ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 82 ( 検非違使 (けびゐし) )

2023-04-30 15:06:20 | 徒然の記

 本日も前回の続きです。順序に従い二つ目の詩に関する渡部氏の解説を紹介します。

  2. 「 検非違使 (けびゐし)」

 「神田明神の祭神は、大己貴神 ( おおなむちのかみ ) と少彦名神 ( すくなひこなのかみ ) とされるが、伝承的には平将門ということになっている。」

 大手町には今でも「将門塚 ( まさかどづか ) 」があり、これを除けてビルを建てようとすると祟りがあると言われています。

 「こういう形で今もなお東京都民に親しまれている ( ? ) 将門は、上総介 ( かずさのすけ ) 平高望 ( たいらのたかもち ) の孫で、父良将 ( よしまさ ) は鎮守府将軍であった。」

 将門に関する話が最後まで続き、最初の説明とバランスがとれなくなった気がします。

 「承平天慶の乱は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。」

 この説明に従うと、一つ目の詩が朱雀天皇の話でしたから、二つ目は将門と純友に関するもので、将門と純友が同じ大きさで扱われると思いました。それなのに、純友はわずかな記述でした。私が勝手に省略しているのでないと分かったところで、氏の解説を項目で紹介します。

 ・関東の名門の三男坊として生まれた将門は、抜きん出た勇敢さと、馬術と弓術の巧みなことで有名だった

 ・将門は若い頃京都に出て、摂政・藤原忠平に仕えていた

 ・彼に推薦してもらい検非違使になりたいと思っていたが、忠平は将門の願いを無視した

 ・検非違使というのは、九世紀の初頭、嵯峨天皇の頃から始まった京都の治安維持の職務である

 ・令にない新しい官職なので、「令外 ( りょうげ ) の官」と呼ばれた

 ・形式的のものでなく、必要から生まれた職務なので実際の権力も大きかったようである

 ・盗賊を実力で捉えるのだから、腕っ節の強い者でなければならなかった

 ・将門は自分こそ適任と思ったらしいが、それも無理はない

 検非違使という言葉を知っていますが、意味は知りませんでしたので一つ賢くなった気がします。こんな時には、やはり「学徒」の喜びがあります。

 ・もっとも検非違使と言っても、長官に当たる別当は中納言・参議という高官である。

 ・田舎武士の将門が望んだのは、検非違使の佐 ( すけ・次官 ) だったと思われる。

 別当が長官を意味することも知りませんし、宮廷の高官から見れば将門がたんなる田舎武士に過ぎなかったという事実も初めて知りました。実力があっても、藤原一族の有力者が宮廷の高位・高官を独占していると、不平や不満のもととなる様子も伝わってきます。これらの解説は、学徒には有難い知識です。

 ・令外の官である検非違使は、同じく令外の官である蔵人所 ( くろうど どころ) と共に、今までの官制や法の拘束を受けないで、天皇の直接の指示で動ける高機能集団だった

 ・自分の希望を挫かれた将門は、不平満々であった

 ・権力を恣にしている藤原忠平と、その周辺の藤原一族を恨んだ

 どのような経緯でそうなったのか、将門と純友の話が突然始まります。渡部氏自身も唐突さに説明がつかないらしく、言い訳をしています。

 「確実な証拠のある話であるわけはなく、〈 講釈師、見てきたような嘘を言い 〉という川柳のようなものである。」

 「ある時、将門が純友と共に比叡山に登った際、京都を見下ろしながらこう言ったという。」

 「自分は桓武天皇五世の孫であるから、将来は天子になるつもりだ。君は藤原氏だから、将来は関白になれ。自分は関東に帰って兵を起こすから、君は瀬戸内海で海賊となって勢力を作れ。そして力を合わせて、新しい王朝を作ろう。」

 このことを、頼山陽が書き出しの二行で言っていると説明します。

  検非違使は獲る可からず

  吾は天皇とならむ汝は関白たれ

 こうして将門は東国へ下り、下総の国にいたが、そのうち一族の不和による争いが生じました。当時としてはよく有りがちなことでしたが、地方の乱れを許さない朝廷は将門を断罪しようとしました。召し出された彼は上京して弁明し、許されましたが、その後も私闘騒ぎが収まりませんでした。

 朝廷の役人を捕まえて官の印鑰 ( いんやく・印鑑 ) を奪うような悪人も、彼の家来になっていました。どうやら彼には、親分肌のところがあったようです。

 「幸田露伴に『平将門』というエッセイがあるが、その中で利根の川筋には侠客の多いことが書かれている。将門も、そういうタイプの人間の走りだったのかもしれない。」

 役人の印鑑を奪うということはただごとで有りませんから、朝廷から強い叱責がありました。

 「将門は、常陸 ( ひたち ) 、下総 ( しもふさ ) 、下野 ( しもつけ ) 、武蔵 ( むさし )、上総 ( かずさ ) に圧力をかけ、朝廷に反乱する意のないことを示す文書を取り弁明したため、朝廷はまたこれを信じて許した。」

