ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日本の右傾化

2013-01-26 12:54:35 | 徒然の記

 1月12日付の、朝日新聞の社説を読んだ。主筆若宮氏が書いていた。

 氏は安倍自民党の圧勝と、石原慎太郎氏の率いる維新の会の躍進が、日本の右傾化を示しており、心配でならないと述べている。平成19年の憲法制定60周年のおり、朝日新聞社は社内で真剣な議論を重ねた上で、自衛隊は軍隊としない方が良いと結論づけたと言う。理由として、氏は次の二つを挙げている

  1. 憲法9条は、軍国主義で失敗した日本のメッセージであること。

  2. 周辺国へ安心感を与え、国民の間にも定着していること。

 安倍総理が過去の歴史を正当化し、領土問題で強気を見せ、ここで改憲すれば、更に周辺国の警戒が高まると、安倍氏の危険性を強調している。

 「日本が周辺国から敵視されないためには、こちらから刺激をしないことだ。」と言い、憲法に手をつけなかった、護憲派宮澤元首相の談話を紹介している。

 若宮氏の社説にも驚いたが、宮澤氏がこんな意見の持ち主だったと知りさらに驚いた。保守自民党の総裁でありながら、国の自主独立のために憲法改正が必要だと、そんなことは考えていなかったのだ。これでは、憲法改正に反対する反日左翼政党の議員と、どこが違うのか。

 「国を守るために軍隊を持つ」というのが、世界の常識だ。自分で自分の国を守るから独立国家であり、これが普通の国だ。軍隊がないと言いながら、自衛隊という名前で軍を持ち、軍隊でないと言い張る戦後の日本が、正しい姿だとでも言うのだろうか。

 そんな歪な日本にしたから、国を大切にする人間が少なくなり、歴史や文化まで否定する人間が増えたのだが、そんなことには何の関心もないのだろうか。原因が「日本国憲法」にあり、氏のような亡国の愚論を発信する新聞にあると、多くの国民がなぜ言わないのか。不思議でならない。

 周辺国への刺激と反発の悪循環を止めなければならない、今は改憲の時ではないと、氏はこういう主張だ。日本が何をやっても反対する中国と韓国に、なぜそこまで気を遣わなくてならないのか、ならば改憲の時はいつ来るのか、いつ日本は普通の国になれるのか、次第に怒りを覚えてきた。

 マスコミ界のリーダーと言われる朝日新聞の主張は、日本のことより、常に中国と韓国のためになされてきた。戦後の日本人が憲法に苦しめられてきた事実を無視し、「国民に定着した憲法」などと独り合点している。

 大東亜戦争で中国に責任を覚えるものがあるから、このおかしな憲法に目をつむっていたが、一方では、未来永劫このままでは国が駄目になると、憂国の怒りをこらえ今日まで来た。氏の言うような、能天気な「定着」である訳がない。

 戦後70余年が経過し、戦争犯罪を断罪したと言われる東京裁判が、戦勝国による復讐裁判だったと判明した今は、日本の未来を改めて考える時ではないのか。

 「周辺国を刺激しない」などと、ぼかして言っても、周辺国は中国と韓国のことで、他のアジア諸国はそのようなことは思っていない。日本を憎み続ける隣国のため、日本はいつまでも我慢すべしと、こんな社説がどうしてまかり通るのか。

 「南方週末」を見るまでもなく、氏の好きな中国は、自分の気に入らないマスコミを平気で弾圧する国だ。それにひきかえ、右翼、国家主義者だと、氏が非難してやまない安倍氏が、氏の偏向記事に一度でも干渉したことがあるだろうか。

 幸いにも、氏は今回の社説を最後に定年退職するとのことだから、日本のために良かったと祝いたい。しかし憲法をこのままで良いと結論づけたのは、何人かが議論を重ねた結果なので、朝日新聞社には氏のような偏向日本人が、まだ存在していることになる。

