ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『満州事変』 - 12 ( 心に刻むべき事実 )

2021-10-30 18:14:40 | 徒然の記

 303ページ、島田教授の著書を、そのまま転記します。

 「治外法権の撤廃や、満鉄付属地の移譲はもちろん、関東州の返還まで考えていた、」「理想主義者石原莞爾の指導下にあった満州は、まだよかった。」「昭和7年8月に、石原が満洲を去った後、満州国は明らかに傀儡化の一途を辿った。」

 「〈五族共和の精神〉と〈王道楽土の理想郷建設〉は、石原が、建国時に本庄司令官を中心に語りあった約束だった。」

 戦略的に日本の指導下にある満州国だったとしても、石原大佐が関与していた当初は、理想があったということが分かります。しかし満州国の良い所は、これだけで終わります。悪いところの例として、満州国皇帝溥儀陛下と、弟溥傑殿下の妃・愛新覚羅浩様の回想記の一部を、紹介します。

  〈 満州国皇帝溥儀陛下の回想録 〉

  「土肥原は挨拶がすむとすぐ本題に入り、張学良が満洲人民を塗炭の苦しみに陥れ、」「日本人の権益や、生命財産の保証もしなくなったので、」「日本はやむおえず出兵を行なった、と言った。」「彼はまた、関東軍には満州に対して領土的野心は全くなく、」「誠心誠意、満州人が新国家を建設するのを援助するものである、と言った。」「この国の元首として、私は全てを自主的に行うことができるのである、と言う。」

 土肥原とは、土肥原賢二大佐のことで、最終階級は陸軍大将でした。謀略部門のトップとして、満州国建設に中心的役割を果たし、東京裁判でA級戦犯 となり、死刑判決を受け処刑されています。

 次は、満州国皇帝に即位した後の言葉です。側近だった忠臣が、関東軍の手によって叛逆罪で処刑され、皇帝自身も身の危険を感じます。

 「この事件が起こってから私が理解したことは、いかなる訪問者にも、」「本心を話さず、訪れる客に警戒心を抱くことだった。」「1937( 昭和12 ) 年になると、関東軍はさらに新しい規則を作った。」

 「私が外部の者と会うときは、いつも〈帝室御用係〉の吉岡安直参謀が、」「そばに屹立していなければならない、と言うのである。」

 長い回想記ですが、偶然にも愛新覚羅浩様の自伝とつながりますので、ここで割愛します。

  〈 弟溥傑殿下の妃・愛新覚羅浩様の自叙伝 〉

  「満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。清朝最後の皇帝宣統帝(溥儀)を、満州国皇帝にかつぎあげたのも、この関東軍でした。」

 「満州国建国の翌々年、宣統帝は二十八歳で満州国皇帝となります。」「しかし、当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、」「関東軍によって行動の自由も無く、」「意思表示もできない傀儡の生活に甘んじなければなりませんでした。」

 浩様の回想記に嘘のないことが、次の叙述で分かりました。

 「関東軍のなかで、宮廷に対して権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。」「大佐は、私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。」

 吉岡大佐は、二人のお見合時からの付き添いで、当時は中佐でしたが、のちに中将となった人物です。他人を悪し様に語らない著者が、何度か名前を出し、溥傑殿下に無礼を働く様子を書いているところからして、余程腹に据えかねていたのだろうと推測できました。吉岡大佐は、皇帝宣統帝だけでなく、溥傑ご夫妻の監視役でもあったわけです。

 「吉岡大佐に限らず、〈五族協和〉のスローガンを掲げながらも、」「満州では全て日本人優先でした。」「日本人の中でも、関東軍は絶対の勢力を占め、」「関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。」「満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば、」「虫けら同然の存在に、映ったのかもしれません。」

 石原莞爾大佐が満州を去らなければ、ここまで酷くなかったのかもしれませんが、事実は浩様の語る通りだったのです。

 「日本の警察や兵隊が店で食事をしても、お金を払わず、威張って出て行くということ。」「そんな話に、私は愕然としました。」「いずれも、それまでの私には想像もつかなかった話ばかりでしたが、」

 「そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の、」「〈五族協和〉というスローガンが、このままではどうなることかと、」「暗澹たる思いにかられるのでした。」「日本に対する不満は、一般民衆から、満州国の要人にまで共通していました。」「私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。」

 保守の人々は、満州の広野に産業を起こし、豊かな土地に作り替えたのは日本だと言います。急激に人口が増え、安心して住める平和な土地になった満州・・それをしたのは日本だと、説明します。これも間違いない一つの事実です。

 しかし私たちは、日本と満州という二つの祖国を持ち、心を引き裂かれながら生きた浩様の言葉を、無視してはいけません。浩様は、親である公爵・嵯峨実藤氏と同時に、夫である溥傑殿下を大切にしていました。

 日本は満州国の人々に対し、良いこともしたのでしょうが、悪いこともしています。お二人の回想記が、それを教えてくれます。もしかすると、今でも日本を憎んでやまない韓国・朝鮮にも、私たちは、同じことをしていたのかもしれません。過去の屈辱の百倍も千倍も返している、現在の中国や、韓国・北朝鮮に、これ以上謝罪することはありませんが、日本人として心に刻むべきは、溥儀陛下と浩様の語られた事実です。

 今回で『満州事変』の書評を終わり、次は今井武夫氏著『中国との戦い』です。

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『満州事変』 - 11 ( 関東軍の名称 )

2021-10-29 16:16:10 | 徒然の記

 「満州事変」と、「満州国」について、正しいことも間違ったことも隠さず、事実を両面から考えることが重要になります。

 前回私はこのように述べ、関東軍と政府の政策の長所・短所を、併記するつもりでした。しかし現在、その気持ちが無くなっています。

 過去のブログで、自分の書いたことを、念入りに調べて驚きました。数えるのも面倒なくらい、満州事変と満州国に関する本を読み、その都度書評を書いていました。しかも長所・短所を併記していますから、これ以上同じことを繰り返すのは、「ねこ庭」を訪問される方々にとっても、「退屈の押しつけ」にしかなりません。

 愛新覚羅浩(ひろ)さんの著書「流転の王妃」がその最たる例で、4回も5回も、引用していました。つまり私は、本の書評を書くたびに、この著書に言及していたということです。公爵・嵯峨実藤氏の長女として生まれ、満州国皇帝溥儀の弟溥傑様と、関東軍により政略結婚させられた方です。

 平成21 ( 2009 ) 年からブログを書き始め、今年でまる12年になります。その間、誰かの著書を読むたびに、以前のブログを忘れ、似たような書評を述べていたことになります。物忘れがひどくなったのでなく、没頭すると周りが見えなくなる、自分の性格がそうさせています。

 今回じっくりと過去のブログを探し、読み返して唖然としました。

 「これでは、息子たちに読んでもらえない。」・・・失意の発見でした。

 戦前の日本に関する私の意見は、判で押したように同じで、読んでいると、「またこれか、」と思わされました。反日学者の紋切り方の文章を、散々批判しているのに、自分の文が単調な繰り返しでした。「ねこ庭」を訪問される方々が、よく我慢して読まれたものと、申し訳なくなります。

 率直に言いますと、「関東軍と日本政府の、満州国設立は間違いだった。」となります。しかしこれはあくまで、現在からする意見なので、左翼学者たちのように、当時の軍や政府への批判には直接つながりません。

