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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

内藤正典氏著『絨毯屋が飛んで来た』

2015-01-30 20:05:13 | 徒然の記

 内藤正典氏著『絨毯屋が飛んで来た』( 平成10年 筑摩書房刊 ) を、読んだ。副題は、「トルコの社会誌」である。
 
 著者は昭和 31年生まれの大学教授で、ドイツ、フランス、オランダにおけるトルコ人移民の研究をしている。氏自身が付けているタイトルは、『エーゲ海の泉、チェシュメ物語』だ。

 エーゲ海を挟んだギリシャの対岸にある、チェシュメに滞在した時の話を面白くまとめたもので、教えられるところが沢山あった。

 調査と研究のためチェシュメを本拠地として、トルコ国内を回り、必要となればヨーロッパへも足を伸ばす。彼を訪ねて、日本から学生たちが頻繁に訪れ、それもどうやら女子学生の方が多いらしく、楽しそうな日々が綴られている。土地に密着して研究をするには、家族ごと住み着くのが一番だと、彼は妻と娘を連れて学究の日々を送っている。

 商売人というものはどの国でも油断のならないもので、お人好しとなると吹っかけ放題の金を払わされる。

 しかし彼は、そうした商売人ともいわゆる裸のつきあいが出来ているようで、彼にだけは良心的な値段で物を売り、おまけもくれる。チェシュメで売られている野菜は、トマトも茄子も、ピーマンも、日本とは比べ物にならないほどの色つやで、香りも高い。メロンもタマネギもシシトウも、みんな取れ立ての新鮮な物で、しかもめっぽう安いと言う。

 料理の得意らしい彼が、焼いたり炒めたり蒸したりと、調理方法を伝授してくれる。

 香料も種類が豊富で、チーズも肉もチャンと使用方法が書いてある。私にはちっとも理解できないが、それでも読むだけで愉快になり、食べたくなってくる。陰気な部屋でカビ臭い書物に囲まれ、額にしわを何本も寄せ、この世の悩みや悲しみなどを研究する厭世的な学者が多い中で、彼のような明るさは珍しい。

 自慢したり高説を垂れたりしないので、好感を抱かされ、あっと言う間に読み終えた。

 トルコとギリシャが第一次世界大戦後に分離独立した国ことを、この本を読んで知った。ギリシャはパルテノンの昔から独立国と思っていたが、そんな若い国だったのだ。

 分離以前はオスマントルコ帝国だったが、ドイツについたため帝国が崩壊し、片方はトルコ共和国となり、もう一方がギリシャとなったと言うことだった。たんに分離したのでなく、双方が武器を持って闘い殺し合った後の合意だ。

 住んでいたトルコ系住民40万人余とギリシャ系住民100万人余が、交換という形でそれぞれ土地を捨て、移住したのだと言う。なんという荒っぽい解決方法といえば良いのか。だから混在した風俗習慣がありながら、トルコ人とギリシャ人は仲が悪く、何か事があると、激して互いを攻撃し非難し合うのだそうだ。

 こんな話を聞かされると、私たちが隣の中国や韓国と争っていることも、国際社会ではありふれたものだと分かってくる。

 荒松雄氏の『ヒンズー教とイスラム教』を読んだ時もそうだったが、100年500年の単位で、隣国同士は血を流して争っている。こうしたことを経験していない日本のマスコミやインテリや有識者は、所詮島国の人間だと言いたくなる。無論私も、「所詮」の仲間だ。

 人口の90%以上がイスラム信者だというのに、トルコの指導者たちは手本をヨーロッパに置き、いまだに国づくりに四苦八苦している。

 指導者たちが信じているのは世俗主義、政教分離主義で、軍部が強力にバックアップし、裕福な都市住民が支持している。貧しい農民や労働者にはイスラム教を信じる者が多く、彼らは指導者たちを「西洋かぶれ」と内心で軽蔑している。

 国論は何時も分裂し、政党が乱立し、血の気の多い国民は瞬間湯沸かし器みたいに騒ぎが好きだ。トルコが国として抱えている矛盾は、日本の比ではない。安倍氏が「戦後の体制を見直す」と、真っ当なことを言ったら、まるでこの世の終わりのようにマスコミが騒いだ。

 歴史修正主義者だ、軍国主義者だ、果てはヒットラーのような独裁者だと、ドイツ人が聞いたら眉をひそめるようなことを平気で記事にした。日本のマスコミの頭の中には、「日本の保守政治家は悪だ」という信仰があり、イスラム教にもキリスト教にも負けない教条主義なのだろうか。

