ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

岡田啓介回顧録 - 3 ( 皇道派と統制派 )

2017-06-30 23:23:20 | 徒然の記

 陸軍に皇道派と統制派があり、激しく対立していたという話は知っていました。関係の本を読んでも、今一つ理解できませんでしたが、岡田元首相の説明ですべてがハッキリしました。

 これまで読んだ本は、あっちを立て、こっちも立てと、曖昧にしていたから理解できなかったのだと分かりました。長くなりますが、後の 2・25事件につながる重要なことなので、割愛せずに紹介します。

 「陸軍にはいつのころからともなく、皇道派と統制派という派閥があり、ことごとに争っていた。」「皇道派と見られていたのは、真崎甚三郎と荒木貞夫なんだが、真崎は陸軍三長官のひとつである教育総監の地位にあり、若い将校などを家に出入りさせて、おだてたりし、林陸相のやることに干渉していたらしい。」

 「林の下には、軍務局長永田鉄山がいて、これがまあ、林を操縦しているんだとも言われていたが、林は部内統制のために、真崎を退けようと画策し、ついに非常手段として、閑院参謀総長宮のご同意を得て真崎をやめさせた。」

 「真崎を辞めさせるという日に、私にも内々知らせがあって、今頃は真崎が怒っているだろうなと、成り行きを心配していたものだが、皇道派の連中は永田の陰謀だと騒ぎ、かねて真崎を崇拝していた相沢が、昭和10年の8月、台湾への転勤の途中、陸軍省へ挨拶に来て、永田軍務局長を切ってしまった。」

 「凶行の後で、省内で雑談していたところを、小坂慶助という憲兵がやってきて、なだめすかして、憲兵隊へ連行したという話だった。」

 相沢中佐は、皇道派の者たちから英雄のように見られ、公判は大変な騒ぎになったと言います。皇道派の動きが剣呑になり、今にも不詳事件が突発しそうな様子だったそうです。

 「具体的なことは、私にはわからない。クーデターのようなことが、起こるかもしらん。私も狙われているだろうと、そのことは覚悟していた。」

  皇道派と統制派について、別途調べましたので整理したいと思います。

 ・ 皇道派とは、陸軍内にかつて存在した派閥。 

 ・ 北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソ連との対決を志向した。

 ・ 名前の由来は、理論的な指導者だった荒木貞夫が、「日本軍を皇軍と呼び、政財界(君側の奸)を排除して、天皇親政による国家改造」を説いたことによる。

 ・ 皇道派が全盛期の時代の犬養内閣時に、荒木が陸軍大臣に就任し主導権を握り、皇道派に反対する者に露骨な人事を行い、中央から退けた。

 ・ この処置が、多くの中堅幕僚層の反発を招き、反皇道派として団結するようになった。

 ・ 皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から、統制派なる派閥の頭領にさせられていた。

 したがって永田軍務局長にすれば、「陸軍には、荒木貞夫と真崎を頭首とする、皇道派があるのみで、統制派という派閥は存在しない」ということになります。最も分かりやすかったのが、岡田元首相の次の区分でした。

 1. 皇道派は、陸大出身者がほとんどいない下士官クラスで占められている。

 2. 非皇道派  ( 統制派 )は、陸大出身の将官クラスで占められている。

 下士官クラスの軍人が、なぜ北一輝の思想に惹かされて行ったかについては、当時の社会情勢を考慮する必要があります。

 世界恐慌の影響で、日本経済が大打撃を受け、農漁村の疲弊と貧困には目を覆うものがありました。貧しい村では、娘たちが悪徳商人に売られていきました。彼女たちは低賃金で働かされる女工となるだけでなく、売春婦にもなりました。政治家と結託した経済界だけが、巨利を得て贅沢をしていました。

 下士官クラスの軍人の多くは、そうした農漁村の出身者でしたから、北一輝の「天皇親政論」に強い共鳴を受けました。「無私の天皇陛下による、万民平等政治」に、彼らは夢と願いを託しました。一方、非皇道派 (統制派) の陸大出身の将官クラスの軍人たちは、裕福な家庭の出身者が多数ですから、北一輝の思想に惑わされません。

 いわば北の思想は、天皇陛下の独裁による共産主義政治ですから、現在の左翼思想がそうであるように、現実と遊離したユートピア思想でした。これについて述べると、著作を離れてしまいますので、元へ戻ります。

 「非皇道派の中堅幕僚層は、永田鉄山や東條英機を中心に纏まり、後には、陸軍中枢部から皇道派が排除されていくこととなる。」「路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対し、皇道派は、若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こし、衰退していくことになる。」

 「天皇親政の強化や財閥規制など、政治への深い不満・関与を旗印に結成され、陸大の出身者がほとんどいなかったのが、皇道派である。これに対し、陸大出身者が主体で、軍内の規律統制を尊重するという者たちが、統制派と呼ばれた。」
 
 岡田元首相の説明を受けた後で、これまでの知識を整理しますと、騒乱の時代が鮮明な映像として理解できました。同じ陸軍内でも、生死をかけた対立があり、更に陸軍と海軍も戦略の違いから争っていました。
 
 現在でも自民党に派閥があり、政治家たちが対立し、更に与党と野党が次元の低い政争をしています。いつの時代になっても、政権をめぐる争いは無くならないと、歴史が教えています。
 
 「もし野党側が大多数を占めるようになったら、総理は潔よく辞めますか、その方が男らしくていいですね、という者もいたが、私の組閣の使命はそんな単純なものではない。岡田啓介という人間が、もみくちゃになるまでやるんだ。」
 
 これが、岡田氏の言葉です。自民党の総理も、こうあってもらいたいと思います。突然話が変わりますが、「憲法改正」は、日本が独立国家となるための不可欠の条件です。自衛隊を軍隊へ変えることも、当然の話です。
 
 反日の政治家や学者たちが、やたら軍の暴走を語りますが、もともと軍はそうした要素を持っており、だからと言って日本だけが「軍備全廃」という話にはなりません。
 
 日本以外の国が公正と信義の国であるはずもなく、他国の軍も信義の軍隊ではありません。平和憲法を守れ、九条を守れとか叫ぶ人々は、歴史も知らず、国際政治も知らず、日本を滅亡させる人間ではないでしょうか。
 
 岡田元首相の書は、様々なことを平成の私たちに教えています。「お花畑の住民」は、相変わらず軍人は嫌だ、戦争は嫌だと、子供のように駄々をこねるのでしょうが、私は明日も続きを書きます。
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岡田啓介回顧録 - 2 ( 陸軍だけが悪者なのか ? )

2017-06-28 16:12:05 | 徒然の記

  張作霖爆殺事件についての叙述は、日本史そのものと言えます。当時の内閣、首相、陸軍、天皇が、どれほど真剣に対応したのか、どうして軍に押し切られたのか、一般庶民の知ることのできない内情が語られています。

 「事件の黒幕は、今では誰でも知っているとおり、」「関東軍の参謀、河本大作大佐だった。」

   「張作霖が日本の多年の恩義を忘れて、反抗的態度をとっているのを怒り、張を除いて、満州の政治を一新しようと考えていたところ、たまたま張が、北京から帰奉するという報があったので、張を葬り、混乱に乗じて意中の人物を擁立し、満州の統治を左右しようと図ったわけだ。」

 「後で分かったことだが、この事件は、河本大佐だけの所業ではなかった。計画を発意したのは、関東軍司令官村岡長太郎中将で、河本は始め反対したが、のち単独で、全責任を負って決行したというわけだ。」

 当時は蒋介石と張作霖が戦争をしており、政府は戦いが満州に波及することを警戒していました。田中首相は、帰奉する張作霖を待ち、彼を相手に満州問題を解決しようとしていた矢先でした。白川陸将も、当初は日本人がやったことをなかなか信じようとせず、自らが密かに知らべやっと納得し、田中首相に報告しました。

 「張の爆殺は、政府に大変な衝撃を与えた。中国の戦乱に対する、政府のそれまでの方図は水の泡になってしまった。」

 当時の元老西園寺公望公も、大変心配し、田中首相を呼んで言い含めたそうです。

 「事件の真相をいくら日本人にだけ隠したところで、舞台は満州であり、満人はもちろん、欧米人にまでこれを秘密にすることは不可能だ。今のうちに、責任者を厳罰に処してしまえば、息子の学良も、親の仇を日本が討ってくれたと納得するだろうし、世界も日本の公正を認めることとなる。」

