goo blog サービス終了のお知らせ 

ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本終戦史・下巻』 - 4 ( 陛下の「ご譲位宣言」 )

2017-04-30 17:54:55 | 徒然の記

 毎年8月15日になりますと、テレビと新聞が「終戦記念日」の報道特集をします。

 「戦争の惨禍を忘れるな  ! 」

 「繰り返すまい、悲惨な戦争。」

 「戦争の記憶を風化させてはならない。」

 と、何十年と使い古され、擦り切れたような言葉を飽きることなく活字にしています。

 もともと「記念」という言葉は、「結婚記念日」とか、「卒業記念日」とか、めでたい日のために使われるものです。バカなマスコミどもは、いったい、あの日の何を記念すると言うのでしょう。

 「終戦」という言葉からしておかしいのです。

 度重なる無差別爆撃と、二つの原爆によって、あの時の日本は徹底的に破壊され、国は焦土と化しました。占領軍に統治され、日本の歴史が否定された日です。それはまごうかたなき「敗戦」であり、「終戦」などという言葉の出番はどこにもありません。

 正しく「敗戦」という言葉を使っていましたら、「敗戦記念日」という行事の不合理さが誰にも分かったはずでした。

 そうすれば全ての国民に、「敗戦」という事実の残酷さや、国際社会での「正義」の理不尽さが痛感されたと考えます。敗戦の惨めさから国民の目を外らし、事実を覆い隠し、ひたすら自己反省を強いるように仕向けたのは、まさにこの「終戦」という不思議な言葉でした。

 「反日・亡国のマスコミどもが、また日本の歴史を捻じ曲げている。」と、敗戦の日の「記念日特集」が報道されるたび、私もまた飽きることなく憤慨し続けて来ました。

 ところが、このたび『日本終戦史』の下巻を読み、びっくりいたしました。終わりに近い、190ページでの文章です。これこそ、私にとっての記念だという気がいたします。

  ・昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の全面的敗北によって、終止符を打った。今や黒船に代わる占領軍の圧力のもとに、日本は第二の開国を迎えることになった。

  ・ここで国民に要求されているのは、自発的、自主的態度でなく、服従の姿勢であった。

  ・日本の完全な敗北にもかかわらず、つとめて「敗戦」という言葉を避け、「終戦」「戦争終結」と呼んだのは、かって大本営が敗退を転進と呼び、国民をごまかしたのと同じ手法である。

  ・つまり、日本の敗北と降伏を民族的誇りを傷つけずに示しつつ、平常に戻りたいとする民衆の願望をも表すには、「敗戦」でなく、「終戦」の方が良かったのである。

  ・同時にこれは、戦争終結を受動的にしか受け入れなかった民衆の状態を表し、「敗戦」に至った戦争責任を曖昧にする役割も含んでいた。

 私のように率直に述べていませんが、編者も私同様に「終戦」という言葉に違和感を感じています。こんなところで、反日左翼教授の意見と一致するとは、予想していませんでした。しかし文全体を読みますと、反日教授の意見は私と相いれません。

 彼らは占領軍による統治を、希望の再出発ででもあるように喜んでいます。相変わらず国民を民衆などと呼び、飼いならされた愚民が反抗もせず、批判もせず、政府の戦争責任も追及しなかったと、共産主義者丸出しの批判を展開しています。

 こんな主張が私と一致するはずがありませんので、やっと安心いたしました。

  私は本の読後感を七回にわたって述べてきましたが、日々の無聊をまぎらすため、漫然としたのではありません。

 この間私の心にありましたのは、今上陛下の「ご譲位」関するマスコミの報道でした。マスコミの報道姿勢は、かっての大本営発表と同じであると見ておりました。

 忍び難きを忍び、「自分の身はどうなっても構わない」と、昭和天皇は停戦の決意をされ、マッカーサーと対面されました。陛下の御前会議での「お言葉」と、マッカーサーへ語られた「お言葉」を知るほどに、語らずにおれないものが生じてまいります。

 昭和のあの時代、陛下の「私」はどこにもなく、公人としての昭和天皇がおられるだけでした。死を覚悟されたご意思の表明に、私は日本の君主のお姿を見ました。

 この度今上陛下がNHKを使って語られた「お言葉」には、「公人としてのお姿」はなく、初めから終わりまで「私ごと」が語られておりました。

 高齢となったため天皇の公務に耐えられなくなったため、地位を皇太子に譲りたいと、ご自分のご都合だけを国民に伝えられました。

 このような国家の重大事を、内閣に知らせず、宮内庁の長官も知らない間に、誰がNHKにリークしたのか。NHKは、誰の指示でこの重大ニュースを報道したのか。

 あれほど戦前を批判したマスコミが、大本営と同じ手法で陛下を持ち上げる報道を、各社横並びで何故するのか。書評をしながら憤りを抑えておりました。

 今上陛下の一連のご行為は、出発点から「憲法違反」です。しかもその内容は、「私ごと」ばかりです。 日本が法治国家だというのなら、政治家でも裁判官でも、何でも口を挟みたがる文化人が、なぜ陛下の「お言葉」の憲法違反を言わないのでしょう。

 誰にも止めることができない陛下の力の大きさを、私は目の当たりに致しました。「ご譲位」は何もかもが異常で、国の不幸が隠れています。

 昭和天皇が守られた日本が、今上陛下の手によって崩壊の道を踏み出したと、私は考えております。やがて「お言葉」発表の経緯が国民に知れ渡った時、果たして国民は、皇室への敬愛の念を失わずにおれるのでしょうか。新天皇ご一家が別の目で見られる日が来ましたら、皇室は存続できるのでしょうか。

 その時に喜ぶのは、反日左翼政党とそこに集う人間たちと外国勢力です。すでに今上陛下の「ご譲位」宣言が、反日野党とその親派たちに歓迎されておりますことを、ご存知でしょうか。

 長い時間をかけ書評を続けてきましたが、私が述べたかったのは、今上陛下の「憲法違反」のご行為についてでした。最初から読まれた方には、私がなぜ手間暇をかけ、陛下の「ご譲位」に言及したのか、もしかすると分かって頂けるのではないかと思料いたします。

 日本の歴史の流れの中で、今回の「ご譲位」の不自然さと異常さを理解して頂きたいと、私の願いはこの一点です。

 国民敬愛の中心にある「皇室」を崩壊させてはなりません。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本終戦史・下巻』 - 3 ( アメリカの対日政策とグルー大使 )

