ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

農業の再生

2016-06-28 20:16:24 | 徒然の記

 安部総理が、経済政策の一つとして、農業の再生を大きく掲げている。

 意欲のある農家の壁となっていた農協を、抵抗勢力に屈せず、強い意思で解体したのもその一環だった。千葉日報の記事によると、2015年現在の日本の農業人口は、二百万七千人だ。10年前と比較すると、五十万六千人の減少である。千葉県と茨城県は農業生産額と農業所得額で、北海道に次ぐ全国二位の農業県だという。

厚労省の統計によれば、日本にいる外国人労働者数は、2015年現在で約九十万七千人だ。内訳は、日系人在留者が三十六万七千人、留学生のアルバイトが十九万二千人、技能実習生が十六万八千人となっている。出身国別に見ると、中国人が三十二万二千人と最も多く、ベトナム人の十一万人がこれに続く。

 これとは別に、法務省の調査では、2015年現在の国内不法労働者数が7973人で、この内の21%の1744人が農業分野にいるとのこと。中国、タイ、ベトナムの出身者が多く、彼らはもぐりのブローカーを通じて、ほとんどが千葉県や茨城県の農家で働かされているらしい。人手不足の農家が、違法と知りつつ目先の利益のため彼らを使っている実態を、千葉日報が報じている。

 外国人研修員制度を通じて農家へ来る労働者もいるが、ブローカーを通じた労働者は時間給が750円であるのに対し、研修員制度を経ると、1000円を超えるという。農家の主人へのインタビュー記事によると、ブローカーを通じる働き手は研修員に比べ、格段に日本語がうまく、即戦力になるらしい。残業規制がなく繁忙期の役に立ち、長期雇用の研修生と異なり、二三ヶ月の短期労働が可能で安上がりのため、背に腹は変えられないと語る。

 6月12日、6月20日、6月21日の千葉日報の記事を元にこのブログを書いているが、読んでいると、総理の農業政策の基盤の脆弱さにため息が出そうになる。二年前の5月に、外国人研修員制度の実態をブログに書いたが、再確認を兼ね、くどくなっても引用してみたい。

 「研修員制度の目的は、開発途上国への国際貢献と国際協力のため、日本の技術、技能、知識の習得を支援する制度だ。」「推進団体は、「財団法人国際協力研修機構」略してジッコ ( JITCO )といい、関係する省庁は、厚生労働省、経済産業省、法務省などだ。」

「研修員制度で来日した近隣諸国の若者たちに関する、過去の新聞報道を思い出すと、農業研修に来た中国青年が研修先の農家の夫婦を惨殺したとか、首をかしげたくなるような事件がある。」

「中国研修生を3名受け入れた今治市のタオル業者は、賃金不払いで監督署の是正勧告を受けると、研修生たちを騙して中国へ連れ戻り、そのまま現地で放置したという。」「長崎の長与町の会社は、バングラディッシュから受け入れた女性に給料10万円を直接払わず、中間業者に9万円渡し、本人には1万円しか与えなかった。」「彼女が京都地裁に訴えて判明したのだというが、長崎で働く彼女がどうして京都地裁なのか、調べ出すと、気の滅入るような事件が次々と出てくる。」

「最低賃金法違反、時間外の不払い、パスポート取り上げ、強制貯金、保証金・違約金による身柄拘束など、言葉の通じない彼や彼女らの弱い立場につけ込んだ残酷な仕打ち。」「ジッコ ( JITCO )の高邁な目的はどこかへ消え失せ、主に3K現場での人手不足を解消するための、低賃金労働者を集める制度に成り果てている現実だ。」

「平成17年の研修生数は83,319人で、この内中国人が66%を占め、残りがインドネシア、タイ、ベトナム、ネパールの順らしい。平成19年には、米国務省から人身売買の指摘をされ、制度の廃止を提案されていたというのだから驚かされる。」

「人道を外れた行為への糾弾には、右も左もない。制度を悪用する人間や、悪人たちは懲らしめねばならない。」「これでは、帰国した若者たちは親日どころか、日本憎悪の固まりとなってしまう。」「いったい、こんなことの、どこが国際貢献なのか。」
「日本人は、立派なことを言っても、やっていることは違う。」「信用できない、ウソつきだと非難されたら、私は恥じて頭を垂れるしか無い。」

 二年前のブログ以来、研修員制度の中身がどのくらい改善されたのか、私は知らない。舛添氏のスキャンダルみたいに、世間やマスコミが大騒ぎすれば別だが、話題にならない研修員制度が既に改善されているとは、とても思えない。

 最近の千葉日報の記事は、研修員制度を含む、もっと広範な外国人労働者問題への警鐘だ。改善されていない研修員制度に加え、外国人労働者問題と不法就労者の問題があるという指摘である。政府や政治家や役人はもちろんだが、私にも「国際情勢」や「安全保障」への意識が薄いこと、さらに言えば「危機意識」の欠如があることを痛感する。

 外国人労働者問題の背後にあるのは、「移民問題」「民族問題」「宗教問題」だ。イギリスがEUから脱退した大きな理由は、移民による国内秩序の混乱と過大な経済負担だった。対岸の火事のように眺めている私たちだが、すでに100万人もいる外国人労働者が、500万人となり、1000万人となるのは時間の問題でしか無い。目先の金儲けに追われている人間たちに任せていたら、早晩民族問題が国内で火を吹き、流血や暴動が発生する。

 せめて世の指導者と呼ばれる政治家や、聡明な官僚諸氏、あるいは評論家などには、もっと警鐘を鳴らして欲しいものだ。千葉日報だけに任せるのでなく、日本の問題として、なぜ指摘しないのか。当面安上がりだからと放任していたら、混乱や騒擾時の経済的損失は目を覆うものになると、私みたいな愚人にだって予想がつく。

 6月21日の記事では、「国の労働トラブル相談。外国人対応、未整備20県」と題して、言葉の通じない彼らの相談を受けるための窓口が、いかに整備されていないかを訴えている。日本語の話せない労働者のため必要とされる言葉は、英語、中国語、ポルトガル語、スペイン語、タガログ語だ。

 しかし窓口の新設や言語の拡充を検討している労働局や労基署はなく、多くが予算の問題を理由にしているという。こんなことでは、農業の再生も、日本の国際化も、総理が掲げるだけのお題目になってしまう。

 新聞が伝える、外国人対応窓口「未整備県20県」を、列挙する。青森、秋田、岩手、福島、山形、新潟、石川、奈良、和歌山、鳥取、山口、香川、愛媛、高知、佐賀、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄。

