たった一冊の薄っぺらな文庫本に、長い感想を書き留めるなど考えてもみないことだった。文字を追うにつれ、胸を掻きむしられるような痛みがあった。
書かずにおれない衝動が湧き、3度目の感想文に挑戦する。本書の中心となっている渡辺軍曹・白倉曹長と、若松軍医が、なぜ刑を減じられて存命しているのかを、最後に書き留めておきたかった。
それが済めば安心して、今回限りで感想文が終われる。
シンガポールのチャンギー刑務所で、渡辺軍曹と白倉曹長の弁護人となったのは、共に20代の米国人民間弁護士だった。主任弁護人はロダン・ダビット氏で、副主任弁護人はハリトン・ダントン氏だ。
二人は渡辺軍曹と白倉曹長の無実を知ると、本気で弁護を引き受けた。
罪を問われた時期に、渡辺氏は日本の下関にいた事実があったので、主任ダビット氏は渡辺氏のアリバイを証明しようと、裁判の中断を要求し、日本にまで出向いた。
けれども裁判は、ダビット氏の意向を無視して進められ、渡辺氏の死刑が確定してしまう。戻って来た氏は、裁判官から解任されるというおまけまでついた。
解任されたダビット氏とダントン両弁護人が、二人揃ってアメリカへ帰国した時、渡辺氏は全てを諦めたという。ところが刑執行の直前となった日に、無期懲役刑に減刑された。
その理由が、渡辺氏には、信じられないことばかりだった。
副主任弁護人だったダントン氏が、帰国した後も減刑活動を諦めず、あらゆるツテを使って奮闘していたのだった。彼の書いた嘆願書が、幸運にもトルーマン大統領へ届き、それを読んだ大統領が、直ちにマッカーサー司令官へ刑の見直しを指示したのだという。
日本では、とても考えられないようなことが、アメリカでは起こる。不思議な国であると、渡辺氏は感じ入ってしまう。
即座に指示を出した大統領だけでなく、諦めなかったダントン弁護人の熱意と、それに協力したダビット氏の献身があった。敵国の死刑囚に対し、どうして彼らは、そんな苦労を重ねたのか。
渡辺氏だけでなく、私にとっても、弁護人たちの献身には理解を越えるものがある。むしろ私なら、「敵国の人間に、なんでそこまでしてやるのか。」と、そんな了見しか持てない気がする。
シンガポール刑務所の若松軍医の弁護人は、トムキンソン中尉だった。
氏もまた若松軍医の人柄に惹かれ、真摯な活動で減刑をもたらしている。生き延びた死刑囚も奇跡としか言えないが、こうした弁護人がいたという事実も、奇跡ではないかと私は思う。
山口二等兵曹、小崎海軍上等兵曹、多田二等機関兵曹、水谷少佐、永翁上等兵曹等々、まるでコンベアーに載せられた物体のように、多くの軍人たちが命を奪われて行った。
罪人として逝った父や夫や息子や兄弟のことを、世間にひた隠しし、小さくなって戦後を生きた彼らの家族だったのではないかと思う。そんな人々がいたことを、本を読むまで想像したこともなかった。
帰還した藤井中尉の部下が、家族のため、事実を刻んだ慰霊碑を建てた様子が、再び目に浮かぶ。
文字を読む奥さんと子供たちは、どれほど心強く、嬉しく思ったことだろう。それとも、帰らぬ人と諦めていた気持が再び甦り、返って悲しみを深めたのか。遺族でない私には分からないが、ただ涙を拭うしかなかった。
以上フィリピンやシンガポールなど、50ケ所の軍事法廷で密かに裁かれた、BC級戦犯の被告数 5,700人と、そのうちの処刑者 901人について紹介した。
これとは別に東京裁判でA級戦犯として処刑されたのが、東條首相以下 7名の政府指導者だった。この他に
獄死したA級戦犯の人々が5名、
病死者が2名、
後に減刑されたが、無期懲役刑で逝去した方々は12名だ。
自決した本庄大将や阿南陸将、大西中将、近衛総理などを合わせると、23名の人物が亡くなっている。
荒っぽい数字だが、A級戦犯として亡くなった方々が30名で、本書にあるBC級の処刑者901名を加えると、931名の政府関係者と軍人が責任者として命を処している。
日本の指導者は責任をとっていない、他国を侵略した兵たちも責任をとっていないと攻撃して止まない反日の人々には、この数字が無意味なものに見えのだろうか。
あるいは彼らも私同様に、こうした「戦犯」の事実を知らないのかも知れない。自分のことも含め、過去を知る大切さを痛感した今日だ。
定価380円の文庫本だが、大切に本棚にしまって置くこととする。
いつか息子たちが、この本を読んでくれることを願いながらブログを終わろう。