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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 戦 犯 』 - その3 ( 米国人弁護士の献身 )

2014-03-27 11:45:50 | 徒然の記

 たった一冊の薄っぺらな文庫本に、長い感想を書き留めるなど考えてもみないことだった。文字を追うにつれ、胸を掻きむしられるような痛みがあった。

 書かずにおれない衝動が湧き、3度目の感想文に挑戦する。本書の中心となっている渡辺軍曹・白倉曹長と、若松軍医が、なぜ刑を減じられて存命しているのかを、最後に書き留めておきたかった。

 それが済めば安心して、今回限りで感想文が終われる。

 シンガポールのチャンギー刑務所で、渡辺軍曹と白倉曹長の弁護人となったのは、共に20代の米国人民間弁護士だった。主任弁護人はロダン・ダビット氏で、副主任弁護人はハリトン・ダントン氏だ。

 二人は渡辺軍曹と白倉曹長の無実を知ると、本気で弁護を引き受けた。

 罪を問われた時期に、渡辺氏は日本の下関にいた事実があったので、主任ダビット氏は渡辺氏のアリバイを証明しようと、裁判の中断を要求し、日本にまで出向いた。

 けれども裁判は、ダビット氏の意向を無視して進められ、渡辺氏の死刑が確定してしまう。戻って来た氏は、裁判官から解任されるというおまけまでついた。

 解任されたダビット氏とダントン両弁護人が、二人揃ってアメリカへ帰国した時、渡辺氏は全てを諦めたという。ところが刑執行の直前となった日に、無期懲役刑に減刑された。

 その理由が、渡辺氏には、信じられないことばかりだった。

 副主任弁護人だったダントン氏が、帰国した後も減刑活動を諦めず、あらゆるツテを使って奮闘していたのだった。彼の書いた嘆願書が、幸運にもトルーマン大統領へ届き、それを読んだ大統領が、直ちにマッカーサー司令官へ刑の見直しを指示したのだという。

 日本では、とても考えられないようなことが、アメリカでは起こる。不思議な国であると、渡辺氏は感じ入ってしまう。

 即座に指示を出した大統領だけでなく、諦めなかったダントン弁護人の熱意と、それに協力したダビット氏の献身があった。敵国の死刑囚に対し、どうして彼らは、そんな苦労を重ねたのか。

 渡辺氏だけでなく、私にとっても、弁護人たちの献身には理解を越えるものがある。むしろ私なら、「敵国の人間に、なんでそこまでしてやるのか。」と、そんな了見しか持てない気がする。

 シンガポール刑務所の若松軍医の弁護人は、トムキンソン中尉だった。

 氏もまた若松軍医の人柄に惹かれ、真摯な活動で減刑をもたらしている。生き延びた死刑囚も奇跡としか言えないが、こうした弁護人がいたという事実も、奇跡ではないかと私は思う。

 山口二等兵曹、小崎海軍上等兵曹、多田二等機関兵曹、水谷少佐、永翁上等兵曹等々、まるでコンベアーに載せられた物体のように、多くの軍人たちが命を奪われて行った。

 罪人として逝った父や夫や息子や兄弟のことを、世間にひた隠しし、小さくなって戦後を生きた彼らの家族だったのではないかと思う。そんな人々がいたことを、本を読むまで想像したこともなかった。

 帰還した藤井中尉の部下が、家族のため、事実を刻んだ慰霊碑を建てた様子が、再び目に浮かぶ。

 文字を読む奥さんと子供たちは、どれほど心強く、嬉しく思ったことだろう。それとも、帰らぬ人と諦めていた気持が再び甦り、返って悲しみを深めたのか。遺族でない私には分からないが、ただ涙を拭うしかなかった。

  以上フィリピンやシンガポールなど、50ケ所の軍事法廷で密かに裁かれた、BC級戦犯の被告数 5,700人と、そのうちの処刑者 901人について紹介した。

 これとは別に東京裁判でA級戦犯として処刑されたのが、東條首相以下 7名の政府指導者だった。この他に

  獄死したA級戦犯の人々が5名、

  病死者が2名、

  後に減刑されたが、無期懲役刑で逝去した方々は12名だ。

 自決した本庄大将や阿南陸将、大西中将、近衛総理などを合わせると、23名の人物が亡くなっている。

 荒っぽい数字だが、A級戦犯として亡くなった方々が30名で、本書にあるBC級の処刑者901名を加えると、931名の政府関係者と軍人が責任者として命を処している。

 日本の指導者は責任をとっていない、他国を侵略した兵たちも責任をとっていないと攻撃して止まない反日の人々には、この数字が無意味なものに見えのだろうか。

 あるいは彼らも私同様に、こうした「戦犯」の事実を知らないのかも知れない。自分のことも含め、過去を知る大切さを痛感した今日だ。

 定価380円の文庫本だが、大切に本棚にしまって置くこととする。

 いつか息子たちが、この本を読んでくれることを願いながらブログを終わろう。

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『 戦 犯 』 - その2 ( 尊い犠牲 )

