ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

村上誠一郎氏の思考 - 12 ( 政策主張 - 2 )

2022-11-27 13:54:25 | 徒然の記

 ウィキペディアの記事はまだ幾つもあり、参考になりそうなものだけを選んで紹介しようと思いますが、村上氏に限らず、ハニートラップにかかり中国人女性スパイを秘書にしていた松下新平議員などを見ていますと、「自民党とは、一体なんだろう」という疑問が生じてきます。

 勤皇派と佐幕派に分かれ戦っていた幕末でさえ、勝つためには何でも利用するという無節操さは双方にありませんでした。資金と武力を提供するとフランスに提案された時、最後の将軍だった慶喜公がはっきりと断っています。勤皇派軍の先頭にいた西郷には、イギリスが資金と武力の支援を持ちかけていますが、断固として断っています。

 日本国内での戦いに外国の支援は無用というのが、理由でした。これが、私の見る「保守」政治家の原点です。強力な武力と資金が必要だとしても、節操もなく外国に頼らない矜持と見識があります。国運をかけた日清、日露の戦争に際しては、英国とアメリカの資金を活用しましたが、無定見な受け入れではありませんでした。

 国の指導者である政治家が諸外国と対峙する時、心の中心にあったのは「日本国」でした。平和や平等、人権、自由と素晴らしい言葉を聞かされても、私が反日左翼勢力を受け容れない理由がここにあります。日本を否定し、歴史も伝統も、それを守ってきたご先祖さえも否定するような政党を嫌悪する理由が、ここにあります。

 虐げられた貧しい労働者を開放し、金持ちも貧乏人もいない平等な社会・・これがマルクス主義者が作ろうとしている国です。「万国の労働者よ、団結せよ」と、トロッキーは世界同時革命を提唱しましたが、スターリンも、毛沢東も、ホーチミンも、彼らは「世界革命論者」ではありません。民族主義的社会主義者と言われていますが、彼らは自分の国を否定せず、伝統と文化について誇りを持っています。

 今となっては、虚構のユートピアでしかなかったと判明したマスクス主義ですが、スターリンや毛沢東やホーチミンが愛国心を持つ政治家だったから、国民大衆の支持を受け、社会主義政権の国が作れたと言えます。日本人の多くが曖昧になっているのは、民族社会主義への理解ではないでしょうか。共産党を筆頭とする日本の左翼勢力は、日本民族の歴史と伝統を否定する異質の人間たちだと、そこに思いを致す人がいません。

 「名前が同じ社会主義政党でも、日本共産党以下の左翼政党は根なしの浮き草政党である。」

 これは私の信念です。

 彼らが作ろうとしているのは「スターリンに従属する社会主義国日本」、「毛沢東に従属する社会主義国日本」であり、日本という名称があっても中身は消滅しています。極端な左翼学者は「金○成に従属する社会主義国日本」を提唱しています。

 私の意見を軽蔑する人もいますが、この対極にいて、日本を守ろうとしている政治勢力は「自由民主党」しかありません。頑迷固陋な「神国日本思想」の保守主義者がいるとしても、一部に過ぎず、国民の多数はご先祖を大切にし「和を尊ぶ」中庸の庶民です。日本に社会主義政党は馴染みませんし、根づく土壌もありません。

 村上氏のような議員がいても、松下氏のような人間がいても、三木氏のような政治家がいても、それでも自由民主党を支持する理由を、息子たちに理解してもらいたいと思います。もしかすると私だけでなく、多くの人々も同じなのかもしれませんが、自民党を支援し続けるというのは、「苦渋の選択」でもあります。腐ったリンゴが混じっていても、敗戦後の自由民主党は本来の日本を取り戻そうと努力しています。

 私たちの目にはハッキリと見えませんが、腐ったリンゴを押しのけながら、一つの流れとして自民党は歴史を取り戻そうとしていると、そう思います。「憲法改正」と「女性宮家反対」の旗が、倒れそうでいて倒れないのは、腐ったリンゴと戦っている議員たちがいるからです。

 こんなことを考えながら、残りのウィキペディアの記事の一部を紹介します。

 〈 政策主張 〉

  ・選択的夫婦別姓制度について平成29年、令和3年のアンケートへの回答・・「どらかとも言えない」 

  ・同性婚を可能とする法改正について平成29年、令和3年ののアンケートへの回答・・「賛成」  

  ・「LGBTなど性的少数者をめぐる理解者増進法案」にいて、令和3年のアンケートへの回答・・「どらかとも言えない」 

  ・クオーター制の導入について、令和3年のアンケートへの回答・・「反対」 

  ・首相の靖国参拝について、平成29年のアンケートでの回答・・「どちらとも言えない」

  ・当選同期で元内閣総理大臣の鳩山由紀夫が、twitterで村上から電話があったと明かした。 

   「安倍元総理の国葬はおかしいと思うが、永田町では面と向かっておかしいと言う議員がいない。それでキャンペーンを張ろうと思うが、名前を貸してくれと伝えられた。もちろん喜んでと答えた」

  ・令和4年9月20日国葬への欠席を表明し、安倍の政権運営についても「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊して、旧統一教会に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」と語った

   翌21日には「責任は重いと言いたかった。国賊という言葉を使ったかは覚えていない」と釈明

 こんなクズのような氏が、「保守本流」とは笑止千万です。本日でこのシリーズを終わりますが、goo事務局からの警告がまた来ることでしょう。

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村上誠一郎氏の思考 - 11 ( 政策主張 )

2022-11-26 14:24:46 | 徒然の記

 朝日新聞元編集委員の山田厚氏と左翼弁護士の升味佐江子氏に持ち上げられ、笑顔でお喋りする氏に、保守本流の姿は見られませんが、連続11回の当選と言いますから、地元の選挙民の方々には魅力のある人物なのだと思います。

 しかし氏が「保守本流」の政治家でないことを証明するのは、とても簡単です。ウィキペディアの情報を紹介すれば、済むからです。なぜこんなことをしたのか分かりませんが、ウィキペディアは過去から現在まで、氏が答えた新聞社等のアンケートに関する回答、インタビュー時の言葉、国会での発言などを、「政策主張」とタイトルをつけひとまとめにしています。