 私は林房雄氏の「東亜100年戦争説」を、正しい見方と考えています。幕末の薩英戦争・下関戦争に始まり、日清・日露戦争を経て、昭和20年に連合国軍に敗れるまでの戦争は、一貫して日本の自衛戦争でした。

 現在明らかになっている資料で考察しますと、泥沼の日中戦争以後、連合国軍との戦いは、日本が進んでしたというより、米・英・ソによる挑発でした。無謀な戦争へ突き進んだ軍が悪い、破滅に至る前で戦争をやめればよかったと、左翼の学者たちが言います。

 連合国側が、日本を徹底的に消耗させる方針ですから、そうした学者たちの意見は、事実を無視した空論です。一旦走り出した戦争を、あの頃の日本で、誰が止められたというのでしょう。

 ソ連が崩壊した原因は、長期にわたるアフガニスタン戦争でした。当時、二大覇権国の一方として君臨していたソ連を崩壊させたのは、アフガニスタン軍ではありません。アフガニスタンを支援し続けた、米国を筆頭とする西側諸国です。ソ連は、ゴルバチョフ書記長の時代で、アフガン戦争のため財政が疲弊し、軍事力、経済力がジリ貧となり、結局はベルリンの壁の崩壊とともに、滅びました。

 国が傾く戦争と分かっていても、崩壊するまで、自分で止められないのが戦争です。ベトナムに介入した米国は、南側に傀儡政権を何度も作りましたが、結局ホーチミン軍に敗れました。ベトナムを支援したのは、ソ連を中心とする東側諸国です。米国の威信は地に落ち、国内の世論が分断され、深刻な精神の病がベトナム戦を戦った兵士を蝕みました。

 東京裁判で日本を裁いた米国とソ連でも、自国の起こした戦争は、止められませんでした。停戦したいと思っても、それをさせない外国勢力が邪魔するのです。これを見れば私たちも、戦前の軍や政府を一方的に批判する間違いに、そろそろ気づいて良さそうなものです。

 日本国内で、戦前の間違いを検討し反省することは大事ですが、国際社会に対し、自分の国を卑下したり、必要以上に反省したりすることはありません。日本にそれを要求する資格のある国は、どこにも存在しないからです。

 この点を肝に銘じた上で、島田氏の著作に戻ります。392ページです。

 「昭和8( 1933 ) 年3月、日本が国際連盟を脱退した翌年の同じ3月に、溥儀執政が即位し、満州国に帝制がしかれた。」「満州国のあるなしに関わらず、兵略的価値から、」「満蒙を国防の第一線とすることは、絶対的要件であり、」「そのため満州国の国防は、そのまま日本の国防に連なる。」

 「この理由のもとに、満州国に駐兵権を持ち、その国防を担当したことに注目したい。」「今まで遼東半島に位置する関東州と、満鉄付属地にしか駐兵できなかった関東軍が、」「今後全満州に行動の自由を与えられ、必要となれば駐兵できるようになった。」「満州国とは、そのような性格を与えられて出発した国家だったのである。」

 この説明を読むまで、関東軍の名称は、日本の関東のイメージからつけられたものとばかり思っていました。

 「満州とは、奉天、吉林、黒竜江の三省に対する名称である。」「関東というのは満州全域の別称と見て、ほぼ間違いない。」「その一部分にしか当たらない遼東半島の先端に、〈関東州〉と名づけたのは帝政ロシアだった。」「日露戦争後に租借地を譲られた日本は、この呼び名をそのまま踏襲した。」

 「このような名称を、ほんのひと握りに過ぎない日本の租借地に使われては、」「誤解を招く恐れがあると、清国が抗議してきた。」「しかし日本は、ロシアの先例に従ったまでだと相手にしなかった。」

 雑学にすぎませんが、目から鱗の話でした。次回は、満州国の負の部分について、皇帝溥儀と愛新覚羅浩(ひろ)さんの話を紹介します。浩氏の著書の引用は、おそらく6度目になると思いますが、我慢してください。二人の人物の談話は、満州国を語る時に欠かせない歴史の証言です。

 紆余曲折しましたが、『満州事変』の書評も次回で終わりとします。

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『満州事変』 - 10 ( 飾らない事実 )

2021-10-28 06:23:23 | 徒然の記

 現在の国際情勢や国内政治について、私が「ねこ庭」で語っていることは、ほとんどが、的外れの素人談義なのかもしれません。いくらネットで、際どい情報が溢れていても、隠されている事実には届きません。

 生き馬の目を抜く国際社会で、本音の話を公表する国は、生き抜いていけません。かっての鳩山氏のように、なんでも思いつくままに喋っていたら、国際社会で敬遠されます。情報が筒抜けになるようなお人好しの総理とは、まともな話ができないと、適当にあしらわれます。いやしくも政治家なら、私たちの目には馬鹿と見える人物でも、そこは口にチャックをしています。

 コロナ騒ぎの本質は、なんなのか。米中の対立は、どの程度の本気度なのか。北方領土に関するプーチン大統領の、思わせぶりな言動の真意は何なのか。拉致被害者の情報が、なぜ国民に伝わらないのか。そんなことが、私たち庶民に分かるはずがないのです。国際政治の駆け引きの中で、当事者である政治家たちですら、知恵を絞って次の一手を考えている最中です。

 私たち庶民に事実が明らかになるのは、50年100年経ち、時効になった頃です。

 「日本を破滅に導いたのは、暴走する陸軍だった。」「軍国主義の軍人たちが独走し、日本を破滅させた。」

 戦後の日本に浸透している、こういう話が嘘だったことが、今では明らかになりました。ドイツを破滅に導いたのは、「ナチスドイツだった。」「狂気のヒトラーだった。」という説明が、捏造だったのと同じ現象です。日本国民もドイツ国民も、軍やヒトラーに騙されていたのでなく、当時は本気で支持していたのです。

 戦争に敗れた日本とドイツは、国民精神の崩壊を避け、国家再建の気力を喪失させないため、敗戦の理由を創作したのです。「国民に責任はなく、騙したのは軍人たちだった」と日本が言い、「悪いのは、独裁者ヒトラーだった」とドイツが主張しました。こうすることによって、国民は責任を軽減され、精神の重荷を軽くしました。

 私はその一つの例を、草柳太蔵氏の、『実録・満鉄調査部』の著書から学びました。息子たちも、「ねこ庭」を訪問される方々も、氏の意見を読んでください。

 「 〈全満日本人連盟〉が、 〈全満日本人自主同盟〉と名称を変えたのは、」「幣原外交を不満として、満州問題を自主的に解決しようしたからだが、」「このような問題意識は、満鉄社員の中にもあった。」
 
 「〈満州事変は軍部の独走〉とするのが、現代史の定説となっているが、」「 いかに軍部が独走しようとしても、軍部以外の社会が、」「軍部の選択を心情的にせよ支持しなければ、独走の距離は短いはずである。」
 
 「当時は、満州青年議会のみならず、全満に渡って、」「青年たちの政党が、幾つも結成されていた。」「青年自由党、民衆党、独立青年党、青年同志会、」「この他政党の形は、取っていないが、同志的な結合は幾つかあった。」
 
 「弥美会、満州青年団、大雄峰会、三木会、これらは、大同団結して満州青年連盟となった。」
 
 「〈満州青年連盟〉の中は、大きく二派に分かれ、権益派と協和派がいた。」「権益派は、満州の権益は明治大帝の御遺産であり、」「日本が守るべき、当然の歴史的果実と主張し、」「これを認めようとしない排日運動には、積極的に立ち向かっていくべきだという態度をとった。」
 