2017-04-29 18:28:42 | 徒然の記

 ルーズベルト、トルーマン、マッカーサー、ダレス、ハルなど、私の記憶の引き出しには、米国人の名前が沢山詰まっています。

 大東亜戦争の前後に、日本を痛めつけた人物たちです。ジョセフ・グルーの名前もひとまとめにして突っ込んでいましたが、この人物だけは少し違うと、本を読んで知りました。

  昭和19年当時、米国の国務省と陸軍省が協議した「日本処理方針」は、以下のような漠然としたものでした。

  1. 日本の侵略した領土の返還

  2. 軍事占領による軍政施行

  3. 白人以外にインド、フィリッピンを入れた連合管理によって、日本の侵略主義を世界に向けて否定する。

 そして天皇については、おおよそ次のような措置が考えられていました。

  1. 天皇をしかるべく適当な場所に隔離する。( 例えば、中国やロンドン )

  2. 天皇の権限は、官吏への行政権の割り当てのみとし、占領軍が天皇の上にあることを示す。

  3. 天皇の存続で、占領軍が日本の官僚をたやすく使えなかった場合は、直接支配に移って良い。

  4. 日本の無条件降伏前に占領した地域は、直接支配とする。

  5. 占領軍は、天皇を神聖不可侵とする日本国民の観念を、支持または承認するような行為を一切慎む。

  当時のアメリカ人は、天皇制を邪悪なものとする考えを持っておりました。天皇をめぐる討論には激しいものがありましたが、天皇制は危険なので排除すべきという点では、一致していました。昭和20年にバージニア州で開かれた「太平洋問題調査会議」では、各国から専門家が集まり、日本の軍国主義、超国家主義者への分析が行われました。

  1. 対日戦は今後長引き、困難である。

  2. 日本の反動派は、降伏後も、国内や大陸で抗米ゲリラ戦を続けるであろう。

  3. 連合国の支持する民主的分子が政府要人になると、暗殺される危険がある。

  4. 敗戦後の日本では、暴力的な政府の変更が数回必要とされる。

  5. 連合国と交渉できる、民主的な政府が作られるのはその後であろう。

 この調査会は民間の研究団体とはいえ、権威のあるものであったらしく、米国以外からも出席した極東問題の研究者たちで、真剣な議論が行われました。

 一連のこうした動きを見ていますと、現在の中国や韓国が戦後70年経過した今でも、「残虐非道な日本の軍国主義」「極悪非道な天皇制」と騒いでいますのも、ここに発端があると分かります。

 捏造の嘘まで交えて、中国と韓国・北朝鮮が日本を責めても、アメリカが黙認する理由がここにあります。彼らの言っている日本攻撃は、もともとアメリカが言い出したことで、アメリカの対日政策に添ったプロパガンダだからです。

 昭和20年当時の米国の政策のまま、占領が行われていましたら、現在の皇室が、果たして存在していたかということです。ここで初めて、ジョセフ・グルー大使の名前が出てまいります。

 駐日大使だったグルー氏は、昭和16年の12月真珠湾攻撃により日米開戦となったため、帰国することとなります。親日家だった氏は、当時のアメリカの世論から強い反対を受けても、日本の実情を訴えました。

 日本の戦後処理にあたっては、政治機構の健全な部分は残さなくてならないというのがその骨子でした。

  ・日本の多くの政治指導者たちは、この戦争を避けようとしてきた。

  ・戦争に引き込んだのは軍であり、天皇は利用されただけである。

  ・諸悪の根源とされる神道も、軍部の支配を外れれば、国家再建のための資産となりうる。

 これらは10年に亘る日本での生活の中から、彼が得た確信だったと書かれています。

 昭和19年 ( 1944年 ) に、国務省極東局長を経て国務次官となった氏の働きがどのような作用をしたか、詳しく説明されていませんが、推測することはできます。

  ・天皇陛下は、中国へもロンドンへも移されなかった。

  ・皇室が維持され、政治が安定した。

  ・軍政の施行は、なかった。

  ・抗米ゲリラ戦も、政府要人の暗殺も生じなかった

 等々、米国政府の中にいて、強力に日本を支えた氏の存在が感じ取れます。

 昭和19年に国務次官に任命された時、上院外交委員会の公聴会で、氏は天皇を、

  ・日本において「安定した影響を与えうる唯一の政治的要素」であると強調しました。

  ・天皇を無視すれば、七千万人以上の人間が必要となる。

  ・くずれかかった日本社会を維持・管理するため、米国は無限の重荷を負うことになると警告しました。

 日本ではマッカーサーの統治が大きく語られ、グルー氏の働きはその陰に隠れてしまっていますが、本来なら氏は、日本の恩人としてもっと知られて良い人物だったと思います。

 私がそれほど有り難がらないのは、氏の言葉の功利主義に違和感を覚えるからです。たしかに氏は皇室を守り、日本の平和と安定に寄与しましたが、彼の言に従えば、飽くまでも、米国の占領政策を成功させるための方便としての皇室でしかありません。

 憎悪で固まっていた当時の米国人を説得するには、そうした表現しかできなかったのかもしれませんが、占領統治を成功させるツールとしての天皇を強調し過ぎていると、その思いがどうしてもしこりとして残ります。

 彼が存命なら当時の話を聞かせてもらえ、「あの時は、あんな言葉でしか天皇を守れなかった。」と、本音が聞けたのかもしれませんが、今となってはどうするすべもありません。私もいい加減年をとり、頑固になりつつあります。

 「グルー氏には感謝しますが、なんとなく違和感が残ります。」

 心が狭いと言われるのでしょうが、この印象を持ったままこの世をおさらばする気がします。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本終戦史・下巻 - 2 ( 新聞報道と、陛下のお言葉 )

2017-04-28 20:36:09 | 徒然の記

 昭和20年の7月、「ポツダム宣言」を知った時、日本の三大新聞がどのような記事を掲載していたかを、説明しています。

 戦時中のマスコミの報道を知る貴重な資料ですから、抜粋して紹介します。

 1. 読売新聞 

  記事の見出し・・「笑止、対日降伏条件」「トルーマン チャーチル 蒋 連名」「ポツダムより放送す」

   ・国内、対日両天秤を図る老獪な謀略。敵宣言の意図するものは、いずれもカイロ宣言の延長・拡大に外ならず、欧州戦の終末と、大東亜戦争の最終段階突入への、世界情勢を背景として、多分に謀略的要素を有することは、言うまでもない。

   ・硫黄島、沖縄における米側の犠牲が多大であったことに鑑み、日本がこれを受諾せざれば、戦争を継続する他なし。したがって、更に大きな犠牲を忍ばねばならぬことを明らかにして、米英が自国民への覚醒を促したこと。

