ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

実録「満鉄調査部」下

2016-02-22 00:16:35 | 徒然の記
 やっと、読み終えた。
読後感は、「しんどかった。」の一言に尽きる。
 
 満鉄も満鉄調査部も、私の頭では、最後まで全容が理解できないままだ。満州に作られた国策会社とは言うものの、関東軍と対等に振る舞おうとしたり、本国の政府にも和して動ぜず、しかもふんだんな資金を無尽蔵に使う。私のこれまでの経験の中に、こんな組織はどこにも記憶されていない。
 
 善悪は別にして、専門家と言われる人々の優秀さについても、学ばせてもらった。
難しい課題への挑戦力や解決へ至る頭脳の閃き、あるいは目前の事象の分析・把握力等々、凡俗とは違う天才がいることも理解した。政治家も軍人も科学者も経済人も超一流と言われる者を集め、国家の進路さえ左右した満鉄調査部という組織。もしかするとそれは、名前は調査部でも、実態は米国のCIAやロシアのKGBに匹敵する体制と陣容を持つ、巨大諜報機関だったのでないかという気もする。
 
 別の本で読んだ知識だが、当時あれだけの軍隊を展開し、巨大艦隊を広範囲に動かせたのは日本だけだったという意見を思い出した。だからある面では、後世に言われるほど無謀な戦争突入でなく、勝てる成算があったのかもしれない。
草柳氏の本で語られる政府や軍部、そして学者や官僚が、自由気ままな対立を止め、国を挙げて一つの道を邁進していたら、あるいは日本が勝利していたのかもしれないと、そんな思いもしてきた。
 
 だから、アメリカを筆頭とする連合国は、二度と日本が立ち上がれないよう、徹底した占領政策を進めずにおれなかった。そうせずにおれないほど、日本が強大で、日本人が強かったとも言える。敗戦後の日本は政治家も経済人も学者や文化人も、こぞって自国の過去を悔い、反省をし、自らを卑下して生きと、侘しい歴史観を身につけているが、そろそろ正気に戻るべきでないのだろうか。
 
 私は頑迷な右翼ではないから、こうした読後の発見をもって「世界に冠たる日本」だとか、「日本人が世界一」だとか、そんなうぬぼれを語る気はない。負けるべくして負けたという事実を謙虚に受け止め、同時に敗戦後の自虐思考の行き過ぎも是正すべしと言いたいだけだ。
 
 満州の経営に反対した伊藤博文公と同じく、日本の拡張主義に反論を唱えた石橋湛山氏の言葉をもう一度噛みしめてみたい。多少長くなっても、引用せずにおれない立派な正論だ。
 
 「青島陥落が吾輩の予想より遥かに早かりしは、戦争の不幸の少なかりし意味において、国民とともに喜ぶことなり。」「しかれども、かくて我が軍の手に帰せる青島は、いかに処分するをもって得策とするか。」「これに対する吾輩の立場は明白なり。」「アジア大陸に領土を拡張すべからず、満州もよろしく早くこれを放棄するべし。」
 
 「戦争中の今こそ、仏人の中には、日本の青島割取を至当なりと説くものあるといえども、」「大戦が終わりを告げ、平和を回復し、人心が落ち着く時に至れば、米国は申すまでもなく、」「我に好意を有する英仏人といえども、必ずや我が国を目して、」「極東の平和に対する最大の危険国となし、互いに結束して、我が国の支那における位地の転覆に努むべきは、」「今より想像して余りあり。」
 
 大正3年の東洋時論の社説で、氏が堂々と述べている。大正11年に、在満日本居留民が守備隊の撤退に反対し、「居留民大会」を開いた折には、更に根本的な疑問を投げかけている。
 
 「要するに、満州は他国の領土、支那の主権に属する土地と知るべきである。」「痩せても枯れても、一国家をなす国に、その知権が信用されない、秩序が認められないとあって、軍隊を備えて居留し、」「営業するとせんに至っては、これほど大きな侮辱はあるまい。」
 
 「親善も、友誼も、理解も生まれようはずがない。」「軍隊を以ってしなければ住めないような、危険な他国へ住もうとすること、商売をしようとすることが飛んだ間違いで、」「軍国主義、侵略主義以外を意味しない。」
 
 満州の領有は日露戦争で得た当然の成果であるという意見が、有力だった時の氏の主張だ。戦後に幅を利かせている人道主義政治家が、氏と似たような意見を言うとしても、混同してはならない。戦前はだんまりを決め込み、日本破壊をたくらんだマッカーサーの統治下で、にわかに平和主義者になった反日・売国の政治屋などと、氏を同列に論じてはならない。
 
 当時の世情を、草柳氏が語ってくれる。
 
 「 " 全満日本人連盟 " が、 " 全満日本人自主同盟 " と名称を変えたのは、幣原外交を不満として、」「満州問題を自主的に解決しようとの意思からだが、このような問題意識は満鉄社員の中にもあった。」「 " 満州事変は軍部の独走 " とするのが、現代史の定説となっているが、 いかに軍部が独走しようとしても、」「軍部以外の社会が、軍部の選択を心情的にせよ支持しなければ、独走の距離は短いはずである。」
 
 「満州青年議会のみならず、全満に渡って、青年たちの政党が幾つも結成されていた。」「青年自由党、民衆党、独立青年党、青年同志会、この他政党の形は取っていないが、同志的な結合は幾つかあった。」「弥美会、満州青年団、大雄峰会、三木会、これらは、大同団結して満州青年連盟となった。」
 
