ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

絨毯屋が飛んで来た

2015-01-30 20:05:13 | 徒然の記
 内藤正典氏著「絨毯屋が飛んで来た」(平成10年 筑摩書房刊) を、読んだ。副題は、「トルコの社会誌」である。
 
 著者は昭和31年生まれの大学教授で、ドイツ、フランス、オランダにおけるトルコ人移民の研究をしている。氏自身が付けているタイトルは、「エーゲ海の泉、チェシュメ物語」だ。エーゲ海を挟んだギリシャの対岸にあるチェシュメに滞在した時の話を、面白くまとめたもので、教えられるところが沢山あった。

 調査と研究のためチェシュメを本拠地として、トルコ国内を回り、必要とあればヨーロッパへも足を伸ばす。
彼を訪ねて日本から学生たちが頻繁に訪れ、それもどうやら女子学生の方が多いらしく、楽しそうな日々が綴られている。土地に密着して研究をするには、家族ごと住み着くのが一番だと、彼は妻と娘を連れて学究の日々を送っている。

 商売人というものはどの国でも油断のならないもので、お人好しとなると吹っかけ放題の金を払わされる。
しかし彼は、そうした商売人ともいわゆる裸のつきあいが出来ているようで、彼にだけは良心的な値段で物を売り、おまけもくれる。
チェシュメで売られている野菜は、トマトも茄子も、ピーマンも、日本とは比べ物にならないほどの色つやで、香りも高い。メロンもタマネギもシシトウも、みんな取れ立ての新鮮な物で、しかもめっぽう安い。

 料理の得意らしい彼が、焼いたり炒めたり蒸したりと、調理方法を伝授してくれる。
香料も種類が豊富で、チーズも肉も、チャンと使用方法が書いてある。私にはちっとも理解できないが、それでも読んでいるだけで愉快になり、食べたくなってくる。
陰気な部屋でカビ臭い書物に囲まれ、額にしわを何本も寄せ、この世の悩みや悲しみなどを研究する、厭世的な学者が多い中で、彼のような明るさは珍しい。

 自慢したり高説を垂れたりしないので、何となく好感を抱かされ、あっと言う間に読み終えた。
トルコとギリシャが第一次世界大戦後に分離独立した国だったなど、この本を読んで初めて知った。ギリシャはパルテノンの昔から独立国と思い込んでいたが、そんな若い国だったのだ。

 分離以前はオスマントルコ帝国だったものが、ドイツについたため帝国が崩壊し、片方はトルコ共和国となり、もう一方がギリシャとなった。
たんに分離した訳でなく、両国が武器を持って闘い、殺し合った後の合意だ。
双方に住んでいたトルコ系住民40万人余とギリシャ系住民100万人余が、交換という形でそれぞれ土地を捨て、移住したのだと言う。なんという、荒っぽい解決方法といえば良いのか。だから混在した風俗習慣がありながら、トルコ人とギリシャ人は仲が悪く、何か事があると、激して互いを攻撃し非難し合う。

 こんな話を聞かされると、私たちが隣の中国や韓国と争っているのだって、国際社会ではごくありふれたものだと分かってくる。
荒松雄氏の「ヒンズー教とイスラム教」を読んだ時もそうだったが、100年500年の単位で国々は血を流して争っている。何も知らない島国の自分もだらし無いのだが、やはり日本のマスコミや世に言うインテリとか有識者とかは、とてもおかしいと言いたくなる。

 人口の90%以上がイスラム信者だというのに、トルコの指導者たちは手本をヨーロッパに置き、いまだに国づくりに四苦八苦している。
いわゆる世俗主義、政教分離主義というもので、軍部が強力にバックアップし、裕福な都市住民がこれを支持している。貧しい農民や労働者にはイスラム教を信じる者が多く、彼らは「西洋かぶれ」の指導者たちを内心で軽蔑している。

 国論は何時も分裂し、政党が乱立し、血の気の多い国民は瞬間湯沸かし器みたいに騒ぎが好きだ。彼らが国として抱えている矛盾は、日本の比ではない。
安倍氏が「戦後の体制を見直す」と、真っ当なことを言ったら、まるでこの世の終わりのようにマスコミが騒ぐ。歴史修正主義者だとか、軍国主義者だとか、果てはヒットラーのような独裁者だとか、ドイツ人が聞いたら眉をひそめるようなことを平気で記事にする。
彼らの頭の中には、「日本の保守政治家は悪だ」という信仰があり、イスラム教にもキリスト教にも負けない教条主義だ。

 だからこうした他国の姿を事実として語る本を見ていると、私は覚醒する。日本のマスコミの、何処が「社会の木鐸」であろうか。依頼主の求めに応じ、派手な宣伝を鳴り物入りでする「社会のチンドン屋」という方が、ずっと適切だ。まして、「日本の良識」なんてとんでもない。彼らが広めようとしているのは、「日本の非常識」であり、「日本の偏見」だ。
言い切ってしまうのは酷な面があるとしても、そのくらいの割り切りをしていて丁度良いのだ。