   ・敵英米並びに重慶は、不逞にも世界に向かって、日本抹殺の共同宣言を発表した。帝国政府としては、かかる謀略については全く問題外として笑殺した。

   ・断固、自存自衛戦完遂に、挙国邁進、もつて敵の企画を粉砕する方針である。」

 北朝鮮の報道を読んでいるような、虚勢の言葉が並んでいます。北朝鮮の新聞やテレビの報道を笑えないと、自戒させられます。

 2. 朝日新聞 

  記事の見出し・・「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明」「三国共同の謀略放送」

   ・帝国政府としては、三国の共同声明に関しては、なんら重大な価値のあるものにあらずとして、これを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するのみとの決意を、さらに固めている。

   ・これは、大東亜諸国間の離反を計らんとする謀略であり、世界制覇の伝統的政策により、武力による一方的条件を日本に押しつけ、威嚇的効果を狙っているものである。

 編者の説明によりますと、朝日新聞も読売・報知新聞と同じ内容で、違った表現をしている部分だけを拾ったということです。次の毎日新聞も、共通している箇所を省略したとの説明ですから、当時の三大新聞は現在と同様、横並びのプロパガンダをしていたのだと分かります。

 3. 毎日新聞 

  記事の見出し・・ 「笑止! 米英蒋の共同宣言、そのうぬぼれを撃砕せん」「聖戦をあくまで完遂」

   ・我が方としては、かかるうぬぼれに基づく、三国共同宣言に対しては、一顧も与えることなく、ひたすら大東亜戦争の神聖なる目的に徹し、あくまでも彼らの戦意を放棄せしむるまで戦い抜き、頑張り抜くだけである。

   ・政府また、かかる方針であることは勿論である。笑止にも、不遜きわまる宣言に対しては、本土決戦も辞さず。勝利はわが日本にある。

 海軍の壊滅的敗北が続き、大本営の内部では対ソ和平工作が持ち上がり、敗戦必至となっているのにこの記事です。結局国民は、戦局の実態を知らされないままでした。

 興味深いのは、編者が勇ましい迎合記事を書いている新聞を批判せず、政治家と軍人を批判しているところです。マスコミの力を借りなくては、反日・左翼の宣伝ができないと、編者者たちの狡猾な計算が伺えます。

 本土決戦を主張していた阿南陸相が、当時語った言葉も紹介されています。

 「国民の敵愾心は上がらず、戦いの前途が悲観される。」

 「一部のインテリは、沖縄までは望みをつないでいたが、艦砲射撃、中小都市爆撃に対する無抵抗の現状に、絶望的となっている。」

 「ポツダム宣言に対しても、戦意高揚せず、政府および軍への信頼はなくなり、戦果は上がらず、原子爆弾の噂は次第に広く伝わり、さらにソ連の参戦となっては、もはや勝てないという気分がいっそう広まってきた。」

 そう言いながら、なおも氏は、

 「しかしいよいよ本土決戦となれば、一億一心、国民は憤慨して決起するであろう。」と、主戦論を翻しませんでした。

 広島・長崎に原爆が投下されても、依然として政府内では主戦派と和平派の対立が続き、激しい議論が戦わされていました。特に激論をしたのは、主戦論派の阿南陸相と、和平派の東郷外相でした。

 思案に窮した鈴木首相は、御前会議で天皇陛下の「御聖断」を仰ぎました。

 同席していた迫水内閣書記官長の手記によりますと、昭和天皇のお言葉は、次の通りであったと言います。

 「自分の意見は、外務大臣に同意である。念のため、理由を言っておく。」

 「大東亜戦争が始まって以来、陸海軍のしてきたことを見ると、どうも予定と結果が、大変違う場合が多い。」

 「陸軍、海軍では、本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、その後侍従武官が、九十九里浜の実情を見てきた話では、防備はほとんどできていないようである。」

 「また先日、師団の装備について、参謀総長から完了した旨を聞いたが、兵士に銃剣さえ行き渡っていない有様であることが、わかった。」

 「このような状態で本土決戦に突入したら、どうなるのか。自分は心配である。」

 「日本民族は、みな死んでしまわなければならなくなるのでは、なかろうかと思う。自分の任務は、祖先から受け継いだ日本という国を、子孫に伝えることである。」

 編者の説明に依りますと、通常の御前会議で陛下が意見を述べられることはなく、終始聞き役に徹し、出席者の説明に同意されるだけであったといいます。

 出席者間での事前の打ち合わせも調整もなく、鈴木首相が御聖断を仰いだのは、主戦派のメンバーにとって晴天の霹靂の事態でした。重要な部分ですから、割愛せず昭和天皇の「お言葉」を続けて引用致します。

 「今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらうほかに、この日本を将来に伝える方法は、ないと思う。また、このまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。」

 「忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰等、それらの者はみな、忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は、その忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。」

 「自分は明治天皇の、三国干渉の時のお心持ちも考え、自分のことは、どうなっても構わない。耐え難いこと、忍び難いことであるが、自分はこの戦争を、やめる決心をしたのである。」

 天皇のお言葉の間、出席者の中には、声を殺して泣く者があったと言います。こうして「玉音放送」へと繋がっていくのですが、放送が実現するまで、近衛師団長の森中将が、和平反対の将校に拳銃で射殺されたり、陸軍のクーデターが発覚したり、多くの困難がありました。

 初めて知る昭和天皇の「お言葉」に感銘を受けるとともに、「玉音放送」が陛下のお気持ちに添ったものであったと知りました。私はこれまで、「玉音放送」は側に仕える者が考えた文章で、陛下はそれを読まれただけと思っておりました。御前会議での陛下の「お言葉」を知りますと、誤解していた自分を恥じたくなります。

 マッカーサーを訪ねられたおり、「自分はどうなっても構わないので、国民のことだけを。」と、天皇が言われたと『マッカーサー回想記』に書いてありました。

 これにつきましても、私はマッカーサーの作り事でないのかと、今日まで半信半疑でした。しかし陛下の御前会議での「お言葉」を知りますと、全てがつながります。神聖不可侵の絶対君主でなく、日本国民が敬愛してきた天皇のお姿を私は発見いたしました。

 けれども反日左翼教授たちは、度し難い人間どもです。

  ・反対する狂信的軍人を、天皇の言葉が抑えたというのなら、この無謀な戦争を、天皇はもっと早く終わらせられたはずでないか。

  ・更に言えば、最初から天皇が反対すれば、戦争はしなくて済んだのだ。だから天皇には、戦争責任がある。

 本の中で、亡国の教授たちがこのような意見を述べています。

 今尚この意見が、反日左翼の政治家や教授や文化人、マスコミ関係者の間で主張さています。歴史を知る日本人なら、陛下の戦争責任という考えは生まれません。連合国が正義で、日本だけが間違った戦争をしたと、そう考える人間でなければ思いつかない意見です。

