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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

一票の重さ

2016-05-30 21:40:06 | 徒然の記

 参議院選挙が近づいている。もしかすると、衆参同一選挙になるのかもしれない、という噂もある。

 大切な一票を、愚かな反日の政治家や、国を裏切って恥じない政治家に、投票しないようにと心を引き締める。最近は、戦後の日本史につき、今まで知られていなかった事実が、沢山明らかになりつつある。

 にもかかわらず、いまだに敗戦時の混乱した思考のまま、日本を憎み続ける人間がいる。先日、その見本みたいな、情けないネットの写真をみた。熊本の震災現場で、被災者のため、食事を拵えている自衛隊員に向かって、横断幕を広げている者たちだ。広げている横断幕に書かれた文字に、私は言葉を失った。

 「カレーライスは 住民の手で」「迷彩服は 学校に来ないで」

高齢の男性と、中年の女性と若い男の三人が、横断幕を手にした写真だった。東日本大震災の時も、自衛隊員は規律のある活動で、復興に献身した。亡くなった被災者に手を合わせ、老人や子供には率先して手を伸べ、沢山の人々に感謝された。

 それなのに、熊本では、こんな横断幕で自衛隊を迎える人間がいた。これが、災害現場で働く自衛隊員に、読ませる言葉なのか。災害に苦しむ被災者を横目にしながら、政治的主張を述べるこの無神経さ・・。

 先日、オバマ大統領の広島訪問に際し、なぜ謝罪を求めないかという質問に対して、ある人物が答えていた。「日本が仕掛けた戦争だから、謝れと言えない。」

 彼の理屈では、戦争の責任はすべて日本にある。日本軍は、全員が戦争犯罪者で、世界に向かい、未来永劫謝り続けなくてならない。こういう人間たちは、長年マスコミの報道に流されるまま、自分で何も考えず、漫然と日を過ごした者に違いない。

 私は今日、備忘録としているノートを、何気なく開き、ある言葉をしみじみと読み返した。一方的に死を宣告され、弁明も許されず、無念の死を受け入れた軍人たち。ここには、私の思想の原点となる事実がある。ヘイトの横断幕を掲げたり、戦争は日本が仕掛けたと信じているような、クズのような人間を相手にせず、自分自身に語りかけるため、ノートの言葉をブログに転記する。

 山下大将にしても本間中将にしても、マッカーサーの復讐心から死刑を執行されたというのは、今日では知る人ぞ知る事実である。大激戦となり、互いに多数の戦死者を出した奉天会戦で、乃木大将は敗戦の敵将ステッセルを武人として遇した。

 それに比べれば、マッカーサーのやったことは、軍人の鏡にもならない、卑劣な個人的復讐である。書き写そうとするのは、本間中将を裁くフィリピンの裁判所で、証人として想いを述べたご令室の言葉だ。無駄な弁護や言い訳をせず、凛として述べられた勇気ある言葉に、私は涙を誘われる。

「私は、本間の妻たることを誇りにしています。」「わたしは夫、本間に感謝しています。」「娘も、本間のような男に嫁がせたいと思っています。」「息子には、忠臣であるお父さんのようになれと、教えます。」「わたしが本間に関して証言することは、ただそれだけです。」

 今一つは、シンガポールのチャンギ刑務所で処刑された、馬杉一雄中佐の辞世の歌だ。妻に先立たれた中佐が、祖国で自分を待つ三人の子を思う歌だ。死後に発見されたものだという。

 笑ふなよ 焼け野の雉子(きぎす)夜の鶴

  我が子思えば落つる涙を

 今日の私たちの暮らしは、こうした人々の尊い犠牲の上に成り立っている。正しい歴史の事実など、知らなくていい。正しいか正しくないか、そんなものは時の権力者が恣意的に決めるものだ。私たちはただ、「沢山の事実」を知れば良い。集積した事実を眺めながら、自分の心で判断すればいいのだ。

 正しい歴史認識とか、正しい歴史教科書とか、そんな言葉は、恥知らずな隣国に任せておけば良い。隣国になびく愚かな日本人は、軽蔑するしかない。

「自分の生まれ育った国を、憎んだり、軽蔑したりしかできない者は、人間のクズだ。」「世界のどこの国へ行っても、人は祖国を大切にしている。」・・・・・、これが私の根っこにある思いだ。

 深い考えもなくマスコミに流され、民主党に一票を入れ、国の土台を崩壊させた苦い経験がある。それ以前には、反日の朝日新聞を信じ、亡国の記事の羅列とも知らず定期購読した失敗もある。選挙の一票は「日本を大切にする政治家」へ入れると、自分の信念が不動であることを確認し、来たる選挙に備えたい。

 無縁な他人には、詰まらない話だろうが、私はどこまでも大真面目だ。

 

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安部総理とオバマ大統領

2016-05-27 23:50:41 | 徒然の記

 オバマ大統領と安部総理の、広島における献花の様子をテレビで見た。

 お辞儀をしなかったけれど、大統領はじっと目を閉じ黙祷していた。総理は献花後に、深く頭を下げていた。いずれの指導者も、万感の思いで広島の犠牲者に向かって哀悼の意を表していた。

 国内での反対者だけでなく、中国や韓国が難癖をつけている中で、オバマ氏は広島へやって来た。口先だけの理想主義者と批判してきた自分を、反省した。退任数ヶ月前の大統領だとしても、広島でスピーチをする勇気のある姿に感銘を覚えた。

 安部総理についても、苦言は多々あるけれど、国の指導者として敬意を表した。決断したのはオバマ氏だが、広島訪問を働きかけたのは安部氏だ。歴史的な両国の歩み寄りの場になったと、喜びすら感じつつテレビの画面を眺めた。

 思いがけず感激させられたのは、迎えた被爆者の方たちの対応だった。「謝罪より何より、来てもらったということの意味が大きいのです。」「原爆ドームを見て、核廃絶を訴えて、被爆者とも言葉を交わされた。」「広島から、世界へ向かって、核廃絶を大統領が訴えて下さった。」

 謝罪しなければ来なくて良いという意見もあった。その気持ちも十分わかるが、それでも私は、オバマ氏に感謝する被爆者の言葉に胸が熱くなった。憎悪のぶつけ合いから、未来は開けない。この人たちは、やはり日本人だった。 

   敷島の やまとごころを 人問わば

     朝日に匂う やまさくら花

 私はこの歌を、今宵被爆者の方々へ捧げたい。ヤジを飛ばしたり、過激な横断幕を掲げたり、誰もそれをしなかった。警備の厳重さがあったとしても、跳ね返りの愚か者なら、広島以外の地でデモ行進をするだろうに、それさえなかった。冷静さと寛容の日本を、私は誇りに思った。

 「政治は最高の道徳である。」こうした歴史的な場面に直面すると、言葉の重みを知らされる。今日のテレビ報道で映し出された人々は、一人一人がその主役だった。いい一日だったと、久しぶりの満足感だ。

 しかし残念なことに、現在の日本で、違ったことを実行している人物が一人いる。都知事の舛添氏だ。

彼が国民の前で見せているのは、見苦しい舞台。「政治は最低の道徳である。」・・・・、こんな芝居は誰も見たくないのに、一人で頑張っている。独りよがりでも、ドン・キホーテには愛すべき人柄があるが、彼にはそれがカケラもない。


 一瞬だが、安部総理とオバマ大統領が、舛添劇場の下品さを忘れさせてくれた。今晩のところは、この言葉をかみしめつつ眠るとしよう。「政治は最高の道徳である。」と。

 