 こうして読書をしていくと、私もだんだん賢くなっていく。この世には沢山立派な人物がいて、いろいろな意見を持ち、様々なことを教えてくれている。有り難いことだ。
惜しむらくは、この覚醒をもっと早く、もっと若い時にしておれば、40年以上も朝日新聞に金を払い続けるなどしなかったろうに。返す返すも、残念でならない。

 

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砂の器

2015-01-27 09:24:31 | 徒然の記

 松本清張の「砂の器」(昭和36年 光文社刊)を、読み終えた。

 息もつかず一気に読んだと、そういう表現が、誇張でなく使える、そんな小説だった。現在のJRが「国鉄」という名で語られ、場末のうらぶれた酒場が「トリスバー」だ。同時代を生きた私には、それだけでも懐かしくなる。トリスバーのメインメニューは、一杯50円のハイボールで、貧乏学生だった自分には、それでも高かった。

 今西栄太郎刑事が、好人物の元巡査の殺人事件を、捜査本部の解散後にも、律儀に追いつめ、最後に解決するという話だ。ヌーボーグループという、新鋭の芸術家集団をからませ、読者が次々とページを繰らずにおれないような、沢山の伏線がしかけてある。やはり彼は、第一級の小説家だったと改めて感心する。

 売れっ子作家になってからは、贅沢もしたのだろうが、私と同じ貧乏人の息子だった彼は、貧しい人間を描かせると、天下一だ。そのかわり金持ちを描写する時には、紋切り型の言葉を使うという、欠点を見せる。ヌーボーグループというのは、今風に言えばヌーベルバーグというのだろうが、若くして有名になった贅沢な若者の描写も、同じく精彩がない。

 こつこつと努力を積み上げ、苦労の中から作家の地位を築いた彼には、こんな放埒な若者の描写が、不得手なのだと理解した。

 それでもこんなものは、作品全体から見れば些細なことだ。
百田氏は、主人公と一体になって熱く語る作家だが、松本氏はどこまでも冷静で、事実の描写を重ねていく。一見乾いた文章に見えるが、どうしてどうして、熱い心が隠されている。

 安月給の刑事である今西が、予算の少ない警察をおもんばかり、自主捜査を休暇でこなし、手出しの旅行を重ねるところなど、日本人なら誰でもジンと来る。公務員が役人がと、日頃は私も一緒になり非難しているが、今西刑事のように、寡黙に自分の職責を遂行する公務員は、今でも変わらずにいるだろう。こういう人間たちが、社会を支えているのだと、そういうことも考えさせられた。

 観光地へ行っても名所見物をせず、妻のへそくりまで使い捜査に精を出す、彼の趣味は、下手な俳句と植木を買うことだ。

 温泉へ言ってものんびりするでなく、考えることと言えば「定年になったら、女房を連れてきてやりたい。」と、そんな話だ。出張の帰りに妻の土産に帯留めを買い求め、渡された妻が、娘のように喜ぶ様子など、ほろりと涙がこぼれてしまった。

 凄腕の刑事も、極悪人も登場せず、戦後の日本で、あちこちに見られた、平凡な人間ばかりがでてくる。憎むべき殺人犯も、彼の描写にかかると、別の姿を見せる。勧善懲悪というか、今はやりの人道主義というか、そんなものでなく、要するに彼特有の、乾いた文章が見せる、職人技としか言いようがない。

 図書館でもらってきた本だが、図書館の蔵書でなく、個人が持ち込んだ廃棄図書だ。
所有者も裕福でなかったのか、定価360円の本を230円で買っている。古本屋が付けた値段が、最後のページに鉛筆書きしてある。気に入った本なので、蔵書に加えたいのだが、何しろ汚れている。ページが黄色く変色しているだけでなく、ところどころに血が付着し、乾き切っているがいい気はしない。

 いくら推理小説好きで、物好きな私といっても、これでは本棚に飾る気になれない。

 誠に不本意であるが、有価物回収の日に、ゴミとして出すことにする。松本清張氏には、心の中で謝るしかない。

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今年から本気で治療にかかるべき、日本の病(やまい)

2015-01-23 22:23:24 | 徒然の記

 NHKのニュースを見ていると、今年から本気で治療にかかるべき、日本の病(やまい)が何であるのかよく分った。

 イスラム国による、身代金要求事件の報道の背後に、その病が容易に理解できる形で現われていた。

 誘拐された後藤氏が授業を行っていた学校での、インタビューだった。中学生だったか、高校生だったか、眼鏡をかけた、まだあどけなさの残る女生徒が、涙をこらえて喋っていた。

