ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

変節した学者 たち - 11 ( 金日成を賛美する、平和主義者末川博氏 )

2017-02-28 14:31:48 | 徒然の記

 「憲法問題研究会」というのは、東京・京都を中心とする、五十数名の学者の、日本の憲法の研究団体である。

 本のまえがきで、大内兵衛氏が述べていましたが、京都の学者を取りまとめているのが、末川博氏です。敗戦後に立命館大学学長に就任した氏は、幅広い著作と実践活動を通して、戦後日本の民主主義と平和運動の発展に貢献し、大きな影響を与えた人物として知られています。

 別途調べた、氏の経歴をを紹介します。

 「明治25年、山口県に生まれ、大正8年に 京都帝国大学法学部を卒業。」「大正9年に助教授となり、ハーバード大学・プリンストン大学など欧米で法律を研究。」「 京都帝国大学教授となり、民法・ドイツ法講座を担当」

 「日本の民法学者。日本学士院会員。京都名誉市民。」「京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長。」「立命館では、末川を名誉総裁として顕彰。」「長男は立命館大学名誉教授で、歴史学者の末川清。」「清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。」「勲四等瑞宝章、従四位、受勲。」

 別の情報では、次のように書いてあります。

 「昭和33年6月には、末川博を中心に、憲法問題研究会の関西支部が結成された。」「研究会は、民主・人権の憲法原理が、戦後政治と国民生活の原動力となってきたという立場から、護憲勢力の一翼を担ってきた。」

  「月1回の研究会をもち、毎年5月3日の憲法記念日に、講演会を催すほか、安保改定時には反対声明を出すなど、日常活動も行った。」「昭和51年に解散。」

 この説明から分かるように、氏は関西における平和・人権活動の中心的存在でした。昭和8年に京大で「滝川事件」が起こり、警察の弾圧が行われた折、氏は大学を依願退職しています。この時京大法学部は教員の2/3を失い、再建も困難になったほどでした。

 氏は大阪商科大学で教鞭をとる傍ら、事件により、止む無く辞職した助教授・副手の復帰に向け活動しました。敗戦後、元教授たちの京大復帰が叶うこととなり、法学部の宮本、瀧川、恒藤、末川の四教授の復職が確実となりました。この歴史的な決定を受け、新聞記者のインタビューに、末川氏が次のように答えています。

 「復帰の正式交渉は受けていない。しかし万一そんな話を持込んできても、はっきり断るまでだ。」「官等や位階勲等を身につけて、講壇に立っている官立大学に、どうして真に民主主義的な学園が、生まれよう。」「研究の自由、大学の自治が、期待出来よう。」

 「欧米の有名な大学、権威ある大学は、殆んど私立である。」「私学においてこそ、学門的良心に反しない、研究態度が求め得られるのだと信じている。」「現在のような教授の顔触れの中に、私が再び仲間入するようなことがあれば、凡そ頭脳を疑われると思うがね」

 反骨精神で氏はさらに有名になり、立命館大学で活躍することになります。氏の業績が詳しく述べられていますので、これも紹介します。

     [ 昭和21年 ]  

       第二次世界大戦が終結すると、立命館大学が末川を学長に迎える。なお、京都大学

     も末川を学長に迎える考えであったが、末川は立命館大学の抜本的改革に着手。

      憲法と教育基本法を尊重して、「平和と民主主義」を教学理念に据えた。

     [ 昭和24年 ]  

       ・理事者・評議員・専任教職員・学生・生徒からなる全学代表による、総長公選制を導入。(初の選挙により同大学総長就任)

   ・同年、学園運営の重要事項の合意を形成する理事会、教授会、学友会・教職員組合などの、全ての学園組織と学生の代表を加えた、全学協議会制度を創設する。

   ・以降、学生・大学院生・教職員と理事会の協議の場を拡大し、教学の民主的発展に努力を行い、末川の思想に基づき「立命館民主主義」と呼ばれる学園運営を行う。

 立命館大学法学部学舎「存心館」の、1階ホールには氏の言葉が掲げられています。

   法の理念は 正義であり   

   法の目的は 平和である

   だが 法の実践は

   社会悪と たたかう闘争である

 末川氏の業績を語るものとして、次のような情報もあります。

 「現在、立命館国際平和ミュージアムに建立されている、記念碑「未来を信じ 未来に生きる」の由来記にある「わだつみの像」は、」「日本戦没学生記念会(わだつみ会)の委嘱によって、昭和25年に彫刻家・本郷新が制作したものです。」

 「アジア太平洋戦争の戦場に出征し、生きて帰ることのなかった戦没学生たちの、〈嘆き、怒り、黙(もだ)した苦悩〉を象徴した記念像として、 当初は、東京大学構内に設置する予定でしたが建立できず、以後本郷新氏のアトリエで眠ったままとなっていました。」

 「昭和26年、立命館大学で開催された「全立命戦没学生追悼慰霊祭」の席上、」「末川総長が、「わだつみ像」を立命館大学に受入れることを表明し、」「全学挙げて誘致の取り組みの結果、立命館大学に建立されることとなったのです。」

 像の台石に刻まれているのが、氏の言葉です。

 「 未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。

   その貴い未来と生命を、聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと、怒りともだせを象徴するのがこの像である。本郷 新氏の制作。

   なげけるか いかれるか はたもだせるか

   きけ はてしなきわだつみのこえ

  この戦没学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている

                一九五三年一二月八日

                 立命館大学総長 末川 博 しるす 」 

  けれども氏は、戦時中にはどのような発言をしていたのか。昭和17年に出版した著書『歴史の側面から』の中より、紹介します。

 「事あらば、命に従って急に赴くの用意と覚悟とのもとに、平常時よりも一段とさかんな意気と感激をもって、学問に精進することを要する。」

 「将来をになう者としての自覚と責任感、そして同年配の友の多くが銃をとりハンマーをにぎりしめている、雄姿を思うての反省、それらによって、学問への熱意はいよいよ高めらるべきである」

  氏はまた、雄山閣出版『金日成伝』の推薦文を、次のようなタイトルと共に書いています。
 
 「朝鮮民主主義人民共和国こそ、立命館大学が理想とする国家である。」
                                                         「 立命館大学名誉総長 末川博 」 

 「人類のながい歴史のなかでそれぞれの民族や国家は、波瀾興亡をくりかえして きたが、現代における奇跡といってもよいほどに、驚異的な発展をとげて、栄光と勝利に輝いているのは、朝鮮民主主義人民共和国である。」

 「かって幾世紀かの間、内憂と外患のために苦しんできた朝鮮民族は、いま金日成首相を天日と仰いで、社会主義国家としての基本路線をまっしぐらにつきすすみ、ゆるぎない基盤を築きあげている。」

  「まさに金日成首相は、百戦錬磨の偉大な政治家であるとともに、国際共産主義運動と労働運動の、卓越したリーダーである。この伝記は、ありきたりの記録ではない。」

 「世界史上にもまれな、民族解放闘争を勝利へと導いた人間金日成将軍の、感動あふれる一大叙事詩であり、輝かしい朝鮮 近代史であり、人類の良心とも希望ともいえる不滅の人間ドラマである。」 

  戦時中は学生の戦意高揚に努め、敗戦後に一転して平和主義者となった氏と、そんな氏を褒め称える日本の軽薄さを、悲しみとともに記録に残します。罪もない日本人を拉致したままの犯罪国家北朝鮮を、ここまで賛美する氏は、まさに関西における「獅子身中の虫の親玉」です。

 こんな人物がいたから、拉致された日本人がいつまでたっても日本へ戻れません

 関西には北朝鮮賛美者の氏がいて、関東にはソ連を称賛する大内兵衛氏がいました。敗戦後の日本は、氏のような反日の左翼学者によって、日本学士会、日本学術会議が占拠されました。東大社会科学研究所と同様、この組織は反日左翼学者の養成機関で、大きな力を持っています。色々調べながら、初めて知る事実に怒りと失望と、悲しみを味わいました。

 しかし希望もあります。私のブログを、読んでくれる方々がいると知ったことです。今まで知られなかった事実が、少しずつでも、広がっていくだろうと期待できるからです。

 私は今回で、「憲法問題研究会」メンバーに関するブログを終えたいと思います。やや疲れましたが、読んでいただいた方々はもっと疲れたことでしょう。そのご苦労にお礼を言うと共に、感謝いたします。

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変節した学者 たち - 10 (反日 マルクス主義者、横田喜三郎氏 )

2017-02-27 16:38:32 | 徒然の記

 横田喜三郎氏は、今回の本では収録されていませんが、末川博氏と共に憲法問題研究会のメンバーです。

 氏は日本で著名な学者であり、裁判官であり、多数の著作もあります。どのような歩みをした人物なのか、別途調べた経歴を紹介します。

  「明治29年、愛知県生まれ、平成5年に96才で没。」「大正11年に東京帝国大学法学部卒業、助教授に就任。」「昭和3年東京帝国大学教授に就任し、ロンドン軍縮会議の日本政府代表団随員として出席、若槻礼次郎首席全権を補佐。」