 氏が退職しても、国民の心を傷つけ、国をダメにする記事が途切れることなく書かれるのだ。日本の右傾化でなく、朝日の反日姿勢こそ心配し、眉をひそめずにおれなくなる。

 偏向のない正論だと思っているが、朝日新聞社では私のような意見を言う者を、「右翼」と呼ぶらしい。

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反対論者の意見

2013-01-21 14:07:28 | 徒然の記

 IWJ岩上チャネル。パソコンを扱っていたら、弁護士の澤藤氏と梓澤氏が憲法改正への反対意見を述べている動画に行き当たった。

 両氏がどういう人物なのか知らないが、左翼の平和論者だとすぐに分かった。先の大戦での日本人の戦死者300万人、アジア諸国では1000万人。現憲法は戦死者の固まりであり、人類の英知の結晶である。しかるに、この優れた憲法を自民党が変えようとしている。自衛隊を国防軍と言い変え、96条の改正手続きを簡単にし、戦争が出来るようにしようとしている。絶対に許してならない暴挙だ。これが氏の反対論の根拠である。

 一方梓澤氏は、現憲法の三原則(平和主義、民主主義、人権尊重)は、制定の経緯が何であれ、国民の間に定着しており、押し付け憲法などというのは笑止な論だ。今や民衆のものとして根付いている憲法を改正することに対し、権力のない人、富の無い人は絶対反対すべきであると、強調する。

 権力も富もない私だが、梓澤氏の考えには賛同できない。そればかりでなく、未だにこういう意見を展開する両氏に「貴方たちの祖国はどこなのか」と問いかけたくなる。

 彼らはただ戦争反対、平和第一、国家より個人の尊重が一番と言うが、ここから生じた戦後日本の政治、教育、人心のねじれや荒廃についての反省はないのだろうか。日本の主権を平気で侵してくる中国や韓国・北朝鮮、ロシア等への危惧が皆無であるというところに、悲しみと嫌悪の情を覚える。

 憲法を改正すれば即座に戦争だとか、戦争責任を忘れた右傾化だとか、軍国主義の復活だとか、そういう面からしか話の組み立てができない彼らは、国民を守れない国家の惨めさをなんと考えているのだろうか。何度も述べて来たので繰り返したくないが、憲法改正が即軍国主義の復活であるはずはないので、こうした粗末な反対論が一日も早く社会から消えて行くことを願ってやまない。

 第一、国民ことを「民衆」などと呼ぶことからして違和感がある。

 今はもう苔むしたマルクス主義の言葉であり、私は自分が「民衆」の一人だなどとは一度も思ったことがない。そもそもこんな言葉は革命を達成せんがため、権力を有するものたちに対峙させ、マルクスが「一般庶民」につけた呼称にすぎない。

 強いて言えば、私は日本に住む「名もない庶民」の一人であり、「国民」の一人である。国民の一人として住んでいる国を大切に思い、誇りも持っている。両氏の意見には、日本への愛や国の大切さについての思考が、欠落している。

 両氏は、改正憲法案は国民が主権者であることを忘れ、国が命令をしようとしている、個人より国が偉いと主体が逆転していると、強い口調で語る。改正草案では「国民」に対して、ああしろこうしろというおせっかいな規程が確かに増えている。それについては私も余計なものと思いを同じくするが、両氏のような責任と義務を忘れた左系の利己主義者たちが、個人の権利ばかりを主張してきたから、自民党がこういう規程を入れたのだと逆に納得させられた。

 憲法についてはもう書くまいと昨日こそ誓ったのに、動画を見てつい興奮した。単純というか、愚かさというのか。もし彼らが私を軍国主義者とか右翼だとか呼ぶのな、笑止千万だ。私は選挙の一票でのみ権利の行使をする、「名もない庶民」の一人で、住んでいる国を大切にすること「国民」のひとりでしかない。