都市によっては、必要のないところもあるのだろうが、それにしてもなんという多数の県であることか。総理のお膝元である山口県もそうなのだから、呆れてものが言えない。

 こうした記事を載せる千葉日報は、既に朝日、毎日、読売の全国紙を越え、マスコミの鏡となりつつある。自慢して良いのか、悲しむべきことなのか・・・・、気づいているのが「みみずの戯言」を言う私一人であること。褒められたところで、千葉日報社は喜びもしないだろう。

 しかしまあ、現実なんてこんなものだ。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元断章

2016-06-24 23:01:36 | 徒然の記

 中野孝次氏著「道元断章」(平成12年刊 岩波書店)を読み終えた。

 氏は大正14年に千葉県で生まれ、平成14年に没している。鎌倉時代の禅僧道元の著作である、「正法眼蔵」の書評というか感想というのか、そんな本である。ネットの情報では、「東大文学部卒、日本の作家、ドイツ文学者、元国学院大学教授」と書いてある。してみると、氏も複雑な人物でないか。左翼の巣窟みたいな東大を卒業したのち、保守の砦のような大学に職を得ている。

 国学院大学の前身は、明治政府が創立した皇典講究所で、日本の国史・国柄を研究するところだった。初代総裁は、有栖川親王だ。これもネットの情報だが、氏は政治的には平和主義者で、反核アピール運動で井上靖、井上ひさし、大江健三郎と行動を共にした経歴を持つらしい。

 読後の率直な印象は、飾らない本音を語ったり、独断的解釈を恥じらわず披露するなど、なんだか鏡で自分を眺めているような錯覚に陥ったということか。もちろん氏と私の違いが、比較できないほどの学識にあることは言うまでもない。好きになれないが、思ったほど嫌味な人物でなく、むしろ憎めない、とても不思議な先生だった。

 それもそのはず。私の嫌悪する左翼思想の人間と同調していながら、昔日の日本を高評価する意見を並べるのだから、こんがらがって当然だろう。

「道元は、私の時間観念、因果観念、生死観念を根底からくつがえし、」「ぶっ壊してしまうような、おそろしいことを言っているのであった。」「常識破りとは、まさにこのことなのだろう。」「道元は、全力をふるって、われわれの頭の中にある固定観念を、こっぱみじんに粉砕しようとかかっているかのようだ。」

 二三ページのところで、氏が述べていたが、このように扇動的で、大げさな叙述を私は好まない。「駅から歩いて、たったの5分」などと書いて、実際に歩くと30分かかるという、不動産屋の誇大広告みたいでとても本気になれない。力説する、胡散臭い氏の言葉を、もう少し引用してみたい。

 「道元の説法にはいつも、弾けるような精神の躍動がある。」「力強い言葉の、うねるリズムがある。」「次々とイメージが現れ、響き合い、一大交響曲となる。」「音楽的といっていいような、説法である。」「聞いている修行僧たちの心は、さぞや踊ったであろう。」「仏道修行僧にとって、生きることは修行すること、座禅することがすべてだ。」「座禅が生きることなのだ。」

 こうした説法解説の後に、氏の高説が披露される。

「人間は、人に生まれたままで人間になるのではない。」「道を学んで、修行して心身を鍛え、この世に生きることは何であるかを、知らなければならない。」「ところが過去50年、日本くらい子供のしつけ、家庭教育を怠ってきた国は、ちょっと世界でも例がないのではあるまいか。」「しつけとか我慢とか自制とか、努力、訓練、鍛錬といったことは、あたかも封建時代の悪習であるかのように見なす風が、支配的だった。」

 うんざりするような説教だが、もう少し我慢してみよう。「その結果どうなったかといえば、有名大学を好成績で卒業し、人の羨む官庁や銀行や商社に入り、出世して高い地位についても、人間的にはまるでダメという連中が続出したことだ。」「そんな人生は、たとえ百歳生きても何の価値もないと、道元は言う。」

 途中を沢山省略したが、本の中身はこのパターンの繰り返しだ。道元による仏典の紹介がなされ、道元による解説があり、続いて氏の高説が展開される。漢文混じりの古文が常に引用してあるが、私にはどれもチンプンカンプンだ。敬意を払わずにおれないのは、「仏典の紹介」と「解説」を読みこなす氏の博識だ。

 軽蔑したくなるのは、何の説得力もない、退屈な高説の披露だ。正論であるものの、誰もが知る言葉の羅列では、読んでいる読者の心は踊らない。もしかすると叔父は、氏の高説の陳腐さに呆れはて、「中野様、もっと勉強なされませ。」と苦言を呈したのだろうか。

 だが、本の中身が半分を過えても、氏の高説はとどまる処を知らない。

「日本人は江戸時代末期までは、外国人が感心するくらい、きちんとした作法を持っていた。」「型を守ることは、剣や弓や槍など、武術の修行の場合とくに重んぜられた。」「正しい礼を知ることは、立派な人間とみられ、社会でも重んじられてきた。」

「そういう文化が失われたのは、むろん維新とともに西洋文明が入ってきたからである。」「西洋にも厳しい型の社会があることも知らず、個性の尊重というような言葉に踊らされた青年、」「とくに高等教育を受けた若者が、型を破壊することが個性的であるかのように振る舞った。」

「その破壊は、1945年の日本敗戦後、アメリカ文明がどっと入ってくるに及んで、修復不能なところまでいってしまった感がある。」「デモクラシーは、自由と同時に規律があって成り立つことを知らず、」「規則も作法も礼儀も、封建時代の悪習とばかり無視し、」「自分勝手にふるまうのをデモクラシーと誤解した。」「なかで最もひどいのが、倫理という、行動の是非善悪についての判断能力が、根底から崩れてしまったことであった。」

 「道元の、この日常生活の仕方についての、おそろしく厳しい定めは、返ってこれからの日本のあるべき姿のように、新鮮に見えたのであった。」「日本はもう一度、型の文化をつくりあげねばならぬと、道元に警告されているような気さえした。」

 それならばもう一歩進んで、日本国憲法が、日本人の魂をダメにした元凶だと、なぜ氏は指摘しないのか。歴史を否定し、ご先祖を憎み、国を蔑むしかできない左翼の人間たちと、どうして共に活動したのかと、無念でならない。けれども、物故者となられているから、これ以上氏を批判するのは止めにしよう。