 スペースの許す限り紹介すれば、一目瞭然で事実が見えます。もしかするとウィキペディアも氏の「保守本流」に疑問を抱き、読者のために便宜を図っているのでしょうか。しばらくコメントなしで紹介しますので、各自で判断していただければと思います。

 〈 政策主張 〉

  ・憲法改正について平成29年のアンケートへの回答・・「どらかといえば賛成」 

  ・憲法改正について令和3年のアンケートへの回答・・「どらかといえば反対」  

  ・9条改憲について、令和3年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答

  ・憲法を改正し緊急事態条項を設けることについて、令和3年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答

  ・安全保障法について、平成29年のアンケートで「どちらかと言えば評価しない」と回答

  ・他国からの攻撃が予想される場合には敵基地攻撃もためらうべきではない」との問題提起に対し、令和3年のアンケートで「反対」と回答

  ・「北朝鮮に対しては対話よりも圧力を優先すべきだ」との問題提起に対し、平成29年、令和3年のアンケートで「どちらとも言えない」と回答

  ・普天間基地の辺野古移転について、令和3年のアンケートで「どちらとも言えない」と回答。

  ・平成25年11月、特定秘密保護法案の採決に際し、体調不良を訴え、議場から退席。「いろいろな問題が残っているのに、政治家として賛成する自信があるかと言ったら、あるわけない」「まだまだ議論の余地がある重要法案なのに、こう拙速に決めていいのか」と記者に対し述べた

  ・また「多数決は100人のうち99人が間違っていても、そっちが正義になっちゃうんだ。ファっシズムなんていつでも起きる危険性があるんだよ」と、議会で大多数を占める与党による衆議院国家安全保障に関する特別委員会での採決を、批判した。自民党で投票を棄権したのは村上ただ一人である。

  ・安倍内閣が推進している集団的自衛権行使のための憲法解釈変更に、批判的な言動を続けており、「行政府が法解釈して自分で勝手にやれば、立憲主義を否定することになる」「ナチスと同じ愚を繰り返す」と発言

  ・平成27年5月に開催された自民党の総務会では安全保障関連法案について「憲法が有名無実化する」「憲法改正なしで集団的自衛権を行使することには疑念がある」と反対したが、最終的に挙手採決に持ち込まれ、村上は途中退席し全会一致での了承となった。一方、平成24年の毎日新聞のアンケートでは、集団的自衛権行使のために憲法解釈を見直すべきだと回答しており、過去と現在の主張が異なっている

  ・女性宮家に反対していたが、平成29年の第48回衆議院選、令和3年の第49回衆議院選での毎日新聞のアンケートでは賛成に転じている

  ・菅内閣による日本学術会議会員の任命拒否問題については、言語道断として、「学問への畏敬の念、リスペクトがあまりになさ過ぎる、説明が必要」と述べた

 スペースがなくなりつつありますので、ここで止めてもいいのですが、せっかくまとめてくれたウィキペディアと、何も知らない息子たちのため、残りの一部分だけでも次回紹介します。村上氏の地元の選挙民が読んでくれたらと思いますが、そこまでは無理な話でしょう。

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村上誠一郎氏の思考 - 10 ( 三木氏の豹変 ? )

2022-11-26 06:55:21 | 徒然の記

 今回は、三木氏と村上氏が「保守本流」でない理由を説明しますが、二人同時にできませんので三木氏から始めます。

 三木氏を評する言葉として、「クリーン三木」があります。田中金脈問題、ロッキード事件で政治と金の問題に国民の嫌悪感が高まった時、三木氏は政界再生の第一人者となりました。「クリーンな政治」について氏の意見に異論はありませんが、国の政治はそれで十分なのでしょうか。

 先の大戦で敗北して以来、「間違った戦争をした悪い国」というレッテルを貼られ、中国、韓国・北朝鮮に批判攻撃されても反論できない日本について、氏は保守政治家として心の痛みを何か国民に語ったでしょうか。

 敗戦以後日本には130の米軍基地があり、そのうちの80の基地は米軍専用の治外法権地域です。自民党の政治家は「安い費用で、番犬を飼っている」と強がりを言い、アメリカは「日本が安保条約にただ乗りしている」と批判しています。反日のキッシンジャーは、中国を訪問した時「日本に基地を置いている目的は、日本が再び戦争をできないように監視するためだ。米軍は、日本が外へ飛び出さないようビンの蓋の役割をしている。」と語りました。

 自由主義諸国の中で、というより世界の国の中で、日本のように他国の軍隊が多数の基地を持っている国が果たして他にあるのか、これで日本が独立国と言えるだろうかと、氏は一度でも疑問を述べたことがあったでしょうか。

 氏が「保守本流」と自らを語るのなら、国の独立の大切さと東京裁判の実態を国民に語るのが筋です。敗戦当時は連合国軍の裁判を、何も知らされていない多くの国民が是認しましたが、その後日本の戦いが自衛戦争だったという資料がたくさん現れました。東京裁判が米国による「復讐裁判」だったという証言も、米軍の高官が明らかにしています。

 こうした根幹の問題に触れず、官僚政治の腐敗を指摘することで、氏は「保守本流」政治家の役目を果たしていると考えているのでしょうか。「クリーン三木」「クリーンな政治」というのは、政治の手段に過ぎません。政治の目的は、国民を豊かにするための経済の安定と、つぎの4つが不可欠です。

  1. 日本の独立

  2. そのための軍の再建

  3. そのための「憲法改正」(自主憲法の制定)

  4. これによって、日本の過去の歴史、伝統、文化を取り戻すこと。

 氏は、激しい派閥闘争を乗り越えた老練な政治家ですが、この4点について何も語っていません。政治が政争だけであるとするなら、氏は一角の政治家ですが、政治が国のための政 (まつりごと) と信じる国民の一人である私には、日本人の魂を失った政治家の一人にしか見えません。

 弁舌の天才、言葉の天才と、ウィキペディアが誉めていますので、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々のため、氏に関してほとんど語られてない事実を紹介します。

 〈 祭政一致 〉と〈 国体明徴 〉という言葉は戦後消えてしまい、政治家は誰も口にしません。意味を知っている国民も、今ではいないのではないでしょうか。

 〈 祭政一致 〉とは

  祭祀と政治の一元化のことで、政治指導者が宗教的指導者でもあるという政治を言います。つまり、天皇親政のことです。

 〈 国体明徴〉とは

  昭和10年、美濃部達吉氏が述べた「天皇機関説」を排撃するために出された、政府声明で使われた言葉です。つまり、天皇が統治権の主体であり、日本が天皇の統治する国家であるとした宣言です。

