた。」「現代風に分かりやすく言うと、さながらオウム教の麻原を信じて、サリンをばらまき、」「無差別殺人をした若者と同じで、「私は、絶対の現人神のために、」「少年航空兵を志願して、神風特別攻撃隊になり、」「片道燃料だけの飛行機で、米国の軍艦に体当たりして、爆死するつもりだったから、」「馬鹿は馬鹿なりに、生きる目的を喪失した。」

 「それは、私が、大人への不信感を強く抱くと同時に、」「教育とかマスコミが押し付ける価値観が、いかに脆いものかということを、教えられた一幕でもあった。」「だからそれ以後は、学校や大人たちや、マスコミが示す方向には、逆らって生きることになった。」

 「共同通信社に入り、あらゆる権力に対し、確執を醸し出す精神を、」「常に持続するのが記者の仕事だと、ひそかに決意した。」

 このようにして氏は、反権力、反政府、天皇制否定論者になったと説明する。
氏がこの本を書いたのは65才の時だが、大東亜戦争をオウムのサリン事件と同列に並べるというお粗末な歴史観に、私は先ず呆れさせられた。

 校則を破ったり、教師と争ったり、面接試験で天皇制反対と喋ったり、自分がどれほどに周囲の大人に逆らい、破天荒な若者だったかを、得意そうに述べているが、このような自慢話は、氏の人格と人品の卑しさの証明でしかない。

 敗戦の痛手が、愛国少年を変貌させたと書いているが、私はここに氏の作為を感じさせられた。別の場所で氏は、自分の父親について、次のように語っている。

 「父は昭和初期に、小樽高商の赤狩りで、追放された前科があり、」「戦争中は、国策通信社の社員だったが、いつも、特高のデカさんの監視下におかれていた。」

 鼻持ちならない自慢話だが、彼は敗戦の衝撃で、天皇制廃止論者や反権力になったのでなく、生まれ育った家庭環境の中で、反日思想を植えつけられ、そもそもそういう人間だったのだ。

 こうなってくると私は、氏の本に、素直な気持ちでは向かえなくなる。中学や高校生だった頃、仲間を集め、与太話を得意げにする悪ガキがいたが、その類の馬鹿話としか思えなくなった。

 「憲法九条の拡大解釈を捨て、今度は前文を拡大解釈することで、」「九条を改正しようとするこの論法が、いかに平和憲法の理念を踏みにじっているかは、」「説明するまでもない。」

 「ベルリンの壁が消え、ソ連が崩壊し、冷戦が終わった今、」「国際紛争を、武力で解決しなければならない、大きな問題は消滅しつつある。」「今やすべての国が、日本の憲法のような、絶対平和理念を必要とする時代が、到来している。」

 「大声で、世界の諸国に、非戦の思想を訴える時代が来たと、考えるべきだ。」

 これが64才にもなった記者の思考かと、その幼稚な意見に幻滅する。反日売国の朝日新聞と同レベルの、非現実的空論でしかない。

 彼は敗戦以来、ずっと12才のままで、心の成長が止まったのに違いない。左翼思想のお花畑ぶりが、今も世間を騒がせているが、戦陣に散ったご先祖さまも、国の歴史も考慮しない、彼のようなジャーナリストが沢山いる、戦後日本の恐ろしさを痛感する。

 彼は自民党政治の腐敗を憤り、水俣問題を怒り、60年安保の改定騒ぎを糾弾する。
怒りの原点として、彼は高見順の新聞批判を引用している。

 「新聞は、今までの新聞の態度について、国民にいささかも謝罪するところがない。」「手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として、訓戒的である。」「等しく布告的である。」「戦争について、新聞は責任なしとしているのだろうか。」「度し難き厚顔無恥だ。」

 高見氏の意見は最もであり、強い共感を覚えるが、だからと言って板垣氏が、これからは何が何でも反政府、反権力だと、猪突猛進するのは見当違いも甚だしい。高見氏の意見を正しく受け止めるのなら、先ずは、新聞人がなぜ、政府の言うなりに扇動記事を書いたか、その検証が先でなければならないはずだ。

 むしろ氏は、新聞社の経営陣、幹部記者、一般記者たちの責任を追及し、弾劾し、二度と変節しないための制度づくりを、しなければなるまい。その問題を脇において、簡単な反権力に身を置き換えるとは、恥じるべき安易さでないか。共産党も合法化され、何を喋ろうと官憲に殴られず、刑務所へもぶち込まれないない時代になった今、何を意気がっているのかと、冷笑したくなる。
 
 さて、ここまでは本の前段部分だ。後段に「美智子妃殿下」が語られており、今日のブログは、その部分を述べるのが目的だった。そこに至る前で、氏の意見がとてもバカバカしかったため、見過せなくなり、目的外の記述にスペースを使った。