 だからこうした他国の姿をそのまま語る本を読むと、私は覚醒する。

 日本のマスコミの、何処が「社会の木鐸」なのか。依頼主の求めに応じ、派手な宣伝を鳴り物入りでする「社会のチンドン屋」という方が、ずっと適切でないのか。彼らを「日本の良識」と考えたのは、とんでもないことだった。

 彼らが広めようとしているのは、「日本の非常識」と「日本の思い込み」だ。言い切ってしまうのは酷な面があるとしても、そのくらいの割り切りをして丁度良いのだと思えてきた。

 読書をしていくと、だんだん賢くなっていく。日本には博識な人が沢山いて、いろいろな意見や様々な出来事を教えてくれる。この覚醒をもっと早く、もっと若い時にしていたら、40年以上も朝日新聞に金を払い続けなくて済んだのにと、返す返すも残念でならない。

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 松本清張氏『砂の器』

2015-01-27 09:24:31 | 徒然の記

 松本清張氏著『砂の器』( 昭和36年 光文社刊 ) を、読み終えた。

 息もつかず一気に読んだと、そういう表現が、誇張でなく使える、そんな小説だった。現在のJRが「国鉄」という名で語られ、場末のうらぶれた酒場が「トリスバー」だった。同時代を生きた私には、それだけでも懐かしくなる。トリスバーのメインメニューは一杯50円のハイボールで、貧乏学生だった自分には、それでも高かった。

 今西栄太郎刑事が、好人物だった元巡査の殺人事件を、捜査本部の解散後にも、律儀に追いつめ、最後に解決するという話だ。ヌーボーグループという、新鋭の芸術家集団をからませ、読者が次々とページを繰らずにおれないような、沢山の伏線がしかけてある。

 やはり彼は、第一級の小説家だったと改めて感心する。

 売れっ子作家になってからは、贅沢もしたのだろうが、私と同じ貧乏人の息子だった彼は、貧しい人間を描かせると、天下一だ。そのかわり金持ちを描写する時には、紋切り型の言葉を使うという、欠点を見せる。ヌーボーグループというのは、今風に言えばヌーベルバーグなのだろうが、若くして有名になった贅沢な若者の描写も、同じく精彩がない。

 こつこつと努力を積み上げ、苦労の中から作家の地位を築いた彼には、こんな放埒な若者の描写が不得手なのだと理解した。

 それでもこんなものは、作品全体から見れば些細なことだ。

 百田氏は、主人公と一体になって熱く語る作家だが、松本氏はどこまでも冷静で、事実の描写を重ねていく。一見乾いた文章に見えるが、どうしてどうして、熱い心が隠されている。

 安月給の刑事である今西が、予算の少ない警察をおもんばかり、自主捜査を休暇でこなし、手出しの旅行を重ねるところなど日本人なら誰でもジンと来る。公務員が役人がと、日頃は私も一緒になり非難しているが、今西刑事のように、寡黙に自分の職責を遂行する公務員は今でも変わらずにいるだろう。こういう人間たちが、社会を支えているのだと、そういうことも考えさせられた。

 観光地へ行っても名所見物をせず、妻のへそくりまで使い捜査に精を出す。彼の趣味は、下手な俳句と植木を買うことだ。

 温泉へ言ってものんびりするでなく、考えることと言えば「定年になったら、女房を連れてきてやりたい。」と、そんな話だ。出張の帰りに妻の土産に帯留めを買い求め、渡された妻が娘のように喜ぶ様子など、ほろりと涙がこぼれてしまった。

 凄腕の刑事も極悪人も登場せず、戦後の日本であちこちに見られた、平凡な人間ばかりがでてくる。憎むべき殺人犯も、彼の描写にかかると別の姿になる。勧善懲悪というか、今はやりの人道主義という、そんなものでなく、彼特有の乾いた文章が見せる職人技としか言いようがない。

 図書館でもらってきた本だが、図書館の蔵書でなく、個人が持ち込んだ廃棄図書だった。所有者も裕福でなかったのか、定価360円の本を230円で買っている。古本屋が付けた値段が、最後のページに鉛筆書きしてある。気に入った本なので、蔵書に加えたいが何しろ汚れている。ページが黄色く変色しているだけでなく、ところどころに血が付着し乾き切っているが、いい気はしない。

 いくら小説好きで物好きな私でも、これでは本棚に飾る気になれない。

 不本意であるが、有価物回収の日にゴミとして出すことに決めた。松本清張氏には、心の中で謝るしかない。

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今年から本気で治療にかかるべき、日本の病 ( やまい )

2015-01-23 22:23:24 | 徒然の記

 NHKのニュースを見ていると、今年から本気で治療にかかるべき、日本の病 ( やまい ) が何であるのか分った。

 イスラム国による「身代金要求事件」の報道の背後に、その病が容易に理解できる形で現われていた。

 誘拐された後藤氏が授業を行っていた学校での、インタビューだった。中学生だったか、高校生だったか、眼鏡をかけた、まだあどけなさの残る女生徒が、涙をこらえて喋っていた。