 「うやむやにすれば、必ず将来に禍根を残すこととなる。どんな反対があっても、実行するように。」

 田中首相はその意を体し、重大事を陛下に奏上するため参内しました。犯人が日本軍人らしいことと、軍法会議に付することを申し上げると、陛下からは「軍紀は特に厳重にするように」という、お言葉があったと書かれています。

  「ところが、陸軍の元帥以下が猛烈に反対する。軍法会議の開催は、とてもできない情勢になってきた。閣内でも、ほとんど反対していた。与党である政友会も、軍法会議の開催に反対していた。」

 「それで田中は、初めの志と違って途方に暮れ、村岡司令官、河本大佐などを、行政処分にすることで解決し、あとはうやむやにしようというものだった。」

 田中首相は先に参内した時、厳重に処罰しますと言った手前、陛下にそのことを報告しなければなりませんでした。参内し拝謁を賜り、上奏文を読み上げていますと、陛下の顔色が変わりました。このあとは、本の叙述を紹介します。

 「この前の言葉と、矛盾するではないか。田中が読み終わるや否や、陛下がおっしゃった。田中は恐れ入って、そのことについては、いろいろご説明申し上げますと、申し上げると、説明は聞く必要がないと奥へお入りになったそうだ。田中はうちしおれて帰ってきて、閣議の席でこのことを話した。」

 「田中は、政友会の連中に励まされて、あくまでご説明申し上げようと、再び参内した。その時の侍従長は鈴木貫太郎だったが、気の毒そうに、お取り次ぎはしますが、おそらく無駄でしようといった。田中は辞職を決意し、内閣総辞職をした。」

 「それ以来田中は、楽しまない日を送っているようだったが、間も無く世を去ってしまった。世間の一部では、自殺したんじゃないかと、噂するものもいたが、そうではない。」「

 「私は葬儀にも出たが、持病の心臓病が悪くなったためだ。こんなわけで陸軍は、張作霖爆殺事件をもみ消してしまったが、真相を知らない者は、そういなかっただろう。」

  田中首相が陛下に詰問され、恐懼して退出したという話は、いろいろな本で書かれていますから大体は分かっていましたが、ここまで具体的には知りませんでした。まして辞職後、間も無く首相が亡くなっていたというのは初耳でした。

 ここには、私の知りたかった戦前の日本があります。陛下と首相の関係が、どんなものであったのか。陛下は、臣下の意見をほとんど取り入れられるが、盲従する愚昧な方で無く、納得のいかない案件にはうなづかれないこと。それも明確な言葉のやり取りで無く、互いに気遣いながら、ことが進められている様子が分かりました。

 西洋諸国の合理主義と異なり、婉曲的なやりとりが中心です。今の言葉で言いますと、「忖度 ( そんたく)」なのでしょうか。

 元老はいつも国政を考え、総理を呼びつける力を持っていました。私の解釈は間違っているのかもしれませんが、戦後の主流となっている「軍部の独走」「陸軍の横暴」という言葉が、果たして正しいのかと、そんな気がしてきました。

 張作霖を爆殺したり、騒乱を自作自演したり、陸軍の謀略には感心しませんが、この時代は日本だけで無く、それ以上のことを諸外国がやっていました。首謀者である村岡司令官と河本大佐の処罰に反対していたのは、陸軍のトップだけでなく、内閣の諸大臣、与党の政友会だったと、氏が説明しています。

 当時の満州は、日本防衛の最前線であり、希望の開拓地でもあり、未開の荒野でもありました。満鉄では、右だけでなく、左翼社会主義者も加わり未来図を描き、日本中が沸き返っていました。

 当時のことを書いた他の本でも、日本人は、無数の大陸浪人を含め、他国の領土であることを忘れ、思い思いの夢を語っていました。反対意見をいう者に対し、刀を抜いて脅したり、ひどい時には斬り殺したり、そんな軍人の横暴さは許せないとしても、なにもかも陸軍だけが悪いと結論づけるのは、正しい見方でないと思えます。

 元老の西園寺公にしましても、第一に考慮したのが諸外国、とりわけ欧米の反応でした。満州統治を目指す日本のやり方が、途方もない暴挙だったら、公は頭から否定したはずです。しかし公が異を唱えたのは、軍部の拙速な手段で、満州の統治そのものではありませんでした。つまり当時の国際情勢には、日本の満州進出を頭から非難・攻撃する風潮がなかったということが伺えます。

 陸軍だけを悪者にし、責任を転化して、過去を済ませようとするのは、敗戦後の日本人の自己保存エゴだと、そう言わずにおれなくなります。軍人だけを悪者にし安心しているようでは、日本人魂がなくなっています。

 戦前と戦後の日本を断絶させたのは、占領軍による七年間の統治です。この占領期間の思想、思考、思潮などを、私たち自らが再検討し、国民の共有認識としなくては、日本の戦後が終わりません。

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またしても、稲田大臣

2017-06-28 13:12:37 | 徒然の記

 誰の選挙応援に行ったのか、詳しく確かめる気にもなりません。応援演説の中で、自民党も、防衛省も自衛隊も、候補者を応援していますと言ったそうです。

 あとで苦情を言われるやら、弁明するやら、文句をつけられるやら、結局は発言の撤回となりました。いつものことですが、内閣の支持率が低くなりだすと、不思議と閣僚の失言が続きます。あるいはマスコミが、故意に探して記事にするからそうなるのか、総理の力を削ぐ風潮が広がります。

 私は安倍総理を支持していますが、女性に関してはあまり評価をしていません。女性が活躍する社会を作ろうと、キャッチフレーズにしている手前、自分の内閣でも女性の大臣を任命しています。女性の大臣だけでなく、大臣には当たり外れがありますから、断定的なことは言えませんが、それにしましても、稲田氏は情けないほどの防衛大臣失格者でした。

 いくらリップサービスだからといって、選挙の応援演説で、防衛省と自衛隊が候補者を応援しているなどと、どうして喋ってしまうのでしょう。政治家の失言を、手ぐすね引いて待っている野党とマスコミがいると知りながら、思いつくまま、迂闊におしゃべりをするこの軽率さ。中国や韓国・北朝鮮との緊張が続いている時だというのに、気のゆるんだ言動しかできないのですから、呆れてしまいます。

 そして相変わらずの、身なりです。防衛大臣でなければ目をつぶりますが、肩までかかる長い髪を垂らしたままでの記者会見は、鬱陶しいだけでなく、だらしなさが漂います。命をかけて国を守る自衛隊員の長として、キリッとする気持ちが何時までたっても見られません。そこいらの若い女の子が、テレビに出てはしゃいでいるみたいに、大きなリボンを腰に結んで恥じない姿に幻滅するのは、果たして私一人でしょうか。

 外見より中身だと、多くの人も言いますし、私もそう思っておりますが、防衛大臣としての稲田氏は、どう贔屓目に見ましても、ノーの反応しか出でまいりません。何時も何時も、何かあるたびに、少し常識の欠けた、勘違いのテレビタレントみたいな大臣に、整列し礼を捧げる隊員の無念さが、見えてならない私です。

 そうなりますと、結局は稲田氏を任命した安倍総理の見識に、疑問符がつくこととなります。反日野党に言われるまでもなく、「総理の任命責任」を問わずにおれません。他人の弱みにつけ込み、難癖をつける、野党の国会質疑を真似たくありませんが、昭恵夫人の問題にしましても、総理の対応は不適切、不十分で、結果として国民の不信感を高めてしまいました。

 野党ばかりでなく、早速、党内反安倍の石破氏が動き出しています。都議選の動向も、気になります。「自分ファースト」の小池氏に、都民がどういう意思表示をするのか。自民と袂を分かった創価学会との関係がどうなっていくのか。国政にも波乱の要因が見えている今、総理にはしっかりとした対応が望まれます。

 「自分には、女性を見る目がない。」・・・。せめてそのくらいの自覚を持って、これからの政権運営に臨んでもらいたいものです。「憲法改正」と「国の安全保障」について、自民党内をしっかりとまとめ、100年の大計で取り組んでもらわなくては、日本の独立が遠のきます。数に慢心せず、謙虚に、辛抱強く、頑張ってもらわないと、国民の信は離れます。

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岡田啓介回顧録 ( 岡田元首相の見た、戦後日本 )

