携帯電話は、嫌いだ。
恥じらいと謙譲の美徳を持つ、日本人を、あっという間に、傍若無人な人種に変貌させてしまったからだ。
JR、私鉄、地下鉄、なんでもいいから乗ってみれば、10人のうち7 人は携帯を開き、眺めたり操作したりしている。メールであったり、ゲームであったり、検索画面だったりと様々だが、周りを気にかけることなく、自分の世界に浸っている。しかも年代を超え、老若男女が広く熱中している。幼子を隣に座らせたまま、携帯をにらみ、子供の呼びかけに眉をひそめる、若い母親を目にしたときは、総理大臣でもないのに、国の行く末を憂えたくなった。
静かな夜道で、後ろから来る女性が、大声を出しているので振り返えると、なんと、携帯を片手に、友人と話をしていた。若い女性にあるまじき、乱暴な言葉で、喧嘩でもしているようなやりとりだった。
「マー子がさあ。また妊娠したんだってよ。」「懲りねえ奴。」「五ヶ月だっつうからさあ。下ろすのも難しいだろ。」「今度は生む、なんて言ってやがんの。」「そんでてめえは、暮らせるかって言いてえな。ったく」
この時私は、自分の幸せをしみじみと噛み締めた。
「子供が女でなくて良かった」と・・。
男の子ばかりなので、優しい女の子がひとりくらいは欲しかったと、日頃は思うのだが、優しい女の子なんて夢のまた夢だ。こういう場合はいつも、「男か女か分からないような、娘を持った親」に、心から同情することにしている。
これ以上述べると、差別だとか女性蔑視だとか、ややこしい話になるし、まして本題は、携帯への苦情であり、若い女性への苦言でないのだから、やめておこう。
日本に、初めて携帯電話らしき物が現れたのは、昭和45年の大阪万博で、会場案内に使われた時だと言う。重さ600グラムというから、携帯のイメージにはほど遠い。
9年後の昭和54年に、NTTが自動車電話を発売したが、これだって車に固定されていたので、現在の携帯のイメージではない。6年後の昭和60年に、NECがショルダーホンという名で、やっと個人が持ち運びする電話を売り出したが、なんと2500グラムという重さだった。忘れもしない、通勤のバス亭で、得意そうに喋っている男がいた。
「ああ、今バス亭です。もうすぐバスに乗ります。」「天気は快晴。風が少し強く吹いています。」
妻とでも話しているのか、周りに聞かれているのも気にかけず、大きな声で恥ずかしげもなく、むしろ得意そうに、肩から掛けた四角い箱につながる受話器に向かっていた。
周りの人間たち、特にこの私の反応は、彼の思惑と違い、感心したり驚いたりせず、眉をひそめていた。まだ眠い、早朝の出勤時間帯では、静かにぼんやりしている方が楽なので、やけに元気な喋り声は、何であれ、うるさいだけだった。
まさか携帯がこれほど軽量化し、高性能になるとは思いもしなかった。
世間にあまねく普及するなど、こんな不幸は想像もしなかったが、出現のときからして、私と相性が良くなかったことだけは確かだ。大人や子供が、競って手にするようになったのは、平成4年の、携帯電話販売の自由化以後だと言うから、爆発的に携帯が普及し出したのは、ほんの16年前からなのだ。
私が子供だった頃、長距離電話は、お金がかかるから冠婚葬祭など、よほどのことでないと掛けなかったし、市内電話だって無駄話はせず、出来るだけ簡潔に済ませるようにと、教えられて育った。
それよりもっと以前は、電話のある家にかけさせてもらいに行ったり、呼び出ししてもらったり、どこの家にも電話がある現在では、考えられないような使い方をしていた。今にして思えば、当時は誰も慎ましく、控えめに、なるべく声も穏やかに、日本の社会は、ゆっくりと時が流れていたのかもしれない。
携帯登録のアドレスが100を越え、毎日電話やメールのやりとりをしていないと、不安になるとか、孤独感に苦しめられるとか、若者たちが語っているが、彼らの心の構造はどうなっているのだろう。
顔も知らない相手と携帯でつながり、友人になったり恋人になったり、親しくなったり別れたり、すべてバーチャルの世界での、人間関係でしかない出来事だ。実体のない、絵空事のような携帯に振り回され、縛られ、一日の大半の時間を奪われ、それが人生だというのなら、彼らと私は、交差することの無い、異次元に住んでいるのだろうか。
かってルイス・ベネディクトは、著書「菊と刀」で、日本文化の底流にあるのは「恥の意識」である、と分析していたが、もはや日本の文化は、携帯のお陰で崩壊させられてしまった。
携帯は、日本人を、恥知らずな人間へと変貌させ、自分さえよければ他人など知ったことかと、もともと身勝手な人間を、更に利己的な生き物に変えてしまった。
車の運転をしているから、万一の事故に備え、連絡手段として携帯を持っているが、私はほとんど使わない。普段は電源を切り、カバンに入れたままにしているので、連絡しても通じないし、携帯の意味が無いでないかと、友人・知人からの評判は悪い。
携帯は、私が必要とするときの連絡手段であり、他人のための用具でないと、心に決めており、日常生活に支障はない。
大切な用事なら、自宅に電話してくれば、留守録の機能もあるのだし、それで十分でないか。便利さのために、たったそれだけのため、人間が振り回されてどうするのか、と言いたい。
NTTやソフトバングが、いくら巧みな宣伝をしても、資本主義社会だから、それはそれでいいとして、人生は自分のものだから、携帯なんぞに、鼻面を引き回される暮らしだけは、したくないものだ。
我が家を巣立ち、あちこちに散らばって住む息子どもよ、どうか賢く生きてくれと、時代遅れの親とは、決して思っていない父は、願うのだが、それもはたして、どうなることやら。昔から、子供は親の言うことなんか聞きはしない。
自分もそうだったし、諦めるしかないのか。