 氏はこの状況を指し、「大弦が緩んだ」ということでないかと言います。大弦が緩み大乱に繋がっていく様子が詳しく書かれていますが、スペースの都合で次回といたします。

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『日本史の真髄』 - 81 ( 大絃急 ( だいげんきふ ) )

2023-04-28 18:16:30 | 徒然の記

 朱雀天皇に関する、氏の説明を紹介します。

 「朱雀天皇は、醍醐天皇の第十一子で、母は皇后になった藤原基経の娘穏子 ( おだいこ ) であった。29才で亡くなられ、在位期間は16年である。母后に溺愛され、病弱な方だったようである。失神するような病気があって、即位後の大事な大嘗祭が中止になったと言う記録がある。」

 水戸藩編纂の『大日本史』には、朱雀天皇の治世について数十ページに及ぶ詳細な記録が書かれていますが、天変地異や事件などが中心で、天皇ご自身の人柄や政治についてはほとんど触れられていないそうです。

 「ただ最後の数行のところに、天皇の逸話が一つだけあげてあり、それは次のようにものだった。」

 文章でなく、項目で紹介します。

 ・朱雀天皇の政治は、ひたすら寛仁であることを尚(とおと) ばれた

 ・天皇のやり方は、寛仁すぎるのではないかという意見が出ていた

 ・太政大臣・摂政・関白である藤原忠平が、それとなく申し上げると、天皇が答えられた

 ・私は先帝から、政治は琴の糸を張るようなものだというお話を聞いた

 ・太い弦を張りすぎると、細い弦は切れてしまう

 ・もし上にいる私が厳しすぎるのなら、下々の者は我慢できないほどつらいことになるであろう

 この話を紹介したのち、氏が頼山陽の詩を解説します。

 「頼山陽の最初の二行は、ほとんどこの『古事記談』そのままである。」

   大弦急 ( だいげんきふ ) なれば 小弦絶つ

 「琴の弦を張ると同じように、君主が人民を統治するにも、自ずからやり方があるものである。すなわち、」

     君王下 ( しも ) を馭 ( ぎょ ) するに自ずから訣 ( けつ ) ありと

 「ところが政治は琴の糸を張るように、強くしたり緩くしたり自由にならないものだ。下手に緩めると、大弦も小弦もみんな節度を失い調子が狂ってしまう。これが次の二行である。」

       誰か知らむ張緩 ( ちょうし ) 自由ならざるを

      小弦大弦皆節を失ひ 

 「そうすると琴の調子がおかしくなるだけでなく、琴の本体すら、その一角が破れて裂けそうになってしまうのである。それが最後の一行である。

    裂けむと欲す

 前に紹介した氏の解説が、この部分でつながります。

「ここで頼山陽が述べていることは、醍醐天皇の後、再び藤原氏が摂政関白・太政大臣になったことである。基経の子忠平がそれで、忠平の妹の穏子 ( おだいこ ) が朱雀帝の母である。」

 「宮中は醍醐帝の時代から一転して、藤原基経の時代のような、藤原氏の時代になってしまった。」

 大弦は藤原忠平であり、小弦はそれ以外の者と頼山陽は考え、強すぎる大弦のため、小弦も大弦も節を失した状況にあると言っているのだそうです。

 「琴自体、つまり国自体を危うくするような事件が、地方に起こった。関東に平将門が兵を起こし、瀬戸内海で藤原純友が海賊となった。ともに、京都の政府を倒そうと言うものである。」

 「これが承平・天慶の乱であり、まさに、琴の一角が破れて裂けんとする状況ではないか。このような状況になったのも、藤原一族が、政権を一手に握ったからである。というのが頼山陽の考え方で、彼は『神皇正統記』や『源平盛衰記』の伝説的話を用いて、第十四、十五闕 ( けつ ) を作ったのである。」

 頼山陽は、仁慈の明君である天皇が中心におられる政治を「天皇の御親政」と呼んで、これを、日本での最高の政治体制と考え、彼の理想とする仁慈の明君が仁徳天皇、醍醐天皇です。皇位をうかがわないとしても天皇を飾り物にする、藤原氏のような貴族が権力を握り、ほしいままの政治をするのは間違っているという意見の持ち主です。

 「日本の正しいあるべき政治体制は、御親政である。」と言うのが揺るがない信念で、彼の著書『日本外史』、『日本政記』、『日本楽府』はこれに基づいて書かれていることが分かりました。頼山陽の思想は、吉田松陰の「松下村塾」を通じて勤皇の志士と言われた武士たちに伝わり、「王政復古」の掛け声と共に「明治維新」の達成につながります。

 頼山陽の漢詩を通じ、渡部氏が読者である私たちに伝えたいのは、そんな彼の思想ではないかと思えてきました。最後まで読めば分かるはずですから、結論を急がず、次回は〈 十五闕 ( けつ )  検非違 〉の解説を紹介します。

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『日本史の真髄』 - 80 ( 朱雀天皇の時代 )