「後藤さんの意思を継いで、私も将来は、世界で困っている人たちのため、尽くしたいです。」「こんな事件があったから、本気でそう考えるようになりました。」

 その次に出てきたのは、この学校の先生だったか、あるいは氏の関係する、NPO法人の女性メンバーだったか、彼女も又涙声で語っていた。

 「とても優しくて、立派な方でした。」「誰にでも、隔てなく接してくれる方で、素晴らしい人でした。」・・。

 正確な内容は忘れたが、要するに、氏が立派な人物であったことを、切々と訴える映像だった。

 私は実際の氏を知らず、マスコミの報道で得た知識しか持っていないが、NHKが、登場者に誉めさせるほどの人物なのかにつき、素朴な疑問を抱く。
 危険地域だから行かないようにという、外務省の警告を無視し、無謀な潜入をした思慮の足りなさを、簡単に無視して良いのかということだ。宗教、民族、政治と経済が複雑に絡まった地域に、「世界は一つ、人類は兄弟。」という、日本でしか通用しない安易さで行動した結果が、どうなったか。

 「すべて、自己責任です。」と、いくら彼が大見得を切っても、いざ拘束されて身代金を要求され、しかも200億円をこえる大金を、「日本」に支払えと脅され、氏はどんな責任が取れるというのか。政府というより、日本の国と国民に対し、途方もない負担と、苦しみを与えている彼の短慮について、NHKは、少し語るべきでないのか。

 氏の意思を継ぎたいと、女生徒に語らせ、あたかも、それが立派な覚悟でもあるように伝えているが、国民の中から、第二第三の後藤氏が生まれてくることを、NHKは是としているのだろうか。

 氏が、善良なボランティアの人間だったとしても、イスラム国に好意を寄せることは、彼らに虐殺され、拉致された、少年少女の親たちからみれば、後藤氏も、憎むべき敵にしか思えないであろう。善意も正義も善行も、見る立場が変われば、スッカリ違ったものになるということを、NHKは報道を通じて、国民に伝える使命があるはずだろうに。

 拘束されたら何であれ可哀相だ。可哀相な人は救わなくてならない。可哀相な人に涙する者は、すべて正しく立派なのだと、そんな薄っぺらな人情報道から、NHKは何時になったら卒業できるのか。

 NHKがそうだから、あの女生徒を教えている教師も、同じ仲間だと推察できる。
「志が立派でも、周囲の状況をキチンと判断せず、行動したら、結果は間違ったことになります。」と、そんな常識を教えていないことは、一目瞭然である。彼女の親や兄弟たちは、こんな教育しかできない学校に、恐怖感を覚えるのではなかろうか。

 つまり、日本の病の一つは、「平和と反戦」を唱えていさえすれば、世界に平和が訪れると本気で信じてしまっていることだ。

 二つ目は、社会の木鐸とか良識とか自称しているマスコミが、率先してその病に罹っていることだ。三つ目は、政治家、教育家、文化人など、名称はどうでもよいが、社会のリーダーと言われる立場にいる人々が、その病に罹っていることだ。

 四つ目は、これが一番厄介だが、社会のリーダーたちの中には、他国から金銭の支援を得て、日本を裏切る言動をマスコミで堂々と行っていることだ。

 だからこそ、後藤氏の誘拐に雪崩うつ、そのマスコミが、北朝鮮に拉致された、200人とも300人とも言われる被害者には、悲しみの報道もせず、取り上げもせず、何十年間放置してきたか。

 日本マスコミの独りよがりな、薄っぺらな、唾棄すべき、歪んだ人道主義こそが、今年から、本気で治療にかかるべき、日本の病(やまい)であると、今宵は自信を持って断定する。

 しかしこの断定の、何という虚しさか。自分の非力が、悲しくなってくる。

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マスコミは何を考えているのだろう

2015-01-22 19:36:17 | 徒然の記

 人命がかかっている非常時に、しかも日本の国が攻撃されている最中に、たんなる特ダネの追求にうつつを抜かしていて、良いのだろうか。

 同志社大学の元教授、中田某という怪しげな人物の話に、どうして簡単に飛びついてしまうのか。

政府が、テロリストと懸命に努力している時に、「私が交渉に出かけてもいい。」などと手をあげる、愚かしい人間とのインタビューを、おおげさに報道している。

 国と国とが交渉している時、素人が顔を出しても、何の益もないと、マスコミには、そんな良識は働かないのだろうか。特ダネになりそうだったら、何でもニュースにしてしまうというのなら、あまりに卑しい儲け主義だ。

 国内での誘拐事件でも、解決するまでは報道を自粛し、犯人に情報を与えないのがルールだ。日本の内情を相手に知らせず、静かに政府の対応を見守るのが、マスコミの役目ではないか。NHKを筆頭に、どのテレビも新聞も、いかがわしい元教授を登場させている無神経ぶりに、怒りが湧いてきた。

