ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

1994年世界はこう動く - 2 ( クリントン時代のアメリカ )

2020-07-31 18:18:19 | 徒然の記

 私には、アメリカの大統領について、理屈抜きの先入観があります。民主党でも共和党でも、変わらない先入観です。

 1. アメリカの大統領は、世界一のパワーを持つ国のトップである。

 2. アメリカの大統領は、世界のリーダーという誇りと自信と自惚を持っている。

 3. アメリカの大統領は、世界最強の米国を、最優秀のブレーンとともに、支配している。

 テレビや新聞で、アメリカの抱える問題を知っていても、なぜかこの先入観が消えません。しかし今回、日高氏のお陰で、等身大の大統領とアメリカが実感できました。日米貿易戦争と呼ばれる経済交渉で、なぜクリントン氏が、あれほどまで強硬に日本を叩いたのか、やっと分かりました。氏の説明が上手いのか、それとも「温故知新」の読書で、自分が少し成長したのか。よく分かりませんが、有意義な本です。

 アメリカから見れば、平成5年時の日本は、バブルが崩壊していても、それでも、米国を脅かす経済的大国だったという事実です。失業者が増大したアメリカは、失業手当を含む社会福祉費支出への歯止めが、効かなくなりつつありました。

 「アメリカはすでに、全予算の50%以上が、福祉関係の支出になっており、」「社会の再生産に、全く役に立っていない。」「1945年は、増大する失業により、恐慌の年になると思われるが、」「失業の恨みは、日本経済の繁栄と貿易黒字に向けられている。」

 クリントン大統領時代のアメリカと、10年毎に変化したアメリカについて、氏が次のように説明します。

 1. 1960年代・・おせおせムードで、アメリカの理想を掲げ、ベトナム戦争に突入した。

 2. 1970年代・・ベトナム反戦と、ウォーターゲートの時代だった。

 3. 1980年代・・レーガノミックスとバブル経済で、意気軒昂だった。

 4. 1990年代・・共産主義への勝利と湾岸戦争で始まったものの、アメリカの威勢が急速に萎みつつある。

 アメリカは21世期に向かって、ハイテク産業に全てをかけると、クリントン氏が「経済再生計画」を打ち出しましたが、これに関する氏の見方を紹介します。

 「だが本当のところ、アメリカ国民は、将来に対する不安でいっぱいなのだ。」「クリントン氏は、わずか47%の得票でホワイトハウス入りした、」「史上最低の大統領だと言われている。」「今のアメリカが、いかに意気消沈しているかが分かる。」

 こういう遠慮のない批評は、日本のマスコミはしませんので、私にもやっと、沈みゆく大国が見えてきました。かくいう氏にしても、NHKにいた時は言えなかったはずですが、今は米国政府のため研究をする立場ですから、辛口の意見が言えたのでしょう。

 「一方ヨーロッパ各国も、増大する失業者をかかえ、通貨の不安に悩み、」「ヨーロッパ統合の核になる、統一通貨実現へ向かうエネルギーを、」「見つけ出せないでいる。」

 「今円が、異常と思われるほど高くなっているのは、」「大混乱を続けている世界情勢の中で、比較的安定しているのが日本であり、」「ここ当面、円は買いだという見方が強いからである。」

 つまりこれは、日本経済が、絶対的に強いという話でなく、混乱した米国やEUに比較し、「当面安定している」という強さだった訳です。国際資本と呼ばれる巨大金融資本家たちが展開する、マネーゲームの結果として、生じている円高でした。

 大東亜戦争の時もそうでしたが、日本は、自分の意思で戦争をしているつもりでしたが、実はもっと大きな外国勢力がいて、彼らの世界ゲームに参加させられていました。世界を動かす力のある、巨大金融資本家たちは、常に利益を求めて動き、他国の政府を動かしています。次の叙述が、その説明です。

 「すでに述べたように、世界中が政治的、社会的混乱の最中にあるため、」「比較的に安定している日本が、資本の安全な避難場所として選ばれる、という状況は変わらず、」「1994年も、依然として円高の趨勢が続く見通しである。」

 日本だけを眺めれば、ロクでもない政治家たちがいて、文句ばかり言う国民がいるように見えますが、世界の状況は、日本よりもっと酷かったのです。そうなりますと、勤勉な国民がいて、真面目な政府が、真面目な政治をしている、安定した日本と言う姿が浮かび上がってきます。

 「日本は世界一だ」とか、「世界の中心が日本だ」と、あまり自惚れず、日本は、「相対的に」素晴らしい国でという事実を、知る必要があるようです。自信過剰は頂けないが、悲観ばかりしてもダメ、と言うことだと思います。

 「ウォール街の金融筋は、日本の貿易黒字が増大していることを歓迎しており、」「貿易黒字が拡大している限り、日本経済にインフレの恐れはなく、」「金利も安定していると、見ている。」

 氏の言う「ウォール街の金融筋」と言うのが、「ユダヤ陰謀説」の根拠となっている勢力のことです。馬野氏の本に出てきた「イルミナティ」であり、馬淵氏の言葉で言えば、「ウォール街を支配する金融資本家たち」です。日高氏の本を読んでいますと、これは陰謀論でなく、巨大資本の想定内の動きだと分かります。

 ユダヤ人の中に優秀な人物が多数いて、政治家だったり、官僚だったり、あるいは学者、思想家、芸術家だったりしています。彼らをつなぎ合わせますと、「ユダヤ人陰謀説」が出来上がります。しかしこれは一面の事実で、イタリア人もロシア人もイギリス人にも、同じ話が作れます。現在では、中国人や韓国人が、その民族的つながりの強さと偏狭な思考から、陰謀説の主人公にもなっています。

 私が有り難かったのは、氏の著作が、その事実を教えてくれたことです。戦前の日本も、同じようなことをしていましたし、民族陰謀説は、世界にあふれた話で、騒ぐことではありません。

 話が横道にそれ、スペースが無くなってしまいました。次回は、クリントン氏と、ウォール街の金融筋の話を、もう少しご報告したいと思います。

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1994年世界はこう動く ( 米中紛争の前に、軍の再建が不可欠 )

2020-07-29 20:11:11 | 徒然の記

 机の上に、二冊の本があります。

   1. 『1994年世界はこう動く』 ( 日高義樹氏著 平成5年刊 株・学習研究社 )

   2. 『1994年  世界は、』      ( 落合信彦氏著 平成5年刊   小学館 )

 同じ年に出版され、いずれの本も、1994年( 平成6年 )という年に注目しています。図書館の廃棄図書ですが、このような偶然があるとは気づきませんでした。米国はクリントン大統領で、日本の首相が細川氏の時です。ソ連が崩壊し、冷戦が終わりましたが、アメリカもEU諸国も経済が振るわず、停滞していました。

 しかしアジアは、昇竜のように発展する9ヶ国がありました。日本、中国、韓国、台湾、香港、マレーシア、シンガポール、タイです。停滞する米国とヨーロッパを尻目に、9ヶ国の経済が拡大を続け、1990年末には、この9ヶ国が世界経済の40%を占めるという予測もされていました。30年前には、9ヶ国の世界経済に占める割合が、わずか12%しかなかったことを考えると、驚異的な数字です。

