ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

総理と大震災

2011-04-29 22:50:10 | 徒然の記

 阪神淡路大震災のとき、総理は社会党党首の村山氏だった。

 今回の東日本大震災では、民主党の菅氏だ。単なる偶然だろうが、自民党の総理でない時に大災害が発生している。そもそも人災と言われる所以は、ここから出発しているのでないかと考えずにおれない。私たち国民にとって不幸だったのは、いずれの総理も自衛隊に批判的な党の所属で、軍国主義と自衛隊を一緒にして攻撃する組織の長であるということだ。

 二人とも、初期段階での自衛隊派遣を躊躇し、外国の支援にも前向きに取り組まなかったという、共通点があった。

 菅総理は、村山氏ほど遅れずに自衛隊に出動命令を出したが、ためらいの理由は共通していた。自衛隊を使うと、身内の党員に批判されるのでないかという不安感だ。自民党の総理なら、躊躇無く現地救助の自衛隊を出動させたに違いないが、社会党や民主党の党首という立場では、それが簡単にできなかった。

 被災地への迅速な救済が遅れたという失敗はあったが、幸いにも村山氏の時は、自民党との連立政権だったので、政府の組織(官僚組織)は機能した。

 新聞は、菅総理が役人を使いこなせないとか、色々な組織を作り、指揮命令系統を混乱させているなどと、騒々しく非難しているが、彼がそうするのは当たり前なのだ。官僚支配を打破すると言って政権を勝ち取ったのだから、民主党政権で、政府組織が機能する方が不思議なのだ。

 総理がやっきになり、色々な組織を政府外に作っているのは、役人の巧妙なサボタージュに苦渋している結果だと、私にだって想像がつく。知っているはずなのに新聞はスルーし、ひたすら彼のリーダーシップの欠如が原因だと、話を作ろうとしているところが苦々しい。
 
 しかし私は、菅氏を弁護しようと言うのではない。新聞と違うのは、氏の置かれた状況の困難さを理解し、総理の器でない氏の退陣を望んでいるところだ。先日の国会中継を見ていたら、自分が投票した民主党の総理に、打ちひしがれるほどの幻滅を覚えた。自民党の堕落に怒り、民主党に変革を期待した安易さが間違っていた、と反省させられた。

 身内の増子議員への答弁だったが、すれ違いと勘違いの内容が多く、聞いている方が恥ずかしくなった。被災地支援のスケジュールを、総理自身として持っているかと問われ、今東電に作らせているところだと、真顔で喋るに至っては何をか言わんやだ。

 総理として、被災地のため何を一番にやるべきか、具体的に聞きたいと迫られても、「迅速な対応を鋭意検討している。」としか答えられない氏だった。うつろな表情で、言葉に詰まりつつ、自信無げに答弁する姿をみていると、党内基盤の無い総理の弱さをいやというほど知らされた。

 うかつな答で言葉尻を捉えられてはと恐れるあまり、当たり障りの無い返事を重ねるしかできない総理だった。あるいは本当に、何の考えも頭に無い総理なのか。

 命をかけて大震災への対応をしているというのなら、一番にやりたいことはと問われれば、即座に「原発の速やかな収束に全力をつくす」とか、「被災した住民のための仮設住宅を十月までに作る」とか、「生活支援のための金銭の仮払いを直ちにする」とか、心にかけている施策を堂々と述べたら良いのだ。

 増子議員の予期する答えと違っていたとしても、国家の指導者としての強い思いがあれば、誰が難癖をつけられるだろう。答弁には、非常時の総理の使命感や矜持が、どこにも見受けられなかった。厚生大臣としての能力はあったのだろうが、総理としての器量は無かったのだと、つくづく知らされた。

 事故を起こした原発と同様に、無能な総理の迷走も止める手だてが無かった。未曾有の大震災が、菅政権の延命を助けたとマスコミは言うが、私の考えは逆だ。国家緊急の事態にさえなければ、無能をここまで曝されずに済んだであろうにと、逆に同情している。