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神さまの話

2016-05-25 22:59:57 | 徒然の記

 谷友幸氏訳・リルケの「神さまの話」(昭和28年刊 新潮文庫)を、やっと読み終えた。

 リルケはオーストリア生まれの詩人・作家で、彼の詩を、初めて日本で翻訳したのは、森鴎外だと言われている。高名な詩人だが、作品は難解で、10ページも読まず諦めたことが、過去にある。

 彼は、多数の詩や小説を世に送り出しているが、「マルテの手記」と「リルケ詩集」以外は、題名すら知らない。

 ある青年が、近隣に住む友人や知人に、いろいろな角度から神様について語る、13の短編が、一つにまとめられたのがこの本だ。「神さまのお手についての物語」、「見知らぬ人」と、それぞれ名前がつけられているが、最後の13編「闇に聞かせた話」を除くと、私にはすべてチンプンカンプンだった。

 言葉の一つひとつは平易なのに、組み合わせ方が奇抜なので、作者の意図が分からなくなる。くどいほど説明されているのに、前後の関係や状況が、少しもハッキリしない。

 かって、フランス人作家プルーストの、「失われた時を求めて」という長編を読んだことがあるが、その時の印象に似ている。

 大家族で暮らした主人公が、成人した後に、邸で共に過ごした人々を回想する、という内容だった。特段の事件もなく、特別の話もなく、幼い頃の日常生活が、延々と語られる退屈な本だった。それでもこの本は、20世紀を代表する小説と、高い評価を受けている。

 リルケもプルーストも、私と違った精神世界に生きる人物で、思考の土台からして異なっていると、そんな気がする。名画を鑑賞しても、私は感動しない時があるし、世間の評価と、違う感想を持ったりするので、芸術への理解力や、感受性が乏しいのかも知れない。

 訳者の谷氏によれば、13編「闇に聞かせた話」は、他の話と比較すると、異質の一編であるらしい。私から見れば、13編だけが客観的事実をキチンと踏まえ、常識的な叙述のされた作品、と思えた。登場人物の会話が急展開しないから、霧がかかったような不明瞭さが生じない。

 他の諸編は、常識を離れ、妄想めいた叙述が、悪びれもせず続くので、いくら平易な言葉が使われていても、何が何だか分からなくなる。若い頃はこうした本を読んで、理解できない自分を、まるで劣等生のように恥じたものだが、今はもう割り切っている。

 訳者の書評なのか、ブックカバーに書かれた言葉を読むと、やはり劣等生の感が思い出されてくる。

「二ヶ月にわたるロシアの旅を通じて、敬虔で素朴な、民衆の姿に感動した、」「若きリルケは、その多くの収穫の中から、」「神という一本の糸で貫かれた、13の珠玉からなる " 神さまの本 "  を、書き上げた。」

 「子供のための話を、大人に話して聞かせる、形式をとったもので、」「神に対する、詩人の感受性が、溢れているとともに、」「リルケ独自の、敬虔な思想をまだ萌芽のまま宿している、貴重な名散文である。」

 もしかすると、訳者でなく出版社の書評かもしれない。読書好きな者の心をそそる巧みな文章は、広告宣伝の名文とも言える。こうした文言に騙されて、若かった私は何度詰まらない本を買わされたことか・・。

  「百人の愚人に理解されなくとも、一人の賢人に理解されたら、それで良い。」「私の作品は、愚かな者のため書かれているのではない。」

 誰の言葉だったのか、スッカリ忘れたが、ずっと以前に、何かの本で知った言葉だ。確かにこの世には、そんな作品があるのだから、私は間違いなく愚人の部類に入る。

 愚人は愚人らしく、謙虚に、率直に、感想を述べてみたい。先ず、第一編の「神さまのお手についての物語」だ。全知全能の神さまが、この世の初めに、地球上に、森羅万象を両手で作られる。

 人間を作られる段になると、神様は、その仕事を右の手と左の手に、任せられた。どんな具合にできているのか、知りたくて、もういいかいもういいかと、度々両手に尋ねられた。出来上がったら一度見せて欲しいと、神様が頼まれたのに、両手は、人間を未完成のまま、地上へ落としてしまう。

 どうしてそうしたのかと、神さまが質問されると、右手と左手が、責任のなすり合いをして争い。勝手にするがいいと、神様は怒ってしまわれたと、このような話が続けられる。

 一体神様の手というものは、どうなっているのか。体の一部でありながら、神さまの知らない仕事を、右手と左手が、勝手にするものか。全知全能なのに、自分の手がコントロールできないのか。

 愚人である私には、次々と愚人らしい疑問がわく。こうした国造りや、人間を生む話は、私には、古事記や日本書記を彷彿とさせる。敗戦後、日本の学者たちは、神話を荒唐無稽なものとして切り捨て、天照大神が天皇に連なるという神話を、非科学的で無意味な話と攻撃した。

 けれども彼らは、キリスト教徒たちの話は何も批判をせず、素晴らしいことででもあるように流布させている。これはいったい、どういう訳なのか。

 ヨーロッパでもアジアでも、神話はすべて、理屈に合わない昔話ばかりだ。こうしてリルケを賞賛する日本人を、目の前にすると、どうしても私は、「あなたたちは、同じ気持ちで、祖国の神話に向かえないのか」と質問したくなってしまう。

  だがもっと不思議なのは、80才を超えた叔父が、本当にこの本を読んだのだろうかということだ。葬儀の晩に、叔母から遺品として譲受けたが、神道の神主の資格を持っていた叔父は、どんな気持ちでこの本を読んだのだろうか。

 気難しかったけれど、温厚だった叔父は、神道の本だけでなく、仏教や禅、あるいは北朝鮮や韓国の書も読んでいた。今から少しずつ読んでいくが、リルケの著作など、どういう経緯で買い求めたのだろう。

 出雲と千葉の距離に隔てられ、生前は、話らしい話をする機会の無い私たちだった。叔父が生きている間に、もっと聞いておけば良かったと、残念な気もするが、本を沢山持っていることすら、言わない叔父だったから、結果は同じだったに違いない。

 で私は、異国のリルケより、自分の叔父の方が不可解で、難解な存在となり、心を奪われてしまう。事実は小説より奇なりという言葉があるが、傍らのテーブルに積まれた叔父の蔵書の山を見ていると、しみじみそう感じる。

 近所づき合いを大切にし、村の人々から親しまれ、晩年はボランティアで、村営公園の管理をしていた叔父の秘密が、この本の山の中に埋もれている。

 それでも私は、余程のことがない限り、読み終えた本は、小学校の有価物回収の日に出す。本だけでなく、衣類も家具も、道具類も、不要なものは少しずつ減らそうと心がけている。余命を感じ、死の準備をしているというより、そういう年齢になった、という自覚だ。

 世間の評価に逆らい、素晴らしいリルケの著作を、無下に扱っているのでないことだけは、弁明しておきたい。

 (ただし反日の書物は、いくら世評が高くても、たとえ偏見と責められても、すべて有価物回収の日のゴミにする。)

 

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冬虫夏草

2016-05-17 17:33:46 | 徒然の記

 梨木香歩氏著『冬虫夏草』(平成25年刊 新潮社)、を読了。「凄く面白かった。」「自分で買って、持っておきたい気がする。」

 どうしてそんなに気に入ったのか、家内がむやみに褒めるので、私は読みかけている、神様の本を中断した。

 主人公は、パッとしない小説家である綿貫だ。植物学者らしい友人南川と、死んでいるのに時々姿を表す、同じく友人の高堂が脇役だ。他に河童の息子と両親、宿屋を営むイワナの夫婦、あるいは山里のあちこちで暮らす農夫や木こりの夫婦など、不思議な世界が語られる。