 トップを走り、米国の脅威になっているのは日本でした。日高氏は日本人の学者というより、米国のシンクタンクのメンバーの一人として、米国の側から日本を眺め、意見を述べています。私が持つ当時の記憶は、アメリカによる執拗な「日本叩き」です。弱い日本が、大国アメリカの大統領から、貿易問題で無理難題を言われていると、そんな記憶しかありません。

 現在62ページですが、知らないことばかりで、やめられない面白さがあります。愉快な面白さでなく、自分の国に、こんな面があったのかという発見です。今と変わらない自分の無知と、マスコミ報道の客観性のなさを、ここでも教えられました。

 日本の「バブル経済」が崩壊したのは、平成3年から5年にかけてでした。土地神話が崩れ、銀行や証券会社が倒産し、不景気の風が吹き荒れていた時です。新聞もテレビも、国民に伝えていたのは、破綻した日本経済ばかりで、日高氏のような意見はありませんでした。

 27年前の本でも、マスコミの姿勢は今と同じで、新聞もテレビも、およそマスコミと名のつく組織は、客観的な情報を伝えないというのが、実態のようです。日本だけでなく、他国も似た状況だと分かった今は、特段の悲観もありません。偏向した報道をするのは、売れるニュースを探し、特種を求め、時々刻々を争うマスコミの、限界なのかもしれません。

 日高氏の著作に、知らない事実が書かれているからと、無闇に有難がらず、これも参考情報の一つと考えています。無残に崩壊した日本の経済を、連日記事にした日本のマスコミと、アメリカに脅威と警戒心をもたらした、日本経済の強さを叙述する日高氏の著作には、大きな隔たりがあります。

 単純に考えれば、矛盾した情報ですが、どちらも事実ではないのかと、そんな気がします。日本経済はひ弱に見えても、案外強靭な底力があると、そういうことではないのでしょうか。あるいは逆に、強固に見える日本経済も、一度躓くとと滅法に弱い・・・見る者の立場の違いで差が生じるのだと、考えます。戦前の日本を、反日・左翼は侵略的軍国主義国家だと言いますし、日本を愛する者は、列強の侵略から国を守るための自衛戦争だったと、真逆の主張をするのと似ています。

 それでも、参考になる、貴重な意見があります。世界の中の日本、アジアの中の日本、対米関係、対中関係など、私の知りたい情報があり、息子たちが、これからの日本を考えるきっかけにしてくれれば、と思ったりします。

 日高氏の著書は、氏の友人である6人の学者との分担で、書かれています。本の中から、日高氏の略歴と、6人の学者の肩書を転記します。

  1. 日高義樹  

   昭和10年名古屋市生まれ 東大文学部卒 元NHKアメリカ総局長   NHK退社後ハーバード大学客員教授 

            ハドソン研究所主席研究員 米政府と海軍のための、日米関係の将来に関する調査研究責任者

  2. スタントン・D・アンダーソン

   共和党顧問 国務次官補 フォード大統領補佐官 日米貿易交渉に携わった日米関係の権威

  3. アンジェラ ・ステント

   ジョージタウン大学教授 ドイツ政治・ドイツロシア関係論専門 米政府及び企業のアドバイザー

  4. ディヴッド・シルバーバーグ

   軍事問題で最も権威のある、「アームド・フォーシズ・ジャーナル・インターナショナル」誌の編集長

  5. ロバート・B・サハロフ

   ワシントン中東問題研究所のエグゼクティブ・デイレクター アラブ・イスラム問題の第一人者

  6. ジョセフ・フュースミス

   ボストン大学アジア研究所所長 ハーバード大学フェアバンク中国研究所研究員 中国の政治経済専門家

  7. ミハイル・S・バースタム

   スタンフォード大学教授 フーバー研究所主任研究員 ロシア政府顧問として、ロシア経済立て直しアドバイザー

 現在、世界の大ニュースは、激しさを増す米中対立と、「武漢コロナ」の二つです。核大国の米中が、一触即発の応酬を繰り返しています。しかし両国とも、核兵器は使いませんし、使えません。それをやれば、双方が自滅しますから、武力の誇示と情報戦の展開です。

 日本はどちらに着くか、広島・長崎のことは脇へ置き、現在は日米同盟が優先します。尖閣諸島と沖縄を、自国の領土だと主張する独裁国家に、与してはなりません。今は米国と共に戦い、国民に、安全保障の重要性を知らせる時です。一日も早く憲法改正案を、国会に提出し、軍の再建をすべきです。

 米中が武力衝突を始めれば、日本は必ず、巻き込まれます。自国の領土と国民を守るには、即座に動ける軍隊がいります。手足を縛られた自衛隊では、国民も領土も守れません。

 媚中の二階氏を政府から追い出し、蝙蝠のような公明党と手を切り、安倍総理は日本を取り戻す政治へ、舵を切る時です。ニュースを追いかけながら、緊張感を持ち、「温故知新」の生きた読書をする日々です。

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散る日本 - 2 ( 奥野氏も安吾も、二人して「暗愚」 )

2020-07-27 18:49:12 | 徒然の記

 坂口安吾という人物が、戦時中、戦後に、日本についてどう考えていたか、国民をどのように見ていたのか。それが知りたくて、著作三冊を読みました。『散る日本』の19編は全て、小説というより、随筆、評論の範疇になると思います。

 自分の主張に自信を持つ彼は、私のような庶民を、「お上にへつらう、デクの棒」と、見ています。極論で人間や社会を論ずれば、曖昧なものが整理され、小気味良い意見と錯覚されます。極論でしか世間が眺められず、毒舌の小気味良さからも逃れられず、彼は一生を終えました。

 19編の雑文の中から、必要と思う部分だけを拾い出し、愛する息子と孫たちのため、貧しい彼の思想を残そうと思います。独りよがりの極論が、事実全体を眺める邪魔をし、変な思考を世間に広める様子が、分かってもらえたら幸いです。『二合五勺に関する愛国的思考』の、85ページからです。

 「勝手に戦争を始めたのは軍部で、勝手に降参したのも軍部であった。」「国民は万事につけ寝耳に水だが、」「終戦が、自分の意思でなかったという、意外の事実については、」「概ね感覚を失っているようである。」

 「国民は戦争を呪っていても、そのまた一方で、」「もっと根底的なところで、わが宿命を諦めていたのである。」「祖国の宿命と心中し、自分もまた滅びるかもしれぬ儚さを、」「甘受する気持ちになっていた。」

 これが、ひとかどの作家と言われていた人物の言葉かと、失望します。国民の全部が戦争を呪っていたというより、彼の周辺にいる左翼小説家や評論家たちが、そう思っていたに過ぎません。軍部が勝手に戦争を始め、勝手に戦争をやめたという極論は、彼がいかに報道に無関心であったのか、国際情勢の分析力が欠けていたのかを示します。

