ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

いじめに対する学校の対応

2010-11-23 11:18:32 | 随筆

 ついこの間、桐生の新里東小学校で、六年生の女子児童が、いじめを苦にして自殺した。

 当初学校側は、いじめの事実はなかったと言い、数日後にいじめの事実があったことを認めた。それでも、自殺との因果関係は、分からないと言い張っている。

 インタビューに答える、校長の不誠実さに、顔を背けたくなった。今回だけでなく、以前から疑問に思っているが、亡くなった生徒への、学校の対応には、釈然としないものがある。新里東小学校ばかりではない。死んだ生徒に対する、お粗末な扱い方は、同様の事件を起こした学校に、驚くほど共通している。

 その曖昧さと無責任さに関しては、これが教育界の風土かと、失望を覚えさせられる。いったい校長たちは、何を守ろうとし、何を隠そうとしているのか、疑問が変じて怒りとなる。

 問題を大きくしたくない、なるべく平穏に納めたいと、学校に見られる事なかれ主義の隠蔽体質は、いったい何なのだろう。四角四面なことを言いたくはないが、教育者とは、現実の世界がどうであれ、人の道や社会正義、人間の誠や真実というものを、生徒たちに教える立場にあるのではないだろうか。

 学校の醜態を目にしながら、いったい生徒たちは、何を学びとるのだろう。

 いじめが、一筋縄でいかない問題と、分かってはいるものの、それにしても先生方の積極性の無さは、寂しい限りでないか。校長を筆頭とする、こうした教師たちの鈍感さが、いじめられている子の希望を、砕いているのだと、なぜ思い至らないのだろう。

 いじめは陰湿で、凶暴で、他人に相談すれば、倍返しになる辛いものであり、口先だけの小言や注意では、無くならないのだと、生徒たちは知っている。死んだ子が哀れまれ、何分かの黙祷で、お仕舞いになり、抽象的な注意のみで、明日からの対策がないのなら、いったいどの子が、教師や親に相談をするだろうか。

 頼りない大人に周りを囲まれていれば、結局は、孤独の内に死を選ぶしかない、という生徒が、これからも出てくるはずだ。こんな単純な理屈が、なぜ分からないのだろうか。人は腕力で傷つけられるだけでなく、言葉の暴力によっても、傷つくと言うこと。言葉の暴力で、人が死ぬと言うことを、学校はもっと真剣に教えるべきなのだ。

 他人をいじめて死に至らせるのは、悪事であり、犯罪であると、シッカリ説明しなくてならない。いじめる子はもちろんのこと、見て見ぬ振りをする子も、悪事に加担していることになると、ハッキリ告げるのが、真の教育ではないのか。

 事件があるたび、学校は全体集会とやらを開催し、生徒を集合させ、もっともらしく何かをやり、同時に親たちも、子供とは別に集められ、会議をしている。

 新聞やテレビが、そそくさと会場に消える、生徒や親たちの姿を遠慮がちに映し出すが、そこで何が議題となっているのか、なぜ報道しないのか。クラスでのいじめが、社会正義に反するものだと、そんな話が議題にならないのだとしたら、全体集会などに何の意味があるだろう。

 教育界の組織については、良く知らないが、新聞の報道などで知る限りでは、学校の上に、市や県の教育委員会があり、更にその上に、文部省があるのだと思っている。

 それぞれの組織に、学識経験者と呼ばれる立派な人たちがいて、学校だけで手に負えない、問題への助言や手助けをしているはずなのに、一向にその動きが見えないのは何故なのだろう。

 教育の現場だけに限らず、いったいにわが国では、死んでしまった、あるいは殺されてしまった被害者より、生きている加害者の権利や、人格の方が大事に扱われる傾向がある気がするが、これは私だけの、偏った思い込みだろうか。

 事件の当事者が、未成年同士である場合など、特にその感が強く、犯罪者であるはずの加害者の、将来への配慮が先に立ち、被害者の家族への気配りは、無視されてきた。

 不断は歯切れよく、社会正義を語るマスコミですら、この不公正さと、不公平さにつき、なんのコメントも発しない。世の識者と言われる人々からの、指摘もなく、世間 ( もちろん私も含まれる ) の、誰も声を上げない。

 最近になり、遺族の裁判への参加と、加害者への質問が、やっと許されるようになったが、こうした被害者 ( 死者 ) 軽視の風潮が、そのままいじめ事件に、投影しているのではないだろうか。