 だいたいこの元教授は、馬鹿学生としか言えない、北大生のイスラム国渡航の手引きをした、犯罪加担者でもある。
利敵行為を恥じない人間が、イスラム国にツテがあるからと言って、そんなものが解決につながるとでも判断したのだろうか。もしかすると、この元教授も一味の一人で、身代金強奪の計画を立てていたのかも知れないでないか。売名か、悪意の企みへの加担なのか、そんな検討もしなかったのだろうか。

 この男まで人質になり、もう一億ドル出せと脅されたら、マスコミには、どんな責任が取れるのだろう。結局、責任を取るのは、安倍総理の内閣と、税金を払っている国民ということになる。私は、今ほど彼らを「マスゴミ」と呼びたくなる時はない。

 私ですら、そのくらいの注意をせずおれない、眉唾ものの元教授だ。
あげくの果ては、この犯罪者みたいな人間に、「総理の対応は、適切でなかった。」などと、政権批判をさせている。国民が一つになって考えなくていけない時に、結局は阿部総理への批判だったかと、見え透いた悪意を知る。

 総理の全てに賛成している訳でなく、反対することだって多々ある私だが、それでも私は、マスコミのような卑劣な対応はしない。

 こんな元教授の大言壮語を取り上げるということは、日本の防衛組織、警察組織、国防委員会等々、国の機関を、マスコミが如何に軽視しているかという証だろう。
国防省や警察の幹部、公安庁の幹部は、怒りに燃え、静かに、利敵のマスコミに、立ち向かうべきで時はなかろうか。

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映画「メソポタミア」を見て

2015-01-18 14:33:20 | 徒然の記

 中学2年生(14才)の時の日記に書いている、映画の感想文を発見した。

 57年前の作文だ。あの頃は、生徒が一人で映画を見ることを、学校が許さなかったから、きっと文部省推薦の映画を、学年全体で見に行ったのだと思う。映画の中身はすっかり忘れているが、下手な字で丁寧に書いているから、一生懸命綴ったものに違いない。

 くどい部分を少し省略するが、なるべく原文のまま写し取ってみたい。「イスラム国が、なぜ無謀なテロを起こすのか。」・・。もしかすると、それを解く鍵の一端が、拙い日記の中から発見できるような気がする。


 「かっては、バビロニア王国やペルシア大帝国を作り、」「世界文明の先端を走ったこの国の人々が、今では文明に見放され、」「昔ながらの不便な、そして愉しみの少ない生活を黙々として続けている。」「便利な暮らしも娯楽も、なぜか彼らは欲しがらない。 

 「ただ熱心に宗教を信じ、宗教に頼っている。」「荘厳で美しい大寺院の中で、冷たい大理石の床に座り、」「まるで、自分たちの悲しい運命に、愚痴でも言っているように呟きながら、」「いつまでもいつまでも祈る彼ら。」

 「彼らは祈りによって、生活の悲しみや苦しみを忘れ、」「明日からの暮らしに備えている。」「なんという不思議な民族なのだろう。」
「石油と言う、自分の国の莫大な富は、」「欧米人を肥え太らすためにでも、あるかのようだ。」「彼らは、自分の国の富を自分で開発しようともせず、」「欧米人に、わずかの金をもらって、使われている。」

 「昔ながらの、活動的でない服装、不潔な暮らし、」「少ない愉しみ。それでも、彼らは、満足している。」「彼らは、前進することを忘れているのだろうか。」「本当に、自分を知らない人たち、同情すべき人たち。」「何が彼らをそうさせたのだろう。」

 「荒れ果てた砂漠に麦を撒き、水を引く農民の親子。」「畑に流れ込む泥水を眺めながら、彼らは何を思っているのだろう。」「貧しい暮らしも、荒れ果てた砂漠も、」「どうにもできない運命と、諦めているのだろうか。」「それとも、今年の豊作を祈っているのだろうか。」「こう思って心配している私をよそに、彼らの空ろな目は、流れる泥水をじっと見ている。」

 「映画を見て思った。」「この可哀相な人たちの心に、世界文明の先頭にいた昔のような、強く前進する心や勇気を、」「奮い起こしてやる人は、いないのだろうか。「つくづく思った。」「あるいは、これは、私たちの仕事なのだろうか。」

 これは私たちの仕事なのかと、まるで出光佐三みたいなことを書いているが、大言豪語する癖はこの頃からあったらしい。たかだか中学生でも、言うだけならいっぱしのことを言うと、一方では呆れもする。

 当時は百田氏の本もないし、新聞が、石油メジャーのアコギな行為を報道するはずがないから、私に深い洞察があるはずもない。

 だが、日本の中学生でも、同情せずにおれないほどの暮らしを、すでに中学生でなかった、心ある当時のアラブ人たちは、どういう思いで眺めていたのか。自国の富を、欧米人に奪われ続けていることへの、怒りや、正しい対価を払わない欧米への憎しみや、そんなものが蓄積していても、不思議ではない。

