参議院選挙が近づいている。もしかすると、衆参同一選挙になるのかもしれない、という噂もある。
大切な一票を、愚かな反日の政治家や、国を裏切って恥じない政治家に、投票しないようにと心を引き締める。最近は、戦後の日本史につき、今まで知られていなかった事実が、沢山明らかになりつつある。
にもかかわらず、いまだに敗戦時の混乱した思考のまま、日本を憎み続ける人間がいる。先日、その見本みたいな、情けないネットの写真をみた。熊本の震災現場で、被災者のため、食事を拵えている自衛隊員に向かって、横断幕を広げている者たちだ。広げている横断幕に書かれた文字に、私は言葉を失った。
「カレーライスは 住民の手で」「迷彩服は 学校に来ないで」
高齢の男性と、中年の女性と若い男の三人が、横断幕を手にした写真だった。東日本大震災の時も、自衛隊員は規律のある活動で、復興に献身した。亡くなった被災者に手を合わせ、老人や子供には率先して手を伸べ、沢山の人々に感謝された。
それなのに、熊本では、こんな横断幕で自衛隊を迎える人間がいた。これが、災害現場で働く自衛隊員に、読ませる言葉なのか。災害に苦しむ被災者を横目にしながら、政治的主張を述べるこの無神経さ・・。
先日、オバマ大統領の広島訪問に際し、なぜ謝罪を求めないかという質問に対して、ある人物が答えていた。「日本が仕掛けた戦争だから、謝れと言えない。」
彼の理屈では、戦争の責任はすべて日本にある。日本軍は、全員が戦争犯罪者で、世界に向かい、未来永劫謝り続けなくてならない。こういう人間たちは、長年マスコミの報道に流されるまま、自分で何も考えず、漫然と日を過ごした者に違いない。
私は今日、備忘録としているノートを、何気なく開き、ある言葉をしみじみと読み返した。一方的に死を宣告され、弁明も許されず、無念の死を受け入れた軍人たち。ここには、私の思想の原点となる事実がある。ヘイトの横断幕を掲げたり、戦争は日本が仕掛けたと信じているような、クズのような人間を相手にせず、自分自身に語りかけるため、ノートの言葉をブログに転記する。
山下大将にしても本間中将にしても、マッカーサーの復讐心から死刑を執行されたというのは、今日では知る人ぞ知る事実である。大激戦となり、互いに多数の戦死者を出した奉天会戦で、乃木大将は敗戦の敵将ステッセルを武人として遇した。
それに比べれば、マッカーサーのやったことは、軍人の鏡にもならない、卑劣な個人的復讐である。書き写そうとするのは、本間中将を裁くフィリピンの裁判所で、証人として想いを述べたご令室の言葉だ。無駄な弁護や言い訳をせず、凛として述べられた勇気ある言葉に、私は涙を誘われる。
「私は、本間の妻たることを誇りにしています。」「わたしは夫、本間に感謝しています。」「娘も、本間のような男に嫁がせたいと思っています。」「息子には、忠臣であるお父さんのようになれと、教えます。」「わたしが本間に関して証言することは、ただそれだけです。」
今一つは、シンガポールのチャンギ刑務所で処刑された、馬杉一雄中佐の辞世の歌だ。妻に先立たれた中佐が、祖国で自分を待つ三人の子を思う歌だ。死後に発見されたものだという。
笑ふなよ 焼け野の雉子(きぎす)夜の鶴
我が子思えば落つる涙を
今日の私たちの暮らしは、こうした人々の尊い犠牲の上に成り立っている。正しい歴史の事実など、知らなくていい。正しいか正しくないか、そんなものは時の権力者が恣意的に決めるものだ。私たちはただ、「沢山の事実」を知れば良い。集積した事実を眺めながら、自分の心で判断すればいいのだ。
正しい歴史認識とか、正しい歴史教科書とか、そんな言葉は、恥知らずな隣国に任せておけば良い。隣国になびく愚かな日本人は、軽蔑するしかない。
「自分の生まれ育った国を、憎んだり、軽蔑したりしかできない者は、人間のクズだ。」「世界のどこの国へ行っても、人は祖国を大切にしている。」・・・・・、これが私の根っこにある思いだ。
深い考えもなくマスコミに流され、民主党に一票を入れ、国の土台を崩壊させた苦い経験がある。それ以前には、反日の朝日新聞を信じ、亡国の記事の羅列とも知らず定期購読した失敗もある。選挙の一票は「日本を大切にする政治家」へ入れると、自分の信念が不動であることを確認し、来たる選挙に備えたい。
無縁な他人には、詰まらない話だろうが、私はどこまでも大真面目だ。