 この本を書いた教授たちは「獅子身中の虫」であり、日本から「駆逐すべき害虫」ということになります。

  ・天皇陛下も気に入らない、政治家も軍隊も気に入らない。

  ・日本以外の国は、みな正しくて、素晴らしい。

  ・日本だけが国民を管理し、弾圧する独裁国家だ。横暴な人権無視の国だ。

  いつまでも、バカの一つ覚えのように言うのなら、こういう人間は日本を捨て他の国へ行けば良いのです。アメリカでもソ連でも、中国でも韓国でも、好きなところへ行って住めばいいと、私は常にそう思い、これからも思い続けます。

 今回も長くなりましたので、ブログを読んでくれる人はあるまいと覚悟しています。しかし、子供や孫たちがいつか読んでくれると、それは、私の希望でもあります。書き残したことがありますので、続きは明日にします。

 そろそろ庭の水やりをしないと、大切な「ねこ庭」の花と木が生気を失ってしまいそうです。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本終戦史・下巻』  ( マーク・ゲインを褒める学者 ? )

2017-04-28 06:43:03 | 徒然の記

   『日本終戦史 下巻』( 昭和37年刊 読売新聞社 ) を、読み終えました。

 先に読み終えた中巻は下巻同様、敗戦前後の日本を知る資料であることに変わりはありませんが、下巻同様の反日・左翼書でした。紹介するに足る内容がありませんでしたので、書評を省略しました。

 下巻には露骨な日本憎悪と蔑視はありませんが、「東京裁判」を正義とし、軍部や政府要人の責任を追及しています

 「東京裁判」に関する文章を、紹介します。

  ・国際法上、戦勝国による戦犯裁判は、大戦中から事後的に認められたのでわずかな割り切れなさはある。

 書き出しから、違和感がありました。東條大将が事後法によって処刑された不法が、「東京裁判」を語る核心なのに、「わずかな割り切れなさが残る。」と書いています。

  ・だが、A級戦犯に指名された東條以下旧指導者がいずれも、他に道はなかったと、戦争責任を否定している点は、注目に値する。

  ・彼らは追及されると、自分の権限以外のことには責任がないと、官僚精神を発揮して権限に隠れる態度を示した。

 渡部昇一氏の『東條英機 歴史の証言』を読んだ私は、事実を曲げる著者が許せなくなりました。『日本終戦史』が出された当時は、、東條氏の『宣誓供述書』が出版されていませんので、多くの読者がこの本を信じたと思います。

 だから私は、今一度、東條元首相の言葉を紹介します。

 「私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして、勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が、国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして糾弾せられるとは、考えたこととてありませぬ。」

 「第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし、私の責任であります。」「この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。」

 この『宣誓供述書』のどこを読んで、責任を回避していると言うのか、官僚的卑怯さがあると解釈したのか、著者に問うてみたくなります。

 このようにして左翼の学者たちは、戦後何十年もかけて最もらしい嘘を世間に広げていったのです。当時の国民に関する説明も、私に言わせてもらえば、見当違いな紋切り型の左翼分析です。

  ・大部分の民衆は、ひどい食糧難や激化するインフレの渦中にあって、いかに生存するかで精一杯だった。

  ・そのうえ、自発的に政治に参加するという伝統を持たなかった民衆は、現在の政治や、既存政治家に不満はあっても、自らそれを克服し、敗戦の苦い経験を踏まえて、自らの手で日本の未来を作り出して行こうとする、主体的な姿勢にかけていたのである。

  ・終戦による解放すら、民衆の力で勝ち取ったものでなく、日本政府が自発的に行ったものでもなく、占領軍の指令によるものであった。

 編者たちはマルクス主義者らしく、「民衆」という言葉を無神経に使います。

 敗戦後の日本がソ連の革命のように、群衆の暴力による政府転覆でないことが不満でならないという説明です。編者は、昭和21年に東京大学で開かれた、新憲法公布記念式典での南原総長の演説を紹介します。

  ・日本の政治的基本は、まさに根本的変革を遂げたと言わねばならぬ。

  ・これは君主主権から、主権在民へ移行した当然の結果であって、従来の国体の観念は、解釈を変更されねばならぬ。

  ・我が国の国権の正当性の根拠は、神授的・族長的権威から、国民の意思に置き換えられたのである。

  ・われわれは、いたずらに千古不変の国体を言うのをやめて、新たな意義の国体の生誕を祝し、これを育成すべきである。

 紹介されているのは皇室の否定と、GHQの言う主権在民の宣伝です。連合国を正義とし、日本を不正義で悪とする自虐史観を、この本が宣伝役をしています。

 GHQという米国統治に服従しながら、マルクス主義を浸透させようという、日本特有の反日の動きが見えてきます。

  ・かって戦争に協力した多くの保守主義者、天皇絶対論者が、うわべだけの民主主義者や、平和主義者になりました。

  ・敗戦に対する厳しい反省もなく、集団転向した民主主義者たちは、新しい独裁者である占領軍に取り入ることに、うき身をやつし始めたのである。

 著者は転向した保守主義者を軽蔑していますが、私には、どっちもどっちと見えます。著名な大学の教授たちが戦後になり、見苦しい変節をしていった事実を知っているからです。

 米国の新聞記者だったマーク・ゲインの言葉を、なにかの権威でもあるように紹介しているのをみますと、怒りすら覚えます。編者が取り上げているゲイン記者の部分を紹介します。終戦1年後の、昭和21年8月15日の記事だと言います。

  「マーク・ゲインは、彼一流の鋭い筆致で記しています。」

 と、こうした書き出しでの紹介です。( スペースがもったいないので、記事の紹介は省略します。)

 戦禍で痛めつけられた日本の各地をゲインが取材し、政治家や役人や教師や商人たちと対話した記録が、日記風に書かれている本です。

 現在でも英語の不得手な日本人は、街で突然外国人に話しかけられると、戸惑ったり、慌てたりします。まして敗戦後の失意の時に、戦勝国の記者から威丈高に英語で喋られたら、慌てふためくのは当然です。

 ゲインは、そんな日本人を見て軽蔑し冷笑し、未開の野蛮人であるかのように語りました。正義の戦争で勝ったと慢心した彼が、無知蒙昧な日本人がやっと目を覚ましつつあると、最初から最後までその調子で語る本でした。