2023-04-26 23:51:12 | 徒然の記

 本日も前回の続きです。順序に従い二つめの詩です。

 2. 「検非違使 ( けびゐし )」

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 8行詩

   検非違使は獲るべからず

   吾は天皇とならむ 汝は関白たれ

   警報東西より来ること矢のごとし

   賞を懸け朱紫 ( しゅし ) 復 ( また ) 惜しまず

   嗚呼朝廷の処置 英雄窺う

   独 ( ひとり ) 新皇の藤太を迎えて 

   手を握り飯を拾い 笑いて

   咿咿 ( いい ) たるのみにあらず

 

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   検非違使にはなれぬ

   よろしい おれは天皇になる。君は関白をやれ

   警報が東から西から矢のように飛んでくる

   賊の首領の首に朝廷は惜しみなく朱紫の賞金を懸ける

   ああ、朝廷の処置ぶりを英雄はじっと観察している

   新皇を僭称した平将門は俵藤太を迎え入れて

   握手したり、こぼれた飯粒を拾って食べたり

   愛想笑いしたりして、その軽率ぶりに愛想をつかされたが、英雄に愛想尽かしをされるのは新皇将門ばかりではない

 日本語で書かれていますから、文字は読めますが何が書かれているのか、よく分かりません。氏の説明を読みますと、薄紙を剥がすように意味が伝わってきます。

 「ここで頼山陽が述べていることは、醍醐天皇の後、再び藤原氏が摂政関白・太政大臣になったことである。基経の子忠平がそれで、忠平の妹の穏子 ( おだいこ ) が朱雀帝の母である。」

 「宮中は醍醐帝の時代から一転して、藤原基経の時代のような、藤原氏の時代になってしまった。」

 二つの詩を読んでも、徳岡氏の「大意」を読んでも、こんなことまでは思い浮かびません。無知な学徒は先生の解説を読み、息子たちに紹介するだけです。

 「頼山陽は今日の日本史を学ぶ者とは、相当違う考え方、あるいは違う力点の置き方を持っているように思われる。醍醐天皇にしても、今日歴史には滅多に出てこない天皇である。」

 「今回の「大絃急 ( だいげんきふ ) 」 は、朱雀天皇の逸話であるが、この天皇の話に興味を持つ日本人は、今日まずいないであろう。」

 興味を持つ以前に、名前さえ初めて聞くのです。こういう知識がないと、山陽の詩は理解できないのですから、恐ろしい本です。武漢コロナのせいで引き籠もり、時間のたっぷりある人間にしか読めません。分からない人間は読まなくていいと、頼山陽が突き放しているのでしょうか。それとも私たちの歴史の知識が、戦後はここまでレベルが落ちていると言うことなのでしょうか。どちらの理由だとしましても、恐ろしい本です。

 たったこれだけで、スペースがなくなりました。しかも今回は、難解な詩を二つも解説すると言うのですから、辛抱強い人でないと読めません。私のような浅学な者につき合う必要はありませんので、退屈な方はスルーしてください。

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『日本史の真髄』 - 79 ( 二つの詩の紹介 )

2023-04-25 20:05:43 | 徒然の記

  第十四闋 大絃急 ( だいげんきふ )    5行詩

  第十五闋 検非違使 ( けびゐし )       8行詩     

 を二つまとめて紹介すると言いましたが、私がしているのでなく、渡部氏がそうしているのです。面倒になり手抜きをしているのかと思いましたが、読み終えると納得しました。二つの詩は密接な関係があり切り離せないのですが、これを息子たちに紹介するのは簡単でありません。

 手におえませんので省略しますと、正直に言おうと何度か考えましたが、ウクライナ、スーダン、南ア連邦と無惨な血が流されている現在の世界を思えば、そんな弱気が吐けなくなりました。利権に目のくらんだ国の指導者たちが、国内で同胞の殺し合いをしています。多少形が違っても、古代の人々も現代の人間も利己主義者のやることは似ています。

 「人間がいて、人間である限り、歴史は繰り返す。」

 息子たちが過度な失望や絶望をせず、歴史を知り、「いつものことではないか」と現実を見る余裕を持ってもらいたいため、書評を続けます。

 たいそうな前置きですが、話そのものは、平将門と藤原純友の乱に関する二つの詩です。これを「承平・天慶の乱」と言うのは、歴史の時間に教わったような気がしています。日教組の先生が教えてくれたのですから、中身の説明がなく、受験用の知識ではなかったかと思います。

 79才の学徒である自分は、「承平・天慶の乱」からネットの検索をします。

 〈 「承平・天慶の乱」とは 〉・・ウィキペディア

 「承平天慶の乱は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。 ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴した出来事であった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。」

 頼山陽が二つの乱をどのような詩で表し、徳岡氏と渡部氏がどのような説明をしているのか。いつも通りの順番で紹介します。「承平の乱」の詩には、「大絃急 ( だいげんきふ )」、「天慶の乱」の詩には、「検非違使 ( けびゐし ) )」という題がつけられています。