 「協和派は、中国革命を援助して統一を進め、暴力主義を排し、」「精神的融和を図るべし、と主張した。」「青年の中には、満州解放論に近い左翼的考えの持ち主もいたので、」「彼らは、協和派を生ぬるいと論難し、権益派は、協和派を赤に通じる思想だと攻撃した。」
 
 日露戦争後に満州への権益を得て以来、軍部だけでなく、日本の朝野は沸騰したヤカンのように熱くなり、議論が湧き上がっていました。だから私には、この興奮の中で正論を述べた、伊藤公と石橋氏の勇気が光って見えました。
 
 こうしてみると分かりますが、歴史は100年200年の単位で動いていくのですから、たかだか敗戦後の76年余で、日本の思潮が大きく変じるはずがありません。反日・売国の人間が多いと嘆くより、国を大切に思う国民が増えて行く今後の方が楽しみなのではないでしょうか。
 
 そうであれば一層のこと、「満州事変」についても、満州国についても、正しいことも間違ったことも隠さず、事実を両面から考えることが重要になります。私の乏しい知識で、果たしてそんな思いが叶えられるのかどうか分かりませんが、次回から挑戦してみます。
 
 「ねこ庭」を訪問される方々の、ご意見に期待いたします。
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『満州事変』 - 9 ( 現在の中国を観察 )

2021-10-27 20:26:53 | 徒然の記

 『満州事変』の書評が、止まったままです。張作霖爆殺事件を起こし、満州国を設立させた日本軍について、どのような意見を述べるかに、迷っています。

 自衛戦争の延長線上で考え、生き残るには武力しかない国際社会だからと、満州侵略を肯定するか。伊藤博文公や石橋湛山氏のようなあるべき論を、正論として是とすべきか。・・簡単に答えが出せないためです。

 こういう時は本を離れ、別のことを考えれば良いのです。青山繁晴氏の【 僕らの国会 】、高橋洋一氏の「高橋洋一チャンネル」などを観て、現在の日本と国際社会に目を向けてみました。

 ・自国領でもないのに南沙諸島の岩礁を埋め立て、軍事基地を作った中国

 ・関係国でもないのに、大挙して北極海に進出し、軍事的意図はないと言い張る中国

 ・財政の均衡を金科玉条にして、30年以上日本の経済成長をダメにした、財務省の愚昧さと横暴

 ・他国が経済成長しているのに、国力を衰退させ続けている自民党の政治家たち

 ・立憲民主党が、共産党と閣外協力すると公言していることの危険性も知らず、選挙戦に突入している日本

 崩壊すると言われながら、習近平氏の中国は世界一の強国を目指し、他国の思惑を無視して、強権政治を国内外で進めています。アメリカを追い越し、世界の覇権を狙っている中国は、国際社会で一番危険な国となりつつあります。

 昭和6 ( 1931 ) 年に始まった「満州事変」から数えると、ちょうど90年が経っています。アヘン戦争の敗北から計算すると、181年です。そして今私の前には、二つの中国があります。

 ・列強に侵略され続け、群雄割拠していた混迷の中国

 ・中国共産党の一党独裁で統一国家となった、軍事・経済大国の中国

 自分の国が弱かったため、他国の侵略を許した。軍事・経済で世界の大国となった今から、過去のツケを返すのだと、習近平氏を中心に中国が拳を固めています。こうした中国を前に、世界の国々は何をしているのか。

 「中国の横暴を許さない」と、口で言いながら、市場の大きさに目が眩み、経済では密接な関係を維持しています。「尖閣も沖縄も、中国の領土だ」と、日々領海領空を侵犯されながら、日本は黙り込んでいます。

 中国の姿を見ていますと、「満州事変」当時の日本を見ている気がします。伊藤公や石橋氏の正論は大切ですし、失ってならない常識ですが、やはり国際社会では「力」がモノを言います。軍事力と経済力のある大国の横暴に、誰も正面切って立ち向かえないというのは、歴史の教えの側面でもあります。

 「奢れるものは久しからず、ただ春の世の夢のごとし」と、長い歴史の中で見れば、多くの覇権国が権勢を誇り、やがて力を失い、普通の国になっていきました。分裂し、消滅した帝国もあります。覇権国になれませんでしたが、日本も一時、大国意識で夢を見た国の一つです。100年200年先には、中国もそうなるような気がします。

 「満州事変」について深刻に考えるのをやめようと、何か吹っ切れてきました。そうなりますと、止まっていた思考が、少しずつ動き出します。

 中国共産党政府が、南京事件などでなく、満州国の経営について文句をつけるのなら私は同意します。日本の軍国主義や、侵略と言われても、歴史の事実として受け入れます。
 
 しかし現在の中国政府は、満州国について何も言わず、南京の一戦闘の死者数で日本を攻撃しています。東京裁判のため、米国を中心とする連合国がでっち上げた、子供騙しの言いがかりなのに、習近平氏の中国は、「南京事件」での日本軍の非道さを国民に宣伝しています。
 
 島田教授の著書を読めば分かりますが、当時の中国共産党は、日本と正面から戦う力がなく、敗戦になるまで日本が相手にしていたのは、蒋介石の国民党軍でした。共産党は中国の奥地で、蒋介石や日本と戦い、満足な武器がないため人海戦術のゲリラ戦が中心でした。
 
 敗戦後の日本が大人しくなったのを好機とし、彼らは抗日戦争を戦い抜いたのは、人民解放軍だという嘘を、国民に教え始めました。朝日新聞の慰安婦問題に負けない捏造の歴史ですが、今では中国国民が信じています。
 
 日本攻撃のため、満州問題を持ち出すと、主役が孫文や蒋介石、袁世凱や張作霖や張学良になります。共産党の手柄話は、何処にもありません。要するに現在の中国は、たかだか南京事件くらいでしか、日本を責められないほどの歴史しか持たない政府なのです。
 
 日本に、「勝てば官軍」という言葉がありますが、今日の中国共産党がそれです。ここまで大きくなりますと、世界のどの国も反論する気を失います。戦後の日本にも、「平和憲法」という現実離れのした空論がありますが、中国にもそれがあります。息子たちに言いたいのは、ここです。
 
 「抗日戦争を戦い抜き、中国を独立させたのは、中国共産党だった」という、空論です。政治の世界では、情報のない国民は常に無知な大衆に過ぎず、リーダーたちは本音を語りません。またそうでなければ、国際社会で国を維持することができません。本当の事実が分かるのは、100年200年経った時にしかできないというのが、政治の世界の常識ではないでしょうか。
 
 ネットの世界で、本音の情報らしきものが溢れているとしても、政治の世界は昔と変わらないと、私は考えています。私自身には大真面目なブログでも、昔の床屋談義みたいなものであろうと、自覚をしています。卑下しているのでなく、政治とはそういうものであるはずと、敬意を表しているのです。
 
 ということで、次回からは再び島田氏の著作に戻り、「満州事変」についての思いを語ろうと思います。
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『満州事変』 - 8 ( 「悲しみの詰まった報告」 )

2021-10-26 14:40:04 | 徒然の記

 個別の学者に「両論併記」を求めても無理なので、自分でやることにしました。平成28年に読んだ草柳太蔵氏の、『実録・満鉄調査部』が参考になります。

 当時の列強が、満州で何をしていたのか、氏が説明しています。

 「鉄道を抑えるものは、その国を抑えるという力の原則が明白だったから、」「アメリカ、日本についで、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、ベルギーが、」「中国の鉄道利権をめぐって、火花を散らしていた。」
 