2017-06-27 19:03:32 | 徒然の記

 岡田啓介氏著『岡田啓介回顧録』( 昭和25年刊 毎日新聞社 )を、読んでいます。著者は元海軍大将、元首相の岡田氏で、氏の晩年の口述を本にしたものです。

 氏は慶応4年に生まれ、昭和27年に84才で亡くなっています。田中義一内閣で海軍大臣をつとめたのち、次の斎藤内閣で再び海軍大臣となり、その斎藤内閣が瓦解したため、大命降下により総理大臣となりました。

 世間を揺るがした二・二六事件の時の総理で、青年将校による首相官邸襲撃の難を逃れたという話の方が、私の記憶に残っています。

  堅苦しく、真面目一方の人物と思っていたので、語り口の軽妙さが意外でした。福沢諭吉の『福翁自伝』や、勝海舟の『氷川清話』の軽妙さを思い出しました。前回の本もこの『回顧録』も、図書館でもらった本ですが、有意義な本に続けて出会えるなど、人生には時々良いことがあります。

  67年前の本なので、小さな活字で印刷され、表紙がすっかり日焼けして変色し、背表紙の題名がかすれています。ページの四隅が茶色に変わり、丁寧にめくらないと、破れてしまいます。持ち歩いて読んでいましたら、表紙の糊代が外れ、中身がそっくり取れてしまいました。

 有意義な書とはいえ、ここまで古びてしまいますと、読み終える時はどうなるのか心配になります。( 298ページの本の120ページまで読みました。丁寧に、丁寧に、読んでいます。)

  紹介すると切りがないのですが、どんな内容なのか、さわりの部分を4つ転記します。

 〈 1.  当時の軍艦事情  〉

 「当時の金剛、比叡は、英国で作った最新式軍艦だったが、2千2百トン、半鋼鉄艦で、竜骨は鉄、舷にも1 インチの鉄板が張ってあるが、他の部分は木だった。主砲は17サンチ砲2門、速力13ノット、いざという場合は石炭を炊いて走るのだが、いつもは帆走する。」

 「それ以前の日本には、扶桑が一隻しかなかった。3千7百トンで、主砲は24サンチで、唯一の鋼鉄艦だった。英国から金剛・比叡がきて、やっと軍艦らしい軍艦が、3隻揃うという状態だった。」

 「日清戦役の前清国の北洋艦隊が、日本に示威を行う意図で、3千3百25トンの定遠、鎮遠などが訪問してきた時、日本国民はその威容に恐れをなしたものだった。」

 中国は日清戦争以前から、軍備で日本を威圧していたのだと、これで分かります。早稲田大学教授の小林英夫氏が、『日本軍政下のアジア』という著書で書いていたことが、嘘だったことも分かりました。反日左翼の氏は、次のように説明てしていました。

   「日清・日露戦争、第一次世界大戦と、ことあるごとに日本は、東アジアで領土拡張を試み、植民地領有を目指したが、いずれも作戦は短期間のうちに、勝利をもって終わりを告げた。地方政権や、弱小政権を相手にした小規模な戦争だったから、これでこと足りたのである。」

 反日学者らしい、偽りの叙述です。領土拡張を目指すどころか、当時の日本こそが弱小国家で、巨大な中国の軍事力に脅されていたのです。何も知らない学生を騙す左翼教授の罪深さを、私たちは頭に刻まなくてなりません。

 次は面白い、バナナの話です。

 〈  2.   バナナ士官に、洗濯水兵  〉

 「さて、金剛、比叡は・明治22年8月横須賀港を出発して、練習航海に乗り出した。」「34、5日走って、ハワイのオワフ島に入港した。在留邦人が多勢で迎えにきて、持ってきてくれたのはバナナだった。初めて見る果物で、誰も聞いたことがなかった。」

 「みんなが食べてみて、これは変な匂いがするというので、半分は捨ててしまう始末なので、居留民がその香りがいいのですよ、まあ、二三日してごらんなさい、きっと好き二なりますから、という。」

 「なるほど2、3日すると、みんなうまい、うまいと言うようになり、上陸すると、士官たちはバナナで夢中になる。」

 「水兵は洗濯物がたまっているものだから、領事館のうしろの清流に並んで洗濯をする。ハワイの新聞には、〈バナナ士官に、洗濯水兵〉という記事が出た。」

 バナナの話も面白いのですが、水兵が洗濯物を領事館の裏の川で洗濯するなど、現在では想像もできないのどかな風景です。次も、呑気な時代の話です。

 〈  3.  軍艦旗条例の話  〉

 「さて横浜に近づいてみると、日本の軍艦がへんな旗を掲げている。われわれは日の丸を掲げているのに、ここではアメリカの国旗のようなものを掲げている。だんだん調べてみると、練習航海中に、海軍旗章条例というものが発布されて、軍艦旗ができていた。」

 今なら情報が瞬時に伝えられるのですが、通信手段の限られていた昔は、こんな状況だったのです。おそらくこれが、隣の韓国・朝鮮が親の仇のように嫌悪する、旭日旗のことでしょうか。のんびりした話がある反面で、次のような緊張する話もあります。

 〈  4.  日清戦争中の話  〉

 「その戦争の最中、英国機を掲げた汽船がやってきた。よく見ると、どうも清国兵が乗っているらしい。そこで東郷艦長は、停止、投錨を命じ、臨検士官を送って船内を調べさせると、多数の清国兵と兵器弾薬があるので、捕獲することに決め、浪速の後について来いと、命令した。」

 「ところが乗っている清国将校が、船長を脅して命令を聞かせない。そこで東郷艦長は、船長その他の第三国人だけ浪速に収容し、汽船を撃沈しようとした。」

 「清国将校が、船長以下が浪速に移ることを許さず、太沽へ引き返せと強要するため、とうとう浪速は、水雷と大砲を放って汽船を沈め、船長と船員を艦内に収容した。」

 「このことが内地に伝わると、みんなびっくりした。イギリスの船を沈めてしまったのだから、驚くのも無理はない。」「伊藤首相などは、卓を叩いて、西郷海軍大臣を難詰したそうだ。」

 「西郷さんは、東郷がでたらめなことをやるはずがないと、すましていたそうだが、朝野をあげて、海軍がとんでもないことをしてくれたという空気だった」

 ところが、当時世界一流の国際法の権威だった、イギリスの何とかいう学者が「東郷艦長の取った処置は正しい」と言ったので、非難がピタリと止んでしまったそうです。昔も今も、日本人の西欧崇拝が変わらないことを教えられます。しかし私は、これに続く氏の言葉に注目しました。

 「敗戦後の今日、わが国は、主張して良さそうなことも全然主張せず、いじけているが、少し国際法を研究して、敗戦国にも権利があることを調べてみたら良いと思う。」

 敗戦後と言っているのは、大東亜戦争での敗北を差しています。GHQに統治され、言われるがままだった当時の日本を、岡田元首相がどんな目で見ていたのかが分かります。

 現在の日本には、軍備を増強し核も持ち、敵対国を叩き潰してしまえと、威勢の良い保守がいます。すぐにでも国交を断絶しろと、勇ましい言葉に酔っている保守もいます。

 しかし氏が語っているのは、短慮の勧めでなく、もっと国際法を研究し、敗戦国の権利を調べなさいということです。卑屈なままでいるのでなく、よく研究した上で、東郷艦長のように自信を持って対応しなさいと述べています。

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元号問題 - 2

2017-06-25 17:06:57 | 徒然の記

 本日は、のっけから、上地氏の著作の引用で始めます。

 「元号は、天皇の全国統一支配を表すという説もあるが、ただそれだけはでなく、」「暦を定め、年に元号を付して、」「国民に時を報じる、重要な意義を持っていた。」「平安中期以降は、天皇親政がなくなり、」「政治的支配の事実もないが、元号は、国民的統合の象徴として、」「朝廷による改元が行われたきた。」

 「元号は、中国の模倣という説もあるが、起源は中国であったとしても、」「日本独自の制度となって、1300年も経てば、」「もはや日本の古い伝統といってよい文化であろう。」

 私は氏の叙述を読み、元号の背景を納得しましたが、元号廃止を唱える左翼系の人間は、こうした説明にうなづくはずがありません。しかし、中国を崇拝する反日の彼らは、現在この国で、元号がどうなっているかを知っているのでしょうか。( 浅学な私は知る由もなく、氏の説明で初めて実情を理解しましたが・・・。)