 イスラム国の残虐なテロを、是とする気はさらさらないが、報道機関のひとつくらいは、こうしたアラブの歴史を語ってもらいたいと考える。

 何時までも欧米の国が正義で、途上国の人間が無知蒙昧で乱暴だと、そのような語り口を、そろそろ改める時期ではないのか。フランスでの諷刺漫画への報道ぶりにしても、私には合点が行かない。イスラムの人々が大切にしている人物を弄ぶことが、どうして「表現の自由」とか、「言論の自由」という言葉で庇護されるのか。

 あんな醜悪な漫画は、ただの悪意と、品位のない悪ふざけの産物でしかない。
フランスでは伝統的に、時の政治家や権力者がこうして諷刺されたと、弁護する者もいるが、自国の政治家や権力者なら、いくらやろうとフランス国内での話だ。歴史も文化も違う、外国の指導者を、同じ調子で愚劣な漫画にするなど、思い上がったフランス人の独善でしかない。

 あまり言いたくないのだが、ようするに根底にあるのは、白人が持っている有色人種への差別意識だ。彼らが持つ、優越感以外の何ものでもあるまい。そんなことには考慮せず、わが日本では、マスコミや政治家、文化人などが、フランスを真似、「表現の自由」とか、「言論の自由」とか言い募り、日本の歴史や文化を破壊している。

 イスラム国のテロは犯罪だから、処罰されなくてならないが、イスラム国を発生させた背後の事象については、もっと伝えられていいと思えてならない。そこがなされない限り、単純で、まっすぐで、愚昧な若者たちは、即座に燃え上がり、テロに走るのではなかろうか。

 中学生の私ですら感じ取った事実を、語らず、究明せず、アラブの過激派の攻撃だけをするのだとしたら、火に油を注ぐばかりだと心配でならない。

 「なに、そのうち。反日なんて収まりますよ。国民が豊かになったら、自分の暮らしを楽しむ方に向いていきますから。」

 邱永漢氏が、反日暴動で荒れる中国の若者を、楽観視していたが、国民を苦しめ、卑屈にし、反逆せずにおれなくするのは、結局「貧しさ」なのだ。単なる貧しさでなく、目に余る「極度の貧困」と、言ってもいい。

 砂漠の国々で、貧富の格差を、平然と看過して来た欧米諸国は、自らの過去を反省する時でもある。同時にアラブの国々の指導者や国民も、自己の利益より、国全体の利益を優先する考えを、持たなくてなるまい。

 陸続きの大陸では、常に異民族がせめぎ合い、対立し、殺し合いをしている。こうなると、大陸の国の人々の、自己防衛本能から来る利己主義を、はたして彼らは克服できるのか、という話に、つながる。

 「みみずの戯言」を語るしか出来ない自分には、大き過ぎる課題であり、身の程を知れと言う声も、心の内から上がってくる。中学生ではないし、言うだけで済ますという身勝手もできまい。

 これ以上は、手に負えませんと、正直に白状することも、大事な節度ということだろう。だから、中途半端でも、尻切れとんぼでも、何でも、本日はこれまでだ。

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NHKの「7時のニュース」と「クローズアップ現代」

2015-01-13 23:51:17 | 徒然の記

 NHKの「7時のニュース」で、中国語を学ぶ人の数が減ったという報道をしていた。

 中国語に関しては、先の見通しが立たなくなったと、語学学校の関係者が、困り顔で語る映像が流された。慶応大学で中国語を教えている准教授が、「根拠のない噂に流されず、中国の人と直接話してみることが大切なのです。」と呼びかける姿が映し出された。

 ニュースを見ていると、中国語に関心を持たない者は、心得違いをしていますよと、注意を喚起されているような気にさせられる。

 最近の日本人が、中国語を敬遠するには、敬遠するだけの理由がある。尖閣への領海侵犯、防空識別圏の一方的制定、珊瑚の密猟に大挙して押し寄せた、中国漁船の狼藉ぶり等々、ここ2,3年の中国政府の傲慢なやり方に、どれだけの国民が怒りを覚えているか。

 あまつさえ習近平は、12月3日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」として、新たに設定し、国民に対して次のような談話を発表した。

 「南京に侵略した、野蛮な日本軍によって、30万人が虐殺され、」「無数の女性が乱暴され、子供が非業の死をとげ、」「市の三分の一の建物が破壊され、多くのものが略奪された。」

 「いかなる者が、南京大虐殺という事実を否定しようとしても、」「歴史や30万人の犠牲者、13億人の中国人民、」「平和と正義を愛する、世界の人々が認めないだろう。」

 当時の南京の人口は、20万人だったのに、どうして30万人も殺せるのか、と言う意見もある。日本軍が進駐した当時の、南京市民たちの、笑顔のニュース映像も残っている。

 当時の日本の敵は、習近平の共産党でなく、蒋介石の中国軍と戦争をしていた。中国軍は、日本に攻められると、我先に逃亡し、自国民20万人を見捨てた悲しい軍隊でもある。

 虐殺のことより、不甲斐ない自国の軍隊を嘆く声が、中国にはあると聞く。あれやこれや、調べるほどに、今もって真相不明な南京事件だ。韓国の「慰安婦問題」と同様、誇張と捏造と、憎しみの混じった、政治的プロパガンダーの色彩が強い。