 中学生だった時私は学校の図書館で、ゲインの『日本日記』を読みました。

 その時私はゲインに怒りを覚え、思い上がった正義感に憎しみも感じました。今でも忘れていませんので、そんな新聞記者を褒めるような意見は信用する気になれません。

  最初に述べましたが、この本は四人の編者がまとめたものです。今回引用した部分をどの教授が書いたのか知りませんが、に四人の編者は日本の「獅子身中の虫」であり、「駆逐すべき害虫」です。

 
 今晩はここで終わりますが、記念のため再度4人の編者の名前を紹介します。
 
    林茂氏     ( 東京大学教授 )
 
    安藤良雄氏    ( 東京大学教授 )
 
    今井清一氏    ( 横浜市立大学助教授 )
 
    大島太郎氏    ( 専修大学助教授 )
 
 不愉快であっても息子たちのため、明日も続きを紹介します。詳しく説明する気になれませんので、概要だけ述べますと、
 
  ・日本は1年たっても、誰も敗戦の反省をしていない。
 
  ・むしろ目立つのは、勝者である占領軍に対する醜悪な追蹤が見られるばかりだと、こんな内容です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バードバスの再開

2017-04-25 18:48:36 | 徒然の記

 4月19日に、千葉県の鳥インフルエンザ終息宣言が、森田知事によってされました。

 この間防疫措置に当たった県職員と自衛隊員の数は、延べ4,953人、消毒した車両台数は延べ7,068台ということです。私は解除を待っていただけですが、こんなに多くの人々の献身があったのかと、感謝せずにおれません。

 昨年の12月にバードバスを片づけてから、5ヶ月が経ち、あれ以来、ねこ庭を訪れる小鳥がほとんどいなくなりました。雪の降る日でも水浴びをしていましたから、鳥たちにとってバードバスは、私が思っていた以上に大切なものだったと分かりました。

 22日の土曜日にバードバスを元の位置に戻し、たっぷり水を張りました。

 長い間使えなくしていたので、小鳥たちに気づかれず、翌日の日曜日も閑散としたままでした。そして昨日、やっと念願の小鳥がやってきました。つがいのシジュウカラです。以前はわが物顏で水浴びしていましたのに、久しぶりだと警戒するらしく、水盤の縁に止まったり飛び去ったり、少しも落ち着きません。

 まどろっこしくなるほど時間をかけ、やっと一羽が水浴びをしました。

 頭を水に浸け、羽をバタバタさせながら、体を濡らしています。もう一羽は隣の木の枝で辺りを警戒し、見張り役です。こうして長い時間をかけ、正味の時間は、それこそカラスの行水でした。

 けれども私は、心が躍りました。やっと来てくれたバードバスのお客です。経験はありませんが、客を待つ風呂屋の主人の気持ちが、こんなものかもしれません。

 そして火曜日の今日は、なんとヒヨのつがいが飛来しました。忘れもしません。バードバスを片づけた時、一番うるさく騒いだのが、ヒヨでした。

 「水がない。」「水がない。」

 「庭に、水がないぞ。」

 近所中に響く大きな鳴き声で、2羽も3羽もきて、けたたましく鳴いていました。

 ヒヨは庭の木になる実を、お構いなく食べてしまうので、これからの季節には歓迎したくない鳥なのですが、久しぶりなので懐かしくさえありました。

 「水だ。」「水だ。」

 「水かあるぞ。」

 騒々しいヒヨの声がそんな風に聞こえました。こうなりますと、明日からは次第に鳥の数と種類が増えていくはずです。再び賑やかなねこ庭となり、私たちを楽しませたり、困らせたりするのです。

 さらに今年は、のら猫タビーもいます。気の抜けない日々が始まるのだと、期待がふくらみます。政治のことを考えますと、気持ちが乱れたり騒いだりしますが、ねこ庭のおかげで救われます。この場所にはまだ平和があり、安らぎと楽しみがあります。隣近所の人と人挨拶をしあい、笑いながらこの街で生活しています。

 当たり前の話ですが、この日常を守るためには、国民の一人として政治を考え、国際社会を考え、心の整理をしておかなくてなりません。実際には、具体的に何もしていないのですが、社会への参画心は大事にしています。

 どこから、バードバスの話を外れてしまったのか、こんな横道へ迷い込むのは本意ではありません。年はとりたくないものです。・・・・バードバスの話でした。

 元どおりになったバードバスのあるねこ庭に、今年はタビーもいると、こんな話でした。

 ある人のところへ来るのら猫は、今ではすっかり慣れ膝の上に乗るようになったと、家内が話をします。タビーは相変わらず、警戒心を解かず、近ずくと離れていきます。離れる距離がずっと近くなりましたが、触れることはできません。体を撫でたくて手を伸ばすと、表情を硬くして身構えます。

 誰にも心を許さず、常に身辺を警戒し、危険があれば立ち向かう。近くの山をねぐらにしているタビーは、そうして生きてきたのです。他の猫だけでなく、タヌキやハクビシンもいる山ですから、そうでなければ生きていけないのでしょう。

 「人に甘えることも知らないで、タビーは厳しい人生をいきているのね。」

 無心に餌を食べるタビーを眺めながら、家内が話しかけていました。猫なんだから、人生とは言わないだろうと思いつつも、それでもそんな言葉が不自然に聞こえませんでした。

 ねこ庭に暮らす夫婦だから、そうなのでしょう。

 まとまりのない、いい加減なブログとなりましたが、私には、まとまりなどどうでもいい、真剣なブログです。気持ちを安らかにして、本日はここでお仕舞いと致します。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共同通信社石橋拓郎記者「バターン死の行進」

2017-04-16 18:03:08 | 徒然の記

  4月4日付の千葉日報で、「バターン死の行進」と題するルポ記事を読みました。

 大東亜戦争中、フィリピンで日本軍の捕虜となった米兵が、捕虜収容所までを歩いて移動したため、多くの捕虜が死亡した事件です。

 今年で75年となる節目にあたり、共同通信社の石橋拓郎記者が、出発地のマリベレスから10キロを歩いてみた体験記事でした。道路脇に立つ「バターン死の行進」の石碑を眺めながら、氏は現地のフィリピン人記者と二人で歩きます。