  「後藤さんの意思を継いで、私も将来は、世界で困っている人たちのため、尽くしたいです。」

  「こんな事件があったから、本気でそう考えるようになりました。」

 その次に出てきたのは、この学校の先生だったか、あるいは氏の関係する、NPO法人の女性メンバーだったか、彼女も又涙声で語っていた。

  「とても優しくて、立派な方でした。誰にでも、隔てなく接してくれる方で、素晴らしい人でした。」

 正確な内容は忘れたが、要するに氏が立派な人物であったことを、切々と訴える映像だった。

 私は実際の氏を知らず、マスコミの報道で得た知識しか持っていないが、NHKが、登場者に誉めさせるほどの人物なのかにつき、素朴な疑問を抱く。危険地域だから行かないようにという、外務省の警告を無視し、無謀な潜入をした思慮の足りなさを、考えなくて良いのかということだ。

 宗教、民族、政治、経済が複雑に絡まった地域に、「世界は一つ、人類は兄弟。」という、日本でしか通用しない安易さで行動した結果がどうなったか。

 「すべて、自己責任です。」と、

 いくら氏が大見得を切っても、いざ拘束されて身代金を要求され、しかも200億円をこえる大金を、「日本」に支払えと脅され、氏はどんな責任が取れるというのか。政府というより、日本の国と国民に対し、途方もない負担と、苦しみを与えている氏の短慮について、NHKは少し語るべきでないのか。

 氏の意思を継ぎたいと、女生徒に語らせ、それが立派な覚悟であるように伝えているが、日本国民の中から、第二第三の後藤氏が生まれてくることを、NHKは是としているのだろうか。

 氏が善良なボランティアの人間だったとしても、イスラム国に好意を寄せることは、彼らに虐殺され拉致された、少年少女の親たちの側からみれば、後藤氏も憎むべき敵にしか思えないであろう。

 善意も正義も善行も見る立場が変われば、スッカリ違ったものになるということを、NHKは報道を通じて国民に伝える使命があるはずだろうに。拘束されたら何でも可哀相だ。可哀相な人は救わなくてならない。可哀相な人に涙する者は、すべて正しく立派なのだと、そんな人情報道から、NHKは何時になったら卒業できるのか。

 NHKがそうだから、あの女生徒を教えている教師も同じ仲間だと推察する。

  「志が立派でも、周囲の状況をキチンと判断せず、行動したら、結果は間違ったことになります。」

 と、そんな常識を教えていないことは、一目瞭然である。彼女の親や兄弟たちは、こんな教育しかできない学校に、恐怖感を覚えるのではなかろうか。

 つまり日本の病の一つ目は、「平和と反戦」を唱えていさえすれば、世界に平和が訪れると本気で信じてしまっていることだ。

 二つ目は、社会の木鐸と良識を自称しているマスコミが、率先してその病に罹っていることだ。

 三つ目は、政治家、教育家、文化人など、名称はどうでもよいが、社会のリーダーと言われる立場にいる人々が、その病に罹っていることだ。

 四つ目は、これが一番厄介だが、社会のリーダーたちの中には、他国から金銭の支援を得て、日本を裏切る意見をマスコミで堂々と語っていることだ。

 だからこそ、後藤氏の誘拐に雪崩うつ、そのマスコミが、北朝鮮に拉致された、200人とも300人とも言われる被害者には悲しみの報道をせず、取り上げもせず、何十年間放置してきたか。

 日本マスコミの独りよがりな、偏った、唾棄すべき、歪んだ人道主義こそが、今年から、本気で治療にかかるべき、日本の病 ( やまい ) であると、今宵は自信を持って断定する。

 しかしこの断定の、何という虚しさか。自分の非力が、悲しくなってくる。

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映画「メソポタミア」を見て

2015-01-18 14:33:20 | 徒然の記

 中学2年生 ( 14才 ) の時の日記に書いていた、映画の感想文を発見した。

 57年前の作文だ。あの頃は、生徒が一人で映画を見ることを学校が許さなかったから、きっと文部省推薦の映画を、学年全体で見に行ったのだと思う。映画の中身はすっかり忘れているが、下手な字で丁寧に書いているから、一生懸命綴ったものに違いない。

 くどい部分を少し省略するが、なるべく原文のまま写し取ってみたい。「イスラム国が、なぜ無謀なテロを起こすのか。」。もしかすると、それを解く鍵が、拙い日記の中から発見できるような気がする。