2014-03-26 09:14:57 | 徒然の記

 若松斉軍医はシンガポールのチャンギー刑務所で、戦犯として死刑判決を受けた。

 いよいよ絞首台へという前々日に、終身刑に減刑されて日本へ送られ、昭和31年に巣鴨プリズンを出所した。その彼が、死刑判決を受けた夜は一睡もしなかったと、チャンギーでの記憶を語っている。

  ・目を覚まし、コンクリートのベットで横になったまま、何気なく壁に目をやって、初めて落書きに気づきました。

  ・鉛筆書きのもあったし、釘らしいもので彫りつけたのもありました。「一死報国、南無阿弥陀仏。」

  ・ああこれは、この独房にいた、死刑囚が書いたのものに違いないと、思った時の気持ちといったらね。

  と言い、さらに別の落書きについて語る。内藤貞男海軍軍属が残したものだった。

  ・わしが死ななきゃ誰か死ぬ。どうせ憂き世じゃ、ままならぬ。」「思い切ったよこの辺で。

  ・やってみましょか綱渡り。アリャサコリャサの命芸。どんと落つれば地獄ゆき。

 内藤軍属は江戸っ子のカラ元気を出したのか。悲しいまでの開き直りだった。刑場に臨み、カラ元気を出せる氏に脱帽する。私はこの時、十返舎一九の辞世の句を思い出した。

  この世をばどりゃおいとまに、線香の煙とともに、ハイさようなら

 チャンギー刑務所では、夜になると、看守の英兵が独房を襲い、囚人たちに激しいリンチを加えた。緒戦に負けた彼らの復讐だったから、日本兵は情け容赦なく痛めつけられた。

 若松軍医によれば、戦犯裁判は戦勝国による報復であり、見せしめであるというのが大方の見方だったとのことだ。松岡上等兵曹、野口大尉、豊田准尉、久川大尉と、氏が多くの囚人を見送り、22年の9月に、129名の処刑をしたところで、チャンギー刑務所が役目を終えた。

 このあたり 君がむくろの土ならむ 手にかき寄せて袋にをさむ

    チャンギーを去る時、若松氏が詠んだ歌だった。

 尾家大佐が刑に赴く時の状況を、同房の渡辺氏からの聞き語りで、記者が次のように綴っている。尾家大佐は、固い表情のまま刑場へ行ったとのこと。

  「家内には、いさぎよく死んで行ったと、言うてくれ。」

  「余は戦闘間部下が戦死するとき、あるいは病死するとき、天皇陛下万歳を唱えることを、命じた。」

  「多くの部下は、新しい日本建設の礎石として、若くして死んだ。」

  「余も遅ればせながら今日その仲間に入る。しかし、3人の我が子の心中を考えると、たまらない。」

 大佐は千葉県習志野の練兵場跡で、銃殺された。55才だった。

 教誨師の田中氏が、馬杉一雄中佐について語っている。

 ・馬杉さんは、屈託の無い顔でいつも笑っていた。

 ・この人は、この世への未練を全て断ち切って、仏のような心境にあるに違いないと、私はそう思っていました。

  ・ところが亡くなったあと、筆書きの日記に、こういう歌を残されていたんです。先立たれた奥さんと、残された子供さんへの歌でした。

   便り来ぬ 愛しの妻はみまかりて 子供ら四人父待つといふ

   笑ふなよ 焼野の雉子(きぎす)夜の鶴 わが子思えば落つる涙を

 この歌を読み返すと、そのたび込み上げてくるものがあり私は目を閉じた。先人たちのこうした犠牲の上に、私たちの現在と幸せがある。

 亡くなられた方々に、感謝せずにおれなくなる。靖国に祭られた軍人が「英霊」と呼ばれることに、私は何の疑問も抱かない。

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『 戦 犯 』 ( BC級戦犯 5,700人 )

2014-03-25 12:51:01 | 徒然の記

 昭和61年の角川書店刊の、『戦犯』( 新聞記者が語り継ぐ戦争 ) を読んだ。著者は読売新聞・社会部記者で、佐藤崇雄、塩雅晴、中徹の三氏だ。

 BC級戦犯の被告数は5,700人で、フィリピンなど、50ケ所の軍事法廷で密かに裁かれ、901人が処刑されたという。多くは絞首刑だが、山下大将のように銃殺刑になった軍人もいる。