 「大正元年に起こった辛亥革命で、宣統帝がほろぼされ、」「4000年に及んだ専制君主制に、終止符が打たれた。」「元号も、宣統四年を最後として廃止された。」「革命直後、国民党政府による中華民国が始まり、」「民国元年という、紀年法が採用された。」「しかしこの方式は、現在台湾だけでしか使用されておらず、」「共産党政権の支配する中国では、もっぱら西暦年号が使用されている。」

 赤い中国で元号が消滅している一方で、日本では1300年も続いているのですから、これはすでに模倣というより、日本独自の文化と言える気がいたします。

 朝廷の統治が、武家に取って代わられた室町中期以降でも、改元が行われてきた事実を知れば、天皇の支配を表すといって反対する、左翼系の学者や政治家の言動にも、疑問符がついてきます。国民が無知であるのを良いことに、こうした人々は色々な理屈をひねり出します。

 「元号など使っていては、国際社会で笑い者になる。」とか「取り残される。」とか、大騒ぎします。これについては、氏が世界各国の実情を詳しく語っていますので、左翼学者や政治家のバカぶりを証明するため、面倒ですが、抜粋します。

 1. 西暦だけを使用する国 

   アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、中国やソ連などの共産圏国

 2. 回教歴と西暦を併用する国

   エジプト、アラブ首長国連邦、アルジェリア、イラク等、中東8カ国

 3. 仏暦と西暦を併用する国

   スリランカ、ラオス

 4. ユダヤ歴と西暦を併用する国

   イスラエル

  煩雑なので省略しますが、このほかに建国年、独立年、王の即位年などを紀年法とする国などが沢山あります。イギリスでは、「エリザベス二世統治28年」という統治歴と、西暦を併用していますし、アメリカでは、独立宣言から数えた「建国204年」という建国年を、西暦と併用しています。元号と西暦を併用している日本の、どこが国際社会で笑い者になると言うのでしょう。

 このような嘘を平気でつく学者や政治家たちの方が、よほど国際社会での笑い者ではないでしょうか。

 昭和21年の閣議で、政府が法案の国会提出を決定し、GHQのケーディス大佐に反対されて断念しました。昭和25年に、再び元号問題が国会で提起されて以来、昭和54年に法律が成立するまで、どれだけの総理大臣が関連したことでしょう。本には述べられていませんが、参考のため調べてみました。

 吉田茂、片山哲、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳と、この間に12名の総理大臣が代わりました。費やした歳月は、33年です。

 何のために、このようなことをするかと言いますと、今後の「憲法改正」を考えるためです。元号法は、国会決議以来33年を要し、12名の総理がかかわっています。元号法がこの有様ですから、まだ国会決議すらされていない「憲法改正」が、どれだけ困難な課題であるかが分かります。安倍氏の代で出来るなど、私には考えられなくなりました。

 元号法が成立するまで、総理大臣の中には、反対する総理や、乗り気でない総理もいましたので、「憲法改正」では尚更のことでしょう。国論を二分する難題ですから、あと100年くらいかかると覚悟する方が、妥当かもしれません。党内にはびこる獅子身中の虫と、反日・亡国の野党を相手に、妥協を重ねるしかない安倍総理にばかり期待せず、最初から、100年かかると覚悟する方が賢明だという気がしてきました。

 さて、最後に、上地氏が記録してくれた、元号法に反対した人間たちの名前を、順不同に転記します。これこそが、昨日の続きをブログにした私の目的です。以前ブログでひとまとめにした、「変節した学者たち」に登場した人物の名前が、出てきます。彼らが敗戦後の日本で、どれだけ獅子身中の虫として活躍したか、害虫としての役割を果たしてきたか、シッカリとその名前を記録しておきたいと思います。

 安倍能成(学習院大学長)   古垣鉄朗(NHK会長)   亀山直人(日本学術会議会長)

 宮沢俊義(東大教授)      山本有三(参議院議員)  田中耕太郎(最高裁判所長官)

 下平正一(社会党議員)     野田哲(社会党議員)   渡部一郎(公明党副書記長)

 家永三郎(東京教育大教授)   高橋幸八郎(日本学術会議副会長)

 和歌森太郎(都留文化大学長)  桑原武雄(京大名誉教授)  井上清(京大教授)

 尾藤政英(東大教授)      鈴木武樹(明大教授)

 まだありますが、面倒になってきましたので省略します。次は、当時のマスコミが、どのような反応をしたのか。氏の説明から引用します、

 「昭和51年の1月1日、朝日新聞の年数表示が、なんの前触れもなく変更された。」「それまでは、元号が主で、西暦が従の表示、」「つまり、昭和50年(1975年)12月31日が、西暦上位の、1975年(昭和50年)12月31日に切り替えられたのである。」「ほかの、毎日、サンケイ、読売などの全国紙は、元号上位の方式だった。」

 氏の説明を読みますと、かってクオリティーペーパーと呼ばれ、今は再生トイレットペーパー用の紙、と成り果てた朝日が、すでに当時から反日・売国の筆頭ゴミ新聞だったことが分かります。

  ここまできますと、昨日の続きを書いた目的のほとんどを達成しました。残るのは、我が息子と孫には勿論のこと、ブログを訪問して下さる方に、何としても伝えたい一つの事実だけです。本書の92ページの叙述を、割愛せずに転記いたします。

 「国会における元号論議は、昭和25年の参議院文部委員会のあと、」「約10年間中断したが、その後34年、41年、」「43年、50年と、細切れの形で、政府と与野党間の質疑応答が繰り返された。」「この国会論議の中で注目されるのは、昭和43年以来、」「一貫して元号論議を展開してきた、民社党の受田新吉議員(山口)の存在である。」

 「氏は、元号存続の立場から、消極的な政府の対応を追求し、およそ20年間にわたって、元号の法制化を目差してきた。」

 つまり、元号の法制化に貢献したのは、自民党の議員でなく、健全野党の民社党の代議士だったということです。名前が似ていますので、社民党と間違えて欲しくないから、くどくても説明しておきます。

 社民党は、消滅してしまった社会党の成れの果てで、吉田党首さえ落選するような反日の政党です。在日の噂がつきまとい、日本憎悪の過激派支援で有名な、福島瑞穂氏の在籍するクズ野党です。

 民社党は、左に偏りすぎた社会党から、西尾末広氏を党首として独立した政党で、春日一幸という名物党首もいましたが、現在どうなってしまったのか、私は知りません。しかし、著者からここまで説明されますと、己の無知を恥じいってしまいます。先人の苦労を教えられた今、元号がおろそかにできなくなった私です。西暦でも元号でも、どっちでも構わないと、そんなことは二度と口にしません。

 やはり最後には、いつものように、著者への感謝です。本日は、筆者の上地龍典氏だけでなく、民社党の受田新吉議員に対しても、心からの感謝を捧げます。

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元号問題

2017-06-24 22:23:53 | 徒然の記

 上地龍典(うえじ たつのり)氏著「元号問題」(昭和54年刊 教育社)を読み終えました。

 今から38年前、昭和天皇がご存命の時の本です。明治、大正、昭和と、自分が何気なく使っている元号についての解説書でした。

 氏の本に巡り会い、「知ることの大切さ」を改めて教えられ、無知な自分を再確認いたしました。「西暦でも、元号でも、どっちだっていいではないか。」「年代を計算するのが簡単だから、西暦の方が便利だ。」

  4、5年前まで、私はそんな考えの持ち主でした。これが、どれほど大きな間違いだったかを、本が教えてくれました。

 女性宮家や女系天皇について、「男女同権の時代だから、男系にこだわることないじゃないか。」という人に対し、天皇の歴史を知る私は、強く反対しています。

 「天皇陛下なんて、自分たちには何の関係もない。」「どうなろうと、興味もない。」こんなことを言う者に対して、私は怒りを覚えるだけでなく、軽蔑さえしました。

 しかし本を読み終え、元号に関する自分の無知が明らかになると、皇室に無関心な人々を笑えなくなりました。何であれ正しい知識を持てば、「どうでもいい。」という意見は出て来ないのだと、学生時代に戻ったような反省をしました。

 著者の上地氏は、昭和7年の生まれですから、存命なら現在87才のはずです。それほど著名人でないのか、ネットの情報では検索できませんでした。裏扉にある著者略歴だけが、氏を知る手がかりでしたので、そのまま転記します。

