ハバロスク らら、ハバロスク
らら、ハバロスク
水の流れはスンガリー
あの山もこの山も 紅の色
空は晴るれど 晴れぬ胸
ペーチカの火も消えて ただひとり
正しくは、ハバロフスクと言うのだろうが、幼い ( 五才と思う ) 頃の記憶に、従うこととする。今はもう故人となった叔父が、ソ連から持ち帰った歌だ。
もの悲しい短調の曲は、捕虜になった兵士たちの、望郷の念を歌ったものだろうか。声量がないと歌えない、音域の広い歌だ。叔父に教えてもらった記憶はなく、叔父がいつも歌っていた、という訳でもない。復員船ハギの船の歌と同じく、意識しないまま、心に刻まれたメロディーとなっている。
だから記憶違いもあり、最後の二行のつながり具合が悪く、歌っていると壊れたレコードみたいに、繰り返しとなり終われなくなる。
当時を思い出そうとしても、すべてが、おぼろな影絵みたいで、ハッキリした映像は何もない。古ぼけた田舎家に住んでいたのは、祖父母と長男の父と、その妻 ( 私の母 ) と、父の兄弟たちだった。
ハバロスクの歌の叔父が次男で、それから三男、四男、五男と、四女が一緒だったと思う。狭い家でいろりを囲み、叔父が家族にシベリアの話をし、おそらく私は、大人たちの傍らで、耳を傾けていたのだろう。
熊が松の実を食べる様子など、何度でも聞きたい話だったが、叔父は、小さかった私を相手にしてくれず、周りに他の大人がいる時にしか、異国の思い出話をしなかった。
だからといって、邪険だった訳でなく、村の知り合いの家に、復員の挨拶に行くとき、いつも私の手を引いて行ってくれた。叔父に限らず、当時は、戦地から突然帰ってくる元兵士たちがいて、その都度、町や村の人たちが、総出で道沿いに並び、真剣な表情で出迎えていた。
こうしてみると、それはまさに、日本の戦後風景であり、貴重な歴史のひとコマだった、という気がしてくる。
いっそのこと、気の向くままに、当時のことを、思い出してみるか。
町には、平和館と享楽座という、二つの劇場があり、平和館は映画を専門に上映し、享楽座は芝居と映画をやっていた。宣伝のつもりだったのか、平和館の方は、上映している映画の台詞や歌を、そのまま拡声器 ( スピーカーとは言わなかった ) で、町中に流していた。
今なら騒音問題として、苦情が殺到したのだろうが、当時は大らかだった。というより、娯楽のない戦後のことで、そんなものでも、みんなの気晴らしになっていたのかも知れない。
平和館の拡声器のお陰で、私は「上海帰りのリル」という、大人の歌を覚えた。どうしてそういう違いがあったのか、知らないが、享楽座での映画はトーキーでなく、台詞を弁士が喋り、音楽は楽団が演奏していた。
その時に見た映画の題名は、私の記憶が正確なら「名刀正宗」だった。今にして思えば、客席の造りが大きく違っていたから、平和館より、享楽座の方が格上だったのかもしれない。
平和館は、平和になったけれど荒れたままの戦後を、そのまま表現するような、工夫の無い名前だし、物のない時だったとは言いながら、手抜きの俄作りだった。床はコンクリートでなく、剥き出しの地面のままで、隙間なく並べられた木製の長椅子が、客席として使われていた。
トイレの臭いは、遠慮なく漂ってくるし、すきま風が、四方から吹き込んできた。それでも観客は、映画のスクリーンに笑いと涙を誘われ、そっちの方が忙しくて、誰ひとり文句を言わず、貴重な時間を楽しんでいた。
一方享楽座は、それこそ昔の芝居小屋そのもので、緞帳のかかる舞台を正面に、板張りにござ敷の客席があり、お客は座布団に座っていた。
座席代わりの座布団は、客が持参するのか、有料の貸し出しだったのか、覚えていないが、舞台につながる花道や二階の桟敷席など、古びた木造ながら、本格的なものだった。
私の住んでいた村と町の間に、砂地の綺麗な川が流れていて、川沿いの民家の女たちが、川で洗濯をし、野菜や食器を洗っていた。洗い物を抱えた母の後ろから、私は土手の斜面を下り、賑やかなお喋りの飛び交う様子に、見とれていた記憶がある。
まんざら空想の産物ではないはずだが、上流にもずっと人家があり、そこまでやれるほど清潔な川であったのかと、今となれば、不思議な気がしてならない。
裕福な家は、自家用の井戸を持ち、釣瓶や手押しポンプで汲み水を使っていたが、当時一般家庭には、水道がなかったので、貧しい人間は川を利用するしか、なかったのだろう。
聞いた話では、叔父や叔母たちは、幼い私を可愛がってくれ、抱いたり背負ったりしてくれていたそうだ。可愛がられた思い出の方が、ずっと大切なはずなのに、すっかり忘れてしまい、たいした意味もない、歌の方を覚えているというのが、人生の面白さというのか、いい加減さというのか。切ない思いがする。
今は五男の叔父と、八十九才になる母が生きているだけで、他の人はみな、故人となってしまった。やがて自分もそうなるという事実が、シッカリとあるからなのか、切ない思いがする。
この田舎町で、私が暮らしたのは、四歳から小学校の4年生の秋までだったから、かすかな思い出ばかりで、現在はどのように変貌しているのか、詳しいことは知らない。