大崎正瑠氏著「韓国人とつきあう法」(平成10年刊 ちくま新書)。名古屋で読んだ、最後の本だ。
氏は、昭和19年に北海道で生まれ、慶大卒業後に、ビジネス界の実務を経験し、現在は大妻女子大学教授である。
韓国に関する本を、これまで4、50冊読んだが、系統だった読書をしていないから、量は多くても断片的な雑学となっている。その中でも、大崎氏の著作には、目を開かせられる発見があった。
日本は、欧米諸国と価値観を共有する、民主主義国家で、欧米の国々からは、アジアのどの国より理解されていると、今日まで信じて来たが、その思い込みを、氏が見事に打ち砕いてくれた。
「ヨーロッパから日本まで、中近東・南アジア経由の旅行を含め、海外において、」「肌に感じたことだが、イベリア半島から、朝鮮半島まで、陸続きのユーラシアにあって、」「人々は自然に往来し、相互に、影響し合っている。」「日本は海に囲まれ、人々の往来が自由でなく、」「ユーラシア的相互影響から、途切れている。」「これに加えて、日本は鎖国を経験し、小宇宙を作り、独特の文化を発展させて来た。」
こうして氏は、日本の特異性を語る。
「筆者が今まで、約40カ国見て来た限りでは、相手とぶつかり合いもしない、文化など、」「日本以外に、まず無いのである。」「ぶつかり合いをするのは、韓国人以外も、大体同じようなものである。」
「筆者の知り合いの中国人の話では、故郷に帰ると、100メートルも歩けば、」「大抵道ばたで、怒鳴り合の口喧嘩をしている光景に、出くわすと言う。」「しかるに日本では、そのような光景はまず見ないので、」「不思議に思う、とのことである。」
「個人的な経験でも、ブルガリア、ドイツ、アメリカなどでも、」「職場や学問の場で、日本人から見れば、喧嘩としか思われないように、感情を露にし、」「口角泡を飛ばし、議論している光景が、何処でも見られた。」「翌日には、互いに、何事もなかったかのように振る舞い、」「議論の続きを、したりする。」「この点においても、日本対日本以外の、図式が成り立つだろう。」
「日本人が、あまりに謙譲するので、外国人の中には、日本人には、」「精神的マゾヒストの傾向がある、という人もいる。」「筆者の経験からしても、このような謙遜・謙譲の文化を、日本以外に知らない。」「韓国人は自己を誇示し、万事控えめと言うことがない。」「しかしこれは、韓国人に限ったことでなく、アメリカ人もドイツ人も、」「中国人もアラブ人も、日本人以外は、大体同じようである。」
「この意味で、日本人のこのような態度は、国際的な場所では、理解者が誰もいなく、孤立する。」
なるほどと、うなづかされる意見でもある。外国と交渉するにあたり、謙遜・謙譲では、相手に理解されないばかりか誤解も招く。外務省や政治家に関し、、氏が言う分には反対しないが、日本人全般に押し広げられると、チョット待ってくれと言いたくなる。
だから日本人には、国際感覚が欠けていると、決めつけられるに至っては、不愉快極まりない。
最後まで読んで分かったのだが、氏は、日本人への助言として語っているのでなく、自己主張する韓国や、中国の方を是としている。つまり日本を批判し、韓国・中国には理解と好意を示すということだった。
1. 日本人特有のコミュニケーション・スタイルは、多分に「武の文化」、およ
び、いくらか儒教文化に影響を受けている。特に自己犠牲を義務とし、自己
主張を押さえつけて来た、「武の文化」の影響が強い。それは例えば、「ぶつ
かり合いをしない」、「畏まる、謙遜する」、「議論嫌い、感情を抑制する」、
「無原理・無原則」などに現われている。
2. これが日本人を、世界に類のないほど発信下手、そして、外国語下手にする大き
な要因である。個人的発信力の点で、汎世界的水準に近い、韓国人・中国人なみ
の発信力を、発揮するためには、これから日本人が、どの程度「武の文化」の呪
縛から、開放されるかが鍵であろう。
この2点が、氏の本の結論である。
氏の言う「武の文化」とは、何なのだろう。おそらく、「武士の文化」という意味なのだろうが、そうなると起原を、氏は、武士が天下を制した、鎌倉幕府以降のこととしているのか。
けれども、私は違う意見だ。日本人の気質を作るキッカケとなったのは、聖徳太子の「十七条憲法」である。
中学時代に日本史で習ったが、その中に「和をもって尊しとなす。」という言葉があった。いがみ合いをせず、仲良く暮らしなさいという意味だと、先生に教わった。無闇に異を唱え、他人と争わず、和の心を大切にすると言うことで、それは氏が解説するような、「一方的な自己犠牲」や、「自己主張の押さえつけ」などという、次元の低いものではない。
氏の意見に従えば 、武の文化」は、1192年からの始まりとなり、日本史で習った「十七条憲法」は、574年からの話になる。日本人の気質が、世界に稀であるのなら尚のこと、鎌倉時代より618年を遡る、飛鳥時代に始まると言う方が、自然な認識と言えないだろうか。もっと言及すれば、一般の日本人が、外国語を喋れないのは、日常生活に必要がないという、簡単な理由だ。
ついこの間まで、地位のある者は、外国語など喋らず、通訳を介し日本語で話すのだと、そんなことが言われていた。私が会社にいる頃、社長は、知っていても英語を喋らず、通訳の役員を常に同行していた。
そして通訳専門の役員は、他の役員に比し、レベルが低いと見られていた。私と同じ年齢なのに、氏はそうした事実を忘れているのだろうか。今の時代で、外国と折衝する政治家や役人が、英語のひとつも喋れないのは、使命感の欠如した職務怠慢でしかない。
他のアジア諸国で、英語やフランス語が使われているのは、彼らの国が、植民地であったり、白人に支配されたりしていたからだ。白人の言葉を使えなくては、暮らしが立たなかったため、必要に迫られ、彼らは異国語を使う。
「武の文化」などという、ヘンテコな理屈を持ち出さなくても、私の意見の方が常識的と思えてならない。発信力にしても、国際的に弱くなったのは、先の戦争で負けたからにすぎない。戦前の日本の政治家や、軍人を見るがいい、自信に満ち、高慢になり、世界に自己主張をドンドンやったではないか。
特異な文化を持つ日本が、白人優位の国際社会で自己主張をしすぎ、敵に囲まれてしまった。敗戦の結果、徹底的に痛めつけられ、憲法も押し付けられ、極悪非道な軍国主義者の烙印を押され、スッカリものが言えなくなっていると、これが戦後の歴史ではないか。
見当違いの氏の意見に対し、私は自己主張する。確かに私には、大した発信力がなく、ブログで、怒りをぶちまけるくらいしかできない。氏は大学教授で、私は一介の年金生活者だが、ハイそうですかと引き下がる訳にいかない。
こんな私のどこに、「畏まり 、 謙遜し」 、「感情を抑制する 、武の文化」の影響があると、言うのか。日本の歴史を深く考察せず、己の狭い経験から、世界とわが国を規定するなど、笑止千万である。
どこにあるのか知らないが、大妻女子大学の学生さんたちよ。大崎先生の話は、眉に唾して聞き給え。北星学園大学の、植村隆先生ほどの悪人ではないとしても、自分の国を大切しない先生の話に、騙されてはいけませんよと、不幸な学生諸君に伝えたい。
多忙な名古屋での日々、こんな酷い本を読んでいたのだから、疲れたはずだ。だからこの本は、何時もの通り、「有価物回収の日」にゴミとして処分する。