 「大正6年当時、列強が中国から奪った鉄道敷設権は、約二万キロに及んでいる。」( いずれが正しいのか、ネットには次の二つの情報があります )
 
  (  1.   満鉄の総営業キロは、当初1,764キロだったが、昭和14年には1万キロ  )
  ( 2.   日露戦争でロシアから取得した鉄道は、東京・広島間に匹敵する約680Kmだった。敗戦直前に、約2,900Kmにまでなった。  )
 
 「 眠れる獅子 」 と呼ばれていた中国が、為されるがまま列強に切り刻まれ、蹂躙されていたと言うことになります。日本だけを語る、島田氏の著作と合わせて読む必要があります。
 
 日露戦争後は、政府、軍、民間で、「満州経営」という言葉がはやるようになっていました。この言葉を、忌み嫌ったのが伊藤博文公だったことを、草柳氏が教えてくれます。明治39年西園寺内閣の時、「満州に関する協議会」において、児玉源太郎参謀総長に対し公がした、厳しい反論です。
 
 「余の見る所によると、参謀総長らは、満州における日本の地位を、根本的に誤解しておられるようである。」「満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、」「すなわち遼東半島租借地と、鉄道の他は何もないのである。」
 
 「満州経営という言葉は、戦時中からわが国人の口にしていたところで、」「今日では官吏は勿論、商人などもしきりに説くけれども、」「満州は、決して我が国の属地ではない。」
 
 「属地でもない場所に、わが主権の行わるる道理はないし、拓殖務省のようなものを新設して、事務をとらしむる必要もない。」「満州の行政責任は、よろしくこれを清国に負担せしめねばならぬ。」
 
 当時はこうした公の正論と、「十万の流血と二十億の国帑」という日露戦争の代価として、満州を考える意見が拮抗していました。政府内だけでなく、様々な意見があったという例を、もう一つ紹介します。大正3年の『東洋時論』の社説で、石橋湛山氏が述べた意見です。これも伊藤公と同じ、正論です。
 
 「青島陥落が、吾輩の予想より遥かに早かりしは、戦争の不幸の少なかりし意味において、国民とともに喜ぶことなり。」「しかれども、我が軍の手に帰せる青島を、いかに処分するをもって得策とするか。」「これに対する吾輩の立場は、明白なり。」
 
 「アジア大陸に領土を拡張すべからず、満州もよろしく早くこれを放棄するべし。」「戦争中の今こそ、仏人の中には、日本の青島割取を至当なりと説く者もあるといえども、」「大戦が終わりを告げ、平和を回復し、人心が落ち着く時に至れば、」「米国は申すまでもなく、我に好意を有する英仏人といえども、」「必ずや我が国を目して、極東の平和に対する最大の危険国となし、」「互いに結束して、我が国の支那における位地の転覆に努むべきは、」「今より想像して余りあり。」
 
 また大正11年に、在満日本居留民が守備隊の撤退に反対し、「居留民大会」を開いた時にも、反対論を述べています。
 
 「要するに、満州は他国の領土、支那の主権に属する土地と知るべきである。」「痩せても枯れても、一国家をなす国に、その知権が信用されない、秩序が認められないとあって、」「軍隊を備えて居留し営業するとせんに至っては、これほど大きな侮辱はあるまい。」
 
 「親善も、友誼も、理解も生まれようはずがない。」「軍隊を以ってしなければ住めないような、危険な他国へ住もうとすること、」「商売をしようとすることが、飛んだ間違いで、」「軍国主義、侵略主義以外を意味しない。」
 
 満州の領有は、日露戦争で得た当然の成果という意見が、有力だった時の反対論です。満州の居留民も、政治家も、軍人も、満蒙経営に熱くなっていた時ですから、勇気のある発言です。氏の言葉は、第二次世界大戦の時、連合国側の日本攻撃時に、現実のものとなっています。
 
  一体満州というのは、どういう土地だったのか。これも草柳氏が説明しています。
 
 「満州の面積は、約150万平方キロ、つまり日本内地の2.6倍、あるいはドイツとフランスを合わせたほどの広さである。」「当時の人口は千二百万人くらいで、この広さでは " ゴマ粒をばら撒いたような " という表現が当たっていよう。 」「なにしろ、広漠たる原野が広がっているのみだ。」
 
 満鉄の秘書課長だった、上田氏の言葉も紹介されています。
 
 「清朝は満州に起こって、北京に君臨した300年間で、全く漢人化していた。」「満州は、単に祖先の発祥地として大事にしていただけで、産業はほとんどゼロだった。」
 
 「満州にいる者まで漢人化してしまい、かえって漢人の使用人として使われ、」「小作人になるような憐れな有様だった。」「人口の9割を占める農民は、糊口をしのぐのが精一杯という程度で、貿易特産品などほとんどなかった。」 
 
 満鉄の初代総裁だった、後藤新平氏の意見も紹介されています。
 
 「日露の衝突は、今度の戦争だけでは終わらず、必ず第二戦があるだろう。」「それが、何時になるのかは分からないが、日本が満州に主体性を確立しておけば、」「たとえ戦いに敗れても、善後策について余裕ができる。」
 
 なんの理由もなく、一方的に満州に進出したのでなく、日本には日本の危機感があったことも知っておく必要があります。私の意見は、右にも左にも配慮し、どっちつかずに見えるでしょうが、そうではありません。
 
 今日の反日・左翼主義者が、日本反対論を主張するところは、伊藤公や石橋氏に似ていますが、立っている場所が違います。公と石橋氏は愛国心の上に立ち、国を憂えて意見を述べていますが、現在の反日・左翼主義者には、「日本を大切にする心」がありません。息子たちに言います、「これを混同してはなりません。」と。
 
 先日私は、ソウル大学教授、李滎薫 (  イ・ヨンフン )氏の、『大韓民国の物語』を紹介したとき、「悲しみの詰まった本」と言いましたが、今回の一連のブログもまた、「悲しみの詰まった報告」です。
 
 私自身の『満州事変』への書評は、まだ固まっていません。
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『満州事変』 - 7 ( 亡国の反日学者・和田春樹氏 )

2021-10-25 22:43:17 | 徒然の記

 『満州事変』 の書評を中断しているのには、少し訳があります。戦後の反日左翼教授たちが、「無謀な侵略」、「軍部の独走」と、口を極めて攻撃するのは、満州事変以後の日本からではないかと、そんな気がしています。

 森恪氏の回顧談を読み、東方会議での満蒙政策を読み、張作霖の爆殺事件まで読みますと、多くの若者は、「日本がひどいことをしている。」と、思うかもしれません。本日この本を読み終え、私自身、当時の日本がやったことは、中国の主権侵害であると考えます。

 そうは理解するものの、教育界、マスコミ界を跋扈する学者の意見に、そのまま賛同できない私がいます。彼らがやっているのは、現在に立って過去を眺め、日本の行動に主眼を置き、批判・攻撃をしています。もし客観的な意見を述べると言うのなら、同じ時期に、他の列強は中国や他のアジア諸国で、どのようなことをしていたのか。ここに言及しながら、日本軍や政治家の言動を批判する必要があります。

 日清・日露戦争は侵略戦争でなく、自衛のための戦争ですから、「満州事変」もこの流れに沿って見なくてなりません。薄氷を踏むような勝利だったとはいえ、日本は列強の片隅に位置するようになりました。

