ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本終戦史・下巻』 - 4 ( 陛下の退位宣言 )

2017-04-30 17:54:55 | 徒然の記

 毎年8月15日になりますと、テレビと新聞が「終戦記念日」の報道特集をします。

 「戦争の惨禍を忘れるな !」「繰り返すまい、悲惨な戦争。」「戦争の記憶を風化させてはならない。」などと、何十年と使い古され、擦り切れたような言葉を、飽きることなく活字にしています。

 だいたい「記念」という言葉は、結婚記念日とか、卒業記念とか、めでたい日のために使われるものです。バカなマスコミどもは、いったい、あの日の何を記念すると言うのでしょう。

 先ずもって、「終戦」という言葉からしておかしいのです。度重なる無差別爆撃と、二つの原爆によって、あの時の日本は徹底的に破壊され、国は焦土と化しました。占領軍に統治され、日本の歴史が否定された日です。それはまごうかたなき「敗戦」であり、「終戦」などという言葉の出番はどこにもありません。正しく敗戦という言葉を使っていましたら、「敗戦記念日」という行事の不合理さが誰にも分かったはずでした。

 そうすれば全ての国民に、敗戦という事実の冷厳さや、国際社会での正義の理不尽さが痛感されたでしょうに。敗戦の惨めさから国民の目を外らし、事実を覆い隠し、ひたすら自己反省を強いるように仕向けたのは、まさにこの、「終戦」という不思議な言葉でした。

 「反日・亡国のマスコミどもが、また日本の歴史を捻じ曲げている。」と、敗戦の日の、記念日特集が報道されるたび、私もまた飽きることなく憤慨し続けて来ました。

 ところが、このたび『日本終戦史』の下巻を読み、びっくりいたしました。終わりに近い、190ページでの叙述です。書き残さずにおれなくなりましたが、これこそが、私にとっての記念だという気がいたします。

 「昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の全面的敗北によって、終止符を打った。今や黒船に代わる占領軍の圧力のもとに、日本は第二の開国を迎えることになった。」

 「ここで国民に要求されているのは、自発的、自主的態度でなく、服従の姿勢であった。」「日本の完全な敗北にもかかわらず、つとめて敗戦という言葉を避け、終戦、戦争終結と呼んだのは、かって大本営が敗退を転進と呼び、国民をごまかしたのと同じ手法である。」

 「つまり、日本の敗北と降伏を民族的誇りを傷つけずに示しつつ、平常に戻りたいとする民衆の願望をも表すには、敗戦でなく、終戦の方が良かったのである。同時にこれは、戦争終結を受動的にしか受け入れなかった、民衆の状態を表し、敗戦に至った戦争責任を曖昧にする役割も含んでいた。」

 私のように率直に述べていませんが、著者も私同様に「終戦」という言葉に異論を感じています。こんなところで、反日左翼教授の意見と一致するとは、予想していませんでした。しかし文全体を読みますと、反日教授の意見は私と相いれません。

 彼は占領軍による統治を、希望の再出発ででもあるように喜んでいますし、相変わらず国民を民衆などと呼び、飼いならされた愚民が反抗もせず、批判もせず、政府の戦争責任も追及しなかったと、共産主義者丸出しの批判を展開しています。こんな主張が、私と一致するはずがありませんので、やっと安心いたしました。

  私は本の読後感を、七回にわたって述べてきましたが、日々の無聊をまぎらすため、漫然と書評をしたのではありません。この間私の心にありましたのは、今上陛下の「退位」関するマスコミの報道でした。悲しみとともに日々の報道を追いながら、マスコミのこの報道姿勢こそが、かっての大本営発表と同じであると見ておりました。

 今上陛下の犯された過ちについては、何度かブログで取り上げましたので、これ以上言及したくないと思いました。

 文字通り忍び難きを忍びながら、「自分の身はどうなっても構わない」と、昭和天皇は停戦の決意をされ、マッカーサーと対面されてました。陛下の御前会議でのお言葉や、マッカーサーへ語られたお言葉を知るほどに、言わずにおれないものが生じてまいります。

 昭和のあの時代、陛下の「私」はどこにもなく、公人としての昭和天皇がおられるだけでした。死を覚悟した意思表明でしたのに、表情を出されない陛下が、私には日本の君主のお姿と見えました。

 しかるにこの度、今上陛下がNHKを使って語られたお言葉には、「公人としてのお姿」はなく、初めから終わりまで、「私ごと」が語られておりました。高齢となったため天皇の公務に耐えられなくなったので、なるべく早く地位を皇太子に譲りたいと、ご自分のご都合だけを国民に伝えられました。

 マスコミは早速アンケート調査をし、国民の80%以上が退位に賛成していると、一斉に報道しました。このアンケートの数字は妥当なのか、いつの間にやったのか。それよりもまず、このような国家の重大事を、内閣に知らせず、宮内庁の長官も知らない間に、誰がNHKにリークしたのか。NHKは、誰の指示でこの重大ニュースを報道したのか。

 あれほど戦前を批判したマスコミなのに、大本営と同じ手法で、陛下を持ち上げる報道を、各社横並びで何故するのか。無批判なマスコミの姿は戦前も戦後も変わっていないと、書評をしながらずっと憤りを抑えておりました。

 その上で、今上陛下について申し上げねばなりません。

 「陛下のなされておりますことは、憲法に違反しております。」

 長い言い訳や弁明は不要です。今上陛下の一連のご行為は、その出発点からして「憲法違反」です。しかもその内容は、「私ごと」ばかりです。ご自身の命すら投げ出され、戦争を終わらせられた昭和天皇の苦衷を察しますと、今上陛下に申しあげたくなるのは無理もないと、そう考える自分がいます。

  日本が法治国家だというのなら、政治家でも裁判官でも、あるいは何でも口を挟みたがる文化人が、どうして誰一人として憲法違反を言わないのでしょう。暴走し始めたら、誰にも止めることができない天皇の権威と、陛下が持たれている権力の大きさを、私は目の当たりに致しました。

 NHKのお言葉報道以来、政府は慌てふためき、国会で政治家たちが騒ぎ、退位関連の法整備に取り組んでいます。この状況を目にされながら、陛下は「憲法」をご自分が守っているとお考えなのでしょうか。天皇は政治に関わってはならないと、憲法が定めております。何かをなさるときには、内閣の助言と補弼が必要と明記されています。したがって、退位問題は、何もかもが異常で、不純なものが見え隠れしております。

 昭和天皇が命をかけて守られた日本が、今上陛下の手によって、崩壊の道を踏み出していると、私は言います。ネットが発達した現在ですから、政府やマスコミが今上陛下を屁理屈で正当化しましても、やがて事実が国民に知れ渡ります。実態があからさまになった時、果たして国民は、皇室への敬愛の念を失わずにおれるのでしょうか。

 今上陛下のみならず、新天皇のご一家が、嫌悪や蔑視の目で見られる日が来ましたら、皇室は存続できるのでしょうか。その時に喜ぶのは、きっと反日の共産主義政党とそこに集う人間たちです。すでに今上陛下の退位宣言が、反日野党とその親派たちに歓迎されておりますことを、保守を自認する方々はなんと捉えておられるのでしょう。

 長い時間をかけこの書評を続けてきましたが、私が述べたかったのは、今上陛下の「憲法違反」についてでした。最初から読まれた方には、私がなぜこんな手間暇をかけ、陛下の「退位問題」に言及したのか、きっと分かって頂けると思料いたします。

 長い日本の歴史の流れの中で、今回の「退位問題」の不自然さと異常さを理解してもらいたいと、私の願いはその一点であります。

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『日本終戦史・下巻』 - 3 ( アメリカの対日政策と、グルー大使 )

