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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ハバロスクの歌

2010-04-23 00:37:09 | 随筆

  ハバロスク らら、ハバロスク

  らら、ハバロスク  

  水の流れはスンガリー

  あの山もこの山も 紅の色

  空は晴るれど 晴れぬ胸

  ペーチカの火も消えて ただひとり

  正しくは、ハバロフスクと言うのだろうが、幼い ( 五才と思う ) 頃の記憶に、従うこととする。今はもう故人となった叔父が、ソ連から持ち帰った歌だ。

 もの悲しい短調の曲は、捕虜になった兵士たちの、望郷の念を歌ったものだろうか。声量がないと歌えない、音域の広い歌だ。叔父に教えてもらった記憶はなく、叔父がいつも歌っていた、という訳でもない。復員船ハギの船の歌と同じく、意識しないまま、心に刻まれたメロディーとなっている。

 だから記憶違いもあり、最後の二行のつながり具合が悪く、歌っていると壊れたレコードみたいに、繰り返しとなり終われなくなる。

 当時を思い出そうとしても、すべてが、おぼろな影絵みたいで、ハッキリした映像は何もない。古ぼけた田舎家に住んでいたのは、祖父母と長男の父と、その妻 ( 私の母 ) と、父の兄弟たちだった。

 ハバロスクの歌の叔父が次男で、それから三男、四男、五男と、四女が一緒だったと思う。狭い家でいろりを囲み、叔父が家族にシベリアの話をし、おそらく私は、大人たちの傍らで、耳を傾けていたのだろう。

 熊が松の実を食べる様子など、何度でも聞きたい話だったが、叔父は、小さかった私を相手にしてくれず、周りに他の大人がいる時にしか、シベリアの話をしなかった。

 だからといって邪険だった訳でなく、村の知り合いの家に復員の挨拶に行くとき、いつも私の手を引いて行ってくれた。叔父に限らず、当時は、戦地から突然帰ってくる兵士たちがいて、その都度町や村の人たちが、総出で道沿いに並び出迎えていた。

 こうしてみると、それはまさに日本の戦後風景であり、貴重な歴史のひとコマだったという気がしてくる。

 いっそのこと、気の向くままに、当時のことを思い出してみよう。

 町には、平和館と享楽座という、二つの劇場があり、平和館は映画を専門に上映し、享楽座は芝居と映画をやっていた。宣伝のつもりだったのか、平和館の方は、上映している映画の台詞や歌を、そのまま拡声器 ( スピーカーとは言わなかった ) で、町中に流していた。

 今なら騒音問題として、苦情が殺到したのだろうが、当時は大らかだった。というより娯楽のない戦後のことで、そんなものでも、みんなの気晴らしになっていたのかも知れない。

 平和館の拡声器のお陰で、私は「上海帰りのリル」という大人の歌を覚えた。どうしてそういう違いがあったのか知らないが、享楽座の映画はトーキーでなく、台詞を弁士が喋り、音楽は楽団が演奏していた。

 享楽座で見た映画の題名は、私の記憶が正確なら『名刀正宗』だった。今にして思えば、2つの劇場は客席の造りが大きく違っていたから、平和館より享楽座の方が格上だったのかもしれない。

 平和館は、平和になったけれど荒れ放題の戦後をそのまま表現するような、安直な名前だし、物のない時だったとは言いながら場内は手抜きの俄作りだった。床は剥き出しの地面のままで、隙間なく並べられた木製の長椅子が客席として使われていた。

 トイレの臭いが遠慮なく漂い、すきま風が四方から吹き込んできた。それでも観客は映画のスクリーンに笑いと涙を誘われる方に忙しくて、誰も文句を言わなかった。

 一方享楽座は昔の芝居小屋そのもので、正面に緞帳のかかる舞台があり、板張りにござ敷の客席でお客は座布団に座っていた。

 座席代わりの座布団は、客が持参するのか、有料の貸し出しだったのか覚えていないが、舞台につながる花道や二階の桟敷席などは、木造ながら本格的なものだった。

 私の住んでいた村と対岸の町の間に、砂地の綺麗な川が流れていた。

 川沿いの民家の女たちが、川で洗濯をし、野菜や食器を洗っていた。洗い物を抱えた母の後ろから、私は土手の斜面を下り、賑やかなお喋りの飛び交う様子に見とれていた記憶がある。