 日本を挑発し、敵意を剥き出しする、中国の政府と国民がいる事実を何も語らず、どうしてNHKがこの時期に、このように奇妙な報道をするのか不思議でならない。
相手が拳をかため、威嚇してくる最中なら、常識のある日本人は、中国語の勉強を敬遠する。

 敬遠するだけでなく、中国そのものを嫌悪する。当たり前の話ではなかろうか。なぜでしようかと、首をひねるNHKの方が、不可解でないか。

 続いて七時半からの「クローズアップ現代」を見て、わがNHKの偏向報道ぶりに、うんざりさせられた。

 表題は、「ヘイトスピーチを問う。 戦後70年の今、何が。」というもので、在特会のデモが槍玉に挙げられていた。死ねとか消え失せろとか、たしかに聞き苦しい汚い言葉だ。彼らの罵倒や絶叫に、眉をしかめる人間は、沢山いるだろう。

 しかしNHKは、ここでも又、なぜ彼らが韓国人・朝鮮人たちを敵視するのかについて、何も語らない。

 いったい韓国の大統領たちは、ここ数年世界に向かって、日本を何といって貶めているのか。習近平の演説と同様、事実の確定していない、むしろ捏造と虚偽の、慰安婦問題を、日本攻撃への材料としている。

 捏造の発信人だった朝日新聞が、誤りを認めて謝罪し、社長まで辞任した、いわくつきの慰安婦問題が、どれほど私たちの心を傷つけたか。

 誤報と判明した今でも韓国は、横車を押し、安倍総理を拒絶し、対話さえ拒否している。米国にまで慰安婦像を建て、ありもしない日本の罪悪を拡散している。自国の軍隊がベトナムで行った、住民の虐殺と暴行にはひと言も触れず、日本だけが極悪人のように非難する韓国人たちについて、NHKは何を報道したと言うのか。

 強制連行され、日本に来たと言い続けている在日の韓国・朝鮮人たちが、今なお日本人を責めているが、これにしても、事実は違っている。

 日本にいる韓国・朝鮮人の数は51万人と言われ、その中で、いわゆる在日と呼ばれる人々は36万人だと聞いている。昭和34年の政府調査では、「245人の徴用労働者を除けば、他の在日朝鮮人は、自由意志で残留した者と、その家族である。」と報告されている。245人以外の、在日は、職を求めて密航してきた、不法滞在者なのだ。

 何時であったか、ニュースナインで大越キャスターが、「在日の方々は、殆どが戦時中に、強制連行されて来られたのであり、ご苦労をされています。」と、大ウソの報道をしていた。

 彼は、東京大学卒業のアナウンサーだと聞くが、本当なのだろうか。東大の教育も、東大生の常識も、今はこの程度のことかと、悲しくなったものだ。つまりNHKは、性懲りもなく、客観報道という姿勢を無視し、左巻きのキャスターのたわごとを、野放しにしていると言うことだ。

 ヘイトスピーチの背後には、敵意丸出しの韓国政府と、憎しみ剥き出しにする、在日韓国・朝鮮人への怒りがあるという事実がある。ユーチューブの動画には、在特会に敵対する「しばき隊」とやらの、見事なヘイトスビーチが映し出されていると言うのに、NHKは一言も言及しない。

 在特会のヘイトスピーチは、韓国政府の反日の動きに、連動している。ここを語らずして、NHKは、何を報道すると言うのか。

 「日本の最近の動きを見ていますと、丁度幕末の頃、」「攘夷を叫んでいた、偏狭な風潮を、思い出させられます。」「危険な兆候ですね。」

 名前は忘れたが、テレビによく顔を出す、タレント教授が、タレントらしい馬鹿な解説をしていた。

 私は、ヘイトスピーチには賛成していない。
けれども、この報道の仕方はあまりにも偏見に満ち、一方的過ぎるでのはないか。最後には、ナチスのヘイトスピーチと関連づけて、アナウンサーが解説していた。まさしく、不愉快極まる偏向報道だった。

 百田尚樹氏よ、貴方は今夜のニュースを見ただろうか。


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海賊とよばれた男

2015-01-12 18:06:34 | 徒然の記

 百田尚樹氏著「海賊とよばれた男」(平成24年 講談社刊)、上下二冊を読んだ。

 昨年の3月に申し込み、希望者が500人いるから待って下さいと言われ、なんと年末の図書館最後の日に連絡があった。

 「ご希望の本が返却されましたので、受け取りに来て下さい。」ほとんど諦めていたから、すぐに車を飛ばして、図書館へ行った。

 9か月も待たされた本だけあって、面白かった。中学生の頃に読んだ、佐藤紅緑の熱血小説を思い出した。正義感に燃える少年が、たちはだかる悪人どもに怯むことなく、敢然として闘っていく・・・・・。胸のすくような痛快な小説だった。

