渡辺一枝氏著「チベットを馬で行く」(平成8年刊 文芸春秋社)、を読み終えた。
案内人、馬方、コック、運転手の四人を連れ、馬でチベットを旅する。そんな長距離の馬の旅は誰もしないため、氏は、すっかり人々の好奇心の的になる。まして女性だから、いやでも話題になる。
食料、馬の飼料、衣類、日用雑貨等々、多量の必需品を積んだトラックに、運転手とコックが乗り、残りの三人が馬だ。先行して走るトラックが、後から来る彼女らのため、休息地を探して、昼食を用意し、野営場所ではテント張りをする。
4177キロメートルの距離を、5ヶ月かけて旅をした記録だ。
トラックに伴走されながら行くのに、「チベットを馬で行く」という表題は、大袈裟でないかと最初は思ったが、読み進むうちに大変な旅だと分かった。一日のうちに、夏から冬へと温度が急変し、天候も気まぐれで、雨かと思えばたちまち晴れ、晴れた思えば雪を降らせる。私の想像を超える、厳しいチベットの自然だった。
色々と日々の雑事が挟まり、550 ページの本が一週間かかった。途中で何度か諦めかけたが、読み終えて良かったと今は考える。
少女時代に、チベットというあだ名が付いていたほど、チベット大好きの作者だから、自然も人も、食べ物も暮らしも、何もかもが心をとらえて離さない。そのせいか、道ばたの木々や草、歩く道のぬかるみや石ころなど、最初から細かく説明される。詳しく丁寧であるだけに、私は途方に暮れた。
森の全体を示して欲しいのに、木や草や小石や、空模様を詳述されると、作者が何を語ろうとしているのか、分からなくなる。同行者の仕種や、テントの様子や、近くにキャンプしている住民たちのことなど、目についたまま、これでもかと説明され、益々混乱する。けれども、それはそれで、氏の特徴だろうから我慢できないものではない。読むのを止めたくなったのは、こんな叙述のせいだった。
「彼らが好意でしてくれたのだが、私は、車に飾られた日の丸が嫌いだった。」
「日本は、地続きに他国との境界線を持たず、徴兵制も無いので、呑気に暮らしているが、論理上はともかくも、実態は軍隊と変わらぬ戦力を有する、自衛隊を抱えることについて、もっと危機感を持つべきではないのだろうか。」
これは、私が嫌悪する反戦平和論者の語り口であり、軍国主義の日本が、他国を侵略したと言う人々の言葉だ。
チベット人同行者のリーダーは、ツェワンという若者だ。大学卒の彼は、祖国チベットを大切にしているが、中国への非難は余りしない。中国人は酷いと氏が言っても、中国人全体が悪いのではない。チベットにだって、いい人間もいるし悪い奴もいる。どっちもどっちだと、返って氏をなだめたりする。しかし自国の寺を破壊し、仏像を破壊し、国内の資源を奪っている中国を、心の内では許していない。ちょっとした言葉の端はしに、ツェワンの熱い心が、見え隠れする。
かって私は、大井功氏が書いた「チベット問題を読み解く」、という本を読んだ。
氏の説明では、チベット本来の領土が、現在の中国領の4分1を占める宏大さだったと教えられた。ダライラマ14世の亡命後に、自治区として中国が認めている領土だって、中国の8分1という広さがある。
中国政府はここに、回教徒のウィグル人と漢民族をどんどん移住させ、チベット人そのものの、少数民族化を図っている。強大な武力にものを言わせ、じわじわと「民族浄化策」を押し進めている。
智力胆力に優れた好青年のツェワンは、独身主義者である。どうして結婚しないのかという氏の問いに、彼が応える。
「チベットが自分たちに戻って来る日まで、自由でいたいから。」
若い彼の言葉に、思わず胸をつかれた。そこに私は、大西中将の訓話に応え、国のため命を散らした、若い特攻隊員の姿を重ねずにおれなかった。
チベットの何もかもが好きでならず、死んでも悔いは無いという氏なのに、なぜ、国を奪われたチベット人の、悲しみや怒りに目を向けないのか。無法な中国を、ひと言も責めないのは何故か。本当に彼女はチベットを愛しているのか。日の丸を嫌う彼女には、国を思う者の気持ちなど分かりはしないのか・・・・・と、こうして私は、何度も本を投げ出したくなった。
「でもお父さん。この人は何もかも分かってるのよ。ツェワンの言葉がそうして書いてあるんだから、分かっているのよ。」
「中国のお世話になって、この旅行が出来たんなら、中国の悪口なんか書けないでしょ。」
食事の時、私が氏の本を強く非難したら、家内が宥めた。なるほどそうかもしれない、いやそうなんだと納得した。( 家内は時に、思いがけず、立派なことを聞かせてくれる時があるが、この時もそうだった。)
日本が侵略した満州の、ハルピンに生まれたことが、渡辺のトラウマであるらしい。
理屈抜きの軍嫌いがここから始まり、横柄で権柄ずくな軍人となると、顔も見たくないらしい。そんな人間なら私だって、軍人でなくても嫌いだ。まして軍人は、武器と権力を持っているのだから、彼女に賛同する。
本の最後に書かれた著者の略歴を見ると、昭和20年生まれとあった。そうなると、氏は私より2才年下だ。同じ満州でも、私はもっと奥地で、ソ連との国境に近いハイラルで生まれた。2才と何ヶ月かの私に、満州の記憶は刻まれていないが、トラウマになるような思いが、どうして彼女にあるのだろう。池上彰氏と同様の捏造を、正しいものであるかのように伝えているのかと、不思議な気がする。
だが、最後に彼女がこう書いていた。長い困難な旅を終え、目的地で日の丸を見て感激したときのことだ。
「私の知らない私が、まだここにいた。この正体を、突き詰めてみたい。」「そのことがきっと、異なる民族の間に繰り返される問題を、更に深く考えさせてくれるだろう。」「帰属意識というものを一切持たず、人は生きられるのだろうか。私はそれが知りたい。」
確かに日の丸は、軍隊の旗印だった。だからと言って、日の丸が、即戦争を意味し、侵略の軍隊を表すものだと、そのように単純化してはいけない。日の丸は、戦争の旗印の役もするが、、それ以上に、歴史や風土や祖先を包含する、国の象徴なのだ。日本語が日本人に独特の言語であるように、国旗も、その国独自のものであり、人の心を一つにする力を持つ。世界の国々が国旗を大切にし、敬意を払うのは、戦争の旗印だからではない。
私は、氏の率直な気持ちの表明に、心を動かされ、最後まで読んだことに喜びを覚えた。氏は誠実さにおいて、池上氏と、天と地の差があると理解した。もちろん天は渡辺氏で、地が池上氏だ。