 「満州青年連盟の中は、大きく二派に分かれ、権益派と協和派がいた。」「権益派は、満州の権益は明治大帝の御遺産であり、日本が守るべき当然の歴史的果実と主張し、」「これを認めようとしない排日運動には、積極的に立ち向かっていくべきだという態度をとった。」
 
 「協和派は、中国革命を援助して統一を進め、暴力主義を排して、精神的融和を図るべしと主張した。」「青年の中には、満州解放論に近い左翼的考えの持ち主もいたので、」「彼らは、協和派を生ぬるいと論難し、権益派は、協和派を赤に通じる思想だと攻撃した。」
 
 日露戦争後に満州への権益を得て以来、軍部どころか、日本の朝野は沸騰したヤカンみたいに熱くなり、議論も沸騰していたのだ。だからこそ、冷静な正論を述べた伊藤公と石橋氏の勇気が光る。
考えてみれば、歴史は100年200年の単位で動いていくのだから、たかだか敗戦後の70年で日本の思潮が大きく変じるはずがない。反日・売国の国民が多いと嘆くより、国を大切に思う国民が増えて行く今後の方が楽しみなのだ。
 
 中国共産党政府が、南京事件などでなく、満州国の経営について文句をつけるのなら私は同意する。
軍国主義とか、侵略とか言われても、歴史の事実として受け入れる。しかし中国政府は、肝心の満州国について何も言わず、取るに足りない南京の一戦闘での死者の数で日本を攻撃する。余りにも情けない子供騙しの言いがかりなのだが、この本を読んで目から鱗が落ちた。
 
 当時の共産党は、日本と正面から戦う力がなく、日本も戦争の相手としていたのは蒋介石の国民党軍だった。共産党は中国内部で、蒋介石と戦い、しかも満足な武器がないため、それは人海戦術のゲリラ戦だった。敗戦後の日本が大人しくなったのを好機と捉え、「抗日戦争を戦い抜いた人民解放軍」などと大嘘を国民に教え始めた。朝日新聞の慰安婦問題に負けない捏造の歴史だが、今では嘘が事実として信じられつつある。
 
 まともに満州を持ち出せば、共産党も支配されていた清朝を語らずにおれなくなり、主役が孫文や蒋介石、袁世凱や張作霖や張学良たちになり、抗日の手柄話など何処にもない。要するに、現在の中国共産党は、たかだか南京事件くらいでしか日本を責められないほどの歴史しか持たない政府なのだ。
 
 そうなると私は、益々親中派の政治家たちに疑問符をつけたくなる。朝日新聞を筆頭にNHKやその他のマスコミだって、軽蔑せずにおれなくなる。
 
 もっと述べたいことがあるけれど、もう時間がなくなった。
ノルウエーへ行く前に、この本を図書館へ返却しなければならないし、荷物の準備も急がなくてならない。
 
 とうとう12時を過ぎてしまった。心残りでならないが、この本とは今夜限りでお別れだ。私の知識を深めてくれた草柳氏に、深い感謝を捧げ、そして氏のご冥福を祈ろう。
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子をもって知る親の恩

2016-02-17 21:37:20 | 徒然の記
 子をもって知る親の恩

 自分は今年73才だ。しかし今なお、この言葉は私に人生を教え続ける。亡くなった父には限りない感謝と、存命の母にはできる限りの恩返しをと、心から思う。

 もし息子たちが見ると困るので、具体的には書けないが、自分がかってやったことが、いかに親に負担をかけ、不愉快な思いをさせていたかと、しみじみ反省させられる今晩だ。

 「いったい、何を考えてんだ。」と怒りをぶつけると、家内が決まって宥めてくる。
宥められると、意地を張るのが私の癖だ。幾つになっても変わらない。
「自分のことは、自分でやるという気がないのか。」「なんでも親に頼ろうなんて、甘え過ぎだ。」「親には親の生活がある。」「自主独立の精神が足りない。」

 家内に言われて、理性を取り戻した。
「そこまで言うんなら、親子の断絶を覚悟してね。」「子供たちが離婚することも、覚悟ね。」

 親子の断絶、子供の離婚・・・・。

 昔々、私たちが若く、三人の子供が小さかった頃、自分が両親に何をしてきたか。それはもう、家内のいうとおりだった。「若い時ってね。みんなそんなものよ。」「親の負担なんて考えないし、自分のことだけよ。」

 家内が病気をし、幼い子供の面倒が見られなくなった時、仕事の忙しい私は郷里の母に助けを求めた。
一月くらい来てもらい、掃除洗濯、子供の送り迎えや食事の世話など、してもらった。そんなことが、二度も三度もあった。私はそれを当然のことと思い、たいして感謝もせず、ありきたりのお礼しか言わなかった。往復の交通費だって、出したのかどうか覚えていない。

 息子夫婦は、一度私たちに救いを求め、夫婦で一ヶ月応援した。
今度は国内でなく、北欧ときた。言葉も分からず、気候も大きく変わり、てんやわんやの大騒ぎだ。物価が高いので、日本で買ってきてくれと、生活雑貨を多量に頼まれる。年をとると、大きな荷物を抱えての旅はしんどい。