 話の筋はあるといえばあるし、無いといえば無い。しいて言えば、飼い犬を探す旅の話とも言える。綿貫の犬が突然いなくなり、日が経つにつれ、心配と不安に襲われ、矢も楯もたまらず探しに出かける。

 欲張りな小説家らしく、小説のネタも、ついでに探索しながら、草深い山間の村々を訪ねる。数日後、山奥の滝の裏の祠で、彼はやっと飼い犬に再会する。道の途中の岩も急流も、生い茂る草も、あらゆるものに目もくれず、飼い犬が、綿貫めがけて疾走してくる。

 来い。

 来い、ゴロー。

 家へ、帰るぞ。

 先日読んだ氏の著作、『村田エフェンディー滞土録』と同様に、最後は作者の詠嘆で飾られる。あの時はオームだったが、今回は犬だ。似たようなパターンで、小説を構想するのだなと思わされても、やっぱり胸がジンとなった。どうやら作者には、読者の心をつかむ、何かの才能が備わっているのかも知れない。

 真面目なのかふざけているのか、飄々とした文体は、井伏鱒二を彷彿とさせる。だが作品の世界は「高野聖」の泉鏡花に似ている。人も動物も、物の怪も草木も、渾然一体として語られ、おかしな話なのに、不自然さを感じず読まされてしまう。どうやら梨木氏の作風は、ここに特徴があるらしい。泉鏡花賞の方が、氏に相応しい気がするが、どうして児童文学賞なのだろう。

 この作品も、深く考えず読んでいると、現在の話と錯覚する。

 トルコに留学している村田が、友人の一人だと語られるので、明治44年の話だと分かる。『村田エフェンディー滞土録』と、つながりのある本なのだが、説明は何も無い。作者のいい加減さというのか、大らかさというのか、作品の中身も不可思議な世界だが、執筆姿勢も劣らず不可思議でないか。

 そうなると、主人公がバスにも乗らず、旅の行程を徒歩で通す訳も分かるし、替えのわらじを、背負った荷の中に入れているとか、旅館の上がり口で草鞋を脱ぎ、汚れた足を桶で洗うという動作にも、納得がいく。私は理解したが、本そのものが不思議な内容なので、大抵の読者は、時代が少々変でも、疑問を抱かず読むのではなかろうか。

 「そこをしばらくいくと、なんとも爽快な眺望が眼前に広がる。」「覚えず、おお、と声を上げる。」こういう書き方は、井伏鱒二を思わせる、惚けた味がする。

 「遠く浮かぶは伊吹山、手前に愛知川は帯のごとく悠々と流れ、」「そが端を発するは、見よ秀麗なる鈴鹿の山並み、」「峰に尾根、十重二十重と、互いに庇を押し合うようにして、控えている。」「転じて蒲生野は、ひろびろとのどかで、藁でも焼くのか、あちこちに煙が上がっている。」

 方向音痴の私には、こういう叙述が逆立ちしてもできない。立て看板の地図を読んでも、自分が立っている場所がわからず、どの山がどれか読み取れ無い。これだけでも、私が氏を尊敬する立派な理由になる。

 「だがイワナの宿で暮らすとなると、君の生活の仕方と折り合うのかね。」「夏と冬ではそれ、住む場所も生活の仕方も、違うというではないか。」

 主人公が河童の少年に尋ねると、河童が答える。

 「なに、それは生物一般に言えることではないでしようか。」「そのときどき、生きる形状が変わっていくのは、仕方がないこと。」「それは、こういう閉ざされた村里に住む人々でも、同じことです。」「人は与えられた条件の中で、自分の生を実現していくしかない。」

 「君は何か、宗教書か哲学書を読む習慣があるのかね。」主人公が驚いて質問する。

「いえ、独自に達した境地です。」河童の少年の答えを聞き、独白する主人公。

   「河童族とは、かくも諦観を持って、己の行き方を心得た種族なのか "   " 私はすっかり感じ入った。」 

  こういう具合に、主人公が、出会うものたちと処世訓じみた問答をするので、本には筋がなくても、支障がない。読者は、惚けた書きぶりの面白さと、含蓄のある問答に惹かされ、一気に読んでしまう。読後に残る楽しさには、生きることの喜びと、悲しみが混じっている。

 飼い猫を失った悲しみを、今も抱く私は、最後の所で犬と再会し、「来い。来い、ゴロー。」「家へ、帰るぞ。」という場面では、万感胸に迫る思いがした。

 愛犬との再会の喜びと、嬉しさと切なさに、熱いものさえこみ上げてきた。

 もしかすると、家内が氏の本を絶賛するのはこの部分だったのだろうか。その気持ちなら、私には分かる。

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小さいけれど、大きな問題

2016-05-14 20:46:53 | 徒然の記

 ブログを作っている者には、共通している現象だと思うが、最近広告欄に、JALの宣伝が表示されている。

 制服を着たスチュアーデスが、かしこまっている姿が写っている。昔のJALは日本の顔だったのに、今はすっかり、ANAにその座を奪われてしまった。放漫経営の結果だとはいえ、放っておけない気もする。全日空だけでなく、たまにはJALも利用しようかと、そんな気になっているところに、この宣伝だ。皇后陛下が広められたという、朝鮮式挨拶である。

 日本が、お辞儀の仕方も知らない、無作法な国というのならまだしものこと、昔から、ちゃんとした礼法の歴史と文化を持つ日本だ。それをわざわざ何のために、朝鮮式挨拶を取り入れるのか。コンスというものらしいが、見るだけで吐き気がしてくる。

 普通の関係にある国の挨拶なら、少し取り入れても、大して気にならない。しかし韓国は、捏造の慰安婦問題を世界へ喧伝し、あることないこと憎悪の嘘で、日本を貶めている国だ。国民が怒っている時だというのに、わざわざこんな挨拶姿でコマーシャルを作るJALは、いつから反日の会社になったのか。「利用するのはやめにしよう。」と、一も二もなく決めた。

 以前は、こんなに狭量な私でなかったが、韓国の日本叩きが変わらない限り、嫌悪が募るばかりだ。大使館の前に少女像を建て、その周りで反日を叫び、日の丸を燃やし、総理の顔を足蹴にし・・・・。

 どうしてこんな国の挨拶が、日本ではやるのか。近所のスーパーへ行っても、私はコンスの挨拶をする店には入らない。店員に対しては、「その挨拶は、朝鮮のですよ。」「日本の挨拶をしなさい。」と、丁寧に注意することにしている。

 今日は、久しぶりにBSのNHKを見た。なんと、この腐れNHKは、今でも韓国ドラマを放映している。即座にテレビを切ったけれど、誰のために、こんなドラマを放映しているのか。NHKは、日本の文化や歴史を、JALと一緒になり、破壊しようとでもいうのか。まったくもう、どこへ文句を言えば良いのやら。

 日本の独立について、ノルウエーの500年の労苦を見習おうと、冷静さを取り繕っているものの、足元の国内がこの有様では、いかに温和な自分でも、堪忍袋の緒が切れる。デパートに行って、100個でも200個でも、あるだけの堪忍袋を爆買したくなった

 ところがなんと、デパートまでがコンスで挨拶する。入り口まで行ったが、Uターンして帰宅した。デパートの売り上げが伸びないはずだ、国内消費の低迷原因の一つが、間違いなくコンスにあると、経営者たちは気づかないのか。もしかして、デパート業界は、すでに日本人でなく、韓国人となっているのか。

 ロッテやソフトバンクみたいに、日本人になりすました、韓国人企業に変わっていたのか。そうでなければ、日本に浸透する奇妙なコンスの理由が、分からない。たかが挨拶の一つや二つ、目くじらをたてるなと、寛容な人が宥めるけれど、ここまで国内に浸透すれば、「小さいけれど、大きな問題」と言えるでないか。

 日本の中心にある、大切な皇室の中におられても、皇后陛下が、コンスをお止めにならないというのだから、日本の闇は深い。

 皇室の批判をするなど恐れ多いと、頑迷な保守は怒るが、頑迷でない保守の私は、間違った、皇后陛下を批判しても不敬と思わない。以前にブログで引用したが、頑迷な保守の方々に、私は何度でも教えて差し上げたい。北畠親房の言葉だ。

   「君は尊くましませど、民を苦しめれば、天これを許さず。」

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日本は「神の国」ではないのですか

2016-05-13 22:54:43 | 徒然の記

 加地伸行氏編「日本は " 神の国 " ではないのですか」(平成12年刊 小学館文庫)を読んだ。

 編者は昭和11年に大阪で生まれ、京大文学部を卒業し、存命であれば今年80才だ。中国哲学史専攻の文学博士で、出版当時は大阪大学名誉教授だ。平成12年は、丁度衆議院の選挙の年だった。6月25日の投票日を前にした5月15日に、森首相がホテルで行われた国会議員懇談会の挨拶で、「日本は天皇を中心とする神の国である。」と言った。この言葉に反日のマスコミと野党が、すぐさま飛びついた。

  発言は憲法違反であり、危険な戦前の国家神道の復活を目論むものであると、朝日新聞を筆頭にマスコミが攻撃し、野党の議員が侮蔑と嘲笑で総理を攻め立てた。当時の私はまだ定年前で、会社で忙しく仕事に追われていた。他人事のように騒ぎを横目に、朝日の報道しか見なかったので、「森さんは、何というバカな総理なのだろう。」と一緒になって軽蔑した。

 だがこの本を読み、改めて当時を振り返ると、森氏には申し訳ないことをしたと反省させられる。

 本の構成は、第1章に森総理の挨拶の全文と釈明会見の言葉が紹介され、これを糾弾する朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の記事が引用されている。共産党、民主党、自由党の反論も乗せられ、最後に代表して田原総一朗氏が総理批判の総括をしている。

  第二章以降は、森氏を擁護する側の保守論客の意見である。編者である加地氏を筆頭に、佐伯彰一、長谷川三千子、ペマ・ギャルポ、山口昌男、大原康夫、中西輝政、西修、西部の各氏だ。「神の国解散」と呼ばれたこの選挙は、いまから16年前のことになるのだが、得意の絶頂にある朝日新聞の姿もあり、「10年ひと昔」と言われる、その言葉の真実を、実感した。今や朝日は、長年の捏造と反日記事を世界に拡散した事実が国民の前にさらされ、経営すら傾きつつある。

  平成6年にはオーム真理教の信者による松本サリン事件があり、翌7年には同じくオーム真理教の地下鉄サリン事件が起こっている。奈良県では18才の少年が、自分に反対した母と姉に殴る蹴るの暴力を振るい、殺人未遂で捕まっている。大分では無職の少年らが、自宅に連れ込んだ仲間の一人を殺した。あるいは中学生が、親に叱られた腹いせで連続通り魔事件を起こしている。カッターナイフを隠し持ち、無差別に通行人に切りつけたというものだ。

 森総理の挨拶は、こうした風潮を踏まえた話でもあった。「沖縄の子供サミットで提言が出されましたが、どこにも命を大切にしようと書いてない。」「人の命はどこから来たのか。人の命ほど神秘的なものはない。」「神様から頂いたと信じようではないか。」「神様であれ、仏様であれ、天照大神であれ、」「神武天皇であれ、親鸞上人様であれ、日蓮さんであれ、」「宗教というのは自分の心に宿る文化なんだから、そのことをみんな大事にしようということを、もっと教育現場でなぜ教えないのか。」

 こうして総理は出席者に向かって、神や仏の教えを広め、子供達が体でそれを覚えていくような地域社会を作って欲しいと訴えている。総理の神の国発言は、この挨拶の冒頭部分にある。

 「日本の国、まさに天皇を中心としている、神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく、」「その思いでですね、私たちが活動して30年になったわけでございます。」

 これをうけて朝日新聞が、5月17日の社説で「森首相の適格性を疑う " 神の国発言 " 」と題した社説を掲げた。  

「戦前の日本では、天皇と神が結びつけられ、神聖な天皇を中心とする国家が、国民を統治していた。」「それが、軍部による独走を許す素地となり、多くの国民が犠牲になった。」「アジアの人々にも惨禍をもたらした。」「その反省から戦後の日本は、天皇と政治の関係を断ち切り、」「国民主権を確立することで、再生のスタートを切った。」「政教分離の原則が掲げられたのも、国家神道による弊害を繰り返すまいとしたからだ。」

 こうして朝日新聞は、総理の資質や人間性にまで言及する。「その分別がつかないとしたら、総理としての適格性が問われよう。」同じ日に読売新聞が、軽率な総理だと社説で批判し、その翌日には朝日がまた総理を糾弾する社説で飾った。同時に野党各党の党首たちによる、総理への激しい非難と攻撃が報道される。

 その時の記者会見の様子が描かれているので、引用してみたい。とても長いので、割愛し、要点のみの抜粋とする。幹事社の共同通信が最初に質問し、その後各社から順次行うと書かれているが、新聞社の名前は分からない。

「これはやはり、憲法が定める国民主権や、政教分離の原則に抵触する重大な発言と考えます。」「誤解を招いたと仰るならば、発言を撤回するお考え、はございませんか。」「この発言をきっかけに、内閣の支持率が急降下しております。」「この政治責任を、どういうふうにお考えになりますでしょうか。」

「総理のお話を聞く限りでは、問題の所在をご理解なさっていないようなので、」「あえて申しますが、今問われているのは、総理の資質だと思います。」「ご自身の素質について、総理はどのようにお考えでしようか。」

「するとやはり、総理が作りたいのは、現行憲法の国でなく、別の国だと考えるのが素直な解釈だと考えますが、いかがでしようか。」

 こうして各社の悪意に満ちた質問が続き、総理は都度、丁寧に、へりくだり、平身低頭に返事を返している。黒板の前に立つクラス委員を、教室中の悪ガキが虐めているような陰湿な印象がする。マスコミの奢りここにあり、という記録でもある。第3章に書かれている大原康夫氏の意見に、私は溜飲が下がった。

「一目瞭然のことだが、今回の発言には、国民主権を否定するような文言はどこにもない。」「批判しているメディアや野党は、スピーチ全体の構成をカットして、ごく一部を恣意的に取り出し、一方的な結論を引き出しているだけである。」「15分のスピーチの中の、わずか10秒たらずの言葉を取り上げて糾弾するなど、あまりに短絡すぎる。」「発言の内容そのものより、その受け止め方に非常な憤りを覚えた。」