 昭和12年に三木氏が最初の国政選挙に立候補した時、氏は15項目の政策を選挙公報に挙げています。この時氏は公約として「国体明徴」「祭政一致」「日本道徳の鼓吹と共産主義の絶滅」を、15項目の冒頭に掲げていました。次の情報もあります。

 「三木は選挙戦終盤に徳島2区の有権者に送付した無料郵便で、自らが一人っ子であることを紹介しつつ、皇国に忠誠の使徒である上に、衆議院議員に当選して老父母に孝行の実を挙げ、忠孝両全の規範を立志の歴史に留めたいとの内容により、当時の倫理規範で最高の徳目とされた忠孝を兼ね備えた人物であることを示すとともに、泣き落としとも受け取れる訴えを行った。」

 昭和12年の世相を考えれば、青年三木氏が国政選挙に勝つためあらゆる方法を使った心情を理解しないわけではありません。しかし当選以後氏は、こうした言葉を使わなくなり、「クリーンな政治」一本槍になります。つまり「国体明徴」、「祭政一致」、「日本道徳の鼓吹と共産主義の絶滅」は、選挙のための便宜的な言葉だったということになります。

 息子たちが理解できるのかどうか分かりませんが、「保守本流」の言葉も氏にとっては便宜的なものでないかと、私が考える理由がここにあります。亡くなられた氏をいつまでも責めようと思いませんが、師と仰ぎ氏を真似て国民を惑わす村上氏の存在を思うと、一言言わずにおれなくなりました。今後は三木氏への言及をやめ、後継者を公言する村上氏について語ることとします。

 今回で終わる予定でしたが、村上氏が「保守本流」でないことの説明は次回となりました。

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村上誠一郎氏の思考 -9 ( 保守本流の意味 ? )

2022-11-25 19:23:55 | 徒然の記

 村上氏のいう「保守本流」とは何なのか。話の出発はここからです。三木氏は自分なりの勝手な解釈で次のように言っています。

 「政党政治の歴史の中では、大隈重信や板垣退助の流れを汲む自分こそが保守本流であり、官僚政治は亜流にすぎない。」

 世間で一般に言われている「保守本流」とは、おそらくウィキペディアによる下記説明の通りだと思います。

 ・昭和30年11月に保守政党だった自由党と日本民主党が「自由民主党」を発足させたときに生まれた言葉である。

 ・旧・自由党の流れを汲む自由民主党内の派閥を「保守本流」と言い、日本民主党を前身とする派閥を「保守傍流」と言った。

 簡単にいえば吉田首相が率いていた自由党、もっと簡単に言うと「吉田学校」に属していた議員が「保守本流」です。官僚出身者で占めている議員集団ですから、当時は「官僚派」「党人派」と呼んで区別していたと言います。「保守本流」という言葉がいつから盛んに言われるようになったのかは不明ですが、もしかすると三木氏が広めたのかも知れません。

 官僚が政党政治をダメにすると信じていた氏が、選挙民に選ばれた政治家が本物だと言い出し、そんなことはないと多数派の自民党議員が反対して、ウィキペディアの説明する定義を定めたのかも知れません。民主主義の基本は多数決ですから、少数派の三木氏の定義は、次第に相手にされなくなったという気がします。

 いずれにしても「保守本流」という言葉の基本には、「官僚派」と「党人派」という区分があるということです。「保守本流」も「保守傍流」も当時は官僚出身の議員が多数を占めていましたから、出世欲旺盛な氏が自由民主党内で頭角を表すには、こうした手強い議員たちと戦わなくてなりません。政権を手にするため、氏は様々なキャッチフレーズを考えた言葉の天才でしたから、「保守本流」もどこまで本気だったのか私には疑問です。

 昭和24年1月の第24回衆議院議員選挙で初当選した吉田学校の議員名のデータがありますので、紹介します。この顔ぶれを見ますと、官僚政治はダメだ、「党人派」の自分こそが「保守本流」だと理論武装しなければ、三木氏は勝ち目がなかったのかも知れません。

  ・池田勇人 ・・大蔵次官、池田行彦の義父

  ・前尾繁三郎・・大蔵省主税局長

  ・橋本龍伍 ・・内閣官房次長、橋本龍太郎の父、橋本岳の祖父

  ・福田篤泰 ・・外務省文書課長

  ・北沢直吉 ・・外務省参事官

  ・岡崎勝男 ・・外務次官

  ・吉武恵市 ・・労働次官

  ・大橋武夫 ・・戦災復興院次長

  ・西村栄一 ・・運輸省鉄道総局電気局長

  ・佐藤栄作 ・・運輸次官、佐藤信二の父

  ・小金義照 ・・通産省燃料局長官

  ・遠藤二郎 ・・農林省畜産局長

  ・南好雄  ・・通産省東京燃料局長

  ・中村幸八 ・・特許局長官

  ・福井勇  ・・文部省科学官

  ・西村直樹 ・・高知県知事

  ・岡田五郎 ・・運輸省大阪鉄道局長

  ・満尾君亮 ・・運輸省鉄道局長

  ・青柳一郎 ・・山口県副知事

  ・藤枝泉介 ・・群馬県副知事

  ・田中啓一 ・・岐阜県副知事

  ・中村清  ・・三重県副知事

  ・塚原俊郎 ・・内務省世論調査課長、塚原俊平の父

  ・玉置実  ・・商工省課長

  ・中村純一 ・・逓信院貯金保険局長

  ・福永健司 ・・埼玉県副知事、福永信彦の父

 緑色表示の議員は、総理大臣になっています。長期政権だった佐藤栄作氏が気に入らず、目の敵にしていた大平正芳氏は大蔵官僚、福田赳夫氏も同じく大蔵官僚ですから、「保守本流は官僚でなく、党人派だ」と叫ばなければ、氏自身がやっておれなかったのではないでしょうか

 村上氏が自分の師として上げた四人の自民党政治家は、官僚出身者でなく党人派系列ですが、果たして三木氏の切羽詰まった「保守本流論」をどこまで理解しているのか、中身の軽い氏の意見を聞いていますとこれもまた疑問です。