 「関西大学文学部を中退し、業界紙、週刊誌、一般紙記者を経て、」「昭和32年日本写真通信社の主幹となる。」「現在、自民党本部の広報委員会参事。」

 昭和25年に、元号問題が国会で提起されて以来、昭和54年に、正式に法として制定されるまでの間、法制化推進派と元号廃止派の人々が激しい対立をしていたことを、初めて知りました。現在の私たちが、憲法改正派と改正反対派に分かれ、対立している構図と全く同じだったのです。

 昭和54年といえば、私がまだ若く、会社で元気に働いていた頃です。それなのに、元号問題の対立について、何も覚えていないのですから、「無知」からくる「無関心」の恐ろしさを実感します。当時の状況を、氏が次のように語っています。

 「戦後、皇室典範から、元号の定めが除外されたため、」「元号の法的根拠が失われ、現在の " 昭和"は、慣習として使用されているに過ぎなくなった。 」

 「もしこのまま、今上陛下が亡くなられた場合、後の元号を定める手立てがなく、」「元号は自然に消滅してしまうばかりか、」「国民生活に混乱を招くことは、必定であった。」「このため、昭和後の元号制定をどうするかが、国会でもたびたび論議されてきた。」

 昭和20年に、最高司令官マッカーサーが、政府に憲法改正を命じたことは、誰もが知っています。この時改定された皇室典範は、皇族の身分に関することだけに絞られ、国事的な事項は、他の法制によって規定するという方針がとられました。ここで再び、氏の説明を引用します。

 「皇室典範の元号規定は、国事的事項とみなされ削除された。」「このため政府は、昭和21年11月の閣議で、法案の国会提出を決定した。」「法案の了承をGHQに求めたところ、ケーディスという大佐が、」「法案は天皇の権威を認めることになるので、好ましくない。」「元号法を制定したければ、独立後にすればよいと言った。」

 この経過は、昭和47年になり、自民党の元号検討小委員会で、当時の内閣法制局長官だった佐藤氏が、初めて明らかにしました。

 「占領軍が、少しでも反対の意向を示せば、引き下がるほかなかった、当時の事情から、」「法案は、結局日の目を見ることがなかった。」と、叙述されています。

  さてここで、元号法成立の過去をたどる前に、元号そのものについて、著者の説明を聞きましょう。ぼんやりと知っていた話を、正確な事実として記憶するためです。

 「元号の起源は、古代中国・前漢の武帝が建てた、建元 元年( 紀元前140年 )にさかのぼるが、」「わが国では、孝徳天皇の 大化元年 (645年)が、最初と言われる。」

 「元号だけでなく、日本という国号も、この時に定められている。」「大化年代は、わが国に律令が制定され、」「中央集権による、法治国家の基盤が確立した時、として知られている。」「以来幾たびか変遷を重ねながら、元号は引き継がれ、」「明治の改元で、一世一元の制度が確立された。」

 別の本で読みましたが、わが国にとって、大化時代といいますのは、明治時代に匹敵する歴史の転換がなされた、重要な年代です。統一国家が成立し、法治国家の基盤が作られ、天皇制が確立していきます。誰もが知っている古事記や日本書記という、日本最初の本格的な歴史書の編纂も、この時代があればこそ可能になったと、私は密かに考えています。

 参考までに年代を、順番に並べてみますと、それがよく分かります。

  大化元年 645年   古事記編纂 712年   日本書記編纂 720年

 初めて元号を定めた孝徳天皇は、万感胸に迫る思いだったのではないか、と推察します。今は日本を敵視し、攻撃することしかしない中国も、当時は寛大な師として日本を扱い、互いに尊敬していた良き時代でもありました。

 大化、明治の後、わが国の歴史を転換させた年代は、言うまでもなく昭和です。もっと正確に言いますと、昭和の敗戦です。たった70年前の敗戦と、たった7年間のGHQ統治で、2000年の歴史を持つ日本が、過去の全てを否定したというのですから、昭和と平成に生きている私たちは、もっとしっかりしなくてはなりますまい。

 200ページ余りの薄い本ですし、元号のブログですから、簡単に終わると思っていましたが、どっこいそうはいきませんでした。ここで終わりますと、著者が語ろうとしている肝心の部分が、言及されないままとなります。それでは著者だけでなく、私も残念なので、残りを明日に引き継ぐことといたします。

 次を期待する人は誰もいないのですが、実は、私自身が期待し、元号の夢を見ながら眠りにつきたいという、小さな夢を抱いているのです。年を取りましても、夢を持つというのは大事なことです。

 たとえそれが、元号の夢を見たいという、おかしな夢でありましても・・・。

 

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加計学園問題での隠れた勝利者

2017-06-21 20:16:58 | 徒然の記

 森友学園における、昭恵夫人の問題も含め、安倍総理の弱点が国民の前に明らかにされました。一強と言われる現在の自民党は、何と言っても安倍氏の功績ですから、これを好機と野党が懸命に打倒を目論む気持ちが分かります。

 加計学園の文書問題につきましては、「申し訳なかった」と総理が陳謝し、マスコミの報道では野党の勝利のような書きぶりですが、私は別の思いで見ています。

 マスコミが報道せず、政府自民党も口にしないため、相変わらず私たちは、この背景にある事実に気づくことができません。重大な、権威のある文書であるかのように、民進党の福山議員が、国会で総理を追求していましたが、問題はそんなところにはありません。

 存在していないと言っていた文書が、野党の執拗な追求で二回目の調査をし、A4で8枚のメモが発見されたと文科大臣が発表しました。前回までの調査は、公式文書ファイルの再確認と、関係する官僚へのヒヤリングが中心でした。

 ところが今回は、関係する役人個人のパソコンを覗き、個人フォルダーから見つけ出したのです。いわば、警察がする家宅捜索のようなものです。知りませんと答えていた役人たちの個人ファイルを、力づくで調べるなどということは、おそらく前代未聞の行為です。明治以来、政治家との間に官僚組織という厚い壁があり、政治家は決して中に踏み込めませんでした。

 二度目の調査で明らかにされたのは、前川前次官へ個人のパソコンを通じて、問題の文書を流していた役人の名前に行き着いたということです。課長補佐の牧野美穂氏(33才)は、前川氏から、加計問題の情報提供を言い含められ、内閣府に出向した文部科学省の役人です。

  山本内閣府特命担当大臣の国会答弁によりますと、牧野氏は、周りの者から隠れるようにして、前川氏にメールで「ご注進」していたとまで暴露されています。

この時点で、在日朝鮮人から帰化した民進党の福山議員、本名陳哲郎氏の追求がすべて無意味なものとなってしまいました。氏がもったいぶって引用していたのは、牧野氏が前川氏へ個人メールとして発送したメモに過ぎず、まして安倍総理を攻撃する材料とはなり得ない、ただの紙切れと判明したからです。

 私が言いたいのは、歴代の政治家が決して持てなかった、官僚の個人データを検査する権限を、今回の事件をキッカケに、官邸が手に入れたという事実です。今後はこれが前例となり、政治家が、官僚の個人データに介入することが可能となりましょう。

 安倍総理による官僚への睨みは、今以上に利くようになります。マスコミが故意に報道せず、国民にとっても関心のない出来事ですが、これは画期的な変革です。前川元次官という愚かな官僚が、民進党にそそのかされたのか、逆に民進党を利用しようとしたのか、そこのところは分かりませんが、安倍総理の言葉を借りて言いますと、明治以来の官僚組織という岩盤に、穴を開けさせたのです。

 官僚は握った情報を時々マスコミにリークし、気に入らない政治家を攻撃させ、政治の舞台から消してきました。実力者であっても、マスコミと組んだ官僚に睨まれると、手も足も出なくなりました。外務大臣だった田中真紀子氏ですら、外務次官の人事に手がつけられず、反対に辞任させられました。省庁のトップにいるはずの大臣なのに、配下の官僚の人事権すらなかったのです。

 目立たない立法と改正を積み上げ、現在の総理は、官僚トップの人事権を持つようになっていますし、加えて、官僚の個人データを調査する力も持つようになりました。テロ等準備罪を罰する法律も成立しましたし、官僚を攻める道具を、官邸が沢山手に入れました。安倍氏は、よほどのことがない限り、政権の座から下ろされる心配がなくなりました。