 「私は愛国者だった自分を、発見した。」とも、述べていますが、その意味は、無意味な戦争に抵抗せず、異議も唱えず、死を覚悟した自分を知ったということを指しています。「無意味な戦争」「他国を侵略した一方的戦争」と、氏は批判していますが、これは米国が意図した「東京裁判史観」そのままです。

 やっと最近になり、米英ソが手を組み、日本滅亡のシナリオを描いていた事実が、世に出始めていますから、当時の彼が、「日本だけが間違っていた。」「日本だけが悪かった。」と、信じていたとしても不思議はありません。知識人と言われる氏が、国への愛情のかけらもないのに、自分を愛国者だと言ったり、米国の捏造を何も疑わない愚かさを見せたり、このことが不思議でなりません。

 「家は焼かれ、親兄弟、女房子供は焼き殺されたり、」「粉微塵に吹き飛ばされたり、そういう異常な大事にもほとんど無感覚になっている。」「不思議な状態を眼前にしながら、その戦争をやめたいと、」「自ら意思することは、忘れていたのである。」

 「その手段があり得なかったから、諦めていたのだと言っても、」「同じことで、要するに諦めていた。」「勝手に戦争をやめ降参したのは、正しく天皇と軍人政府で、」「国民の方は、概ね祖国の宿命と心中し、それを余儀ないものと思っていたのだ。」

 「それとは別に、魔物のような時代の感情がある。」「極めて雰囲気的な、そこに、論理的な根底は全く希薄なものであるが、」「抜き差しならぬ感情的な思考がある。」

 氏が本物の知識人なら、「魔物のような時代の感情」を本気で分析すべきでした。これがいわば、当時の「民意」であり、政府とマスコミと、彼らのような評論家たちが作り出した「時代の風潮」です。戦意発揚、皇軍の聖戦、鬼畜米英と、国全体が沸きかえっていた事実を、なぜ語らないのでしょう。そうすれば、「勝手に戦争をやめ降参したのは、正しく天皇と軍人政府・・」という意見が、出てくる余地がありません。

 「私個人としては、まず、大体に、アナーキズムが、」「やや理想に近い社会形態であると、考えている。」「共産主義社会も、今ある日本の社会形態よりも、ましな形態であるのは、分かりきっている。」

 187ページの『戦争論』からの、抜粋です。こんな思想を持つ彼が、何で愛国者であるのか、軽蔑します。どんな検討をすれば、「共産主義社会も、今ある日本の社会形態よりも、ましな形態であるのは、分かりきっている。」と、断言できるのか、これでは反日・左翼の害虫知識人と同じです。

 197ページには、次のように書いています。

 「私は思うに、最後の理想としては、子供は国家が育つべきものだ。」「それが理想的な、秩序の根底だと思っているのだ。」

 親の愛と家族の愛を知らない彼は、こういう馬鹿を言います。国家が子供を育てようと、親から引き剥がしましたが、ソ連も中国も失敗しています。理想どころか、彼らがやったのは、全体主義的画一教育で、無批判のロボットを育成しただけです。

 当時のソ連が、人類の理想郷を作っている素晴らしい国と信じ込み、安吾も、周囲の左翼思想家たちに影響されています。

 「戦争は終わった。」「我々に残された道は、建設のみである。」「昔ながらのものに復旧することを、正義としてはならないのだ。」「日本は他国を侵略し、その自由を踏みにじって、」「今日のウキ目を見たが、要するに世界が単一国家にならなければ、」「ゴタゴタは絶え間がない。」「民族の血の純潔だの、ケチな垣のあるうちは、」「人間は馬鹿になるばかりで、救われる時はない。」

 この単純な、愚かしい意見を読み、私は、彼に関するブログをやめる決意をいたしました。こういう理論の破綻した人物を称賛した、奥野健男氏の言葉を、最後に転記します。私の言葉で表現すれば、奥野氏も安吾も、二人して「暗愚」です。

 「処女作以来、安吾は生涯何ものにも拘束されない、」「奔馬天を征くが如き人生を送り、奇想天外の発想、」「大胆な方法を駆使した小説、評論を書き続けた。」「その精神の振動の烈しさ、振幅の巨大さは、」「私小説中心の、日本近代文学のちんまりした枠の中には、」「とうてい、収まりきるものではなかった。」

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孤立化する日本と馬野氏の予測

2020-07-26 14:12:41 | 徒然の記

 長雨が続き、洗濯物が溜まると、気持ちまで沈んできます。それがなんと、今日は朝から晴天です。青空が広がり、風が爽やかに吹き、庭木をなぎ倒す乱暴な強風はどこへ行ったのか。家内が洗濯機を回し、二人がかりで二階の物干し、裏庭の物干しと、あらゆる空間に洗濯物を広げました。

 爽やかな充実感を家内と共有し、自堕落な安吾を嘲笑しました。呑むことと書くことにしか興味がなく、掃除や洗濯について、彼は間違っても語りません。日常生活の中にある、こんな充実感や、喜びを知らないというのでは、私と意見の合うはずがありません。

 「生きがいを知らない、俗物め。」と、馬鹿にし合うのが関の山です。充実した気持ちのまま、7月20日の千葉日報を広げました。アメリカ、中国、ロシアが、日本を苦しめている記事が紙面を占有しています。

 そうなると、安吾の書評どころでなくなります。「温故知新」も大事ですが、やはり私は、現在の日本に心が奪われます。

 安吾は頭の隅に追いやられ、私が思い出したのは、先日読んだ馬野周二氏の、『嵌められた日本』です。30年前に氏が予測したことが、そのまま現実となっています。

 「来るべき世界の状況は、日本の孤児化であり、米ソ、そして中国に囲まれ、これらにいたぶられるという構図が、浮かび上がってくる。アメリカと中国は、根っこのところで結びついている。」

 千葉日報の記事は、中国、ロシア、米国です。大きな見出しが怒りに火をつけます。

 1. 中国・・・・「漁船侵入・阻止要求」「尖閣めぐり中国」「日本は即刻拒否」

 2. ロシア・・・「ロシア・憲法に割譲禁止」「狙いは、島抜き・平和条約」

 3. アメリカ・・「基地震源の感染と、日本政府」「地位協定特権、壁に」

 打ち合わせているのか、偶然が重なるのか、示し合わせたように、日本の弱みをついてきます。「遺憾」「遺憾」と、苦情なのか、泣き言なのか、痛くも痒くもない「遺憾砲」ばかり打ち、戦後74年間しのいできたツケが回ってきています。

 まず中国の傲慢さです。日本が領有している尖閣諸島を、自分の領土だと主張し、これまでは遠慮がちに、領海周辺を威嚇航行していましたが、今回は、日本の漁船を立ち入らせるなと脅迫しています。

 「この日本人の呑気さの底には、苛烈な民族、あるいは国際抗争を知らない、穏やかで正直な、人を疑うことのできない国民性がある。」「それは人間として、尊い性質だけれども、相手がそれを逆手に使い攻撃してくれば、ひとたまりもないもろく、弱いものなのだ。」