 鳩山氏に続き、お粗末な総理に巡り会う不幸を、なんと運のない日本かと、自分も含め国民に同情する。せめて次の選挙で、民主党に投票しないと決心することしか、私にはできない。

 元総理の鳩山氏が、菅政権への批判を表明しているが、民主党はどこまで醜態を曝せば気がすむというのだろう。彼こそが民主党政権のお粗末さを、国内ばかりか世界に露呈させた人物だというのに、何の反省も無くお喋りをさせている党のだらしなさに、ついて行けない。小沢、鳩山、菅と、よくもまあ、こんな組み合わせで党が作られ、政権が取れたものと開いた口がふさがらない。

 国民のレベルに合わせて政権が出来るのだから、私を含めた日本国民のレベルも、大したものでないと言うことだった。

 四月五月は、日本の四季で一番華やぐ美しい時だ。次々と咲く庭の花や木々の青葉など、本当はそんなことを書きたかったのに、大災害と原発事故のためこんなブログになってしまった。

 今日は、一人さびしく、反省しつつ床につくとしよう。新しい朝がいつか来ると信じて・・

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総理と新聞

2011-04-15 22:06:13 | 徒然の記

 この頃はどの新聞を見ても、菅総理の批判記事で賑やかだ。

 新聞やテレビしか情報源が無いので、酷評ばかり読まされていると、そういう気持ちになってくるが、実際はどうなのだろう。振り返えれば鳩山さんの時も、麻生総理の時も、新聞はさんざんこき下ろしていた。無能と言うだけでなく、人間的にも最低のように報道されたのは、菅総理の他に鳩山、麻生、森氏というところだったと記憶している。

 しかし、こうした煽動記事を繰り返す方にだって、問題があるのではなかろうか。

 新聞が狡いのは、自分の意見として述べるのでなく、厳しい批判をする学者や評論家のの意見を、大きく、頻繁に掲載すると言う、どちらかと言えば、卑怯な方法でやっているところだ。私が新聞を素直に信じないのは、こうした報道姿勢にある。新聞各社の社長が示し合わせ、反政府の大合唱記事を、三ヶ月も続けさせれば、いつの間にか、政府にソッポを向く世論が醸し出され、たいていの内閣がもたなくなる。

 実際に、こうした露骨な申し合わせはやれないのだろうが、あうんの呼吸で記事が作られると言うことは、あるような気がする。

 だからマスコミは、内閣の命運を握っていると自惚れ、傲慢になり、政治家に敬遠されたり、重宝がられたりする。小泉首相のように、マスコミを操れる政治家は少なく、奇人などと言われながら、長期政権を維持した彼は、不思議な宰相だったとしか言いようが無い。

 どうやら菅・鳩山・森といった正直一本気の、いわば単細胞の総理は、徹底的に攻撃の的になるようだ。だが新聞も劣らず単細胞のようで、記者を粗略にする総理には、徹底して意趣返しをしている。

 と、ここまで分かっていながら、やはり新聞の記事に左右される、情けない自分がいる。大宰相の一人と言える佐藤総理も、最後の記者会見では露骨に新聞を嫌悪し、テレビは会見場にいて良いが、新聞記者は退場しろと、不機嫌を隠さなかった。今ではテレビも似たようなものだが、当時は、新聞ほど露骨な総理批判をせず、客観報道というスタイルを保っていたからだろう。

 考えられる理由は二つである。

 新聞が酷すぎるから、テレビが目立たないというのがその一つ。今ひとつは活字と映像の違いだ。たとえ記事に署名があっても、活字では記者の顔が見えないから、記者は大胆になれるが、顔が晒されるテレビでは、誰かに顔を覚えられ、ぶん殴られでもしたらと心配するから、露骨な物言いを控えたくなるのではなかろうか。

 勿論こんなことは、私の勝手な想像に過ぎないので、事実は分からない。もしかすると新聞人は、世間で言われるとおり、背広を着たヤクザなのかもしれず、テレビ人の方は、紳士なのかも知れない。しかも、こうしたマスコミが社会には必要で、大事なの存在であるということも、事実だ。