 外国で暮らす人間なら、もっと自主独立すべし、弱音を吐いて親に負担をかけ、それを当然と思うのか。
子供の育て方を間違ったのではないか、などなど息子夫婦の窮状は知りつつ苛立ってくる。

だが、何度考えても、家内の言うとおりだ。私たちだって、若い頃は親に甘え、苦労も知らず過ごしてきた。孫が可愛いから手助けに行くが、私の父や母も同じ思いだったのだ。文句があっただろうに、顔に出さず、口にも出さず、普通のことのように応じてくれていた。なんという有り難さだったことか。

 「子を持って知る親の恩」は、そのまま「孫を持って知る親の恩」につながっている。
「自分のことばかり考えないで、もっと我慢しないでどうする」とは、私自身に言うべき言葉だった。親たちは、自分の感情を抑え、いろいろなことを思い巡らせ、我慢していたのだ。

 嫁の父親は、昨日帰国し、私の家で一泊して帰郷した。
「これも楽しい経験だと、楽天的に考えました。」「何でも楽しい方に考えないと、ダメですから。」
大きな荷物を抱え、外国への一人旅が初めてだというのに、笑って三週間を過ごしてきた。不満も不平も漏らさず、笑顔で行き笑顔で帰ってきた。嫁の父親もたいしたものだ。私よりずっと人間ができている。

 来週から約三週間、私が行く番だが、どうせ行くのなら笑顔で行くこととしよう。冥土の土産のノルウェーだ。
 
 シベリアから復員してきた父は、捕虜生活の苦労も苛酷さも語らなかった。それどころか、陽気な冗談で周りを笑わせていた。
父の偉さを、しみじみと思う。その子である自分が、たったこれだけのことで腹を立てるなんて知ったら、父は悲しむに違いない。あすは、久しぶりに郷里の母に電話をしてみようか。びっくりするだろうな。
 





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『実録・満鉄調査部』 上 - 2

2016-02-12 23:24:49 | 徒然の記
 今朝も冷え込んだ朝だった。
バードバスが凍り、水浴びに来たヒヨが戸惑っていた。寒い朝だというのに、シジュウカラ、ヤマガラ、めじろといつもの鳥たちが代わる代わるやってきた。可哀想だったので、無精な心を奮い立たせ、氷を割り、タワシで洗い、水を入れ替えてやった。
 
 小鳥たちは寒さ知らずなのか、水に浸かりながら、顔を洗い、次に体を水中に浸し、木の枝で羽をふるわせ、水を飛ばしている。仕草の愛らしさは、見飽きないばかりでなく、満鉄調査部のことも忘れさせる。
 
 心を鬼にして小鳥の観察を振り切り、さて、昨日の続きだ。
満鉄調査部というのか、満鉄と言うべきか、捉えどころのないこの組織の、巨大さと複雑さが次の叙述で推し量られる。
 
 「昭和4年に満鉄から独立して財団法人になった " 東亜経済調査局 " は、昭和13年に南方調査専管を義務づけられた。 」「翌14年に、松岡洋右が大調査部を発足させるとともに、満鉄に還元され、」「18年には東京支社調査室に一元化されている。」「ただこの間にも、" 満鉄の外務省 " という性格は維持されたまま、 " 次第に " 戦略研究所 " のような性格も加わった。 」
 
 「満鉄調査部が、" 日・満・支 " を対象としたのに対し、東亜経済調査局は、対象の範囲に制限がなかった。」「例えば、調査部の研究は " 満・蒙・支 "を対象にし、関東軍のロシア志向と平仄が有っていたが、 」「調査局の方は、仏領インドシナ、インド、中近東、インドネシアの研究で、国内に台頭しつつあった " 南進論 " と歩調を合わせている感があった。」
 
 こうして政友会や関東軍と密接な関係を持ちながら、一方では自由奔放な社風があった。
 
 「満鉄ほど、平社員に進言させ、反抗を許し、時には下からの声によって、社是を変更した会社も珍しいであろう。」「特徴の一つは自由な空気であるが、これは満鉄全体にも言えることである。」「この空気は指導者たちが許容したというより、社員の方が醸成し、継承してきたと言うべきである。」
 
 「それは多分に会社の性格、あるいはその歴史的位置からきていると思われる。」
その歴史的位置について、氏が次のように説明する。
「当時の青年社員にとって、満州は、" 永遠の白図 " であったのでは ないかと思う。」「ある者は、その白図の上に国家を置き、ある者は搾取なき経済社会を描こうとした。」「またある者は、民族協和の姿を描こうとした。」「この白図の精神は、調査部たると、地方部たると、はたまた鉄道部たると興業部たるとを問わなかった。」
 
 政治家や軍人ばかりでなく、意気軒昂な青年社員たちも、そして勿論朝日・毎日等国内の新聞各社も挙って満州の夢を描いた。このような事実を知ると、「満州国の推進をしたのは、軍部の独走だ。」と、敗戦後に先頭に立ったマスコミ各社に、果たしてそうだったのかと疑問が生まれてくる。氏の語る当時の国際情勢を読むと、ひとり日本が侵略に走ったという戦後の言論にも疑問符が付く。
 
 「揚子江の流域に、最初に国旗を立てたのはイギリスだった。」「1842年、イギリスはアヘン戦争を起こして南京条約を結ばせ、上海他4港にユニオンジャックをはためかせた。」「1890年に、英支通商条約を結んで重慶の門戸を開かせ、同時に四川省の調査権を獲得している。」
 
 「ここまでがイギリスの最盛期で、それから次第に列強の追い上げに会い、1914年に第一次世界大戦が勃発するや、海軍力の不足と資金力の枯渇により、シナ貿易から著しく後退する。」「代わってアメリカと日本が、一位二位を争うデッド・ヒートを演ずるに至る。」「大正5年の貿易統計では、日米が伯仲し、香港を除いたイギリスは第3位に転落している。」
 
 米英および日本が、何故目の色を変えて争うかといえば、貿易取引額の一番大きな国が、税関の最高位である総税務士の選任権を手にし、シナ海における関税事務の統括権が、手中に収められたためだ。海上のことはこのくらいにして、次は陸上の話だ。
 
 「鉄道を抑えるものは、その国を抑えるという力の原則が明白だったから、」「アメリカ、日本についで、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、ベルギーが、」「中国の鉄道利権をめぐって、火花を散らしていた。」「大正6年当時、列強が中国から奪った鉄道敷設権は、約二万キロに及んでいる。」
 
 " 眠れる獅子 " と呼ばれていた中国は、為されるがまま列強に切り刻まれ、蹂躙されていた。
そうなるとやっぱり、中国共産党政府に言いたくなる。「日本にばかり、歴史認識をと主張せず、アメリカにも、ドイツにも、フランスやロシアにも、」「まして先陣を切ったイギリスにも、恨みつらみを言ったらどうだ。」
 
 これが中国の狡いところで、強い者には黙して語らず、弱いと見れば手加減なく攻撃する。なにしろ戦後の日本は、世界中に向かって頭を下げ、腰を低くし、金をばら撒くだけの国になったので、彼らから見れば、「自動現金支払い機」でしかないのだろう。
 
 さて本題に戻って・・・・・、日露戦争後は、政府でも軍でも民間でも、「満州経営」という言葉がはやるようになっていた。しかしこの言葉を、最も忌み嫌ったのは伊藤博文公だったと、氏の本で初めて知った。明治39年に、西園寺内閣が満州に関する協議会を開いたとき、児玉源太郎参謀総長に、伊藤公が厳しく反論したという。
 
 「余の見る所によると、参謀総長等は、満州における日本の地位を、根本的に誤解しておられるようである。」「満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、」「すなわち遼東半島租借地と、鉄道の他は何もないのである。」「満州経営という言葉は、戦時中からわが国人の口にしていたところで、」「今日では官吏は勿論、商人などもしきりに説くけれども、」「満州は、決して我が国の属地ではない。」
 
 こうした正論を伊藤公が、堂々と述べたというのだから、驚きもし、感動もした。公は、元勲と呼ばれるにふさわしい見識の持ち主だったと思う。
 
 「満州は、純然たる清国領土の一部である。」「属地でもない場所に、わが主権の行わるる道理はないし、拓殖務省のようなものを新設して、事務をとらしむる必要もない。」「満州の行政責任は、よろしくこれを清国に負担せしめねばならぬ。」
 
 当時はこうした伊藤公の正論と、「十万の流血と二十億の国帑」という日露戦争の代価として、満州を考える意見が拮抗していた。公は、朝鮮併合についても反対論者であったのに、何も知らない安重根が暗殺してしまった。歴史の皮肉としか言いようがないが、朝鮮のためにも、中国のためにも、惜しい人物を失ったものだ。
 
 この後大正四年に結ばれた「対華二十一か条」について、もし伊藤公が生きていたら、何と言って反対したことだろう。破竹の勢いで国力を伸張した日本が、力で中国や列強をねじ伏せていく姿は、素晴らしいというより、むしろ傲慢で醜い。調印された五月九日を、中国が国辱の日と呼んでいるが、さもありなんと理解した。列強の仲間入りをし、得意になった日本の姿が残念でならない。
 
 日本正当化の材料探しで、読書をしているのでないから、都合の悪い意見でも、ちゃんとブログに残す。朝日新聞みたいに、具合の悪い事実を無視するような、卑しい真似はしたくない。
 
 残されたものが沢山あるが、上巻についてはこのくらいにしておこう。
昨日図書館へ行き、下巻があるのが分かり、借りてきた。上巻は別の図書館の廃棄図書だったのだが、念のため聞いてみた。「この本は、廃棄図書にしないのですか。」「うちの図書館には、一冊しかない本です。一冊しかない本は貴重なので、廃棄処分にはしません。」
 
 ということで、貴重な下巻を明日から読むこととする。
 
 大事なことを言い忘れていた。左翼の側に立つ、反日の人々はきっと反論するに違いないが、歴史の中の日本の無謀や傲慢な行為について、私は、中国や韓国等に謝罪すべきとは考えない。歴史は輪廻転生、あるいは諸行無常、盛者必衰である。列強と呼ばれたどこの国が、過去を謝罪しているか。そんなことは、誰もしない、ということだ。
 
 まして被害者だと言い募り、日本を攻撃する中国や韓国は、他の国に対しては加害者でもある。彼らはそれについて、一片の謝罪もしていないし、将来にわたってする気もない。これが国際社会であり、国際政治の非情さでもある。
 
 力は正義なりと言いながらも、それでも世界には最低限のルールがあり、踏み外せば手痛いしっぺ返しがくる。中国や韓国からの攻撃は、70年前の日本へのしっぺ返しに過ぎない。自国内での検討や反省はしても、外部に向かい、歴史の謝罪をするという非常識は、したくないものだ。
 
 今私が、司馬遼太郎氏に言えることは、
1.「昭和の前半が日本の歴史の中で断絶した、異常な時代だったのではありません。」
2.「異常だったのは、国民が国を大切にする心を失った敗戦後の70年なのです。」
 沢山の知識がなくても、これが庶民の常識であり、世界の常識だということ。
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『実録・満鉄調査部』 上

2016-02-11 20:22:48 | 徒然の記
 草柳大蔵氏著 実録「満鉄調査部」上  (昭和54年刊 朝日新聞社)を、読み終えた。たった249頁の本なのに、遅々として進まず、2週間以上かかった。中身の詰まらなさに悩まされたためでなく、逆にどの頁にも自分の知らない事実が語られていたからだ。大げさに言えば、「これぞまさしく、求めていた本の一冊。」ということだった。
 
 日本はなぜ、これほどまでに中国や韓国・北朝鮮から憎悪されるのか・・・・。私の読書の目的の一つが、ここにある。
自国を蔑んでやまない左翼反日の人間の言うことは脇に置いて、自分なりに納得できる原因を突き止めてみたい。受験のため、通り一遍の知識として得た日本史を、もう一度辿り直し、良いことであれ、悪いことであれ、飾られていない事実が知りたい。
 
 その願いの核心を語ってくれる本の一つが、草柳氏の著作だったと、どうやらこれは間違いがなさそうだ。
 
 大正13年に横浜で生まれた氏は、東大在学中に学徒動員となり、特攻隊を志願したという経歴の持ち主だ。敗戦後に復学し、昭和23年に法学部を卒業している。出版社や産経新聞の記者等を経て、大宅壮一氏に2年間師事し、その後「週刊新潮」と「女性自身」の創刊に参画した。日本を代表する評論家、ノンフィクション作家として活躍し、平成14年に78才で没している。
 
 朝日新聞社の出版という部分に引っかかったが、読んでみれば、独断の主張も偏見もなく、事実が丁寧に書き込まれていた。氏の序言によると、満鉄調査部について書きたいと思ってから、仕事にかかるまで10年という歳月がかかったとのこと。
 
 「なにしろこの満鉄調査部は、日本人が作り得る空前絶後の知識集団であって、ちっとやそっと " 現在の光 " をあてても、その全貌を捉えることは困難だと思われたのです。」
 
 氏の言葉通り、本を読み終えた今でも、満鉄調査部の全体像が捉えられない私だ。昭和13年の4月に、松岡洋右が「大調査部」を創立した時は、全スタッフ2,125名で、年間予算は800万円を上回っていたという。800万円を、昭和54年当時の貨幣に換算すると38億円に相当するらしい。平成28年の現在ならもっと多額になるのだろうが、計算が苦手な私にはわからない。
 
 調査部は満鉄本社の大連にあっただけでなく、奉天、ハルピン、天津、上海、南京、はてはニューヨークやパリにも事務所・出張所を出していた。部員たちは三井、三菱の幹部クラスを高給で引き抜き、大学の優秀な学生を入れ、高価な書物を好きなだけ買わせ、希望する土地へ出張させ、得意とする研究を許し、たっぷりと時間を与え、現在でも想像がつかないほどの贅沢な組織だ。
 
 この調査部の母体である「満鉄」からして、私の理解を超える大きさと複雑さだ。数ページにわたり、氏が解説してくれるが、読むほどに不可解さが増す。その一部を引用してみよう。
 
 「まさに満鉄は、国家そのものであった。」「事業のはじめは、鉄道と炭鉱の経営である。」「日露戦争後のポーツマス条約により、ロシアが建設した東清鉄道の路線を引き継ぎ、撫順、煙台などの炭鉱の経営権を持ったのである。」
 
 「更に鉄道付属地として、線路沿線に一般行政権を認められた土地を持ち、10kmにつき15名の駐兵権も有していた。「それから40年の間、満鉄は70の関連会社、傍系機関を有し、満州に暮らす人々にとっては、不滅の殿堂であった。」「この満鉄の頭脳に相当するのが、調査部である。」
 
 そもそも満鉄とは何なのか。四つの島からなる日本で生活してきた私には、国家を超えるような「南満州鉄道株式会社(満鉄)」の存在からして理解が難しい。
 
 「満州の面積は、約150万平方キロ、つまり日本内地の2.6倍、あるいはドイツとフランスを合わせたほどの広さである。」「当時の人口は千二百万人くらいで、この広さでは " ゴマ粒をばら撒いたような " という表現が当たっていよう。 」「なにしろ、広漠たる原野が広がっているのみだ。」
 
 私は満州で生まれ、敗戦とともに引き揚げてきた日本人の子供の一人だ。故郷と呼べる地はすでに中国領土となり、三才だった自分には何の記憶も残っていないが、歴史の彼方にある満州を文字で読むと、不思議な感慨が生じてくる。当時の満州について、満鉄の秘書課長上田氏が、次のように語っている。
 
 「清朝は満州に起こって、北京に君臨し、300年の後には全く漢人化していたので、」「満州は単に祖先の発祥地として大事にしただけで、産業はほとんどゼロといっていいものだった。」「満州にいる者までが漢人化してしまい、かえって漢人の手先として使われ、」「小作人になるような憐れな有様だったので、全然産業はなかった。」「人口の9割を占める農民は、糊口をしのぐのが精一杯という程度で、貿易特産品などほとんどない。」 
 
 満鉄の初代総裁は、後藤新平だった。彼の就任には、政府と軍部と明治の元勲が深く関与し、まさに歴史そのものだ。児玉源太郎、山形有朋、原敬、西園寺公望等々綺羅星のような人物が登場する。
 
 草柳氏は、沢山の資料の中から、後藤総裁の考えについて読み解いてくれる。
 
 「後藤はまず、日露の衝突は今度の戦争だけでは終わらず、必ず第二戦があるだろうという予測から出発する。」「それが何時になるのかは分からないが、日本が満州に主体性を確認しておけば、たとえ戦いに敗れても善後策について余裕ができる。」
 
 「そのために必要なのは、第一に鉄道の経営、第二に炭鉱開発、第三に移民、第四は牧畜である。」「ことに移民は大切で、鉄道を経営しながら、10年の間に日本から50万人を移住すれば、ロシアはやたらに戦争を仕掛けるわけにいかないだろう。」「韓国の宗主権がしばしば問題になるが、列国が強いことを言えないのは、日本からの移民が最大多数を占め、" 口舌をもって争う能わざる事実 " を作ったからである。 」
 
 「後藤はこの " 移民による既成事実 " の造成を、ドイツ留学中に、普仏戦争後のアルサス・ロレーヌ地方の実情から得ている。」
 
 当時の列強はこうしたことをやっていたのだと分かったが、同じことを朝鮮や満州で真似るとしたら、中国や朝鮮が黙っていないはずだと、今日の目からすると理解できる。「正しい歴史認識を」と、中国や韓国の政府が日本を責めるのは、もしかすると南京問題や慰安婦のことでなく、こうした過去を指しているのかも知れない。チベットやモンゴル、あるいはシベリアの僻地に、多数の漢人を移民させている中国は、昔の列強を真似ているのかもしれず、時代錯誤の施策とはいえ、いささか私の攻撃の矛先が鈍ってくる。
 
 「もし満州において、50万の移民と数百万の畜産を有せんか、戦機もし我に利ならば、進みて敵国を侵略するの準備と為すべく。」後藤が述べたこの考えは、日露戦争を戦った将校の中にある思想でもあったという。
 
 こうして巨大な満鉄は、現地の関東軍のトップとも深い関係を有し、本国の政府や各種団体とも関連し、私のような単細胞には理解しがたい複雑な活動を展開する。組織というものは、一般的には同じ思想や意見で内部を固めつつ、発展や拡大を目指すものだが、満鉄の調査部は、まさに混沌の集合体だ。
 
 もっとも驚かされた、顕著な例を氏の本から引用してみよう。
 
 「中西功という、戦後の日本共産党のスターが、満鉄調査部で活躍したことに奇異の感を抱かれるであろう。」「しかし中西ばかりでなく、満鉄調査部に、左翼からの転向組がズラリと机を並べていたのは事実である。」「現在でも耳新しい人名を挙げてみると、堀江邑一、石堂青倫、伊藤好道、山口正吾、藤原定、細川嘉六、伊藤律、尾崎秀実・・・・」「ご覧のように、戦後の社会党もしくは共産党に何らかの形で参加した人ばかりであると言っていい。」
 
 「中江兆民の息子だった中江丑吉は、満鉄から毎月300円の給料を受け取り、学問一途に日を送っていたが、彼は北京にあって、コミンテルンに出席する佐野学や鍋山貞親の面倒を見たそうだ。」「ある人がそのことに触れると、" 使える人間に右も左もあるものか、キミ、左手だってステッキを持つだろう " と平然としていたという。 」 
 
 今日の考えで行くと、自民党の政策調査部会の中に、共産党や社会党の党員が机を並べているようなものだし、ある時は松岡洋祐などが副総裁をしていたのだから、当時の日本人は太っ腹だったのか、スボラだったのか、あるいは豪気な楽天家だっのか。即座に理解ができない。
 
 こうした混沌の中から、やがて満州国が生まれ、中国との戦争が拡大することになるのだが、丹念に本を読んでいくと、どうしてそうなって行くのかが理解できる。
 
 「鎌倉、室町、戦国時代、江戸から明治へと日本史の中には流れがある。しかしこの昭和の軍国主義の時代だけは、理解できない。日本史の中に突然生じた、異質の時代だ。」
 
 かって司馬遼太郎がそのようなことを言い、私もまた昭和の前半をそのように異常で、理解不能な軍人支配の時代と思わされてきた。しかし草柳氏の本を読むことにより、司馬氏のごまかしを発見した。
 
 事実を調べていけば、昭和の前半も立派に日本の歴史とつながっている。幕末から明治にかけての日本を理解しながら、昭和の時代が異常だという意見は出てくるはずがない。明治時代の日露戦争を、「坂の上の雲」の中で見事に描いた氏が、昭和を否定し罪悪視するのは、私が嫌悪する「へ理屈」でしかない。
 
 要するに司馬氏は、敗戦となった日本の歴史を直視せず、何もかも軍人が悪かった、軍国主義が国を誤らせたと、そう言いたいだけだった。つまり敗戦後に主流となった左翼平和主義や、盛り上がった人道主義に迎合し、自己保身に回っていた。
 