 そんな村上氏の談話を聞いて、沢山の視聴者が称賛のコメントを入れていました。去年の6月9日に放映された「デモクラシータイムス」の動画に、危機感を覚えました。感動している視聴者の人々が、自由に信じるのは気にしませんが、息子や孫たちが惑わされるのは困りますので、一連のブログとなっています。

 息子たちや孫のため、次回から三木氏と村上氏が本物の保守でない理由を説明し、ブログを終わろうと思います。

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村上誠一郎氏の思考 - 8 ( 山中貞則氏の経歴 )

2022-11-24 18:07:11 | 徒然の記

 今回は、村上氏が師とする4人目の政治家の紹介です。

〈 4.  山中貞則氏の経歴 〉 ・・鹿児島5区 当選 17回

  ・大正10年鹿児島県生まれ、平成16年没 82才

  ・台北第二師範学校 (現・国立台北教育大学)卒  前職 :  南日本新聞記者

  ・党歴   自由民主党 ( 中曽根派→ 無派閥→ 渡辺派 → 山崎派 → 亀井派 )

  ・昭和46年 初代環境庁長官、( 佐藤内閣 )

  ・昭和47年 初代沖縄開発庁長官、46代国家公安委員長、( 佐藤内閣 )

  ・昭和48年 第31代防衛庁長官、( 田中内閣 )

  ・昭和56年  第41代通商産業大臣、( 中曽根内閣 )

 以上が概略で、ここから詳細に入ります。

 「豪快な人柄、特に税制面での政策通ぶり、国士とも評された政治姿勢などから〈 山中伝説 〉と呼ばれる数々のエピソードを残した。」

 豪快というより尊大で横柄な印象しかなく、関心の対象外でしたから、詳しいことを知るのは初めてです。村上氏がどのようなところに惹かれたのか、興味があります。

  ・台湾の師範学校を卒業後、高尾の国民学校で教鞭をとった。師範学校時代の教師に屋良朝苗 ( 後の琉球政府行政主席、沖縄県知事 ) がいた

  ・昭和21年に復員し、郷里の鹿児島で南日本新聞記者、鹿児島県議会議員

  ・昭和28年衆議院選挙に、自由党公認で出馬し初当選

  ・昭和30年、保守合同で自由民主党に参加。河野派に入会

  ・昭和33年、岸内閣で大蔵政務次官に就任。当時の森永貞一郎大蔵事務次官らが、この人事を覆そうと試みたが失敗に終わった

   山中は財政や税制に関する勉強に励み、品目ごとに利害が複雑に絡み、税率の設定は困難であるといわれた物品税の改正を成し遂げた。このことが後に官僚以上に税に精通した政策通の異名に繋がる。

  ・昭和49年、党の政務調査会長に就任するが、就任後1ヶ月で田中内閣がが倒れ、無役になる。この処遇で中曽根康弘と不仲となり、中曽根派を脱会。

  ・昭和54年、自民党税制調査会長を務める。以来税制のドンとして重きをなし、「税の神様」や「ミスター税調」などと呼ばれた。一連の派閥抗争では、強硬な反大平派として行動

  ・平成2年、税調の最高幹部として消費税導入を積極的に推進したことなどが祟り、第39衆議院議員選挙で落選

  ・平成5年、第40衆議院議員選挙で当選し、国政復帰

  ・平成15年、第43衆議院議員選挙でも当選し、最年長、最多当選の国会議員となるが、当選から3ヵ月後肺炎のため死去

  ・鹿児島県の旧山中邸に、山中貞則顕彰館が開館。式典には仲居真弘多沖縄県知事も出席。山中は沖縄名誉県民第一号でもある。

  ・選挙区でもない沖縄のために683本の特例法を通した背景には、鹿児島県出身者として薩摩藩の琉球支配への贖罪意識があったという。「米軍が沖縄に上陸していなければ、志布志湾に上陸し、鹿児島がひどい目に遭っていた」と、沖縄戦の犠牲に報いる意味もあったという。

  ・昭和33年大蔵政務次官就任後の初登庁時に、紋付羽織袴で乗込み、職員たちを驚かせた

  ・消費税導入の税率について大蔵省が5%を主張する中で、自民税調において低所得者への配慮を考慮した山中の一声で、3%になることが決定。5%を当然視していた吉野良彦大蔵事務次官は、3%という決定を聞いた時に椅子から転がり落ちたと言われる。

  ・親台派議員として、日華議員懇談会会長も務めた。

  ・政府税調と方針が対立し「政府税調を軽視しているのではないか」と聞かれた時、「軽視ではない。無視しておる」と発言。

  ・自民党総務を晩年に至るまで務め、総務会の重鎮として重きをなした。

  ・遺言で「後継は山中家から出してはいかん」と世襲を否定し、身内からの後継出馬を予定していた自民党鹿児島県連が騒ぎになった。(山中死去に伴う補選では自民党は森山裕を擁立し当選させた)

 国を愛する保守政治家なのか、単なる礼儀知らずの乱暴者なのか、この経歴からは判別できません。村上氏のいう「良識のある政治家」とは、何を意味しているのかも分からなくなりました。今回は中山氏の「経歴」の紹介にとどめ、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々は、自分なりに解釈していただければと願います。

 次回は、三木氏の意見の「落とし穴」について私の考えを述べますので、関心のある方は「ねこ庭」へ足をお運びください。

 (  面白いことは何もありません。)

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村上誠一郎氏の思考 - 7 ( 三木氏の意見の落とし穴 )

2022-11-24 13:12:27 | 徒然の記

 昔の自民党には、河本敏夫、梶山静六、三木武夫、山中貞則など良識のある政治家がいたが、今は自分が師匠にしたいと思うような政治家がいないと村上氏が語ります。

 河本、梶山、三木の三氏については経歴を紹介し、山中氏を残すだけとなりましたが、どうやら氏が一番影響を受けているのは三木氏のようです。そこで今回は三木氏に関するウィキペディアの豊富な情報の中から、それらしい叙述を順不同に選んで紹介しようと思います。

 ・昭和12年に政界浄化を訴えて衆議院議員に初当選した三木は、その3年後に全ての政党が解散し、大政翼賛会が成立した経緯を目の当たりにした。三木は戦前の政党政治破綻の要因は、巷間言われるような軍部の圧力ではなく、政党が腐敗して国民の信頼を失ったことにあると見なしていた。従って三木は政党政治を守るため、清潔な政治の実現が必要であるという固い信念を持つようになった。