 氏の本を読み、感動する知識は得なかったが、氏が平易に解説してくれなかったら、「正法眼蔵」には一生無縁だったに違いない。いっぱし批判している私だが、氏の手引きが無かったら、歴史的に名高い道元についても知らずじまいだった。

やっぱり、ここは中野氏への感謝で締めくくるのが適切であり、正しい「型」でないかと、私は考える。

  有難うございました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしかするとマスコミの鑑になれるか、「千葉日報」- その2

2016-06-19 21:18:29 | 徒然の記

 千葉日報が「改憲論の潮流」という記事を、6月7日と6月9日の二日にわたり、上下に分け、ページの4分の1を使い、報道している。

 売国の朝日を止めて以来、現在あの新聞が、どのような記事を書いているのか、知らないが、少なくとも千葉日報のように、憲法改正の論議に、本気で触れているとは到底思えない。

 つい五六年前まで、朝日新聞を筆頭に、新聞もテレビも雑誌も、「憲法改正論議」には、触れることさえタブーだった。

 だが最近の千葉日報は、私が知る限り、憲法や安全保障に関する記事を、積極的に取り上げるようになった。相変わらずマスコミ界では、九条に少しでも触れば、日本が軍国主義の国になると、騒ぎ立てる。世の風潮と言うのか、反日マスコミの主流意見と言うべきか、夢世界の理屈が、幅を利かせている。

 千葉日報も、そこには、大いに気配りをしているらしい。

 「揺れる九条、反対根強く。」「安部政権下の改正反対56%」「問われる立憲主義」「中身より、とにかく改正」「縛るのは権力か国民か」

 などと、今年の1月以来、こうした表題の記事が、紙面を飾っている。部数の減少で、経営難に陥りつつあるとはいえ、今でも売国の朝日は、業界の大元締めだし、解体すべしと批判されても、相変わらず赤いNHKは、テレビ界のドンである。

 吹けば飛ぶような地方紙の千葉日報が、太刀打ち出来る相手ではない。だから紙面の表題だけを見ていると、売国のマスコミ界で、どん尻を走っているような、情けない姿に見える。

 だが、私のように、千葉日報を真面目に読み、真面目に、記事のスクラップをしている者にとっては、なかなかどうして、軽視できない新聞社である。

 森達也氏とか、流通経済大の植村教授とか、シールズの奥田某とか、何が何でも日本の軍備反対派たちの意見が、派手に紙面を飾っているが、よく見ると、慎重な小見出しが私の注意を引く。

「本音で議論を」「タブー視せず議論を」「自衛官、リスクの議論不十分」「今あらためて議論を」「首相支える、草の根保守」「問われる国のあり方」

 記事の主流は相変わらず、朝日やNHKの主張に沿っているように見えるが、千葉日報は、改憲賛成論者の意見も、同じ比重で並べている。いわゆる「両論併記」という、報道の基本原則だ。

 朝日やNHKが「両論併記」の原則から逸脱し、どれだけ国民に、片方の意見だけを知らせ続けてきたか。何年か前までの自分もそうだったが、日本さえ軍備を持たなければ、世界が平和になると、信じさせられてきた。

 これが敗戦後の日本に、異常発生した善良なる国民、すなわち「お花畑の花」たちだ。

 戦争の責任はすべて日本にあり、日本だけが、残虐非道で、世界の国々はその犠牲になった。未来永劫、日本は世界の人々に、謝り続けなくてはならない。人の心の痛みを知る人道的な人間は、そうしなければならない。だから憲法の九条は、死守しなくてならない。

 だがこれは、一面の事実でしかなく、世界の国々は、そんな空論では動いていない。国際社会の非情さと厳しさ、あるいは不条理さを、反日のマスコミが、国民の目に見せなくしてしまった。それが、敗戦後の実態だ。

 日本だけが静かに息を潜めていても、世界の平和は訪れないと、国民の目を覚まさせたのは、韓国による慰安婦問題の捏造と、中国による領海侵犯だった。

 中国の異常なまでの軍備増強と、近隣諸国への恫喝外交が、やっと国民に事態の深刻さを教えた。尖閣諸島周辺への領海侵犯だけでも、警戒心を高めさせるというのに、6月15日には、中国の軍艦が口永良部島の領海を侵犯した。

 そこはもう、鹿児島県のすぐ目の前の海だ。しかもこれまでは、公船と呼ばれる警備艇しか来なかったのに、今回はれっきとした軍艦だ。何を考えているのか、見当もつかないが、巨大な中国は、巨大な軍隊の存在を誇示し、日本へ執拗な挑発を続けている。

 「え、中国が脅威ですか?」「あの国が日本を責めるなんて、そんなことはありませんよ。」

 何時だったかテレビの番組で、鳥越氏が、安保法制への反対論を述べていた。何を根拠に中国を信頼するのか、知らないが、自分の国だけを悪とする、危機感の喪失した、氏のような思考の人間が、マスコミでは幅を利かせている。

 それだけに私は、千葉日報の報道姿勢を評価する。控えめだが、本気で国民に知らせているのが分かる。

 「本音で議論を」「タブー視せず議論を」「自衛官、リスクの議論不十分」「今あらためて議論を」「首相支える、草の根保守」「問われる国のあり方」・・・・。

 過去の記事の見出しを 、私は何度でも反芻する。

 産経新聞のように、保守の旗印を明確にせずとも、千葉日報のような会社が、両論併記という形で、読者に向かっている姿が凄い。朝日の部数に及ばないとしても、産経新聞は、全国紙だし、知名度も高い。

 しかし千葉日報という新聞社の名前は、千葉県民にだって、浸透していない。全国でなら、そんな名前の新聞があるのかと、おそらく大半の国民が言うはずだ。

 この際、千葉日報の難しい立場を、少し述べるとしよう。

 全国紙は、自前の新聞店を持っているが、地方紙の千葉日報は、配達と販路拡張を、読売新聞の販売店に委託している。販売店にとっては、千葉日報のお客が増えるより、読売のお客が増えた方が利益になる。部数の少ない新聞は、折り込み広告だって集まらない。配達される新聞に入っている、折り込み広告が、沢山あるほど新聞店の利益になる。

 新聞紙面の広告は、新聞社の収入だが、折り込み広告の手数料は、販売店の収入になる。千葉日報を購読して以来、販売店の店員は、飽きることなく、読売新聞への切り替えを勧めてきた。洗剤やサラダ油、てんぷら油など、半年分をサービスするからと、断っても、断っても勧誘された。

