ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

大西滝治郎中将の訓示

2013-03-15 23:20:20 | 徒然の記

 大西中将が、特攻隊を編制した直後、40名の隊員を前に、涙ながらに語った言葉を、you tubeで知った。省略せずに書くこととする。

 「特攻は統率の外道である。もう、戦争は続けるべきではない。」「ただこのまま、アメリカを本土に迎えた場合、歴史にみるインディアン、ハワイ民族のように、闘魂ある者は次々に各個撃破され、日本民族の再興の機会は、永久に失われるであろう。」

 「しかし特攻により、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができる。」「そのために特攻を行ってでも、フィリピンを、最後の戦場にしなければならない。」「だがこれは、九分九厘成功の見込みなど無い。では何故、見込みの無いこのような強行、愚行をするのか。」

 「ここに信じてよいことがある。いかなる講和になろうとも、日本民族が、まさに滅びんとする時にあたって、身をもって防いだ若者たちがいたという歴史が残る限り、500年1000年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう。」

 二十年くらい前に、草柳大蔵氏の「大西滝治郎伝」を読んだが、そこにこうした訓示は書かれていなかった。

 草柳氏が、なぜこの大事な言葉を伝記に入れなかったのか、疑問は残るが、もしかすると、You tubeの新しい発見なのかもしれない。神風特別攻撃隊を創設したのが大西中将で、敗戦の決定した翌日に、氏が自決したことは知っていたが、訓示を述べていたのは知らなかった。

 これまで私は、戦前の軍人は常に神懸かりなことを言い、神州不滅を妄信し、バカな戦争をしたとばかり思っていたので、成功の見込みの無い愚行と知りつつ、未来の国民の叡智を信じ、命を捨てた事実を知らされ、強い衝撃を受けた。

 私の中にある戦前の日本国民は、戦争指導者やマスコミに、鬼畜米英、一億玉砕と煽動され、愚かな戦争遂行に突き進んだという印象が強くあった。だから二十一世紀の今日、政府の宣伝に踊らされ、一糸乱れず愚かな絶叫を繰り返す、中国や北朝鮮の国民が笑えなかった。自分の国を見るような気がするからだった。

 大西中将の言葉を知ると、当時の日本人が、すべて神がかりではなかったと分かった。特攻を外道と認めた将軍と、愚行と知りつつ特攻を志願した兵士たちがいたのである。

 彼らは何のために、そうしたのか。

 たかだか二十歳代の若者だというのに、大切な家族を守ろうとし、国の行く末を思い、この決断をしたのだと知った。彼らはやはり、英霊と呼ぶに相応しい国民であり、自然と涙が湧いてくる。

 こうした彼らを、戦争犯罪人だと同じ日本人が語ることの、なんという無慈悲さか。彼らの尊い死を無駄にしないためにも、私たちは、戦後レジームとの決別をしなければならない。長谷川三千子教授が言われるように、「日本は、敗戦を引きずったままでいいのですか。このままでいいのですか。」という問いを、本気でしなければならない。

 安倍総理氏が言うからでなく、私たち国民がそう思いつつある時に、安倍総理が出現した。総理に騙されているのでなく、総理の方が正しくて、間違っているのは、反日売国の政治家と、左翼マスコミだ。これにこそ、騙されてはならない。

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朝日新聞への苦言と賞賛

2013-03-12 18:40:11 | 徒然の記

 2月23日の朝日の社説「民主党大会、反省を糧に、前へ」について、苦言を呈したい。

 大敗した総選挙を総括し、党として反省をしている民主党向かい、まるで寛大な父親ででもあるような暖かい励ましだ。

 「生活者の中にも、利害の対立があり、働く者の立場も様々だ。それをいかに調整するかが、統治能力であり、今回、民主党が問われたものである。」

 民主党の敗北の原因を、社説が解説している。見当違いもここまで酷くなると、返って孤高の美が感じられるから不思議だ。

 私からすれば民主党の大敗は、大層な検討や研究など何もいらない。

 「自分たちの国を蔑ろにし、中国や韓国・北朝鮮と通じた政治家の集団だったと、国民の目にハッキリ分かったこと。」

 それ以上でも、以下でもない。

 日本や一般国民が困るような事実、それもねつ造としか思えないような話を、わざわざ反日の隣国へ内通していた、議員たちの党だったと国民が知ったことだ。自分の国を憎悪する政治家や、反日の中国や韓国に大切な情報を流してしまうような、内通者たちの党に、どうして政権が渡せると言うのだろう。右翼でなくても、私のような普通の国民は、そんな人間たちを嫌悪する。