 校長や学校関係者が、説明のためにと、自殺した生徒の家を訪ねる場面が、テレビで報道されたが、もし自分が当事者だったら、人格円満でない私は、責任逃ればかりする、校長や関係者など、塩を撒いて、門前払いにすると思う。

 「これでは死んだ娘が浮かばれません」「残念だし、悔しいです」

 顔を映されない父親が、怒りを殺して語るのを聞いていたら、やり切れない悲しみが伝わって来た。

 学校は、普段から、いじめが悪であると言う教育を、授業で行う。家庭では、親が子供たちに、弱い者いじめをする人間は、最低だと常に教え、分からない息子や娘には、ゲンコツをしてでも、説教をする。

 授業参観や父兄会では、いじめについて、意見交換が率直にできるような、仕組みづくりを学校と親が努力する・・。いとも簡単なことではないか。

 即実行に移せるほど、単純な案だ。だが、簡単で、単純なことほど、この世での実行が難しい。

 言っている私が、一番よく分かっているのだから、今日はもう、これで止めにしよう。

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国難の時の政治家

2010-11-18 11:44:27 | 随筆

 民主党、自民党、公明党、社民党、みんなの党、日本共産党、国民新党、たちあがれ日本、新党日本、新党大地と、覚えきれないほどの党があり、議員たちが連日マスコミを賑わせている。

 テレビ番組の中で、特に関心を持っているのは、NHKの国会中継と日曜討論だ。自民党時代の国会中継は、総理大臣や閣僚が、木で鼻をくくったような味気ない答弁を繰り返し、中身を語らなかったが、民主党になってからというもの、不慣れと言うのか失態と言うのか、本音の答弁が増えて、素人に分かり易くなった。

 中身の無い答弁で、国会の議論を空疎なものにしていた自民党に比べたら、民主党の方が、政治を国民に近づけたことは確かだ。

 確かだが、払った代償も大きかった。その最たるものが、鳩山さんの沖縄基地移転問題だった。彼の善意に満ちた、軽はずみな本音の発言で、政府と沖縄県民、日本とアメリカの関係が同時に台無しになり、抜き差しならなくなった彼は、泥沼の中で退陣に追い込まれた。

 彼のひと言で揺らいだ日米関係を好機として、中国が、尖閣諸島で日本を揺さぶりはじめ、更にはロシアも、北方領土に干渉しだし、ひとつの外交の失敗が、まるでドミノ倒しのような連鎖を生むと言う、厳しい現実を知らされた。

 官僚政治を打破し、すべてを政治家が決断するとか、財政破綻を速やかに解消するとか、政治家は、どんなに高邁な理想であっても、やれないことを、不用意に口にしてはならないのだと、高い授業料を払わされて、私たち国民も教わった。もしかすると、ぶっきらぼうだった自民党の大臣たちの方が、政治家としてはまっとうだったのかとまで、思わされてしまうくらいだ。

 しかし私は、変節漢のマスコミみたいに、民主党政権への攻撃や非難を、ここでしようとは考えていない。

 最近のテレビや新聞の報道を見ていると、明日にでも、菅内閣が倒れれば良いという響きを伝えているが、ちょっと待ってくれと言いたい。マスコミのトップにいる諸氏が、どんな人物かは知らないが、あなた方は、本気で国会討論を見ているのかと問うてみたい。今は野党となった自民党の議員たちが、テレビを意識し繰り広げるパフォーマンスを、何と見ているのか。

 国民生活に直結する予算や、関連法案の審議に力を注がず、閣僚の失言や失態を取り上げ、倒閣につなげようと時間を空費している姿を、国民がどれほど苦々しい思いで見ているか、知っているのだろうか。

 威勢良く、沖縄の基地問題の失敗を追求している自民党議員も、政権の座についたら、何が出来るのか考えながらやってもらいたいものだ。中国への弱腰外交だとか、アメリカべったりだとか、政府を追及しているが、それなら自分たちはどうするのか、なにがやれるのかと、対案を持って議論すべきなのだ。

 野党だった頃の民主党も、同じスタンスで自民党政府を攻撃し、倒したが、いざ政権の座についてみると、簡単にやれることはほとんどなかった。だからこそ、民主党も自民党も謙虚に過去を反省し、無責任な野党体質を互いに改め、国難の今はひとつになり、日本国の議員として、アメリカや中国やロシアに対処する方策を考えるべきでないのか。