 配達する店員に感謝していても、新聞は、サービス品につられて読むものでないから、私も妻も断り続けた。

 つまり千葉日報は、販売店の店員たちからも重要視されていない、マイナーな新聞なのだ。まして現在、朝日などに育成された、人道的平和主義者が溢れている日本では、「両論併記」の記事だって歓迎されない。

 むしろそれは、読者を減らす可能性すらある。こんな事情を知ってからというもの、千葉日報の報道姿勢に、一層敬意を払わずにおれなくなった。

 「千葉県民の皆さんは、千葉日報を読みましょう。」と、新聞社には何の関係もないが、駅前に立って訴えたい気がする。

 千葉県以外の人に買いたいと言われたら、販売ルートを持たない新聞社は、困ってしまうにはずだ。だから私は、千葉日報へ迷惑をかけないよう、ささやかな自分のブログの中で、そっと宣伝したい。

  もしかするとマスコミの鑑になれるか、「千葉日報」

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

例外

2016-06-17 17:48:33 | 徒然の記

 何事にも、例外がある。

 村田喜代子氏の「焼野まで」を読み終えたが、今回は感想を書かない。

 内容がつまらなくてそうするのでなく、身につまされるものがあり、避けたくなったからだ。私は癌の手術をしたが、作者は手術をせず、放射線の局地照射による癌細胞破壊という療法を選ぶ。死に至る病にかかった者の心が、作者特有の冷静な目で観察される。悲壮さもないし、大げさな叙述もなく、淡々として語られる。しかしその一言一言が、静かに読む者の心に反響する。

 これ以上、感想を述べる気にならないから、ここで終わりだ。

 次に読む本は、中野孝次氏の「道元断章」 だ。読書にかかる前に、著者の略歴を見るのが癖になっているので、ページをめくったが何処にも見当たらない。珍しいことがあると更にページを繰っていると、本の裏表紙の空白部分に、叔父の文字を見つけた。生真面目な叔父らしい、堅苦しい楷書だ。

「読書感想談」と銘打ち、なんと作者への苦言が書いてある。「道元の心知らない中野様。もっと勉強なさりませ。」今日まで何冊か叔父の蔵書に目を通してきたが、書き込を見るのは初めてである。自分が野次馬根性で本に向かっているから、叔父もそうだと思っていたが、どっこい叔父は真剣そのものだった。いったい作者のどこに怒りを向けたのだろうと、これまた野次馬の目で前書きを流し読むと、飛び込んできた著者の言葉だった。

 「正法眼蔵は、おそろしく難解だ。」「私は生涯の全てを読書に捧げてきた人間で、読書のプロだと自惚れているが、その私でも読んで直ちに理解できるというわけにいかない。」「こんな経験は初めてだ。」「が、わかってもわからなくても読む。」

 なんだこんな薄っぺらな人間なのかと、「わかってもわからなくても読む。」なんて、私によく似たせりふを並べる作者に嫌悪を覚えた。生涯を読書に捧げてきたから読書のプロだと自惚れるなど、どんな思考回路の人物なのかと軽蔑さえしたくなる。大抵の人間は、生きるために読書をしているのであり、プロになるため本を読んでいるのではない。

 世に文芸評論家と称される人々がいて、彼らは、書評を書き対価を得ることを生業とする。多量の書を乱読し、出版社が喜び、著者にも感謝されるような、いわゆる「銭になる文章」をひねり出す。そのためには本気で書物と対面するのでなく、いかに要領よく、効率的に読書をこなすかに腐心する。プロにしかできない、流し読みという方法もあるらしい。

 中野氏の言う読書のプロとは、そういうものかもしれず、私が知らないだけで、氏は案外有名な評論家なのかもしれない。だとしても、あまり感心しない作者だ。早合点して喜怒哀楽し、後で謝ったりする私みたいな軽薄な人間でなく、叔父は慎重だったから、こんな前書きで作者に苦言を呈したりしない。「もっと勉強なさりませ。」というのだから、作者の思考内容への反論だ。

 中野氏への興味は半減しているが、叔父の怒りが何なのかに惹かされる。作者への感心が半分なのに本を読む。読む前から、感想らしきものを述べてしまう。しかも作者の略歴は知らない。・・・・・こうしてみると、今回は例外だらけだ。

 梅雨だというのに、外はカンカン日照りで、洗濯物はすぐに乾き、干した布団は気持ち良くふくらむし、何もかも例外だらけの今日だ。もう少ししたら、風呂の掃除でもするか。

 ただし、これは例外でなく、私の日常だ。戸外では、5時のチャイムが鳴っている。ドボルザークの新世界だ。家路という名の曲だが、今では夕方になるとこの曲が有線で流される。日本中と言って良いほど普及している暮方の調べだ。

  お手てつないで みな帰ろ

  カラスと一緒に 帰りましょ

 小学生の頃までは、暮方の曲はこんな童謡だったのに、いつからかドホルザークに取って代わられてしまった。でもこれは、例外でなく、現在は私の日常生活の一部だ。例外と日常を述べていると、自分でも何が何だか分からなくなってきた。村田氏の本も中野氏の著作のことも忘れてしまい、ブログのまとめまでおぼつかなくなった。

 支離滅裂な話ばかり・・・、きっとそのうち、これが私の日常となる日が来るのだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲王朝は実在した

2016-06-15 22:19:29 | 徒然の記

 安達巌氏著「出雲王朝は実在した」(平成8年刊 (株)新泉社)読了。

踏み込んだ歴史の森は、果てしなかった。読むたびに曖昧な知識が明らかになっているのか、あるいは逆に、一層混迷を深めているのか。何度も立ち止まり、確認しつつ進むしかない。まず私は、自分が知っている日本史の出来事を書き出してみた。小野妹子が遣随使となって海を渡ったのは、紀元607年、推古天皇の時代だ。聖徳太子が起草したと言われる、かの有名な「日出ずる処の天子・・・・」という、国書を持参している。日本史の時間に、これを見た随の皇帝が激怒したと教わった。

 次に習ったのは、紀元238年に邪馬台国の卑弥呼が、魏に使者を派遣し、魏の皇帝から金印と銅鏡100枚を与えられたということ。順不同になるが、次は別名厩戸の王と呼ばれる聖徳太子の業績だ。574年から622年にかけての飛鳥時代、聖徳太子は推古天皇の摂政だった。「官位十二階の制定」「十七か条の憲法制定」「遣随使の派遣」「仏教の興隆」など、大和朝廷の基礎づくりの政策を推し進めた。