2017-04-29 18:28:42 | 徒然の記

 ルーズベルト、トルーマン、マッカーサー、ダレス、ハルなど、私の記憶の引き出しには、米国人の名前が沢山詰まっています。

 大東亜戦争の前後に、日本を痛めつけた人物たちです。ジョセフ・グルーの名前もひとまとめにして突っ込んでいましたが、この人物だけは少し違うと、本を読んで知りました。

  昭和19年当時、米国の国務省と陸軍省が協議した「日本処理方針」は、以下のような漠然としたものでした。

  1. 日本の侵略した領土の返還

  2. 軍事占領による軍政施行

  3. 白人以外にインド、フィリッピンを入れた連合管理によって、日本の侵略主義を世界に向けて否定する。

 そして天皇については、おおよそ次のような措置が考えられていました。

  1. 天皇をしかるべく適当な場所に隔離する。(例えば、中国やロンドン)

  2. 天皇の権限は、官吏への行政権の割り当てのみとし、占領軍が天皇の上にあることを示す。

  3. 天皇の存続で、占領軍が日本の官僚をたやすく使えなかった場合は、直接支配に移って良い。

  4. 日本の無条件降伏前に占領した地域は、直接支配とする。

  5. 占領軍は、天皇を神聖不可侵とする日本国民の観念を、支持または承認するような行為を一切慎む。

  当時のアメリカ人は、天皇制を極悪なものとする考を持っておりました。天皇の処理をめぐる討論には激しいものがありましたが、天皇制は危険なので排除すべきという点では、一致していました。昭和20年にバージニア州で開かれた太平洋問題調査会議では、各国から専門家が集まり、日本の軍国主義、超国家主義者への分析が行われました。

  1. 対日戦は今後長引き、困難である。

  2. 日本の反動派は、降伏後も、国内や大陸で抗米ゲリラ戦を続けるであろう。

  3. 連合国の支持する民主的分子が政府要人になると、暗殺される危険がある。

  4. 敗戦後の日本では、暴力的な政府の変更が数回必要とされる。

  5. 連合国と交渉できる、民主的な政府が作られるのはその後であろう。

 この調査会は民間の研究団体とはいえ、権威のあるものであったらしく、米国以外からも出席した極東問題の研究者たちで、真剣な議論が行われました。一連のこうした動きを見ていますと、現在の中国や韓国が戦後70年経過した今でも、「残虐非道な日本の軍国主義」とか、「極悪非道な天皇制」とか騒いでいますのも、ここに発端があると分かります。

 捏造の嘘まで交えて、中国と韓国・北朝鮮が日本を責めても、アメリカが黙認する理由がここにあります。彼らの言っている中身は、もともとアメリカが言い出したことで、アメリカの対日政策に添ったプロパガンダだからです。

 さて、話を本題に戻しましょう。昭和20年当時の米国の政策のまま、占領が行われていましたら、現在の皇室が、果たして存在していたかということです。ここで初めて、ジョセフ・グルーの名前が出てまいります。

 駐日大使だったグルーは、昭和16年の12月真珠湾攻撃により日米開戦となったため、帰国することとなります。親日家だった彼は、当時のアメリカの世論から強い反対を受けても、日本の実情を訴えました。日本の戦後処理にあたっては、政治機構の健全な部分は残さなくてならないというのが、その骨子でした。

 日本の多くの政治指導者たちは、この戦争を避けようとしてきた。戦争に引き込んだのは軍であり、天皇は利用されただけである。諸悪の根源とされる神道も、軍部の支配を外れれば、国家再建のための資産となりうる・・・これらは10年に亘る日本での生活の中から、彼が得た確信だったと書かれています。

 昭和19年(1944年)に、国務省極東局長を経て国務次官となった彼の働きがどのような作用をしたか、詳しく説明されていませんが、推測することはできます。天皇陛下は、中国へもロンドンへも移されなかった。皇室が維持され、政治が安定した。軍政の施行は、なかった。抗米ゲリラ戦も、政府要人の暗殺も生じなかった等々、米国政府の中にいて、強力に日本を支えた彼の存在が感じ取れます。

 昭和19年に国務次官に任命された時、上院外交委員会の公聴会で、彼は天皇を、日本において「安定した影響を与えうる唯一の政治的要素」であると強調しました。これを無視すれば、七千万人以上の人間が必要となる。くずれかかった日本社会を維持・管理するため、米国は無限の重荷を負うことになると警告しました。

 日本ではマッカーサーの統治が大きく語られ、グルーの働きはその陰に隠れてしまっていますが、本来なら彼は、日本の恩人としてもっと知られて良い人物だったと思います。ただ私がそれほど有り難がらないのは、彼の言葉の功利主義に違和感を覚えるからです。たしかに彼は皇室を守り、日本の平和と安定に寄与しましたが、彼の言に従えば、飽くまでも米国の占領政策を成功させるため、方便としての皇室でしかありませんでした。

 憎悪で固まっていた当時の米国人を納得させるには、そうした表現しかできなかったのかもしれませんが、占領統治を成功させるツールとしての天皇を強調し過ぎていると、その思いが、どうしてもしこりとして残ります。

 彼が存命でしたら、当時の話を聞かせてもらえ、「あの時は、あんな言葉でしか天皇を守れなかった。」と、本音が聞けたのかもしれませんが、今となってはどうするすべもありません。私ももういい加減年をとり、頑迷になりつつあります。

 「グルー氏には感謝しますが、なんとなく親しみが持てません。」

 心が狭いと言われましょうが、この印象を持ったままやがてこの世をおさらばするのでしょう。

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『日本終戦史・下巻』 - 2 ( 新聞報道と、陛下のお言葉 )

2017-04-28 20:36:09 | 徒然の記

 昭和20年の7月、ポツダム宣言を知った時、日本の三大新聞が、どのような記事を掲載していたかという記述があります。戦時中のマスコミがしていた報道を知る、貴重な資料です。興味深いので、抜粋して紹介します。

 1. 読売新聞 

 「笑止、対日降伏条件。トルーマン チャーチル 蒋 連名。ポツダムより放送す。」という表題で、次のように書いています。

 「国内、対日両天秤を図る老獪な謀略。敵宣言の意図するものは、いずれもカイロ宣言の延長・拡大に外ならず、欧州戦の終末と、大東亜戦争の最終段階突入への、世界情勢を背景として、多分に謀略的要素を有することは、言うまでもない。」

 「硫黄島、沖縄における米側の犠牲が多大であったことに鑑み、日本がこれを受諾せざれば、戦争を継続する他なし。したがって、更に大きな犠牲を忍ばねばならぬことを明らかにして、米英が自国民への覚醒を促したこと。」

 「敵英米並びに重慶は、不逞にも世界に向かって、日本抹殺の共同宣言を発表した。帝国政府としては、かかる謀略については全く問題外として笑殺した。断固、自存自衛戦完遂に、挙国邁進、もつて敵の企画を粉砕する方針である。」

 まるで北朝鮮の報道を読んでいるような、虚勢の言葉が並んでいます。北朝鮮の新聞やテレビの大げさな報道を笑えないと、自戒させられます。

 2. 朝日新聞 

 「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明。三国共同の謀略放送。」と題して、次の記事です。

 「帝国政府としては、三国の共同声明に関しては、なんら重大な価値のあるものにあらずとして、これを黙殺すると共に、断固戦争完遂に邁進するのみとの決意を、さらに固めている。」

 「これは、大東亜諸国間の離反を計らんとする謀略であり、世界制覇の伝統的政策により、武力による一方的条件を日本に押しつけ、威嚇的効果を狙っているものである。」

 著者の説明によりますと、朝日新聞も読売・報知新聞と同じ内容で、違った表現をしている部分だけを拾ったということです。次の毎日新聞にしても、共通している箇所を省略したとのことですから、当時の三大新聞は現在と同様、横並びのプロパガンダをしていたのだと分かります。

 3. 毎日新聞 

 「笑止! 米英蒋の共同宣言、そのうぬぼれを撃砕せん。聖戦をあくまで完遂。」と見出しを掲げ、記事が続きます。

 「我が方としては、かかるうぬぼれに基づく、三国共同宣言に対しては、一顧も与えることなく、ひたすら大東亜戦争の神聖なる目的に徹し、あくまでも彼らの戦意を放棄せしむるまで戦い抜き、頑張り抜くだけである。」