 「第3代最高裁判所長官、文化勲章、文化功労賞、紺綬褒章、従二位・勲一等受勲など、数々の栄誉に輝く。」

 国務大臣を務めた自民党の猪口邦子氏は、孫に当たります。猪口氏は自民党の議員ですが、横田喜三郎氏はマルクス主義者です。氏に関する批判的な意見が、宮沢氏や家永氏同様ネットの世界には多く存在します。そのうちの一つを、紹介します。

 「かっては、マルクス主義の読書会( ベルリン社会科学研究会 )に参加するなど、親社会主義的的な法学者として知られ、昭和6年の満州事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した。」

 「極東軍事裁判( 東京裁判 )の、法的な不備を認めながらも、裁判自体については肯定的評価を与え、国際法の革命と論文で述べた。なお東京裁判では、裁判記録の翻訳責任者を務めた。」

 「その後東京大学法学部長、日本学士院会員などの地位にあって、日本の国際法学会をリードし、日本の国際法研究から戦時法研究を追放することに、尽力した。」

 「昭和24年の著書『天皇制』などにおいて、積極的な天皇制否定論を提唱した。」

 別の情報では、氏が東京裁判をどのように語っていたのかが掲載されています。日本の戦争犯罪を裁いた、東京裁判の肯定論です。 
 
     〈    横田喜三郎 著『戦争犯罪論』 〉
 
   同書 7ページより
   ・戦争犯罪の理論については、実質に重きをおかなくてはならない。
 
   ・形式にとらわれてはならぬ。
 
   ・形式上のささいな不備などを理由とし、 技術的な理論をもてあそび、実質を無視するようなことがあってはならない。
 
   同書   137ページより
   ・戦争責任者を、戦争犯罪人として処罰することは、形式的には罪刑法定主
  義に反するように見えても、 実質的にはかならずしもそうでないことになる。
 
   ・実質的には、それをおし切って処罰を行うべき強い理由がある。
 
  氏は、米国の言う日本だけの戦争責任論を肯定し、罪刑法定主義の法理を否定し、日本の侵略を米国と共に糾弾しました。次もネットの情報ですが、氏の天皇制否定論を抜粋しています。
 
   〈    横田喜三郎 著『天皇制』 〉
 
   同書 38ページより
      ・いわゆる日本の国がら(注・皇室の推戴を指す)なるものは、実は封建と専制の結果であり、 無知と奴隷的服従が、日本の人民の自然な発達を阻止したために生じた、奇形状態にすぎない。
     
   同書  97ページより
   ・天皇制(中略)の結果として、日本の思想も政治も行動も不健全になり、病的になり、(後略) 
 

 ブログの最初の日に引用した、元玉川大学教授の若槻泰雄氏は、次のような逸話を紹介しています。

   「横田は戦後間もないころは、丸山真男など何人かの学者と共に、天皇の戦争責任を論じている。」「東京大学の国際法教授であった横田は、戦後の昭和23年8月26日の読売新聞に、『天皇退位論』という小論を発表した。」

 「天皇に戦争責任ありとし、退位を求めるその論旨は極めて明快である。」「同24年には、天皇制は民主制と矛盾するとする『天皇制』も出版した。そこでは、天皇制は封建的遺制であって、民主政治が始まった日本では相容れない。廃止すべきである と主張した。」

 「その横田は昭和35年、最高裁判所長官に就任した。そして同41年、勲一等旭日大綬章を授賞、56年に文化勲章を授賞した。」「賞が天皇からの〈親授〉であるため、その過程で横田は、それまでの天皇制廃止論は間違っていたと、前言取り消 をしている。」

 「本屋を回り、著書『天皇制』を回収して歩いたという逸話が残っている。」

  若槻氏はこのように述べていますが、最近私が見た情報では、青山学院大学の名誉教授佐藤和男氏が、回収した本は、『戦争犯罪論』だったと語っています。どちらが正しいのか私には分かりませんが、いずれにしましても、横田氏が本の回収に努力した事実はあるようです。

 都合が悪くなったからと著作を回収するなど、最高裁長官の所業かと首をかしげますが、佐藤和男氏は、横田氏がGHQに協力し、東京裁判記録の翻訳責任者を務めたことの方が許せないようでした。学者の風上にも置けない恥さらしと、厳しく糾弾しています。

  最高裁判所の長官と聞けば、私たちはそれだけで一歩下がって敬意を表し、高潔な人物であると思いがちですが、氏の行動を知ると驚かされます。氏が間違いなく「獅子身中の虫」である証拠が、次の情報ではないでしょうか。

  「横田のような人間は現在もいます。たとえば園部逸夫という人物です。」「最高裁判事として、在日朝鮮人への地方参政権付与に容認的な発言をし、左翼を喜ばせています。」

 「さらに園部は、皇室典範に関する有識者会議に混じり込んで、女系天皇を強く支持したり、今でも女性宮家賛成を主張したりして、マスコミから持ち上げられています。」

 横田氏は裁判所でも後継者を育て、学界でも後継者を育て、大内兵衛氏同様、「獅子身中の虫の親玉」として、死してなお日本の崩壊に力を発揮しています。一般の国民は、女系天皇と女性天皇の区別もつきませんし、今上陛下の退位についても、老齢の陛下に同情するばかりです。

 民進党や共産党は、陛下の気持ちを大切にするためには、退位を皇室典範に書き込み、女系天皇への道も開くべし。これが真の男女男女平等であると、国民の無知をこれ幸いと、マスコミを通じて大合唱しています。

 説明をすると長くなるので止めますが、彼らの合唱の大嘘は、横田氏の人物像を知れば明らかになります。

 反日の宮沢氏と同じく、横田氏も天皇制廃止論者です。彼らに育てられた学者たちが、女系天皇や女性宮家の推進を主張しているのですから、その先が見えます。その先にあるのは、「天皇制廃止」です。

  世間が一目置く肩書きを持ち、マスコミで賞賛されていますが、こうした虫たちのやり口は、巧みな言葉で、最もらしい話を持ちかける「おれおれ詐欺」と同じです。

  今日も、警視庁の標語で最後を締めくくりましょう。

    「ストップ詐欺被害。私たちはもう騙されません。」
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変節した学者 たち - 9 ( 獅子身中の虫の親玉、大内兵衛氏 )

2017-02-26 16:27:53 | 徒然の記

 憲法問題研究会の代表である、大内兵衛氏を紹介する時が来ました。

 氏は大正・昭和初期において、日本で一流のマルクス経済学者と言われ、財政学の専門家でした。まずいつものように、氏の履歴を紹介します。

 「明治21年兵庫県に生まれ、昭和55年に92才で没。」「大正2年に東京帝国大学経済学科を首席で卒業し、銀時計を受領。」「銀時計とは、明治維新から第二次大戦まで、国立大学の成績優秀者に、天皇から褒賞として渡されたもの。」「天皇臨席の卒業式での授与は至高の名誉とみなされ、授与された者は 〈銀時計組 〉と呼ばれました。」

 「大蔵省の書記官を経て、大正8年に新設された東大経済学部に着任。」「助教授として財政学を担当。」「在任中は労農派の論客として活躍、大正9年森戸事件に連座して失職するが、数年後に復職 。」

 「GHQの占領時、大蔵大臣だった渋沢敬三より、日銀顧問に迎えらる。」「東京裁判では連合国側に立ち、証人として出席。」「裁判の内容は、日本の軍国主義教育の実態や教育者への弾圧、言論機関への抑圧、」「警察権力を駆使しての圧制や、脅迫などにより、侵略戦争がいかに準備されかの立証に主眼。」

 「昭和24年に、東大経済学部を退官後、法政大学の総長に就任。」「向坂逸郎と共に、社会主義協会や社会党左派の理論的指導者の一人として活躍。」

 「昭和30年5月から6月、日本学術会議のソ連・中国学術視察団に参加。」「門下の美濃部亮吉の、東京都知事立候補を強く支持。」「美濃部都政を助け、実践面でも社会主義を貫く。」

 大内氏の名前はよく知っていましたが、連合国側の証人として、「日本の戦争責任」を証言していたと知り、瞬時に怒りが爆発しました。彼こそは日本における「獅子身中の虫の親玉」「最大の売国学者」でした。

  この本の中で、氏は「社会保障とは何か」という表題で講演しています。むかっ腹が立ち、ブログを投げ出したくなりますが、それでは、「虫の実体をあきらかにする」目的が達せられないので、堪忍袋の緒を締め、以下、氏の言葉を引用します。