 軍国主義者とか右翼とか、そんな大それた人間であるはずがない。

 やっている余計なことと言えば、性懲りもなく「みみずの戯言」を続けているところだろうか。

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自己嫌悪

2013-01-20 11:36:38 | 徒然の記
 憲法改正草案は、国会、内閣、司法と続くが、これ以上書くのは止めにしよう。

 憲法前文と九条,十条、二十四、二十五条と年来の思いを述べたことだし、これから先は門外漢が拘れば碌なことにならない気がする。かって選挙制度が中選挙区から小選挙区に変更された時だって、選挙に金がかかりすぎる原因は中選挙区で、小選挙区がいかに理想的ものかと鳴り物入りでマスコミが報道した。それが今になると、政局を不安定にする、小さな政党が育たない、死票が多くなるなど、今度は小選挙区の欠点が声高に語られる。

 要するに主権者などとおだてられてたって、私たち国民に知らされないものが沢山あり、素人には分からない話が多いということだ。その時々の都合で政治家やマスコミが情報の一部を知らせるにすぎないと、僻まずにおれない。(あるいは彼らだって、その折々の俄勉強で分かったところだけを得意げに吹聴しているのかも知れないが。) 国会、内閣、司法などは昔教科書で教えられた知識の断片があるばかりで、実際私には判断の材料がほとんどない。

 これと言う不都合を感じないのは、きっと三権が適切に機能している印なのだと推察するのが関の山だ。見当違いのことをわざわざ言うくらいなら、黙って方いるが害がないというものだ。いまだに他国で余計なことを喋り、日本政府を困らせている鳩山氏のようには、間違ってもなりたくない。

 憲法、国旗、愛国心、あるいは戦争等々、こうした重い課題について書いた時など、時間が経って読み返すと、自己嫌悪に陥ることが多々ある。みみずの戯言だと割り切っていても、妙に気負った自分に嫌気がさしたりする。「マクド難民」の若者の話、「住処難民」の独居老人たちの話と、いずれも他人ごとでない新聞記事ばかりが自宅に届く。もしかするとこれらのせいかも知れないが、ひとたび長患いすればたちまち家計が破綻し、明日の暮らしがおぼつかなくなる年金暮らしの己でないかと、妙な弱気が出て来たりする。

 日本人に大切な問題だとしたところで、みんな抽象的なものばかりでないか、そんなことより頭の上の蠅でも追ったらどうなんだと、もう一人の自分が冷笑する。やりきれないことであるが、私の立っている場所はうっかりしていたら足を踏み外しそうな、頼りない板の上みたいなものだ。それでも呑気に「戯言」を言っておられるのは、私と同じところに立っている人びと、飾りなく言えば貧乏人が周りに沢山いるからなのだ。呑気にしかも笑顔までみせて生きている姿を見ていると、つい私も負けるもんかと競争したくなってしまう。

 これもまた「赤信号、皆で渡れば怖くない」の変形なのだろうが、計画性も何もないこの日本的楽観主義に、私は感謝せずにおれない。まったく。
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日本国憲法改正草案-3 ( 提灯と釣鐘 )

2013-01-17 11:43:57 | 徒然の記

 「第三章、国民の権利及び義務」・・第10条から40条まで、中身はともかくとして一番のボリュームを占めている。

 若い頃なら退屈し、居眠りをしそうな量だが、幸いにも退屈な経験を重ねてきたお陰で睡魔には襲われない。

 学生の時、入試の監督員のアルバイトをしたことがある。大学の事務員が説明会で、「生きることは退屈さとの闘いなのです」と、試験監督の心得を語ってくれた。

 何と志の低い人間かと軽蔑したが、受験生には必死の時間でも、バイトの学生には確かに退屈そのものだった。いい加減そうなのに、不思議な真実味を持つこの訓話を、私は折に触れ思い出す。しかし憲法草案を読む作業と、一緒にしてはならない無関係な話だから、思い出すのをやめよう。