 さてここで、安達氏の著作に戻ると、古事記と日本書紀の記述では、初代の神武天皇の即位が紀元前660年の2月11日だ。その後585年に亡くなるまでの約80年間が統治期間だ。次に有名な神話の人物は、大和武尊である。第12代の景行天皇の子で、東国12ヶ国を平定したと言われている。伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、總、常陸、陸奥の国々だ。この時尊が使った太刀が、草なぎの剣と呼ばれる三種の神器のひとつだ。

 神武天皇や大和武尊については詳しく習ったのでなく、雑談のように面白おかしく教師が話してくれたに過ぎない。長年私の中でくすぶっていたのは、こうした神話の流れと、実在の邪馬台国卑弥呼や、遣随使の小野妹子が、どのようにつながっているのかだった。今でもそうだが、神武天皇の即位が紀元前ならば、邪馬台国の卑弥呼の国はなぜ大和朝廷との関連で語られないのか。

 安達氏はこれについて、明快に叙述する。「わが国の古文献の多くが大和朝廷を権威づけ、その正当性を主張するという視点に立っているからである。」「換言すれば、史書の多くは支配者側によるもので、これを貫く理念は皇国史観だということである。」「虚構が、これでもかこれでもかといった具合に執拗に強調されると、いつのまにか真実性を持ってしまうのである。」「まだ大和朝とそれ以前の出雲朝との関係については、まとまった研究や論争はないといって良い状況である。」

 だから氏には私の疑問など眼中になく、大和朝廷以前に出雲王朝が存在した事実の究明に忙しい。放置された私は、自分でネットの情報を探し回り、驚くべき事実に行き当たった。歴史上の人物として教科書で教えられてきた聖徳太子が、曖昧な存在となってきたという話だ。

 つまり厩戸の王は実在するが、聖徳太子として語られてきた事実が疑わしくなってきたらしい。輝かしい業績と言われているものに、聖徳太子が関わっていたという文献が存在せず、もしかするとこれは天武天皇の作りごとでなかったかという意見だ。平成14年に山川出版が、教科書で聖徳太子という言葉を使用しなくなり、厩戸の王と記述するようになったらしい。清水書院は、平成25年から聖徳太子の虚構説を述べているとのこと。

 673年に即位した天武天皇は、前年の壬申の乱で兄である大友皇子を倒している。統治期間は白鳳文化と呼ばれているが、大和朝廷の脆弱な基盤を確固たるものにした実力者天皇だ。皇族を要職につけ、他氏族を下位に置くという皇統政治を断行した専制君主でもあった。

 「氏姓制度の再編」「律令制度の導入」「新都(藤原京)の造営」「古事記、日本書紀編纂の指示」など矢継ぎ早に制度改革をし、皇室中心の政治を確立していった。その過程で、天武天皇は聖徳太子というおよそ100年前の政治家の像を作り上げ、己の政道のバックボーンにしたのだという。

 学界で見直しの機運が高まり、やっと教科書に波及してきたというのだから、日本史の中身はまだこれから変動するのだろう。自信たっぷりの安達氏が苦々しいが、事実が判明し修正されるのなら、門外漢が口を挟むことではない。

 中国や韓国の歴史捏造をさんざん貶してきただけに、古代の話とはいえ、日本も似たようなことをしていたかと、残念でならない。

 「以上出雲と新羅との密接な交流に関する若干の考察であるが、」「こうした事実の延長線上にあるのは、大陸の青銅器、鉄器文明が燕や扶余、高句麗、新羅などをへて、次々と出雲に流入したであろうことである。」「東アジアでの農耕文化が、日本に伝来したのは縄文時代の末期だったが、本格化したのは弥生時代であった。」

 こうなれば、何を言われてもお説ご尤もと拝聴するしかない。「オオクニヌシが大和王朝にたいして、平和裡に葦原の中つ国の施政権を譲り渡し、」「出雲族と大和族の正面衝突を避け、政界引退位の挙に出たということが、日本の素晴らしい成長発展の支えとなって良かったということである。」

「もしオオクニヌシが全国に分散している、傘下の国つ神に呼びかけ、徹底抗戦の道を歩んだならば、」「両者がその国力を消耗し尽くして、朝鮮半島の諸国に漁夫の利を得さしめることになったであろうからである。」「勝海舟と西郷隆盛が、相互信頼の上に立ち平和裡に江戸城を授受し、日本の近代的再出発の糸口を開いたという、」「あの劇的場面に似ている。」「あの時両者が正面衝突していたら、幕府にはフランス、朝廷にはイギリスが加担し、」「両国の代理戦争が始まり、挙げ句の果てに日本は両国の植民地に成り下がっていたのかもしれない。」

 分かりやすいので納得させられるが、分かり易いからといって、学問的に正確とは断定できない。しかしどう考えても、皇国史観は分が悪い。大和朝廷の正当性を強調するあまり、中国や朝鮮とのつながりを故意に語らず、あたかも日本だけの神話であるかのように整理している。

 神話時代の日本が中国や朝鮮と深い関わりを持ち、大きな影響も受け、盛んに交流していたのは、どうやら事実であるようだ。この点については、安達氏の意見が妥当だという印象が強い。

 私と安達氏の相違をあえて言わせて貰えば、すなわちこうだ。

「祖先がどこから来た民族であれ、現在の日本人は固有の国民である。」「中国人とも朝鮮人とも異なる、明確な日本人である。」「日本という国土の中で、二千年の時を経て私たちは民族のアイデンティティーを確立した。」

 あまり強調すると、隣国と同様の醜い自己主張と同じになるから、これ以上は言わない。心の中で静かに思うだけとし、頑迷固陋な保守の人々とも一線を引きたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲大神と日本建国

2016-06-08 23:40:43 | 徒然の記

 安達巌氏著「出雲大神と日本建国」(平成6年刊 新泉社)読了。

 同じ出雲王国を扱いながら、先に読んだ山崎氏の著書と、肝心な所で違う内容となっている。どちらが正しいかは不明だが、分かることが一つだけあった。「古代史は今も謎のままであり、研究者の解釈次第でどうにでも変化する状況にある。」簡単に言えば、こういう結論だ。

 だからもう、大抵の話を聞かされても驚きはしない。山崎氏は大和朝廷による大国主の命の処刑と、出雲大社への押し込めを詳しく語ったが、安達氏はそこに一言も触れず、大和朝廷は出雲王朝との連合政権だという。山崎氏が控えめに「出雲王国」と表現したのに対し、安達氏は堂々と「出雲王朝」と呼称している。