 ・三木は、日本の官僚機構が国際的に見ても優れたものであることを認めていた。しかし日本の官僚機構を評価したのは、あくまで行政機関としての役割や機能に関する点であって、自民党など政党が官僚的に運営されることに反発した。

 ・なぜ政党が官僚的に動かされることに反発したのかというと、戦前期、政党政治が没落して官僚超然主義の内閣が続く中で、泥沼の戦争に突入して国民に多大な犠牲をもたらしたことに対する深い反省があった

 ・政党政治と官僚政治との差について三木は、国民を代表して政治に当たる政党は、国民との血のつながりが絶たれれば生命力を失う反面、官僚は必ずしも国民との直接的な結びつきを必要としないとし、組織の性格が全く異なることを指摘した。

 ・国民とのつながりが政党の生命であり、国民から政治が遊離すれば政党政治は形ばかりのものになるとし、政治が官僚主義的に運用されるようになれば形式主義、権力主義がはびこるようになる。官僚政治は目前の問題に対処するいわば受身の政治であるのに対し、政党政治は目先を廃し、問題を本質的に捉え、対処していくものであると主張した。

 ・このような考え方を持つ三木は、政党が官僚的に運営されることに反対し、官僚的な政治を進めているとした佐藤栄作の三選、四選に反対し、更に派閥抗争や金権体質は党の官僚化が原因であるとして、三木が党の近代化を訴え続ける理由の一つとなった。

 ・生粋の政党政治家である三木が自民党内で傍流政治家とされ、官僚出身者が保守本流扱いされていることに対し、政党政治の歴史の中では大隈重信や板垣退助の流れを汲む自らこそが保守本流であり、官僚政治は亜流にすぎないと自負していた。

 ・もともと学生時代から弁論に長けていた三木であったが、言論が封じられる中で戦前の政党、議会政治が自壊していく姿を目の当たりにし、戦前の反省からよりいっそう言論を重んじ、言葉を武器にした活動を見せるようになったと考えられている

 ・三木の政治姿勢の特徴として、初当選以来晩年に至るまで一貫して金権政治の打破、政治浄化を訴え続け、金儲けではなく理想の追求こそが政治家の仕事であると唱え続けていたことが挙げられる。三木のこのような姿勢は、利権や汚職まみれであると見なされていた多くの自民党議員とは異なり、国民から清潔な政治家とされることに繋がり、自民党に批判的な人々からも支持を集めることに成功した

 以上コメント無しに、氏に関する情報を紹介しましたが、おそらくこの中に三木氏の政治姿勢の全てが語られているのではないでしょうか。利権や汚職に塗れる自民党議員への厳しい指摘と清潔な政治を求める主張は、今でも、というより将来にわたって通用する正論です。「政党の壊し屋」の小沢氏が、鳩山氏と組んで民主党政権を作った時のキャッチフレーズは、「政治を官僚任せにせず、政治家主導の政治をする」でした。しかし結果は、素人集団の政治家が官僚にそっぽを向かれ右往左往し、暗黒の3年間と言われる不毛な政治だったと国民の記憶に残っています。

 「ネット社会の天才政治家」である青山氏も、政治家の金銭問題を重要視し、誰からも政治献金を受け取らない自分をアピールしています。今の私は政治家が金銭につまづくのは、自民党にあるのでなく、政権についた与党が必然的にそうなると考えています。共産党が政権を取っていたかってのソ連や、現在の中国を見ればよく分かるように、「権力は腐敗する」という言葉の方に真実味があります。

 俗に「60年安保闘争」と呼ばれる昭和35年に、三木氏がどのような位置にいたのかに関するウィキペディアの説明が、さらに参考になります。この時政治家が政治改革の方法をめぐり、大きく三つのグループに分かれたと言います。

  1. 権威派 ・・岸信介の系統である福田赳夫を中心とする力による政治

  2.    経済成長優先派・・池田勇人と、そのブレーンだった大平正芳・宮沢喜一

  3. 国際派(福祉国家派) ・・石橋湛山の系列を引く、三木を含む政治家

 福祉国家派の主張は次の通りです。

  ・軍備を縮小し、その分を経済成長や途上国援助に回すべき

  ・経済成長によって得られた財は、福祉や教育に振り向け、中国、ソ連などとの友好関係の確立を通じて日本の安全保障を図るべき

 三木氏たちは、組合に組織されている労働者層をこのような政策で自陣に引き込めると考えていたとも言われています。三木氏のどの意見も個別に読めば正論で、無下に出来ませんが、ここに大きな落とし穴があります。おそらく村上氏も弁論の天才に絡め取られ、落とし穴に落ちた政治家の一人だと思います。

 次回は残る山中貞則氏の経歴紹介を優先し、「落とし穴の話」はまとめてしたいと考えています。

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村上誠一郎氏の思考 - 6 ( 三木武夫氏の経歴 )

2022-11-23 18:54:43 | 徒然の記

  ウィキペディアの情報をもとに、三木氏の経歴を紹介します。

〈 3.  三木武夫氏の経歴 〉 ・・徳島県第2区→徳島県全区 当選 19回 

  ・明治40年徳島県生まれ、昭和63年 没81才

  ・明治大学法学部卒 

  ・党歴  国民協同党→ 国民民主党→  改進党→  日本民主党→  自由民主党

  ・昭和22年 代51代逓信大臣、(片山内閣 )

  ・昭和29年 第16、17代運輸大臣、( 鳩山内閣 )

  ・昭和33年 第5代科学技術庁長官、第6代経済企画庁長官、(岸内閣 )

  ・昭和36年 第10代科学技術庁長官、( 池田内閣 )

  ・昭和40年 第25代通商産業大臣、( 佐藤内閣 )

  ・昭和41年 第89~90代外務大臣、( 佐藤内閣 )

  ・昭和47年 第4代環境庁長官、( 田中内閣 )

  ・昭和49年 第66代 内閣総理大臣

 以上が概略で、ここから詳細に入ります・・と言いたいところですが、ウィキペディアの経歴を見て断念しました。経歴というより「伝記」ですから読んでいると日が暮れました。しかし漫然と読んでいるわけでありませんので、自分なりの理解はしていますが、村上氏がどう言う点に敬意を表し、師と呼んでいるのか、そこはまだ理解していません。結論を急ぎ間違ってはいけませんので、息子たちを退屈させても仕方がないと諦めます。