  ・石碑をふと眺めると、この辺りでも多くの兵士が、水も食料もなく、命を落としたのだと実感させられる。

  ・気温が30度を超え、日光が肌を突き刺し、汗が噴き出す。同行したフィリピン人記者も、口数が少なくなった。フィリピンの気候に慣れていても、過酷なようだ。

  ・沿道に住むディアナさんに、話を聞いた。

    「当時は幼く、はっきりした記憶はないが、大人たちの話から、日本兵はろくでもないと感じた。」

    「その思いは、今も変わっていない。」

  ・二時間強で、目的の10キロ地点に着いた。

  ・10キロでも、頭が朦朧とする。力尽きた兵士たちが、最後に見たのはどんな風景だったのだろうと、想像を巡らせるばかりだった。」

 地図や石碑や沿道の写真を加え、記事は新聞の半ページを占めていました。記事だけを読みますと、日本軍が、捕虜となった米国兵士にひどい仕打ちをしたと思わされます。

 当時の状況を書かない氏の記事に、私は違和感を覚えました。別途ネットで調べましたので、知り得た情報に番号を振って紹介します。

   1. 「バターン死の行進」は全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

   2. 1942年 ( 昭和17年 ) 、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6,808名を出して占領した。降伏したバターン半島の米比軍は、7万6千名もの多数が捕虜となった。

   3. 「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、マニラ裁判で死刑になっている。だがこの行進はトラックがなかったためで、日本兵も歩いていた。捕虜を殺すために歩かせたわけではない。

   4. フィリピンの陥落は、米国史上における米軍最大の敗北で、「バターン死の行進」は、 降伏した米兵・フィリピン兵に対する最も残虐な戦争犯罪であった。

      5. 「ニュールンベルグ裁判」の太平洋戦争版である「極東軍事裁判」は、日本軍によるこの行進は、ナチス支配下に行われた、囚人や捕虜への健康や生命を顧みない、強制的な移動と同様とみなされた。

 当時の行進に参加していた、今井武夫大佐の話を紹介します。

  ・われわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。

  ・士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。

  ・しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。

  ・戦後、米軍から「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。

 日本軍の何倍もいた捕虜に、十分な食料を与えるだけの備蓄が無かったという事実も、忘れてはいけません。捕虜だけが歩いたのではなく、重装備の日本兵が一緒に歩いた事実を、石破氏記者は触れれていません。

 別途の情報を情報を得た上で私が重要視するのは、上の4番目の項目です。

 フィリピンの陥落が、米国史上における米軍最大の敗北であるとすれば、当然それはマッカーサー元帥自身の汚点で、屈辱であるはずです。ありもしない「南京虐殺」を捏造した「東京裁判」ですから、バターンでの捕虜移動を、「死の行進」として記録に残せば、元帥には好都合な話になります。

 私は日本人ですから偏見と言われても、共同通信社の石橋記者のように、「日本軍邪悪説」をそのまま紹介する気にはなれません。

 むしろ氏に対して、

 「もう少し事実を調べた上で、記事を書くべきでないのか。」

 と、苦言を呈したくなります。戦後70年が経過した今でも、米国へのこんな提灯記事を書く記者がいると、私にはその方が驚きです。

 [ 追 記 ] 

 日本軍を批判する意見がありましたので、追記します。伊藤正徳氏の『帝国陸軍の最後』という著書に、次のように書かれています。

  ・ただ、こういうことは言い得る。

  ・俘虜を好遇する意思が十分にあったならば、もう少し苦痛のない護送法は実行できたであろう

  ・一日の行進距離を縮めること。マリベレスとサンフェルナンドの中間に食糧の貯蔵所をつくり、多少なりとも補給を考慮すること。

  ・捕虜幹部にトラック輸送を工夫すること等々、とにかく尽くせるだけは尽くしてみることであった。

  ・それを、本間軍は逆に放擲したという憾みがあった。

 それでも石橋記者と共同通信社に対する、私の苦言は変わりません。今井大佐の話も、伊藤正徳氏の著書も調べ、いずれも記事にする姿勢が求められるのではありませんか。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本終戦史・上巻 - 2 ( 自決した軍人たち )

2017-04-06 14:25:18 | 徒然の記

 敗戦の報を聞き自決した軍人について、多少耳にしていましたが、実際の数字を初めて知りました。

 「終戦時自決烈士慰霊祭祭典委員会」からの、データです。こんな長い名前の委員会があったことなど、どれだけの人が知っているのでしょう。

 左翼系の本で教わるというのも、面白い話です。

    階 層          陸 軍       海 軍          計  

    将 官             30                   4              34  

    佐 官                     49                 25                 74

          尉 官                 105                 37                 142

    下士官                    104               41                145

     兵                        88                   6                  94       

    軍 属                    18                  13                  31

       看護婦                                                   3

            計           394                126               523

  特攻隊を作った大西中将や、阿南陸相については知っていましたが、杉山元帥や田中大将など、将軍クラスで34名もの自決とは初耳でした。

 天皇陛下のラジオ放送の予定を知った宇垣纒 ( うがき まとめ ) 中将は、特攻司令長官の責任を果たすには、放送前に部下の後を追うしかないと決意し、海軍最後の特攻で命を散らせたと言います。

 宇垣中将は参加機を5機と決め、一機に2名ずつ10名で出撃すると決定したのですが、18名の隊員が参加を申し出、誰も後へ引かなかったため、突撃機は9機となってしまいました。彼らは大分の基地から飛び立ち、沖縄に集結していた敵艦に突撃しました。

 左翼の本ですからこれを美談とせず、長官機以下全機が虚しく海中へ墜落したと説明しています。本の編者たちは、憐れむべき軍国主義者として語りますが、私は別の受け止め方をしました。

 自決者の523名を多いと見るか、少ないと見るかは人それぞれでしょうが、日本以外の国で、戦いの責任を取る形で、これほど多くの軍人が自決した話を聞きません。

 「自分たちが不甲斐なかったため、陛下のお気持ちに添えなかった。」

 彼らの大半がそう言い残し、自決しました。戦後になり時間が経って後、彼らを蔑視する人間が増えましたが、私は自決した方々に頭を下げます。尊いを捧げられたご先祖として、感謝せずにおれません。

 これは理屈でなく、同じ国に住む人間としての情です。

  ・昭和18年の2月 ガダルカナル島撤退。

  ・同年4月    山本連合艦隊司令長官戦死。

  ・同年5月    アッツ島守備隊全滅。

  ・同年7月    キスカ島放棄。

  ・同年11月    タラワ、マキン両島守備隊全滅。」

  ・大本営が、サイパンの失落を公表したのは、昭和18年7月である。

  ・サイパンを失うことは、マリアナ基地を米軍の手に渡すこととなり、相次いでグアム、テニアンも全滅した。

 日本が次々と敗退していく説明を追っていると、胸が痛くなってきました。

 昭和22年8月14日、日本の無条件降伏が決まった時、外地にあった日本軍の総兵力は、陸軍が約310万、海軍が約40万だったと言います。戦闘が1、2年の間に劣勢から降伏へと急変したため、当時はまだこれだけの軍隊が無傷で残っていたのです。