 さらに安達氏は一歩踏み込み、大和朝廷も出雲王朝も、日本へ来た渡来人であると主張する。いずれも韓国に住む少数民族の倭人であったと結論づけ、古事記も日本書紀もそのような立場から解読する。山崎氏の本を読んでいなければ、そのまま氏の意見を信じたに違いないが、同じ古代を扱ってもこんなに異なる二人を目の当たりにすると、立ち止まって考えたくなる。

 安達氏は明治39年に島根県に生まれ、旧制中学を中退し、大阪から東京へと移り住み、農民運動、社会運動に関わっている。敗戦後に製パン業を始め、あけぼのパンの常務、中村屋の顧問、業界団体幹部をへて著述業へ進む。ネットの情報ではここまでしか分からないが、氏もまた山崎氏と同様、専門の学者でなく、市井の好事家でしかない。とは言いながら、古代史に関する探究心は私などの及ぶ所でなく、敬服すべき博学である。

 氏は本の中で朴炳植(パク・ビョンシク)氏の意見を何度も紹介し、日本人が韓国から渡来した民族という説明の根拠にする。朴炳植氏は、昭和5年に今の北朝鮮に生まれ、高麗大学卒業後にアメリカへ渡っている。これもまた、ネットの情報だが、韓国の言語学者として有名になった氏は、日朝両語の「音韻変化の法則」を創始し、日本書紀の中で不明とされていた歌謡を解明したと発表した。

 ところが彼女の説は日本の専門家から徹底的に批判され、認められなかったという。東洲斎写楽は朝鮮人だったと言い、ひんしゅくを買ったのも彼女らしい。こうなるとど素人である私は、眉に唾してしか本が読めなくなる。

 日本人の祖先が朝鮮在住の、倭人と呼ばれる小数民族だったと言われると、やはりいい気持ちはしない。まして、天孫降臨の神話で体系づけられた大和朝廷を定説とする日本の歴史学界で、氏の意見が無視されたのは無理もない話だ。学問の話と感情論は別なので、古代史の謎は、今後も追求されるべきと私は考える。

 しかし学者でない私は、感情論でものを言う。農民運動や社会運動をやっていたというのだから、氏は左翼の活動家の一人だ。左翼の人間にとって、天皇制は目の上のたんこぶでしかない。天皇に関わる史実を、平気で貶められるのは氏の信奉する左翼思想からきているに違いないと、私は考えてしまう。

 「広辞苑の津田左右吉の項をみると、歴史学者。岐阜県の生まれ。早大教授(総長)。」「厳密な古典批判により、科学的な日本・東洋の古代史、思想史研究を開拓とある。」「これはいかにももっともらしい賛辞であるが、」「この人が戦後、自分は天皇制肯定論者だと高らかに宣言して、」「早大総長に就任したいきさつなどからみても、」「科学的史学者として手放しで評価するわけにはいかない。」

 こうして氏もまた、私に劣らない感情論を展開している。「神無月」と「神在月(じんざい)」についても、独特の意見だ。

 「それは日本列島を管轄する、葦原の中つ国と、この宗主国たる豊の国の代表者たちが、」「毎年定期的に出雲国で会堂して、その時々のアジア情勢や、」「日韓間の戦略的な重要問題を徹底的に話し合い、なすべき方向づけをしていたということである。」

 「日本の戦前の史学者もマルクス主義者たちも、このことにあまり触れたがらない。」「彼らがこんな不見識を敢えてしたのは、」「百済の傀儡だった大和朝廷が成立する以前に、そのライバルだった新羅系の神々が、」「先着の神々と意気投合していたことを、なるべく口にしないほうが、」「身すぎ世すぎのため好都合だったからであろう。」

 「そもそも出雲大社なるものは、古事記によると、第11代の垂仁天皇が、その皇子の難病平癒のお礼として寄進したとある。」「従って神在月に神々が集ったのは、神社など存在しない神代のことであるのは明白であるのに、」「八百万の神々が出雲大社に集まるという説明は、まったくの笑い話という以外ない。」

 そして氏は、朴炳植氏が著書の中で綴っている言葉を紹介する。

『高天ヶ原なる土地がどこを指すのか、ご存知の方が、本書の読者の中におられるだろうか。」「日本の神話では、天孫が雲を踏み分けて天上から降下したことになっているが、これは現実性のある話ではない。」「実はタカマとは、慶尚南道にある高霊の韓国音による訓みなのである。」「結局タカマとは、高霊の地ということで、日本書記にいう加羅国(朝鮮半島南部にあった小国)」のことなのである。」 

  これを受けて氏は、自説を展開していく。

「高天ヶ原という名の首都が南韓の高霊郡から、日本列島に移動する契機となったのは、」「出雲朝廷の誕生がそのきっかけであったことはいうまでもない。」「以上のことからここではっきり言えるのは、高天ヶ原とは、政権の移動とともに転々とした国々の心臓部だったということである。」

 本の最後で氏は、世界の現状を次のように分析する。

「東西対立が終わって以後の世界での大問題は、南北問題と民族問題である。」「時代を読むキーワードは民族であり、多発する民族紛争と混迷する民族対立の根本問題を解きほぐすことが急務である。」「日本人の祖先は、旧大陸で倭人、倭族という名で少数民族扱いをされ、」「強大国の間でその存在を保持するため、ありとあらゆる辛酸をなめ、最後に日本列島にたどり着いた、」「世界で稀に見る民族的経験の豊かな人種なのである。」

 「それは日本人が、他人種、多民族の文化に対しても著しく寛容なところからも言えるのであって、」「日本人くらい他の民族に対し、宗教的な寛容の姿勢を持っている民族は珍しいと言われている。」

 だから日本人は、民族対立の世界でその発展に寄与できるのでないかと、氏は言う。同時に日本人は、世界的視野に立って、厚い神話の幕に覆われた皇国史観をあますところなく打ち砕かねばならないと強調する。

 氏の意見が独りよがりなのか、私の反論が独善的なのか、それは知らないが、私は氏の意見に納得できない。天照大神の神話が現実的でないことを、国民の多くは知っている。同時に世界の王様たちが何らかの形で神話を持ち、権力の裏づけとしていた事実も知っている。国民が大切にしているのは、神話の理屈でなく、連綿として守られてきた皇室の素晴らしさだ。国民統合の中心に存在する天皇を、敬意を持って眺めている。それだけの話だ。

 神話を否定したり、現実に照らして難癖をつけたり、矛盾を暴いたり、そのようなことは誰も望んでいない。まして「あますところなく打ち砕こう」などと、左翼の人間でない限り考えてもいないはずだ。日本人が他民族の文化や宗教に対して、類まれな寛容さを持っていると言うが、それは八百万の神々を受け入れている神道が行きわたっているからでないのか。

 皇国史観をあますところなく打ち砕いたら、神道も打ち砕かれるに違いないし、日本人の素晴らしい特質だって消滅するのではないか。あれやこれや、氏の意見に対しては、国民の一人としてうなづけないものが多々ある。

 

 

 次に読む本の題名と著者を見たら、ため息が出た。安達巌氏著「出雲王朝は存在した」である。いったい叔父はどんな気持ちで安達氏の本を二冊も購入したのだろう。でもまあ、幸いに時間はたっぷりとある。叔父の心を訪ねる旅を、明日も続けるとしよう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いま解き明かす「出雲大社の謎」

2016-06-05 20:41:44 | 徒然の記

 山崎謙氏著『出雲大社の謎』(平成6年刊 (株)ディーエイチシー)を、読み終えた。

 亡くなった叔父の蔵書の一冊だが、目からウロコどころの話でなく、歴史の知識を根底から崩されるような衝撃を受けた。昭和24年徳島県に生まれた著者は、今年67才だ。明大文学部で考古学を専攻し、卒業後は出版社に勤務した。昭和55年に、フリーライターとして独立し活動している。

 学生時代から九州・出雲地方で遺跡の発掘作業に参加しているが、氏は学者としての道を進んでいない。考古学の素人として過ごし、いわば個人的な情熱からこの本を出版している。生まれて一度も耳にしたことのない意見に接し、正直なところたじろいでいる。書かれた内容に驚くと同時に、素人の意見を鵜呑みにして良いのかと、不安も抱いている臆病な自分がいる。

 出雲大社について知っていることといえば、縁結びの神様として名高い神社、あるいは別名大黒様と呼ばれている、大国主の命が祀られる古い歴史を持つ神社ということくらいだ。その私を、氏はのっけからビックリさせる。「世界一の木造建築といえば、東大寺大仏殿。」「私たちは、歴史の授業でそう習った。」「だが出雲大社の社伝によると、本殿の高さは、上古は九七メートル、中古でも四八メートルあったという。」「出雲大社本殿は、平安時代において、東大寺大仏殿より巨大だったというのだ。」「ちなみに現在の高さは、二十四メートルである。」こんなことは氏の本で初めて知ったが、果たして何人の日本人が耳にしている話なのだろう。

 そして、この叙述だ。

「出雲大社は、本殿以外にも付属する神社が多い。」「本殿裏には、大国主の命の岳父といわれる、須佐之男神(すさのおのみこと)を祀る素鵞の社(そがのしゃ)、本殿脇には大国主の命の妻である、多紀理比売(たぎりひめ)を祀る筑紫社などの、各社がある。」そんな神様が祀られていることなど知識のかけらにもなかったが、こうなると出雲大社は、まさに神話の世界にある。

 「日本神話というと、通常 『 古事記 』、『日本書紀』に登場する神話のことを指す。」「日本神話は、大和朝廷の権威づけや、支配の正当性を語るものである。」「古事記の成立は712年、日本書紀の成立は720年である。」ここまでは知っていたが、次のことはもちろん初耳だ。文章を引用すると長くなるので、簡単に述べてみよう。

 『古事記』は皇室の系図と関連する物語を元に書かれているが、『日本書紀』は有力豪族から提出させた『家記』の内容が加えられている。だから、『古事記』が上中下の三巻であるのに対し、『日本書紀』は全30巻と大部になっている。編纂過程で自分たちに都合の悪い部分はどんどん削られたらしいが、地方の神話をそのまま取り上げているものが多々あるのだという。性にまつわる話や、汚い話が多いのはこうした理由だという。

 氏の説によると、古代の日本には大和朝廷と出雲王国という二つの強国が存在し、激しく対立していたのだという。神話の中で出雲が何度も詳しく語られるのは、この強国の平定のため、いかに大和朝廷が苦労したかという証だとのこと。したがって、大国主の命が大和朝廷に平和裡に「国譲り」をしたというのは、事実に反すると氏が驚くべき意見を展開する。

 「王子を失い、部下も次々に死ぬ中で、大国主命は捕らえられてしまう。」「信濃に逃れた建御名方神(たけみなかたのかみ)は、絶望的な戦いを続けていたが、ついに諏訪で戦死してしまう。」「もはや抵抗する勢力もなくなり、出雲は完全に大和朝廷に制圧された。」

 「これからの出雲をどうするか、大国主の命をどうするか。」「大和朝廷では重臣や各国の諸将が集まり、連日会議を重ねた。」「そして大国主の命の処刑が決まった。」「大国主の命は、稲佐の浜で処刑された。」「そして大国主の命という偉大な王に対する畏怖から、大和朝廷はその霊を恐れた。」

 「出雲には100メートルになろうかという、巨大な建造物があり、出雲のシンボルとして全国各地に鳴り響いていた。」「大和朝廷はそこに遺骸を安置し、大国主の命の死の宮殿とした。」「出雲大社は、大国主の命の霊が祟らないようにするため設けられたもので、これがのちの出雲大社の始まりとなる。」

 全国の神社は天照大神を頂点とする、八百万の神々が古代より連綿として一本につながっていると、私はずっと信じていた。だが氏の意見に従えば、古代の日本には大和朝廷と出雲王国が覇を競っていたことになる。詳細を省略するが、当時の出雲王国は、日本海を通じて、北陸地方、北九州、さらには朝鮮半島とも繋がりを持つ、巨大な一大勢力だった。何より驚かされるのは、大和地方が大和朝廷より先に、出雲王国の支配地であったという説だ。

 大国主の命の処刑は、著者の私見であり、「神話に盛り込まれた話を解釈すると、こういう感じになるのではないか」と、注釈も入っている。だが、出雲大社の神座の不思議についての説明を読むと、受け入れざるを得ない私見となる。

 「神座は、一般的には参拝者に対して正対している。」「ところが出雲大社では、横を向いているのである。」「出雲大社では、参拝者に正対する場所に " 御客座" が設けられ、五柱の神様が祀られている。

 「天之御中主(あめのみなかぬしのかみ)の神、高御産巣日(たかみむすびのかみ)の神、神産巣日之神(かみむすびのかみ)」の他、二柱の神だ。出雲大社では、考えられないことが行われいていると氏が指摘する。