 ネットの「履歴」の詳細な紹介を中止し、現時点での印象を述べようと思います。以前青山繁晴氏のことを、「ネット社会での天才政治家」と評しましたが、三木氏は「大正言論社会での天才政治家」です。氏は明治生まれですが、多感な時期を過ごしたのは大正時代です。明治時代の45年間、昭和の64年間に比べると、15年しかなかった大正時代は、2度の護憲運動が起こり、明治時代の超然内閣政治体制が揺らいだ時でした。

 言論の自由が叫ばれ、政党の活動が盛んになり、この世相は「大正デモクラシー」と呼ばれました。爵位を持たない原敬が首相になり、「平民宰相」と言われ、尾崎行雄や犬養毅、平塚雷鳥や市川房江が自由活発な言論で活躍しました。しかし大正14年に勃発したロシア革命で、社会主義思想への警戒感から、治安維持法が制定されています。

 短い「大正デモクラシー」でしたが、庶民が手にした言論の自由という武器は、現在のネットというツールと同じ働きをしていました。つまり三木武夫氏は、言論という武器を駆使する天才として、大正・昭和の政界を生きた政治家だったということです。

 「三木は極めて毀誉褒貶が激しい政治家であり、評価が定まっていない、ないしは評価の難しい政治家とされる 自由民主党総裁、首相まで務めた保守政治家でありながら、いわゆる進歩的な政治家、学者、ジャーナリストからの評価が高く、その一方で保守陣営からの評価が低いとする分析もあるが、そのような二分論では上手く整理できないとする意見もある。」

 ウィキペディアの解説文が、氏の評価の難しさを表しています。保守なのか左翼なのか、確かに二分論では説明できません。経歴の紹介をやめた代わりに、氏の人となりの理解に役立つ叙述を、ウィキペディアから拾ってみます。

 「三木は当時の政治情勢について、これまで政党は藩閥政治を打破した大きな功績を挙げてきたが、既成政党が腐敗して国民の信頼を裏切ったため、立憲世論の政治が衰退して官僚超然内閣が続くようになったと判断していた。そのため三木は無自覚議員をなくして議員の質を上げ、政党を浄化して立憲世論の政治を取り戻すべきであると主張し、選挙遊説の中でもまず既成政党の腐敗批判と政治浄化を強調した。」

 自民党の中にいて、自民党を批判している村上氏は、もしかすると三木氏のこういうところを見習っているのでしょうか。

 「また政党の浄化と議員の資質向上という主張は、最初の国政選挙時から唱えられていたものであるが、立候補した当時の情勢と、政党が結局軍部の暴走を押し止められなかったことへの反省から、三木終生のライフワークとなった。」

 「そして三木の議員一人ひとりの資質向上を目指す考え方は、真の言論の府として議会が機能していくことを目指しており、〈 政党政治を量の政治とし、所属議員の数が多ければそれでよし 〉とするようなやり方を批判した。この点も後に三木が田中角栄の〈 数は力 〉という考え方に鋭い批判を向けたことに繋がっていく。」

 議員の質の向上が政党政治の質を高めるというのが、三木氏の政治信条の一つでしたから、村上氏はここに影響を受け、安倍元総理や菅元総理を批判しているのでしょうか。

 「残念ながら安倍さん以降、そういうことを考えて、勉強して総理になられた方はいなかったのではないか。だから国民に対して、自分の考えがハッキリ説明ができない。菅さんもそうですが、もともと自分の考えがないんですから。」

 村上氏の支援者たちには痛快な意見なのだろうと思いますが、私は違った印象を受けました。議員が勉強しなければならないという三木氏の政治信条は、今も生きる正論の一つですが、村上氏にそれを言う立場にあるのかと言う疑問です。曲がりなりにも三木氏は行動を起こし、政界の波をくぐり抜けています。私の知る限りで村上氏は目立った行動をせず、自民党の中にいて批判をしている評論家にしか見えません。

 氏は保守本流と自認していますが、私は三木氏自身についても、「保守本流」に疑問を感じ違和感を覚えます。しかし結論を急がず、もう少し三木氏の情報を紹介しようと思います。

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村上誠一郎氏の思考 - 5 ( 梶山静六氏の経歴 )

2022-11-22 23:41:04 | 徒然の記

 ウィキペディアの情報をもとに、梶山氏の経歴を紹介します。

〈 2.  梶山静六氏の経歴 〉 ・・茨城4区 当選9回

  ・大正15年茨城県生まれ、平成12年没74才

  ・日大工学部卒 陸軍航空士官学校卒  前職 :  陸軍軍曹  会社員

  ・党歴   自由民主党 ( 佐藤派→田中派→竹下派 →橋本派 )

  ・昭和49年 内閣官房副長官、(田中内閣 )

  ・昭和62年 第37代自治大臣、46代国家公安委員長、( 竹下内閣 )

  ・平成元年 第49代通商産業大臣、( 宇野内閣 )

  ・平成2年  第52代法務大臣、( 海部内閣 )

  ・平成8年  第60、 61代内閣官房長官、( 橋本内閣 )

 以上が概略で、ここから詳細に入ります。村上氏が評価する中選挙区制下の派閥政治がどのようなものであったかも、伺えます。

  ・昭和44年、県議会議長就任後田中角栄から国政進出を打診され、自由民主党公認で第32回衆議院議員選挙に出馬し初当選(党では佐藤派に属し、後に田中派 )

   ・ロッキード事件で逮捕された田中が出所したときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と真っ先に迎えに行き、それが祟って落選した経験を持つほど田中に心酔

  ・昭和60年、田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」旗揚げに参加し、金丸信の命を受け小沢一郎と共に田中派内の多数派工作を担当、竹下派の結成に尽力

  ・当選同期の奥田敬和、小沢一郎、羽田孜、渡辺恒三、小渕恵三、橋本龍太郎らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれ、竹下内閣誕生に大きく貢献した。

  ・平成4年、東京佐川急便事件に端を発した竹下派(経世会)会長・金丸信の失脚・政界引退により、派閥会長の後継問題が浮上

  ・会長代行の小沢に反発する梶山らは後継会長に小渕を推し、羽田孜を推した盟友関係の小沢と対立した(一六戦争)