 きっと芸術的には、優れていないのだろうと思うが、読者が、日本人の誇りと自信を取戻せば良いと、百田氏はそこだけ念じて書いたに違いない。

 この分厚い本を、三日で読んでしまった自分を思うと、氏の目的は、日本中で十分に達せられているはずと、確信する。

 途中から出光佐三の話だと分かったけれど、知らないことを沢山教えてもらった。
「石油の一滴は、血の一滴」という言葉は、戦前の軍人が言い出したとばかり思っていたが、フランスの首相クレマンソーが、米国大統領ウイルソンに宛てた電報に使ったものだった。

 1917年の第一次世界大戦時に、石油大国のアメリカに、クレマンソーが救援を依頼した時のものだ。まだ中東の大油田が発見されておらず、アメリカが国際社会に台頭しつつある時だった。

 それなのに石油は、既に欧米諸国で、戦略物資として広く認識されていた。だからこそアメリカは、石油輸出を全面禁止し、日本を対米戦争へと突っ走しらせた。当時の欧米諸国は、確信を持って、日本を追いつめ滅亡の渕へ追いやったのだと、しっかり理解ができた。

 出光佐三氏が、「日本は石油に翻弄され、石油に負けた。」と語ったのは、核心を突く名言だった。

 石炭から石油へと、日本のエネルギー構造が大転換し、大量の炭坑離職者が社会問題になったのは、私が高校生の頃だった。アメリカ・イギリス・オランダの石油メジャーが、世界を牛耳っていると、本で読んでも、何のことか分からず過ごしていたが、百田氏の本が目を開かせてくれた。

 彼らこそが、第二次大戦後の、世界の政治と経済の首根っこを握り、己の利益のため、わが世の春を謳歌していたのだ。

 その後0PECが力をつけ、有無を言わせぬ石油戦略を押し進め、世界が震撼させられた、オイルショックがくる。石油の重要性は、今でも変わらないが、省エネとその技術が格段の進歩を遂げ、石油に変わるエネルギーとして様々なものが生まれつつある。

 その全てが、膨大な資金を要する、巨大プロジェクトの産物である。こうなると次に力を持つのは、石油メジャーでなく、国際金融資本ということになる。だから現在は、ウォール街と、ロンドンの金融資本が世界を掻き回している。

 小説と言うより、日本史の参考文献として読んでいるような印象だった。
百田氏が賞賛して止まない出光佐三氏は、戦前戦後を通じて、わが国の産業界のみならず、国そのものを守り抜いた、唯一の傑物という話になる。小説に感動させられているのに、私は根性が曲がっているせいか、氏がこれほどの超人だったかについては、素直に信じていない。

 私利に走らず、常に国の行く末と国民を考えた人物は、出光氏以外にも、日本には沢山いた。いわば「天下国家」を大切にした、気骨のある人間が無数にいたからこそ、今の日本があるとも言える。

 「海賊とよばれるような男」が、次々と生まれ、人々を魅了するところにこそ、日本の特質があると、これが私の独断の主張だ。

 かって百田氏が、NHKの経営委員の一人に選ばれたとき、あまりに正論を遠慮なく主張するので「安倍総理の足を引っ張るな。」と、ブログで苦言を呈したことがあった。しかし、本を読み終えた今は違う。

 出光氏のような人物を尊敬しているのなら、百田氏も、「海賊とよばれる男」の一人となり、どんどんやるがいい。大事なNHKに巣食う「獅子身中の虫ども」、つまり一握りの「反日・売国の徒」どもを、大いに蹴散らしてもらいたいものだ。

 だからこの本は、いつものように「有価物のゴミ」として出すなど、決してできない。
というより、これは図書館の本だから、そんなことをしたら犯罪になる。一日も早く返却し、待っている読者へ回すこと。これが千葉県民としての義務であり、国民としての使命であると・・。

 百田氏に影響されたのか、新年早々、少し風呂敷を広げてしまった。歌の文句ではないけれど、「それもまた、人生。」か。

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わが友に送る句

2015-01-11 10:16:23 | 徒然の記

 昨年亡くした猫なのに、今もなお心の痛みが消えません。

 貴方の愛犬Mの死を悼み、庭を眺めつつ、心に浮かんだ句を、送ります。

       一生の 半分を寝て

            猫は逝き


       面影の 消ゆることなき

            猫の庭


       眠る猫  小鳥恐れず
     
            飛び交いき


       猫なくて  鳥のさえずる

            小さき庭

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和田氏のオフィシャルブログ

2015-01-10 13:40:08 | 徒然の記

 勧める人があり、初めてこのブログを見た。
 
 1月2日付、和田秀樹氏のオフィシャルブログ。表題は「 2015 年頭所感 」だ。表現の自由の日本だから、こうしたブログもあるのだろうが、一瞬言葉を失った。

 陛下に何回もお目にかかる、歴史学者から聞いた話だという書き出しで、安倍総理のこと、政治の右傾化のこと、憲法改正、極東裁判、A級戦犯の合祀と靖国神社、そして皇后陛下のことまで、あくまで推測であるとことわりつつ、よくもまあヌケヌケと、無責任な公表をしたものと氏の常識を疑った。