 「政府また、かかる方針であることは勿論である。笑止にも、不遜きわまる宣言に対しては、本土決戦も辞さず。勝利はわが日本にある。」

 海軍の壊滅的敗北が続き、大本営の内部では対ソ和平工作が持ち上がり、敗戦必至となっているのに、この有様です。結局国民は、戦局の実態は何も知らされないままでした。

 興味深いのは、著者が勇ましい迎合記事を書いている新聞を批判せず、ひたすら政治家と軍人を批判しているところです。マスコミの力を借りなくては、反日・左翼の宣伝ができないと、著者たちが計算していることが伺えます。

 本土決戦を主張していた阿南陸相が、当時語った言葉も紹介されています。

 「国民の敵愾心は上がらず、戦いの前途が悲観される。」「一部のインテリは、沖縄までは望みをつないでいたが、艦砲射撃、中小都市爆撃に対する無抵抗の現状に、絶望的となっている。」

 「ポツダム宣言に対しても、戦意高揚せず、政府および軍への信頼はなくなり、戦果は上がらず、原子爆弾の噂は次第に広く伝わり、さらにソ連の参戦となっては、もはや勝てないという気分がいっそう広まってきた。」

 そう言いながら、なおも彼は、「しかしいよいよ本土決戦となれば、一億一心、国民は憤慨して決起するであろう。」と、主戦論を翻しませんでした。

 広島・長崎に原爆が投下されても、依然として政府内では主戦派と和平派の対立が続き、激しい議論が戦わされていました。特に激論をしたのは、主戦論派の阿南陸相と、和平派の東郷外相でした。思案に窮した鈴木首相は、御前会議で天皇陛下の御聖断を仰ぎました。

 同席していた迫水内閣書記官長の手記によりますと、昭和天皇のお言葉は、次の通りであったと言います。

 「自分の意見は、外務大臣に同意である。念のため、理由を言っておく。」「大東亜戦争が始まって以来、陸海軍のしてきたことを見ると、どうも予定と結果が、大変違う場合が多い。」

 「陸軍、海軍では、本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、そのご侍従武官が、九十九里浜の実情を見てきた話では、防備はほとんどできていないようである。」「また先日、師団の装備について、参謀総長から完了した旨を聞いたが、兵士に銃剣さえ行き渡っていない有様であることが、わかった。」

 「このような状態で本土決戦に突入したら、どうなるのか。自分は心配である。」「日本民族は、みな死んでしまわなければならなくなるのでは、なかろうかと思う。自分の任務は、祖先から受け継いだ日本という国を、子孫に伝えることである。」

 著者の説明に依りますと、通常の御前会議で陛下が口を開かれることはなく、終始聞き役に徹し、出席者の説明に同意されるだけであったといいます。出席者間での事前の打ち合わせも調整もなく、鈴木首相が御聖断を仰いだのは、主戦派のメンバーにとって晴天の霹靂の事態でした。重要ですから、なるべく割愛せず、昭和天皇のお言葉を続けて引用致します。

 「今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらうほかに、この日本を将来に伝える方法は、ないと思う。また、このまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。」

 「忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰等、それらの者はみな、忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は、その忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。」

 「自分は明治天皇の、三国干渉の時のお心持ちも考え、自分のことは、どうなっても構わない。耐え難いこと、忍び難いことであるが、自分はこの戦争を、やめる決心をしたのである。」

 天皇のお言葉の続く間、参列者の中には、声を殺して泣く者があったと言います。こうして玉音放送へと繋がっていくのですが、放送が実現するまで、近衛師団長の森中将が、和平反対の将校に拳銃で射殺されたり、陸軍のクーデターが生じたり、多くの困難がありました。

 初めて知る昭和天皇のお言葉に、深い感銘を受けるとともに、玉音放送が陛下のお気持ちに添ったものであったのだと、納得いたしました。私はこれまで、玉音放送は側に使える者が考えた文章で、陛下はそれを読まれただけと思っておりました。御前会議での陛下の悲痛なお言葉を知りますと、誤解していた自分を恥じたくなります。

 マッカーサーを訪ねられたおり、「自分はどうなっても構わないので、国民のことだけはよろしく。」と、天皇がそう言われたと、「マッカーサー回想記」に書いてありました。

 「私は本日、連合国総司令部を代表する貴官に、自らを委ねるために訪問した。」

 マッカーサーは、陛下のこのお言葉に感動し、次のように書いていました。

 「私は天皇が、自らの命乞いに私を訪ねてきたものと思っていた。しかるに、天皇は、私に身を任せるため訪問したと言った。自らの死をも覚悟した言葉を聞き、私は感激した。」「天皇は、日本における第一級の紳士だった。」

 うろ覚えでしかないが、マッカーサーはその時の印象をそう綴っていました。

 これにつきましても、私はマッカーサーの作り事でないのかと、今日まで半信半疑でおりました。しかしこれも玉音放送と同じで、陛下の御前会議でのお言葉を知りますと、全てがつながります。そこに私は、神聖不可侵の絶対君主でなく、日本国民が昔から敬愛してきた天皇の姿を改めて発見いたしました。

 けれども、反日左翼教授たちは、なんと度し難い人間どもでありましょうか。

 「反対する狂信的軍人を、天皇の言葉が抑えたというのなら、この無謀な戦争を、天皇はもっと早く終わらせられたはずでないか。更に言えば、最初から天皇が反対すれば、戦争はしなくて済んだのだ。だから天皇には、戦争責任がある。」

 本の中で、亡国の教授たちがこのような理屈を展開しています。今尚この屁理屈が、反日左翼の政治家や教授や文化人、マスコミ関係者の間で語られています。国の歴史を知る日本人なら、陛下の戦争責任という考えはどこからも生まれません。連合国が正義で、日本だけが間違った戦争をしたと、そう考える人間でなければ思いつかない思考です。

 こんな単純思考をするのは、敵国の人間だけですから、この本を書いた教授たちは「獅子身中の虫」であり、日本から「駆逐すべき害虫」ということになります。

 天皇陛下も気に入らない、政治家も軍隊も気に入らない。日本以外の国は、みな正しくて、素晴らしいのに、日本だけは国民を管理し、弾圧する独裁国家だ。横暴な人権無視の国だ。

  いつまでも、バカの一つ覚えのように言うのなら、こういう人間は日本を捨て他の国へ行けば良いのです。アメリカでもソ連でも、中国でも韓国でも、好きなところへ行って住めばいいと、私は常にそう思っていますし、これからも思い続けます。

 今回も長くなりましたので、ブログを読んでくれる人はあるまいと、覚悟しています。しかし、子供や孫たちがいつか読んでくれると、それは、私の希望でもあります。書き残したことがまだありますので、続きは明日にしましょう。

 そろそろ庭の水やりをしないと、大切なねこ庭の花木が生気を失ってしまいそうです。

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『日本終戦史・下巻』  ( マーク・ゲインを褒める学者 ? )

2017-04-28 06:43:03 | 徒然の記

  『日本終戦史 下巻』( 昭和37年刊 読売新聞社 ) を、読み終えました。この本が敗戦前後の貴重な資料であることに変わりはありませんが、下巻になりますと、やはり反日・左翼書だったと落胆させられました。

 現在の反日学者たちの、嫌悪を催すような、あからさまな日本憎悪や蔑視はありませんでしたが、東京裁判で日本を裁いた連合国を正義とし、軍部や政府要人の責任を追及する口調に不快感を覚えました。東京裁判に関する記述を、紹介してみます。

 「国際法上、戦勝国による戦犯裁判は、大戦中から事後的に認められたのでわずかな割り切れなさはある。」

 書き出しからしてこの叙述です。東条大将たちが、事後法によって処刑された不法こそが、復讐劇だった東京裁判を物語る証拠なのに、「わずかな割り切れなさが残る。」と片づけています。