  1. 「大絃急 ( だいげんきふ )」

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 5行詩

    大絃急 ( だいげんきふ ) なれば 小絃絶つ

       君王下 ( しも ) を馭 ( ぎょ ) するに自ずから訣 ( けつ ) ありと

       誰か知らむ張緩 ( ちょうし ) 自由ならざるを

    小絃大絃皆節を失ひ

    裂けむと欲す

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   大絃を強く張り過ぎれば 小絃は切れてしまう

   君主が下を馭するには 自然 やり方があると、貴方は仰せられたのだが

   そう自在に張ったり弛めたりできるものでないことを ご存知でなかった

    ごらんなさい 弛みすぎて  小絃も大絃あるべき節度を無くし

    琴そのものすら その一角が欠けて裂けそうになってしまった

 解説はまとめてすることにして、次回も  2.「検非違使 ( けびゐし ) )」の詩と大意の紹介を続けます。

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『日本史の真髄』 - 78 ( 頼山陽への敬意 )

2023-04-24 20:07:14 | 徒然の記

 「疑問を感じながら、なぜ渡部氏は頼山陽の詩を著書で取り上げたのか、いっそ割愛してしまえば読者を戸惑わせずに済んだのに、なぜそれをしなかったのか。」

 本日は、この疑問を解いていこうと思います。本書の「第一闋(けつ)」の書き出しの部分に、ヒントがあるという気がしています。重複を厭わず、おさらいをする気持で氏の解説を思い出してみます。

 「明治維新が世界史的な意味を持つ事件であったことを疑う者は、少ないであろう。」

 「では明治維新とは何であったか。説明するための切り口は多くあるであろうが、最も重要なものとして、日本人の国史観が成立し、かつ普及したことをあげることができるであろう。日本人とはいかなる民族であるかということについて、大筋の合意が確立し、武士をはじめとする有識階級にそれが浸透していたのである。」

 「それを可能にした大きな力が、水戸藩が編纂した『大日本史』と頼山陽の『日本外史』であり『日本政記』であった。」

 維新の志士や元勲となった人たちも、これらの書によって王政復古の思想に目覚めたのだと言います。しかし行動する志士たちには、何巻もある大著でなく簡便な書が便利で、頼山陽の『日本政記』がこれに該当したという説明でした。

 「ここに小さな書物の力がある。頼山陽の書を福音書に例えるのはいささか妥当でないにしても、小さな書が思想運動の原動力になりやすい点では、共通点がある。小さな書は誰にでも読めて、内容次第では強烈なビジョンを読み手に与えるからである。」

 氏の説明を読みますと『大日本史』と『日本外史』は何冊もある大著で、『日本政記』は持ち運びのできる小さな書だったことが分かります。今私が紹介している『日本楽府』はさらにコンパクトな一冊だったのかもしれません。

 詳述されているか簡潔に書かれているかの違いがあっても、どの書も扱っている事実が同じですから、中の一つを省略することはできません。だから氏は醍醐天皇の詩が割愛できなかった・・と、こういう結論になります。

 忘れてならないもう一つの理由は、頼山陽に対する氏の「敬意」だろうと思います。山陽の日本への強い愛と、天皇を中心とするご先祖への敬愛が、どれほどの日本人の心を揺り動かしたのかと考えれば、時に混じる小さな矛盾は、大木の中にある二、三枚の虫食い葉みたいなもので、取り上げる気にならなかったのではないでしょうか。

 わざわざ書く必要もなかった気がしますが、自分の気持ちを安心させるため横道へ逸れました。次回は

  第十四闋 大絃急 ( だいげんきふ )    5行詩

  第十五闋 検非違使 ( けびゐし )        8行詩     を二つまとめて紹介します。  

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朝日新聞販売店の閉鎖

2023-04-23 12:54:34 | 徒然の記

 天気が良いので、久しぶりに自転車に乗り、スーパーへ買い物に行ってきました。武漢コロナのせいで外出を控え、三年になりますが、街の賑わいは簡単に復旧しません。

 遠出が難しくなり杖をつくのが面倒なので、私もほとんど外出をしていません。桜の季節はとうに過ぎましたが、4月の街は緑が豊かで道路沿いの花が目を楽しませてくれます。毎週生協が品物を届けてくれるので、買い物のため外出する必要はないのですが、たまに足りなくなった物を自転車で買いに行きます。

 両側に街路樹が茂るアスファルトの道路には、ひっきりなしに車が走っています。ゆっくりとしか走れないので、私はいつも歩道をのんびりと行きます。歩行者がいたり、対向する自転車が来たりする時は、自転車から降りて相手が行き過ぎるのを待ちます。

 驚いたのは、いつも目にしていた朝日新聞の販売店が無くなっていたことです。大きな二階建ての家の前に、配達用のバイクが4、5台置かれ、新聞店の従業員が出入りしていたのに、バイクも看板も無くなり、がらんどうの空き家になっていました。二階の物干し台も空っぽで、カーテンのなくなった2階はガラス窓だけになっています。

 朝日新聞社を目の敵にしていますが、新聞を配達する従業員には何の罪もありません。彼らがどこへ行き、何をしているのだろうと思いますと、可哀想になりました。国民の多くが日本の過去を見直し、批判攻撃されるだけの日本ではなかったと思い始めている時なのに、頑迷な新聞社の経営陣は、時代の流れを読み違えました。