 憲法改正という一点でのみ、安倍総理を支持している私にしますと、あまり喜べない結果です。残っていますのは、経済成長のための大量移民の受け入れ、経済活性化のためのカジノ法の成立、グローバル経済推進のためのTPPなど、日本を解体させるような政策ばかりです。

 今はもうマスコミが騒がなくなりましたが、巨大な農協の解体も、安倍総理の下で進められました。農業の法人化が可能となり、もしかすると外国企業の参加も是となるのかもしれません。効率的で、利益の出る農業へ転換すると、表向きの理由は立派ですが、これなど、私には郵政改革を叫んだ小泉氏の姿を思い出させます。知識がないため黙るしかありませんが、大山鳴動してネズミ一匹だった、郵政改革の二の舞でないかと、そんな不安が消えません。

 安倍氏がずっと一強でいることが、果たして日本のためになるかにつき、疑問を抱いているというのが正直なところです。結局は、反対するしか能のない、反日の民進党と共産党が、安倍政権の強化に力を尽くしているという話でしかありません。すなわち、「加計学園問題での隠れた勝利者」は安倍総理だったのです。

 先日民進党を離党した長島議員の動画を見て、こんな議員がいるから、安倍自民党の一強が続くのだと理解しました。長島氏を保守系の政治家だと思っていましたが、単なる策士でしかありませんでした。氏は蓮舫氏を弁護し、辻元氏を優れた政治家だと賞め、山尾議員を有能だと評価します。「自民党が右に偏り、共産党と民進党が左に寄ってしまい、中道の部分に大きな穴が空いている。」「国民が望んでいるのは、対案を持つ中道政党なのだから、そこを狙って私は離党した。」

 氏は、大きな誤解をしています。国民は、政府に反対する野党を嫌っているのではありません。反政府、反安倍内閣ということと、反日は違うのだということを、長島氏は勿論のこと、野党議員は気がつかなくてなりません。日本を愛し、日本を大切にする野党なら、いくら反政府の主張をしても、安倍総理に反対しても、頭から拒絶するはずがありません。

 これ以上言うと、ブログの本題を外れ、ダラダラと長くなるので止めますが、目を覚まさなくてならないのは、選挙の一票を持つ国民ばかりでなく、利敵行為しかできない反日の野党議員も、同じでしょう。共産党、民進党、自由党、社民党と、こんなクズ政党ばかりの政界である限り、残念ながら安倍政権は安泰です。隣の中国や韓国・北朝鮮に比較すれば、悪い国ではありませんが、本当にこのままで良いのかと、静かに思考する今夜です。

 

[ お詫びと訂正  ]

  福山氏の国籍について、私の見たネットでは、福山氏が在日3世で、一世は中国福建省の出身とありましたため、在日中国人と書きました。

 指摘される方があり、再度確認しましたところ、私がみたネットの情報よりも、朝鮮籍だとする情報の方が多数ですので、訂正させていただきます。ご指摘を有難うございました。
 

 

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日本軍政下のアジア

2017-06-21 01:22:42 | 徒然の記

 小林英夫氏著「日本軍政下のアジア」(平成5年刊 岩波新書)を、読み終えました。著者は昭和18年生まれで、現在74才、私より一つ年上です。早稲田大学名誉教授で、専門はアジア経済論、植民地経済史という話です。

  長年戦前における帝国日本のアジア支配の研究に力を注ぎ、近年は満州国、満鉄に関する著作が多い。・・・以上いつものように、ネットで調べた情報です。表題からしますと、私が求めてやまない「戦前の日本の実態」が書かれた本です。

 200ページありますが、24ページまで読んだところで、失望致しました。理由はすぐに分かりますので、氏の叙述をそのまま転記します。

「日清・日露戦争、第一次世界大戦と、ことあるごとに、」「日本は、東アジアで領土拡張を試み、」「植民地領有を目指したが、いずれも作戦は短期間のうちに、勝利をもって終わりを告げた。」

「英米といった超大国の了解をとりつけ、地方政権もしくは、弱小政権を相手に行った小規模な戦争だったから、」「これでこと足りたのである。」「だが昭和6年の満州事変に始まり、以後全面化する日中戦争においては、」「英米とは対抗する関係であり、相手としたのは、」「中国統一を推し進めていた国民党政権であった。」「持久戦は不可避であった。」

 多少とも歴史を知る人間なら、「この人は、果たして大学教授なのだろうか。」と、首をかしげるはずです。日清・日露戦争が、地方政権もしくは弱小政権相手で、小規模な戦争だったから勝てたという意見は、どこから出てくるのでしょう。清国やロシアが、弱小政権だったと、当時の常識はそんなものではなかったはずです。むしろ弱小国家だったのは日本の方で、いずれの戦争も、日本が仕掛けたのでなく、国の安全のため、止む無く始めたものです。どちらの戦争も、国運をかけた戦いで、明治の指導者たちは、背水の陣で臨んでいます。

 この頃から日本が領土拡張の野心を燃やし、植民地獲得に走っていたと、こんな説明は、まるで朝日新聞の捏造記事と同じトーンです。そしてやはり、左翼学者らしい日本攻撃が始まります。「日本は、東アジアの諸国に戦後賠償はしたが、」「それは、国に対する賠償であり、犠牲者だった個人にはなされていない。」

「半世紀経ったとはいえ、戦争の傷跡は、アジアの人々の心や体に刻みつけられている。」「ここで何がなされたのかを調査し、原因を究明し、」「被害者に対し、誠意をもって補償することは、」「来たるべき二十一世紀の日本と、アジアの友好関係を築きあげる上で、」「不可欠の前提であろう。」・・・と、こういう意見です。

 戦争した相手国の個人一人一人を尋ね、賠償した国が、人類の歴史上にあったのでしょうか。私は著者と同じ歳月を生きていますが、国際法を外れた、こんな意見を主張する国や人間がいたなど、聞いたことがありません。こうして氏は、フイリッピン、インドネシア、シンガポールを訪ね、被害者と思しき人物の話を聞き、いかに日本軍が残虐なことをしたかという話をまとめます。

 読んでいると、私は過去に同様の本を手にしたことを思い出しました。在日朝鮮人崔泰英、日本名本多勝一の「南京の旅」です。彼は反日・亡国の朝日新聞の記者で、昭和47年に捏造の日本軍残虐説を本にしました。国内で反日の「お花畑」を広げただけでなく、外国に向かっても、日本軍暴虐説の大嘘を拡散しました。

 小林氏も、同様に、一方的に語ります。今でもこんな団体が存在しているのか、私は知りませんが、フィリッピン女性従軍慰安婦調査研究班というものがあって、氏はこの組織にいる女性の案内で被害者にインタビューします。

「案内した彼女によれば、従軍慰安婦にされたフイリッピン女性が100人、」「レイプされた経験を持つ女性39人が名乗り出たという。」「ゲリラ討伐に来た日本軍が、トラック5台で村に来て、」「女性を拉致し、抵抗した親を殺した。」

 話がどこまで事実なのか、私には分かりませんが、氏の本が出版された、平成5年当時の日本について、考えてみました。平成4年の1月に、朝日が朝刊1面トップで、「慰安所の軍関与を示す資料」が見つかったと報じました。そのわずか2日後に加藤紘一官房長官が記者会見で、十分な調査もしないまま軍の関与を認め、韓国に謝罪しました。

 韓国では当時、「職業的詐話師」とされる自称・元山口県労務報告下関支部動員部長、吉田清治による「強制的な慰安婦狩り」発言により、反日世論が強まっていました。加藤官房長官の正式謝罪から3日後の16日に、宮沢首相が初の外遊先として韓国を訪問しましたが、これに関し、盧泰愚大統領に何度も謝罪することとなりました。

 現在は慰安婦問題の捏造が日本中に知れ渡り、朝日新聞の社長が国民に謝罪し、辞任していますから、こんな嘘を信じる人間はほとんどいません。しかし小林氏がこの本を出した頃なら、多くの者が、フィリピンの慰安婦についても疑わなかったかもしれません。

 存命の氏は、平成29年の今でも、この本の叙述を、間違いなしと信じているのでしょうか。歴史学者としての良心があるのなら、ぜひ現在の心境を語ってもらいたいものです。こうしてみますと、朝日新聞がどれほど日本を貶め、日本のご先祖を辱め、日本人の心を傷つけてきたかが改めて実感させられます。