 まんざら空想の産物ではないはずだが、上流にも人家があり、そこまでやれるほど清潔な川であったのかと、今となれば不思議な気がしてならない。

 裕福な家は、自家用の井戸を持ち、釣瓶や手押しポンプで汲み水を使っていたが、当時一般家庭には、水道がなかったので、貧しい人間は川を利用するしかなかったのだろう。

 聞いた話では、同居していた叔父や叔母たちは、幼い私を可愛がってくれ、抱いたり背負ったりしてくれていたそうだ。可愛がられた思い出の方が、ずっと大切なはずなのに、すっかり忘れてしまい、たいした意味もない、歌の方を覚えているというのが人生の面白さというのか、いい加減さというのか。切ない思いがする。

 今は五男の叔父と、八十九才になる母が離れ離れに生きているだけで、他の人はみな故人となってしまった。やがて自分もそうなるという事実が、シッカリとあるからなのか、切ない思いがする。

 この田舎町で暮らしたのは、四歳から小学校の4年生の秋までだった。当時の人は誰も住んでいないので、現在はどのように変貌しているのか詳しいことは知らない。

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回 帰

2010-04-15 17:18:21 | 随筆

 誰にも一度はそんな時期があると思うが、若い頃の私は、何でも欧米の方がずっと進んでいて、日本は遅れている国と思い込んでいた。

 映画は、洋画の方が断然面白かったし、家だって和式より洋風の方が、格段に便利でスマートに見えた。

 とりわけ嫌悪したのは、義理人情の世界だった。日本映画のメインテーマである義理と人情は、学校で教えられる人格の尊厳や、民主主義の精神と対立し、国の近代化や個人の独立を阻害する唾棄すべき観念と思えた。

 筋立ても中身も、大して違わない忠臣蔵や水戸黄門の映画が、当時は毎年作られ、沢山の大人たちが見に行った。多作される安っぽい日本映画が、多数の観客を動員するというのは、国民の知的レベルの低さの証明だと軽蔑していた。

 六十を過ぎた今、何時からそうなったのか分からないが、日本の映画や音楽や、絵画の馴染み易さにひたっている。水戸黄門などの分かりきったパターンでも、結末の見せ場になると涙が浮かんでくる。親子の絆や、兄弟の思いやりなどが演じられると、思わずハンカチで目や口を押さえてしまい、そばで家内が呆気にとれられている。

 老化による、知的レベルの低下があるのだとしても、ここまで変貌した自分に驚き、妻が目を丸くするより前に自分自身が呆れている。

 だがそれは、果たして驚くべき現象なのか。目を閉じ思いをめぐらせてみると、身の回りにいくらでも似たような人間がいる。

 特に過去の人々の中に、若い時はモダーン一本で旧弊な日本を否定し、ひたすら外国に憧れ、信奉し、身辺の一切を西洋で飾った人間が、年を取るとスッカリもとの日本人に戻ってしまったという事例がいくつもある。

 いくら否定したところで、自分の育った国で受け継いだものは、無意識のうちに体内で育ち、ひょいとしたキッカケで突然出て来ると、そういうことなのだろうか。

 蔑んだり卑下したりしても、自分の国がなかなか捨てたものでないことは、年を重ねるに従い分かってくる。

 日本は理想の国ではないが、もっと状況の悪い国 ( 具体的に云うのは憚られる ) が、世界には無数にある。

 こうして書きながら発見するのだが、自分がそうなった原因として、二つのことが思い浮かぶ。一つは、私が子供だった時代が敗戦直後だったということだ。荒廃した日本が貧しかったから、豊かな西洋諸国がどうしても子供には素晴らしい国に見えた。

 今でこそ「メイドインジャパン」は、高級品の代名詞みたいに云われるが、当時の「メイドインジャパン」は、「安かろう・悪かろう」の代名詞だった。

 今は粗悪な中国製品が、世界をかき回しているが、日本もあの頃は、中国に負けない粗悪品の輸出国だった。中国の肩を持つつもりはないが、歴史の流れとして、そのうち、「メイドインチャイナ」が、高級品の代名詞になる日が来るのだろうと思っている。

 原因の二つ目は、新聞 ( 当時テレビは、まだなかった ) に、代表されるマスコミだ。だいたい新聞の多くは、国の悪口を書くのが使命とでも思っているのか、日本の不合理、不条理、後進性を、欧米先進国との比較で毎日これでもかと報道していた。