 「憲法25条は、今や有名な条文となった。その条文は、二項からなっている。」

「 1. すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

  2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上、

    及び増進につとめなければならない。 」

 さすが銀時計組だけあり、氏の説明は丁寧で、分かりづらく、親切すぎて回りくどいので、要約することにします。

 つまり国民は権利を持つと書かれているが、書かれているだけの話だというのです。国の義務も、たんなるプログラム規定でしかないので、国民はもっと人権そのものについて考えるべきだと語ります。

 「例えば宮沢俊義氏はその憲法論において、人権を世界人権宣言から説き起こしている。」「人権は長い闘争の歴史を経て、アメリカとフランスの革命を通じて、「成文憲法の形で取り入れられたものである。」

  人権は政治の実践によって実現されるのであり、それを軽視することは民主主義として許されない。進歩に努力しない政府は、憲法の精神に反する者であると氏は説明します。

 「憲法第25条の意味が、このようなことであるとするならば、日本は社会主義を否定したり、排斥したりすることは決してできない筋と思われる。」

 「もともとマルクス主義又は、レーニン主義といっても、本来個人の自由の要求に出発するものであり、到達点もそうであるから、階級的独裁を人権の自由に優先させることでないのは自明であるが、ある条件の元ではそういう傾向をもつのも、又事実である。」

 氏がここまで、マルクス主義の信奉者であるとは思っていませんでした。GHQには共産主義者が沢山いましたし、有能な学者だった氏は彼らに重用され、社会保障審議会の会長に任じられています。会長として総理大臣に「勧告書」を提出し、氏が次のように語っています。

 「審議会の会長として、自分も一役買っているのであるから、こういうことを言うのは自画自賛の手前ミソであるが、それにしてもこれは、日本で初めての社会保障プログラムである。」「新しい憲法のその大切な一節は、この上を動き始めたのである。」

 つまり氏は宮沢俊義氏同様、「GHQに絡め取られた学者」というより、自ら積極的に協力した「売国の学者」でした。宮沢氏と違うのは、最初から最後まで、マルクス主義者で押し通し、変節しなかったところでしょう。

 GHQの威光さえ手にすれば、何をしようと、敗戦後の日本では我が世の春で、氏の意見は力を持ちました。

 「日本の社会保障予算は、外国と比べてどうだろう。国連統計によると、日本は西ドイツ、イギリス、スエーデンにはるかに及ばない。」「アメリカやカナダは案外低いが、それは日本に比べ、下層の国民があまりに富んでいるからである。」

 「この点から言えば、日本は完全な後進国であって、前途遼遠というしかない。そのことはまた、先進国と比べて、社会党、労働党がその力を持っていないということの反射でもある。」

 氏が語っているのは昭和33年の資料ですが、その頃の日本はまだ貧しかったのです。昭和30年にソ連・中国学術視察団の旅を経て、氏が語った言葉、恥ずかしい寝言を、何としてもブログ残し、わが息子たちに読ませたいと思います。

 「私も、社会主義を勉強すること実に40年であるが、なにぶん進歩が遅く、社会主義がユートピアであるか、科学であるか、今まではっきり分からなかった。」「しかしソ連へ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることがしかと分かった。」

 「ロシアの経済学は、二十世紀の後半において、進歩的な特色のある学問として、世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。こういう歴史の変革のうちに、経済学者としていよいよ光彩を加える名は、レーニンとスターリンでありましょう」

 悲惨な「ハンガリー動乱」と、ソ連の圧政に蜂起したハンガリー国民については、次のように述べています。

 「ハンガリアは、( 米・英・日と比べて )政治的訓練が相当低い。そのため、ハンガリアの民衆の判断自体は、自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的地位を理解していなかったと考えていい。」

 「ハンガリアは、あまり着実に進歩している国ではない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」

 それでも東大経済学部には、現在も彼の名前を冠した「大内兵衛賞」が存在し、優れた学生が表彰されています。他にも、政府統計委員会委員長として、戦後の統計学の再建に尽力した業績を記念し「大内賞」というものもあり、統計界の最高栄誉とされています。

 こうしてみますと、「獅子身中の虫」退治は、至難の技であることが理解できます。私はこれまで、敗戦後の自民党の保守政治家が何もしてこなかったと責めてきましたが、そうでないことも薄々わかりました。

 GHQに利用され、逆にGHQを利用した「獅子身中の虫」たちは、手強い組織を国内外で作っています。ソ連やアメリカにも政治的人脈を持っていますから、時間の助けを借りながら、ゆっくりとしか退治できないのです。

 戦後70年が経過し、国民の多くが事実を知るようになったので、これからが本当の「虫退治の時」になるのかもしれません。

   「ストップ詐欺被害。私たちはもう騙されません。」

 おれおれ詐欺防止のため、警察庁が作った標語ですが、「虫退治」にもそのまま活用できそうです。それにしても平成3年のソ連崩壊を、氏が生きていたら、なんと語ったのでしょうか。これほど日本を蔑視しソ連を賞賛していたのですから、昭和55年に亡くなるのでなく、平成3年まで長生きして欲しかったと思います。

 氏がその時存命なら、103才です。「憎まれっ子世にはばかる。」と、諺に相応しい一生でしたのに、惜しいことをしました。

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変節した学者 たち - 8 ( 朝日新聞が捏造した、家永氏像 )

2017-02-25 19:02:03 | 徒然の記

 もう一日だけ、家永氏について語ろうと思います。

 昭和24年に東京教育大学の文学部教授となった後、氏は次第に反権力的自由主義者として有名になっていきます。

 昭和29年には教育基本法と学校教育法、いわゆる「教育二法」が「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、反対運動に参加しました。同じ年に「東大ポポロ事件」の第一審判決があり、この判決を支持しました。

 ポポロ事件とは、昭和27年に東大の学生たちが、「松川事件」を題材にした演劇の発表会をしていた会場に、監視のため私服警官が混じっていたのを発見し暴行を加えたというものです。

 裁判所の一審判決は学生に対し、大学の自治を理由に無罪を言い渡しました。事件は朝日新聞等で連日大きく報道され、世間を賑わせました。昭和34年に、氏は東京都教組の勤務評価反対裁判に証人として出廷し、東京教育大学への不法捜査に対して、警察庁に抗議をおこないました。

  氏を有名にしたのは、東京教育大学 ( 現筑波大学 ) の移転問題です。経過の記録がありますので紹介します。

  •  昭和34年 キャンパスの敷地の狭隘さを理由として、三輪学長により提案された東京教育大学のつくば移転計画を巡り、教育学部、理学部、農学部、体育学部が賛成するが、家永をはじめとする文学部は人文科学の研究・教育にとって、史料が豊富にある東京に残ることが必須であると主張し強く反対した。
  •  昭和42年 長期にわたる議論を経ても合意に至らず、東京教育大学評議会は筑波における土地取得を開始した。
  •  昭和43年  移転に反対する文学部自治会の学生が、大学本部のある本館を占拠するなどし紛争が激化した。学生たちは教授陣はすべて権力側であるとみなし、反対派の家永に対しても激しい罵声を浴びせた。
  •  昭和44年 学長事務取扱(学長代行)が機動隊の入構を許可し、学生を排除。家永はこれをクーデターであると批判した。
  •  昭和45年 大学評議会は、文学部の教授、助教授、専任講師の人事権に制限を加え、筑波移転に賛同しないものの採用を停止し、元文学部長、前文学部長、および家永の3人の文学部教授の辞職を、文学部教授会に要求した。
  • 文学部教授会はこれを拒否し、家永は筑波移転問題を「反動文教政策」の一環であると述べ、教授陣による自治的な大学の運営体制を、学長を中心とした中央集権的な運営に移管させることだと反対し、この紛争は、政府および財界が、大学への介入をもくろんだことが原因であると主張した。
  •  昭和48年 筑波大学法が制定され、筑波移転が正式に決定した。筑波移転に伴い文学部の学生募集が停止され、昭和52年の家永の定年退官時には、同学部定員がほぼゼロとなっていた。家永は、筑波大学について「きわめて非民主的な、従来の国立大学とは全く異質」の大学であると述べている。

 移転問題を詳しく転記したのは、紛争の中心人物が家永氏であったからです。学生たちの騒ぎは、権力をかざす政府や大学と戦う姿として朝日新聞を賑わし、さらに氏を有名人にしました。けれども私は、別の見方をします。未来の学園都市を作ろうとする政府に逆らった、氏の理由を思い出してみましょう。

 「人文科学の研究・教育にとって、史料が豊富にある東京に残ることが必須である。」と、こんな理由は文学部の教授には重要だとしても、他の学部や、大学の未来計画を無視するほどの理由でしょうか。私はここに、氏の学者としての狭量さを見る気がしてなりません。