  「かっては、バビロニア王国やペルシア大帝国を作り、世界文明の先端を走ったこの国の人々が、今では文明に見放されている。」

  「昔ながらの不便な、そして愉しみの少ない生活を黙々として続けている。」

  「便利な暮らしも娯楽も、なぜか彼らは欲しがらない。 

  「ただ熱心に宗教を信じ、宗教に頼っている。」

  「荘厳で美しい大寺院の中で、冷たい大理石の床に座り、まるで、自分たちの悲しい運命に、愚痴でも言っているように呟きながら、いつまでもいつまでも祈る彼ら。」

  「彼らは祈りによって、生活の悲しみや苦しみを忘れ、明日からの暮らしに備えている。なんという不思議な民族なのだろう。」

  「石油と言う自分の国の莫大な富は、欧米人を肥え太らすためにでもあるかのようだ。」

  「彼らは、自分の国の富を自分で開発しようともせず、欧米人に、わずかの金をもらって使われている。」

  「昔ながらの活動的でない服装、不潔な暮らし、少ない愉しみ。それでも、彼らは、満足している。」

  「彼らは、前進することを忘れているのだろうか。本当に、自分を知らない人たち、同情すべき人たち。何が彼らをそうさせたのだろう。」

  「荒れ果てた砂漠に麦を撒き、水を引く農民の親子。畑に流れ込む泥水を眺めながら、彼らは何を思っているのだろう。」

  「貧しい暮らしも、荒れ果てた砂漠も、どうにもできない運命と諦めているのだろうか。」

  「それとも、今年の豊作を祈っているのだろうか。」

  「こう思って心配している私をよそに、彼らの空ろな目は、流れる泥水をじっと見ている。」

  「映画を見て思った。この可哀相な人たちの心に、世界文明の先頭にいた昔のような、強く前進する心や勇気を奮い起こしてやる人は、いないのだろうか。つくづく思った。」

  「あるいはこれは、私たちの仕事なのだろうか。」

 これは私たちの仕事なのかと、まるで出光佐三氏みたいなことを書いているが、大言豪語する癖はこの頃からあったらしい。たかだか中学生でも、言うだけならいっぱしのことを言うと、一方では呆れもする。当時は百田氏の本もないし、新聞が、石油メジャーのアコギな行為を報道する訳がないから、私に深い洞察があるはずもない。

 だが、日本の中学生でも同情せずにおれないほどの暮らしを、当時のアラブ人たちはどういう思いで眺めていたのか。自分の国の富を、欧米人に奪われ続けていることへの怒りや、正しい対価を払わない欧米への憎しみや、そんなものが蓄積していても不思議ではない。

 イスラム国の残虐なテロを是とする気持はないが、報道機関のひとつくらいは、こうしたアラブの歴史を語ってもらいたいと私は考える。何時までも欧米の国が正義で、途上国の人間が無知蒙昧で粗暴だと、そのような報道ぶりを、そろそろ改める時期ではないのだろうか。

 フランスの諷刺漫画がイスラムのムハンマドを皮肉っていたが、この紹介の姿勢も私には合点がいかない。イスラムの人々が大切にしている人物を弄ぶことが、どうして「表現の自由」や「言論の自由」という言葉で庇護されるのか。あのような悪辣な漫画は、フランス人の悪意と、品位のない悪ふざけの産物でしかない。

 フランスでは伝統的に、時の政治家や権力者がこうして諷刺されたと弁護する者もいるが、自国の政治家や権力者なら、いくらやろうとフランス国内での話だ。

 歴史も文化も違う、外国の指導者をよその国の人間が愚劣な漫画にするなど、思い上がったフランス人の独善でしかない。あまり言いたくないのだが、根底にあるのは、白人が持っている有色人種への差別意識だと思う。彼らが持つ優越感、そこは考慮せず、日本のマスコミや政治家文化人が、フランスを真似て「表現の自由」「言論の自由」と、日本の歴史や文化を破壊している。

 イスラム国のテロは犯罪だから処罰されなくてならないが、イスラム国のテロを発生させた過去については、もっと伝えられて良いと私は考える。そこがされない限り、単純で真っ直ぐな若者たちは、怒りに燃えてテロに走るのではないだろうか。

 中学生の私でさえ感じ取った事実に目を向けず、アラブの過激派の攻撃だけをするのだとしたら、火に油を注ぐばかりで解決にはつながらない。

 「なに、そのうち。反日なんて収まりますよ。国民が豊かになったら、自分の暮らしを楽しむ方に向いていきますから。」

 邱永漢氏が、反日暴動で荒れる中国の若者を楽観視していたが、国民を苦しめ、卑屈にし、反逆せずにおれなくするのは、結局は「不公平な貧しさ」だ。単なる「貧しさ」でなく、目に余る「不公平な貧しさ」と断言していい。