 馬野氏が著書の中で言い、警告を発していましたが。その通りのことを中国とロシアとアメリカがやっています。国を守る軍隊を再建しない限り、外国の不当な言いがかりは、無くなりません。

 自民党の中にいる本物の保守議員諸氏は、憲法改正に掛からねばなりません。反日・左翼の野党や、お花畑の国民の顔色を伺っていたら日本が消滅します。

 国を愛する学者や知識人は、息を潜めているだけですから、彼らをマスコミの土俵に乗せる努力から、開始すべきです。言いがかりをつけても、反撃する軍のある国に、敵対国は手出しをしません。口先で罵りますが、実力行使はしないのが、国際社会の手法です。

 ロシアを見てください。安倍総理の人の良さにつけ込み、プーチン氏がやりたい放題です。「前提抜きで、領土問題を話し合おう」と、突然公開の席で総理に語りかけ、期待を持たせ、その気にさせながら、「領土不割譲」を憲法に盛り込みました。違反した政治家には、刑事罰が科せられるという条文を、プーチン氏自身が作らせました。

 アメリカも似たようなものです。沖縄駐在の米軍では、「武漢コロナ」が威を奮っています。蔓延防止のため、「入国時検査」の徹底をと、玉城知事が要求していますが、沖縄だけの話ではありません。米国はブラジルやインドと並ぶ、「武漢コロナ」の大量蔓延国ですから、日本全国で厳しい入国検査が必要です。

 それが日米地位協定のため、軍兵士の検査権限がなく、米軍もまた、日本の要求を無視し、軍人とその家族の入出国は自由放任です。「武漢コロナ」は単なる風邪でなく、世界の国を揺るがせている「国防問題」です。日本を守る同盟国が、日本の崩壊に無神経というのなら、中国やロシアと変わらない無法国です。

 し自民党政府と役人たちは、「GO  TOトラベル」を見直すべきか、延期すべきか、そこにばかり集中しています。「GO  TOトラベル」など、私から見れば「GO  TOトラブル」でしかなく、二階氏と経団連の媚中派が、自分たちの利権で動いているに過ぎません。

 反日・左翼野党は、もともと日本のため、役立たずの党ですから、自民党の中にいる「国を思う」議員諸氏が頼りです。選挙で応援し続けますが、今一度、彼らの立ち位置を確認する必要があります。

  1. 日本の国民と領土を防衛するための、軍の再建。「憲法改正」

  2. 日本の歴史と伝統を守るための、皇室護持。「女系天皇阻止」

 自民党の議員諸氏には、保守系の学者、評論家が、意見表明のできる土俵づくりに、汗をかいて欲しいものです。国民に語りかけ、「お花畑」の住民を減らすには、テレビ、新聞、雑誌という、マスコミの土俵が不可欠です。

 ここまで述べて心が晴れましたので、安吾の著書の残りを読む気持ちになりました。洗濯物の話も、馬鹿にできません。

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散る日本 ( 19の短編と自分の物差し )

2020-07-25 13:18:23 | 徒然の記

 坂口安吾著『散る日本』(  昭和48年刊 角川文庫) です。19の短編が収められています。最初は、『FARCEについて』です。ファルスとは、茶番劇、道化芝居、軽喜劇という意味です。

 小説でなく、安吾の意見表明ですから、「論文」とでもいうのでしょうか。昭和7年26才、デビュー当時で、身体強健、野心満々、不健康なのは精神だけという時期の、作品です。分からないところは、文字を追うだけにし、分かるところを拾い読みました。

 と、ここまで述べて、71ページに飛びます。短編7つ目の『私は誰 ? 』です。昭和22年、41才の作品だと思います。

 「私は座談会は好きでない。」「その理由は、文学は語るものでないからだ。」「文学は書くものだ。」「座談会のみならず座談すること、友達と喋り合うこと、」「それすら私は好まない。」

 ・・(  省略  )・・ 「私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵とよく飲んだが、」「文学は酔っ払って語るもの、特にやっつけ合うものというのが、」「当時流行の風潮で、そういう飲み方を強要したのは河上で、」「私もいつからか、文学者とはそういうものかと考えた。」

 「小林秀雄が一番うるさい議論家で、次に河上、中島となると、」「好好爺、好好青年か、牧野信一だけ議論はダメで、」「酔っぱらうと自惚れ専門で、最も調子のかげんで、酔えないことの方が多い気分屋だから、」「そういう時は沈んでいる。」

 ここまで転記したところで、もう一度あの奥野健夫氏の「解説」を引用します。

「言うまでもないことだが、坂口安吾は、いわゆる私小説作家ではない。」「日常生活の体験とか、細々とした身辺雑記とか、」「めんめんと綴って、それを小説と称した、」「日本の狭い、閉鎖的な私小説作家とは、もっと隔たった場所にいた作家だった。」

 今読んでいるのは、安吾の文庫本の最後の一冊で、19編の短編のうちの、7つ目の『私は誰 ? 』です。7つとも、みな身辺雑記です。氏の言葉を信じ、数ある作品のうちで、希有な私小説を読んでいるとつい思わされました。しかし次の数字を見てください。

  1. 『ふるさとに寄する讃歌 』 収録短編11作品の内、10が私小説

  2. 『暗い青春・魔の退屈 』  収録短編10作品の内、10が私小説

  3. 『散る日本 』                  収録短編19作品の内、19が私小説

 私が奥野氏に聞きたいのは、安吾も私小説作家の仲間ではないのか、ということです。彼はこのようにして、作家仲間の話を面白おかしく叙述しますが、身辺雑記を綿々と綴っているのではないのかと、質問したくなります。

 「処女作以来、安吾は生涯何ものにも拘束されない、」「奔馬天を征くが如き人生を送り、奇想天外の発想、」「大胆な方法を駆使した小説、評論を書き続けた。」「その精神の振動の烈しさ、振幅の巨大さは、」「私小説中心の、日本近代文学のちんまりした枠の中には、」「とうてい、収まりきるものではなかった。」

 だから私は、「解説」を書く評論家を、不動産屋の広告書きと言います。私は、安吾が私小説作家の仲間でも別に構わないし、それで彼の評価が下がるとも考えていません。こうして一連の作品を読み、奥野氏の解説が納得できないだけでなく、なんとなく我慢ができなくなりました。

 安吾にしたって、見当違いの褒められ方をされ、不愉快であるに違いないと、本日最後の文庫本を手にし、それを確信しました。

 「私は自惚れを持っていた。」「自分の才能に自信を持っていた。」「今の世に受け入れられなくとも、歴史の中で生きるのだと言っていた。」「それはみんな嘘である。」「ほんとはそんなことは、信じていないのだ。」「けれども、そういうふうに言っていないと、生きているイワレがないみたいだから、」「そんなふうに言っているので、」

 ・・(  省略  )・・ 「私はいつも退屈だった。」「砂を噛むように虚しいばかり。」「いったい、俺は何者だろう。」「なんのために生きているのだろう。」「そういう自問は、もう問いの言葉ではない。」「自問自答が私の本性で、私の骨で、」「それが私という人間だった。」