  よく見たまえ君、シナの『二十二史』以外にも史書があるということを

  どの一冊を取ってみても、すべて漢の『文帝紀』並みの仁慈の君主の話でいっぱいだ

 江戸時代の頼山陽でさえ、大国シナと儒学者たちの日本軽視に怒り、こんな詩を書いているのですから、百年一日のように日本批判の記事では国民に見放されるわけです。朝日新聞社そのものはまだ存在していますが、現実に閉鎖された新聞店の無惨な姿を目にしますと、心が痛みます。

 朝日の経営者には同情しませんが、全国の販売店で働く人にはかける言葉がありません。彼らは仕事として新聞配達を選び、雨の日も風の日も購読者の家に届けていました。早朝から夜遅くまで、人に知られない多くの仕事をこなしていたのですから、感謝されることはあっても非難されることは何もありません。

 朝日新聞社が記者の給与をカットし、早期退職者を募っていると噂に聞いていましたが、末端の新聞販売店では容赦無い風が吹いていたということです。それでなくとも不景気な現在ですから、販売店の従業員たちは次の仕事がうまく探せるのでしょうか。家庭持ちの人は、奥さんや家族をどうやって支えていくのでしょう。

 「日本だけが素晴らしい」「日本は世界一の国だ」と、そんな記事にして欲しいと言っているのではありません。国民の多くは、偏った日本批判や憎悪の記事にうんざりしているのですから、朝日の経営者たちはこれまでの経営方針を見直す気持が要ります。国民の多くが求めているのはイデオロギーでなく、客観的な事実の報道だと思います。

 どうせ「ねこ庭」の独り言ですから、朝日の経営者たちには届きませんが、閉鎖された新聞店の建物の様子がやりきれない気持で思い出されます。『日本史の真実』という渡部氏の著作を読んでいる時だから、新聞店のことを強く考えたということではありません。

 新聞の配達をしている人々は、私たちと同じ日本人で働く仲間です。朝日新聞だから、毎日新聞だからと、そんなことで差別する人間がいるはずはありません。国の指導者だけでなく、新聞社やテレビ局の指導者も、末端の庶民  ( 従業員 ) のことを忘れてはいけません。国民の頂点におられた古代の天皇でさえ、厳しい寒さの中で着物をお脱ぎになり、国民の辛さを体験しようとされています。

  十三闋 脱御衣  ( ぎょいをだっす )  醍醐天皇のご親政  

 頼山陽の漢詩は、そんなことを伝えています。日本の過去を何もかも否定する前に、朝日の経営者は頼山陽の詩でも読んだらどうなのでしょう。頼山陽の漢詩と閉鎖した新聞店の従業員は、私の頭の中で、時代を超えて結びついています。国を支えている多数の国民、物言わぬ民の存在を軽視してはならないと、優れた書物は私たちに教えてくれます。

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『日本史の真髄』 - 77 ( 渡部氏と頼山陽 ? )

2023-04-22 16:00:01 | 徒然の記

 氏の説明によりますと頼山陽は、シナ歴代の歴史書 ( 正史 ) に強い関心を持っていたと言います。乾隆帝が定めた欽定『二十四史』、司馬遷の『史記』、班固 ( はんこ  ) の『漢書』など多くありますが、山陽の頭にあるシナの正史は、この中の『二十二史』だったらしいと解説します。

 「当時のシナは先進国であって、なんでも揃っている。歴史でも『史記』以来『明史』まで、『二十二史』が揃っていてそれが歴史書の全部だと思われていた。」

 「この風潮に対し頼山陽は、しかしほかにも歴史はあるのだ、それは日本の歴史書である。そこには仁徳天皇とか醍醐天皇とか、漢の文帝にも劣らない仁慈 ( じんじ ) な君主のことが、どの巻を開いても書いてある。」

 「歴史書が揃っているのはシナだけじゃないぞ。日本にもあり、そこには漢の文帝のような明君が多いのだ、ということを、頼山陽は最後の二行でまとめている。」

  よく見たまえ君、シナの『二十二史』以外にも史書があるということを

  どの一冊を取ってみても、すべて漢の『文帝紀』並みの仁慈の君主の話でいっぱいだ

 渡部氏と思えないほど軽い意訳をしていますが、次の叙述を読むと理由がうなづけました。「十三闋」の最後の解説です。

 「これには頼山陽の誇張がある。日本の歴史書にも、横暴な天皇の話はかなり記載されているからである。仁徳天皇以来、天皇は民の税を軽くし、民の苦しみと楽しみを自分のこととして共にされるという天皇の理想像が出来上がった。」

 「だから桓武天皇のように、平城京を定めた偉大な天皇でも、土木工事が多いとか、遠征が多いとかで、山陽としては珍しく、批判的な角度から桓武天皇の事業を見ている。」

 「彼の理想は漢では文帝、日本では仁徳帝や醍醐帝にあったのであろう。」

 頼山陽の頭の中には、明君としての天皇像に彼なりの固定観念があったと、そう言っています。

 「醍醐天皇は国民の税金を軽くすることに熱心で、漢文一辺倒だった日本文学に和文を取り入れ、法制を整えて地方を振興された。こうした帝の姿はいつの世でも、理想的な君主の姿である。」