 次もネットの情報ですが、戦う自由主義者として、氏の名前を高めた活動記録です。朝日新聞を筆頭に、マスコミ各社が支援の記事を書きました。

  • 昭和30年 自身が執筆した高校歴史教科書『新日本史』の再訂版の、検定合格条件を巡り文部省と対立した。
  • 昭和32年 第三版が検定不合格となり、文部省に抗議書を提出した。
  • 昭和38年 『新日本史』第五版が一旦検定不合格、翌年に条件付きで合格した。この際に300余りの修正意見が付され、家永は教科書検定制度に対する反対意見を強めた。
  • 昭和40年 教科書検定違憲訴訟を提起。
  • 昭和42年 『新日本史』が再び不合格となり、検定不合格の取り消しを求める訴訟を提起した。 
 氏が亡くなった時、朝日新聞の記者が追悼記事を書きました。朝日新聞の記事捏造は、当時から変わらなかったことが分かります。サンゴ礁の損傷記事、慰安婦の大嘘など、いずれも社長が辞任した捏造報道ですがこれも同類です。

「朝日新聞は、家永が死去した際の追悼記事(平成14年12月2日付。高橋庄太郎記者による署名記事)で、」「氏の父親を「陸軍将官」と表記していた 。」「しかし4日に出された訂正記事で、「陸軍軍人」の誤りであったとしている。」
 
 「この追悼記事では、父に先立たれた家永が、貧しい生活の中で、」「学問に打ち込んだ、と書かれていたが、」「父が死んだのは家永が35歳のときであり、既に史料編纂所に勤務して2年が経過していた。」
 
 「また、陸軍少将の恩給は、父が死ぬまで月額240円前後が支給されていた。」「小学校の校長の月給が100円前後の時代である。」「このエピソードを紹介した、元日大教授秦郁彦は、貧しいとは言いかねるのではないかと指摘し、」「この「訂正」が、家永のイメージ作りのための曲筆ではないかと見ている。」
 
 国民が気づかなければ、誤報でも嘘でも頬かむりする朝日新聞の、というより、日本のマスコミの卑しい心情が表れています。日本に巣食う「獅子身中の虫」、「駆除すべき害虫」と、これまでブログで述べてきました。岩波新書の『憲法と私たち』を再読し、執筆している学者たちがまさしくこれだと発見しました。だから、少しくらい面倒でも、虫たちの実態を明るいところへ出したいと頑張りたくなります。
 
 亡国の憲法を守り、日本の再生を妨害している彼らの実像を知れば、騙される人間が一人でも減れば良いと考えます。
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変節した学者 たち - 7 ( 東京教育大学教授 家永三郎氏 )

2017-02-24 20:06:47 | 徒然の記

 家永三郎氏は、『歴史の教訓』という題で講演しています。内容に入る前に、氏の略歴を紹介します。

 「大正2年、愛知県生まれ、平成14年に89才で没。」「日本の思想家として著名。」「東京教育大学の教授を長く務め、東京大学や東京女子大学でも、日本思想史の講義を担当。」「父君は、陸軍少将・家永直太朗氏。」

 氏の講演を紹介します。

 「私の掲げました題目は、ごらんになっただけでは、なんのことか分からないだろうと思います。」「歴史を勉強していますので、歴史家の立場より、過去の歴史の中から、我々が学ぶべきものを汲み取り、憲法との関連で考えてみたいと名づけた次第です。」

 「今から80年ほども遡る、明治10年代のことでありますが、われわれ日本人が、かってまだ近代的な憲法を持たなかった時代です。国内において、二つの意見が激しく対立していました。」

 「民間では、極めて民主主義的な憲法を作ろうとする、強い動きがありました。明治10年前後まで、非常に高まっておりました民主的な憲法を作ろうとする国民の意識が、切り崩されまして、結局前近代的な、天皇制イデオロギーを中核とする明治憲法が、国家権力の一方的なイニシアチィブで作られてしまいました。」

  明治の初期に元勲たちが、西欧文明と日本との国力の差にいかに驚嘆したか。一日も早い日本の近代化のため、どこに力を注いだか。西欧列強の植民地支配の恐ろしさを知っているだけに、どれほどの危機感を抱き政治の舵取りをしていたか。

 氏は歴史家と自らを紹介しているのに、元勲たちの政府を糾弾するだけで、当時の状況を少しも語りません。前回のブログで戒能氏が語っていたように、日本には全体として個人の意識がなく、人権の概念さえありませんでした。家長氏の話を聞きますと、当時の日本で、民主主義と国家主義の二大勢力の対立があったように聞こえます。

  「政府は、権力をもって自由民権運動を弾圧すると同時に、教育を強く統制することによって、国民意識を根本的に切り替えようとするに至ったのであります。」「学校では、基本的人権を教えるより、むしろ権力者に対する、国民の従順な気持ちを養成しようと、こういうことになってしまったのであります。」

 「当時の教科書で、愛国という言葉が使われておりますが、もとより広い意味での愛国ではなく、軍国主義的な、あるいは民主主義と切り離された、国家主義という意味での、愛国というものを意味するものであります。」

 「明治初年からその後期にかけて、日本の教育政策が大きく転換していった経過を、あらまし申し上げました。」「教育を通して与えられる影響が、どんなに大きなものであるかということは、われわれが自分の過去を振り返ってみれば、よく分かることです。」

 「最近読んだ本のことは忘れても、小学校時代に教わった教科書の内容は、挿絵とか文章の配列に至るまで、ありありと思い浮かべることができるくらいです。」「そういう大きな影響力を持つ教育が、政府の権力によって切り替えられましたことを、明治の歴史で学びました。」

 「私は、単にこういう事実が昔あったことを申したいのでなく、実はそれとまったく同じことが、私たちの目の前で繰り返されていると、申し上げたいのです。せっかく日本国憲法の精神が、国民に浸透してきた時だというのに、政府が教育を通じてこれをなし崩しにしようとしているのです。」

 占領軍の対日本政策が、民主化より再軍備へと変わったため、政府の主張も再軍備へ向かい、憲法改正へ動いていると氏が説明します。この意見について私は、半分当たっているが、半分は間違っていると考えます。

 日本の保守政治家なら、アメリカの政策がどうであっても、憲法改正が頭にあるはずです。アメリカに魂を売り渡した宮沢教授でさえ、マッカーサーの憲法押しつけは「国際法違反」と知っていたのですから、保守政治家たちがいつまでも黙っているはずがありません。

 立派な言葉が使ってあるからといって、国情に合わない憲法を有り難がっているというのは、私のような庶民でも屈辱と思えいます。

 ネットの世界では、先日の宮沢氏と同様、家永氏についても多くの批判意見があります、真偽は確認できませんが、その一つを参考情報として紹介します。

 「家永は当初から反権力志向だというわけではなく、青年期には、陸軍士官学校の教官を志望していた。試験に合格しても、胃腸に慢性的な持病があり、身体検査で落とされるという経歴を持っている。」

 「戦後は昭和天皇にご進講したり、学習院初等科の学生だった皇太子殿下に、歴史をご進講するなど、皇室との関わりを持っていた。」「昭和22年出版の『史学雑誌 』に、〈教育勅語成立の思想史的考察〉という論文を出し、昭和23年には、斎藤書店から出版した本に、〈日本思想史の諸問題〉という論文を掲載し、この中で家永は、明治天皇と教育勅語を高く評価している。」

 「また、昭和22年に冨山房から出版した『新日本史』でも、明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は、穏健かつ保守的な史観に依拠する立場を取っていた。」

 論文や文章が掲載されていないため、紹介できないのが残念ですが、それらがあれば、氏の変節ぶりが一目瞭然になったはずです。

  氏を批判した人物とっても、氏の変節に疑問であるらしく、あまり要領を得ない文章ですが紹介します。

 「家永の思想が、反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる、昭和25年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに、憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。」

  「それは敗戦直後の、手のひらを返したような言論界、思想界の豹変ぶりや、歴史学界における史的唯物論の風靡に違和感を抱き、反発の姿勢を示したことによる。」「特に昭和35年に刊行した『植木枝盛研究 』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据え、国家権力と対峙する姿勢で問題に取り組むようになった。」
 
 信念のある学者なら、世の中がどう動こうと泰然としていると私は思います。敗戦直後の言論界、思想界の豹変に反発したと言って、自分が一緒になって豹変してどうするのでしょう。朝日新聞に沢山の話題を提供し、売り上げに貢献したためか、氏は亡くなったのちにも、朝日新聞厚遇され、守られました。
 
 GHQの協力者となった宮沢俊義氏は、紛れもない獅子身中の虫でしたが、家永氏も勝るとも劣らない人物です。予想した通り、不愉快な夜となりました。
 
 幸い本日は休肝日なので、アルコールは無しです。呑めば悪酔いするに決まっていますから、本当に良かったと思います。
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変節した学者 たち - 6 ( 掃き溜めの鶴 ? 戒能通孝氏 )

2017-02-23 20:32:27 | 徒然の記

 憲法問題研究会編『憲法と私たち』( 昭和38年刊 岩波書店 )。

 現在、この本の書評を綴っています。あまり長くなるため時々確認しないと、自分が何をやっているのか分からなくなりそうです。

 今日は、この本の編集者である戒能通孝氏について紹介します。氏は明治41年に長野県で生まれ、東京帝国大学を昭和5年に卒業しています。穂積重遠、末弘厳太郎教授を師とし、在学中は、貧しい人が多く住む区域に定住し、住民と親しく触れ合って、その生活向上に努める社会運動に参加しています。

  卒業後満鉄調査部の「日満財政研究会」に参加し、軍による東亜を経済的に支える統制経済計画の策定に、関与しました。敗戦後には、東京裁判でA級戦犯と指定された、鈴木貞一氏の補佐弁護人を務めています。鈴木氏は「背広を着た軍人」と呼ばれ、東条英機の側近の一人だったため、GHQに目をつけられていた人物です。

  昭和24年に早稲田大学の教授、昭和29年には都立大学の教授となり、昭和39年教授を辞任した後は弁護士として活動します。農民側の弁護をした「小繋 ( こつなぎ ) 事件」や、金嬉老事件の弁護団長をしたことが氏を有名にしました。

  調べてみますと、中野氏や宮沢氏ほどの変節はありませんが、氏もまた、敗戦の日本を生きた一人ということが分かります。氏は本書で、『プライバシーの権利』という表題で講演しています。

  「プライバシーとは、何でもないことであります。ようするに、自分の生活を大事にしたい、他人から覗き見されたり、覗き込んだようなことを書かれたり、話されたりしたくない、こういうことでありまして、この権利が尊重されねばならないのは、当然のことと思います。」
 
 「ところがこうしたプライバシーの権利は、過去において、そういう権利があることさえ考えさせない程度まで、保護が弱かった。プライバシーの社会的、国家的保護の弱かった理由は、どこにあるのか、それをまず考えてみるべきと、思うのであります。」
 
 氏は、興味深い意見を述べます。
 
 「日本の社会制度の基本が、家族制度にあったという考え方は、おそらく明治後半の日本憲法学を支配した、穂積八束博士あたりの創作でないかと存じます。家族制度が本格的に存在したのは、武士の間に限られていたようであります。」 
 
 「武士といっても、庶民同様に生活していた、下級武士は含まれません。つまり下級武士や庶民の間にあっては、家族制度というものはじつは無かったのです。」
 
 氏は庶民を支配したのは家でなく、村であったという、民俗学者橋浦泰雄氏の説を紹介します。村落生活で必要となる草や薪集めは、共同の場所で行われ、村が細かく管理規定を定めていた。あるいは最も大切な水も、村が管理していたと、氏は例をあげて村支配の実態を説明します。
 
 「もっと大きかったのは、旧時代の租税連帯納付制でした。税が村全体にかかっていましたから、村は村民を働かせ、払えない人が出ないようにする必要が、ありました。」
 
 「村民を一人前にするため、若者組その他の規則がございました。一日に田を何枚植えるとか、草を何貫刈り取り、山まで何度往復するとか、こうした基準で、互いを監視したのです。」
 
 「村の支配者が、村民を一人前にするためには、結局村人の生活を裸にし、彼らを批判に晒すしかなかったのです。一面では、一人前の農民を作る役割を果たしていたのですが、他面では、プライバシーの欠如につながりました。」
 
 だから日本の社会には、プライバシーという観念が育たなかったと、説明します。中級以上の武士たちはそうでなかったのなら、なぜ日本全体のような話に広がったのかと、疑問を持ちました。
 
 江戸末期から明治にかけて、日本の人口はおよそ3,000万人で、その内農民が約90%の2,700万人でした。武士の人口比率がたったの3.6%で、ここから下級武士を除外すれば、日本の社会制度の基本が家族制度にあったという考え方は、力を失います。
 
 「プライバシーの欠如が引き起こす問題は、人間の強制的均一化でございます。隣がテレビを買ったから、自分の家でも買わなくなならないという競争心になります。隣の人は穏健思想だから、うちも穏健でないと一人前でない、とこうなります。」
 
 「これがもう一歩発展しますと、相互に活動を牽制しあって、お互いに何もさせないという社会になります。何か変わったことや前進的なことをすると、異常な人であり、出過ぎもんと、考える習慣を生み出していきます。」
 
 最近の左翼学者が、「同調圧力」と言う聴き慣れない言葉で日本社会を語りますが、すでに戒能氏が分かりやすく説明しています。
 
 「ところが社会の進歩は、常に何らかの意味において、他人から変な目で見られた人によって、切り開かれて来たのであります。社会科学の発達は、今なおそうであり、いわんや社会生活の改革が、そうした人なしにあり得ないということは、いうまでもない事実であります。」
 
 「私たち自身が他人の言葉に煽られ、そして煽られた結果、自分の運命を他人の手に任せたり、あるいは自分の問題を、他人が解決してくれると思い込んだり、考えたりしてはなりません。」
 
 「解決方法を、どうしたら自らの力で探し出すことができるか、そのためには先ず、くだらない話よりも、日常の会話で重要な問題を話す習慣を身につけたいと、思うものです。」
 
 「プライバシーの権利のつもりが、何か学校の道徳教育のようになりました。お許しいただきたいと存じます。」
 
 ここで、氏の話が終わります。言われてみますと私の読書も、解決方法を自分の力で探すためです。氏の話は、日本人なら誰もが耳を傾ける内容です。憲法問題研究会の中に、氏のような人物がいたと知ったことを喜びます。久しぶりに、気持ちが明るくなりました。
 
 明日は家永三郎氏ですから、こんな和やかな夜が迎えられますものやら。こうなればもうケセラセラ、なるようになれです。お休みなさい。
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変節した学者たち - 5 ( 何度も変節した憲法学者 宮沢俊義氏 )

2017-02-23 07:56:08 | 徒然の記

 今日は日本の憲法学の第一人者と言われる、宮沢俊義氏について述べます。氏は明治32年に長野県で生まれ、昭和51年に77才で亡くなっています。

 氏の講演は『神々の共存』という表題で、平易に語られているので、そのまま紹介します。

 「いったい政治における正義とは、なんでしょう。原始人にとっては、その属する部族の正義が、人間社会のただ一つの正義だったようです。その部族の正義を決めるのは誰かと言うと、それは多くの場合、その部族を守ってくれる神でありました。」

 「神は、喋ったり書いたりしませんから、生きた人間が代わって喋ったり書いたりしてくれなくては」「神の言葉は人間に通じません。多くの場合、その神の代人となるのは、その部族の政治的支配者でした。つまり王の声が、神の声だったのです。」

 「しかし人間はやがて、自分の部族の正義とは違った正義を示す神が、存在することを知るようになります。王の声が神の声という原則に、疑いを持つようになります。」「いうまでもなく、これが人間の本質に内在する合理精神です。」

 「歴史は、同じ人間の社会でも、昔と今では違う神が存在し、違う内容の正義が存在することを教えてくれました。」「日本でも昔は、殉死やハラキリや仇討ちが、正義に叶うと考えられていましたが、今ではそうでないことを私たちは知っています。」 

 子供向けの童話みたいな話から、氏の意見は、次第に戦前の日本への批判に繋がっていきます。憲法学の泰斗にしては、あまり知的でない中身です。 

  「民主主義や自由主義は国体に反するから、それを否定するように教育しろと、全国の教員に指示した文部省が、それから十年とたたないうちに、教育は民主主義と自由主義にもとづかなくてはいけないと指示したことも、私たちは良く知っています。」

 ここから本論が展開されますが、どう読んでもレベルの低い内容です。紹介するのが面倒になりますが、信じてもらえないでしょうから続けます。

  「人間は大まかに言って、次の二つの道のどちらかを取ることを余儀なくされると思います。」「第一の道は、自分の神をどこまでも主張する道です。この道に立てば、何が正義か確実に分かるわけですから、あらゆる手段で、それを排除して当然だということになります。」

 「日本国の正義が、人間社会でただ一つの正義だとすれば、天皇の 〈みいつ 〉 に  〈まつろわぬ 〉者どもは、 武力をもってでも〈まつろわせる 〉のが正義になります。」

 「この道を進んだ当時の為政者たちは、これに逆らう者を、国の内外を問わず警察力や軍事力によって、徹底的に押さえつけようとしたのです。アウシュビッツの道もこれでしょう。」

 「ナチの指導者たちは、ユダヤ人を悪魔に間違いないと確信していましたから、平然と、いや冷然と、彼らを徹底的に処理しようとしたのでしょう。」

 日本を非難するとき、左翼反日たちが、二言目には「ナチの犯罪」を口にするのは、ここから来ていたのかと発見しました。

 憲法の第一人者と言われる氏は、ヒトラーの『わが闘争』を読んでいたのでしょうか。本の中でヒトラーは、ユダヤ人を悪魔だと一度も言っていません。彼がユダヤ人を嫌悪し、敵意を燃やしたのは、彼らがドイツやオーストリアで、経済と政治とマスコミを支配していたからです。不正確な意見を公然と主張する氏に、疑問を抱きます。

 どうやら氏は、天皇について個人的な恨みでもあるのか、頭から否定しようとしています。戦前の学界で自由主義思想が、保守の学者から排斥されたので我慢がならないのかもしれません。それならそのことについて語るべきで、わざわざナチスのユダヤ人迫害の話を持ち出す必要はありません。

 「第二の道は第一の道と違って、自分の神や正義の他に、それと違ったさまざまな神や正義の存在を、承認する道です。」「自分の神や正義を守り続けるけれど、他の神が自分たちの神と並んで存在することを、承認し容認します。すなわち、多くの神々の共存ということです。」

 「日本の憲法は、二つの道のどちらを取るのでしょうか。明治憲法は、たぶん第一の道に傾いていたようです。」「これに対して、戦後の憲法の取る道が、第二の道であることはきわめて明瞭です。」

 「戦後の憲法は、思想、学問、表現の自由を確立しました。天皇の神格は否定され、天皇制の批判も自由になりました。戦後の憲法の取った道は、平和の道といってもいいと思います。反対の神々の存在を排除せずに、それらと共存しようとするからです。」

 私の認識では、世界で一番神々に寛容な国が日本です。キリスト教国やイスラム国、あるいはインドのヒンズー王朝などでは、神の名においてどれだけの殺戮が行われたことでしょう。

 歴史の事実と比較すれば、日本は無原則と言われるほど寛容です。これが世界の常識ですが、氏の非常識な意見はどこから導かれるのでしょう。その一端を示唆する意見がありますので、参考のために紹介します。

 「宮沢氏は当初 、日本国憲法の制定は、日本国民が自発的自主的に行ったものではない。」「大日本帝国憲法は、部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能だという見解を持ち、押しつけ憲法論の立場に立っていた。」

 「氏の変説の理由について、駒澤大学名誉教授の西修氏が、〈東京帝大教授で憲法の権威であった宮沢には、GHQから相当の圧力があったであろう〉、という説を紹介している。」

 「氏の学説は、変節を繰り返した。当初は大日本帝国憲法の講義の際、〈憲法第一条から第三条まで、これは伝説です。講義の対象になりません。省きます〉、として進歩的立場を示していた。」

 「美濃部達吉の天皇機関説が批判されると、岩波書店から出した『憲法略説』で、主張を一変した。」

 「皇孫降臨の神勅以来、天照大御神の新孫この国に君臨し給ひ、長へに、わが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が、確立した。」

 「現人神として、これを統治し給ふとする、民族的信念の法律的表現である。神皇正統記の著者が、『大日本は神国なり』と書いた所以もここに存すると、その主張は、神権主義に変化した。」

 この意見が事実を述べているとするなら、氏が変節の学者だったと言う話になります。自分の変節した過去を隠し、正当化するため、天皇を批判し戦前の政府を批判していることになります。

 「宮沢氏は敗戦後、松本烝治憲法大臣と美濃部教授とともに、助手として帝国憲法改正作業に従事していた時、外務省に対して憲法草案について、新憲法は必要なしとアドバイスしていた。」

 「占領軍が松本大臣を嫌っていることを知ると、氏は彼らを裏切った。」「ここで占領軍に取り入れば自分は神のごとき権威になれると判断した。なぜならGHQは権力を振りかざすことはできても、細かな国際法や憲法学の議論ができなかったからだ。」

 「占領国による被占領国の憲法改正が、国際法違反であるということをGHQも認識していた。本来は無効である日本国憲法の正当化理論を、宮沢氏はひねり出した。」

 「その詭弁が、〈8月革命説 〉だ。つまり昭和20年8月15日に、日本では革命が起きていた。  日本は天皇主権の君主国から、まったく別の国民主権の共和国になった。すなわち昭和天皇が、共和国の初代天皇になる。」

 昭和革命説について、私は一度も聞いたことがありません。宮沢氏が本当にこんな説を主張したのかと、詐欺かペテン師の話に聞こえます。しかし、同様の情報がネット上にありますから、あながち嘘と決めつけることもできません。

 グーグルで、「宮沢俊義」といれて検索しますと、類似の情報が沢山出てきます。敗戦後の日本で、反日左翼の氏が占領軍と一体となり、どれだけ日本を破壊したかと、そら恐ろしいほどの情報があります。

 最後にその中の一つを紹介し、氏に関するブログを終わります。

 「昭和42年の『憲法講話』(岩波新書)で、氏は、天皇はただの公務員だと述べ、死去する年の昭和51年には、『全訂日本国憲法』(日本評論社)で、天皇はなんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって、機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在だと、解説した。」

 憲法問題研究会には、今日の日本をダメにした有害な学者が集まっていたと、私には確信となりました。最後の情報での氏の意見には、我慢のならない怒りが生じますから、説明はいたしません。

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変節した学者たち - 4 ( 民法の第一人者 我妻栄氏 )

2017-02-22 18:35:04 | 徒然の記

 今日は『知られざる憲法討議』という表題で講演した、我妻栄氏を紹介します。

 大学に入学したばかりの頃、「我妻さんの『民法講話 』 だけは、買っとけよ。」と先輩に助言され即実行しました。古本でなく、ぴかぴかの一年生の自分と同じ、新冊です。氏は「民法の第一人者」として、学生に語り継がれている学者でした。

 結局、氏の偉大さを実感することなく社会へ出て、今回55年ぶりに再会致しました。何時ものように、氏の略歴を紹介します。

  「明治30年、米沢市の生まれ、昭和48年に76才で没。」「東大で法学博士、民法学者、名誉教授となる。「米沢市の名誉市民、文化勲章を受章、没時叙勲では勲一等旭日大綬章。」

 現憲法の制定に関係し、家族法大改正の立案担当者だったのですから、氏の一生は栄光と名誉に飾られています。氏の偉さを理解することなく、私は大学を卒業しましたが、次のようなネットの情報に接し、やっと理解しています。

  「金融資本主義の更なる発達により合理化が進むと、企業は人的要素を捨てて、自然人に代わる、独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨て、企業と国家との種々の結合や、国際資本と民族資本との間に、絶え間なき摩擦等の問題を産む、と氏は予測した。」

 「氏の予測は、現代社会にそのまま当てはまるものも多く、近代法における債権の優越的地位は日本の民法史上、不朽の名論文とされている。」

 米国の横暴なグローバル企業、ことに国境を無視した国際金融企業の悪辣さを、あの時代に予測したというのですから、大した学者です。凡庸な学生だった自分が理解できなくて当然だったと、これもまた納得しました。

  そして今回、氏の講演によりさらに貴重な事実を教えてもらいました。

 「終戦の翌年 ( 昭和21年 )に、当時の帝国大学総長南原繁は、学内に 憲法研究委員会を設けた。」「敗戦日本の再建のために、大日本帝國憲法を改正しなければならないことは、当時一般に信じられていただけでなく、政府はすでに改正事業に着手していた。」

 氏の叙述を読むと、憲法が国にとってどれだけ大事なものかが、伺い知れます。敗戦の翌年には、すでに政府が検討を開始していたというのですから、放心してぼんやりと、GHQの提案を待っていたのではなかったということです。

 「多数のすぐれた学者を持つ、東京帝国大学としても、これについて貢献する責務があると考えられたからであろう。発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも、確かであった。」

 委員の一覧表が挿入されていますので、貴重な資料として紹介します。

 委 員 長 宮沢俊義 ( 法学部 )

 特別委員 高木八尺 ( 法学部 )  杉村章三郎      岡 義武  末弘厳太郎

      和辻哲郎 ( 文学部 )  舞出長五郎 ( 経済学部 )

 委  員 我妻 栄 ( 法学部 )  横田喜三郎      神川彦松  尾高朝雄

      田中二郎      刑部 荘       戸田貞三 ( 文学部 ) 

      板沢武雄      大内兵衛 ( 経済学部 )  矢内原忠男

      大河内一男    丸山真男 ( 法学部助教授 ) 金子武蔵 ( 文学部助教授 )  

  左翼教授の名前が多く見られますが、メンバーの全員がそうであるのかについては知りません。

「委員会が議論を始めた時、突如として政府の憲法改正要綱が発表された。委員会が発足してから、わずか二十日の後である。」「そこで委員会は予定を変更し、追って発表された、内閣草案  ( 政府案 )と取り組むこととなった。」

 「憲法改正要綱について討議決定し、第一次報告書を作成した。」「次いで内閣草案について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。」「報告書は南原総長に提出され、総長は、学内の有志に求められるままこれを示したが、正式に公表しなかった。」

 氏の講演をわざわざ引用したのは、日本国憲法の制定過程での秘話が語られているからです。

 「当委員会の討議の模様については、残念ながら記憶がない。だが、かすかに残っていることが二つある。ひとつは天皇制についてで、意外にも根深い対立があることを見出したことである。」

 「今一つは、〈憲法改正要綱 〉が発表された時の、多くの委員の驚きと喜びである。ここまで改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思っていなかった。」

 「それは委員が漠然と予想していた成果を、大きく上回っていた。ここまでの改正ができるのなら、われわれはこれを支持することを根本の立場として、必要な修正を加えることに全力を傾けるべきだ。」

 「当時極秘にされていたその出所について、委員は大体のことを知っていた。しかも、これを〈 押しつけられた不本意なもの 〉と考えた者は一人もいなかった。」

 自由主義や社会主義を信じる教授たちは、戦前は保守の教授たちに攻撃され、押さえつけられていましたが、マッカーサーの「お墨付き」が、彼らを解放しました。これで学内というより、広く学界での勢力争いに大勝したのですから、その驚きと喜びが分かります。

 「委員のうちの相当の数が、貴族院議員、や法令制定を任務とする委員会の委員となったので、その際には、憲法研究委員会で得た知識を活用した。」

 こうして東大の左翼教授たちは、政府委員として、あるいは議員として、その発言が重要視されるようになります。東大だけにとどまらず、関西、近畿、中部、中国、四国、九州、北海道と、教授たちの連携が広がり、マッカーサーと阿吽の呼吸で通じた彼らが一大勢力となり、現在の「憲法改正反対」勢力の先頭に立っています。

 日本の頭脳とも言える学者たちなので、彼らが戦争や平和、自由、人権など、個別の概念を述べ始めると、思わずうなづかされます。フランス革命やアメリカの独立、あるいはイギリスでの王制と市民の戦いなど、歴史を交えて説明されれば、私などは博学ぶりだけでも感心させられます。

 しかし私が問うてみたいのは、先生たちは、どうしてそれほど簡単に日本の歴史を捨ててしまえるのか、ということです。私には、氏たちのような知識はありませんが、庶民の常識はあります。

 マッカーサーやGHQが、理念として立派な言葉を憲法に散りばめても、日本だけが間違った戦争をしたとか、暴虐非道なのは日本だけだったとか、どうしてそのような極論まで嬉々と受け入れるのかという疑問が消えません。

 日本は神国であるとか、天皇陛下が世界の統率者だとか、そのような妄言は言いませんが、生まれ育った国を足蹴にするような学者は、人間としての常識がないと思えてなりません。

 江戸の末期以来、武力で侵略してくる西洋列強を前に、ご先祖がどれだけ血と汗を流してきたか。どれほどの苦労や献身を重ねてきたか、この教授たちには、そうした「国民としての常識」が欠如しているのではないでしょうか。

 こういう先生たちが栄光に輝いていても、私には、GHQを足がかりに出世し、反日左翼思想を広げた「獅子身中の虫」にしか見えません。

 最後に、我妻氏のエピソードを紹介します。敗戦後の日本で、氏がどれほど大きな影響力を持っていたのを示すものです。記事を掲載したのは、反日マスコミの筆頭である朝日新聞だったと言うことも、確認しておきます。

  「第二次岸内閣が、新日米安全保障条約のために、衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決をおこなった直後の、昭和35年6月7日『朝日新聞』に、氏は「岸信介君に与える」と題した手記を発表した。」

 「ここで氏は岸首相の退陣を促し、条約批准書交換の日の昭和35年6月23日に、岸内閣は総辞職した。」

 辞職のタイミングが偶然重なっただけかもしれませんが、反日左翼学者と朝日新聞のつながりは、偶然ではありません。

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変節した学者たち - 3 ( 自民党内のハト派宇都宮徳馬氏 )

2017-02-21 22:43:26 | 徒然の記

 宇都宮徳馬氏は、『憲法九条と日本の安全保障』という表題で講演しています。

 「自民党内のハト派」「自民党内の平和主義者」と、朝日新聞で語られていましたから、私は今でも氏が良心的な政治家だという印象を持っています。今回本を再読し、氏の経歴を調べてみますとまた別の発見がありました。

 「明治39年生まれの氏は、父の意志で東京陸軍幼年学校に入学するが中退し、旧制水戸高等学校に入学。」「水戸高校時代にマルクス主義に傾倒し、京都帝大に入学した。」「河上肇に師事し、社会科学研究会に参加した。」

 「同年、日本共産党の一斉検挙が起き、宇都宮は事件後の同会でリーダーを務めた。」「しかし、論文が不敬罪に問われて検挙され、京大を退学した。」「その後、日本共産党に入党するが、昭和4年に治安維持法違反で逮捕され投獄、約1年間にわたり、獄中生活を送る。」

 「獄中で転向を表明して釈放され、その後、株式相場で 満州事変に関係した軍需企業の株式に投資し、大金を得る。」「これを資金に医家向けの製薬会社、ミノファーゲン製薬本舗を設立し、同社社長に就任した。」

 という経歴の持ち主で、父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎氏です。参議院議員を2期、衆議院議員を10期務め、日中友好協会会長をし、最後には政府から正三位勲一等を受けています。

 中野好夫氏は、敗戦後に一度変節をした人物ですが、宇都宮氏の人生は、簡単に言えば「変節の繰り返し」です。軍人の父に反抗し、軍人嫌いになる子息の話は時折耳にしますが、「会社の社長をしながら、元共産党員」というのは、まっとうな神経では続けられないだろうと、小心な私は敬意すら覚えます。

 似たような人物を探しますと、セゾングループの総帥だった故堤清二氏がいます。もの柔らかな人物として、マスコミで持て囃されていましたが、言行不一致の偽善者の面がありました。

 宇都宮氏は自民党を出て、他の党へ行き無所属になり、またどこかの党へ入りと、このような変節の政治家が、よく選挙民に見放されなかったと不思議でなりません。

 その氏が語る「憲法九条」です。

 「虚心に憲法前文と第九条を読めば、現在の自衛隊が違憲であることは、明白だと思う。」「それに劣らず大切なのは、日本の土地に百数十の基地を持つ米軍と、日本の自衛隊とが、一体化した形で日本を武装しているという事実だ。この武装の事実と、憲法九条との関係をどうみるかという点である。」

 「それは、日本に駐留している米軍やその基地は、日本の防衛のためなのか、それとも米国の防衛のためなのかという問いに他ならない。」「日本に駐在する米軍が、どんな内容のものであるかについては、機密に属することが多いらしく、日本政府でさえ詳しくは知らされていないようだ。」

 「日本政府としてはいずれを取っても、答えきれない問題が出てくるはずで、結局は、日米両国の一体的防衛のためという答えを、選ぶよりほかないのだろうと思う。」

 学生時代の私は、氏の経歴も知らなかったし、日本の歴史にも疎かったので、理路整然とした意見に惹かされたのか、次のような主張にも疑問を持ちませんでした。

 「ここで注意しておきたいことは、米ソがお互いを 、 平和の敵 呼ばわりをしているが、アメリカの言う共産主義の侵略性向は、いわば強盗の論理であるに対し、中ソ側の言う米帝国主義は、マルクス主義的な社会科学分析を背景とした、いわば歴史の論理であるという点である。」

 「歴史の論理として言っているのに、アメリカはこれを強盗の論理としてしか受け取らないという、食い違いが生じている。」

 今ならこんな意見は一笑に付されるのでしょうが、当時は、というより左翼の人間は今でもそうでしょうが、「マルクス主義は科学で、正しい理論だ。」という神話があり、これに基づいて氏が語っています。マルクス主義が科学でなく、正しい理論でもないことは、崩壊したソ連と国民弾圧政府の中国が証明しています。その事実を見て、日本人の多くが目を醒ましました。

 当時の状況を勘案すれば、宇都宮氏のバカ話も、多少は考慮する余地がありますが、左翼反日主義者の歴史的講話として氏の意見を紹介します。 

 「最近まで植民地であった国にとって、その国の真の解放と経済発展につき、いかなる制度が多数の支持を受けるかという点である。」「旧植民地国においては、共産党がそれであり、社会主義制度かそれであるとなっていても、それは少しも不思議ではない。」

 「中国自体がその良い例だが、中国共産党こそが半植民地中国の解放という仕事において、献身的努力を一番実行してきたという事実を、誰も否定できないだろう。もしその点に疑いがあるというのなら、どん底にある貧窮者の地位向上において、共産主義者や社会主義者と競争すればよい。」

 平成12年に93才で氏は亡くなっていますが、存命なら、こんな大見得を切った自分を恥ずかしく思ったのではないでしょうか。亡き氏についてはもうやめますが、忘れてならないのは、マルクス主義の神話が今や、信仰のレベルにまで高まり、反日左翼教授たちに受け継がれているという、今の日本です。