 「だが、A級戦犯に指名された東条以下旧指導者がいずれも、他に道はなかったと、戦争責任を否定している点は、注目に値する。」「彼らは追及されると、自分の権限以外のことには責任がないと、官僚精神を発揮して権限に隠れる態度を示した。」

 先日亡くなられた渡部昇一氏の『東条英機 歴史の証言』を読んでいる私としては、事実を語らない著者が許せなくなりました。『日本終戦史』が出された当時は、東京裁判での、東条氏の宣誓供述書が出版されていませんから、多くの読者が著者の説明を信じたことでしょう。

 事実を知る私は、今一度、東条元首相の言葉を紹介せずにおれません。

 「私は最後まで、この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には、違反せぬ戦争なりと主張します。」

 「私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして、勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が、国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして糾弾せられるとは、考えたこととてありませぬ。」

 「第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし、私の責任であります。」「この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。」

 この裁判証言のどこを読んで、責任を回避していると解釈したのか、官僚的卑怯さがあるというのか、著者に問うてみたくなります。このようにして、左翼の学者たちは戦後何十年もかけて、最もらしい嘘を国民に間に広げていったのです。当時の国民に関する叙述も、私に言わせてもらえば、見当違いも甚だしい、紋切り型の左翼分析です。

 「大部分の民衆は、ひどい食糧難や激化するインフレの渦中にあって、いかに生存するかで精一杯だった。」「そのうえ、自発的に政治に参加するという伝統を持たなかった民衆は、現在の政治や、既存政治家に不満はあっても、自らそれを克服し、敗戦の苦い経験を踏まえて、自らの手で日本の未来を作り出して行こうとする、主体的な姿勢にかけていたのである。」

 「終戦による解放すら、民衆の力で勝ち取ったものでなく、日本政府が自発的に行ったものでもなく、占領軍の指令によるものであった。」

 著者もまたマルクス主義者らしく、「民衆」という言葉を無神経に使います。ソ連の革命のように、群衆の暴力による、主体的な政府転覆でないことが不満でならないという口ぶりです。著者は、昭和21年に東京大学で開かれた、新憲法公布記念式典での南原総長の演説を引用します。

 「日本の政治的基本は、まさに根本的変革を遂げたと言わねばならぬ。」「これは君主主権から、主権在民へ移行した当然の結果であって、従来の国体の観念は、解釈を変更されねばならぬ。」「我が国の国権の正当性の根拠は、神授的・族長的権威から、国民の意思に置き換えられたのである。」

 「われわれは、いたずらに千古不変の国体を言うのをやめて、新たな意義の国体の生誕を祝し、これを育成すべきである。」

 ここで語られていますのは、皇室の否定であり、GHQの言う主権在民の強調です。連合国を正義とし、日本だけを不正義とし悪とする自虐史観は、ここから始まっていました。

 GHQという米国統治に服従しつつ、マルクス主義を浸透させようという、日本特有の反日の動きがこうして始まったという事実が、良く分かりました。

 「かって戦争に協力した多くの保守主義者、天皇絶対論者が、うわべだけの民主主義者や、平和主義者になりました。」「敗戦に対する厳しい反省もなく、集団転向した民主主義者たちは、新しい独裁者である占領軍に取り入ることに、うき身をやつし始めたのである。」

 著者は転向した保守主義者を軽蔑していますが、私には、どっちもどっちと見えます。著名な大学の教授たちが戦後になり、どれだけ見苦しい変節をしていったのか。私はここでも著者に問うてみたくなります。

 たかだか米国の新聞記者だったマーク・ゲインの言葉が、なにかの権威ででもあるように引用されているのをみますと、怒りすら覚えます。終戦1周年を迎えた、昭和21年8月15日の記事だと言います。

 詳しく紹介する気になれませんので、概要だけ述べますと、日本は1年たっても、誰も敗戦の反省をしていない。むしろ目立つのは勝者である占領軍に対する、醜悪な追蹤が見られるばかりだと、こんな記事です。

 「マーク・ゲインは、彼一流の鋭い筆致で記しています。」と、こうした書き出しでの紹介です。

 中学生だった時私は偶然学校の図書館で、ゲインの『日本日記』を読みました。戦禍で痛めつけられた日本の各地を取材し、政治家や役人や教師や商人たちと対話した記録が、日記風に綴られている本でした。

 現在でも、英語の不得手な私たちは、街で突然外国人に話しかけられたりすると、戸惑ったり、慌てたりします。まして敗戦後の混乱時に、戦勝国の記者から、威丈高に英語で喋られたら、慌てふためくのは当然です。ゲインは、そんな日本人を見て、軽蔑し冷笑し、未開の野蛮人であるかのように叙述しました。正義の戦争で勝ったと慢心した彼が、無知蒙昧な日本人がやっと目を覚ましつつあると、最初から最後までその調子で語る本でした。

 中学生の私は、ゲインに怒りを覚え、一方的な決め付けと、思い上がった正義感に、憎しみさえ感じました。ゲインのことを今でも忘れていませんし、そんな人間を褒めるような日本人は、とても信用する気になれません。

  最初に述べましたが、この本は四人の編者がまとめたものです。名前を列挙しますと、林茂氏 ( 東京大学教授 ) 、安藤良雄氏 ( 東京大学教授 ) 、今井清一氏 ( 横浜市立大学助教授 ) 、大島太郎氏 ( 専修大学助教授 )です。

  今回引用した部分を、どの教授が書いたのか知りませんが、ようするに四人の編者は、日本にとって「獅子身中の虫」であり、「駆逐すべき害虫」です。
 
 今晩はここで終わりますが、明日また、続きを述べたいと思います。
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バードバスの再開

2017-04-25 18:48:36 | 徒然の記

 4月19日に、千葉県での鳥インフルエンザ終息宣言が、森田知事によってなされました。この間防疫措置に当たった県職員と自衛隊員の数は、延べ4,953人、消毒した車両台数は延べ7,068台ということです。私は解除を待っていただけですが、こんなにも多くの人々の献身があったのかと、感謝せずにおれません。

 昨年の12月にバードバスを片づけてから、5ヶ月が経ち、あれ以来、ねこ庭を訪れる小鳥がほとんどいなくなりました。雪の降る日でも水浴びをしていましたから、鳥たちにとってバードバスは、私が思っていた以上に大切なものだったと分かりました。

 22日の土曜日にバードバスを元の位置に戻し、たっぷり水を張りました。長い間使えなくしていたので、小鳥たちに気づかれず、翌日の日曜日も閑散としたままでした。そして昨日、やっと念願の小鳥がやってきました。つがいのシジュウカラです。以前はわが物顏で水浴びしていましたのに、久しぶりだと警戒するらしく、水盤の縁に止まったり飛び去ったり、少しも落ち着きません。

 まどろっこしくなるほど時間をかけ、やっと一羽が水浴びをしました。頭を水に浸け、羽をバタバタさせながら、体を濡らしています。もう一羽は隣の木の枝で辺りを警戒し、見張り役をしています。こうして長い時間をかけ、正味の時間は、それこそカラスの行水でした。けれども私は、心が躍りました。やっと来てくれた、バードバスのお客です。職業の経験はありませんが、客を待つ風呂屋の主人の気持ちが、こんなものかもしれません。

 そして火曜日の今日は、なんとヒヨのつがいが飛来しました。忘れもしません。バードバスを片づけた時、一番うるさく騒いだのが、ヒヨでした。「水がない。」「水がない。」「庭に、水がないぞ。」近所中に響く大きな鳴き声で、2羽も3羽もいて、けたたましく鳴いていました。