 捏造の慰安婦を記事にしたのは、朝日新聞の植田記者、南京の捏造本を出したのは、朝日新聞の本多(本名崔泰英)記者です。これに関係しているその他の反日・売国の日本人も、明確になっています。いちいち列挙しますと、スペースが無くなってしまいますので、今はこのブログに関係する人間だけに絞ります。

 慰安婦に軍が関与していた書類が発見されたと、これまた大嘘を発表し、宮沢総理を平謝りさせたのは、中央大学教授の吉見義明氏です。平気で嘘をつく教授として並べますと、吉見氏も、小林氏も、五十歩百歩の違いしかない反日教授だということが分かります。 それにもまして、こんなクズとしか言いようのない人間と協力し、日本をかき回した朝日新聞は、まぎれもないクズ新聞です。

 実を言いますと、小林氏の本の主題は、日本軍が発行した軍票がいかにアジア諸国の経済を狂わせたか、というところにあります。200ページの80%は、この問題に費やされています。本来なら、本についての感想も、軍票と経済であるはずでしたが、小林氏の戯言が過ぎましたので、そっちの方に重心が移ってしまいました。

 しかし私はもう、これ以上氏の著作について述べるのをやめようと思います。前提からして偏っている氏の意見を、真面目に取り上げる気が無くなっても、当然でないかと思うからです。とうとう今夜も、夜の1時を過ぎました。狂った教授の本を読んでいますと、私の日常までが狂います。健全な暮らしができなくなりますので、今夜はここで終わり、ベッドに入ります。

 

 (こんないい加減な本を出版するとは、岩波書店も落ちぶれたもんだ。朝日新聞と、変わらなくなった。そのうち、倒産しなければいいが・・・・。) ベッドの中での独り言です。

 

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後藤田正晴 - 4 ( )

2017-06-18 23:36:19 | 徒然の記

 今日は、昨日の続きである、2. 米国への「武器技術の供与」の問題について述べます。本の記述を紹介します。

 「これは三木内閣以来の懸案で、米国の言い分は、日本への武器供与により米国の技術が一方的で不利になっており、日本からは、新しい技術の還流がないという、不満だった。」

 「日本はアメリカの要請に対し、前向きに検討すると言いながら、武器輸出の規制があり、三木内閣以来、通産省、外務省、内閣法制局、防衛省の意見が一致せず、宙ぶらりんの状態になっていた。」

 「今は軍用技術と、汎用技術との差がほとんど無くなっている。日本では普通の技術でも、米国へ渡れば軍用になるものもあるため、政府見解の実体が曖昧になっていた。」

 「後藤田の考えは、日本の大臣が約束したことは守らなければないない。放置したままでは、首相の訪米もできない。あまり消極的にやっていると、日本の技術の発展が遅れてしまうでないか。日米安保の枠内でやるのなら、技術供与もいいのではないかというものだった。」

 後藤田氏は周囲の閣僚を説得し、強権発動に近い形で、後ろ向きな各省を動かしました。おかげで中曽根総理の米国訪問が可能となり、レーガン大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う関係になったのだといいます。確かに対立する省庁の調整は、強力なリーダーシップを持つ後藤田氏にしかできないもので、氏の評価を一段と高めました。

 3. 番目の靖国参拝についての対応ですが、これも本から紹介します。

 「中曽根は、昭和59年1月5日に、戦後の首相として初めて靖国神社に新年の参拝をした。60年の8月15日には、首相として、初めての公式参拝をした。これに対して、近隣諸国から、様々な形で攻撃を受けた。特に中国と韓国の反発は強かった。」

 結局、後藤田氏の官房長官時代に、公式参拝が中止となりました。

 「今も日本人の心の戦後は終わっていない、というのが後藤田の実感であった。」「偏狭なナショナリズムと、自虐にも似た公式的な加害者史観、この二つの間にある歴史的中庸を保つ姿勢が、求められているというように解釈した。」

 保坂氏の説明を、「ねこ庭」を訪れる方々はどのように受け止められるのか。そのまま紹介します。

 「近隣諸国に反発があるというのは、公式参拝はまだ時期が早いのだろうという気もする。まだ傷を受けた人や、生存中の人々がいることを、思いやらなければならないだろう。」

 「後藤田の言葉の端々には、明治人の過ちが大正人に犠牲を強い、生き残った大正人がその荒廃を救い、過ちに対する反省の念を、昭和につないでいくという、使命感のようなものが感じられる。」

 「中曽根には、そうした反省は感じられないが、後藤田はそれを中曽根の欠点と知りつつ、そのカバー役に徹したとも言えた。中曽根内閣が5年も政権を維持できたのは、後藤田の存在があったからというのが、私の持論である。」

 保坂氏は大した持ち上げ方をしていますが、氏が紹介する後藤田氏の考えに、私は疑問を覚え、反論せずにおれません。本はさらに、国鉄・電電公社の民営化、小選挙区制の導入、自衛隊のPKO派遣問題、細川内閣への対応等々、輝く後藤田氏の功績が語られますが、私はそれを省略します。

 まことに残念な後藤田氏の意見を発見しましたので、正直な感想をのべ、同時に小説『後藤田正晴』の書評とし、ブログを終わろうと思います。

 「明治人の過ちが大正人に犠牲を強い、生き残った大正人がその荒廃を救い、過ちに対する反省の念を、昭和につないでいくという、使命感のようなものが感じられる。」

 まず私は、保坂氏が書いたこの言葉に、強い憤りを覚えます。保坂氏が勝手に解釈した、後藤田氏の思いなのかもしれませんが、内容を確認した上で執筆したと説明していますから、後藤田氏の言葉だと解釈します。

 明治人の過ちが大正人に犠牲を強いたというのは、どういう歴史観なのでしょう。日清戦争と日露戦争が過ちだったと後藤田氏は言い、大正生まれの氏らが犠牲者となって過ちを修正した。その反省の心を昭和の人間にも伝えていくと、・・どういう読み方をしてもこうなります。

 つまり氏は、日清戦争も日露戦争も過ちであったと認識し、大東亜戦争も過ちであったと言っています。その反省の心を、昭和の人間にも伝えていくと言うのですから、憎むべき反日の小和田元外務次官と同じ思考です。

 「日本は、国際社会に対し、特にアジア諸国に対しては、永遠に謝罪し続けなければならない。」と、日本を救いようのない罪人国とした、小和田氏の思考とどこが違うのでしょう。

 日本を犯罪国家として裁いた東京裁判の判決、永遠に日本を立ち上がれなくする歴史観を、どうして諾として受け入れられるのか。戦争に正義があるとしたら、正義は常に二つあります。「あちらの正義」と「こちらの正義」です。価値観の違う国が戦うときは、二つの正義が同時に戦っています。

 それが人類の歴史であり、国際社会の現実なのに、聡明な後藤田氏が、こんな乱暴な歴史観だと言うのなら、無念の一言に尽きます。アジアを武力で侵略した列強の犯罪は、不問のままです。幕末のご先祖が列強の侵略を恐れ、懸命に日本の独立のため戦った事実は、どこへ消えたのでしょう。

 歴史が続く限り「日本だけが悪かった。」と反省し、卑屈になって生きていくべしというのなら、後藤田氏の愛国心はどこにあるのかと問うてみたくなります。

 近衛文麿公は大東亜戦争の責任者で、大事なときに決断のできない小心な政治家でしたが、それでも公は、「欧米諸国の正義」と「アジアの正義」、「日本の正義」が存在することを理解していました。陛下への尊崇の念と日本への愛国心は、後藤田氏より大でした。というより、果たして氏には尊崇の念と愛国心があるのでしょうか。

 「戦争はもう、まっぴらごめんだ。」と言いうのが後藤田氏の実感だと、保坂氏が手放しで褒めますが、日本だけが「まっぴらごめんだ。」といえば、地球から戦争がなくるのでしょうか。日本さえ、先守防衛につとめておれば、世界が平和になり、悪い国がなくなるのでしょうか。

 「戦争を知らない若い者が簡単に軍備を語るな。」「簡単に、戦争を語るな。」と氏は言い、憲法九条の遵守を主張します。しかし世界の政治家は、戦争を知らないと戦争が語れないのでしょうか。戦争の悲惨さを知った政治家は、全員が軍備の全廃を国の政策にするのでしょうか。