 「スピーチの全体を丁寧に読めば、普通の読解力の持ち主ならば、全く別の印象を受けるに違いない。」

慰安婦問題にしても、靖国問題にしても、朝日新聞のやり方はみな同じだ。捏造とこじつけと、自分に都合の良い解釈を、まるで世界の真理でもあるかのように報道する。卑怯で卑劣なのは、こんなマスコミであり、国民を騙しているのだって森氏の比ではない。今なら国民の多くが分かっているが、当時はまだ知る人もなく、私も朝日新聞に同調して、森氏を笑った国民の一人だった。申し訳ないと思わずにおれない。

 現憲法の規定では「天皇は国民の象徴である」と、定められている。つまり国民統合の象徴である。天皇が国の中心にいるということであり、森氏の言葉に間違いはない。日本では山にも川にも台所にも、トイレにだって神様がいる。神の国と言ってどこがおかしいのだろう。

 神道も仏教も、天照大神も、親鸞も、日蓮もと、総理は列挙している。この話をどのように読めば、天皇独裁の神道を強要しているという理屈が出てくるのか。本の後半には保守論客の各氏が、マスコミと野党の間違いや矛盾点を指摘してくれるので、納得しつつ読み終えた。

 しかし、たった一つ、疑問が残った。これだけの保守の方々が意見を述べているのに、誰一人として、「憲法改正」に触れていないということ。反日のマスコミをはびこらせ、売国の野党を野放しにし、日本の破滅を放任している根本には「現憲法がある」と、なぜ誰も言わないのか。16年前というのは、そういう時代だったのか。加地氏のような方々の目立たない努力があったから、今の日本があるのか。

 悪びれずに安部総理が「自主憲法制定」と言えるのは、森総理の我慢と忍耐があったからなのか。私には分からない。

分からないけれど、たった16年前の日本だって自分は理解していなかったと、目からウロコの本だった。面白くも楽しくもなかったが、有意義な一冊だった。感謝するに越したことはない。ありがとうございました。森元総理と保守論客の方々へ。

 

 

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オバマ大統領の広島訪問

2016-05-11 17:50:13 | 徒然の記

 5月27日、伊勢志摩サミット終了後の、オバマ大統領の広島訪問が決まった。

 原爆投下への謝罪をしないのなら訪問はしなくて良いと、そんな意見もある。だが私は別の考えを持っている。現在の国内外の情勢からしても、大統領が哀悼の意を表する意味の大きさを優先したい。謝罪を強要しなくとも、犠牲者を悼み祈りを捧げるのなら、それで良しとすべきだろう。

 我が国では、反日・亡国の左翼が、大戦の犠牲者に哀悼の気持を捧げるためと言っても、総理の靖国参拝に大騒ぎする。「軍国主義への反省がない」「平和を踏みにじる暴挙だ」「国際社会を敵に回す」など、およそ時代遅れのスローガンを絶叫し、売国のマスコミまで一緒になり総理と政府を糾弾する。だから総理大臣はいつまでたっても、自然な気持で靖国参拝ができない。

 対するアメリカではどうなのか。我が国のような反米政党や、亡国の左翼議員がいない代わりに、頑迷な保守層が沢山いる。「原爆投下によって、百万の米国兵の犠牲が防止された。」「戦争の終結をもたらした原爆投下は、正しい選択だった。」「日本へ謝るなど、とんでもない。」

 こうした声が、歴代の大統領を縛っているのは事実だし、今でも政府の要人は世論を無視できない。正しい声であるかどうか、自分には異論があるが、でもどうだろう。総理の靖国参拝に反対する左翼の一方的な攻撃と、この偏見と洗脳の度合いは、どっちもどっちでなかろうか。

 どのくらいの激しさで米国の世論が存在しているのか知らないが、大統領広報官が硬い表情で記者会見するニュースを見ていると、かなりの大きさだと推測できる。「大統領の広島訪問を、謝罪と解釈することは間違いだ。」「大統領は、核のない社会実現に向け、メッセージを出すために行く。」

 わざわざ強調しなくてはならないほど、反対論が強いのだと分かる。

 私はオバマ大統領の決断を評価し、広島訪問を歓迎したい。だからと言って、心の中にある米国への怒りが消えた訳ではない。広島で20万人、長崎で14万人、女性や子供や老人たちを殺戮した行為は決して許せない。

 残虐な行為を怒り歴史の事実を記憶することと、執拗に憎悪し攻撃することは別だと考えている。相手を許さなければ、憎悪と怨恨が歴史の未来を塞いでしまう。私たちが、中国や韓国人と同じことをしてはなるまい。彼らは憎悪と怨恨で、国際社会の未来を塞いでいる。そればかりか、所構わず捏造の物語を撒き散らす。その醜さを他山の石としたいでないか。

   敷島の やまとごころを 人問わば

     朝日に匂う やまさくら花

 本居宣長の歌は色々な解釈がなされているが、私は「花の矜持」と「潔さ」を歌ったものと解釈している。そういう心で、同盟国の大統領を迎えたい。さすればオバマ氏も、朴大統領に騙され、日本軍への悪口雑言に同調した間違いに気づくかもしれない。

 考えてもみるがいい。広島の記念碑には、なんと書かれているか。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。反日の活動家に指導された広島市が、原爆投下の責任が日本だけにあるかのような文章にしている。これでは大統領に謝罪を求める前に、既に日本人が世界に謝っていることになる。

 オバマ氏に謝罪の言葉を要求する保守の方々に申したい。自分の国にある、こんな記念碑の文句の一つだって変えられない私たちが、かっての敵国の大統領にだけ無理な注文ができましょうか。自国の世論に抗してまで、広島訪問を決断したオバマ氏の方が、私たち保守より実行力と決断力が優っていると、敬意を表してはどうでしよう。ともかくも、これは歴史の中の一つの前進です。こういう大らかさが通用する日本は、やはり八百万の神々の国だと、私はむしろそう考えている。

  

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「G」と「L」の二極分解

2016-05-09 23:05:10 | 徒然の記

 4月22日の千葉日報の紙面に、この見出しの特集記事があった。全ページを使った特集で、記事の寄稿者は姜尚中氏だ。今回だけでなく、何度かのシリーズものだ。

 氏の略歴が、ページの右下に紹介されている。1950年(昭和25年)熊本市生まれ。早稲田大学大学院修了。国際キリスト教大学助教授・準教授、東京大学大学院教授、聖学院大学長などを経て、現在東京大学名誉教授、熊本県立劇場館長、政治学者。著書に「悩む力」「悪の力」など。テレビのコメンテーターとしても活躍する。

 書かれている主題は2つ、明治以来の日本の大学と教科書の変遷についてだ。表題のGとLは、グローバルな大学とローカルな大学を意味する。グローバルな大学とは、国際化に対応し、国際競争で力を発揮する少数のエリートのための大学で、ローカルな大学は、地方経済圏で即戦力となる人材を育てる大学だという。

 「G大学に選ばれたのは、旧帝国大学と有名私立大学を含めわずかに37大学に過ぎない。」「極言すれば、大学にふさわしい学問や教育はGに限定され、」「Lの大学は、大学とは名ばかりの、事実上 は" 職業訓練校 " として存続するということに過ぎない。 」氏の説明で、私は現在文部科学省が進めようとしている政策を知った。

 今一つは教科書だ。東京書籍附設教科書図書館というものが、東京都北区にあるらしい。
東京書籍株式会社が所有する教科書図書館で、江戸時代に寺子屋で使われていたものから、明治、大正、昭和から現在まで、膨大な教科書が管理されているとのこと。