  ・小渕が後継会長に決定したが、小沢と羽田は派中派の「改革フォーラム21 」を結成し経世会は内部分裂状態となった。

  ・梶山は自民党幹事長に就任するが、反発する小沢系が派閥を離脱し羽田派となる。さらに羽田派の34人に加え、武村正義らのグループが離党

  ・平成5年の総選挙で自民党は半数を回復できず、野党に転落。梶山ら執行部は一連の責任をとって退陣

  ・細川内閣樹立の中心となったライバルの小沢と対照的に、梶山は「自民党下野のA級戦犯」と言われ、平成6年6月に自社さ連立政権が誕生し自民党が与党に復帰するまで、謹慎生活を余儀なくされた

 梶山氏の経歴を追っていくと、自民党の歴史そのものとなります。村上氏の言う、見識のある派閥の長たちが繰り広げる政争の記録でもあります。この時中心にいたのが、「政界の壊し屋」と呼ばれる小沢一郎氏で、おそらく得意の絶頂にあった頃だと思います。村上氏もさすがに氏については、見識のある領袖として言及していませんが、嘘のような話がいくらでもあります。

 中国共産党の次期総書記に内定していた習近平氏と天皇陛下の面談を画策し、スケジュール調整に腐心する外務省と宮内庁を叱咤して実現させ、「天皇の政治利用」と非難を浴びました。国会議員143人を含む、総勢600人の訪中団を率いて中国へ行くなど、見識のかけらもない小沢氏を誰も止められなかった時代でもあります。

 憲法改正をするべきと正論を言うかと思えば、「日本国憲法」は最高の憲法なので絶対改正してはならない講演会で述べたりします。自衛隊が海外派兵できないのなら、国連の中に日本だけは国連派遣軍を作り、国際貢献に参加すべきだ。国連の平和活動に協力する軍隊なら、憲法に抵触しないなどと支離滅裂な意見を述べていました。

 小沢氏の破壊的行動と、目を覆いたくなるような発言に比べれば、村上氏の動画での発言は穏健な意見です。しかしすでに、小沢氏の時代は過ぎ、「驕れるものは久しからず、ただ春の世の夢の如し」と、『平家物語』の末尾に追加される定めにあります。

 けれども私からみれば、村上氏の姿勢とその意見は、小沢氏のような強引さと支離滅裂さがない分だけ、返って息子たちを惑わせる気がします。戦前の軍隊を批判する左翼系の人々は、軍隊の全体を語らず、殴ったとか蹴ったとか、神がかりだったなどと、負の面だけを語ります。村上氏の意見はちょうどその逆で、「中選挙区制」の欠点や弊害を述べず、せめぎ合う派閥の躍動(混乱)だけの説明です。

 良識のある派閥の領袖を語ると同時に、小沢氏のような領袖についても述べるのなら素晴らしい動画になる気がします。河本氏の秘書だけであるだけでなく、自民党の議員として昭和61年以来活動しているのですから、小沢氏に関する意見が聞きたくなります。

 氏が、自分を導いてくれたと語る保守本流の政治家は、河本敏夫、梶山静六、三木武夫、山中貞則の4氏です。あと二人残っていますので、梶山氏の紹介はこの辺りにして、次回から三木武夫、山中貞則両氏の履歴を紹介します。

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村上誠一郎氏の思考 - 4 ( 河本敏夫氏の経歴 )

2022-11-22 12:53:59 | 徒然の記

 現在の自民党の劣化について司会の山田厚史氏に原因を聞かれ、保守本流を自認する氏が答えています。

 「昔の派閥の領袖の先生方には、見識があった。中曽根氏とお話しする機会があった時、先生は自分が総理になったらこうしょうという考えを、ノートに何冊も書き留めていると言われていた。」

 「残念ながら安倍さん以降、そういうことを考えて、勉強して総理になられた方はいなかったのではないか。だから国民に対して、自分の考えがハッキリ説明ができない。菅さんもそうですが、もともと自分の考えがないんですから。」

 安倍総理が辞任し、菅総理となった時の動画だということが分かりますが、明快で分かりやすい説明です。ここで山田氏が、質問しました。

 「ということは、今の自民党は自分の考えがなくても総理になれるということなんですか。政策をろくに説明できなくても、そんな人が総理になれるのですか。」

 「ということより、自民党の議員の劣化を招いた原因が二つあると、私は考えますよ。」

 こう言って氏は、持論である二つの原因を述べました。

  1. 小選挙区制の導入  2. 小泉内閣の郵政選挙

 「小選挙区については二大政党を作るんだと言って、小沢氏と羽田氏が盛んに動きましたが、結局選挙の公認権と政治資金を党幹部が握ってしまった。公認権と選挙資金を党幹部に握られてしまうと、議員は幹部に逆らえなくなりますよ。」

 自分の考えがあっても、選挙の公認が得られず選挙資金の支援がなくなることを恐れ、黙って党に従うしかなくなる。逆に党にさえ逆らわなければ、議員は総理になれるという説明です。党の意向は時の総理の意向ですから、小選挙区制が自民党議員の劣化を招いたという意見です。

 小選挙区制導入後、さらにそれを推し進めたのが小泉総理で、自分の意向に逆らう議員の選挙区に対立候補を送り込みました。小選挙区で当選するのは各党一人ですから、自民党の議員は総理が送り込む対立候補に敗れてしまいました。村上氏が語っているのは、このことです。

 中選挙区制度が良かったのか、現在の小選挙区制度が妥当だったかについては、さまざまな意見があります。小選挙区の弊害に関する氏の意見は一つの見識だと思いますが、自民党議員の劣化が進んだ原因について私は違う考えです。しかしここでは深入りせず、氏のいう「昔の派閥の領袖の先生方」の経歴を紹介します。氏が名前を挙げている順番に、河本敏夫、梶山静六、三木武夫、山中貞則の各氏です。

〈 1.  河本敏夫氏の経歴 〉・・旧兵庫4区 当選17回

  ・明治44年兵庫県生まれ、平成13年没89才

  ・日大文学部卒 前職三光汽船代表取締役社長

  ・党歴は、民主党→ 国民民主党→ 改進党→ 日本民主党→ 自由民主党

  ・昭和43年 第28代郵政大臣、(佐藤内閣 )