 スペースだけでなく、自分の気力も使ってしまった。宙ぶらりんの気持ちだが、本日はこれまでとし、本論は明日に伸ばすとしよう。

 楽しみを明日に伸ばす話はよく聞くが、不快なものに、二日も付き合うという話のは、あまり聞かない。見事なまでに愚かな板垣氏だが、それに付き合う私も、劣らず愚か者ということなのだろうか。

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罪深きお方

2015-12-10 15:08:34 | 徒然の記

 今年の、2月だった。

 日本カトリック教会の司教たちが、「憲法九条にノーベル平和賞を」、という運動をしていると知ったのは。

 何気なく憲法を読めば、「平和のため、率先して武力を放棄し、日本は決して戦争をしない。」という、一見素晴らしい文言にもなる。

 けれどもそれはよく吟味してみると、「他国に攻められ、親や妻子がなぶり殺しにされても、」「黙って見ていなさい。日本人は無抵抗のまま殺されても仕方がない。」

 という、残酷な文言にもなる。先の大戦の歴史も、調べてみれば、日本ばかりが責められるのでなく、列強が手を組み、わが国を戦争へと追い詰めて行った。そんな資料も、明らかになりつつある今、果たしてこの自虐の憲法を、後生大事にしていて良いのかと、疑問を抱く人々が増えてきた。

 カトリック教会の司教たちが、今になり取ってつけたように、「日本にだけ残虐な憲法」を何故讃えるのか。人間でもないのに、九条にノーベル賞を与えるなど、不可解としか思えない運動だった。

 私がわざわざブログに取り上げたのは、このカトリック教会の運動に、皇后陛下が理解を示され、支援をされているという事実を知ったからだ。

 「こともあろうに皇后陛下が、左翼の空論に心を寄せ、」「私たちの願いを、足蹴にされているのだとしたら、」「庶民はどうすればよいのか。もちろん私は、」「簡単に絶望するほど若くないし、純粋でもないが、」「底なしの失意に転げ落ちそうな、今宵だ。」

 先日の、ブログの最後に書いた言葉を、今でも覚えている。
今日は、そんな素朴な悲嘆でなく、国民の一人としての、怒りである。現在、ネットの世界では、皇后陛下への批判が見られるようになり、日を追うごとに激しさを増している。信じたくない話が多く、皇室を傷つける畏れもあり、ずっと口を噤んできたが、それでは済まされない事実を知ってしまった。

 昭和天皇が崩御されたのは、昭和64年の1月7日だった。
左翼共産主義者は別として、国民の多くは陛下の病状を案じ、報道される容体の情報を見守っていた。年老いて弱られた陛下が、自分の病気と懸命に闘っておられると、私たちは信じていた。マスコミは報道しなかったけれど、当時の陛下は、別のものとも闘っておられた。

 陛下が崩御される前年に、宮内庁で、重大な人事移動が行われている。
病気と闘われている陛下の身近にいて、54年間も仕えてきた、徳川侍従長が突然4月に更迭された。同じく6月に、富田宮内庁長官が急に更迭された。

 病床の陛下を、一番親身になってお世話する二人を、なぜ更迭したのか。陛下は、お二人を信頼しておられたというのに、誰がこのような残酷な更迭人事を行ったのか。庶民である私たちでも、大病で弱っている時、信頼する人間が周りにいてくれる心強さは、計り知れない。それがある日突然、見も知らぬ人間と交代したら、病人の容体は悪化する。

 これが常識だから、そんな薄情なことは誰だってしない。

 それなのに、病床の陛下には、国民の知らないところで、こんなにも残酷な人事が行われていた。あの折の内閣は自民党だったが、昭和天皇のお姿を見ながら、宮内庁のトップ人事を、果たして政治家が独断で、実行するであろうか。いったい誰が、このような理不尽な人事を考え、指示したのか。

 私は、どこかのブログで見た話を思い出した。

 「昭和天皇が亡くなられた後、香淳皇后は、マスコミの前から姿を消されてしまった。」「香淳皇后は、現皇后陛下に辛くあたられ、俗に言う、嫁いびりもされたと、」「週刊誌が、書いていた。」

 「老人性痴ほうの進まれた香淳皇后は、退官したした女官と、電話で話をされるのを、唯一の楽しみとされていた。」「或る日突然、現皇后陛下の御指図で、」「香淳皇后と、女官を繋いでいた電話が、撤去された。」「これはお元気だった頃、自分をいじめた香淳皇后への仕返しだった。」

 そのようなことがあるはずはないと、ずっと否定してきたが、昭和天皇ご病気の折の、宮内庁人事の不自然さを知ると、電話撤去の顛末を述べたブログを、信じずにおれなくなった。