 ヒヨは庭の木になる実を、お構いなく食べてしまうので、これからの季節には歓迎したくない鳥なのですが、久しぶりなので懐かしくさえありました。「水だ。」「水だ。」「水かあるぞ。」心なしか、騒々しいヒヨの声がそんな風に聞こえました。こうなりますと、明日からは次第に鳥の数と種類が増えていくはずです。再び賑やかなねこ庭となり、私たちを楽しませたり、困らせたりするのです。

 さらに今年は、のら猫タビーもいますし、気の抜けない日々が始まるのだと、期待がふくらみます。政治のことを考えますと、気持ちが乱れたり騒いだりしますが、ねこ庭のおかげで救われます。有り難いことに、この場所にはまだ平和があり、安らぎと楽しみがあります。人々は笑い、さざめき、挨拶をしあい、この街で生活しております。

 当たり前の話ですが、この日常を守るためには、国民の一人として、政治を考え、国際社会を考え、心の整理をしておかなくてなりません。実際には、具体的に何もできないのですが、社会への参画心は大事にしたい私です。

 どこいらから、バードバスの話を外れてしまったのか、こんな横道へ迷い込むのは本意ではありません。年はとりたくないものです。・・・・バードバスの話でした。

 元どおりになったバードバスのあるねこ庭に、今年はタビーもいると、こんな話でした。ある人のところへ来るのら猫は、今ではすっかり慣れ、膝の上に乗るようになったと、家内が話をします。タビーは相変わらず、警戒心を解かず、近ずくと離れていきます。離れる距離がずっと接近するようになりましたが、触れることはできません。体を撫でたくて手を伸ばすと、表情を硬くして身構えます。

 誰にも心を許さず、常に身辺を警戒し、危険があれば立ち向かう。近くの山をねぐらにしているタビーは、そうして生きてきたのです。他の猫だけでなく、タヌキやハクビシンもいる山ですから、そうでなければ生きていけないのでしょう。

「人に甘えることも知らないで、タビーは、厳しい人生をいきているのね。」

 無心に餌を食べるタビーを眺めつつ、家内が話しかけていました。猫なんだから、人生とは言わないだろうと思いつつも、それでもそんな言葉が不自然に聞こえませんでした。ねこ庭に暮らす夫婦だから、きっとそうなのでしょう。

 まとまりのない、いい加減なブログとなりましたが、私には、まとまりなどどうでもいい、真剣なブログです。気持ちを安らかにして、本日はここでお仕舞いと致します。

 

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うるま市長選挙

2017-04-24 15:30:12 | 徒然の記

 うるま市の市長選挙の結果が、判明しました。変わりつつある沖縄を、実感させられた思いが致します。有権者数約9万5千人の60.7%が投票したというのですから、市民の熱意と、真剣さに頭の下がる思いがいたしました。

 自民党と公明党が推薦する島袋氏(64)が、31,369票を獲得し、野党の推薦する山内末子氏(59)が25,6116票で、その差わずかに5,753票でした。今私は、平成25年度に行われた名護市長選挙のことを同時に思い出します。あの時は、保守の押す末松文信氏と、反日政党が押す稲嶺氏との対立選挙でした。結果は約4千票の差で、稲嶺氏が勝利しました。沖縄の二紙は、わずか4千票差だというのに、「大勝利」と大見出しの活字を組み、「民意が示された」と大騒ぎしました。それなのに、もっと大きな5千票差の今回は、鳴りを潜めた紙面です。

 私から見ますと、たとえ僅差であっても、島袋氏の勝利は大きな意味があります。県民を煽りたてる沖縄の新聞が、相変わらず中傷記事で氏を貶しても、県民が自分の意思を変えなかった姿を見るからです。「市民への詐欺行為にも等しい、沖縄特有のいつもの戦術」と、自民党の古屋氏が野党候補について語りますと、さっそく野党が「差別発言だ」と騒ぎだしました。

 琉球新報・沖縄タイムズという沖縄の二紙も、古屋氏の発言は県民への侮辱だとか、植民地扱いだとか、バカな世論を煽りました。「誹謗中傷したわけではない。客観的事実を申し上げた。」と氏が応じていましたが、その通りだと感じました。沖縄の世論はわれわれが作ると驕っていた二紙も、どうやら今回はそう行かなかったようです。県民は既に、一本調子の敵対記事にうんざりしていたと、その証明にもなる選挙結果でした。

 他県に住む私たちは忘れていましても、沖縄の人々は、名護市長戦時の記事と、今回の記事との、あまりに極端な報道ぶりに呆れているはずです。いつまでも、子供だましのような記事が通用すると勘違いしている二紙の幼稚さにも、決別状が出されたのかもしれません。成長しないのは、沖縄タイムズと琉球新報の経営者や記者たちの方だと、県民は覚めてしまったのでしょう。

 誰もが顔見知りの狭い地域で、暴君のような二紙に逆らい、島袋氏に票を入れるのは、私どもが考える以上に、勇気のいる行動だったに違いありません。四月から発行されることとなった八重山日報は、保守・中道の新聞であり、これまで県民が手にすることのできなかった客観報道を提供すると、期待されています。新聞の購読申し込みも、配達能力を超えていると聞きますが、これだって、県外の者が想像する以上の勇気がいります。

 沖縄の県民以外から何を言われようと、沖縄の二紙は力を持ち、報道と言えない偏った記事を毎日書き流してきました。それはまさに知事から市長から警察まで、「赤信号みんなで渡れば、怖くない。」という有様で、「反日」で厚化粧した沖縄の風潮でした。「オール沖縄」などと、それこそ詐欺師の騙し文句みたいなスローガンが、いったい何年間街にあふれていたことでしょうか。

 自民党の政治が全て良いとは言いませんが、先ず沖縄は、このねじれ曲がった反日の風潮から、卒業しなくてなるまいと思っております。沖縄の美しい海と平和な日々を守るのは、反日の政党や極左の運動家ではありません。沖縄を愛し、沖縄を慈しむ住民自身が、沖縄を守るのです。自民党は、皆さんの後からしか、動き出そうとしないのです。悲しいことながら、現在の自民党は、敗戦この方、憂国の議員や愛国の士がすっかり鳴りをひそめております。

 「沖縄は、日本の縮図」と、私はかつてブログでそう書きましたが、今でもそう思っています。本土では、反日のマスコミや、日本を憎むことしかしない野党議員や、亡国の裁判官や学者の跋扈など、沖縄の比ではない数で棲息しております。主張する勇気を忘れておりますのは、私たち自身なのです。

 先んじて一歩を踏み出された沖縄県民の方々に、私は敬意の念を捧げます。

 

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『日本終戦史・中巻』 ( 明治の元勲と昭和の軍人の違い )

2017-04-19 17:44:07 | 徒然の記

 『日本終戦史・中巻』( 昭和37年刊 読売新聞社 ) を、読書中です。

上巻は、左翼学者の反日書と高を括って手にしていましたが、中巻を読むうちに、むしろこの書は、敗戦前後の日本を語る貴重な資料でないのかと、改めて向き合っております。

 多くのマスコミが語っている「軍部の独走」が、具体的にどんなものであったか、詳しく述べられています。戦後の評論家や文化人たちが口を揃え、「日本は無謀な戦争をやった。」「間違った戦争をした。」と非難しておりますが、世論に迎合する合唱の軽さも、発見しました。

 勝利したため批判も少なくて済んでいますが、明治時代の日清、日露の戦争にしても、当時としては間違いなく「無謀な戦争」でした。一旦敗れれば、国がなくなってしまうと、捨て身の覚悟で突入した戦争で、諸外国は日本の敗北しか予想せず、同情する国さえありました。

 ですから、同じ捨て身の戦いだった大東亜戦争を、敗戦後に後づけで批評するのは、無責任で一方的な意見と、私には思えてなりません。あの戦争を正しく批判すると言うのなら、初戦の勝利に酔うばかりで、同時並行すべき終戦工作を軍が疎かにしたという事実こそ、もっと語らなくてならないのではとそういう気がしてなりません。