 こうした言葉は、それこそ後藤田氏の奢りとしか思えません。戦後政治史の中で、氏が残した功績は大きくて、生半可な政治家が束になってもできないことが多くあります。これについては敬意を表しますが、「歴史の常識」を喪失し、「愛国心」も定かでない氏には、失望するしかありません。

 氏が、タカ派と呼ばれたりハト派と呼ばれたりするのは、確固とした愛国心と歴史観がないからそうなるのです。共産党の危険性に警鐘を鳴らす一方で、共産党が目論む「日本崩壊」に手を貸し、お花畑の国民を喜ばせ、日本の安全保障を忘れるのなら、信頼すべき政治家とは言えません。。

 2000年に及ぶ日本の歴史で、戦後はたかだか70年です。GHQによる占領は、たったの7年です。その間に実施された日本弱体化政策を、どうしてそのまま受け入れてしまうのか。なぜそこに目を向けようとしないのか。不思議でなりません。

 こうした観点からしますと、残念ながら私は、氏もまた「獅子身中の虫」であり、「駆除すべき害虫」の仲間と言わざるを得なくなります。氏のように卓越した人物が国民を惑わせ、日本の明日を歪めているのですから、「日本の独立」と「戦後レジームからの脱却」は、まだ遠いのだと実感しました。

 でも私はこういう時、いつも北欧の小国ノルウエーのことを考えます。

  私たち日本人の多くは、ノルウエーがどのような歴史を持つ国なのか、ほとんど知りません。偶然の機会があり、私はノルウエーで三週間を過ごし、びっくりして戻りました。

 ノルウエーは、デンマークによって130年間支配され、スエーデンから380年間も属国扱いをされ、合算すると510年間です。さらに1940年から1945年までの5年間、ドイツの支配下に置かれるという不幸に見舞われました。

 かろうじて国外へ脱出したホーコン7世が、ヒトラーのドイツに徹底抗戦し、祖国解放のため国の内外で戦いました。第二次世界大戦後にやっと念願の独立を達成し、ホーコン7世は国民的レジスタンスの象徴となっています。ノルウエーのあちこちに、ホーコン7世の大きな像がありました。

 515年間も近隣国に支配されたにもかかわらず、独立を諦めなかったノルウエー国民の忍耐を思えば、アメリカによる支配はたったの70余年です。国内に生息する反日の政党、反日の学者、反日のマスコミ等々がいくらのさばっていても、国民が「お花畑」の存在に気づき、ご先祖様の有り難さを再認識する日が来て、そのあと100年も頑張れば、日本も「主権回復」できるのではないでしょうか。

 今晩も、夜が更けてきました。梅雨寒とでも言うのか、少し冷えてまいりました。知らないことをたくさん教わったので、保坂氏は嫌いでも、本には感謝します。今晩もまた、感謝したり腹を立てたり、感心したり軽蔑したりで、忙しい夜になりました。 

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後藤田正晴 - 3 ( 韓国との教科書問題 )

2017-06-18 14:02:42 | 徒然の記

 6月17日、やっと評伝『後藤田正晴』を読み終えました。

 前半は役人としての氏の活躍、後半は田中派の実力者議員としての足跡と、簡単に言えばそうなります。しかし氏は、私が思っていた以上に、戦後政治の根幹に関わった大物政治家でした。 

 初出馬の選挙で、高級官僚の意識が抜けず惨敗しますが、二回目以降は努力で地元の票を伸ばし、ついには最高当選を果たします。盤石の基盤を築き、自らが議員辞職するまで、政界の中心で力を振るい、田中派の幹部議員として、クリーンを標榜する三木武夫氏と、同じ選挙区で戦い続けます。

 当然氏には、田中元首相を攻撃する三木、福田、保利の三氏が、終生の政敵となります。ロッキード事件で田中氏が失脚した後も、田中派は自民党内の最大派閥として、政局の中心にいました。

 元首相逮捕の記事が世間を大きく騒がせた以後の、慌ただしい政局について、氏の著作から紹介します。

 「マスコミには、三角大福という語があらわれ、三木、田中、大平、福田の派閥の領袖が怨念をあらわにして、戦っていると言われた。」「三木は田中と大平を嫌い、田中は三木を自分の逮捕を許可した首相として憎悪し、福田の田中批判にも神経を尖らせた。」

 「大平は、政権禅譲の約束を破った福田をなじり、三木の非協力的な姿勢に苛立った。」

 昭和54年の衆議院選挙で、後藤田氏は五つの政策を示し、これが後藤田五訓と呼ばれるものになりました。

   1. エネルギー問題、  2. 高齢化社会への対応、  3. 教育改革、

   4. 土地問題、     5. 安全保障

 著者の説明によりますと、「後藤田は、ことさらに政治哲学や、政治理念を声高に叫ぶよりは、この五つの政策を示すことで、日本の進路を示していった。」ということになっています。

 高邁な政治理念を語りながら、実際の政治では老獪な術策を使う、三木氏への対抗策でもありました。

 昭和57年から62年までの5年間、氏は中曽根内閣で官房長官、行政管理庁長官、総務長官、そして再び官房長官を務めます。この間に氏は、今も尾を引いている3つの外交問題を処理しました。

  1.  韓国との教科書問題

  2.  アメリカとの武器技術供与問題 

  3.  中国との靖国参拝問題

 1.  と2.  は、前任の鈴木善幸首相が残した積み残しの問題でした。先ず 1. 番目の問題について、そのまま本から抜粋しします。

 「韓国との教科書問題と経済協力も、前内閣から先送りになっていた。教科書問題で韓国は、日本の認識が36年間の植民地支配に対する、歴史的反省を欠いているとの批判を明らかにさせていた。経済協力問題は、援助額が60億ドルか40億ドルかで、棚上げ状態になっていた。」

 「これを解決するため中曽根は、臨調副会長の瀬島龍三を使い、彼の旧陸軍高級軍人としての人脈を使い、韓国中枢部に渡りをつけようとした。」

  「瀬島はひそかに韓国に渡り、人脈を通じて全斗ハン大統領に、中曽根の意向を伝えた。」「昭和58年、中曽根は瀬島の根回しに応じて40億ドルの経済援助と、朝鮮半島の平和と安定が、アジア全体にかかわるというコミュニケを発表した。日韓の緊密な協力関係が確立したのである。」

  氏は、懸案を解決した中曽根氏と後藤田氏を賞賛していますが、これ以後教科書問題は、盧泰愚、金泳三、金大中、ノムヒョン、李明博、パククネと、大統領が変わるたび「歴史問題」として持ち出され、ひたすら責められるというパターンが定着しています。

 韓国は戦前の日本を攻撃する一方で、日本から資金援助を引き出すという、卑劣とも言える政策を、歴代大統領が引き継ぎます。日本は内閣が変わるたびに、深く遺憾の意を表し、「日韓の緊密な協力関係が確立した。」と、みっともないコミュニケを発表するのが習わしとなりました。

 盧泰愚大統領の時からは、捏造の慰安婦問題が加わり、宮沢首相の謝罪、加藤官房長官の謝罪談話、村山首相の謝罪、河野談話と、底なし沼のような反省と資金援助が繰り返されていきます。

 最初は黙って応じていた日本国民も、執拗な韓国の姿勢に疑問を抱き、やがて嫌悪を覚えるようになりました。しかもこれが、朝日新聞の捏造報道が発端になっていると判明し、草の根の日本人の目を覚まさせることになりました。

 私もこうした人間の一人であり、強い怒りと共に何度かブログに書いてきましたので、これ以上は述べません。ここで言っておきたいのは、著者である保坂氏の賞賛が、間違いであるという事実です。

 一流紙と言われていた朝日が報道したからと、中曽根氏と後藤田氏が真偽を検討せずに謝罪し、安易な経済援助をしたため、韓国を有頂天にさせました。歴史問題で攻撃すれば日本はいくらでも謝罪し金を出すと、そんな先鞭をつけたのが中曽根内閣だったと、私は考えています。

 当時は朝日新聞が、反日売国の会社だと世間に知られていませんでした。利敵行為をする売国の日本人が、多数絡んでいる事実も知られていませんでしたから、中曽根氏と後藤田氏を一方的に責めるのは、酷な面もあります。しかし保坂氏のような、おめでたい評価をする話でないことだけは、指摘しておきます。

  残念ながら、2. アメリカとの武器技術供与問題 3. 中国との靖国参拝問題は、次回以降としなければなりません。本日はここで終わりにします。
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