 社説を書いた朝日の記者は、「生活者の中にも利害の対立があり」と新語を造っている。

 彼はおそらく「国民」のことを、「生活者」などという奇妙な言葉で言い換えているのだろうが、何を意図してこんな造語を活字にするのか。国民という言葉には、国の文化や歴史、風土や自然といった、全てが包含されているが、生活者と言う言葉には、働いて食べて寝てと、日々を暮らすだけの人間の表現だ。

 左翼信者らしい、即物的な、低俗語であるにすぎない。社説を書いた人物も、先日退職した主筆の若宮氏同様の、左翼かぶれの人間なのだろうか。

 苦言はここまでとし、次は「賞賛」だ。

 3月5日の「声の蘭」に掲載された、東京都在の75才無職西中氏の投書だ。

「原発ゼロは、民意なのか」という表題で、誰がいつ、どこでそのような民意を決めたのかという素朴な疑問が述べられている。

 中身については割愛するが、私は西中氏の意見に心を動かされた。
激昂して「原発ゼロを即座に」というのでなく、その悪影響にも目を向け、バランスをどのようにとるのかが大切だと氏は言う。一方に偏した意見だけではいけないという、現実論である。

 これが良識と言うものであり、普通の意見だと私は考える。ではなぜ「賞賛」に値するのか・・。

 共産党か社会党の機関紙みたいな朝日が、こんな良識の声を掲載したというのだから、賞賛に値する。頑迷な左翼主義者が、庶民の声に耳を傾けたという事実にびっくりした。

 ならず者がたまに善行をすると、ひどく目立つのと同じで、朝日が稀に常識的なことをすると紙面が輝いて見える。朝日新聞は人民日報でもなく、朝鮮日報でもなく、れっきとした日本の新聞だから、日本の新聞らしく、これからも庶民の常識を大切にしてもらいたいものだ。

 苦言と賞賛のバランスが取れた、今日という日が再び来て欲しいと願いつつ、本日をもって、朝日新聞への実りの無い批判を止めることとしたい。

 今後朝日が、どんな記事を書いても、ブログには載せない。不毛な批判の繰り返しは、大切な人生の無駄使いとなるし自己嫌悪にも陥るからだ。

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二人目の孫誕生

2013-03-03 21:58:19 | 徒然の記

 3月1日、次男に娘が産まれた。

 予定日を二週間余り遅れたので、何度も神様に祈った。嫁の里の三重県で出産したため、今回も孫には対面していないが、家族が増えるというのは理屈抜きに嬉しい。去年産まれた初孫は三男の娘だったが、あの時も予定日が遅れやきもきした。苦しい時の神頼みで必死で手を合わせたけれど、産まれてしまえば不安も心配も吹き飛んでしまった。まさに「のど元過ぎれば熱さ忘れる」。

 それでも不義理はせず、ちゃんとお礼のお参りはした。あとはもう、元気で健やかに育つことを願うばかりだ。

 原発事故、若者の就職難、自殺者の増加など、こんな酷い世の中に産まれてと家内は孫たちの未来を悲しむが、私はちっとも希望を失っていない。何時だって、この世には困難なことや酷いことが沢山あったし、現在だけが特に酷いという訳でない。そもそも一、二月でなく三月に産まれたと言うのが素晴らしいでないか。

 いかにも女の子らしい季節で、三月桜の咲く頃だ。二月よりずっといいと思えてならない。予定日が遅れたのは、もしかすると天の神様の思いやりではないかと、すでにジジ馬鹿と成り果て、都合の良い解釈をもてあそんでいる。

 私がブログで政治向きのことを書くことにつき、家内は生活につながりの無い無意味な遊びと思っている。あるいはそれこそ、「みみずの戯言」、物好きの繰り言と、軽視している向きがある。だが、残念ながら私は真剣なのだ。子や孫が、住み良く、楽しく生きられる日本であって欲しいと、願うからこそ政治について考える。

 そして、願いを聞き入れてくれそうな政治家を探す。選挙の一票でしか政治に参加できない国民の一人だとしても、一票の重みを知る人間の一人として、真剣に考える。

 まだ名前のついていない、二人目の孫よ。そしてまだ、言葉の喋れない初孫よ。笑ってくれるな。お爺ちゃんは、こんな手段でしかお前たちのために役立つことができないが、それでも、こんなお爺ちゃんやお婆ちゃんが日本中に増えたら、きっと世の中が変わるはずだ。

 孫が産まれたから、自分でお爺ちゃんなどと言っているが、心はまだ二十代の私は不本意でならない。二人目の孫に、今回も3月1日の新聞を記念に取っておいてやるとする。ついでに言えば、その新聞が朝日新聞であること。これがまた不本意なことではある。

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