 日清・日露を戦った明治の元勲たちは、戦争開始と同時に戦争の終結を見据え、諸外国との折衝を始めていました。小国日本は、短期決戦で勝利しても、長期の戦いをする国力はないと、彼らは現実を把握していました。幕府を相手に命がけの戦いをした元勲たちの知恵を、昭和の軍人が見習わなかったという奢りをこそ、批判すべきなのです。

 明治の元勲はいわゆる文民でなく、武士であり軍人でしたから、首相になっても外務大臣になっても、軍事について指揮をし、詳細な情報も得ていました。大東亜戦争時の政府には元勲がすでに亡く、天皇の統帥権に直結した軍が出来上がり、政府と軍は別組織として機能していました。首相その他の大臣に軍事情報の詳細を知らさず、陸海軍のトップが、政府を無視し軍務を進めました。

 林銑十郎や阿部信行、米内光政や東条氏など、軍人の大将も首相になっていますが、陸海軍そのものが独立した組織として振る舞い、軍人首相でも統制できない状況になっていました。東京裁判で被告席に立たされた東条氏が、こうした軍の実態を説明しています。

  「陸軍にありては、三長官、すなわち陸軍大臣、参謀総長、教育総監の意見の合致により、陸軍大臣の補弼の責任において、御裁可を仰ぎ、決定を見るのであります。海軍のそれも、また同様であります。」

 当時の日本では、陸海軍がそれぞれに作戦を立てて実行し、相互の連携が図られていませんでした。ですから東京裁判で、対英米作戦計画について、首相であった東条氏はこう述べています。

  「海軍統帥部が、この間何を為したるかは、承知致しません。」

 政府を無視して作戦計画を遂行する陸海軍、しかも海軍と陸軍には意志の疎通がない。東京裁判で東条氏が述べているのですから、その通りなのでしょう。国運をかけた大戦争をするのに、元勲のいた明治政府なら、考えられない事態だったはずです。

 大東亜戦争の反省や批判をするのなら、ここを考えなくては核心が外れます。当時の日本軍は確かに強く、他国に負けない力を持っていましたし、「不滅の神国」という慢心もここから生まれました。そんな軍の奢りを、戦後の批評家は追求すべきだったのではないでしょうか。

 「短期的に勝利を収めても、日本の国力では長期戦に耐えられれない」という、明治の政治家たちの英知を受け継いでおれば、開戦と同時に、終戦工作を行うことの重要性を忘れなかったはずです。

 もっと言えば、終戦工作を難しくするドイツとの同盟や、ソ連との条約締結など、ありえない選択となったのかもしれません。「たら、れば」の論は、歴史を語る姿勢でないと言いますから、私の意見になんの意味もありませんが、初戦からの終戦工作を軽視した軍部の驕りは、いくら指摘しても足りない気がいたします。

 今後日本が憲法を改正し、自衛隊を国軍とする日が来たら、この愚を繰り返さない英知を絞らなくてなりません。戦争反対とか、平和憲法遵守など、国の存立を危ういものにする反日左翼の妄言は無視するとしましても、日本の軍の在り方や、暴走の抑止策を確立することは重要です。私たちが昭和の歴史から学ぶべきとすれば、ここだと思います。

 不滅の神国思想から逃れられなかった軍人の実例を、本から紹介します。

 「独ソ和平工作にしても、対華工作にしても、戦況が有利なうちは、軍事的勝利に甘い期待をかけ、いささかも外交的譲歩をしないというのが、日本側、特に陸軍の態度であった。」「そして戦局が行き詰まってから、始めて手を打つということで、後手にばかり回っている。」

 「軍事的勝利を予想した終戦方針に変わって、妥協による終戦方針を考えようとする機運が熟し始めたのは、昭和18年の後半からであった。」

 この本のおかげで、終戦工作が複数ルート存在していたことを知りました。下記の5番だけを学校で習った記憶がありますが、他の和平工作については今回教わりました。

  1. 藤村中佐による「ダレス工作」・・アレン・ダレスへの働きかけ

  2. 重光葵外相による「ハッゲ工作」・・アレン・ダレスへの働きかけ

  3. スエーデン国王による「小野寺工作」・・イギリス王室への働きかけ

  4. 緒方竹虎国務相による「対華和平工作」・・蒋介石への働きかけ

    5.  近衛公による「対ソ和平工作」・・ヤルタ会談以後だったため、ソ連が拒絶

 これらに関する詳細の説明を省略し、総括的叙述を紹介します。

 「留意したいのは、対ソ工作を除いて、すべて個人的な工作であったことである。」「日本が正式に和平を取り上げたのは、最高戦争指導会議で決定された、対ソ交渉以外になかったのである。」

 「ハッゲ工作のごときは、外相の任にある重光によるものだから、本格的終戦工作と見なして良いだろうに、それでもなお個人的として扱われた。」

 海軍では軍令部総長豊田副武が、藤村中佐の提案を取り下げ、陸軍では梅津参謀総長が小野寺少将の意見を退け、逆に詰問文書を発送しています。

 「帝国が、必勝の信念をもって戦争を継続する決意を有することは、貴官も承知のはずなり。」「しかるところ、ストックホルムにて、中央の方針に反し、和平工作をするやの情報あり。」「貴官は、その真相を調査の上、報告ありたし。」

 これが敗色濃くなった昭和20年3月の話だというのですから、不滅神話に縛られ、現実が見えなくなった軍人の姿が浮かびます。世界各地に駐在する武官たちの方が、大本営で指揮を執る指導層より、的確で切実な情報を得ているはずなのに、彼らは無視しました。

 と言うより、たとえ分かっていても、聖戦遂行の熱狂の中で、和平を言い出す勇気に欠けていました。ここまで読み進みますと、昭和の戦争指導者と、明治の元勲の聡明さには、歴然とした違いがあることが分かります。

 私もまた、結果だけ見て批判をするという、批評家たちの愚を犯しているのかも知れませんが、明治の政治家と比較し、昭和の指導者の器の小ささと言うか、狭量さと言えば良いのか、嘆きたくなるものがあります。

 本日はここで終わりますが、立派な軍人がいたことや、彼らの多くが悲惨な最期を遂げたことなど、明日は続きを述べたいと思います。 

 〈 追記 〉・・ 

  続きを述べるより下巻を読む方が先だろうと、そんな思いに駆られてきましたの

 で、予定を変更し中巻の感想につきましては、ここで終わりと致します。

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この危機の時、この質疑

2017-04-18 22:57:32 | 徒然の記

 米国の空母が、現在世界で、最も強力だと言われる爆弾を装備し、攻撃態勢を整えて、北朝鮮へ向かっています。

「中国が対応しないのなら、アメリカは独自で政策を遂行する。」トランプ大統領は、言葉だけでないという証拠に、この爆弾でイラクを攻撃しました。

「核で来るなら、核で対抗する。全面戦争も辞さない。」北朝鮮の若い独裁者は、叔父を粛清し、義兄に当たる金正男氏を毒殺した、妥協を知らない殺人鬼です。

政府は朝鮮有事に備え、北からなだれ込んでくる難民への対応を本気で検討しています。武器を携えた難民が、大挙して押し寄せてきたら、どうすべきか。自衛隊が出動しなくては、とても対応不可能なので、訓練もはじめています。

 もしアメリカと武力衝突したら、北の独裁者は、まず日本にある米軍基地へミサイルを飛ばすはずです。あるいは、基地には目もくれず、首都東京を目標とするのか。そのミサイルには、核爆弾が搭載されるのか。

 このような緊迫した情勢だというのに、動画で見た民進党の議員の、国会質疑に呆れ果てました。山尾志桜里氏の質疑は、共謀罪法案への反対意見でした。相変わらず、要領を得ない金田法務大臣を、たたみ込むように質問攻めにしていました。質問の冒頭では、山本大臣の失言を捉えて総理の任命責任を追求し、甲高い声で、早口の責めでした。