 「その中で特に興味をそそるのは、明治政府による学制が整備され、教育勅語が出される前の教科書が、」「混沌としながらも、様々な教育の理念がせめぎ合っていたこと。」「敗戦直後の語の教科書が、文部省によって編集されながらも、児童用の参考書の一種として発刊されていたことだ。」

 こうして氏が、教科書に関する考えを述べる。
「そこには、近代日本の歴史の中で稀に見るほどに、上からの統制が緩んだ、自由闊達な教科書、」「従って、国家目的だけに従属しない教科書の可能性が、ほのかに見える気がした。」

 韓国が慰安婦問題で、世界中に捏造の事実を撒き散らし、極悪非道な日本軍と日本人を攻撃し出して以来、私は韓国を嫌悪している。言葉つきは穏やかで静かな語り口だが、氏がれっきとした反日の学者であることを私は知っている。この紙面の記事だけだと、何も知らない人間は、大学教授が日本史の一端を語っていると受け取ってしまう。

 彼の過去の言動を知っている私には、言わんとする意味が理解できる。要するに彼は、日本の大学も教育も、明治時代の国家主義へと先祖返りしつつあると言いたいのだ。彼ら反日左翼の公式では、戦前イコール軍国主義であり、全体主義であり、国民を抑圧した国家主義ということになる。それは全て平和を踏みにじり、国民の人権を無視する独裁国家への道であると、こういう主張につながっている。

 千葉日報がどうしてこのような人物の記事を特集するのか、不思議でならない。
こんな亡国の記事は朝日新聞やNHKに任せれば良いのに、先日は褒めたけれど、やはり千葉日報も「ブルータス、お前もか。」と言うべきなのか。今の私は神経質なくらい韓国を嫌悪しているから、氏の意見に対しても厳しい反応をする。家内は最近の私が偏見を言うようになったと悲しむが、そうせずにおれない理由がある。

 日本の大学や教科書を批判する前に、姜くん、君にはやるべきことがあるだろうと、それが言いたい。
韓国ではすでに大学のLとGの区別が厳然と確立し、エリートが行く大学とそうでない者が行く大学が、どれほど韓国国民の心を追い詰めているのか、それについては何も語らない。日本だけが、これから一握りのエリート校を作るからと、大層な企てのように語るが、米国もフランスも、イギリスも、君の好きな赤い中国もロシアも、みんなずっと大昔から、エリートと一般庶民の行く大学を峻別している。

 他の国におけるエリート大学数は、それこそ国内にわずか3~4校だ。エリート大学を37も指定する日本の、もどこをもって「わずか」と表現するのだろう。あたかも日本が、再び国家主義と全体主義の明治時代に戻ろうとしているかのような、思わせぶりな言い草の何という卑劣さか。都合の悪い事実には触れず、ただ日本の批判につながりそうなことだけを、静かに語っていく。これが戦後の、反日・左翼の常套手段だ。

 韓国でニューライトと呼ばれる、韓国の保守論客の李滎薫氏が「大韓民国の物語」という著書の中で、自国の教科書についてなんと述べているか。長くなるが、姜くんの非常識さを明らかにするため、引用してみよう。


 """ 李滎薫氏の「大韓民国の物語」より抜粋 """
 「日本は正当な代価を支払うことなく、無慈悲に、わが民族の土地と食料と労働力を収奪した。」「だからわが民族は、草の根や木の皮でようやく命をつないだり、海外に放浪するしかなかった。」「過去60年間、国史教科書はこのように国民に教えてきました。ですから、大部分の韓国民がそのように信じています。」

 「2001年に発行された高等学校の国史教科書には、" 日本は世界史において、比類ないほど徹底的で悪辣な方法で、わが民族を抑圧し収奪した " と書かれています。 」「例えば総督府は、全国の農地の4割にも達する土地を国有地として奪い、移住してきた日本人農民や東拓のような国策会社へ廉価で払い下げた。」「また総督府は、生産された米の半分を奪い、日本へ積み出した。」「農作業がすべて終わると、警察と憲兵が銃剣を突きつけて収穫の半分を奪っていった。」「このように解釈できる文脈で、生徒たちを教えてきました。」

 「1940年代の戦時期に、約650万名の朝鮮人を、戦線へ、工場へ、炭鉱へ強制連行し、賃金も与えず、奴隷のように酷使した。」「挺身隊という名目で、朝鮮の娘たちを動員し、日本軍の慰安婦としたが、その数は数10万人に達した。」「教科書は、このように記述しています。」

 「高校の国史の時間にこのくだりが出てくると、教師は今にも泣きそうな顔になり、生徒も涙したといいます。」「このように悪辣な収奪を被った祖先たちが、あまりにも不憫で、これが泣かずにいられるでしょうか。」

 「しかし、私はあえていいます。このような教科書の内容は、事実ではありません。」
「びっくりされる方も多いと思いますが、単刀直入に言うと、そのような話はすべて、教科書を書いた歴史学者が作り出した物語です。」

 「生産された米のほぼ半分が、日本へ渡っていたのは事実です。」「しかしながら米は奪われたのでなく、輸出という市場ルートを通じてでした。当時は輸出でなく、移出といいました。」「米が輸出されたのは、総督府が強制したからでなく、日本内地の米価が30%高かったからです。」「輸出を行えば、農民と地主はより多くの所得を得ることになります。」「その結果、朝鮮の総所得が増え、全体的な経済が成長しました。」

 「それなのに、どうして韓国の教科書は、こうした経済学の常識を逆さまに書いているのでしょうか。」
                     以上 """ 李滎薫氏の「大韓民国の物語」より抜粋 """


  反日の嵐が吹き荒れる韓国で、自身のみならず、家族にも及ぶ危険を冒してまで、なぜ氏は本を書いたのか。韓国国民に覚醒してもらいたい、いつまでも過去に捉われていたのでは韓国の未来が開けないと、李氏はこの本を出版した。だから私は、この著作の中で氏が日本批判をする心情を受け止め、氏の複雑な愛国心も理解した。


 しかるに、この姜くんは、どうだろう。悪口を言っても安全な日本に住み、日本で生活し、日本の制度を利用し、日本国政府に保護されながら、こんなおせっかいをしている。他国について言う前に、自国の政府や、大嘘の教科書や、エリート大学の無残な状況を語るべきでないのか。

 私が知る、氏についての情報を少し追加しよう。
熊本県生まれの氏は、日本名を永野鉄男といい、在日二世で、現在も韓国籍のままである。父親は職を求めて日本へ密航してきた韓国人で、母親は、そんな父を追って密航してきた女性だ。早稲田大学在学中になぜか突然通名を止め、姜尚中を名のるようになった。

 氏は日本でのみならず、韓国でも有名人で、「竹島は韓国のもの」と公言し、天皇を「日王」と蔑称で語る人物だ。日本の政治家についての批評と、金大中の評価は次のごとし。

 「吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄など、日本のリーダーは米国におむつを履かされた存在に過ぎないが、金大中はおむつを履いた似非リーダーたちと戦った真のリーダーである。日本人は金大中を見習いなさい。」と主張している。

 在日を食い物にして有名になった男と、在日の中では酷評されているというのに、千葉新聞はどうしてこのような人物の言葉を、有り難がっているのか。新聞社なのに、氏の情報すら持っていないのか。分かっていて氏を重宝しているというのなら、千葉日報は亡国の朝日新聞とどこが違うのか。