 「私は今も、突き放しているのだ。」「いつも突き放している。」「どうにでも、なるがいい。」「私は知らない、と。」

 73ページの叙述です。安吾の真剣さと言いますか、そうしか生きられない人間の本音と言いますか、私は彼を理解したような気がいたします。

 「その精神の振動の烈しさ、振幅の巨大さは、」「私小説中心の、日本近代文学のちんまりした枠の中には、」「とうてい、収まりきるものではなかった。」

 しかしこの気持ちは、どう考えても、不動産屋の広告書きの奥野氏の解説と、重なりません。彼はただ生き、呻吟して書き続け、個人的な喜怒哀楽を、彼なりに突き詰め、ついには普遍的な何かを掴んだと、私ならそう解説します。

 私は奥野氏のように、わざとらしく褒めません。安吾の生き方と作品には、真剣なものがあり、時として煌く美しさを伝えますが、私の物差しに合いません。私は彼のように生きたいと思わず、息子たちにも、まして、可愛い孫たちに勧めたいと思いません。私は彼らに、言います。

 「いろいろな生き方を、知りなさい。」「知ることは大切です。」「しかし理解することと、称賛することは別です。」

 安吾の小説の教えは、私の中で生きています。反日左翼の活動家も、反日野党のことも、「武漢コロナ」で、右往左往している自民党の政治家のことも、私は理解しています。理解しても、決して称賛しない・・・これが大切なのです。大切な日本を取り戻すためには、色々なことを理解しなくてなりません。理解しても、称賛したり肯定したりせず、自分の物差しを守らなくてなりません。

 私の小説の読み方、安吾の作品への向かい方は、もしかすると間違っているのかもしれませんが、自分の物差しで、このまま読み続けようと思います。

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暗い青春・魔の退屈 - 5 ( 歴史の事実を教えてくれる師 )

2020-07-23 19:56:31 | 徒然の記

 『暗い青春・魔の退屈』を、読み終えました。作品の順番を、発表された年代ごとに、並び替えてみますと、私の知らない世界が見えてきます。朝日新聞や、反日・左翼の人々がいう、「軍国主義に抑圧された時代」「個人の自由が失われた時代」についてです。

  1.   『古 都』     ・・ 昭和17年、安吾36才の時発表した作品

    2.  『居酒屋の聖人』  ・・ 昭和17年、安吾36才の時発表した作品

  3.   『ぐうたら戦記』  ・・ 昭和21年、安吾40才の時発表した作品

    4.  『魔の退屈』    ・・ 昭和21年、安吾40才の時発表した作品

  5   『三十才』     ・・ 昭和23年、安吾42才の時発表した作品

    6.  『死の影』     ・・ 昭和23年、安吾42才の時発表した作品

  昭和17年に、安吾が36才の時発表した『古都』や、『居酒屋の聖人』を読んでいますと、違う日本が見えます。反日・左翼の人間たちが、いかにも暗い時代であったかのごとく語りますが、果たしてそうだったのかという疑問です。戦争も平和も、受け止める個人の主観に、左右されるのでないのかと、そんな気がしてきました。

 安吾は、平野謙、荒正人、佐々木基一、中野重治、窪川鶴次郎という共産党親派の作家たちと、親しくしていました。共産主義は嫌いだと言いながら、彼らと酒を飲み談笑し、口論したり花街に繰り出したり、特高警察も目をつけていました。

 206ページの『魔の退屈』から、冒頭の部分を転記します。

 「戦争中、私ぐらいだらしのない男は、めったにいなかったと思う。」「今度は来るか、今度はと、赤い紙切れを覚悟していたが、」「とうとうそれも来ず、徴用令も出頭命令というのはきたけれども、」「二、三たずねられただけで、他の人たちに比べると、驚くほどあっさりと、」「おまけに、どうもご苦労様でしたと、」「バカ丁寧に送り出されて終わりであった。」

 言うまでもなく、赤紙というのは召集令状のことですが、その他にも当時は、徴用令や出頭命令というのがあったようです。詳しく知りませんので、そのまま安吾の文章を写します。

 「私は戦争中は、天命に任せてなんでも勝手にしろと、」「俺は知らんと言う主義であったから、徴用出頭命令と言う時も、勝手にするがいいや何でもおっしゃる通りに、」・・(  省略  )・・ 「私はそういうジタバタはしなかった。」

 「けれども役人は、私をよほど無能と言うよりも、他の徴用工に有害なる人物と、」「考えた様子で、小説家というものは怠け者で、規則に服さない無頼漢だと定評があるから、」「恐れをなしたのだろうと思う、」・・(  省略  )・・ 「私が天命主義で、ちっともジタバタしたようすがないので、」「薄気味悪く思ったらしいところがあった。」

 結局彼には、召集令状が来ることなく、軍隊へ行かずに済みました。思想犯を取り締まると特高とか、不審者を密告する隣組とか、確かにあったとしても、安吾のような人物はなんの咎も受けていません。かえって特高が、遠慮して語りかけたりする描写があります。

 よほど目に余る行動をしない限り、特高警察も、無闇に彼らを捕まえず、逆に敬遠していたのでないかと、そんな気がします。

 話が飛びますが、7月18日の千葉日報に、三島由紀夫の特集記事があります。三島の自決の意味を探ろうと、保阪正康氏が意見を寄せています。

 「戦前は、軍部や天皇制に振り回され、」「戦後は米国に民主主義を押し込まれた。」と、氏が言っていますが、安吾はそんなものに振り回されていません。ノンフィクション作家と呼ばれ、マスコミで重宝されていますが、保守なのか、反日・左翼なのか、曖昧な主張で人々を惑わせる様子は、田原総一郎氏にそっくりです。

 「三島の主張は、時計の針を逆に戻すようなものだが、」「その憂には、若干共鳴できる。」と、相変わらずいい加減な意見を述べています。私は、安吾の「解説」を書いた奥野健男氏以上に、氏を軽蔑しています。有識者などと呼ばれる、こういう要領の良い人間が、戦前の日本を、紋切り型の言葉で語り、歴史を歪めていくと、それを知っただけでも、安吾の小説を読んだ価値があります。

 昭和17年に、『古都』や、『居酒屋の聖人』が発表されていることを思えば、特高警察も戦後の左翼が言うほどには、厳しい取り締まりを、していなかったのではないでしょうか。

 現在の「武漢コロナ」にしても、3、40年経って思い出話になった時、その記憶は人様々なはずです。神経質な人間には、たまらなく酷い日々だったとなるでしょうし、パチンコ屋へ行く人間には、なんでもない日々でしょうし、私のような者には、辛いような、不便なような、有難いような、どちらともつかない不思議な体験になっています。

 書評をするつもりでしたが、千葉日報の記事を見て、話が逸れてしまいました。明日からは、安吾の文庫本の最後の一冊を読みます。同じ角川書店の『散る日本』です。慌てなくとも、安吾の書評はまだやれますけれど、私が戸惑うのは、肝心の安吾の評価です。