 砂漠の国々に、極端な貧富の格差を作り上げた欧米諸国は、自らの過去を反省する時だ。アラブの国々の指導者と国民も、自己だけの利益より、国全体の利益を優先する考えを持たなくてならない。

 陸続きの大陸では常に異民族がせめぎ合い、対立し、殺し合いをしている。大陸の国の人々の、自己防衛本能から来る利己主義を果たして彼らは克服できるのか。克服が困難だから、この国々の宗教と神様は敵を殲滅する激しいものになったのだろうか。

 「みみずの戯言」を語るしか出来ない私には、大き過ぎる課題だった。身の程を知れと言う声が、心の内から上がってくる。中学生でない私は、言うだけで済ますという無責任もできないから、これ以上は手に負えませんと正直に白状する。

 未熟な人間に大切なのは、節度だろう。中途半端でも尻切れとんぼでも、本日はこれまでだ。

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NHKの「7時のニュース」と「クローズアップ現代」

2015-01-13 23:51:17 | 徒然の記

 NHKの「7時のニュース」で、中国語を学ぶ人の数が減ったという報道をしていた。

 中国語に関しては先の見通しが立たなくなったと、語学学校の関係者が、困り顔で語る映像が流された。慶応大学で中国語を教えている准教授が、「根拠のない噂に流されず、中国の人と直接話してみることが大切なのです。」と呼びかける姿も映し出された。

 ニュースを見ていると、中国語に関心を持たない者は心得違いをしていますよと、注意を喚起されている気になってくる。

 最近の日本人が中国語を敬遠するのには、するだけの理由がある。尖閣への領海侵犯、防空識別圏の一方的制定、珊瑚の密猟に大挙して押し寄せた中国漁船等々、ここ  2、3年の中国政府の傲慢なやり方に、どれだけの国民が怒りを覚えているか。

 習近平氏は、12月3日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」として、新たに設定し、国民に対して次のような談話を発表した。

 「南京に侵略した野蛮な日本軍によって、30万人が虐殺され、無数の女性が乱暴され、子供が非業の死をとげ、市の三分の一の建物が破壊され、多くのものが略奪された。」

 「いかなる者が、南京大虐殺という事実を否定しようとしても、30万人の犠牲者、13億人の中国人民、平和と正義を愛する世界の人々が認めないだろう。」

 当時の南京の人口は20万人だったのに、どうして30万人も殺せるのか、と言う意見がある。日本軍が進駐した当時の、南京市民たちの笑顔のニュース映像も残っている。

 当時の日本軍の敵は、習近平氏の共産党軍でなく、蒋介石総統の中国軍と戦争をしていた。中国軍は、日本に攻められると我先に逃亡し、南京市民20万人を見捨てた非力な軍隊でもあった。

 虐殺のことより、不甲斐ない自国の軍隊を嘆く声が中国にはあるとも聞く。詳しく調べるほど、今も真相不明な南京事件だ。韓国の「慰安婦問題」と同様、誇張と捏造と憎しみの混じった、政治的プロパガンダーの色彩が強い。

 日本を挑発し敵意を剥き出しにする中国政府と、中国国民がいる事実を語らず、どうしてNHKがこの時期に、このように奇妙な報道をするのか不思議でならない。

 相手が拳をかため威嚇してくる最中だから、国を愛する日本人は、中国語の勉強を敬遠する。敬遠するだけでなく、中国そのものを嫌悪する。当たり前の話ではなかろうか。なぜでしょうかと首をひねるNHKの方が、私には「なぜでしょうか」だ。

 続いて七時半からの「クローズアップ現代」を見て、NHKの偏向報道ぶりにうんざりさせられた。

 番組のタイトルは、

 「ヘイトスピーチを問う。 戦後70年の今、何が。」

 というもので、「在特会」のデモが槍玉に挙げられていた。「死ね」、「消え失せろ」と、聞き苦しく汚い言葉だ。彼らの罵倒や絶叫に、眉をしかめる国民も沢山いる。

 しかしNHKはここでも、なぜ「在特会」が韓国人・朝鮮人を敵視するかについて説明しない。

 韓国の大統領がここ数年世界に向かって、日本を何と言って貶めているか。習近平氏の演説と同様、事実の確定していない、むしろ捏造と虚偽の「慰安婦問題」を日本攻撃の材料にしている。

 捏造の発信人だった朝日新聞が、誤りを認めて謝罪し、社長まで辞任した。このいわくつきの「慰安婦問題」が、どれほど私たちの心を傷つけたか。

 誤報と判明した今でも韓国は横車を押し、安倍総理を攻撃し対話さえ拒否している。米国にまで慰安婦像を建て、ありもしない日本の罪悪を拡散している。自国の軍隊がベトナムで行った、住民の虐殺と女性の暴行にはひと言も触れず、日本だけを極悪人のように非難する韓国人について、NHKは何を報道したのか。

 強制連行され、日本に来たと言い続けている在日の韓国・朝鮮人たちが、今なお日本人を責めているが、これも事実は別にある。

 日本にいる韓国・朝鮮人の数は51万人で、その中で「在日」と呼ばれる人々は36万人だ。

 昭和34年の政府調査では、

 「245人の徴用労働者を除けば、他の在日朝鮮人は、自由意志で残留した者とその家族である。」

 と報告されている。245人以外の約36万人在日は、職を求めて密航してきた不法滞在者なのだ。

 何時であったか、ニュースナインで大越キャスターが、

 「在日の方々は、殆どが戦時中に、強制連行されて来られたのであり、ご苦労をされています。」

 と、間違った説明をしていた。

 大越氏は東京大学卒業のアナウンサーと聞くが、東大の教育も東大生の常識も、今はこの程度かと悲しくなったものだ。

 つまりNHKは客観報道という姿勢を考えず、左巻きのキャスターのたわごとを野放しにしていることになる。

 「在特会」のヘイトスピーチの背後には、敵意を隠さない韓国政府と、憎しみを剥き出しにする在日韓国・朝鮮人への怒りという事実がある。ユーチューブの動画では、「在特会」に敵対する「しばき隊」の、激しいヘイトスビーチが映し出されているが、NHKは報道しない。

 「在特会」のヘイトスピーチは、韓国政府の反日の動きに連動している。この説明を抜きにして、NHKは公共放送として客観報道ができるのだろうか。

 「日本の最近の動きを見ていますと、丁度幕末の頃、攘夷を叫んでいた、偏狭な風潮を思い出させられます。」

 「危険な兆候ですね。」

 名前は忘れたが、テレビによく顔を出すタレント教授が、タレントらしい馬鹿な解説をしていた。

 私はへイトスピーチに賛成していないが、NHKの報道姿勢は一方的過ぎるでのはないか。最後にはナチスのヘイトスピーチと関連づけて、アナウンサーが解説していた。ここまで来ると、NHKの良識がどこにもなくなる。

 NHKの経営委員の百田尚樹氏は、今夜のNHKニュースを見ただろうか。


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百田尚樹氏著 『海賊とよばれた男』

2015-01-12 18:06:34 | 徒然の記

 百田尚樹氏著『海賊とよばれた男』(  平成24年 講談社刊  )、上下二冊を読んだ。昨年の3月に申し込み、希望者が500人いるから待って下さいと言われ、なんと年末の図書館最後の日に連絡があった。

 「ご希望の本が返却されましたので、受け取りに来て下さい。」

 ほとんど諦めていたから、すぐに車を飛ばして図書館へ行った。

 9か月も待たされた本だけあって、面白かった。中学生の頃に読んだ、佐藤紅緑の熱血小説を思い出した。正義感に燃える少年が、たちはだかる悪人どもに怯むことなく、敢然として闘っていく。胸のすくような痛快な小説だった。

 芸術的には優れていないのだろうと思うが、読者が日本人の誇りと自信を取戻せば良いと、百田氏はそこだけ念じて書いたに違いない。

 この分厚い上下二冊を、三日で読んでしまった自分を思うと、氏の目的は日本中で十分に達せられているはずと確信する。

 途中から出光佐三氏の話だと分かったけれど、知らないことを沢山教えてもらった。「石油の一滴は、血の一滴」という言葉は、戦前の軍人が言い出したとばかり思っていたが、フランスの首相クレマンソーが、米国大統領ウイルソンに宛てた電報で使ったものだったと言う。

 大正6 ( 1917 ) 年の第一次世界大戦時に、石油大国のアメリカに、フランスが救援を依頼したのだ。まだ中東の大油田が発見されておらず、アメリカが国際社会に台頭しつつある時だった。

 石油は既に欧米諸国で、戦略物資として広く認識されていた。だからこそアメリカは石油輸出を全面禁止し、日本を対米戦争へと突っ走しらせることができた。当時の欧米諸国は、確信を持って日本を追いつめ、滅亡の渕へ追いやったと理解ができた。

 出光佐三氏が、「日本は石油に翻弄され、石油に負けた。」と語ったのは、核心を突く名言だったのだ。

 石炭から石油へと日本のエネルギー構造が大転換し、大量の炭坑離職者が社会問題になったのは、私が高校生の頃だった。アメリカ・イギリス・オランダの石油メジャーが、世界を牛耳っていると本で読んでも、何のことかよく分からずに過ごしてきたが、百田氏の本が目を開かせてくれた。

 石油メジャーこそが、第二次大戦後の世界の政治と経済の首根っこを握り、己 ( おのれ ) の利益のため、わが世の春を謳歌していたのだ。

 その後 0PECが力をつけ、強引な石油戦略を押し進め、世界が震撼させられたオイルショックがくる。石油の重要性は今でも変わらないが、省エネ技術が格段の進歩を遂げ、石油に変わるエネルギーとしても様々なものが生まれつつある。

 省エネ技術も代替エネルギーの開発も、膨大な資金を要する巨大プロジェクトの産物である。こうなると次に力を持つのは、石油メジャーでなく、国際金融資本ということになる。だから現在の世界は、ウォール街とロンドンの金融資本が世界を掻き回している。

 小説と言うより、日本史の文献として読んでいる印象だった。

 百田氏が賞賛して止まない出光佐三氏は、戦前戦後を通じてわが国の産業界だけでなく、国そのものを守り抜いた唯一の傑物という話になる。小説に感動させられているのに、私は根性が曲がっているせいか、出光氏がそれほどの超人だったかについては素直に信じていない。

 私利に走らず、常に国の行く末と国民を考えた人物は、出光氏以外にも日本には沢山いた。いわば「天下国家」を大切にした、気骨のある人間が無数にいたからこそ、今の日本があるとも言える。

 「海賊とよばれるような男」が次々と生まれ、人々を魅了するところにこそ日本の特質があると、これが私の独断的な意見だ。

 かって百田氏が、NHKの経営委員の一人に選ばれたとき、あまりに正論を遠慮なく主張するので「安倍総理の足を引っ張るな。」と、ブログで苦言を呈したことがあった。しかし、本を読み終えた今は違う。

 出光氏のような人物を尊敬しているのなら、百田氏も、「海賊とよばれる男」の一人となりどんどんやるがいい。大事なNHKに巣食う「獅子身中の虫ども」、つまり一握りの「反日・売国の徒」を、大いに蹴散らしてもらいたい。

 だからこの本は、いつものように「有価物のゴミ」として出すことは、できない。というより図書館の本だから、そんなことをしたら犯罪になる。一日も早く返却し、待っている次の読者へ回すこと。これが千葉県民としての義務で、国民の使命である。

 百田氏に影響され、新年早々風呂敷を広げてしまった。

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わが友に送る句

2015-01-11 10:16:23 | 徒然の記

 昨年亡くした猫なのに、今もなお心の痛みが消えません。

 貴方の愛犬Mの死を悼み、庭を眺めつつ、心に浮かんだ句を、送ります。

       一生の 半分を寝て

            猫は逝き


       面影の 消ゆることなき

            猫の庭


       眠る猫に 小鳥恐れず
     
            飛び交いき


       猫なくても 鳥のさえずる

            小さき庭

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和田秀樹氏の「オフィシャルブログ」

2015-01-10 13:40:08 | 徒然の記

  勧める人があり、このブログを見た。1月2日付、和田秀樹氏のオフィシャルブログ」、表題は「 2015 年頭所感 」だ。

 表現の自由の日本だから、こうしたブログもあるのだろうが一瞬言葉を失った。

 陛下に何回もお目にかかる歴史学者から聞いた話だという書き出しで、安倍総理のこと、政治の右傾化のこと、憲法改正、極東裁判、A級戦犯の合祀と靖国神社、そして皇后陛下のことまで、あくまで推測であるとことわりつつ、よくも無責任な公表をしたものと氏の見識を疑った。

 何が書かれているのかと、中身は紹介する気にならない。知りたい方は、グーグルで検索されれば良いと思う。どのようなものかは、次の氏の言葉が示唆している。

  「右の政治家たちは、ようするに、薩長主導の頃の日本が日本国だと勘違いしている。」

  「鹿児島へ行くと、日の丸が薩摩の旗だという話を何度も聞く。」

 氏は昭和35年生れの55才だ。東大医学部卒の秀才らしいが、魂の抜けた戦後世代の見本のような人物だ。右派の政治家や保守の国民が、維新政府の再来を願っていると、聞いたこともない意見を述べている。

 それでも今回は、彼のような愚かな秀才の話がメインではない。私が嘆くのは、陛下の語られる言葉を、軽々しく外へ漏らす学者が傍にいるという事実だ。

 和田氏のような口の軽い人間に話せば、陛下のご真意も間違って伝わる可能性がある。本当に語られたのかどうかも疑わしいのに、事実らしく広められてしまうと言う恐ろしさだ。

 大袈裟な話でなく、陛下のお言葉は国家機密に該当する重大なものが含まれる。かって昭和天皇は記者たちから、相撲の贔屓力士は誰ですかと質問を受けられた時、

 「それは答えられません。それを言いますと、言われた人にも、言われなかった人にも差し障りがありますから。」

 正確ではないが、そのように答えられた陛下の生真面目なお顔が目に浮かぶ。テレビのニュースで見たのだが、天皇陛下とはそのように、ご自分の言葉の重みを自覚され、軽はずみに話をされないのだ。

 私は口の軽い歴史学者を任にあたらせている宮内庁に、苦言を呈したい。

 宮内庁では小和田次官の時以来、外務省からの出向者が増えていると聞く。小和田氏は、昭和60年11月の衆議院外務委員会で、土井委員長の質問に答える形で次のように発言した外務次官だ。

 「日本は昔悪いことをしたのだから、自己主張をせず、永遠に謝り続けなくてならない。」

 「日本の外交は、東京裁判を背負っている、ハンディキャップ外交である。」

 以後氏の発言が日本の外交方針となり、今日の「謝罪外交」が続いている。また創価学会の会員である氏には、日本の神々への敬意の念がないと言われている。外務省内では「大鳳会」という創価学会の閥が作られ、今は解散しているらしいが、所属人数は300人とも400とも言われていたらしい。

 現在の宮内庁には元「大鳳会」所属の外務省出身者が多数を占めていると聞く。

 異なる思想信条や宗教、口の軽い学者などから陛下をお守りするのが宮内庁の役目である。宮内庁が役目を果たしていないため、このような事態になっているのか、やむなく陛下が甘んじておられるのか、私には知るよしもない。ブログの中で、悲しみと共に事情を述べるしか方法がない。

 途中から話が小和田氏と外務省、宮内庁へ移ったが、和田氏の件も重要なテーマだ。氏の略歴を別途調べたので紹介する。

 〈 和田秀樹氏の略歴 〉

  ・大阪府出身、昭和35年6月生まれ、東京大学医学部卒業

  ・日本の評論家 ( 教育・医療、政治・経済 ) 映画監督 小説家 管理栄養士

  ・精神科医 ( 川崎幸病院精神科顧問  ) 臨床心理士  複数の大学、大学院の非常勤講師

  ・東進ハイスクール顧問  和田秀樹こころと体のクリニック代表 和田塾緑鐡舎代表

  ・緑鐡受験指導ゼミナール代表  和田秀樹の親塾代表など

 和田氏も小和田氏も口の軽い歴史学者も、私にはいかがわしい人物に見えてならない。

 

 

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「年賀状」を止める決心

2015-01-04 23:28:32 | 徒然の記

 どこにも本人の筆跡がなく、印刷されただけの年賀状は貰っても嬉しくない。

 だから私は、宛名も住所も挨拶の言葉も、自分の手で書いた。下手な字でも、心がこもっていれば、受け取った相手に届くと信じ、ずっとそうしてきた。

 親類縁者、会社関係の上司や同僚や、部下だった人々、同窓の仲間たち、それ以外の友人知人など、一人一人の顔を思い出しながら書いた。時間と手間のかかる、年末の大事な行事だったが、70才になったのを機会に止める決心をした。

 字を忘れるだけなら辞書を引けば良いが、手が震え、文字が乱れるに至っては、諦めるしかなくなった。事情を説明し、

  「はなはだ勝手ながら、年賀状を卒業いたします。」

 と書き、昨年投函した。それなのに、まだ30枚ほどの賀状がポストに入っていた。

  「止めますと書いてありましたが、出すことにしました。」

 わざわざこんなことを書いてくる、人もいる。

  「今年まで出しますが、来年から止めます。長い友情に感謝。」

 ホロリとさせる友もいる。

  「ほんとに止めるんなら、薄情にならないと駄目よ。」

 家内が助言してくれるが、そういう彼女も踏ん切りがつかず、毎年悩んでいる仲間である。

 日頃は無沙汰をしていても、年に一度心のこもる挨拶をする。義理だけで書くものも混じるが、大半の賀状はそうした思いがこもっている。だから、自分の都合で、廃止を宣言する身勝手さが痛みとなる。

 けれども、やはり決断しよう。ミミズがのたうつような字で賀状が届いたら、受け取った相手はどう思うか。

  「こんな字を書くようでは、あいつも先が長くないな。」

 そんなことを考えられたら、たまったものではない。百才まで生きようと計画しているのだから、余計な想像はして欲しくない。

 だから、今年届いた30枚には、心を鬼にして返事を書かない。こうしてまた、変わった奴と思われながら、私は年を重ねることとなるのでありましよう。

 歌の文句ではないけれど、「それもまた、人生。」 

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