 つまりこの時点から日本は、「弱肉強食」の欧米社会の戦列に加わったことになります。当時の欧米列強の世界は、国力( 武力 ) にものを言わせ、弱小国を支配するせめぎあいの場でした。敗戦となり「東京裁判」で、日本がアジアを蹂躙した悪者にされましたが、あの裁判には正義がありません。

 「日本を孤立させ、二度と立ち上がれない国にする」と言う、結論が先にありました。島田教授も控え目ですが、やはり戦前の日本を批判し、間違っていたと説明しています。しかし今では反証資料がたくさんありますから、「満州事変」もこれらを加味して再考しなくてなりません。

 私が書評を控えている理由が、ここにあります。

  1. 時代の状況の中で、日本の行動は突出していたのか。 

  2. 他の欧米列強は、中国やアジアで策略をめぐらし、殺戮をしていなかったのか。

  3. 他の欧米列強は、中国やアジアで諜報活動をし、内紛や騒動を画策していなかったのか。

 日本は、日清・日露戦争で、国力を傾けるほどの消耗戦をし、多くの血を流しています。満蒙が日本の生命線であり、死守すべき場所であると言う意見は、当時としては普通です。ここに至る過程で、李氏朝鮮と清国、ロシアは、どれほど日本を苦しめたことでしょう。そう事実を全部考え合わせれば、「日本だけ」を批判する学者の意見に、簡単に同意するわけにいかなくなります。

 私の机の上に、10月16日付けの千葉日報新聞があります。13面の紙面は、およそ半分を占める「特集記事」です。もちろん、共同通信社が配信した記事です。

 「平和な社会を盤石に」「歴史学者 和田春樹さん」「市民運動、半世紀以上」

 和田氏を称賛する記事です。書き出しの部分を転記します。

 「平和な世界をより盤石なものにする。」「戦争へと後戻りさせない。」「ロシアや北朝鮮の歴史、慰安婦や領土問題といった幅広い研究で知られる、」「東京大学名誉教授、和田春樹さんの思想は、」「この一点で結ばれている。」

 「歴史家として、半世紀以上関わってきた様々な市民運動も、」「平和への貢献だ。」

 にこやかな笑顔の氏の写真が、紙面を飾り、中国文学者・竹内好氏の著書を読んだ時の感想を語っています。

 「中国に道義のない戦争を仕掛けた日本人は、申し訳なかったと言う気持ちを持つことが必要なんだと、よく分かった。」

 面倒なので記事の紹介をやめ、令和元年の10月に氏を取り上げた「私のブログ」から転記します。まず最初は、いつものように氏の略歴です。
 
 「和田は、東京大学文学部卒業。」「日本の歴史学者、社会科学研究家。」「もともとの学術上の専攻は、ロシア史。」「朝鮮史関連の著作もある。」「東京大学社会科学研究所名誉教授。」
 
 「大学入学から、退官まで、」「約50年間に渡って、東京大学においてのみ過ごした。」「昭和43年、キング牧師が暗殺されたことをきっかけに、」「妻和田あき子と共に、地元・大泉学園でベトナム戦争反対の市民運動を始める。」「左翼運動・市民運動などの、実践活動でも知られる。」
 
 「平成22年に、韓国の全南大学から 〈  第4回後広・金大中学術賞 〉を、授けられる。」
 
 氏の発言を一覧表にしたものがありますので、コメントなしで転記いたします。
 
 1. ソ連について
  ・   昭和61年  ・・  日本は北方領土問題にこだわり、日ソ関係を非常に悪いままにしている。
  ・   平成  2年 ・・マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアは、スターリンのソ連において、ともかくも実現された。
 
 2.  中国について
  ・  昭和60年    ・・中国が東北アジアにおいて平和と安定のために、よき働きをしているのは万人が認めている。
 
 3.  朝鮮戦争について
  ・  昭和59年   ・・北朝鮮による韓国侵略か、韓国による北朝鮮侵略かは、あまり本質的な問題ではない。南北の双方に、武力統一プランはあった。
  ・  平成10年   ・・北朝鮮が決定してはじめた、国土統一戦争だった。
 
 4.  南北朝鮮分断について
  ・  昭和60年   ・・ 朝鮮の分断は日本の責任だ。
 
 5.  北朝鮮について
  ・  昭和60年    ・・日本が40年間、完全に無視・敵視したままなのは、本当に許されない。恥かしく、かつ申し訳なく思う。
 
  ・  平成10年    ・・平成12年までに和解の条約を締結するように、全力を注ぐべきだ。
         ・・日韓条約を越える日朝条約をかちとれば、日韓条約もプラスアルファを余儀なくされ、南北双方に利益となる。
 
 6.  北朝鮮の拉致ついて
  ・  平成13年    ・・横田めぐみさんが拉致されたと、断定するだけの根拠は存在しない。
 
 7.  ラングーン事件について
  ・  昭和58年    ・・韓国政府内部の人間が、やったことも考えられる。北朝鮮の側が、爆弾テロをやるということは、ありえない。
 
 8.  日韓条約について
  ・  昭和59年    ・・日本が朝鮮植民地支配に対して謝罪せず、韓国国民の心に、新しい傷をつくり出した。
 
 9.  歴史教科書問題について
 ・  昭和58年    ・・韓国と中国の批判が、わが国の反動派、右派に、衝撃を与えてくれた。
 
 10.  天皇について
  ・  昭和60年   ・・ あれだけ多くの他国民と臣民を殺させながら、責任をとって、退位することもしません。
 
 11.  慰安婦問題について
  ・  昭和57年    ・・女子挺身隊の名のもと、慰安婦として南方に送られ死亡した。
  ・  平成  9年    ・・(国連の)クワラスワミ報告が採択されたのは、ありがたかった。
  ・  平成10年    ・・(最初は)、慰安婦問題だけを取り出して、運動できるとは思っていませんでした。
 
 12.  女性基金ついて
  ・  平成 9年    ・・女性基金を作ったことを活用し、これを国家補償につなげるものにしていく。
 
 説明するのも腹立たしいのですが、「獅子身中の虫」、「駆除すべき害虫の親玉」として、ブログに取り上げた人物です。反日の塊のような学者を、いまだに共同通信社は賞賛しています。これ一つを見るだけで、「満州事変」の正しい判断ができないマスコミ界の腐敗度が分かります。
 
 日本の夜明けは、まだ遠い・・・
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『満州事変』 - 6 ( 東方会議 2 )

2021-10-25 16:43:12 | 徒然の記

 昭和2 ( 1927 ) 年の7月、東宝会議の最終日に、田中首相が行った訓示を紹介します。

 1. 支那国内における政情の安定と秩序の回復は、支那国民自らが当たることが最善なり。従って日本は、一党一派に偏せず、卑しくも各派の離合集散に干渉することは、厳にこれをさけざるべからず。

 2. 支那穏健分子の正当なる国民的要望に対しては、その合理的達成に協力し、列国と共同し、その実現を期せんとす。

 3. この目的は、畢竟強固なる中央政府の成立により、初めて達成すべきも、現下の情勢容易ならざるをもって、当分地方における穏健なる政権とともに、漸次全国統一の機運を待つの外なし。

 軍閥の割拠する中国には、政情の安定と社会の秩序がありません。満州の独立を考えている日本にとって、2つの障碍がありました。一つは、日本に協力し満州独立国を作ろうとしない張作霖と、今一つは中央政府がないため、交渉相手がいないという現実です。