 こき下ろしつつ誉めているようで、いい加減に聞こえるかもしれないが、受け手である自分たちが、報道を取捨選択するしかないのだ。民主主義を標榜するからには、気ままな意見を掲げる新聞の存在を、許容しなければならない。

 だが、新聞のこうした姿勢が続けば、この先どのような総理が出現しても、誉められる気配は無く、いったい日本には、チャンとした総理大臣はいないのかと、思わされ続けることになるのもかもしれない。

 願わくば新聞諸紙が、戦前のように権力に迎合すること無く、屈すること無く、中立の批判勢力であり続けてもらいたいものだ。今でこそ、軍国主義や戦争を否定しているが、国民を戦争へと駆り立たせた張本人は、新聞だったのであり、私の不信感はここから出発している。

 時代がどう動いても、新聞が凛とした姿勢を持ち続けていれば、敬意を表することになるのだが、どうやら私が生きている間に、そういう機会は来ない気がする。今の新聞は、凛としているのでなく、騒げば新聞が売れるので、金儲けのため、政治家を叩いているだけだ。

 総理さえ恐れない新聞には、私が不信を語ろうと、批判しようと、痛くも痒くもないと分かっているが、ブログの名前が『気まぐれ手帳』なので、最後まで気まぐれを言って、終わることとしよう。

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誠意

2011-04-06 23:53:36 | 徒然の記

 高濃度の放射能汚染水の、保管場所を確保するため、東電が、低濃度の汚染水一万一千トンを海へ流した。

 近隣の漁業組合へ、事前に説明すること無く実行したという。原発事故の責任を感じているとする、東電の経営陣が、果たして本気で責任感を有しているのかと、疑いたくなる行為である。

 たとえ反対されると分かっていても、前もって漁業生活者に説明を尽くすのが、東電側の誠意というものでないのか。緊急措置だから説明不要というのなら、この期に及んでも、国民に対する東電の傲慢な体質は、変わらないという証か。

 しかし問題は、それだけでなかった。隣の韓国から、大量の汚染水を海へ投棄するのなら、事前に一報あってしかるべきでないかと、クレームがついた。これに対する松本外務大臣の答えは、「国内法で適法に処理しているから問題なし」というものだ。東電に劣らない、傲慢な回答ではないか。国際社会が原発事故に注視している中で、これが果たして当事国から隣国への回答かと、恥ずかしくなる。

 何の誠意も無いどころか、韓国からの反感や怒りを買うような、愚かな答えだ。日本政府として、誠意があるのなら、ひと言詫びて当然と言う気がする私が、間違っているのだろうか。門外漢の自分には理解できないが、分かっていても謝らないというのが、外交の鉄則なのだろうか。

 先の餃子事件で、中国は日本にひと言も詫びを言わず、日本国内で農薬が混入されたのでないかと、理由のない横車を押し通し、日本人の気持ちを逆なでした。言いようの無い怒りにかられ、中国という国を軽蔑せずにおれなくなった、あの時の記憶が、私には未だ新しい。松本大臣の今回の談話は、私にそんな印象を強く残した。韓国の国民は、誰もきっと不快な思いをし、改めて日本を嫌いになったことだろう。東電は国民に対し、政府は韓国に対し、揃いも揃って、なんという不遜な対応をするのだろうか。

 いったい、こうした事柄を決定しているのは誰なのだろう。実務に精通した官僚の助言を得て、大臣たちが決定するのか。それとも、官僚から提案されても、政治主導だと無視し、誠意のない回答を、発信しているのか。事実が明らかにされることは永遠にないが、本当のことが知りたくてならない。

 東電の誠意の無さも無念だが、政府の不誠実さには、私も当事者となる。中国に多様な考えの国民がいても、餃子事件の時は、中国人全般が嫌悪の対象となったように、今回は韓国人から、日本国民全体が、嫌われることになるのだろうからだ。

 自民党だとしても、似たような対応だったのかもしれないが、民主党政権になって以来、どうも外交はお粗末と言うか、情けないというのか、そんな気がしてならない。

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