 たまりかねた安部総理が立ち上がり、山尾議員をたしなめました。

「どんな項目への質問かと、事前に具体的に通告があれば、政府の答弁をきちんと用意したのです。だいたいこのような質問は、法務委員会でしっかりとやるべきもので、ここでするのはおかしいでしょう。」

「質問通告もしないで、法案の細かなことを次々と法務大臣に尋ねているが、外務大臣にもからむような事柄を、金田大臣が答えられないでしょう。」

「テレビの中継を意識しながら、一方的に質問するのは、そんなパフォーマンスは、やめて欲しい。」

 正確な言葉は忘れましたが、適性の疑われる金田大臣を集中攻撃する、山尾議員への反論でした。氏が本気で審議を尽くしたいのなら、国会のルールを守り、質問内容を具体的に通告しなくてはなりません。こんなテレビの中継をみたら、金田法相がやり込められるばかりで、いかにも正論らしい意見を述べる彼女の方が、素晴らしい政治家だと見えてしまいます。総理が、我慢ならなくなった気持ちも分かります。

 もともと民進党は、共謀罪法案より、性犯罪を厳罰化する刑法改正案を、先に審議すべきだと主張しています。女性の人格を踏みにじる性犯罪の厳罰化は必要な法律であり、これまで処罰が甘すぎたと、私も感じています。

「この法案の成立を、どれだけの女性たちが、あるいはそのご家族が待ち望んでいるのか。」「訳のわからない共謀罪法案より、コチラの方がずっと大事ですよ。」

 自信に満ちて断言する彼女を見ていますと、これでは国民の心がますます民進党から離れると思えてきました。平時の状況なら、性犯罪を厳罰化する刑法改正に誰が反対するでしょう。しかし、この国難とも言える緊迫した東アジアで、日本がもろに影響を受ける時だというのに、そんな優先順位はないでしょうと反論せずにおれません。

 国会中継をみていますと、民進党も共産党も、肝心な安全保障は忘れ果て、金田、山本、稲田等々の大臣の失言ばかりを取り上げ、怒鳴ったり嘆いてみせたり、辞任要求に明け暮れています。

 こんなことでは、たとえ総理に多少の難点があるとしても、民進党や共産党には、日本の守りを任せられないと、国民は判断するでしょう。これから選挙をやるたびに、亡国の野党が議席を減らしていくはずです。「平和」「人権」「対話」などと、耳障りの良いプロパガンダに夢中になる「お花畑の住民」より、賢明な国民の方が多数なのですから、もっと真面目な国会審議をしないとソッポを向かれて当然です。

 保守を自認する私に言わせて頂けば、いったい反日野党の議員たちには、「憂国の情」があるのか。「自分の国を愛する」熱い思いがあるのか。名もない庶民である私たちの方が、ずっと真剣だと、教えてやりたくなります。「憂国の情」「愛国心」・・、敗戦以来この言葉は、日本ですっかりタブーとなってしまいました。

 しかしこの言葉を、私たちは取り戻さなくてはなりません。これは戦闘服を着て、街宣車で軍歌を撒き散らす、暴力団のような右翼の「専用語」ではありません。まして反日左翼議員たちがやるように、絶叫したり、興奮したり、わざとらしく口にする言葉でもありません。この馬鹿げた国会中継を見ながら、国の行く末を思いつつ、自分の胸の中で反芻すればいいのです。

 「選挙の一票を、獅子身中の虫たちには入れない。」と、決意すればいいだけです。

 

 [訂正]  H29.4.29   

  上から4行目の、「イラク」は、「アフガニスタン」の間違いでした。訂正いたします。

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バターン死の行進

2017-04-16 18:03:08 | 徒然の記

 四月四日付の千葉日報で、「バターン死の行進」と題するルポ記事を読みました。大東亜戦争中、フィリピンで日本軍の捕虜となった米兵が、捕虜収容所までを歩いて移動したため、多くの者が死亡したという事件です。

 今年で75年となる節目にあたり、共同通信社の石橋拓郎記者が、出発地のマリベレスから10キロを歩いてみたという体験記事でした。道路脇に立つ「バターン死の行進」の石碑を眺めながら、氏は現地のフィリピン人記者と二人で歩きます。

「石碑をふと眺めると、この辺りでも多くの兵士が、水も食料もなく、命を落としたのだと実感させられる。」「気温が30度を超え、日光が肌を突き刺し、汗が噴き出す。」「同行したフィリピン人記者も、口数が少なくなった。」「フィリピンの気候に慣れていても、過酷なようだ。」

「沿道に住むディアナさんに、話を聞いた。」「当時は幼く、はっきりした記憶はないが、大人たちの話から、」「日本兵はろくでもないと、感じた。」「その思いは、今も変わっていないという。」

「二時間強で、目的の10キロ地点に着いた。」「10キロでも、頭が朦朧とする。」「力尽きた兵士たちが、最後に見たのはどんな風景だったのだろうと、」「想像を巡らせるばかりだった。」

 地図や石碑や沿道の写真を加え、記事は新聞の半ページのスペースを占めていました。この記事だけを読みますと、日本軍が、捕虜となった米国兵士に、ひどい仕打ちをしたのだと思わされます。当時の状況をまったく書かない氏の記事に、私は違和感を覚えました。いつものように、ネットで「バターン死の行進」を検索し、知り得た情報に、番号を振ってみました。

  1. 全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

  2. 1942年(昭和17年)、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したバターン半島の米比軍は、7万6千名もの多数が捕虜となった。

  3. 「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、マニラ裁判で死刑になっている。でもこの行進はトラックがなかったからで、日本兵だって歩いていた。決して捕虜を殺すために歩かせたわけではない。

 4. フィリピンの失陥は、米国史上における米軍最大の敗北であり、バターン死の行進は、 降伏した米兵・フィリピン兵に対する最も残虐な戦争犯罪であった。

  5. ニューレンベルグ裁判の太平洋戦争版である極東軍事裁判は、日本軍によるこの行進は、ナチス支配下に行われた、囚人や捕虜への健康や生命を顧みない、強制的な移動と同様とみなされた。

 当時の行進に参加していた、今井武夫大佐の話を引用してみます。

「然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、」「単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、」「数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。」

「士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、」「争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。」

「しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、」「彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。」「戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、」

「初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。」

 日本軍の何倍もいた捕虜に、十分な食料を与えるだけの備蓄が無かったという事実も、忘れてはなりません。捕虜だけが歩いたというのではなく、重装備の日本兵が一緒に歩いていたのに、記事では一言も触れられていません。

 情報を得た結果として、今の私が重要視しますのは、上の4番目の項目です。フィリピンの失陥が、米国史上における米軍最大の敗北であるとすれば、当然それはマッカーサー自身の汚点であり、屈辱であるはずでしょう。ありもしない南京虐殺を捏造した東京裁判ですから、バターンでの捕虜移動を、残虐そのものの「死の行進」として記録に残せば、マッカーサーには好都合な話となります。

 たとえ偏見と言われても、私は日本人ですから、共同通信の石橋記者のように、「日本軍邪悪説」をそのまま語る気にはなれません。むしろ氏に対して、「もう少し事実を調べた上で、記事を書くべきでないのか。」と、苦言を呈したくなります。戦後70年が経過した今でも、こんなGHQへの提灯記事を書く記者がいるなど、私にはその方が驚きです。

共同通信社も、そろそろまともな通信社らしく、事実を調べた記事を配信しなくてどうするのでしょう。日本の会社として、恥ずかしいのではありませんか。

 [ 追 記 ] 日本軍の軽率さを批判する意見もありましたので、追記いたします。伊藤正徳氏の「帝国陸軍の最後」という著書に、こう書かれています。

 「ただ、こういうことは言い得る―俘虜を好遇する意思が十分にあったならば、モ少し苦痛のない後送法は実行できたであろう「一日の行進距離を縮めること。マリベレスとサンフェルナンドの中間に食糧の貯蔵所をつくり、多少なりとも補給を考慮すること。」