 亡国の朝日は読者が減り、利益も出なくなりつつあると聞くが、全国の一等地に膨大な土地を持つ朝日でない千葉日報は、本気で日本の明日を見つめ直すべきでないのだろうか。潰したいと思う日本より前に、自分の会社が潰れるのではないか。読む新聞が無くなるので、それでは私が困る。

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村田エフェンディー滞土録

2016-05-07 16:23:25 | 徒然の記

 梨木香歩氏著「村田エフェンディー滞土録」(平成16年 (株)角川書店)、を読了。

 「おとうさん。この本面白かったよ。」
家内が言うので、手にしていた神様の本を閉じ、梨木氏の著作を先に読んだ。なるほど、一気に読み終える面白さだった。

 家内と私は、同じ本を読んでも、美術館へ行っても、意見が一致することがないから、今回だって、違うところを面白がっているに違いない。

 家庭円満のためには、細かな詮索をしないこと。これぞまさに、生活の知恵だ。私は彼女の言うことを、常に優先して聞き、取り入れられるものは、素直に受け入れている。それでも私は頑固で、人の話を聞かないと苦言を貰うが、それは彼女と私との感性の違いからくる。

 家内には、私の素直さが、見えないだけの話だと、心で呟いている。最近はお互いに、相手のブログを読まないので、安心して色々なことが述べられるようになった。

 さて氏の本は、軽妙な笑いを誘う、とても読みやすい文章だ。不思議な霊的現象も語られるが、不合理な描写がないので、疑問も抱かずに読めた。こうなると、氏はどんな人物なのだろうと、興味が抑えられなくなり、パソコンで調べた。

 昭和34年に鹿児島で生まれた氏は、今年57才だ。同志社大学を卒業した、女流文学者である。しかもなんと児童文学者だ。なるほど平易で簡潔な文章は、そこからきているのか。日本児童文学者協会新人賞、小学館文学賞、紫式部文学賞、その他にも色々受賞しているが、これらがどのくらいの意味を持つ賞なのか、私はとんと知らないので、氏の文学者としての位置付けは、依然として不明のままだ。

 主人公は、四人と一羽のオームだ。トルコ政府から文化研究のため招聘された、日本人学者の村田。ドイツ人の考古学者オットー。発掘調査を専門とする、ギリシャ人ディミトリス。彼らのために料理をしたり世話をしたりする、イスラム教徒ムハンマド。屋敷に彼らを住まわせる女主人の、英国人ディクソン婦人。そして最後に、ムハンマドが道で拾ってきたお喋りオームだ。

 人種も宗教も、生活習慣も違う彼らが、同じ下宿で生活している。

 ものの見方や、考え方が違うことから生ずる、主人公たちの葛藤や気遣いなどが、生き生きと語られている。ネットの情報によると、この本は、高校生向けの課題図書の指定を受けていたことが、あるらしい。反日の教科書が幅を利かせる今日の学校で、こんなニュートラルな本を読ませる高校なんて、本当にあるのだろうか。余計なことだが、つい考えてしまう。

 主人公たちの会話や考古学への情熱、あるいは宗教の比較論や、民族批評が平易に叙述され、今でもそのまま通じる内容なので、昔話と思わずに読んでいた。

 読み進むにつれ、この話が、遥か昔のトルコの話だと分かった。明治23年に和歌山県沖で、トルコのエルトゥール号が遭難し、沿岸の住民が死者を埋葬し、生存者を手厚く介抱した。献身的な救助と介護を、トルコ政府から深く感謝されたという話が、何かの本にあった。

 主人公の学者村田は、トルコ皇帝が示した、日本への感謝の表れとして、考古学研究に招聘されたという設定だ。なんとあの司馬遼太郎の、「坂の上の雲」の時代の話だった。司馬氏は日露大海戦に焦点を当て、黎明期の日本を書きベストセラーにしたが、梨木氏の本は、日露戦争後の日本人の話だ。当時のトルコの状況を語る、作者の言葉を引用してみよう。

「トルコは今、飢えたハゲタカのような、」「ヨーロッパ列強の、餌食になっている状態であり、」「同じような局面を、何とかしてしのいでいる日本に対して、」「尊敬の念と、親近感を持っているのだという。」

 1858年の江戸末期に、日本は列強の外圧により、とんでもない不平等条約を結ばされた。世間で言われる「安政の不平等条約」で、威嚇した列強は米、ロシア、オランダ、イギリス、フランスだ。

 国を開いて貿易をしたが、利益を得るのは列強だけで、日本はどんなにあがいても、赤字になる仕組みの条約だった。

 文明国と認められなければ、列強から相手にされない、と知った明治政府は、明治4年に廃刀令を出し、・の呼称を廃止した。鹿鳴館を作り、列強の有力者たちを招き、慣れないダンスや、洋楽を取り入れたのもこのためだった。翌明治5年に、条約改正の第一陣として、岩倉具視がヨーロッパへ外遊した。

 けれども相手にされず、以後寺島宗矩、井上馨、大隈重信、青木周蔵、榎本武揚など、外務卿と言うのか、大臣というのかそうそうたる人物が、列強との交渉に出かけている。

 そしてやっと、条約改正に成功したのは、39年後の明治44年小村寿太郎のときだ。国難に対する、明治時代の政治家の決死の思いが、伝わってくる。忘れてならないのは、列強が改正に同意したのは、政治家たちの努力への理解というよりも、日露戦争の勝利という、侮れない日本の国力に対してだった、ということだ。

 この辺りは私の雑学なので、梨木氏はそういう事実に触れていない。
村田が、トルコ在住の山田の借家で、同じく日本人の木下と三人で、気のおけない話をしている場面がある。

 「今年、何とか日本は治外法権の撤廃にまでこぎつけた。」

「時間がかかったのは、民法の起草が先決ということだったからです。」

「起草案者がフランス人だったので、内容があまりに進歩的というので、」

「 " 民法出でて、忠孝滅ぶ "という論文まで出る始末だった。 」

「結局民法は、ドイツの法律を参考にして、日本人の手で作った。

「そもそも日本の民衆には、権利の概念からしてない。」
「権利という概念がない・・・、か。」そして作者が村田に自問自答させる。


 ( 権利意識がなければ、自らを主張しようとする、そもそもの基盤も危うくなるわけだ。)、(それはいかにも、民度の低さを意味する象徴的な言葉に感じられる。 )

 トルコの事情を描き、他民族を語らせると、追随を許さない文章の冴だが、日本人論になると途端に精彩がなくなる。作者が自分の思いを、登場人物に語らせているだけでないかと思えるような、ぎこちない会話だ。果たして当時の日本人が、こんな冷静な自覚を持てたのだろうか。

 「あるペルシャ人が、日本へ行って、物乞いのいないこと、街路の清潔なこと、」

「役人がむやみに物をねだらないことに、感銘を受けて帰ってきたとか聞いた。」
「日本には、私利私欲を馬鹿にし軽んずる風があるのだ。」

「武士は喰わねど高楊枝、というような。」
「しかしそれがため、日本人は国際社会で押しが弱く、そもそもあの不平等条約が結ばれたのも、こういう日本人の常識が根底にあったからだ。」

「身内が他国でで犯した犯罪なら、相手国は、いっそう犯人を厳格に処すであろうという、日本人の常識。」
「きやつらは、有色人種はまず人間と思っていない。」

 一同深く納得し、私たち三人は一瞬押し黙った。

 少しばかり省略し、文章もつなぎ合わせているが、これが作者の叙述の概略だ。

 しかし当時の日本人は、ひたすら西洋に追いつけ追い越せで、自己を顧みる余裕がなかったはずと、私は考えている。もしかすると、作者の方が正しいのかもしれないが、それでも正直に言えば、消化不良の言葉が、そのまま使われているという印象がしてならない。