 4. かかる形勢下に、共同の政府成立の機運起こるにおいては、日本は列国とともにこれを歓迎し、統一政府としての発達を助成する意図を明らかにすべし。

 中国統一を明確に目指しているのは、戦力は一番少ないのですが、孫文の「三民主義」を掲げている、蒋介石の国民政府だけでした。田中首相の頭の中にあるのは、蒋介石の支援でしたが、前に述べましたように、国民政府は反共の右派とソ連親派の汪兆銘との連立政権です。

 話が前後しますが、コミンテルンは、揚子江筋での国民革命軍の成功を見て、大正15 ( 1926 ) 年に、毛沢東に次のような指示を出していました。

  ・国共合作を推進すること。

  ・労働者・農民の武装化を進め、人民内の革命的勢力機構を打ち立てること。

  ・中国共産党が、革命の主導権を握ること。

 この指示は、毛沢東の率いる中国共産党に、はかり知れない励ましを与えたと、氏が説明しています。蒋介石を支援すると、共産党勢力を大きくすることにつながるという矛盾が、この時から始まっていました。

 5. 支那の政情不安に乗じ、不貞分子の跳梁が治安を乱し、不幸なる国際事件を惹起する畏れあるは、疑う余地なし。支那政権による取締まりを期すといえども、帝国の権益と、在留邦人の生命財産を守るためには、断固として自衛の措置に出でる外なし。捏造虚構の風説に基づき、排日・排貨の不法運動を起こす者には、進んで適宜の措置を取るを要す。

 国際社会の目を意識しているためか、田中首相の訓示は遠回しで、なるべく婉曲にと努めています。訓示の原文はもっと長いので、私が省略していますが、こんな話ぶりで出席者に本意が伝わったのだろうかと、疑問も浮かびます。

 6. 満蒙、ことに東三省に関して、我が国は特殊の考量を要するのみならず、この地を経済発展させ、内外人安住の地たらしめることは、隣邦として特に責務を感じざるを得ず。

 7. 三省の有力者にして、満蒙での我が国の特殊地位を尊重し、真面目に同地方の政情安定を講ずる者に、帝国政府は支持すべし。

 首相の頭にあるのは、あくまでも張作霖でした。かって銃殺寸前だった張作霖を、首相が救ったため、彼は田中首相の言うことを聞きました。現地の日本軍に対しては、妥協しない軍閥のトップでしたが、首相には礼を尽くしていました。

 8. 万一動乱満蒙に波及し、同地方における我が権益の侵害の恐れある時は、いずれの方面より来るを問わず、機を逸せず措置に出るの覚悟あるを要す。

 以上8項目が、島田氏の列挙した首相訓示です。首相訓示の後、森恪外務政務次官からの首相訓示に関する補足説明が続きます。首相の訓話よりさらに長く、10項目もあるので割愛します。転記するまでもなく、前回紹介した回顧談に似た、遠慮のない話です。

 田中首相の期待に反し、と言うべきか、裏切ったと言うべきなのか、張作霖は日本軍に協力しませんでした。他の軍閥同様、自己顕示欲の強い彼は、日本の傀儡政権のトップに祭り上げられることを拒絶します。東方会議の翌年に、とうとう彼は乗っていた列車もろとも日本人に爆破され、命を失ってしまいます。これが、河本大作大佐による、かの有名な「張作霖爆殺事件」です。

 これで120ページまで進みました。この後が、先に報告した、 129ページの「田中上奏文」となります。中国国内の複雑さだけでなく、国際情勢も込み入っていますので、『満州事変』の書評が簡単にできなくなりました。もう少し読み進むまで、待って頂きたいと思います。

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『満州事変』 - 5 ( 東方会議 1 )

2021-10-24 16:47:06 | 徒然の記

 東方会議とは、昭和2 ( 1927 ) 年に田中内閣が開催した会議名です。満州、中国、朝鮮に駐在している官憲首脳部を一堂に集め、大陸問題の討議をしました。これが内外に大きな反響を呼んだ、東方会議です。これについて、島田氏が次のように説明しています。

 「田中内閣の東方会議が、原内閣の東方会議のひそみに倣ったものであったことは、いうまでもない。」「その時陸軍大臣として会議を体験した田中は、今度は首相兼外相として、」「会議を主催する立場に身をおいた。」 

 「しかし今度の東方会議の筋書きを立て、会議の主役を務めたのが、」「森恪だったことは、どうやら間違いなさそうである。」

 ここで氏は、森恪氏の回顧談を紹介します。

 「ヨーロッパ戦争を一機として、日本は世界的にタガをはめられ、」「一室に閉じ込められたも同様の状態になっている。」「ワシントン条約を従来の如き解釈と、取り扱いをするのなら、」「むしろこれを破壊しなければならぬ。」

 「私も政治家の端くれであるから、そのタガを叩き破ることが、」「政治家の本筋であると、思った。」「まず不戦条約、九カ国条約もこれを精神的に叩き破れ。」「国際連盟などは、日本になんの利益があるか。」「あんなところになんのために、わざわざ日本が乗り出して行かねばならぬのか。」

 「これを現実に打ち破る手段として編み出したものが、東方会議である。」

 このような激しい意見があったことを、初めて知りました。国際連盟脱退は、松岡外相の独断専行とばかり思っていましたが、すでにこういう意見があった訳です。森恪氏は名前だけ聞いていましたが、どんな人物だったのか、調べてみました。

 〈 森恪 ( もりかく ) 〉

  ・明治16年生まれ、昭和7年没( 50才 )

 世間ではよく、「善人は早死にする」と言いますが、経歴を調べますと、森恪氏はその例外になるのではないかと思えてきました。今日の目から見ると、びっくりするような政治家なので、ネットの情報をそのまま転記します。

  ・田中義一首相が外務大臣を兼任したため、森は政務次官ながら事実上の外相として辣腕を振るう。

  ・対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。

  ・満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件にも関係を取りざたされた。

  ・田中内閣が総辞職すると、昭和4年政友会幹事長に就任する。

  ・ロンドン軍縮条約をめぐり、昭和6年2月、幣原喜重郎外相を攻撃し、濱口内閣を揺さぶる。

  ・同年12月に政友会の犬養内閣が成立すると、内閣書記官長となる。

  ・軍部との関係を政治基盤としていた森と、生粋の政党政治家である犬養は、大陸政策をめぐって対立する。

  ・森は犬養に対して内閣改造を提言するが容れられず、辞表を提出し、預かりとされる。

  ・昭和7年の五一・五事件では、会心の笑みを漏らした様子が語られている。

  ・生前の犬養と激しく対立しており、閣議の席で「軍人に殺されるぞ」と述べたことや、政友会幹事の久原房之助が、「森が兵隊に殺させるという情報が入っている」と、犬養の親族に連絡したことから、暗殺を手引きしたとも言われていた。

  ・同年7月に発病、12月に持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて死去。享年50。

 「軍部の暴走」、「軍部の独走」と、私は歴史の時間に教わってきましたが、森恪氏のような人物が政府の中枢にいたのを知りますと、違った景色が見えてきます。氏が軍部を懸命に抑えていたのなら、「軍部の暴走」になりますが、むしろ氏は軍部を煽っています。

 森恪氏の人となりが分かったところで、氏の過激な回顧談に戻ります。

 「会議の構成は、時の内閣の外交に関する者、外務省、」「陸海軍、大蔵省、外に出ている軍の首脳部、朝鮮総督、関東軍司令官、」「駐支公使等々、あらゆる外交に関する首脳を、皆集めてきた。」