「幹部にトラック輸送を工夫すること等々、とにかく尽くせるだけは尽くしてみることであった。」「それを、本間軍は逆に放擲したという憾みがあった。」

 それでも石橋記者や共同通信社に対する、私の苦言は変わりません。今井大佐の話も、伊藤正徳氏の叙述も調べ、どちらも記事にするという姿勢が求められるのではありませんか。

 

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『日本終戦史・上巻』 - 2 ( 自決した軍人たち )

2017-04-06 14:25:18 | 徒然の記

 敗戦の報を聞き自決した軍人について、多少耳にしていましたが、実際の数字を初めて知りました。「終戦時自決烈士慰霊祭祭典委員会」からの、データです。こんな長い名前の委員会があったことなど、どれだけの人が知っているのでしょう。左翼系の本で教わるというのも、面白い話です。

  階 層     陸 軍   海 軍    計

  将 官          30               4            34

  佐 官                 49              25            74

      尉 官           105              37           142

  下士官               104              41           145

   兵                   88                6             94       

  軍 属                18               13             31

  看護婦                                                    3

         計        394             126           523

  特攻隊を作った大西中将や、阿南陸相については知っていましたが、杉山元帥や田中大将など、将軍クラスで34名もの自決とは初耳でした。

 天皇陛下のラジオ放送の予定を知った宇垣纒中将は、特攻司令長官の責任を果たすには、放送前に部下の後を追うしかないと決意し、海軍最後の特攻で命を散らせたと言います。

 中将は参加機を5機と決め、一機に2名ずつ10名で出撃すると決定したのですが、18名の隊員が参加を申し出、誰も後へ引かなかったため、突撃機は9機となってしまいました。彼らは大分の基地から飛び立ち、沖縄に集結していた敵艦に突撃しました。

 左翼の本ですからこれを美談とせず、長官機以下全機が虚しく海中へ墜落したと語っています。本の編者たちは、憐れむべき軍国主義者としての叙述に傾いていますが、私は別の受け止め方をしました。

 自決者の523名を多いと見るか、少ないと見るかは人それぞれでしょうが、日本以外の国で、戦いの責任を取る形で、かくも多くの軍人が自決した話を聞きません。

 「自分たちが不甲斐なかったため、陛下のお気持ちに添えなかった。」彼らの大半がそう言い残し、自決しました。戦後になり時間が経って後、彼らを蔑視する人間が増えましたが、私は自決した方々に頭を下げます。尊い犠牲を払われたご先祖の一人として、感謝せずにおれません。これはもう、理屈でなく、同じ国に住む人間としての情です。

 「昭和十八年の二月、ガダルカナル島撤退。」「四月、山本連合艦隊司令長官戦死。」「五月、アッツ島守備隊全滅。」「七月、キスカ島放棄。」「十一月、タラワ、マキン両島守備隊全滅。」

「大本営が、サイパンの失落を公表したのは、昭和十八年七月である。」「サイパンを失うことは、マリアナ基地を米軍の手に渡すこととなり、相次いでグアム、テニアンも全滅した。」

 日本が次々と敗退していく叙述を追っていると、胸が痛くなってきました。昭和二十年八月十四日、日本の無条件降伏が決まった時、外地にあった日本軍の総兵力は、陸軍が約三百十万、海軍が約四十万だったと言います。戦闘が一、二年の間に劣勢から降伏へと、急変しましたが、それでも当時はまだ、これほどの軍隊が残っていたのだと、改めて知る数字でした。

 ですから、編者が次のように語っているのは、事実でないかと思います。

 「最前線にあった大部分の一般将兵にとって、終戦の報は、寝耳に水だったに違いない。」「戦争が日本の敗北、無条件降伏をもって終わりを告げるとは、とうてい予測し得なかったであろう。」

 「終戦の詔勅は、極めて遠まわし、かつ観念的、抽象的表現をもちいており、敗戦とか、降伏とかいうことは、一言も言っていない。」「ブーケゲンビル島で、米軍と交代したオーストラリア軍が停戦交渉を申し入れても、大本営からの指令は戦闘行動を停止せよということだから、港に入るオーストラリア軍の軍艦があれば攻撃すると、突っぱねている。」「これはこの地区の軍隊だけでなく、その他の外地軍にも見られた現象であった。」

 これまで私は、終戦の詔勅を受けた時から、軍隊は秩序をもって武装解除し、大きな混乱もなく、敗戦処理がなされたとばかり思っていました。事実はそうでなく、沢山の騒動があったことを、編者が述べています。主要なものだけ、紹介します。

 1. 近衛師団のクーデター 

  陛下の放送を抑え、和平派の重臣を弾圧し、戦争継続を図ろうとしたもの。反対した近衛師団長の森中将が、拳銃で射殺された。

 2. 全陸軍のクーデター計画

  国体護持のためポツダム宣言の受託を阻止し、阿南陸相を中心として全陸軍の決起を促し、上陸する米軍に一撃を加え、降伏条件の転換を目論むというものだった。阿南陸相は即答せず、詔勅を是とする他の将軍たちの命がけの反対と説得で、計画は押さえ込まれた。

 3. 上野の山に集結した水戸の陸軍航空通信隊の教官と生徒

 4. 川口放送所を占拠した予科士官学校の教官と生徒

 5.   埼玉の陸軍航空兵団 爆弾を装備した兵が、米国艦隊撃滅を計画した。

 6.   厚木航空隊の反乱

  徹底抗戦を叫ぶ兵たちに、聖断は間違いなく陛下のご決意であると高松宮が告げられ、部隊は翻意した。説得する方も、説得される方も、命がけのやりとりでしたが、結局は「陛下のご意志」が明確にされることで、全てが解決しています。

 「寸鉄を帯びず、飛行機のタラップを降りるマッカーサー元帥。」と、こんな見出しをつけた記事の写真を思い出します。武装解除された国に来て、何と大げさな芝居かと当時はマッカーサーを笑ったのですが、事実を知りますと、米軍機のタラップを丸腰で降りるには、勇気のいる行動だったのだと知りました。

 内戦にもならず、社会の混乱もなく、GHQが日本統治を始められたのは、軍人と国民の間に広がっていた厭戦気分が大きかったと、本の編者は語りますが、私は首を横に振ります。

 彼らのように天皇を否定する共産主義者は、認めないのでしょうが、天皇のご意志を知った軍人と国民が、尊いものとしてそれを受け入れたからだと考えます。理屈や理論でなく、日本人の心の底を流れる「心情」としか、私には語りようがありません。

 愚かしいものとして左翼の彼らが否定しても、マッカーサーでさえ、陛下のご存在の大きさを認めました。だから彼は、天皇の処刑を主張する他国の人間を無視し、天皇を通じてしか成功できない占領統治を、理解したのです。

 本当に長いブログとなりましたが、ここでもう一言、現在の日本を思うと言わずにおれません。

 国民にとって天皇陛下は、独裁者でもなく、横暴な権力者でもありません。陛下の言葉に涙し、陛下のために命を捨てた人々は日本の宝です。歴史に残る日本の宝は、陛下というご存在と、陛下を大切に思う一般庶民です。

 その皇室を崩壊させようとしている、共産党や民進党、社民党、自由党など、こんな政党に選挙の一票を入れてはなりません。この反日と亡国の政党に心を寄せられる、今上陛下と美智子様。このお二方につきましては、どうすればよいのか、私には見当もつきませんし、これ以上思いつく言葉もありません。

 ご先祖様が大切にされてきた皇室が、なぜ平成の時代になって以来、かくも乱れ、かくも軽んじられ、かくも国民を苦しめられるのか。

 しかし、これ以上はやめましょう。中巻も下巻もありますから、深呼吸でもしてみます。テレビをつければ、北朝鮮がミサイルを発射したというのに、バカな野党が、相変わらず森友問題です。利敵行為の亡国野党と私が言うのが、間違っているのでしょうか。天の神様に聞きたいものです。

コメント (7)
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