 その姿が国会中継の中で見えたら、国民である私たちは、次の選挙でどの党に入れるべきか、どの議員に投票すべきかが判断できる。

 与党と野党は、常に反対しあって争うのでなく、同じ方向の中で、手段の違いで論争すべきだし、それがこれからの政治ではないのか。今回の政権交代で、国民が色々なことを学んだのに、政治家とマスコミが、昔のままでは意味がない。

 私がNHKの会長だったら、もっと国会中継のやり方を工夫する。マルチ画面だって出来るのだから、答弁する閣僚へ汚いヤジを飛ばしたり、無用な私語や居眠りをしたりする議員たちを、余すところなく映し出させる。

 空席の議員も明らかにすれば、たとえ菅内閣を倒しても、民主党であれ自民党であれ、次もたいした内閣はできないと、誰の目にも分かる。無駄な倒閣に時間を費やすのでなく、国難の今は国政に専念すべきなのだ。ゴマメの歯ぎしりみたいな提案だが、もし自分がNHKの会長になったら、即座に無修正の国会中継を全国放映する・・、しかし、こういうことでは、私も野党の議員と同じ穴の狢か。

 やれそうもないことを無責任に、偉そうに、喋っているだけなのだから。

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芸術についての私見

2010-11-01 10:33:42 | 随筆

 幸せな人間は、本なんて書きはしない。同様に、幸せな者は絵だって描かない。音楽も創らない。

 大芸術家と言われている人物の、ほとんどが、実は不幸な人間だったと、今は知っている。ことさらに書くというのは、昔はまったく逆を考えていたからだ。

 中学や高校生だった頃、いわば人生で最も多感な折、図書館の壁に飾られた、芸術家たちの肖像画に、強い憧れを抱き、大文豪とか、天才画家だとか、不世出の大作曲家とかに、敬意を表するだけでなく、いつか自分も、世界に名を轟かせる偉大な芸術家になりたいと、愚かにも、不敵にも、ひそかに企んだ覚えがある。

 世間から与えられる賞賛や、華やかな名声が、欲しくてならず、そうした人間の仲間入りができたら、最高の幸せだと、本気で思いこんでいた。「若気の至り」という言葉は、こんな私のためにあったのだろうが、ひと言弁明させてもらえば、そもそも、こうした言葉が存在するということ自体が、若者たちの多くが、常識を外れた思考や、行動をするということの、証明ではなかろうか。

 作曲は別として、作文や詩や絵などに、ちょっと気の利いたできばえを見せ、周囲の大人たちを感心させる、少年や少女の例がいくらでもある。残念なことに、自分もそんな少年の一人だったから、大芸術家になりたいと言う野望が、捨てられなくなった。

 と言っても、別段そのための努力を、人一倍やったとか、誰かについて指導を受けたとか、そういうことはいっさいやらず、好きこそ者の上手なれという言葉を、誇り高く信じ、ひたすら企みを心に秘め通した、ということだ。

 やがて普通の会社に入り、普通の結婚をし、普通のサラリーマンとして暮らしながらも、普通でない企みは持ち続けた。格別良いことも、悪いこともしなかったので、会社を首になる心配はしないで済み、円満に定年退職し、現在に至っている。

 と、言葉にすれば、わずか二行足らずで、叙述完了の人生だが、本人にである私にとっては、結構しんどい日々であったという気がしている。

 そして今、ただいまの現在、しみじみと、己の暮らしの静けさと、穏やかさに安堵し、冒頭の文言「幸せな人間は、本なんて書きはしない。」・・を、思い返している。今の私は、世間をあっと言わせるような、詩や小説や絵などを、書きたいと思わなくなり、無益な煩悶や焦燥から、爽やかに解放されたという次第である。

 年金暮らしなので、たいした贅沢ができるわけでないが、慎ましく生きることの楽しさを、知った。まだ確信はないけれど、自分がやっと、幸せになりつつあるという気がしている。

 だからこそ、私は今現在の若者たちに言いたい。とりわけ、その若者の一部を構成している、わが息子たちに伝えたい。

 「悩みと苦しみの後には、きっと、・・ではなく、必ずや、心の平安が訪れる。」「年をとったら、そんな日がいやでも来る。」「安心して、苦労すべし。」

 と、言いたい。

それにしても、昔の人はたいしたものだ。長く生きて、私がやっと知りえたことを、最初から知っていた。つまり、「若い時の苦労は、買ってでもしろ」。と・・・。

 すべては、こういうことだったのだ。

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