  ・昭和49年 第34、36代通商産業大臣、( 三木、福田内閣 )

  ・昭和55年 第32、34代経済企画庁長官、( 鈴木内閣 )

  ・昭和59年 第15代沖縄開発庁長官、( 中曽根内閣 )

  ・政界の玄人筋からは三木派の資金調達役として知られていたが、一躍注目されるようになったのは三木内閣で通商産業大臣就任以来

  ・昭和50年「三木おろし」が起こった時、閣僚を罷免してでも強行に衆議院を解散するよう三木に進言。三木とは姻戚関係にあり、三木の娘婿の兄弟と河本の娘が結婚している

  ・昭和55年、選挙期間中に大平が急死すると、中曽根や宮沢喜一らとともに後継総裁候補として挙がったが、キングメーカー田中角栄は鈴木善幸を総裁に指名

  ・鈴木内閣の発足後は三木派の解散に伴い、かつての三木派に所属した議員の大半を集めて河本派を旗揚げ。禅譲という形を採らなかったのは、三木の影を排除しないと、他派からの支援が受けにくいという事情があった。

  ・自民党屈指の政策通・経済通として知られ、三木に批判的な立場であった大平正芳や後藤田正晴からも「一角の人物」と一目置かれていた。政策としては積極財政論を唱えることが多かった

  ・平成元年、リクルート事件で竹下が総理を辞任し、続く宇野宗佑も参議院議員選挙の惨敗を受けて退陣し、河本にとって総裁の椅子に座る最大の好機とされた

  ・しかし竹下や金丸の若手待望論を受け、河本派の番頭格である海部俊樹が総裁候補に浮上。河本は海部に対し「あんたやりなさい」と促し、自らの総裁選出馬を見送り、海部が圧勝した

  ・平成8年、健康上の理由から47年間務めた衆議院議員の職を引退

 村上氏がどのあたりの時期まで河本氏の秘書をしていたのか不明ですが、氏はこうした派閥政治の激動の時代を観察していたのは間違いありません。経歴はウィキペディアの情報ですが、次回以降も同じです。

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村上誠一郎氏の思考 - 3 ( 氏の経歴と氏の師匠 )

2022-11-21 17:36:45 | 徒然の記

 まずは、村上氏の経歴から紹介しなければなりません。

   生年月日 : 昭和27年5月11日 70才

   出  生  地 : 愛媛県越智郡 現今治市 

   出  身  校 : 東京大学法学部

   前  職 : 河本敏夫衆議院議員秘書

   所属政党 : 自由民主党  ( 高村派 →  無派閥  )

   親  族 : 村上紋四郎(曽祖父)、村上信二郎(父)、岡田克也(義弟)

 東大在学中に父・信二郎氏が所属していた三木派を引き継いだ河本敏夫氏の知己を得て、卒業後に氏の秘書を務めています。父信二郎氏は衆議院議員、愛媛県議会議長で、立憲民主党の岡田克也氏は妹の夫で義弟になります。

 氏のように著名な人物は、丸山真男氏同様、詳細な経歴を知ることが私たちの理解を助けますので、ネットの情報をもとに紹介を続けます。

 ・第38回衆議院議員選挙に、旧愛媛2区から出馬し初当選。新政策研究会(河本派)に所属

 ・平成8年河本が政界引退後は、番町政策研究所と改称された高村派に所属し、同派事務総長となる

 ・平成15年の自民党総裁選では、派閥領袖の高村正彦の推薦人に名を連ねるが、高村は現職の小泉首相らに敗れ落選

 ・平成16年第二次小泉改造内閣で、内閣革命担当大臣(規制改革・産業再生機構)として初入閣

 ・平成17年の郵政解散では当初閣議で異論を唱えたが、小泉首相の説得を受け、解散に同意した。第3次小泉改造内閣発足により退任

 ・平成18年のポスト小泉をめぐる総裁選挙では、谷垣貞一を支持し推薦人にも名を連ねたが、谷垣は最下位

 ・平成19年の総裁選挙では福田康夫、平成20年の総裁選挙では与謝野馨の推薦人に名を連ねたが、高村派は福田、麻生と支持が割れた

 ・平成20年の総裁選では、高村派会長の高村正彦は麻生支持を決定

 ・平成21年の第45回衆議院議員選挙で、自民党に逆風が吹き荒れる中連続当選8回

 ・平成22年1月、高村派を退会

 ・平成26年の第47回衆議院議員選挙で愛媛2区で連続当選10回、29年11回

 ・令和2年の自民党総裁選では、石破茂の推薦人

 ・令和3年の衆議院議員選挙では12回連続当選

 ・令和4年10月12日、銃撃され死亡した安倍元首相を「国賊」と発言し、党員としての品位をけがす行為に当たるとして、1年間の党役職停止処分

 小泉総理の郵政改革時に閣内にいて異論を唱え、次の内閣では退任させられています。また総裁選挙では派閥会長である高村氏の意に沿わず他候補を支援し、翌年派閥を退会しています。こう言うところに注目すると、気骨のある政治家として支援者の称賛があるのかもしれません。連続当選を果たせるだけの魅力が氏にあると言う点は、見逃せない事実です。

 しかし評論家にしか見えない石破氏を総裁選で支援したり、日本の過去を取り戻そうとする安倍氏を酷評するところには疑問符がつきます。同じ70才でも、青山繁晴氏とはまるで違った思考をしています。昔の自民党には、河本敏夫、梶山静六、三木武夫、山中貞則など良識のある政治家がいたが、今は自分が師匠にしたいと思うような政治家がいないと語ります。

 こうした諸先輩と直接話をし、政治を教えられた自分が保守本流であり、主流の自民党員だと言います。異端と言われているけれど、本当は氏の方が自民党の本流なのだと、動画のタイトル自民党 異端の本流 村上誠一郎(自由民主党)」はこう言う意味でつけられていました。

 それなら私も氏の評価を急がず、氏が敬意を表してやまない諸先輩がどういう政治家だったのか、経歴を調べてみようと思います。主題を離れて横道へ進んでいると思われる方は、スルーしてください。主題の道を外れていないと思われる方は、次回の「ねこ庭」へお越しください。冷たい雨が降りましたので、寒々とした雨上がりの庭です。暖かくしておいでください。

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