 現在の日本で、正面から日本や日本人を語るのが、いかに難しいか、私はそれを教えられた気がする。この部分を越せば、本はまた他の主人公や鸚鵡の話となり、ドタバタ劇のような面白さになる。

 恩師の命令で、急遽帰国することとなった村田の気持ちや、周囲の人々の対応も、退屈させずに読ませてくれた。

 そして、帰国した村田の許に届く、ディクソン婦人の手紙だ。第一次大戦に巻き込まれ、オットーもディミトリスもムハンマドも戦死したという知らせだった。翌日の便で、すっかり老いて、剥製のようになったオームが贈られてくる。

 村田がそっと語りかけると、突然オームが元気な声を出す。「友よ」・・・・・、懐かしい言葉を聞かせてくれる。

 国というものは、いったいなんだろうと、作者は村田に語らせ、涙なしには読めない一編の詩で、最後をしめくくる。

   私のスタンブール
    
   私の 青春の日々

   これは私の 芯なる物語

 途中で異論を挟んだが、最後は作者の気持ちに同化させられ、しんみりとなった。日本を大切にしているが、他国の友も大事にする村田は、作者の分身なのだろうか。頑迷な保守の主張でないから、高校の課題図書に指定されたのかもしれない。

 私もまた、頑迷な保守でないから、反日の本でない限り素直に感動し感謝をする。

 「新しい世界を見せていただき、有難うございました。楽しい読後でした。」

   

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一つのけじめ ( チャンネル桜について )

2016-05-05 22:57:36 | 徒然の記

 何年前のことだったろう、どなたかのブログでチャンネル桜を知ったのは。

 定年退職してアルバイトを始め、息子の助けでブログを作り出した頃だと、自分では記憶している。ブログを遡れば正確な年が分かるが、そこまでする必要はない。

 当時の私はまだ朝日新聞を読んでおり、NHKを信頼していた。会社第一だったから、日々忙しさに追われ疑問も抱かなかった。

 自分が気づかなかったのか、それともその頃から偶然に隣国の悪口雑言が始まったのか。たっぷり時間のある年金暮らしとなってみると、なんとも我慢のならない、中国と韓国の言い草だった。

 自分を保守的だと意識したこともなく、普通の日本人と思っていたが、毎日のように、正しい歴史認識を持てと中国が説教を垂れ、韓国が軍国だった日本の昔を責めるので、事実はどうなのかという探究心が湧いてきた。

 朝日新聞を見れば、「日本が悪い、日本が悪い」と報道し、テレビでは隣国に同調する解説者たちが、日本を悪しざまに批評している。自分の国はどうなっているのかと、悲しみや怒りが生まれてきた。

 単純な疑問と、素朴な怒りだった。自分の国の過去、つまり歴史だが、その全てが否定され憎悪される。自分の国の先祖、第二次大戦当時の軍人や政治家も含まれるが、飛鳥、奈良、平安、鎌倉の時代の祖先も含まれる。つまり、私たちのご先祖様だ。

 たかだか70年前の、たった一度の敗戦で、自国の歴史や先祖も否定し、憎しみを燃やし、中国や韓国へ謝れと言うマスコミは正しいのだろうか。政治家、学者、文化人たちは、正気なのだろうか。日本のように国を挙げて、国の歴史やご先祖を否定する国が世界にあるのだろうかと、疑問が日に日に拡大していった。

 こうした経緯については、以前ブログで何度も述べたので止めにするが、本論はここからだ。

 そんな時に、チャンネル桜の動画に出会い、私は本当に嬉しかった。登場する人々の意見は、日本が正しいとする論調で占められ、自分の知らない事実が語られていた。私には、水島氏が立派な人物に見え、チャンネル桜にも信頼を置いた。

 年金暮らしのため、年会費1,2000円の賛助会員にしかなれなかったが、すぐに登録をした。朝日新聞を糺す会の設立総会にも参加し、都知事選に立候補した、田母神氏の選挙事務所にもわずかながら寄付をした。

 だが今の私は、心がチャンネル桜から離れてしまった。
日本を大切にしようと同じ運動をしていながら、水島氏がやった、田母神氏潰しの一連の行為に幻滅したからだ。

 何があったのか、部外者だから知らないが、国の行く末を考える者同志というのなら、水島氏はもっと別の行動をすべきだった。

 自分の番組を使い、何度も一方的に、田母神氏を非難するのは、対抗手段を持たない氏に対し、卑怯ではないのか。容疑者として逮捕され、警察に尋問されている田母神氏を弁護する気はないが、都知事選に担いだ相手を、こんな状況に追い込む氏の度量の無さを悲しむ。

 自らを国士と任ずるのなら、短刀を一本間に置いて、二人だけで、命をがけの話をすれば済むことでないか。

 今では、庶民の娯楽話としてしか語られないが、幕末の侍たちは、それこそ真剣勝負で、国の行く末を思い戦ってきた。元勲などと持て囃されているが、彼らの私生活は、意外な刹那主義で彩られてもいた。俗な言葉で言えば、酒と女と金が、明日をも知れぬ彼らの友でもあった。

 水島氏も、そんな話を知らぬではあるまいに、選挙資金の何千万かが不明朗だなど、そんな些事をあげつらうなと言いたい。気に食わぬ事実があるのなら、田母神氏と二人で、決闘する気で議論すればよい。

 ブログで私はたいてい理想を語るが、お花畑の人々のように、完全無欠の人間を求めていない。高潔で高邁なだけの人間は、恐らく政治家にはなれないだろうし、ついてくる人間もいない。

 政治家としてあれほど無能だった鳩山氏が、民主党を立ち上げ、多数の政治家が一時期に集まったのは、氏が潤沢な資金を持っていたからだ。その中には、いかがわしい使い方をされた金もあったし、北朝鮮がらみの怪しい使途金があったのに、周りの誰も暴き立てなかった。

 菅氏の、北朝鮮に絡む政治団体への多額の寄付も、結局はうやむやにされた。舛添都知事の別荘や、贅沢な外遊は、公金横領でないかと私には見えるが、それも政治家は攻撃しない。

 こうして述べると私が、政治家の杜撰な金の使い方を是認しているように思われるだろうが、政治家は皆、金まみれの世界で生きている。

 彼らの目の前では、常に何億という金が動き、彼らは常に金の誘惑と闘っている。良くも悪くも、それが政治の世界であり、そこにいても理想を忘れなかった政治家が、本物だったと後世で語られる。

 一般庶民の常識と、政治家の常識は違うと、政界を知る人間なら誰も分かっている。そんな常識を持っているはずなのに、水島氏は、政界に不案内な田母神氏を、執拗に追い詰めている。ここに私は、氏の人間としての小ささを見る。田母神氏との争いを、チャンネル桜で報道する氏を見たときから、私の心は離れた。

 初めてチャンネル桜を知ったとき、私の信頼度は89%だったが、今この番組への信頼度は30%しかない。素晴らしいの情報源という位置づけから、数ある情報源の一つ、というレベルになってしまった。

 わざわざブログにする必要もないのだろうが、心の足跡として大切にしている「みみずの戯言」に、一つのけじめとして残すこととした。

 「惑いつ、ためらいつ」、こうして今日もまた私の一日が終わる。

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