草柳大蔵氏著『実録「満鉄・調査部』上 ( 昭和54年刊 朝日新聞社 ) を、読み終えた。
249頁の本が遅々として進まず、2週間以上かかった。どの頁にも私の知らない事実が語られていたからだ。大げさに言えば、まさしく求めていた本の一冊だった。
氏は大正13年に横浜で生まれ、東大在学中に学徒動員となり、特攻隊を志願した。敗戦後に復学し、昭和23年に法学部を卒業している。
出版社や産経新聞の記者などを経て、大宅壮一氏に2年間師事し、その後「週刊新潮」と「女性自身」の創刊に参画した。日本を代表する評論家、ノンフィクション作家として活躍し、平成14年に78才で没している。
氏の序言を、紹介する。
・「満鉄調査部」について書きたいと思ってから、仕事にかかるまで10年という歳月がかかった。
・なにしろこの「満鉄調査部」は、日本人が作り得る空前絶後の知識集団であって、ちっとやそっと 「現在の光 」をあてても、その全貌を捉えることは困難だと思われたのです。
本を読み終えた今でも、私は「満鉄調査部」の全体像が捉えられない。昭和13年の4月に、松岡洋右が「大調査部」を創立した時は、全スタッフ2,125名で、年間予算は800万円を上回っていたという。
800万円を昭和54年当時の貨幣に換算すると、38億円に相当するらしい。平成28年の現在ならもっと高額になるのだろうが、計算が苦手なので分からない。
「調査部」は満鉄本社の大連にあっただけでなく、奉天、ハルピン、天津、上海、南京、遠くニューヨークやパリにも事務所・出張所を出していた。部員たちは三井、三菱の幹部クラスを高給で引き抜き、大学の優秀な学生を入れ、高価な書物を好きなだけ買わせた。希望する土地へ出張させ、得意とする研究を許し、たっぷりと時間を与えた。
想像がつかないほどの贅沢な組織だが、「調査部」の母体の「満鉄」も、私の理解を超える大きさと複雑さだ。数ページにわたり、氏が解説してくれるが、読むほどに理解困難になった。
「満鉄」の説明の一部を、紹介する。
・まさに満鉄は、国家そのものであった。
・事業のはじめは、鉄道と炭鉱の経営である。
・日露戦争後のポーツマス条約により、ロシアが建設した東清鉄道の路線を引き継ぎ、撫順、煙台などの炭鉱の経営権を持ったのである。
・更に鉄道付属地として、線路沿線に一般行政権を認められた土地を持ち、10kmにつき15名の駐兵権も有していた。
・それから40年の間、満鉄は70の関連会社、傍系機関を有し、満州に暮らす人々にとっては、不滅の殿堂であった。
・この満鉄の頭脳に相当するのが、「調査部」である。
そもそも満鉄とは何なのか。日本で暮らす私には、国家を超える「南満州鉄道株式会社 ( 満鉄 ) 」の存在自体が理解できない。
・満州の面積は、約150万平方キロ、つまり日本内地の2.6倍、あるいはドイツとフランスを合わせたほどの広さである。
・当時の人口は12百万人くらいで、この広さでは 「ゴマ粒をばら撒いたような」 という表現が当たっている。 なにしろ、広漠たる原野が広がっているのみだ。
当時の満州について、満鉄の秘書課長上田氏の談話がある。。
・清朝は満州に起こって北京に君臨し、300年の後には全く漢人化していた。
・満州は、単に祖先の発祥地として大事にしただけで、産業はほとんどゼロといっていいものだった。
・満州にいた者まで漢人化してしまい、かえって漢人の手先として使われ、小作人になるような憐れな有様だったので、全然産業はなかった。
・人口の9割を占める農民は、糊口をしのぐのが精一杯という程度で、貿易特産品などほとんどない。
満鉄の初代総裁は、後藤新平だった。彼の就任には、政府と軍部と明治の元勲が関与し、まさに歴史そのものだ。児玉源太郎、山形有朋、原敬、西園寺公望等々綺羅星のような人物が登場する。
草柳氏は沢山の資料の中から、後藤総裁の考えについて紹介している。
・後藤はまず、日露の衝突は今度の戦争だけでは終わらず、必ず第二戦があるだろうという予測から出発する。
・それが何時になるのかは分からないが、日本が満州に主体性を確認しておけば、たとえ戦いに敗れても善後策について余裕ができる。
・そのために必要なのは、第一に鉄道の経営、第二に炭鉱開発、第三に移民、第四は牧畜である。
・ことに移民は大切で、鉄道を経営しながら、10年の間に日本から50万人を移住すれば、ロシアはやたらに戦争を仕掛けるわけにいかないだろう。
・もし満州において、50万の移民と数百万の畜産を有していれば、戦機がもし我に利なる時、敵国を侵略する準備を進めることができる。」
・韓国の宗主権がしばしば問題になるが、列国が強いことを言えないのは、日本からの移民が最大多数を占め、「 口舌をもって争う能わざる事実 」 を作ったからである。
・後藤はこの 「移民による既成事実 」 の造成を、ドイツ留学中に、普仏戦争後のアルサス・ロレーヌ地方の実情から得ている。
当時の列強は、こうした「移民政策」をやっていたのだ。同じことを日本が朝鮮や満州で真似たら、中国と朝鮮が黙っていないはずだ。
「正しい歴史認識を」と、中国や韓国が日本を責めるのは、「南京問題」や「慰安婦」でなく、こうした事実を指しているのかも知れない。チベットやモンゴル、シベリアの僻地に、多数の漢人を移民させている中国も、昔の列強を真似ているのだ。
巨大な満鉄は、現地の関東軍と深い関係を有し、本国の政府や各種団体とも関連し、理解しがたい複雑な活動を展開する。組織は一般的に、同じ思想や意見で内部を固めて、発展や拡大を目指すものだが、満鉄の調査部は混沌の集合体だった。
驚かされた顕著な例を、紹介する。
・中西功という戦後の日本共産党のスターが、満鉄調査部で活躍したことに奇異の感を抱かれるであろう。
・しかし中西ばかりでなく満鉄調査部に、左翼からの転向組がズラリと机を並べていたのは事実である。
・現在でも耳新しい人名を挙げてみると、堀江邑一、石堂青倫、伊藤好道、山口正吾、藤原定、細川嘉六、伊藤律、尾崎秀実・・
・ご覧のように、戦後の社会党もしくは共産党に、何らかの形で参加した人ばかりであると言っていい。
・中江兆民の息子だった中江丑吉 ( うしきち ) は、満鉄から毎月300円の給料を受け取り、学問一途に日を送っていたが、彼は北京住み、コミンテルンに出席する佐野学や鍋山貞親の面倒を見たそうだ。
・ある人がそのことに触れると、「 使える人間に右も左もあるものか、キミ、左手にだってステッキを持つだろう」 と平然としていたという。
今日で言うと自民党の政策調査部の中に、共産党や社会党の党員が机を並べているようなものだ。松岡洋祐も副総裁をしていたのだから、当時の日本人は太っ腹だったのか、スボラだったのか、あるいは豪気な楽天家だっのか。理解ができない。
この混沌の中から満州国が生まれ、中国との戦争が拡大するのだが、丹念に読んでいくと、どうしてそうなって行くのかが見えてくる。
「鎌倉、室町、戦国時代、江戸から明治へと日本史の中には流れがある。しかしこの昭和の軍国主義の時代だけは、理解できない。日本史の中に突然生じた、異質の時代だ。」
かって司馬遼太郎氏が言い、私もまた昭和の前半を異常な軍人支配の時代と思ってきた。しかし草柳氏の本を読むことにより、司馬氏のごまかしを見つけた。
事実を調べ、幕末から明治にかけての日本を理解すれば、昭和の前半が異常という意見は出てこない。明治時代の日露戦争を、『坂の上の雲』で見事に描いた氏が、昭和を罪悪視するのは、「へ理屈」でしかなかった。
司馬氏は歴史を直視せず、何もかも軍人が悪かった、軍国主義が国を誤らせたと言いたいだけだった。敗戦後主流となった左翼平和主義と、盛り上がった人道主義に迎合し、自己保身に回っていた。
「満鉄」と「調査部」について私は十分理解をしていないが、司馬氏のように、昭和の前半を異常な時代として切り捨てない。軍人や軍国主義や戦争には同調しないと、氏は自分を別の場所に置きたかったようだ。突き進んだ戦争が正しかったと言わないが。私は昭和の日本人を理解し許容もする。
大東亜戦争はそんな物差しで計れないものだし、まだ終わっていない。
敗戦国に罪を負わせ、敗戦国だけを極悪非道とした裁判を正しいとしない意見が、世間にはある。戦勝国が日本を非難するのならまだしも、司馬氏のように日本人が「東京裁判」を是とするのは疑問でならない。
草柳氏の座右の銘は、「生涯・書生」だった。私もまた生涯を書生として、明日も氏の著書を読み続けたい。