 たしかに満鉄や調査部について、私は十分な理解をしていないが、それでも司馬氏のように、昭和の前半を異常な、狂気の時代と切り捨てたりはしない。軍人や軍国主義や戦争には同調しないと、彼は自分を別の場所に置きたかったらしいが、私には昭和の日本人が理解できるし、許容もする。
 
 だからと言って、突き進んだ戦争が正かったとも言わない。
大東亜戦争は、正しいとか間違っているとか、そんな物差しで計ってはならないものだし、まだ終わっていない。敗戦国にだけ罪を負わせ、敗戦国だけが極悪非道とされるような裁判が、どうして正しいものであろうか。戦勝国が言うのならまだしものこと、日本人までがそれを是とする愚をどうして受容するのか。
 
 この本についての感想は、まだまだ終われないから、明日も続けよう。
知識の空白を沢山埋めてくれた草柳氏に、深い感謝の気持ちを捧げたい。氏の座右の銘は、「生涯・書生」だったと聞く。私もまた、生涯を書生として、明日からの本を読み続けたい。
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新聞のへ理屈 - 2

2016-02-09 14:44:42 | 徒然の記
 近頃は、新聞の記事を読むたび、込み上げてくる悲しみがある。
こんな感情の起伏に打ちのめされる自分は、おそらく弱い人間なのであろう。理性と信念があるなら、新聞の記事くらいで、一喜一憂するはずがない。

 興味を覚えた記事を切り抜き、ノートに貼るようになったのは、昨年あたりからだ。
物忘れが多くなったため、有意義な記事、腹に据えかねる記事、楽しい記事など、気ままに残している。久しぶりの晴天で、日差しも暖かくなったので、切り抜きノートを何気なくめくった。

 千葉日報の1月14日に、年始評論というコラムがあった。筆者は吉見俊哉東大教授で、昭和32年生まれの59才である。世界の歴史は、25年の周期で変化していくという意見だ。1945年の日本の敗戦から25年間は、「復興と高度成長」である。1970年から1995年までの 25年間は、「豊かさと消費文化」の年だった。そして95年の阪神淡路大震災とオーム事件を転換点とし、「崩壊の中の苦闘」の時代となった。

 遡れば、敗戦の25年前には、第一次大戦終結によるベルサイユ条約が発効し、国際連盟が発足している。その25年前には、日清戦争に勝利した日本が、アジアの帝国への道を歩き出した。さらに25年前の1870年の直前に明治維新が起きている。

 と、まあこういう具合の説明だ。読んでいくとなるほどと思わされ、納得もした。
だから面白いと思って深く考えもせず、そのまま記事を切り抜きにした。ところが本日、暖かい日差しに誘われるまま、何気なく記事の最後を読み、唖然とした。25年周期の話とどのように結びつくのか、氏の意見は突然安倍政権への批判となる。

 「この平和も豊かさも、今は危うい。」「アベノミクスは一種のバブルで、いずれ大きな反動が日本経済を襲うだろう。」「昨年成立した安全保障関連法案の先に、日本が改憲へと向かうのなら、戦後とはいったい何だったのか。」

 何ということはない。吉見氏も専門が「メディア論」で、一昨日ブログで批評した砂川立大准教授や碓井上智大教授と同類だった。「戦後とはいったい何だったのか」と、大上段に問いかける前に、順序からすれば、「日本国憲法とは何だったのか。」と、同時に問い始めなくてはなるまいにと、私は思う。

 どうして教授という人々の中には、現在の国際情勢や日本の現状が見えない者が多いのだろうか。
武力放棄を掲げながら、自衛隊を持つことの矛盾が、どれほど今日の日本を混乱させているのか。自衛隊を無くしてしまえば平和になると、お花畑のインテリが言うけれど、果たして世界でそんな思考が通用するのか。

 吉見氏に限らず、こういう愚かな教授たちの意見を目にすると、深い悲しみに襲われ、どっと疲れが押し寄せてくる。
こういう人物の語り口は情緒的で、いかにも美しく、わが国に生息するお花畑の馬鹿者には、中身は何もないのに、まるで詩のような響きでこだまするのであろう。
 
 「日本は、破局に至る75年に立ち返るのでなく、それ以前の数百年に及ぶ、」「東アジアの歩みの中における、自らの価値の掘り起こしに向かう方が、可能性は大きい。」
「長い間、アジアは海で結ばれ、無数の島と半島、沿岸が繋がってきたのである。」「ネットワーク化の時代、開かれた連携に未来を託していきたい。」

 この綺麗な言葉が結びである。いったい、なにを言わんとしているのか、さっぱり分からない。日本が危機意識を持ち出したのは、中国の軍備増強と、日本の領土領海への侵略がキッカケでなかったのか。民主党でさえ、政権を担っていた時は、竹島も尖閣も日本固有の領土だと明言していたのに、そんなことには目もくれない。

 固有の領土を韓国が不法に占拠し、中国が武力で侵犯している。主権国家として、領土を守り、国民の安全を考えるのは当然の話でなかろうか。責任政党として自民党が改憲を言うのは当然なのに、あたかもそれが歴史の針を逆回転させる愚行だとでも言わんばかりの論調だ。

 東大には憲法学者でも、現実を見ない愚か者がいる。まして吉見氏は、メディア論が専門というのだから、門外漢の寝言でしかない。こんな記事を大紙面にして飾る、千葉日報の経営陣は、朝日新聞のペテンを真似ているのだろうか。

 何もかもが、情けない。
安倍政権の批判をするのなら、堂々と正論でやれと言いたい。安倍氏を支持しているからといって、何もかも正しいなど、そんな国民はいないのだから、国の未来を見据えつつ、もっとまともな主張を展開すべきでないのか。



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新聞のへ理屈

2016-02-07 18:56:28 | 徒然の記
 この間、「私のへ理屈」という表題でブログを書いた。
「私のへ理屈」の社会的影響は皆無だが、「新聞のへ理屈」となるとそうはいかない。慰安婦問題で、誤報と大嘘を世界に発信した、朝日新聞の言い訳は、へ理屈の最たるものだった。日本の国益を損ない、歴史を傷つけ、多くの国民に心の傷を負わせたのに、社長の交代で責任をうやむやにしてしまった。

 反日と売国のマスコミがする「へ理屈」は、社会を毒する有害物質と同じく、時間をかけて国民の魂を蝕んでいく。
1月21日の千葉日報の記事が、まさしくそれだった。2月になっても怒りが収まらないため、やむなくブログで取り上げることとした。記事の見出しは、「報道の顔、降板相次ぐ」となっていて、古舘伊知郎、岸井成格、国谷裕子氏の顔写真が並んでいる。

 記事の内容は、この三人が政権に批判的だったから、政府の圧力で降板させられた。これでは政権の批判ができなくなり、自由な意見が言えなくなるというものだ。砂川浩慶立大准教授が、「報道番組が長いものに巻かれて、当たり障りのない一面的な情報提供しかできなくなったら、視聴者に取っても、民主主義社会にとっても、良くないことだ。」と解説している。

 碓井広義上智大教授の意見は、こうである。
「メディアは、権力に対し、批判すべき点は批判するという、ジャーナリズムの役割をきちんと果たすべきだ。」「視聴者は、今後報道番組が何を伝えるのか、何を伝えなくなったのか、しっかりとチェックして欲しい。」

 二人の教授の専門は「メディア論」であるらしいが、私には彼らが「マスコミのお抱え学者」にしか見えない。こういう生半可な学者たちが、マスコミの反日・売国を助長し、日本の文化や歴史の破滅に手を貸しているのだ。
反日の看板キャスターが降板されるきっかけについて、解説記事があるので、そのまま引用する。「政権与党が、テレビ報道に " 圧力 " と取られかねない注文を強めたのは、一昨年末の衆院選の頃からだ。」「在京各局に、選挙報道で " 公平中立、公正の確保 " を求める文書を出し、 」「自民党は昨年、報道ステーション、クローズアップ現代で、局の幹部を事情聴取した。」

 自民党が選挙目当てにテレビ局への干渉を始めたという記事にしているが、そういうところに問題があるのではない。
監督官庁の総務省が、テレビ各社に報道の公平や中立を求めて何がおかしいというのか。平成になって以来、マスコミの反日報道の露骨さに、どれだけ国民が嫌悪を感じていたというのか。共産党や民主党と一緒になり、「日本が悪い」の大合唱を日々報道し、戦争の抑止力となる安保法案すら、「戦争法」と決めつける一方的意見を流し続けた。

 いったいこの二人の教授は、偏向報道をするキャスターたちのどこを弁護するのか。偏らない報道をしてもらいたいと注文した自民党のどこが間違っていると言うのか。「キャスターには、反権力の側面がある。」と言い、自説を曲げなかったらしい古舘氏をいかにも信念の人みたいに持ち上げているが、私にすれば、この一連の記事がすべて「へ理屈」である。

 反権力だけなら、私は何も言わない。政権への批判や反対意見は、大切なものだ。しかし、敵対する中国や韓国を擁護し、どこまでも日本政府や国民を責め立てる彼らの報道が、果たして公正・中立なのか。
偏向した反日の報道を、なぜ「反権力」という言葉で語ろうとするのか。こんなものはキャスター個人の偏見でしかなく、売国報道や利敵報道と呼ぶ方が正しい。公共の電波を使って、片方に都合の良い意見だけを流すのなら、法の定めに従って政府の注意を受けて当然であろう。

 千葉日報のみならず、反日キャスターを弁護する二人の教授も、こんなお粗末な「へ理屈」で国民が納得すると思っているのだろうか。
だとすれば、知識も教養も、現状認識もいい加減な、程度の低い新聞社であり、教授たちである。彼らには、国を思い、国を憂える国民がいかに多数となりつつあるのか。それさえ分かっていない。足元の変化に鈍感な、愚鈍な教授たちと千葉日報に果たして明日があるのかと、他人事ながら心配する。
私のささやかな注文は、「こんなへ理屈を、これ以上紙面で語るのは止めてもらいたい。」「日本社会を駄目にするような、公害記事を垂れ流すのはやめて欲しい。」


 右へ倣えの「反日マスコミ界」から一足踏み出し、右も左も公平に報道する、千葉県民の新聞として再生してもらいたいものである。朝日や毎日に比べ、偏向報道や独善の説教記事が少ないから読んでいるが、これ以上千葉日報が偏向報道の数を増やすのなら、そろそろ購読を止めなくてはなるまい。
コメント (3)
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