 従って編者が次のように語っているのは、事実だろうと思います。

  ・最前線にあった大部分の一般将兵にとって、終戦の報は寝耳に水だったに違いない。

  ・戦争が日本の敗北、無条件降伏をもって終わりを告げるとは、とうてい予測し得なかったであろう。

  ・「終戦の詔勅」は極めて遠まわし、かつ観念的、抽象的表現をもちいており、敗戦とか降伏とかいうことは、一言も言っていない。

  ・ブーケゲンビル島で、米軍と交代したオーストラリア軍が停戦交渉を申し入れても、大本営からの指令は戦闘行動を停止せよということだから、港に入るオーストラリア軍の軍艦があれば攻撃すると、突っぱねている。

  ・これはこの地区の軍隊だけでなく、その他の外地軍にも見られた現象であった。

 これまで私は、終戦の詔勅を受けた時から、軍隊は秩序をもって武装解除し、大きな混乱もなく、敗戦処理がなされたと思っていました。事実はそうでなく、沢山の騒動があったことを編者が説明しています。

 主要なものだけ、紹介します。

  1. 近衛師団のクーデター 

   ・陛下の放送を抑え、和平派の重臣を弾圧し、戦争継続を図ろうとしたもの。反対した近衛師団長の森中将が、拳銃で射殺された。

  2. 全陸軍のクーデター計画

   ・国体護持のためポツダム宣言の受託を阻止し、阿南陸相を中心として全陸軍の決起を促し、上陸する米軍に一撃を加え、降伏条件の転換を目論むというものだった。

   ・阿南陸相は即答せず、詔勅を是とする他の将軍たちの命がけの反対と説得で計画は押さえ込まれた。

  3. 上野の山に集結した水戸の陸軍航空通信隊の教官と生徒

  4. 川口放送所を占拠した予科士官学校の教官と生徒

  5.   埼玉の陸軍航空兵団 爆弾を装備した兵が、米国艦隊撃滅を計画した。

  6.   厚木航空隊の反乱

  徹底抗戦を叫ぶ兵たちに、聖断は間違いなく陛下のご決意であると高松宮が告げられ、部隊は翻意した。説得する方も、説得される方も、命がけのやりとりでしたが、結局は「陛下のご意志」が明確にされることで、全てが解決しています。

 「寸鉄を帯びず、飛行機のタラップを降りるマッカーサー元帥。」と、こんな見出しをつけた記事の写真を思い出します。

 武装解除された国に来て、大げさな見出しと当時は笑ったのですが、事実を知りますと、米軍機のタラップを丸腰で降りるには、勇気のいる行動だったのだと分かりました。

 内戦にならず、社会の混乱もなく、GHQが日本統治を始められたのは、軍人と国民の間に広がっていた厭戦気分が大きかったと、本の編者は説明しますが、私は首を横に振ります。

 彼らのように天皇を否定する共産主義者は、認めないのでしょうが、天皇のご意志を知った軍人と国民が、「ご聖断」として受け入れたからです。理屈や理論でなく、日本人の心の底を流れる「心情」としか、語りようがありません。

 愚かしいものとして左翼の彼らが否定しても、マッカーサーで元帥も、陛下のご存在の大きさを認識しました。だから元帥は、占領統治が天皇を通じてしか達成できないと理解し、天皇の処刑を主張する他国を抑えたのです。

 国民の中心にある皇室が平成の時代になって乱れ、なぜ国民を苦しめられるのか。しかし、これ以上はやめます。中巻も下巻もありますので、深呼吸でもしてみます。

 テレビをつけると、北朝鮮がミサイルを発射したというのに、国会では野党が、相変わらず「森友問題」です。利敵行為の野党と私が言うのが、間違っているのでしょうか。天の神様に聞きたいものです。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本終戦史・上巻』 ( 左翼学者たちが語る戦後史 )

2017-04-05 19:30:23 | 徒然の記

 『日本終戦史・上巻』( 昭和37年刊 読売新聞社 ) を読了。

 一人の著者によるものでなく、敗戦直後に得られた様々な資料を、四人の編者がまとめた本です。

 名前を列挙しますと、

   林茂氏    ( 東京大学教授 )

   安藤良雄氏  ( 東京大学教授 )

   今井清一氏  ( 横浜市立大学助教授 )

   大島太郎氏  ( 専修大学助教授 )    です。

 日本の戦前戦後について知りたいという思いが、常に私を読書にかりたて、新しいことを教えてくれる書が、すべて師となります。面白くなくても不愉快でも、私は本に感謝します。

 昭和37年といえば、私が高校二年生で、まだ戦後17年の頃の本です。社会主義のソ連が、人類の理想のように見えていた時代ですから、執筆者たちもマルクス主義者らしい論調です。

 左翼が反日に過ぎないと分かって以来、今の私は、自分でも偏見と自覚するほど社会主義者を嫌悪するようになっています。でも17才の当時でしたら、素直な気持ちで次の文章を読み、日本人はダメなんだなあとうなづいていたはずです。

  ・戦後日本では、映画や小説その他で多くの人が知ったような、ヨーロッパや中国における、戦争反対の抵抗運動 ( レジスタンス ) は、ほとんどなかったといってよい。そのような組織は、日本では育たなかったのである。

  ・それというのも、日本の天皇制政府が、治安維持法などの刑罰法規をタテにして、外国でも類を見ないほどの、徹底した取り締まりを強行していたからである。

  ・もちろんこの状況は、厭戦気分を抱くようになっても、明確な反戦思想を持たなかった民衆自身の問題でもあったわけである。

  ・腹の中で厭戦気分を抱いただけという民衆は、「 終戦 」と表現された敗戦を、ただ平常の暮らしに戻りたい気持ちから、自然に受け入れるのである。

 今の私は、まず「民衆」という言葉に違和感を抱きます。一般国民をあらわすのなら、庶民とか国民という言葉で十分なのに、どうしてソ連の本みたいにわざわざ「民衆」と言い換えるのでしょう。

 だが17才の私ならそう思わなかったでしょう。日本人はヨーロッパや中国に比べて、発育不全の人間だったのかと日本人蔑視に傾いたに違いありません。著者たちの稚拙な社会情勢の分析にも、気づかなかったでしょう。