 「第十二条 ( 国民の責務 )」・・

 現憲法は、「個人の自由と権利は、公共の福祉のために利用する責任がある」と規定している。

 改正草案では、「自由と権利には、責任と義務が伴う」という言葉を追加し、「公益及び公の秩序に反してはならない」と書き改めてある。

 私を含め戦後の教育で育った人間は、自由と権利を主張する割には、その背後にある責任と義務を忘れる。「今どきの若いもんは」と、年長者に眉をしかめられたのは、大抵こんな時だった。


 安倍氏は自民党の総理で、保守の党首らしく若者の放縦を戒めているが、こうした道徳的文言は憲法に馴染まないという思いが拭えない。

 「公益と公の秩序に反してはならない」という言葉に、私は自民党への警戒心を覚える。「公の秩序」という言葉は、どのようにも解釈され、反対勢力の逮捕投獄を、容易した用語だ。面倒な市民運動を黙らせたいと言う自民党の思いが、「衣の下から出た鎧」だ。

 怠け者の学生だったが、法学部だからこの程度の推理力はある。反対意見や反対運動は不愉快だが、社会に不可欠のものだから、寛容な憲法であって欲しいと願う私だ。

 当然のこととして、「二十一条 ( 表現の自由 )」の2項は、削除してもらいたい。この条文は、政府に不都合な結社や、国民運動の根絶やしを可能にするものだ。安倍氏にその意思がないとしても、年月がたち政権が変われば、どんな勢力が何に利用するか分かったものでない。危惧せずにおれない諸刃の刃だ。

 「二十四条 ( 家族婚姻等に関する基本原則 )」では、家族が社会の基本単位であると、書かれている。敗戦後ずっと個人が強調されてきたが、ここにきてやっと日本国民に、家族の大切さを告げた点を良しとする。

 しかし、「家族は助け合わなければならない」という、おせっかいな言葉は、憲法に書くまでもないことだ。自己主張ばかりし、今にも崩壊しそうな家族があるが、わざわざ書かずとも、新憲法が浸透して行けば、自ずと学校教育が変わり、教師も親も、偏った、一方的な人権教育をしなくなるはずだ。

 ここはひとつ、大きな心で、国民を信じて貰いたい。

 「二十五条の四 ( 犯罪被害者等への配慮 )」は、新設の条文だが諸手を擧げて賛成する。犯罪者の人権が強調されるあまり、被害者の人権が軽視されて来た現在の不公平がこれでなくなる。

 学校のいじめ問題にしても、亡くなった生徒への不公平な扱いが減るだろうし、まともな社会が出来る一助となるはずだ。

 「二十八条  (勤労者の団結等 )」は、2項 ( 新設 ) で公務員の団結権の制限が述べられている。私は妥当と思うけれど、労働組合の側には受け入れられない条文になるような気がする。

 「二十一条の二 ( 国政上の行為に関する説明の義務 )」と、「二十六条の3 ( 教育に関する権利及び義務等 )」は、いずれも新設の条文だが、私にはあまり必要性が分からない。

 残る条文については、妥当でないかと考える。反撃したい人もいるだろうが、そう云う人びとは反対すれば良い。冷淡な言い方だが、かって憲法改正について意見を問われた時、社会党の党首だった土井氏は、「駄目なものは、駄目なんです」と、感情論で突き放した。氏に比べれば、そんな言い方をしない私の方が、ずっと親切だ。

 土井氏は社会党の委員長で、私は年金生活者だから、こっちはまさに「みみずの戯言」だ。世間で受け止められる重みは、提灯と釣り鐘だろう。誤解する人はいないと思うが、提灯が私の言葉で、釣鐘が土井氏の言葉です。世間は、まだそこまで変化していません。

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アラオを尋ねて

2013-01-15 11:51:35 | 徒然の記
 大震災の津波で流された膨大な量の廃材が広い太平洋を渡り、アラスカ、カナダ、アメリカへと漂着した。

 この中で名前の書かれたバスケットボールや漁具などが日本へ戻され、NHKがそれらの所有者を捜すと言うドキュメンタリーがあった。何気なく見始めたのに、画面に釘付けになってしまった。所有者の名前と住所を探し当てやっと訪ねたら、そこは誰も住めない荒れ果てた土地となっていた。知人らしき住民を探し消息を聞くと、流された家の所有者は夫婦ともに行方不明となったままという。対話する住民は誰も夫や妻、あるいは娘や息子、祖父や祖母といった大切な家族を失っている。

