今年は、錦木(にしきぎ)の紅葉が、素晴らしかった。
雨に濡れて光る、小さな紅い実は、しみじみ見とれてしまうほどだった。定年になるまで、朝星を見ながら家を出て,夜の星を仰ぎつつ帰宅する日が多かった。遅刻や欠勤を罪悪と思い込み、ひたすら会社へ行くことに、心を傾けて来た。
特に真面目な会社員だったということでなく、回りが大半そうだったので、疑問も抱かなかった。だから、四季の移ろいや自然の美しさなど、目に留めるゆとりがなかったのだろう。
今頃、こんな身の回りの草木に感動できるのだから、幸せといえば幸せなのだ。時間にゆとりができると、周囲がよく見えるようになる。正しく理解しているのかどうかは別にして、とにかく目についてくる。国会議員についてだって、わが家の庭の花木と同じことで、テレビや新聞やパソコンに向かう時間があるから、つい見てしまう。議員のに姿には幻滅させられるが、庭木の紅葉には裏切られないと、そこが違うだけで、再発見という事実は同じだ。
庭木は、人間としての私を幸せにし、議員たちは、国民としての私を不幸にさせる。
再発見という事実は同じでも、その影響たるや、正反対だ。私と同じように定年となり、突然時間をしこたま手に入れ,幸福と不幸を同時につかんで、癇癪を起こしそうになっている人間が、他にもいるのではなかろうか。
その人物と会って,話がしたいものではないか。
秋深し、隣は定年退職者。いや、もう秋は既に去り、冬の寒さが居座りつつある。