 「強いて一つ惜しまれるのは、菅原道真を太宰府に流したこと、それだけである。」

 それほどの明君なら、なぜ功臣の道真を不遇のままに死なせたのかと、頼山陽の詩について、氏も私同様の気持ちを持っていたことが分かりました。「十三闋」の書き出しが、醍醐天皇の政治について詳しく書かれ、頼山陽の詩がいつまでも出てこなかった理由も明らかになりました。「十三闋」の書評の第一回目に私は次のように書きましたが、見当違いの印象はでなかったようです。

 〈  今回は、「書き下し文」、「大意」、「渡部氏の解説」を読み終えても、心に響くものがありませんでした。〉

 〈  臣下の言葉を受け入れ、道真を左遷した醍醐天皇が突然賞賛されるので、気持ちの切り替えができません。〉

 息子たちの理解のためには、省略した書き出し部分の氏の解説の紹介が必要になってきました。最後まで読んだ今、「道真の霊力によりおとずれた御親政の時代」という副題の意味が自ずと伝わってきます。スペース節約のため、文章体でなく項目で紹介します。

  ・醍醐天皇は、宇多天皇の第一皇子 ( みこ ) として生まれ、父天皇のご譲位により寛平九年 ( 897 ) 年に即位された。

  ・初めのうちは父より受けた「寛平御遺誡 ( かんぴょうのごゆいかい ) 」に従い、藤原時平と菅原道真を重用された。

  ・ところが三善清行 ( みよしきよゆき ) の献言を入れ年号を延喜に変え、この時道真を九州に左遷してしまった。

  ・道真がいなくなった宮廷は、藤原氏の天下になるはずだった。

  ・しかし道真の祟りと言われる怪奇現象が発生し、時平が間も無く死に、とって代わるべき有力な公卿がいなくなった。

  ・道真の後右大臣になった源光 ( みなもとのひかる ) は、65才だったから当時として米寿の老人であり、しかも時平の死後数年で怪死した。

  ・醍醐天皇は25才になられており、摂政も関白も太政大臣も置かず、政治の中心が天皇になった。

  ・清和天皇の天安二年 ( 858 ) 年に、藤原良房が摂政になって以来時平の死まで、半世紀の間藤原氏が実権を握った時代が続いていた。

  ・ところが道真の霊力のおかげで、図らずも醍醐天皇の親政の時代が訪れたのである。

 以上が、割愛していた初めの部分の氏の解説です。頼山陽が醍醐天皇を仁慈の明君として讃える詩を紹介しつつ、疑問を抱いている渡部氏が語るのですから、読者が戸惑うはずです。書き出しの叙述を読む限りでは、醍醐天皇のご親政は偶然に生じたもので、功労者は道真という風に読めてしまいます。

 疑問を感じながらも、なぜ渡部氏は頼山陽の詩を著書で取り上げたのか、いっそ割愛してしまえば読者を戸惑わせずに済んだのに、なぜそれができなかったのか。私にはその方が重要な気がしてきましたので、次回はこの点を検討してみたいと思います。

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『日本史の真髄』 - 76 ( 醍醐天皇の仁政 )

2023-04-21 13:02:46 | 徒然の記

  十三闋 脱御衣  ( ぎょいをだっす )  醍醐天皇のご親政        10行詩

 今回は、「書き下し文」、「大意」、「渡部氏の解説」を読み終えても、心に響くものがありませんでした。民のかまどから煙が立たないのを心配し、税の取り立てを止められた仁徳天皇の仁政に匹敵するものとして、書かれた詩だそうです。

 臣下の言葉を受け入れ、道真を左遷した醍醐天皇が突然賞賛されるので、気持ちの切り替えができません。散々批判した醍醐天皇を褒められると、読み手としてはひっかかります。それでも、詩の内容と時代背景に歴史的価値があると思いますので、順序に従い紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 10行詩

   深宮 ( しんきゅう ) 宵 ( よる ) 寒うして  御衣 ( ぎょい  ) を脱 ( だっ ) す

   朕 ( ちん ) が身聊 ( いささか ) か民の冬飢 ( とうき )を験 ( けん ) せんと

   一事喧伝 ( いちじけんでん ) 民未 ( たみいまだ ) に補 ( おぎな  ) わず

   何ぞ知らむ祖沢 ( そたく ) の海宇 ( かいう ) をひたすを

   朕は税を衣 ( き )

   朕は租を食 ( は ) む

   民足らず、朕余りあり

   旱 ( かん ) には租を免じ 水には逋 ( ほ ) を舎 ( しゃ ) し

   兵役には除き 疫癘 ( えきれい ) に除け

   君見ずや二十二史の外 ( ほか ) に史あるを

   冊冊 ( さつさつ ) すべて漢の文紀 ( ぶんき ) のごとし

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   宮殿の奥深くでさえ寒さ厳しい宵に、天皇はお召物を脱がれた