  「内容はないが、文章は上手い。」という側から、「歴史の事実を教えてくれる師」となるし、徹底した個人主義には敬意を評したくなるし、手に負えない人物です。

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暗い青春・魔の退屈 - 4 ( 時も場所も考えない「芸術至上主義」 )

2020-07-22 14:36:02 | 徒然の記

 『石の思い』 『二十一』 『暗い青春』 『二十七才』 『いずこへ』を読み終え、これから『三十才』を読もうとしています。128ページです。

 一度使うのをやめた言葉を、再び持ち出します。

「中身は無いが、文才はある。」・・『ふるさとに寄する讃歌』の読後に、書評として使いましたが、残念ながら、安吾に送る言葉はこれしかないようです。巻末の安吾年表を見ますと、次のことが確認できます。

    1.   『いずこへ』  ・・ 昭和21年、安吾40才の時発表した作品

    2.  『二十七才』  ・・ 昭和22年、安吾41才の時発表した作品

 昭和21年といえば、敗戦の翌年です。焦土と化した日本で、多くの国民が明日の生活のため、家族のためと、死に物狂いで頑張っていた時です。シベリアの炭鉱で働かされていた父が、運良く戻り、父と母と私の三人家族が、再出発した年でもあります。当時4才でしたから、おぼろげながら、今でもその時の情景や雰囲気が心に残っています。

 そんな時に、こんな私小説を書くなど、一体どんな神経をしているのかと、怒りを覚えました。作品の書かれた時代と安吾の年齢を考えず、単なる小説として読めば、「中身は無いが、文才はある。」・・という書評になります。

 書いた時代と安吾の年齢を考えますと、「何が無頼派だ。単なるぐうたら人間の、女狂いの話ではないか。」と、軽蔑の念さえ生じてきます。

 「以上の青春記により、安吾が常に自己の内部と戦い、」「求道僧のごとく苦行するとともに、」「たちまち破壊僧のごとく、自己破壊のデカダンスに自らを追いやる。」「誠に純粋で、かつ巨大な生き方が、読者に迫ってくるに違いない。」

 奥野健男氏の「解説」を読み返し、やっぱり不動産屋の広告書きだったかと、氏に対しても怒りがこみ上げてきます。芸術至上主義と言えば聞こえが良いのでしょうが、私のような庶民からみれば、時も場所も考えない「芸術至上主義」など、一顧の価値もありません。

 日本中が汗を流し、親のため子のため、兄弟縁者のためと、泣き言も言わず、身を粉に働いている時に、取っ替え引っ替え女を作り、温泉旅行をし、浪費を繰り返し、自己嫌悪に苛まれ、苦悶する安吾が、なんで求道僧と評されるのか、奥野氏の常識を疑います。

 「君の姿勢がまちがっている。芸術というものは、世間の常識などを超えたところにある。」「凡人の常識で、測れないところに、価値がある。」

 私に向けられる彼らの言葉は、どうせ、こんなものでしょう。私は強いて、反対しません。彼らの意見ですから、自由に言えばいいのです。同様に、私は私の物差しで、安吾の不埒な生活態度を批判します。日本中の人間が、こんな生き方をしたら、とんでもない社会が出現します。なりっこないし、少数派だから、奥野氏のような評論家が、わかったような顔でほめそやすのでしょうが、氏は自分の息子や娘が、安吾の生き方を真似たとき、大いに結構と、賛成するのでしょうか。

 私の物差しは、単純です。

「自分の子供たちに勧められないような生き方は、無責任に称賛してはならない。」

 芸術とは縁なき衆生の、ばかな常識と、奥野氏が批判しても、一向に構いません。庶民の暮らしを破壊し、不快にするものを、私の物差しは芸術として認めません。愛知トリエンナーレで、日本人の心を傷つける展示物を並べ、芸術と強弁した者たちと、奥野氏の姿勢には共通する愚かさがあります。

 共産主義を否定した安吾は評価しますが、自堕落な生き方をする安吾は、評価しません。

 「安吾に対する先入観を、ちょっぴり見直しました。(ちょっぴり、だけですが、、、)」と、こんなコメントを寄せられた方がいますが、今の気持ちは、そっくり同じです。

 ちょっぴり見直し、大いに否定し、「中身は無いが、文才はある。」氏の作品を、私は読み続けます。批判するのでなく、味わうことを優先すると、自分に言い聞かせながら・・・

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暗い青春・魔の退屈 - 3 ( 奥野健男氏の賛辞 )

2020-07-21 18:47:34 | 徒然の記

 記録的な豪雨で、各地に大きな被害が出ています。日本だけかと思っていましたら、隣の中国ではもっと大きな被害が出ており、三峡ダムの決壊までささやかれていました。

 世界一のダムで、流域は中国の4分1を占める経済圏だと言います。世界中のトップ企業が、ということは日本企業も進出しているということです。万一ダムが決壊すると、企業が壊滅的な被害を受け、「武漢コロナ」以上の経済的ダメージになるのだそうです。流域には、コロナで有名になった武漢もあり、最終地点には上海があります。

 また、本日の動画で知りましたが、チャンネル桜の水島社長と、我那覇真子さんが対立を深め、互いが非難しあっていました。いわば保守同士の、不毛な争いです。

 千葉日報の記事ではまだ、沢山ニュースがありますが、私はこうした日々の重大事をよそに、本日も坂口安吾の書評をします。70を超えた私にしてみれば、三峡ダムの崩壊も、長江経済圏の大被害も、水島氏と我那覇さんの対立も、大小がありません。みんなひっくるめて日本のことで、どれも大切な案件です。

 他の人は、現在のホットな話題を優先して考え、この時期、安吾について述べるのは私くらいでしょうから、自分の役目を果たします。本日は、評論家奥野健男氏の、歯の浮くような賛辞の紹介です。もともと私は、本の巻末に「解説」を書く評論家に、好感を持っていません。売り上げに協力するため、針小棒大に褒めますから、信用しないことにしています。「駅から歩いて、10分」と、不動産屋の広告に書いてあっても、実際に歩くと30分以上かかったりします。それと同じで、評論家の「解説」は、誇大広告の見本みたいなものです。

 「言うまでもないことだが、坂口安吾は、いわゆる私小説作家ではない。」「日常生活の体験とか、細々とした身辺雑記とか、」「めんめんと綴って、それを小説と称した、」「日本の狭い、閉鎖的な私小説作家とは、もっと隔たった場所にいた作家だった。」

 この言葉からしてもう、大ウソです。7月17日以来私が読んでいるのは、安吾の身辺雑記ではありませんか。

 「処女作以来、安吾は生涯何ものにも拘束されない、」「奔馬天を征くが如き人生を送り、奇想天外の発想、」「大胆な方法を駆使した小説、評論を書き続けた。」「その精神の振動の烈しさ、振幅の巨大さは、」「私小説中心の、日本近代文学のちんまりした枠の中には、」「とうてい、収まりきるものではなかった。」