 編者の続く説明を、紹介します。

  ・民衆の中で、当時決然として我が道を行ったリベラリストの一人に、清沢冽がいる。

  ・彼の目には、「大東亜戦争」は、浪花節文化の仇討ち思想にもとづいていると映った。

  ・捕虜虐待、キリスト教学校への迫害、敵対心高揚のためという鬼畜米英的宣伝、いずれもが苦々しい日本的戦争思想の表れである。

  ・厳しく非難する彼は、なによりも言論の自由を求めた。

  ・したがって、戦争を不可避と見たり、英雄的行為に酔ったりしている、国際的知識に欠ける軍人や官僚の、権力的統制は鼻持ちならないものと感じ取った。

  清沢氏が何者なのか不勉強な私は知りませんが、大学の教授からここまで明快に語られると、大東亜戦争も軍人もそういうものだったかと、17才の私ならさらに日本を蔑視してしまいます。

 今ならこのような本は、よほど愚かな若者しか手にしないのでしょうが、当時はこんな書物が大手を振って出版されていたのです。

  ・天皇制という、日本国民の心情に深く根ざした国家権力に、もっとも徹底して反対し続けてきた人は、共産主義者であろう。

  ・彼らは天皇制権力を打倒する以外に、日本の民主化はあり得ないと考えていた。

  ・彼らの基本的な考えによれば、太平世戦争は、帝国主義国日本による侵略戦争であり、この国策に反対する運動を組織することが当面の目標であった。

 共産党が何をしようとしているのか。はっきりと書かれています。各編を誰が書いているのか、明らかにされていないので名前が特定できませんが、凄い本です。

 共産党の宣伝だけでなく、今でいう自虐史観を世に浸透させています。

 平成の今に生きる私たちが考えなくてならないのは、こんな共産党に、今上陛下と美智子様が心を寄せられているという事実です。ここまでハッキリと天皇制を否定する党に心を寄せ、「平和憲法の遵守」を述べられるお二人に、新たな悲しみを抱くのは私だけでしょうか。

 次のような事件があったことを、この本で初めて知りました。太平洋戦争中の言論圧迫が、いかに酷いものであったかという例です。そのまま紹介します。

  ・昭和18年、婦人公論に、「玄米功罪論」という記事が載った。筆者は陸軍主計大佐、川島四郎である。趣旨は、糠を一緒に食べてしまう玄米食は、栄養吸収力を悪くするから、好ましくないというものであった。

  ・当時はちょうど、東條勝子夫人が、婦人会などで、盛んに玄米食奨励をしている頃であった。川島の記事は、憲兵隊によって、ただちに東條首相へ報告された。翌日川島は、東條からじきじき電話を受け、陸軍大臣室に呼び出された。

 長くなるので要約すると、東條氏は、陸軍大臣の自分と反対意見を述べるのは、上官の命令にそむくことになると、怒鳴りつけたという。そして川島氏の説明を聞くと納得してうなづきましたが、次のように語ったというのです。

  ・とにかく、二度と玄米食について悪口を書くな。世間ではおれの話より、農学博士である、お前の話を信用するからな。

 私には落語みたいに聞こえてしまいますが、編者がわざわ取り上げているのですから、言論圧迫なのかもしれません。しかし川島大佐はこの件で何の懲罰も受けず、後に少将になっている事実を考えれば、戦後の日本で流行った、東條氏叩きの一つであるような気がしてなりません。

 『日本終戦史』の中に書き入れるほどの事件なのか、疑問を抱きます。

 不愉快なのでここで終わりますが、新たに知る事実もありますので、あと一回だけ続きを書きたいと思います。不愉快でも心を動かされる本があるというのは、不思議な経験です。

 上巻の次に中巻、下巻と残っていますので、当分退屈しないで済みます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKへの期待

2017-04-03 22:48:43 | 徒然の記

 4月から新年度が始まり、報道各社の番組が、装いを新たに出発致しました。私は何気なく、9時からのNHKの番組「ニュース・ウオッチ」を見ました。

 「ニュース・ウオッチ」は、先月まで「ニュース・ウオッチ・ナイン」という名前だったと記憶しています。「NHKが、やっと日本の会社に戻りつつある。」と、画面を見ながら胸に迫るものがありました。

 報道していたのは、自衛隊によるスクランブル発進の現場からの映像でした。

 冷戦時代から今日まで、国籍不明機が、どれくらいの回数で日本の警戒空域に侵入していたのか。冷戦後に激減したスクランブル発進回数が、現在再び増加し、ついには冷戦時代の回数を上回ってしまったのはなぜか。

 増加の原因は、冷戦時代に皆無だった中国機の侵入だということが、棒グラフで示されました。スクランブル発進するパイロットは、若い自衛隊員たちです。

 「相手を刺激しないこと。」

 「冷静な対応をすること」

 この二つを日々心に誓いながら、彼らは侵入機と向き合っていました。

 軍国主義の日本、人殺しの自衛隊などと言われていますが、このニュースで、反日の野党の言葉の空疎さを国民の多くが理解したはずです。

  「東京を一瞬で廃墟にする。」

  「日本人に、思い知らせてやる。」

 と、中国軍人の言葉がときどき新聞で紹介されます。それだけに対応する自衛隊員の冷静さが、感謝なしには見られませんでした。

 気負い立つこともなく、怒りで動くのでもなく、隊員たちは職務を遂行していました。反日教育を受けた隣国の兵は、憎悪と憎しみで操縦桿を握っているパイロットたちです。一触即発の危険な任務は、死の覚悟が要ります。

 息子よりもっと若い彼らに、心の中で感謝し頭を下げました。

 本当の保守、国の守りをする愛国者とは、彼らのような人々をいうのだろうと思います。街宣車に乗り軍歌を流し愛国を叫ぶ右翼と、自衛隊員を一緒にしてはならないのです。今日のニュースをみた人は、きっとそれが分かったはずです。愛国を絶叫する者や、拳を固めて忠君を押しつける人間は、自衛隊員の寡黙さを見習ってもらいたいものです。

  「百聞は、一見にしかず。」

 これが今晩のNHKのニュースでした。中国や韓国や北朝鮮のように、捏造ニュースを国民に伝えなくていいのです。大げさな身振りや、表情過多の喋り方をせず、事実を日本中の家庭に届ければ良いのです。そうすれば「お花畑の花」も枯れ、バカな評論家たちも退場していきます。

 「中国の脅威なんて、どこにあるんですか。妄想ですよ、妄想。」

 都知事選に立候補した鳥越氏の発言でしたが、こうした人間も、これからは小さくなって生きるしかできなくなります。左に傾きすぎていた羅針盤の針を、NHKがほんの少しだけ中心へ戻していると、その兆しを今晩の報道で感じました。

 右へ振れる必要はありません。中心へと少しNHKが戻るだけで、日本が変わります。期待せずにおれません。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする