303ページ、島田教授の著書を、そのまま転記します。
「治外法権の撤廃や、満鉄付属地の移譲はもちろん、関東州の返還まで考えていた、」「理想主義者石原莞爾の指導下にあった満州は、まだよかった。」「昭和7年8月に、石原が満洲を去った後、満州国は明らかに傀儡化の一途を辿った。」
「〈五族共和の精神〉と〈王道楽土の理想郷建設〉は、石原が、建国時に本庄司令官を中心に語りあった約束だった。」
戦略的に日本の指導下にある満州国だったとしても、石原大佐が関与していた当初は、理想があったということが分かります。しかし満州国の良い所は、これだけで終わります。悪いところの例として、満州国皇帝溥儀陛下と、弟溥傑殿下の妃・愛新覚羅浩様の回想記の一部を、紹介します。
〈 満州国皇帝溥儀陛下の回想録 〉
「土肥原は挨拶がすむとすぐ本題に入り、張学良が満洲人民を塗炭の苦しみに陥れ、」「日本人の権益や、生命財産の保証もしなくなったので、」「日本はやむおえず出兵を行なった、と言った。」「彼はまた、関東軍には満州に対して領土的野心は全くなく、」「誠心誠意、満州人が新国家を建設するのを援助するものである、と言った。」「この国の元首として、私は全てを自主的に行うことができるのである、と言う。」
土肥原とは、土肥原賢二大佐のことで、最終階級は陸軍大将でした。謀略部門のトップとして、満州国建設に中心的役割を果たし、東京裁判でA級戦犯 となり、死刑判決を受け処刑されています。
次は、満州国皇帝に即位した後の言葉です。側近だった忠臣が、関東軍の手によって叛逆罪で処刑され、皇帝自身も身の危険を感じます。
「この事件が起こってから私が理解したことは、いかなる訪問者にも、」「本心を話さず、訪れる客に警戒心を抱くことだった。」「1937( 昭和12 ) 年になると、関東軍はさらに新しい規則を作った。」
「私が外部の者と会うときは、いつも〈帝室御用係〉の吉岡安直参謀が、」「そばに屹立していなければならない、と言うのである。」
長い回想記ですが、偶然にも愛新覚羅浩様の自伝とつながりますので、ここで割愛します。
〈 弟溥傑殿下の妃・愛新覚羅浩様の自叙伝 〉
「満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。清朝最後の皇帝宣統帝(溥儀)を、満州国皇帝にかつぎあげたのも、この関東軍でした。」
「満州国建国の翌々年、宣統帝は二十八歳で満州国皇帝となります。」「しかし、当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、」「関東軍によって行動の自由も無く、」「意思表示もできない傀儡の生活に甘んじなければなりませんでした。」
浩様の回想記に嘘のないことが、次の叙述で分かりました。
「関東軍のなかで、宮廷に対して権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。」「大佐は、私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。」
吉岡大佐は、二人のお見合時からの付き添いで、当時は中佐でしたが、のちに中将となった人物です。他人を悪し様に語らない著者が、何度か名前を出し、溥傑殿下に無礼を働く様子を書いているところからして、余程腹に据えかねていたのだろうと推測できました。吉岡大佐は、皇帝宣統帝だけでなく、溥傑ご夫妻の監視役でもあったわけです。
「吉岡大佐に限らず、〈五族協和〉のスローガンを掲げながらも、」「満州では全て日本人優先でした。」「日本人の中でも、関東軍は絶対の勢力を占め、」「関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。」「満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば、」「虫けら同然の存在に、映ったのかもしれません。」
石原莞爾大佐が満州を去らなければ、ここまで酷くなかったのかもしれませんが、事実は浩様の語る通りだったのです。
「日本の警察や兵隊が店で食事をしても、お金を払わず、威張って出て行くということ。」「そんな話に、私は愕然としました。」「いずれも、それまでの私には想像もつかなかった話ばかりでしたが、」
「そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の、」「〈五族協和〉というスローガンが、このままではどうなることかと、」「暗澹たる思いにかられるのでした。」「日本に対する不満は、一般民衆から、満州国の要人にまで共通していました。」「私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。」
保守の人々は、満州の広野に産業を起こし、豊かな土地に作り替えたのは日本だと言います。急激に人口が増え、安心して住める平和な土地になった満州・・それをしたのは日本だと、説明します。これも間違いない一つの事実です。
しかし私たちは、日本と満州という二つの祖国を持ち、心を引き裂かれながら生きた浩様の言葉を、無視してはいけません。浩様は、親である公爵・嵯峨実藤氏と同時に、夫である溥傑殿下を大切にしていました。
日本は満州国の人々に対し、良いこともしたのでしょうが、悪いこともしています。お二人の回想記が、それを教えてくれます。もしかすると、今でも日本を憎んでやまない韓国・朝鮮にも、私たちは、同じことをしていたのかもしれません。過去の屈辱の百倍も千倍も返している、現在の中国や、韓国・北朝鮮に、これ以上謝罪することはありませんが、日本人として心に刻むべきは、溥儀陛下と浩様の語られた事実です。
今回で『満州事変』の書評を終わり、次は今井武夫氏著『中国との戦い』です。