 何気ない表情で番組スタッフに対応しているが、やがて言葉を詰まらせ涙ぐんでくる。津波にさらわれた家屋やビルや車の残骸、港に打ち捨てられた無数の漁船などが無惨な災害の傷跡を生々しく伝える。一年が経つというのに、被災地の現状がまだこんなにも荒涼としたままであること、人びとへの支援の手が行き渡っていないこと、それでも現地では、男も女も大人も子供も、自暴自棄になっていないし、笑顔さえ見せようとしていること。

 自分がこんな境遇におかれたら果たしてどうするのだろうと、そう思うだけで涙が流れてきた。原発反対のデモのニュースも大切だろうが、こうしたドキュメンタリーの方がその何倍もの訴えをすると私は感じた。福島がというより、被災地のすべてが復興するまで、NHKはこうした番組を全国に報道し続けてもらいたい。民放のように感情移入過多の報道でなく、ごく普通に、ごく自然に、名もない人びとが凛として生きている姿を津々浦々に伝えて欲しい。

 そうすれば、霞ヶ関の官僚たちが被災地への復興予算を流用したことの罪深さが私たち国民にシッカリと伝わる。同時に、それを止めることの出来なかった政治家たちの無能さが嫌という程分かる。原発を即座に廃止すると言うのは、たしかに賢明な方法ではないだろうが、それでもこの番組をみれば、全廃の方向へと舵取りをする必要性が自然と理解できるでないか。久しぶりにNHKらしい番組だったと感動し、久しぶりに爽やかな気持ちになり、久しぶりにNHKに感謝する。

 だからきっと私は、自分で考えている以上に素直な人間なのかもしれない。
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日本国憲法改正草案-2 ( 現実に即した憲法の是非 )

2013-01-14 11:53:26 | 徒然の記

 「第二章安全保障」・・現憲法の表題は「第二章戦争の放棄」なので、表題から改正されている。

 ここに一番の争点である「九条」が含まれる。初めて気がついたが、改正草案では、条文毎にサブタイトルがつけられている。何を目的とする条文なのかが、明確になっている。

 二章の中身は三カ条で、

     九条   ( 平和主義 )

     九条の二  ( 国防軍 )

     九条の三  ( 領土等の保全等 )      に区分され、が新設の条文である。

 現憲法では、前文と共にこの九条がセットとなってわが国の手足を縛り、他国から何をされても我慢し、国が滅びても反撃をできない規定となっている。

 こんな理不尽な条文があるのかと憤る私たちと、平和主義が素晴らしいと感激する人びとに分かれている。感激の先頭に立っているのが、共産党だ。

 共産党の意見はいつも同じだ。中国・韓国だけでなくアジア諸国に、残虐非道な戦争をしかけ、破壊と殺戮を行ったのが日本だから、日本は反省し自己批判し、あらゆる非難に耳を傾けなければならないという、終わりのない自虐の主張だ。

 戦前をむげに否定しない多くの国民と、反日左翼の人間たちの不毛な感情論が、戦後の日本をダメにしている元凶だ。そして反日の彼らが根拠としているのが、現憲法の九条だ。

 改正案の九条が、「自衛のための戦争」を肯定しているのを私は当然と思う。世界の国は昔から、「自衛のため」と言って戦争をやってきた。だから日本が自衛戦争を肯定すれば、周辺諸国を刺激すると左傾の人びとが反対する。

 絶え間ない戦争が世界の現実なのだから、現実に即した憲法を持つことに何の躊躇いがあるというのだろう。中国や北朝鮮、あるいはイスラエル、イランのように,いつでも武力行使をする国に対し、自衛戦争の意思表示はやって当然と私は思う。