 ここまで褒め上げてどうするのだろうと、安吾本人でないのに恥ずかしくなり、奥野氏とはどう言う人物なのかと、つい調べたくなります。

 「奥野は、大正15年東京に生まれ、平成9年72才で没」「文芸評論家、化学技術者、多摩美術大学名誉教授」

「昭和22年、東京工業大学卒。東芝に入社し、トランジスタの開発に取り組む」「大河内記念技術賞、科学技術庁長官奨励賞、特許庁長官賞を受賞。」

「昭和33年に、吉本隆明らと批評活動を行なう。」「プロレタリア文学以来の観念を厳しく批判し、民主主義文学を否定したことで、文学論争の主役となった。」

「多摩美大では、当初自然科学の講座を担当していたが、『太宰治論』により、」「文芸評論家として遇されていたため、文学の講座に集中する。」「三島由紀夫との親交があり、彼の自決の翌日の授業には、」「教室からあふれんばかりの学生が、押し寄せたという。」

 名前は時々聞いていましたが、多才な学者だと理解いたしました。解説のおかげで新しい事実を知りましたので、学徒の自分に戻り、感謝することとしました。

 「安吾はふだん自分の父や母や、家や生い立ちや日常生活を、そのまま語ることを自らに禁じ、」「拒否しまた嫌悪してきた作家であるだけに、」「自伝的小説を書くということは、彼にとって、」「ほとんどタブーを破ることに等しい、稀有なことであった。」

 つまり私は、その稀有な作品を読んでいるとこになります。

「そのような安吾であるのに、どうしても、自分の27才と30才を書きたかったのだ。」「青春期の恋人である、矢田世津子との出会いと別れを、」「そのまま正直に、書き残さずにいられなかった。」

 私が読んでいる一連の短編は、いずれ一冊の長編小説とする計画だったと、言います。

「しかし長編小説として完成せず、一冊にまとめられることがないままに、」「坂口安吾は、慌ただしくこの世を去ってしまった。」

 氏はその短編群を、次のように並べます。

  『風と光と二十の私』 『二十一』 『暗い青春』 『青い絨毯』 『二十七才』

  『いずこへ』  『三十才』 『死と影』『古都』 『居酒屋の聖人』『石の思い』 

  『魔の退屈』 『ぐうたら戦記』

 知らないことを教えてくれる人は、私の師ですから、私は謙虚になります。そうなれば、まさにこの短編群は、安吾の遺書となりますから、静かに読もうと思います。反日・左翼の人物であっても( 吉田清治、植村隆、本多勝一以外 は ) 、故人となれば敬意を表するのですから、共産主義嫌いの安吾を疎かにしません。しばらく余計なお喋りをせず、氏の作品を味わうことといたします。

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暗い青春・魔の退屈 -2 ( 革命と武力の手段を嫌う、安吾 )

2020-07-20 22:08:50 | 徒然の記

 『石の思い』の中から、一節を紹介します。続きの文章でなく、私が拾い出して、並べたものです。

 「中学校をどうしても休んで、海の松林で、ひっくり返って暮らさねばならなくなってから、」「私のふるさとの家は、空と、海と、松林であった。」「そして吹く風であり、風の音であった。」

 「私は今日もなお、何より海が好きだ。」「単調な砂浜が好きだ。」「海岸に寝転んで海と空を見ていると、」「私は一日中ねころんでいても、何か心が満たされている。」「それは少年の頃、否応なく心に植え付けられた私の心であり、」「ふるさとの情であったから。」

 「私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでいた。」「ふるさとの母をよんでいた。」「そして私は、今もなおよび続けている。」「そして私は今もなお、自分の家を恐れる。」

 ひねくれ者で、乱暴な少年だった彼は、父だけでなく、母にも愛されず、学校を怠け、行く場所は、浜辺の松林しかありませんでした。この叙述を読んでいますと、彼は人間嫌いでなく、人の優しさを求め、愛に飢えている少年であったような気がします。思いの激しさのため、不機嫌になり、自己嫌悪に陥り、悪態をついているのだと、そんな気がしてなりません。

 28ページ、『石の思い』から抜粋しました。ちなみに石とは、感情がない石のような人間という意味で、自分の姿にたとえています。

 次は『二十一(才)』という短編で、一気に読みましたが、省略します。神経衰弱になりかけた21才の彼が、病を克服するため、わざわざ精神病院にいる友を訪ねたり、夏休みには実家へ戻ったり、そんな日々が描かれています。真面目に取り上げていると、キリがないほど、中身があります。

 短編の題名に、『二十一(才)』と、(才)を追加したのは私です。別途『二十七才』と『三十才』の作品があり、ここにはちゃんと " 才 " の字があるのに、『二十一』にだけ " 才 " がないため、気になって追加しました。深い考えがあってそうしたのか、適当につけた題名なのか、不思議な安吾の精神を見ます。

 その次が、『暗い青春』です。41才の時の作品ですが、描かれている主人公の安吾は、24、5才です。珍しい話なので、叙述をそのまま転記します。

 「全く暗い家だった。」「いつも日当たりがいいくせに。」「どうして、あんなに暗かったのだろう。」「それは芥川龍之介の家だった。」「私があの家へ行くようになったのは、あるじの自殺後に三年を過ぎていたが、」「あるじの苦悶がまだ染みついているように、暗かった。」「私はいつもその暗さを呪い、死を蔑み、」「そしてあるじを憎んでいた。」

 「私は、生きている芥川龍之介を知らなかった。」「私がこの家を訪れたのは、同人雑誌を出したとき、」「同人の一人に芥川の甥の葛巻義敏がいて、彼と私が編集をやり、」「芥川家を編集室にしていたからであった。」「葛巻は芥川家に寄宿し、芥川全集の出版など、」「もっぱら彼が、芥川家を代表してやっていたのである。」

 東京へ下宿する学生時代にも、郷里から婆やがついて来て、身の回りの世話をするというのですから、彼は貧しいと言っても、私から見れば、大家の坊ちゃんです。文豪の名の高い芥川家に出入りしても、特別の感慨がなく、むしろ無遠慮な批評をしており、こんなところが面白いと感じました。芥川家の遺族には、面白くなかったろうと思います。

 「私の青春は暗かった。」「私は死について考えざるを得なかったが、直接死について思うことが、」「私の青春を暗くしていたのでは、なかったはずだ。」「青春自体が死の翳 (かげ) だから。」

 「青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着している時期なのだ。」

 「私は野心に燃えていた。」「肉体は健康だった。」「私の野性は、いつも友人たちを悩ましたものだ。」「なぜなら、友人たちはおおむね病弱で、ひ弱であったから。」

 誰もが、若い頃の自分に思い当たる言葉ですから、こういうところでファンになるのかもしれません。ファンにはなりませんが、私の心に残る叙述があります。

 「戦争中のことであったが、私は平野謙にこう聞かれたことがあった。」「青春期に、左翼運動から思想の動揺を受けなかったか、というのだ。」

 彼は受けなかったと返事をし、留置所に入れられた葛巻や、中野重治、窪川鶴次郎など左傾作家との話を披露します。

 「私は共産主義は嫌いであった。」「彼らは自らの絶対、自らの永遠、自らの心理を信じているからであった。」

 左翼思想を嫌悪する私は、どこかに共通するものがないかと、安吾の言葉に注目しました。

 「我々の一生は短いものだ。」「過去には長い歴史があったが、未来には、その過去より更に長い時間がある。」「無限の未来に、絶対の制度を押し付けるなどとは、無限なる時間と、無限なる進化に対し、」「冒涜ではないか。」