 「日本の権威を一堂に集め、忌憚のない意見を交換し、」「真面目に国策を研究していこうというのが、東方会議であった。」「その内容は、要点だけ申し上げると、こういうことである。」

 私だけの驚きにとどめず、息子たちや「ねこ庭」を訪れる方々にも、共有してもらいたいと思います。分かりやすいように、箇条書きにします。

 ・満州の主権は支那にあるけれど、しかしそれは、支那のみにあるのではない。

 ・その主権には、日本も参加する権利がある。だから、満州の治安維持には日本が当たる。

 ・満洲は国防の第一線であるから、日本が守る。

 ・満州の経済的開発には、機会均等、門戸開放の主義をとる。

 ・以上の要点を実行するため、もしここに障害が起これば、たとえそれが支那から来ようとも、北や南から来ようとも、日本は国力を持ってこれに反抗する。

 ・ハッキリ言えば、ロシアが邪魔をすれば、ロシアに対し国力を発動する。

 ・イギリス・アメリカが反対すれば、国力を持ってこれを排撃する。とにかく満蒙のことは、日本が主としてやるというのが主眼である。

 この点について、田中首相が各国に正式ルートで通告したが、一つの抗議も来なかったと、森恪氏が強調しています。この後に続く回顧談に、私は関心を持ちました。

 ・だからその後の、民政党の3ヶ年がなかったならば、これが確実になったはずだ。

 ・不幸にして、民政党の3ヶ年の外交の間に、撚りが元に戻ってしまったのである。 

 昭和2年の東方会議の翌年の昭和3年に、張作霖爆殺事件が起こります。その後の処理について、田中総理は昭和天皇に詰問され、昭和4年に政権を投げ出しています。民政党の3ヶ年とは、濱口内閣と若槻内閣のことで、幣原外相の外交政策への激しい批判です。内外ともに目まぐるしい時代ですが、次回は、東方会議での田中首相の訓示を紹介します。

 森恪氏の回顧談と比較しながら読むと、当時の日本がさらに見えてきます。いつの時代も政治が混沌としていると分かれば、今日の自民党と野党の政争にも、少しは落ち着いた観察できるようにならないでしょうか。

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『満州事変』 - 4 ( 大陸国家と日本 )

2021-10-23 16:36:29 | 徒然の記

 大正14(1925)年に孫文が亡くなった後、国民政府には、後継者が4人いました。

  1. 蒋介石 ・・ 国民政府・軍官学校校長  反共主義者

  2. 胡漢民 ( こかんみん ) ・・ 暗殺される

  3. 廖仲愷 ( りょうちゅうがい ) ・・胡漢民の暗殺が、廖の弟だったため、後継者から外された

  4. 汪兆銘 ( おうちょうめい ) ・・ソ連親派の革命家 左派

 最終的に国民政府は、蒋介石と汪兆銘の二人が率いることとなり、左右両派が対立のまま同居します。蒋介石は、何度か共産勢力の排除を試みますが、彼らに共通の敵がいて、その敵を倒さない限り、中国の統一ができないため、互いに我慢しました。

 現在の日本で言えば、共産党と自民党が、連立して政府を作っていることになります。共通の敵は、「北方軍閥」と呼ばれる3つの勢力でした。

  1. 呉佩孚 ( ごはいふ )  25万の軍隊

   河南、湖北、湖南、四川、貴州、中国のほぼ中央部を縦断する布陣

  2. 孫伝芳 ( そんでんぽう )  20万の軍隊

   江蘇、浙江、安徽、福建、江西の5省を支配

  3. 張作霖( ちょうさくりん ) とその友軍 50万の軍隊

   河北、山東、満州、熱河、チャハル、河北に威を振るう

 これに対し、蒋介石の率いる国民革命軍 ( 南軍 ) は、南方系の地方軍閥も含め、兵力が10分の1と言われますから、10万人前後です。南軍の抱えている問題点を、島田氏が説明してくれます。

 「共産分子は、蒋介石の北伐断行とともに戦術を転換し、」「積極的に北伐に参加した。」「彼らは強烈な革命と排外の意識に燃え、北伐を利用し、」「各地に労働運動を推進し、一挙に革命の主導権を握ろうと考えていた。」

 日本も含め、列強は反共産主義国ですから、いっそう問題を複雑にしました。たとえば漢口には、ドイツ租界、フランス租界、ロシア租界、イギリス租界、日本租界があり、企業や商店があり、頻発するストライキに手を焼くという有様です。

 軍閥のトップにあるのは、政治理念や信条でなく、自分たちの利益と存続でしたから、寝返ったり、嘘をついたり簡単にします。北軍だった将軍が南軍へ走ったり、手を組んで勝手な政府を名乗ったりします。列強に協力し、他の軍閥と争ったりもします。

 以前は、中国人が老獪で、計算高いのだと決めつけていましたが、「温故知新」の読書が、偏見を正してくれました。陸続きの大陸にある国は、太古の昔から異民族が隣り合わせにいて、戦争したり、滅ぼされたりを繰り返しています。うっかりしていると殺されますから、その場を切り抜けるには、嘘も方便で駆使します。

 島国の日本人には想像できない、激しい興亡が常にありました。戦争や殺戮に慣れている欧米列強は、アジア諸国を侵略し、植民地化するとき、日本人のように逡巡しなかったのではないかと思います。日清・日露の戦争は、日本防衛のための戦争でしたが、いざ列強の側に立ってしまうと、「日本人であること」の制約の大きさを、初めて知らされることになったのではないでしょうか。

 「信義を重んじる」「虚言を弄しない」「恥を知る」「私利に走らず」・・こうした武士道の精神や生き方は、大陸国家では通用しません。「武士道は、死ぬことなりと見つけたり」と、本気で信じていれば、命が幾つあっても足りません。

 誰の書を読んでも、こういうことは書かれていませんが、そういう気がしてきました。権謀術策や奸計、背信、謀殺など、日本の歴史に無関係ではありませんが、その規模の大きさと頻度は、大陸国家と比較になりません。

 日清・日露戦争の勝利で打ち止めにし、「朝鮮併合」や「満州国設立」をしなければ良かったのでしょうが、それは無理な話でした。列強の侵略から日本を守るには、朝鮮と満州の安定が欠かせなかったからです。中華思想と儒教思想の中国と朝鮮が、日本を禽獣の国として軽蔑し、協力しないところに原因がありました。

 日本から見れば、中国と朝鮮は腹立たしい国ですが、彼らの立場に立てば、劣等民族などと、どうして協力する気になれるのかと、心情は理解できます。無理やり推し進めようとすれば、列強がやったように、武力で支配する以外ありません。こういうことをすると、民族の団結心を固めさせ、怒りと恨みを買います。たった36年間の日韓併合でさえ、韓国は「怨みは千年経っても消えない」と言います。

 イスラエルとアラブの紛争が、何千年か続いていることを思えば、朴槿恵大統領の言葉も理解できます。しかし理解と、容認は同じでありません。

 最近左翼系の学者や評論家が、新聞やテレビで「他文化との共生」や「多様な意見の許容」など、盛んに語っています。一番不思議でなのは、彼らの意見が、「日本人の心が狭い」「差別や偏見をしているのは、日本人だ」という前提で、語られているところです。