 私の推測なので、反論する人もいるだろうが、昭和天皇と香淳皇后への対応には、共通する陰湿さがある。慈愛の表情で国民の前に立ち、穏やかに国民に手を振る方に、かくも長い間、騙されてきたのかと、自己嫌悪に陥った。

 皇后陛下は、国民にとって、日本史上まれな、「罪深きお方」と言わざるを得ない。
昭和天皇が亡くなられて以来、慎み深い表情の下で、皇室の伝統破壊を、堂々とされるようになられた。

 一つは、あの丸いお皿帽子だ。二つ目は、肩幅の張った不思議なマント。これらはどう見ても、ローマカトリックの法王の衣装である。神道の伝統を護るべき皇室で、なにを好んで、あのように奇妙な装束を身にまとわれるのか。

 三つ目は、コンスと呼ばれる朝鮮式挨拶である。
朝鮮では正しい作法かもしれないが、日本には日本の作法があるのに、何故それをされないのか。皇后陛下がされる挨拶だというので、銀行、デパート、航空会社等々、早速コンスを取り入れる会社が現れ、近所のスーパーでも、見かけるようになった。私は心の狭い人間だから、日本を憎悪する国の挨拶作法など、とても取り入れる気にならない。テレビの報道で、皇后陛下のこうしたお姿を見るたび、嫌悪の情が走り、反吐が出そうになる。

 しかも、慰安婦問題で日本を攻撃し、捏造の嘘を世界へ発信する韓国に、なぜ心を寄せられるのか。韓国の言い分には、間違った事実が沢山あるというのに、なぜ皇后陛下は、韓国へ謝罪されるというのか。

 このような方を、長い間尊敬してきた私だった。奥ゆかしい、素晴らしい方と信じてきたのに、今では自己嫌悪のみとなった。

 ご自分で「平和憲法を守りましょう」と言われながら、率先して自分が破られている。皇室が政治に踏み込んでならないと、憲法が規定しているのに、皇后陛下のなされていることは、すべて政治絡みの行為でないか。憲法を平然と無視される、なんという傲慢さ。

 平成の世の終わり近くになり、皇室の伝統破壊と、歴史の否定を間近に見て、私は深い悲しみを覚える。皇室を批判すると、共産党や民主党が快哉を叫び、社会が混乱すると、我慢してきたが、ここまで皇后陛下に混乱させられるのなら、黙っている必要がなくなってしまったた。

 私を不敬だと一蹴する、保守の方々に言いたい。北畠親房の言葉を、思い出されては如何か。その時が今なのだと、危機感を共有していただきたいと・・。

 「君は尊くましませど、民を苦しめれば、天これを許さず。」

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俳句の魅力 - 上

2015-12-08 20:01:53 | 徒然の記
 飯田龍太氏著「俳句の魅力」(昭和61年刊 社会福祉法人 埼玉福祉会)を読了。
読み終わって、もう一度読み返した。味のある、面白い本だった。中身は、虚子以降の俳人の句を、有名無名を問わず、龍太氏が選んで批評した本ということになる。従って、著者本人の句は含まれていない。

 取り立てて俳句に興味を持っているのでなく、例の図書館の定期廃棄処分書籍の中から、半年前に貰ってきた中の一冊だ。
学校の国語で教えられているから、芭蕉、一茶、蕪村の名前と代表的な句は知っている。明治以後の俳人では、子規、虚子、蛇笏、せいぜい山頭火くらいなもので、作品はほとんど知らない。

 それなのに、二度も読み返したくなるのだから、不思議な魅力のある本だ。
著者の龍太氏については、どのような人なのか、後でネット検索をしてみよう。取り上げられた句も素晴らしいのだろうが、氏の説明が心を捉えて離さなかった。私が知らないだけで、このような文章のかける人だから、きっと名のある俳人なのだろう。

 目次の巻頭「序にかえて」という文が、初っ端から気持ちを奪った。長くなっても引用したくなる、名文と思える。
「たしかに名句と称せられるものの大方は、外見は至極当たり前の顔つきをしている場合が多い。」「一読、なるほどと深い共感をおぼえ、見事な句だなと感銘するが、よくよく考えてみると、誰もが見、誰もが感じていたことで、なんでいままでこのようなことに気付かなかったろうと、いぶかしく思われる。」

 「いわば大事な忘れ物を目の前に差し出されたような気分である。くり返し読んでいるうちに、自分の目や心を言い当てられたような気持ちになる。」「作品が作者の手を離れ、読者の胸に棲みついて忘れ難くなった時、その作品は読者にとって大事な秀句となる。」「そのような感銘が多くの人の共感を誘い、歳月の風化に耐えて生き残った時、古典としての名作の位を得る。」

 そして氏は、高田蝶衣、原月舟、吉武月二郎という俳人の句を分かり易く解説してくれる。
漱石を除けば、あとはもう知らない人物ばかりだから、いかに自分が門外漢なのかよく分かる。この本には収録されていないが、私は漱石の句でとても好きなのものがあり、漱石もひとかどの俳人だとばかり思っていた。好きな句は、

 あるほどの 菊投げ入れよ 棺のなか 

 近親者なのか、親しくしていた友人なのか、そこは分からないが、あるだけの菊を入れずにおれないほどの漱石の悲しみが、ひしと伝わってくる。白菊の高い香りと凜とした様子まで、彷彿としてくる。

 それなのに、氏は漱石の句について、私の予想に反する説明をした。
「私は、俳人漱石について、多分に口ごもった、歯切れの悪い調子で作品の若干に触れてきたが、仮りに佳作を俳句として守備整った一応の出来栄え、秀作はその上位にくらいし、完成された上にその人でなければ生み得ないオリジナのティを持つ作というなら、漱石俳句に佳作はあっても秀作は一句もないこととしたい。」

 氏はほとんど無名の靱郎の句を、高く評価する。
 「父と来し時の高野も秋の暮れ」

「この作品は、それが元禄でも明治でもいい。」「もとより、こん日、ただいまの作品として眺めても、一部の隙もない句である。」「それが過去の事実なら今日に尾を引き、今日の作なら、遠く遡って元禄にも響く。」「特定の地名が、その地にふさわしく、時間の限定を超えて生命を保つ、まさに名吟の一つと言っていいだろう。」
なるほどそうか、そんなものかと繰り返し読んでいくと、名句と思えてくる不思議さだ。

 草城の句も高い評価で、説明文がそのまま心に残る名文でもある。
 「きさらぎの藪にひびける早瀬かな」

「一見何ということもなく平淡な、そして素直な自然諷詠であるが、まことに滋味つきぬ俳句の醍醐味をおぼえる句である。」「こうした作品を読むと、何やらこころなごむ思いで、俳句のよろしさが身に沁みる。」

 俳人を区分する氏の意見というものが、また面白い。
「私は俳人を、大雑把に分けて、専門俳人と本格俳人の二種類に区分したいと思っている。」「専門俳人というのは、俳誌を主催し、多くの門弟を擁しつつ、主としてそれを専業とするひと。」「本格俳人とは、それとは直接関わりなく、俳句に専心し、文字通り本格の俳句を作って自らの芸境を持つひと。」「あるいはその一筋をつらぬいて生涯を終わったひとの謂である。」

 専門俳人とは誰なのか、具体的には書かれていないが、高浜虚子もその一人であるらしい。それなら門弟を多数抱えた芭蕉はどうなるのかと思っていたら、ちゃんと述べていた。「芭蕉は、専門から本格に入って生涯を終えた好例であろう。」

 虚子の句に高い評価を与えないが、それでもキチンと敬意だけは表している。
「春山に屍を埋めて空しかり   虚子」

「虚子の終句を眺めると、単に命終のあわれというだけではすまされぬなにかが湧き出てくる。」「すぐれた俳人として生涯をつらぬいたひとの多くは、殆ど例外なくこの幸と不幸を背負って歩き続けたように見える。」

 本格俳人として不遇のうちに早世した俳人の句が、沢山解説されているが、老境に入りつつある私は、もう一度草城の句を引用して終わりとしたい。長い病臥の末、50代で亡くなった草城は、捨て身の看護をつくした夫人への歌が多数あるらしい。私の心に残った二句である。

  「妻の蚊帳 しずかに垂れて 次の間に」

  「妻の留守 妻の常着を ながめけり」


 巻末の著者名、出版社、発行年月日の欄にカッコ書きの注がある。(限定部数500部)
世間に多数出回る本でないが、そうでなくともこの本はなぜか宝ものみたいな気がする。そのうち家内にも読ませたいと思うくらいだ。句作する姿を見たことはないが、古めかしい歳時記を大事にしているから、俳句への関心はあるのだと推測している。

 貧しかったけれど三人の息子を育て、家内はパートやアルバイトに精を出し、三人とも大学へ行かせ、ずっとやりくり算段の苦労をさせてきた。互いを知らない、冷たい夫婦ということでなく、俳句の余裕などなかった過去の暮らしがある。
だから今、苦労のいくばくかに報いるべく、掃除、洗濯、料理など共同作業でやっている。家内への感謝は、親にも劣らない大きさがあり、こんな気持ちは、高度成長時代を生きて来た男にきっと共通するものと思っている。

 

 
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