 反日左翼の教授たちは勿論のこと、反日のマスコミもこの信仰にかぶれ、中国やソ連の批判はしません。自分の国である日本を悪しざまに言っても、社会主義国については口をつぐんだままです。

 「東に米国を、西に中国と朝鮮を包し、その両者と深い関係を持つ日本こそが、この地域の冷戦緩和にあけぼのをもたらす地位にある、という感だけはますます強くなる。憲法第九条は、まさにそのためにあるような気がする。」

 これが、氏の講演の結びの言葉です。どういう具合に憲法九条と結びついているのか分かりませんが、こんな意見に、学生だった頃の私は心を動かされていたのです。何度も言いますが、「無知故に騙されることがないよう。」、父として子供たちに心からの注意をしたいと思います。

  今夜はこれで終わりとし、続きはまた明日といたします。

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変節した学者たち - 2 ( 学習院大学教授 久野収氏 )

2017-02-20 20:58:48 | 徒然の記

 『憲法第九条の思想』について講演した久野収氏は、ネットの情報によりますと、明治43年に生まれ、京都帝国大学を昭和9年に卒業しています。哲学者、評論家として有名で、戦後日本の政治思想や社会思想に大きな影響を与え、「戦後民主主義」の形成に寄与した人物の一人だということです。

  氏は中野氏と異なり、敗戦後に主張を変えた変節の学者でなく、一貫して軍隊に反対した左翼思想家です。しかし今、氏の主張を改めて検証しますと、「真剣な空論」としか言えない部分が多々見受けられます。こういう人物が、60年安保闘争やベ平連の思想的指導者として活動していたというのですから、世の中がおかしくなるはずと納得しました。
 
 氏は学習院大学の講師を長らく勤め、その後教授になったそうですから、現在の学習院大学の荒廃にも、きっと影響を及ぼしているのでしょう。
 
 中野氏と同じく、憲法がGHQからの押しつけという事実を認めながら、氏は左翼言論人らしく、別の観点から主張を展開します。
 
 「戦争指導者とその周辺は、国民の目と耳と口を縛りあげることによって、敗戦と占領を、みずから招き寄せたのではなかったか。」「その責任を分有する人々が、今になって、声を大にして押しつけを叫んでいるとすれば、この論理は生きた人間の心を打ちにくい。」
 
 「その人たちが、憲法改正を言い出すことができるためには、押しつけの論理だけでは不十分であって、戦後の15年間に、日本が二度と戦争を繰り返さない方法を、どれだけ徹底的に考え抜いたかを証明した上でなければならない。」「戦争は戦争、占領は占領という、首尾一貫性の足りなさで、憲法のような重大な問題を扱っては困るということを、言っているのである。」
 
 横の席に並んでいる中野氏のような変節学者に、何も言及しない氏の奇怪さは、横に置くとします。私が感じる素朴な疑問は、日本だけを悪とし、誤りと決めつけている氏の意見の、哲学者らしからぬ粗雑さです。
 
 国益のエゴをぶつけ合い、列強が争う国際社会への見識のない人物が、指導的哲学者であり、評論家だというのですから、敗戦後の日本お粗末さが見えます。
 
 この時期に、林房雄氏が『大東亜戦争肯定論』を書き、左翼の彼らから危険な思想家として攻撃されていたのだと、理解しました。世界一の強国だったのアメリカが、敗戦国日本を裁き、戦争の責任を日本だけに負わせた、あの不可解な「東京裁判史観」が、日本中を席巻していたのがこの頃です。
 
 私もやっと分かったのですが、昭和20年から30年代は、アメリカの威光を利用し、左翼思想家たちが息を吹き返した時期でした。大内氏が代表を務める「憲法問題研究会」のメンバーたちもがこれに便乗し、大手を振って反日・反戦を唱え、「日本悪玉論」を世間に広めていた時でもあります。
 
 こうした状況を知るほどに、林房雄氏の見識と勇気を再認識します。ここで、久野氏の話に戻ります。
 
 「国民の大多数は、すべての戦争からの安全保障が第一だと考えた。そのためには、安全保障を戦争という手段に求める悪循環から、断ち切る必要があると直感した。」
 
 戦力放棄の憲法が作られた理由はここにあると、氏が主張します。この意見については、若槻氏が自分のブログで批判しています。
 
 「久野によると国民の大多数は、国の安全保障を 直感から、戦争放棄の決断にしたという。」「憲法、とりわけ不戦・非武装という超重大事が 、直感からきているとは、いくら日本人が軽率な国民とはいえ、あまりにもばかばかしい話である。」
 
 しばらく、若槻氏の意見を紹介します。

 「さらに、久野は言う。」「専門的な軍備体系とおさらばした、デモクラシーによって国を守り、アジアを守り、世界を守る気概。」「軍備によらない非武装攻勢、正真正銘の平和攻勢による、予防的防衛の道が開かれていないかどうか、この方向を慎重に吟味しなおしてみる必要がある。」

 「武装による先まわり反撃よりも、非武装による抵抗の方がずっと有効なのではないか。」「米ソ両国が愛用する原水爆のような 秘密兵器”は、非武装的防衛力には、全く必要ありません。」「真実に立脚した組織的宣伝こそ、軍備と切れた平和攻撃の最大の武器なのです。」

 「彼は、対外宣伝こそが非武装防衛の根幹と考えているらしく、次のようにも言っている。」「 すべてのマスコミ機関を動員して、正真正銘の平和運動を、展開しなければならない。」

 「報道機関を、1つの国家的目的のために動員しようというのだから、社会主義国か、戦争中の日本と同様になる。」「彼の平和攻撃には、マスコミの動員だけでなく群民蜂起、いわゆるゲリラ戦を主張しているような個所もある。」

「久野は、次のようにも言う。」

 「国民が、自主的に自分を組織した防衛運動こそ、最大の反撃力であり、その気概と方法が、国民のあらゆる部分にみなぎっている時、非武装的反撃力は、武装的攻撃力のはたしえない、抑止効果を発揮するのである。」

 「 自衛戦力なき自衛という、一見もっともらしいスローガンにひそむ、 悲惨なる結果について、これを主張するものたちは知っているであろうか。」「このことを充分検討したのであろうか。久野には、論理を尊ぶべき哲学者とも思えぬ、我田引水の独断もある。」

 「中国戦線における日本軍の場合でも、国民政府支配下の地域より、民衆の大部分が敵となった中共軍の勢力圏のほうが、はるかに残虐行為が多かった。」「主要な原因はこのためであった。」

 「何やら抽象論ばかりで分りにくい哲学者久野の文章の中で、次の個所は珍しく理解しやすい。本音を書いているから、文が明解なのかもしれない。」

 「たとえしぶしぶであっても我々の国をあけわたし、奴隷になっても、生命、財産、国土を温存するのが、いちばん被害が少くてすむ方法であることは、いうまでもありません。」

 「防衛力をもたずに丸はだかでいる方が、屈辱や強制や占領を度外視すれば、マイナスやロスが少いのは、明らかである。」

 なるほど、敵が攻めてきたら、戦わずに殺されるというバカな学者の話は、こういう理屈の延長なのかもしれません。左翼学者の意見には常識がありませんので、若槻氏も反対しています。

 「 屈辱や強制や占領を度外視した防衛論などは、この世に存在しない。」「外国からの屈辱や強制や、占領を防ぐのが、防衛なのだ。」「彼の言おうとしていることは、日本が他国の侵略を阻止しようとしたら、内乱を覚悟しなければならない。」「そういう事態を回避しようとすれば、外国の軍事力を前にして、屈辱と強制に甘んじなければならないが、戦争の被害よりはまだましだろうというわけである。」

 天皇制廃止論者である若槻氏なので、何でも賛成とはいかないのですが、久野氏への批評に関する限り同意します。戦力を放棄して外国に占領され、屈辱や強制に甘んじるなどと、こんなたわごとを、どこの国の哲学者が言うでしょう。自分の妻子、あるいは両親が、他国に無無残に殺されて、誰が甘受すると言うのでしょう。

 氏のような左翼学者の妄言が、敗戦後の70年間で全国に広がり、日本の歴史を蔑視する人間を育てました。それだけでなく国を守るために亡くなったご先祖たちを、犯罪人として否定するような馬鹿者まで粗製乱造しました。

 「戦争になったら、私は逃げる。」、と言った森永卓郎氏は、東京大学の卒業生です。国家有為の人物を育てようと、明治政府が作った大学が、今ではこんな腑抜けの人間を社会に出すようになりました。恥を知らない森永氏はテレビで活躍し、新聞や雑誌に意見を乗せ、日本崩壊のため頑張っています。

 ですから獅子身中の虫の育ての親の一人である久野氏を、容認することができません。同時に「憲法問題研究会」につきましても、容認する気になれません。

 この面倒なブログを、果たして子供たちが読んでくれるのかどうか。自信を失いそうになりますが、本日はここまでとし、続きは次回です。

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