 「政治はただ現実の欠陥を、修正する実際の施策で足りる。」「政治が正義であるために、必要欠くべからざる根底の一事は、」「ただ各人の自由の確立ということだけだ。」

 家族の愛を知らず、国への愛も知らない安吾ですが、左翼全体主義への嫌悪が共通していました。違った観点から考察しても、左翼思想の欠陥には到達するのだと、教えられました。

 「私は革命、武力の手段を嫌う。」「革命に訴えても実現されねばならぬことは、ただ一つ、」「自由の確立ということだけ。」

 安吾の言葉を、自らの絶対を盲信する、中国共産党政府に伝えたくなり、無頼作家という呼び名を、訂正したくなりました。次回は評論家奥野健男氏の、歯の浮くような賛辞を紹介いたします。

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暗い青春・魔の退屈

2020-07-20 00:32:41 | 徒然の記

 本題と関係のない話ですが、私にとっては大事なことなので、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々へ、予め説明させて頂きます。

 私がブログで、人名を呼び捨てにするのは、反日・左翼の人間で、それも誰彼でなく、限定しています。本多勝一、吉田清治、植村隆、時々、田原総一郎です。

 坂口安吾をブログの中で呼び捨てにしているため、同様の扱いをしていると誤解されてはいけません。作家であれ画家であれ、音楽家であれ、芸術家については、歴史で評価の定まった故人は、呼び捨てにする方が、敬意を表したことになるので、そうしています。

 夏目漱石は夏目漱石であり、夏目氏とか、夏目さんとか、世間でもそんなおかしな呼び方をしません。鴎外は鴎外であり、ミレーもゴッホも、そのまま呼び捨てにするのが正しいのです。だから私が坂口安吾を呼び捨てにするのは、反日・左翼の害虫をそうするのとは違うのだと、どうか、理解して頂きたいと思います。

 ということで私は今、坂口安吾著『暗い青春・魔の退屈』( 昭和45年刊 角川文庫 ) を、読んでいます。

 11の短編が収められていますが、巻末の年表を見ると、何才の時の作品であるかが分かります。目次の順番と異なりますので、参考のため、時系列に並べてみました。

 36才・・『古都』 『居酒屋の聖人』

 37才・・『二十一(才)』

 40才・・『石の思い』 『いずこへ』 『魔の退屈』 『ぐうたら戦記』

 41才・・『暗い青春』 『二十七才』

 42才・・『死と影』  『三十才』

 並べ替えをしますと、作品の目次が、なぜ時系列に並べられていないのか、本の表題に選んだ短編が、なぜ最初に掲載されないのかなどと、余計な詮索がしたくなります。出版社の都合なのか、編集者の好みなのか、何かの魂胆があるはずですが、知ったところで、私には何の役にも立ちません。

 現在72ページで、『石の思い』『二十一(才)』『暗い青春』を読み終え、『二十七才』の途中です。『石の思い』は、少年時代の回想で、両親と兄弟との暮らしが語られています。屈折した彼の思考が、どのようにして生まれたのかが、分かる気がします。明るいもの、楽しいものはどこにもありませんが、息もつかず読みました。

 『二十一(才)』も、同じ回想ものですが、同様に貪り読みました。『石の思い』は40才の時、『二十一(才)』は、37才の時の作品です。自分のことを客観的に書くには、才能のある作家でも、このくらいの時間の経過が必要なのだと、教えられました。

 前回読んだ『ふるさとに寄する讃歌』は、安吾が25才の時作品でしたが、10年、20年も経つと、同列に論じられないと知りました。同じ喜怒哀楽を叙述しても、人間性の厚みというか、深みというのか、よく分かりませんが、不思議な味があります。適切な例になるのか、自信がありませんが、私は井伏鱒二の作品が好きです。辛いことや悲しいことを述べているのに、その文章には、どことなくユーモアがあり、読者を楽しませます。

 懸命に悲惨さを伝えようと、強い言葉を並べるのでなく、悲しみや苦しみをオブラートに包んでいるような、とぼけた表現で心を和らげる文章です。いい加減に書きなぐった文章でなく、吟味推敲した結果の文なので、それはやはり優れた作家にしか出せない味です。

 「私の父は私の十八の年に死んだのであるから、父と子の交渉が相当あって良いはずなのだが、」「何もない。」「私は十三人もある兄弟 ( もっとも妾の子もある ) の末男で、」「下に妹が一人あるだけ、父とは全く年齢が違う。」

 『石の思い』の書き出しの部分ですが、参考のため割愛して、転記します。

「私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、」「十遍ぐらい代議士に当選して・・・・(  割愛)」「しかしこういう人物は、極度に多忙なのであろう。」「家にいるなどということは滅多にない。」

 乾いた文章で、自分と父親のことを語っています。

 「家にいる時は、書斎にこもったきり顔を出すことがなく、」「私が父を見るのは、墨をすらされる時だけであった。」「女中が旦那様がお呼びですと言って、私を呼びにくる。」「用件はわかっているのだ。」「墨をするのに決まっている。」

 「父はニコリともしない。」「こぼしたりすると、いらいら怒るだけである。」「私はただ癪に触っていただけだ。」「女中がたくさんいるのに、何のために私が墨をすらなくてならないのか。」

 「その父とは、私に墨を擦らせる以外に、何の交渉関係もない他人であり、」「そのほかの場所では、年中顔を見るということもなかった。」「だから私は、父の愛などは何も知らないのだ。」「父のない子供は、むしろ父の愛について考えるのであろうが、」「私には父があり、その父と一ヶ月に一度くらい呼ばれて、」「墨をする関係にあり、仏頂面を見て、いらいら何か言われて、」「腹を立てて引き上げてくるだけで、父の愛などと言えば、」「私にはおよそ滑稽な、無関係なことだった。」

 「そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。」「威張りくさった奴だと思った。」「そしてともかく父だから、それだけは仕方がなかろうと、」「考えていただけである。」

 安吾以外の人間が書けば、こうはいきません。怒りや悲しみや恨み言が述べられ、不幸な暮らしが綴られるはずです。そうしてもおかしくないほど、無残な少年の姿です。父親だけでなく、自分さえも突き放し、何でもないように書いていますが、読者は却って、安吾の不幸を強く感じます。技巧と言うより、彼自身の人間性の一部となった文章道でないのかと、味わいたくなります。

 今度は前回のように、「中身はないが、文才がある。」などと、偉そうなことが言えなくなりました。無頼派の作家は、私をどんな世界へ連れて行こうとするのか、少し楽しみになってきました。夜が更けましたので、今夜はここで一区切りです。

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