 日本の平和主義者たちは、中国や北朝鮮、あるいはイスラエルや、イラン、シリアに対して、彼らの軍国主義は糾弾していない。この暴力的な国々に対してこそ、非難すべきなのにそれはしない。物騒な世界が目の前にあるのに、自衛戦争が出来ると憲法に書いたら、日本が好戦的と思われるという反対論では理屈が通らない。

 憲法を改正し、好戦的にならない工夫をするのが、現実世界での話だ。子供の駄々っ子のような理屈を、73年間も聞かされてきた私はいい加減うんざりしている。具体的にどのような施策をするかは、改正草案の通り、国会での承認があれば済む話だ。

 しかし、うなづけない改正草案もあった。九条の三 ( 領土等の保全等 )、の条文だ。

 「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土領海および領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」

 国家・国旗への尊重を促した条文と同様、わざわざ憲法に書かなくて良いのではという気がする。中国、ロシア、韓国と領土問題で争っているからなのだろうが、今後の交渉を返って困難にするという危惧もある。

 今日も,この辺りで終わることとしたい。

 安総理の言うことなら良いだろうと、呑気に構えていたが、やはりすべてが自分にピツタリと言う訳にはいかなかった。

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日本国憲法改正草案 ( 天皇陛下と、国歌と国旗 )

2013-01-13 14:43:44 | 徒然の記

  自民党の広報に、憲法改正草案が掲載されていると知った。

 安倍総理が、どのような内容で改正しようとしているのか知りたくて、早速印刷した。選挙で自民党に票を入れたのは、「憲法改正」に賛同しているからだった。

 現憲法との対比で表示され、A4で27ページになるが、何日かけても読むつもりだ。やや重いが、新年に相応しい課題でないかと、カラ元気で臨むとしよう。

 まず、前文と第一章天皇についてだ。

 安倍氏がテレビで、しきりに前文を批判していたが、私も同じ思いを抱いている。戦争の惨禍を二度と繰り返さないと言う、崇高な理想の表明と賛成する意見が多いが、私にはそう読めない。

 戦前の日本を否定し、日本だけが誤った戦争をしたとそういう風に読めるので、素直に賛成できない内容になっている。

 「自国のことのみに専念して、他国を無視してはならない」

 前文のこの言葉には、日本が自己中心の戦争をしたと、非難の意味が込められている。軍人たちが戦争へ進んで行った事実は、今の目からすると愚かに見えるのだろうが、そうせざるを得なかった事情があった。日本が全て悪かったと断定するところには、疑問が残る。

 戦勝国が日本を裁いた結果だと、安倍氏が憤る気持ちは理解できる。日本には昔から、喧嘩両成敗という言葉がある。責任がどのような割合になるのかは、様々な解釈があるだろうが、戦争も喧嘩の一種だから互いの言い分があり、片方だけが悪いということはあり得ない。

 先の大戦で敵だった国が、負けた日本に厳しく臨む、あるいは憎しみと共に反撃してくるのは、分からぬことではない。

 憲法に懲罰の言葉をちりばめたくなる意図も、理解できる。しかし日本人までが一緒になり、不公平な非難を甘受し、というより、諸手を擧げて賛同するのはいくら説明をされても理解できない。

 だから自民党案で、懲罰の言葉が削除されたことに安堵する。

 第一章の天皇については、天皇が象徴から元首へと変わったが、実態に即したということで問題を感じない。国事行為等についても内容を整理しており、不都合を覚えない。

 新設の条文は、国歌と国旗についての記述である。反対する人びとが存在し、騒ぎを起こす原因となっているから、明確に記述したのを良しとする。けれども「尊重しなければならない」と、わざわざ書く必要があるのだろうか。左の人びとが国家による強制と、難癖をつける要因になる。

 憲法に定めてさえおけば、国歌も国旗も、元々国民が大切にしていたものだから、自然と浸透していくに決まっている。

 みみずの戯言だが・・先はまだ長いので本日はこれまでとしよう。

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