 フィリピンで死刑宣告を受け、後に巣鴨プリズンへ移された被告の中で、刑が減じられ奇跡的に生き延びた兵がいた。憲兵隊の渡辺軍曹と白倉曹長の二人だった。

 本書では、彼らへのインタビューが別々に進められ、証言に出てくる帰還兵や、刑死した留守家族への訪問談が語られている。

 東京裁判は有名で教科書にも書かれているので多くの人が知っているが、国外で行われた軍事裁判のことは知る人が少ない。取材した記者の印象では、東京裁判に劣らないむごいものであったらしい。

 記者たちがその印象を、次のように語っている。

  ・戦争が終わったとたん、被告とされた日本兵は個人の自由も無いまま拘束され、異常な心理状態に追い込まれた。

  ・まるで平和な時代に、個人が犯した殺人事件を裁くような方法で、彼らは訴追を受けている。

  ・よほどの物証がないかぎりアリバイも認められず、事件にかかわった人間の特定も杜撰なものであった。

 記者の一人が、大和村と呼ばれたフィリピンのカンルパン収容所で、参謀が将校にした訓示を紹介している。

  ・戦争はまだ終わっていない。大切なことは、犠牲者をできるだけ少なくすることだ。

  ・米軍は日本軍の上官が、敵の非戦闘員の殺害を命令したとしたいのだ。

  ・日本陸軍のためお前たちは、いやしくも、上官が殺害を命令したなどと言ってはならぬ。

 この訓示のため上官は部下を弁護せず、濡れ衣のまま処刑された下士官や兵が多数いたと言う。戦後の長い沈黙を破り、彼らがやっと記者に口を開いた。

 元憲兵隊の軍曹だった渡辺氏は、カンルパン収容所での参謀の訓示について語った。

  ・上官が責任を取ってくれれば、あんなにまで、罪をかぶることもなかったんです。

  ・他の部隊の中には部隊長が責任を取って、下級将校や下士官が助かったこともあるんです。

 軍人がすべて潔い武人でなかったという事実を、氏の証言が伝えていた。重い口で、氏が収容所での日々を語っている。

  ・朝と夕に行われていた死刑執行が、22年の暮れからは、深夜にも行われるようになりました。

  ・「お世話になりました。一足お先に失礼します」という声が闇に響いて、その度に全員が跳ね起きて正座し、手を合わせるのです。

  ・渡辺軍曹と白倉曹長が、収容所で初めて送った処刑者が藤井中尉だった。

 守備隊長だった藤井中尉は捕虜を処刑した罪に問われ、絞首刑が確定していた。上役の命令で、彼が部下に命じたものだった。

 彼は、可愛がっていたフィリピン人の若者の告げ口で、法廷に引き出されたと言う。告げ口をした若者も、アメリカ兵に銃で脅され、罪人の名前を言わされていた。

 若者の辛い立場を理解していた藤井中尉は、告げ口を許し、上役や同朋の名前も言わず一人で罪を被って刑に服した。中尉の処刑の日に、渡辺氏と白倉氏は、他の受刑者と共に獄舎の中で「海ゆかば」を歌って送った。

 藤井中尉の細君が住む家の庭には、帰還した彼の部下が立てたという御影石の碑がある。固く辞退する細君に、三拝四拝し、部下が私費で立てさせて貰ったものだったと言う。

 「昭和20年、日本国第二次世界大戦に破るるや、戦勝国は、一方的に我が軍将兵を裁き、重きはこれを死罪と為す。」

 この文字が記された碑文は、藤井中尉の無罪を訴え、氏の潔さを語っていた。高さ2メートルもある御影石の碑は高価なもので、建てた部下には、大変な出費だったろうが、彼らも、中尉のお陰で生き延びた一人だったのかも知れない。

 残された中尉の妻子に、残虐な罪を犯して刑死したのでなく、軍人として正しく死んで行ったのだ、と伝えずにおれないものがあったのかもしれない。詳しく説明されていないが、そうせずにおれなかった部下の気持ちが、私を泣かせた。

  中尉、軍曹、曹長という軍の階級が出てくるが、上下の関係が分からないので別途調べた。知っていると本書への理解が深まるので、参考のために紹介する。

  将官   大将      尉官    大尉     兵卒  上等兵

       中将            中尉         一等兵

       少将            少尉         二等兵

  佐官   大佐      下士官   准尉

       中佐            曹長

       少佐            軍曹

                     伍長

 読後の感想は長くなっても、自分の気持ちを書き残しておきたいので、続きは改めて書くことにする。

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