 「英国は紳士の国で、誰もがキチンと時間を守ります。」

 「日本人は、約束の時間を守らず、いくら遅れても平気です。」

 「これでは、いつまでも世界の笑い者です。」

 英国滞在経験者の意見が権威をもって紙面を飾り、少年だった私は本気で日本人であることが情けなくなった。政治も経済も社会も、この調子で語られ、進歩主義者と呼ばれる文化人たちの最もらしいお喋りが、恥じらいもなく全国に報道された。

 軍国主義者たちが日本を無謀な戦争へ導き、愛国心を鼓舞する者はすべて右翼で間違った人間なのだと、新聞の記事はそういう論調で書かれていた。

 日の丸や君が代が声高く否定され、平和憲法が讃えられた。

 今にして思えば奇妙なことだが、大いに議論・検証すべき現実が無視されていた。「一億玉砕」から、「一億総懺悔」へと、この掌を返すような戦前戦後の風潮を、先導したのがマスコミだった。

 話を進めていくと、また別の話になりそうなので、マスコミ論はこの辺りで中止だ。

 つまり私は時代とマスコミのお陰で、国を愛する心をなくした少年として育った面があることに気づき、自分の責任も感じている。次の文章は24歳のときの私がノートに残していた、永井荷風の小説からの抜き書きだ。

 ・桜咲く三味線の国は同じく専制国でありながら、支那や土耳古のように金と力がない故、万代不易の宏大なる建築も出来ずに、荒涼たる砂漠や原野がない為に、孔子釈迦キリストなどの考えだしたような宗教も哲学もなく、

 ・又同じような暖かい海はありながら、何と云う訳か、ギリシアのような芸術も作らずにしまった。

 ・多年の厳しい制度の下に、吾等の生活は遂に因習的に、活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。

 ・その堪え難きうら寂しさと、退屈さを紛らすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟でもなく、ぐっとさばけて諦めてしまって、そしてその平々凡々極まる、無味単調なる生活の一寸した可笑しみ、面白みを発見して、これを頓智的な、きわめて軽い芸術にして、侮ったり笑ったりして、戯れ遊ぶことである。

 24歳の私は、これを新聞と同様の日本蔑視の考えと誤解し、日本人であることのやり切れなさを、さらに深めた。だがこれは、ひねくれ者だった荷風特有の言い回に過ぎなかった。

 荷風は彼なりに、西洋から日本へと内面で回帰し、晩年はどっぷり日本に浸かりきって生きた。同じ作品を読んでも、このように昔と今では、逆の解釈になるのだから、自分の知識の貧弱さを恥じたくなる。

 我田引水が許されるなら私の変貌は老化でなく、荷風のように「内面からの日本回帰」と、そういう風にこじつけてみたい。

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天 気

2010-04-12 11:21:19 | 随筆

 久しぶりに晴れた。朝日が差し込み、窓を開けると爽やかな空だ。

 空を眺めると気持ちが晴れやかになり、生きているのが楽しくなる。単純と言えばそれまでだが、昔からその日の天気に気分が左右されていた私は、まさに「お天気もの」だった。

 学校に行っていた頃も、天気が良いと、そんなものは何もなかったのに、楽しい気分で登校の道を歩いた。通りすがりの家の垣根越しに、季節の花が咲いていたりすると、それだけで胸がときめいた。

 生活があるからズル休みはしなかったが、会社勤めをしている時、激しい雨風の日には、出勤する気になれなかった。同じ繰り返しでしかない会社の日々だったが、晴れた日の通勤は心が軽かった。ビルの職場の机から、遠く富士の峰がみえる日には心がなごんで、空と同じように明るい気持ちになれた。

 そうしてみると当時の自分は、天気の具合で陽気や不機嫌になっていたのだろうか。自分の性格の単純さからすると、どうもそんな気がする。天気のせいで不機嫌に対応し、周りの人間たちに不愉快な思いをさせたのかもしれない。詫びようと思っても、今となってはもう遅い。

 好天のため陽気な日もあったはずだから、そんなときの対応では迷惑をかけていない訳だし、気に病むこともないか。天気次第で幸福になったり、沈んだり、私の人生は結構忙しかったのだと、ここまで書いて中断していたら、今日は何と冬へ逆戻りの寒さで、しかも雨ときている。

 気まぐれな天気のヤロウめと、むしゃくしゃするから、今回のブログはここで終わりだ。読み返して、5時脱字のチェックもしたくない。

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