   私は自分で民の寒さと飢えを 少しだけ体験してみる、と

   この一事だけを素晴らしいことに言い立てて、民は他のことをいっこうに言い足さない

   ほんとうに、歴代天皇の恩沢が国内に満ちているのを知りはしないのだ

   私は民の税を着ている 租を食べている

   民は生活の資が足りぬというのに 私にはゆとりがある

   ひでりの時は税を免じなさい、水害の時は未納の督促をやめなさい

   兵役に出ているところは租税の対象外に 疫病の際には租税を取り立てぬように

   見たまえ君、漢の二十二史以外にも「史」というものがあるのを

   日本の史書のどの冊を手にしても すべて漢の文帝紀に負けない帝王の逸事に満ちている

 「書き下し文」と「大意」を読んでも、深い意味が読み取れないのはいつものことですから、渡部氏の解説を紹介します。

 「醍醐天皇を仁慈の明君として礼賛しているのは、古くは『大鏡』であり、下っては北畠親房の『神皇正統記』である。」

 「醍醐天皇が百姓 ( ひゃくせい ) に対する同情心が強く、寒い夜にご自分の着物を脱いで、貧しい人々の寒さを自ら体験されようとしたことは、『大鏡』や『平家物語』にも出てくる有名な話である。」

 「これを頼山陽が知らないはずがないから、最初の二行にこの話を出している。」

 スペースが無くなりましたので続きは次回としますが、一番興味を惹かされたのは、いつも頼山陽を賛している氏が、今回は少し批判する印象を感じさせたところです。この点も含め、関心のある方は次回の「ねこ庭」をお訪ねください。

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『日本史の真髄』 - 75 ( 八百万の神々の国 )

2023-04-20 11:16:14 | 徒然の記

 せっかく真龍が出て、雨雲を起こして雨を降らせようとした時、つまり道真という大才が政治の革新をしようとした時、その龍は池に追いやられて、再びでくの坊みたいな者たちだけの宮廷になってしまったと、渡部氏が語ります。

 「そのことを頼山陽は、最後の三行で次のようにまとめている。」

   雲を呼び雨を醸 ( かも ) して雨未だ起こらず

   龍を逐 ( お ) いて湫 ( しゅう ) に入れ 龍窮死す

   画龍 ( がりょう ) 舊 ( きゅう ) に依りて天子に侍す

 氏の意訳を紹介します。

   龍が雲を呼び雨を醸して、沛然 ( はいぜん ) たる雨が降るような大革新が起こるかと思われたのに、雨はついに降らないでしまった

   道真の如き大才を僻地の小官吏に落としたのは、龍を池に追い込んだようなもので、龍は窮死してしまった

   道真なき後の宮廷は、絵に描いた龍のような精神のない平凡な連中が、天子の側に仕えているだけである  ( 藤原氏の天下になった )

 しかし道真の死後次々と異変が起こったため、池で死んだ龍が祟りはじめたと、当時の人は思ったそうです。

   ・まもなく、時平が若くして死んだ

   ・その前年には、道真の左遷に力を発揮した参議・藤原菅根 ( すがね ) が死んだ

   ・三年続きの疫病と旱魃が起こった

   ・皇太子保明 ( やすあき ) 親王が亡くなった

 醍醐天皇も道真の怨霊の怒りだと思い、道真を右大臣の位に戻し正二位に昇進させ、年号を改元して「延長」とされました。

   ・しかし引き続いて新しい皇太子・慶頼 ( よしより ) 親王が亡くなった

   ・雨乞いの相談中に清涼殿の上に突如黒雲が現れ、落雷で大納言・藤原清貫 ( きよつら ) が即死し、右中弁・平希世 ( たいらのまれよ ) が顔にやけどを負った

   ・天皇が発病され、退位なさったが、まもなく亡くなられた

 「当時の人たちはこれを道真の宿忿 ( つもった怒り ) として怖れ、道真にはさらに正一位、左大臣の位が贈られた。」

 「かくして天満宮信仰が起こり、今日に至っている。誠に道真は、真龍と称すべき人ではあるまいか。」

 結びの解説で氏が述べていますが、識見人格の高い道真が、私憤のまま多くの人を苦しめたことを是とする意見に違和感を覚えます。立派な人物が恨みのままに異変を起こすのは、誉めた話になりません。むしろここでは、当時の人々が信じていた御霊 ( ごりょう ) 信仰の説明をする方が良かった気がします。ネットで調べますと、次のような説明がありました。

 〈 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 〉

  人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊 ( かみ  ) 」として祀ることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。

 田中英道教授の説明では、御霊信仰は神道の一部だったと聞いています。八百万の神を信じる神道には

 ・自然信仰 ・・太陽を中心とする自然への信仰

 ・祖霊信仰 ・・ご先祖さまへの感謝の念からくる信仰

 ・御霊信仰 ・・偉人、義人、非業の死を遂げた人などを神として念ずる信仰

 私の記憶が正しいとすれば、この三つだったと思います。御霊信仰の中で偉人として神社に祀られている例を挙げますと、明治天皇 ( 明治神宮 ) 、加藤清正 ( 清正公神社 )、乃木希典 ( 乃木神社 )  などがあり、義人の例は佐倉宗五郎の宗吾神社があります。

 非業の死を遂げられた崇徳天皇、菅原道真、平将門は「日本三大怨霊」と呼ばれ神社や慰霊碑が建てられています。

  崇徳天皇・・安井金刀比羅宮  ( 京都市東山 )、白峰寺の白峰塚 ( 香川県 )

  菅原道真・・北野天満宮 ( 京都市上京区 )、太宰府天満宮 (福岡県太宰府市 )

  平将門 ・・神田明神 ( 千代田区外神田 )、将門塚 (首塚) ( 千代田区大手町 )

 これらの人々は最初は恐れられていましたが、時が経るにつれ庶民が土地の守り神として信仰するようになります。特に道真は学問の神様として崇められ、天神さまと敬われ、全国に神社が建てられています。

 邪悪な怨霊をいつまでも恐れるのでなく、いつの間にか信仰の対象とし拝んでしまうのが、日本の神道であり、日本人の長所でないかと私は思います。悲運の道真に同情するあまり、怨霊になっても褒めるのでなく、むしろ氏はこういう点を解説すれば良かったのでないかと思います。やはり日本は八百万の神々の住む国であり、「和をもって尊しとなす」国ではないのでしょうか。

  これで、心を平にして次回の十三に進めます。

 十三闋 脱御衣  ( ぎょいをだっす )  醍醐天皇のご親政        10行詩

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『日本史の真髄』 - 74 ( 太宰府への左遷 )

2023-04-19 19:24:49 | 徒然の記

   雲を呼び雨を醸 ( かも ) して雨未だ起こらず

   龍を逐 ( お ) いて湫 ( しゅう ) に入れ 龍窮死す

   画龍 ( がりょう ) 舊 ( きゅう ) に依りて天子に侍す

 三行の解説を紹介する前に、渡部氏が状況の説明をしています。

  ・宇多天皇には、出家のご意志があり、道真にだけ相談された。

  ・寛平九年 ( 897 ) 年にまだ幼少の親王 ( 藤原高藤の娘の子 ) に譲位された。

  ・ご譲位の時宇多天皇は、新帝醍醐天皇へ天皇としての心得を書き贈られた。

 心得は「寛平の御遺誡 ( ごゆいかい ) と呼ばれ、中には次のように書かれていました。

  ・藤原時平は功臣基経の子であり、年は若いが政理に熟達しているから顧問としてよく指導を受けること。

  ・道真は鴻儒 ( こうじゅ・儒家の大家 ) であり、深く政治を知る者であり、自分も多く諫正 ( かんせい・直言 ) を受けてきた。忠臣というより、功臣として重用すべきこと。

 御遺誡の趣旨に沿って二人は昇進し、時平は左大臣に、道真は右大臣に任じられました。道真の妻にも位が下され、娘は女御になりました。このままでいけば道真は思う存分に腕を振るい、藤原氏の専横を抑えただけてなく、日本最初の「勅撰和歌集」編纂の中心人物となるはずでした。

 渡部氏の叙述を、そのまま紹介します。

 「ところが昌泰4 ( 901 ) 年の正月、道真は突然太宰権帥 ( だざいごんのそつ  ) に落とされて、九州へ流されることになった。」

 表向きの理由は、皇位継承に関する陰謀を行なったとか、関白になろうと策略しているというものでした。これについて渡部氏は、別の説明をしています。

 「おそらくは道真が、今は入道された宇多上皇と特に親しい関係を続け、上皇も道真の邸に行幸されるということなどあったため、時平に嫉妬されたり、醍醐天皇に猜疑されたものであろう。」

 上皇になられると、ここまで権威が落ちるのかと、驚くような説明が続きます。

 「道真の突然の左遷は、宇多上皇には全く知らせることなく行われた。これを聞いて驚かれた上皇は、早速内裏へ駆けつけられたが、警備の者たちが門を通さない。」

 「それで上皇は、警備兵たちの前に茣蓙を敷いて一日中待ったが、遂に誰も門を開けなかったという。それで道真は九州に下り、そこで虚しく死ぬことになる。」

 醍醐天皇の猜疑心と時平の嫉妬と仕返しのため、道真が九州へ左遷されたと知りますと、彼が歌った有名な和歌に新しい意味が加わります。

    東風 (こち) 吹かば  にほひをこせよ 梅の花

    主 (あるじ) なしとて 春を忘るな(春な忘れそ)

 太宰府は西の都とも呼ばれる、中国・朝鮮半島への玄関口なので、ここにある大神宮も格式の高い神社です。かって山上憶良も太宰権帥でしたから、道真が無実の罪で左遷された場所という考えがありませんでした。事情が分かると、歌に託した思いは単なる風流でなく、やり場のない怒りと悲しみだったということになります。左遷される時、大切にしていた梅の木に語りかけた歌となれば、心の痛みなしに読めなくなりました。

 残る三行の説明だけでなく、道真が死んだ後の「怨念」の話がありますので、次回も続けます。

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