  五柱の神様の位置は、大国主の命の下座に位置しているのでなく、むしろ前に立ちはだかって押し込めているというイメージが強いのだという。見た経験もなく、説明を聞いたこともないのだが、もし、この位置関係が事実なら、氏の意見に異を唱える何も持たない私だ。

 「このことは、大国主の命の恨みがいかに強いか、」「またその怨霊を、大和朝廷がいかに恐れたかを物語っているのではないか。」「そこまでして、大和朝廷は大国主の命の怨霊を鎮めたかったのである。」

 荘厳で、穏やかな神の祀られる出雲大社の姿が、自分の中で変貌しつつある。母の里が出雲である私にとって、出雲大社には格別の思いと思い出がある。シベリアに抑留されていた父が戻って来たとき、父と母と三人でお参りしたのは、出雲大社だった。

 私たち家族は九州で暮らすこととなったが、高校入学の祝い、あるいは大学入学の祝いの折には、お礼のお神酒を持参してお参りをした。伊勢神宮のような白木造りの神社に、相通じる日本古来の伝統を感じていたのに、それは敵対する神様の社だった。

 こういう本が、世の中にあったということ。

  私には、まだこの本の中身が信じられず、全てが消化できないまま浮遊している。知ることの喜びと知ることの悲しみとを、一度に味わわされた本だ。私はまた、ここから出発しなければならない。とてもでないが、まだまだ死ぬわけにいかない。 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮内庁御用達

2016-06-02 19:26:36 | 徒然の記

 衣料品や食品で、宮内庁御用達と書かれていたり、言葉で聞いたりすると、それだけで私たちはかしこまってしまう。

 詳しい説明がされなくとも、最高級の品物であると、信じてしまう。決して、手の届かないものだけに、理屈なしに立派だと感じて眺める。宮内庁がいったいなんだと、へそ曲がりの人間がたまにそっぽを向いたりするが、一般的には、何となく感激する国民の方が多数だろう。

 先日JALの広告で、アテンダントの女性が、コンスのお辞儀をしていると苦情を述べたが、なんとANAもNHKのニュース番組も、そうだった。そればかりか、先日の伊勢志摩サミットでは、コンスを広めている団体に、政府から礼法指導の依頼があり、接遇関係者の教育に当たったと、そんな報道を目にした。

 いい加減止めにして欲しい醜い挨拶だというのに、政府が協力し、伝統破壊を進めていると知り、心穏やかならざるものがある。外務省や文部省の元官僚たちまで、コンス式挨拶の普及に手を貸しているというのだから、何をか言わんやである。

 この上、「皇后陛下もなさっています。」と言われれば、わが国では「宮内庁御用達」の金看板以上の力を発揮する。若い人はどうか知らないが、国民の多くは皇室に敬意を抱き、陛下のされることに間違いのあろうはずがないと、信頼している。

 皇后陛下がどこまで意識されているか、知るすべもないが、皇室を疑わない国民の善意を利用し、金儲けに精を出している不心得者がいる。先日ブログで初めて知ったが、小笠原敬承斉と自称する女性が、その中心の一人だった。本家の小笠原礼法では、コンスが否定されているのに、時流に乗った彼女は、小笠原を名乗る資格もないのに、大々的な活動を展開している。コンスの名称こそ使っていないが、朝鮮式礼法を、国際標準の挨拶だと説明している厚かましさだ。

 彼女の立ち上げている団体の名前は、「日本プロトコール協会」と言い、日本の一流企業が、社員教育の一環として、こぞって礼儀作法の教育を一任している。航空会社だけでなく、生命保険会社、デパート、コンビニ業界、果てはNHKを筆頭とするテレビ業界までだ。

 航空会社の元社員や、外務省の元役人などが女性講師として名を連ね、会社の新人教育で指導している。この団体の役員名や構成について、ネットで調べてみたら、韓国に思いを寄せる有名な弁護士や、九条を守る会の活動家や、元の駐韓大使などの名前が書かれていた。

 こうした人々にとって、コンスを広めることは、政治活動の一環であると共に、金儲けにもなっている。ここまでの広がりを持つコンス浸透の実情を知ると、それはもう、私のような一庶民の手に負えるものではない。「プロトコール協会」を構成する人々の思想と信条は、皇后陛下のそれと重なっており、いわばこれらの人々は、宮内庁御用達の看板より、更に強力な金看板を活用している 「 日本文化の破壊者 」たちである。「皇后陛下もなさっています。」 とわざわざ口で言わなくとも、テレビの報道で、皇后陛下の挨拶姿を見ていれば、誰にでも分かるからだ。

 世間では勇気のある人たちがいて、皇后陛下のコンスを非難しているが、臆病な私は、ただ祈るしかできない。皇后陛下が亡くなられ、取り巻きの亡国者たちが支えを失い、日本から消えて行く日を、静かに祈るしかない。

 思えば平成の陛下は、皇后陛下の望まれる通り、庶民と同様の開かれたお姿になられた。あることないこと、芸能人のように週刊誌に書かれ、女性たちを喜ばせたり、悲しませたりしている。私たち庶民の家庭では、かかあ天下が幅を利かせ、それはそれで家庭円満の一助になっている。

 だが国民統合の象徴である天皇家は、果たしてそれで良いのだろうか。一般庶民と同様に、どこへ行くにも、手を組んで歩かれたり、妻が夫より前面に出たり、そのような下世話な姿を、他国の王族たちは国民の前に晒されているのだろうか。

 毅然としておられるからこそ、国民の象徴であり、国民の敬意の中心におられるのだと、私は思料する。陛下が全国に示されているかかあ天下は、国民に悲しみと失望を与えるものでしかなく、庶民のかかあ天下とは、そもそもレベルが同じであるはずがない。庶民の家庭のかかあ天下は、世間の人々になんの影響も与えず、個人の範囲で収束する。

 陛下が黙認されているかかあ天下は、日本の歴史と伝統を壊し、ひいては皇室そのものの、ゆかしい伝統と文化を消滅させていくものにつながると、どうして想いを致されないのか。庶民と違ったお立場にある「国民統合の象徴」は、どうあるべきか。昭和天皇の慎重さを、なぜ引き継がれなかったのか。

 ただ私は、静かに祈るしかない。皇后陛下がお亡くなりになられ、取り巻きの亡国者たちが支えを失い、日本から消えて行く日を・・・・。不遜だと非難する人もいるだろうが、私はこのような時いつも北畠親房の言葉を、心の支えとする。

    「君は尊くましませど、民を苦しめれば、天これを許さず。」

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする