こんがらがった糸みたいになった沖縄については、いったいどこから考えれば良いのだろう。
琉球王朝の頃、明治時代、第二次世界大戦後と、いずれから始めても一筋縄でいかないものばかりだ。基地に限っていえば、昭和20年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、敗戦となって以来のこととなる。
大戦後に戦勝国を中心とした国際連合、いわゆる国連が創設され、日本は連合国軍によって占領された。連合国軍と言っても、実質はアメリカによる単独占領で、マッカーサーの統治下に置かれ、この時期から東西両陣営が形成され出した。
新しい緊張関係が国際間に生まれ、やがてそれが、冷戦という言葉で語られるようになり、アメリカは、沖縄の戦略的重要性という観点から、長期支配の意思を固め、軍事施設の強化と、恒久化のため土地の強制収用を実施した。
日本の国土の1%に満たない土地に、日本全体の米軍基地の75%があると、それが国の愚策ででもあるように語られていたため、当時まだ何も知らなかった、若い私は、長い間政府の失策とばかり思っていた。基地がアメリカの世界戦略に従って作られ、当時の日本は、口出しさえ出来る立場になかった事実を知ってからは、政治家の背負う荷の重さを知らされた。
敗戦国が、戦勝国から占領地を返還されたという話は、歴史的にも聞いたことが無いから、アメリカが昭和47年、当時の佐藤政権に沖縄を返還したというのは、今から考えても驚ろくべき出来事なのだ。
ロシアは未だに北方四島を返さないし、中国は尖閣諸島で、韓国は竹島でわが国と揉め、解決の兆しさえ見えない。だから領土の返還にあたり、色々な注文がアメリカからあったのではないか、もしかすると密約かと、それくらいのことは、素人の私にだって推測できる。
ともかくも領土を返還してもらい、その後のことはその後のこととし、時間をかけて解決して行けば良いと、当時の政府当局者は考えたに違いない。
基地の撤去を訴える沖縄県民と、恒久的提供を迫る米国が、いずれも譲らない強さで政府を締めつけている。こうした経緯を考えると、アメリカに逆らえない日本の弱さが、痛いほど理解できる。戦後60年以上経った今、日本とアメリカの力関係は、あたかも対等になったかのごとく、国内で語られるが、私たち国民が考えている以上に、当時とさほど変わっていないのが実態ではなかろうか。
つまり、アメリカと日本の立場は、ちっとも対等になっていないということ。分かっていても、そうした常識が国民に伝えられないというのだから、まさに歴史は繰り返すということなのだろうか。
明治37年の日露戦争後に、小村寿太郎がロシアと交渉し、賠償金を取れなかったといって、怒った国民が暴徒化し日比谷を焼き、彼の邸に投石するという事件があった。
大国ロシアとの戦いで、薄氷を踏みつつ勝利を収め、アメリカの仲介を得てやっとの思いで終戦処理をし、安堵の胸を撫で下ろした小国日本の指導者たちだった。ロシアがまだ戦争を続けると言ったら、とても太刀打ちする国力のなかった当時の日本だ。それなのに、指導者たちは、実態を国民に知らせず、勝った勝った大勝利だと、景気の良いことを言い続けたから、バカ正直な国民は、ロシアから多額の賠償金が得られると信じ込んでしまい、小村の交渉に理不尽な怒りを爆発させた。
世界第二の経済大国、技術大国日本、世界に冠たる一流国、アメリカに施す思いやり予算と、いい気になって騒ぐマスコミや、政治家の言葉を聞くと、明治でも平成でも、変わらない日本を見る思いがする。
左翼の人々は政府を攻撃する時、「アメリカべったり」と必ず言う、しかしそんなものであるはずがない。「べったり」どころか、「一段下の家来」なのだ。情けなくても、腹立たしくても、これが戦争に敗けた日本が置かれた、現実だと、私たちはここから出発しなくてならないのだ。
以前にブログで書いたが、いつまでも曖昧に「終戦記念日」などとごまかしているのでなく、打ちのめされた「敗戦の日」から再出発すべきなのだ。それは、卑屈になることでなく、自国の姿を直視する勇気だと信じる。
さて、ところで、肝心の沖縄の基地。いったいどうすればいいのか。そのことだけを書くつもりだったのに、前段が長くなってしまった。どうせ、「気まぐれ手帳」なんだから、続きは後日に述べるとしよう。もともと、「時間をかけて解決すべきもの」だから、一ヶ月や二ヶ月の遅れが、いったい何だと言うのだろう。
国会で意見を述べる訳でなし、失言を待ち構えている人間がいるわけでもなし、たかが「風にそよぐ雑草の繰り言」でないか。今日はここまでにするとしよう。
秋深し 隣はなにをする人ぞ 猛暑の夏が去り、静かに冷える秋となった。