 「他文化との共生」や「多様な意見の許容」が出来る社会は、素晴らしいだろうと思います。理想と掲げて努力するのは、意義があります。しかし、私たち日本人にだけ我慢を語りかけるところに、疑問が生じます。「日本だけが悪かった」「日本だけが間違っていた」とする、「東京裁判史観」とどこが違うのでしょう。だから彼らに賛同する前に、つい、軽蔑してしまいます。

 今回も話が横道にそれましたが、こういう点を頭に置きながら、次回は「東方会議」について、ご報告します。

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『満州事変』 - 3 ( 「田中上奏文」と日本人一般 )

2021-10-21 15:30:22 | 徒然の記

 今回のテーマは、「田中上奏文」です。本来なら、昭和2年に開催された「東方会議」と合わせて説明すべきものですが、戦後育ちの私たちは、「東方会議」も「田中上奏文」も知りません。まして田中義一総理については、陸軍の暴走を止められず、満州帝国の成立を許した首相として教わったくらいで、詳しい事実は何も知りません。

 「田中首相」、「東方会議」、「田中上奏文」につき、島田氏の著書で初めて知り、自分自身が驚き、概要だけでも、子供たちに伝えたいと思ったくらいですから、どこから始めれば良いのか迷っています。幸い氏の説明が右や左に傾かず、客観的なので、そのまま転記すれば良い気がします。

 「この文書は、〈 支那を征服せんと欲せば、まず満州を征服せざるべからず。〉」「〈 世界を征服せんと欲せば、必ずまず、支那を征服せざるべからず。 〉」「という怪気炎を含む前文に始まり、四万語を費やし、」「〈 明治大帝の遺策  〉である満蒙征服のため、日本がとる諸方策を論じている。」

 「満州から出発し、やがて華北をはじめ、東亜全域を手中にし、」「ついには全世界を日本の支配下におくための計画が、詳細に述べられている。」

 「しかもこの一文は、東方会議が終わってのち、」「田中首相が、天皇に上奏したという形式がとられている。」

 田中文書の内容紹介はこの程度ですが、おおよその検討はつきます。氏の意見を、箇条書きにして紹介します。

  ・文書の真偽は別として、内容にはかなりの具体性がある。

  ・当時の日本の、政策決定組織のどこかに関係した者でなければ、これを書くことはできないと思われる。

  ・中国人はもちろん、アメリカ人やソ連人が鬼の首でも取ったように、「日本の侵略計画だ。」と騒ぎ立てたのも無理はない。

  ・昭和6年の満州事変以後、中国やアメリカで、いっそうこの文書の流布が盛んになった。

  ・東方会議以後の日本の侵略路線が、この文書の示す方向に一致していたので、なおさら文書がホンモノだと確信された。

  ・昭和7年の国際連盟理事会で、中国代表の顧維鈞 ( コ・イキン ) がこの文書に触れたため、日本代表の松岡洋右との間に応酬があった。

 つまりこの文書は、戦後になって問題視されたのでなく、満州事変以後、列国が日本を攻撃するときの材料でした。戦後に使われたのは、次の2回です。

  1.  極東軍事裁判 ( 東京裁判 ) で、証人として出廷した中国がこれに言及した。

  2. 昭和25年、ソ連のフルシチョフ首相が、日本の軍国主義者の侵略行為を思い起こさせるため、演説で引用した。

 しかし「田中文書」そのものは、日本人の間ではほとんど知られることがなく、世界のマスコミも言及しなくなりました。なぜそうなったのか、不思議な気がします。この文書が本物なら、現在の中国や韓国、アメリカのマスコミが黙っているでしょうか。

 「田中文書」に比べれば、「慰安婦問題」や「南京事件」、「徴用工」、「軍艦島の強制労働」の嘘は、はるかにレベルの低いものになります。世の中から消えたのは、その後の検証で、多くの誤りが発見されたためだろうと、氏が解説しています。

   ・「大正天皇が、山県有朋他を招き、ワシントン会議時の〈 九カ国条約 〉に対する、打開策を検討させた。」とあるが、山県はこのときすでに死んでいた。

   ・田中の欧米行きは、ワシントン会議より10年前のもので、文書に書かれている頃ではない。

   ・田中が刺客に遭ったのは、欧米旅行の帰途でなく、マニラ訪問の帰途であり、犯人は支那人でなく、朝鮮人である。

   ・「対馬とフィリピンは、ひとまたぎの距離」とあるが、2700キロの隔たりがある。

   ・福岡師団とあるが、福岡に師団はない。

   ・「関東都督府の令嬢が、蒙古王族の顧問となった。」とあるが、令嬢は当時15才の女学校生徒で、その後も蒙古へ行ったことがない。

   ・昭和4年に完成した吉海鉄道のことを、昭和2年付の文書で、「すでに完成した」と、述べている。

 しかし私が注目する大事な点は、この先です。

 「〈 田中上奏文 〉は、このように満身創痍の有様で、もはやこれが偽物であることは、間違いなさそうである。」

 「多分日本人が作ったであろう原文は、昭和4年の夏頃、中国人の誰かによって大金で買い取られ、」「遅くともその9月には中国で、漢文と英文の文書にまとめられた。」

 氏は文書の中に使われている言葉が、上奏文に相応しい品格に欠けていることが一番の欠陥だと言います。天皇陛下の臣下であることを、最大の誇りとしている軍人の田中総理が、このような型破りな上奏文を読みあげるなどできないと説明します。

 田中総理は、張作霖爆破事件の当事者を厳罰に処すと言いながら、実行しなかったため、陛下から、「先の説明と矛盾しているのではないか。」と詰問され、翌日総理を辞職したという人物です。氏の説明に、私が納得する理由がここにあります。

 筆者である日本人は誰なのか、何の目的で書いたのか、依然として不明のままですが、私はここに、戦前から現在に続く「反日日本人」の存在に目を向けます。国の不利益と知りながら、大金を得て、不都合な事実を他国へ売り渡すという人間の存在です。

 現在の私は、背信するのは「反日左翼」と決めつけていますが、そういう単純さではダメだということが分かります。「大陸浪人か、軍隊内の不満分子か、政府内の反主流派か、」と、犯人探しは霧の中ですが、どこから見ても左系の人間ではありません。

 大金に目が眩み国を売る人間は、右左に関係なしと考える方が、妥当な気がしてきました。歴史の流れの中で見ますと、現在の自民党も、なるほどと思わされます。自分の利益のため、中国の代弁者となっている議員、アメリカのスポークスマンとなっている議員など、思い当たる顔が浮かびます。

 共産党や立憲民主党など、本物の反日左翼議員はもちろんですが、自民党にも油断してはならないという結論になります。考えてみればそんな難しい話でなく、人間というものを、いい加減な自分を通して眺めれば、すぐに納得できます。立派な意見を述べる時もあるし、変な理屈で自己正当化する時もあります。大金を目の前に積まれたら、咄嗟の判断ができず、慌てるに決まっています。

 だから、私は息子たちに言います。人間を過大評価してはいけません。過小評価してもいけません。私たちが見習うべきは、自分の親です。小さな間違いは沢山していても、大きな間違いは避けています。大金に惑わされず、他人を殺傷せず、家族を大切にして頑張ってきた自分たちの親、祖父母、ご先祖さまを見習えば良いのです。

 悪事ばかりする親を持った子供たちは、どうすれば良いのか。残念ながら、今の私には、そこまで手が回りません。( 次回は、「東方会議」についてご報告します。 )

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