 何が書かれているのかと、中身については、紹介する気にもならない。
知りたい方は、グーグルにて検索されれば良い。どのようなものかは、次のような彼の言葉が示唆している。

 「右の政治家たちは、ようするに、薩長主導の頃の日本国が日本国だと勘違いしている。鹿児島へ行くと、日の丸が薩摩の旗だという話を何度も聞く。」

 氏は昭和35年生れの55才だ。東大医学部卒の秀才らしいが、魂の抜けた戦後世代の見本みたいな人物だ。右の政治家や保守の国民が、維新政府の再来を願っているなどと、どこからそのような浅薄な主張を持ち出したのだろうか。

 それでもまあいい。今回は、彼のような、愚かな秀才の話がメインなのではない。
私が嘆くのは、陛下の語られる言葉を、軽々しく外へ漏らす学者が傍にいるという事実への怒りだ。和田氏のごとき、軽薄な人間が耳にすれば、陛下の真意も間違って伝わる。あるいは本当に語られたのかどうかも、も分からないのに、あたかも事実らしく広められてしまう、と言う恐ろしさだ。

 かって昭和天皇は、記者たちから、相撲の贔屓力士は誰ですがと質問を受けられた時、「それは答えられません。それを言いますと、言われた人にも、言われなかった人にも差し障りがありますから。」

 正確ではないが、そのように答えられた陛下の、生真面目なお顔が目に浮かぶ。テレビのニュースで見たのだが、天皇陛下とは、そのように、ご自分の言葉の重みを自覚され、軽はずみに喋られないのだ。

 私はまず、軽卒極まる宮内庁に対し、苦言を呈したい。

 小和田氏のような、反日と売国の元外務官僚に支配され、宮内庁は日本の崩壊に手を貸すというのだろうか。創価学会の会員である小和田氏には、日本の神々への敬意すらないと聞く。また、宮内庁では、外務省からの出向者が威を振るっていると仄聞する。

 それでこのような、口の軽い学者を、陛下の身近に置いているのか、あるいは、止むなく陛下が甘んじておられるのか、私には知る由もない。だだ陛下に対しては、こんなブログがあることを、深い悲しみと共にお伝えしたい。

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年賀状

2015-01-04 23:28:32 | 徒然の記

 どこにも本人の筆跡がなく、印刷されただけの年賀状は、貰っても嬉しくない。

 だから私は、宛名も住所も、もちろん挨拶の言葉も、自分の手で書いた。下手な字でも、心がこもっていれば、受け取った相手に届くと信じ、ずっとそうしてきた。
親類縁者、会社関係の上司や同僚や、部下だった人々、同窓の仲間たち、それ以外の友人知人など、一人一人の顔を思い出しつつ書いた。時間と手間のかかる、年末の大事な行事だったが、70才になったのを機会に止める決心をした。

 字を忘れるだけなら、辞書を引けば良いが、手が震え、文字が乱れるに至っては、諦めるしかなくなった。事情を説明し、「はなはだ勝手ながら、年賀状を卒業いたします。」と書き、昨年投函した。それなのに、まだ30枚ほどの賀状が、ポストに入っていた。

 「止めますと書いてありましたが、出すことにしました。」

 わざわざこんなことを書いてくる、人もいる。「今年まで出しますが、来年から止めます。長い友情に感謝。」、ホロリとさせる友もいる。

 「ほんとに止めるんなら、薄情にならないと駄目よ。」
家内が助言してくれるが、そういう彼女も踏ん切りがつかず、毎年悩んでいる仲間である。

 日頃は無沙汰をしていても、年に一度心のこもる挨拶をする・・。義理だけで書くものも混じるが、大半の賀状はそうした思いがこもっている。だから、自分の都合で、廃止を宣言する身勝手さが、痛みとなる。

 けれども、やはり決断しよう。
ミミズがのたうつような字で、賀状が届いたら、受け取った相手はどう思うか。

 「こんな字を書くようでは、あいつも先が長くないな。」

 そんなことを考えられたら、たまったものではない。百才まで生きようと計画しているのだから、余計な想像はして欲しくない。

 だから、今年届いた30枚には、心を鬼にして返事を書くまい。
こうしてまた、変わった奴と思われつつ、私は年を送ることとなるのでありましよう。歌の文句ではないけれど、「それもまた、人生。」 

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