ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『汚辱の近現代史 』 ( 藤岡信勝氏の経歴 )

2018-05-30 15:48:32 | 徒然の記

 藤岡信勝氏著『汚辱の近代史』( H13年刊 徳間書店 ) を、読んでいます。

 296ページの、文庫本です。半分ほど読んだところで、感想を述べたくなりました。氏について知っているのは、「新しい教科書をつくる会」の、創設メンバーだったということくらいです。

 時々チャンネル桜に出演するので、保守論客の一人だと思い、それとなく敬意も払ってきました。期待していたのに、二、三ぺージのところで、氏の叙述に軽い失望を覚えました。これまで左翼の人々の言葉の陳腐さや、紋切り型の主張を散々貶してきましたが、保守論客と思っていた氏の意見に、似たトーンがあるのに驚かされました。

 誰にでも読みやすく、分かり易くするということと、文章のレベルを落とすのは同じでないはずです。

  ・日本民族の大きな歴史の物語、それをロマンと共感を持って書くという姿勢が、日本の教科書にはまったく欠如しています。だから面白くないのです。

  ・教科書が面白くない、根本的原因はそこにあると私は思います。それどころか自国の歴史をなるべく暗く、悪く書こうと努力しているとさえ見える。

  これは教科書に関する氏の感想ですが、私の視点と異なっています。現在の教科書の偏向ぶりに、氏と同じ批判的意見を持っていますが、面白いとか面白くないとか、そのような観点から考えたことはありませんでした。

  ・日露戦争というのは、言って見れば横綱と新十両の取り組みです。新十両は日本、つまり近代化して、近代国家の仲間入りをしたばかりの日本が、当時の最大の軍事大国である横綱のロシアと戦った。体力実力は、問題なく横綱の方が大きい。

  ・しかし新十両の日本は、とても元気がよかったから、なにくそってんで犠牲を恐れず猪突猛進した。それで最初のうちは、新十両がかなり押した。横綱ロシアは、少しふらふらっとした。一呼吸おいて頑張れば、いつでも盛り返せるという自信をロシアは持っていた。

  ・ところがその時、審判が出てきた。これが、アメリカです。アメリカは判定で、日本が一番有利と思われた瞬間に、そこで待ったと止めに入ったんですね。本当いうと、日本はもう武器弾薬が尽きていたのです。

 これが、日露戦争に関する氏の説明です。小・中学生を対象に、故意にこういう文章にしたのでしょうか。確かにわかり易く平易ですが、この叙述に、命がけで戦った先人への敬意の念が感じられるでしょうか。私には、そこいらのコンビニで売っている、コミック漫画でも手にしているような軽薄さしか感じられませんでした。

  5月27日のブログで、社会学者倉橋耕平氏について取り上げましたが、氏はあるインタビューで次のように語っています。

  ・歴史ディベートは、「つくる会」の藤岡信勝が、教育学の分野で実践を始めました。歴史を対象にディベートすることは、はっきり言って詐術です。

 なんの意味か分からなかったのですが、藤岡氏の著作を読みますと、確かにディベートという言葉が沢山出てきます。倉橋氏が敵として攻撃する人間の中に、藤岡氏が含まれていると分かりました。違和感のある藤岡氏と、軽蔑せずにおれない反日学者倉橋氏の対立ですから、双方に興味がありません。

  ・似た者同士の喧嘩なら、好きなだけやればいい。

 そんな印象しかありません。藤岡氏の言葉と倉橋氏の意見に共通しているのは、「日本人の心が無い」、ということです。魂の抜けた彼らが、論戦に勝つため言葉を交えているのですから、保守と左翼という構図で対立しているように見えても、私から見れば似た者同士です。

  藤岡氏に関する情報を、別途調べるてみました。著名な氏は私と同じ国を大切にする人間と思い調べずにいたのですが、どうやら間違いだったようです。

  「昭和18年北海道生まれで、今年75才。北海道大学卒、日本の教育者。」

 「新しい教科書をつくる会理事 ( 前会長 ) 、自由主義史観研究会代表」

 「拓殖大学客員教授、元東京大学教授、元日本共産党員」

 氏が私と同じ昭和18年生まれで、75才と知ったのも意外でしたが、元共産党員と言うのも意外でした。倉橋氏と似た者同志と何気なく言いましたが、見当違いでもなかったようです。

 意外な情報をもう少し、紹介します。

 「昭和37年、当時ソビエト教育学の拠点だった、北海道大学教育学部に入学すると、共産党傘下の民青系サークルに属し、二年生になったとき共産党に入党した。」

 「彼の妻は、北海道教育大学の元学長で、共産党員の教育学者、船山謙次の娘。」「船山謙次の妻しのは、新日本婦人会の札幌代表を務めるなど、共産党系の運動で活躍した。」「船山謙次の兄信一は、著名な共産党系の学者だった。」

 氏は著作の中で自分の父親については書いていますが、妻の家族に関しては触れていません。父親に関する叙述を、紹介します。

  ・私の父親は小さな町役場で、吏員で一生を終えました。生前父は常々、ソ連は、非常に劣悪な国である、それに比べると、アメリカはまだ信用できる、ということを盛んに言っておりました。

  ・戦後半世紀、歴史が大きく回転した結果を見ると、父親のソビエト・ロシアに対する警戒感は、歴史的な根拠のある、正しいものであったと思います。

  ・私の父のような、名も無い庶民が多数を占める戦後の日本国民が、選挙を通じて、社会主義政党を決して多数派にしなかった。

  ・これは今から考えると、誠に正しい判断だったと言わざるを得ないのです。

 残念ながら、氏の説明に共感を覚えませんでした。同じ著作で、氏が共産主義と決別したのは、平成2年の湾岸戦争がきっかけだったと書いています。その時まで、氏は共産党員だったのですから、父親と思想的には対立していたはずです。

 妻方の一族の、筋金入りとも言える共産党員の系譜を知れば、自分の父親を肯定する文章が、果たして何の苦悩もなく書けたのでしょうか。北海道大学卒業の氏が、東大の教授になれたのは、党活動に熱心だった氏を見込み、北海道教育大学・学長だった義父が力添えをしたからだという、情報もあります。

 果たして氏は共産主義思想を信奉していたのか、生きる方便として、学界を支配する赤い思想を利用したのか・・、そういう疑問さえ生じて参ります。

  ・日本には右翼と呼ばれる人々がいて、その主張の当否はともかく、一般の人々の神経を逆撫でするようなことをして、結果として、左翼的な論調に人々を追いやるという役目を果たしたと私は見ている。

  ・私の学生時代の、反民青系トロッキストと呼ばれる人たちは、ちょうど、この右翼と同じ役割を果たしたと思う。

  ・彼らの生活態度を見て、その主張などとうてい信用できないと、私は思ったのである。いずれにせよ学生時代に私は、社会主義幻想に深くとらえられていった。

 これが大学二年生の時、共産党員になった氏の弁明です。私と同年代ですから、北海道と東京の違いがあっても、大学生活は同じ状況のはずです。当時は、全国の大学で紛争が勃発し、過激派の学生たちが先頭に立っていました。現在の中国がいう、「愛国無罪」のようなもので、彼らは何をしても「革命無罪」でした。

 反対派の学生を集団で殴り殺しても、他人に怪我をさせても、学長や教授を弾劾し吊るし上げても、彼らは疑問を抱かず怯むこともありませんでした。その頃の私は今と同じで、惑いつつためらいつつ周りを観察し、氏のような活動家の一途さを、不審の目で眺めていました。

 氏は自分の学生時代を、さらっと書き流していますが、私の経験に照らせばそんなはずはありません。氏は嘘は書いていませんが、大切な事実を省き読者を欺いています。

 著作は最後まで読みますが、書評はここで終わりとします。氏の人間性というか、品格というのか適切な言葉を思いつきませんが、倉橋氏と同じ卑しさがちらつきます。

 右にも左にも、碌でもない人間がいるのは当たり前の話でしょうが、実際に出会うと、不愉快になります。騙されやすいわが息子たちには、しっかりと読んで欲しい今日のブログです。

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『旬英気鋭』 ( 千葉日報のコラム )

2018-05-27 15:20:17 | 徒然の記

 5月18日の千葉日報に、「旬英気鋭」というコラムがありました。

 新しく始まったコラムだと思いますが、表題からして引っかかります。気鋭と言う言葉は、意気込みが鋭いという意味で、辞書にもありますが、旬英と言う語はありません。別々に辞書で引くと、旬は、「その時期に一番話題になっている」という 意味があり、英は、「優れた人物」という意味があります。

 つまりコラムは、「その時期に一番話題になっている、優れた人物」の意見を取り上げたもの、ということなのでしょうか。今回は、社会学者である、倉橋耕平氏が取り上げられています。

 ネットで調べても生年月日が不明ですが、新聞に掲載された写真から推察しますと、30代後半か、40代前半に見える若い学者です。

 関西大学で、社会学博士となり、現在は立命館大学の非常勤講師ですが、他にも関西大学、近畿大学、大手前大学などで非常勤講師を務めています。

 氏が博士号を取得している社会学とは、どんな学問なのか。これも念のため、ネットで調べました。何ページにもわたる社会学発祥の歴史や、代表的学者などについて説明がありましたが、簡単に紹介した。

  1. 社会現象やその現象がおこる因果関係を、解明するための学問である。

  2. 思想史的に言えば、同時代史を把握する、概念 ( コンセプト ) を作り出そうとする

   学問である

 歴史学や文化人類学や政治学とどう違うのか、説明を読んでもサッパリ分かりませんでした。「分からない」ということが、「分かった」ので、ここから本日のブログを始めます。

 たかだか千葉日報のコラムに向かおうとするのに、なぜ「ねこ庭」がここまでこだわり、辞書まで引きくのか。それは、説明のつかない怒りが駆り立てるからです。

  ・歴史修正主義者たちの主張は、戦後民主主義に対するアンチテーゼなのだと思います。」

 写真の横に書かれた氏の主張に、胸が切り裂かれました。氏は私のような人間を「ネトウヨ」と蔑称し、歴史修正主義者と言います。

 「ねこ庭」についても、氏の言葉で言えば、「戦後民主主義に対する、アンチテーゼ」となるのでしょう。「アンチテーゼ」などと言わず、簡単に「反論」と日本語を使えば誰にでも分かるのに、新進気鋭の学者は難しい言葉を使い私のような無知の人間を惑わせます。

 「旬英」の若手学者倉橋氏の卓見を、紹介します。

  ・「南京虐殺はなかった。」「従軍慰安婦問題は朝日新聞が捏造した。」こうした歴史修正的言説が、流布され続けるのはなぜなのか。

 氏はのっけから、私の心を傷つけます。しかも、このクソ生意気な若者らしい、というより、バカ者らしい言葉の腹ただしさ。

 ・ゲームのルールが違うから学問的な正しさで争っても、彼らには響かない。

 戦後の日本を見直そうと苦労いている者を、こともあろうにゲームのプレイヤーとして捉えています。そう言えば、氏は漫画雑誌や月刊雑誌の評論家でもありました。

 最近出版した氏の著書について、千葉日報が解説しています。

  ・歴史修正主義者が台頭した、1990 ( 平成2 ) 年代を対象に、漫画や論壇誌などを分析し社会現象を明らかにしている。

 おだてられれば豚も木に登ると言う言葉がありますが、千葉日報に褒められ、氏は木に登ります。

  ・歴史の専門家でないアマチュアの論者が、読者を巻き込みながら、韓国や、朝日新聞といった敵を名指しすることで、党派性を強め商業的成功を収めていきます。

  ・ネット時代になり、こうした構図がいっそう可視化され、広がった。

 確かに「ねこ庭」は、歴史の専門家ではありません。しかし氏が学者と自称し、木に登った豚でないのなら、国民の多くがなぜ韓国を敵視するようになったのか。なぜ、朝日新聞を敵と攻撃せずにおれなくなったのか。短い、新聞のコラムだとしても、ここを語らなければ説得力がありません。

 南京虐殺はあった。朝日新聞は捏造していない。歴史学者の間では、これらが解決済みの問題というのなら、根拠を示さずしてで読者が納得すると思っているのでしょうか。

 ネトウヨと氏に蔑視され、専門家でないアマチュアと言われますと、温厚な「ねこ庭」紳士でも、機嫌を損ないます。

 ・「ねこ庭」で自分の主張を世間に広めて、いったいどんな商業的な成功を、収めていますか。

 ・「ねこ庭」が党派を作っていますか。

 氏の攻撃相手が、保守系の漫画雑誌や、保守論壇の雑誌だと、知らない訳ではありませんが、抽象的な意見では「ねこ庭」も対象になります。こうした商業雑誌が、国民の目覚めを好機とし、売上を伸ばしているという事実があるのかもしれませんが、それならそうと言えば良いのです。

 ですから「ねこ庭」は、

 倉橋さんよ、と一言言わずにずにおれません。

 ・そんな金儲けの商業誌と、国を大切に思う「ねこ庭」を一緒くたにしていると、どこが気鋭学者の分析力かと軽蔑されるのではありませんか。

 金と地位を求める学界に住む若手学者には、金や地位や無関係に日本を大事に思い、ネットで意見を述べている国民が多くいる事実を把握する力がないのでしょう。

 つき合いついでなので、氏の寝言をもう少し紹介します。

  ・彼らが好んで用いたのが、大東亜戦争は、自衛戦争か否かというような、賛成と反対に分かれて討議するような、ディベート形式だ。

  ・一見公平な装いだが、二項対立に仕立てることで、陰謀論や俗説が根拠の確かな定説のように格上げされる上、真偽の確定や事実の証明よりも、その場限りの説得力で相手を論破し、言いくるめることが最優先となる。

 ここまで言及するのであれば、二項立て論争を例示し具体的に説明しないと読者には伝わりません。それとも氏は専門バカの能力を発揮し、ほとんど世間が相手にしていないような、マイナーで低俗なブログを読み耽っているのでしょうか。

 ・そうした思考方法は、今や首相の国会答弁から、日々のネット上の論争まで、社会を覆っているように見える。

 なんだ、これが言いたかったのかと失望です。一日に一回は安倍総理の批判をしないと、生き甲斐を覚えられない反日・左翼の思考です。若手学者も、この仲間だったかと理解しました。

 氏の寝言があと少し続きます。息子たちには最後まで読んで欲しいのですが、「ねこ庭」を訪問者される方々には、これ以上は大切な人生の空費でしょう。

 ・党派性にもとづく論破が目的化していては、議論は成り立たない。

 ・無防備に彼らの土俵に乗るのでもなく、バカにして無視するのでもなく、その知のあり方を熟知し、あなたの議論のやり方がおかしいと、指摘していくことが重要だと思います。

 やっと終わりました。これが締めくくりの主張です。

 「ねこ庭」は千葉県民の一人として、千葉が生んだ伊能忠敬について語ります。そんなサービスはしたくないのですが、千葉県民の誇りが許しません。

 氏は自分が専門家であると自負し、ネットの素人が歴史を語ることを蔑視します。「私は、憲法の専門家です」と、国会の場で自慢する恥知らずの小西議員の顔と、氏の顔がダブります。

 特に千葉県では、「素人」をバカにしてはいけません。

 伊能忠敬は、日本で初めて実測による日本地図を完成させた実践の学者ですが、地図と測量の勉強を始めたのは、50才になって以後です。「人生、わずか50年」と言われていた、江戸時代ですから、50才から始めた勉強のは、現在でいえば70才以上でしょうか。

 それまで彼は、千葉県香取市佐原の造り酒屋の主人で、家業に精を出していた人物です。息子に家督を譲り隠居した年に江戸へ出て、測量の勉強を始めます。

 何を言いたいのかと言いますと、50才までの忠敬は、測量学において素人だったということです。

 現在の状況で言いますと、70才まで歴史の素人だった「ねこ庭」の私に似ています。素人でも本気になれば、そこいらのクソ学者のレベルくらいまではなれるのだと、これが千葉県の常識です。

 ゲームだとか、ディベートだとかバカな話は、バカな大学ですれば良いのであり、千葉日報に寄稿するに値しません。

 伊能忠敬のような人物は日本が日本である限り、全国津々浦々に存在しています。国を思う心が熱く、熱い心を抱く憂国の人々を十把一絡げに語ってはいけません。

 どの程度の学者なのか不明な氏が、千葉県の公器である千葉日報の紙面で、在野の素人や年長者を、鼻先であしらうような意見を述べてはいけません。学者ならまず礼節を知ることから始めるべきでしょう。こんな言辞を弄すると、千葉日報の読者から嫌われ、まかり間違えば千葉日報が購読されなくなります。

 商売の邪魔をするようなことは止め、記事を寄稿するのなら、倒産寸前の朝日新聞にでもすれば良いのです。「ねこ庭」は千葉日報の支援者ですから、氏の記事を読まされても、違った好意的解釈をします。

  「千葉県の皆さん、日本の若手学者にはこんなバカな意見をいう者がいます。」

 「参考情報として、お知らせいたします。」

 さすが両論併記の千葉日報だ。よくやった、有難い、有難い

 と・・こういう「ねこ庭」の意見のどこが、「二項対立のディベート」になるのか聞きたくなります。

 「ねこ庭」の千葉日報への好意が、いつまで続けられることやら。

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『橋下徹の政権奪取 』- 3 ( 政治を劣化させる、ブレーン集団 )

2018-05-23 15:29:26 | 徒然の記

 平成23年の11月、橋下氏は、大阪都構想の実現を目指し、3ヶ月の任期を残したまま知事を辞職し、大阪市長選挙に立候補しました。

 この時橋下氏は、誰にも応援を頼みませんでしたが、多くの政治家が駆けつけました。東京都知事の石原慎太郎氏と、副知事の猪瀬直樹氏、みんなの党の代表渡辺喜美氏と、幹事長の江田憲司氏、それと前宮崎県知事の東国原英夫氏でした。時の人となっていた橋下氏が圧勝するのは誰の目にも見えていました。

 前杉並区長の山田宏氏は、沢山の応援者がいるので、選挙応援にはいきませんでした。氏は当時、月に一度の勉強会を開いており、参加者は、民主党議員の前原誠司氏のほか、自民党からなど超党派の議員が5、6人でした。

 平成24年の1月に、前原氏の口利きで、橋下氏がこの会に初めて参加しました。この時の様子を、大下氏の著作から紹介します。

 ・会はいつも午後9時頃から始まり、終わるのは深夜零時近くなる。大阪から出てきている橋下だけは、会場近くのホテルに一泊する。

 ・山田は以前から親交のある橋下を、飲みに行きませんかと誘った。二人は酒を酌み交わしながら、他愛ないお喋りをした。そのうち自然と、どうしたら日本の国は変わるのか、という話になった。

 ・山田さん、大阪都構想を手伝ってくれませんか。貴方は、特別区長もやっておられた。

 ・これまで長いつき合いもあるし、できる限りやりますよ。

 大阪都構想は、大阪版の都区制度ですから、橋下氏は杉並区長時代の山田氏の経験を欲しがっていました。

 こうして山田氏は大阪市の特別顧問となり、「新な区、移行推進プロジェクトチーム」の座長に就任します。先の中田氏も特別顧問となり、市内24区の区長を全国公募するという計画を推進しています。

  昨年、小池氏が「希望の党」を立ち上げたときもそうでしたが、国民の人気が高まると、マスコミが大騒ぎして持ち上げます。すると、無視できなくなった既成政党が近づいていきます。

 橋下氏の周りには、自民党や公明党だけでなく、民主党やみんなの党や減税日本も近づきました。都知事の石原氏は、知事を辞め「太陽の党」を立ち上げ、積極的に橋本氏にエールを送ります。「国民の生活が第一」という奇妙な党を作った、小沢氏までが取りざたされました。

 橋下氏は、地域政党だった「大阪維新の会」を発展させ、国政政党「日本維新の会」をつくり、日本中の話題をさらいました。現在はどうなっているのか知りませんが、氏が特別顧問として集めた、他のブレーンたちの名前を、列挙してみましょう。

 原英二

  元経済産業省の官僚、渡辺喜美行革担当大臣補佐官、(株)政策工房社長

 堺屋太一

  元経済企画庁長官

 古賀茂明

  元経済企画庁官僚

 高橋洋一

  元財務省官僚 小泉・安倍政権で内閣参事官、(株)政策工房会長

 竹中平蔵

  元総務大臣、元財務大臣、

 平松市長時代には3人だった特別顧問が、橋下氏になり18人に増えました。類は友を呼ぶと言いますが、ブレーンは竹中平蔵氏や堺屋太一氏を筆頭に、全員自己主張、自己顕示欲が旺盛で、口達者です。

 「維新が目指す、道州制の狙い」

 「傷を恐れずに進む維新、揺れるみんなの党」

 「橋下徹の、政権奪取戦略」と、大下氏の著作は続き、橋下政権はあり得るという結論に達します。

 大阪府知事を辞め、大阪市長を任期満了で退任し、現在では政界からの引退声明まで出した橋下氏です。大下氏の予測が外れたことになりますが、「ねこ庭」が思い出すのは、鴨長明の「方丈記」の書き出しの一節です。

 「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」

 「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまることなし。」

 政界という大河には常に水が流れていますが、もとの水ではありません。川の淀みに浮かぶ泡も、浮かんだり消えたり、長く止まるものがないという有名な文です。

 橋下氏の「維新の党」も、「みんなの党」も、「民主党」も、政界の淀みに浮かぶ、泡の一つに過ぎませんでした。

 つまらない本でも、私が感謝しているのは、氏が教えてくれた、「ブレーン」( 特別顧問 ) と呼ばれる人々の存在です。元官僚が多いのですが、新しく作られる党に集まり、知恵を授けたり、支援したり、リードしたりしています。

 彼らは、党の垣根を越え、自分の「ノウハウ」を売っています。

 それはちょうど、選挙の専門家が政治家に高給で雇われ、選挙の企画から実行まで請け負うのと似ています。

 彼らは、「みんなの党」のブレーンであると同時に、「維新」のブレーンでもありました。竹中平蔵氏などは、小泉政権でも安倍政権でも重用され、橋下氏にも協力しています。

 いつから政党が、このようなブレーンを活用するようになったのか知りませんが、米国式の制度でないのかとそんな気がします。

 「選挙に勝つ」、「政権を取る」、「相手陣営を叩き潰す」と、ブレーンたちは知恵を凝らします。ここでは歴史への理解や、文化や文明への敬意はなく、目前の勝負に勝つことだけが求められます。

 私たちの知らない間に、政党の浮き沈みや選挙活動などが、米国式のプレイに限りなく近づいていたということなのでしょうか。最近の政党が、歴史観も文明への理解も薄くなり、ただ相手を非難したり攻撃したり、そんなことばかりしている理由が、分かった気がします。

 反日左翼の思想だけでなく、政治そのものをプレイ化する「ブレーン集団」の台頭にも、注意を払う必要が出てきました。氏の著作そのものは、レベルの低い読み物でしたが、「ブレーン集団」を描きだしたところに、強い関心を抱かせられました。

 この本は資源ごみとして活用するしかありませんが、氏が教えてくれた事実は、大切に、「ねこ庭」の記憶の箱へ仕舞うことにします。

 著書は資源ごみへ出しても、やはり氏には感謝しなくてなりません。

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『橋下徹の政権奪取』 - 2 ( 官僚組織の功罪両面について )

2018-05-20 18:14:51 | 徒然の記

 橋本氏が、個人的に親しくしている政治家が、三人います。

 元宮崎県知事の東国原英夫氏と、元横浜市長の中田宏氏と、元杉並区長だった山田宏氏です。先ず、東国原氏とのつき合いについて、本から紹介します。

  ・東国原知事と橋本知事は、多い時で月一回、少ない時でも、二ヶ月の頻度で、食事をしながら意見交換していた。

  ・橋本が宮崎へ視察に訪れたこともあれば、東国原が大阪府に、表敬訪問したこともある。

  ・二人が食事をする時は、だいたい酒を飲みながら話をする。とりあえずビールから入って、東国原が昔から好みの芋焼酎を飲めば、橋本も合わせて、芋焼酎を飲む。ハイボールや、梅酒のソーダ割りを注文することもある。

  ・財政規模や行政課題など置かれた立場に違いはあれど、都道府県知事として抱える、共通の課題がある。地方自治体の部局は国の省庁の下部組織だから、農政は農政、総務は総務、土木は土木といった具合に、良くも悪くも、縦割り行政になっている。

  ・議会運営においても、橋本は自民党議員団が応援していたものの、無所属だから、東国原と同じような立ち位置だった。

  ・東国原も橋本も、忌憚のない意見や、自らの悩みを互いにぶつけていた。議会の体制派との論争、中央集権と、地方分権との戦いなど、忸怩たる思いを何度もしてきた。

 東国原氏にしても、橋本氏についても、タレントとしての印象が強いため、どうしても軽く見てしまいます。しかし氏の説明を読んでいますと、政治家としての真剣な姿も知らされます。

 次に、元横浜市長の中田宏氏との、つながりについて紹介します。

  ・中田宏が橋下と深く関わるようになったのは、平成20年1月のことである。橋下が、大阪府知事になった時で、中田はこの時横浜市長2期目であった。

  ・当時大阪府は5兆円の負債を抱え、財政再建は、横浜市で中田が市長として取り組んでいた。

 二人は彼らの政策を遂行する上で、最大の障害となっている官僚組織に関し、意見が一致しました。二人の対談がありますので、抜粋して紹介します。

  [  橋 下  ]

 ・今の議院内閣制は、明治以来の官僚が作り上げた官僚内閣制だ。

 ・政治がどうなろうが、公務員組織だけは安泰というこの仕組みを、抜本的に変えないといけない。

 ・僕は外部から人材を登用しようとしたが、ものすごい抵抗をされた。1年、4ヶ月かかった。」

  [  中 田  ]

 ・国も地方も、縦割りがあるが、 性格が違う。霞が関の縦割は、野球で例えると、レフトとセンターが中間に落ちるボールを、それぞれが取りに行ってぶつかる。省庁の権益を、どうやって広げるかというもの。」

    ・地方の縦割は、センターとレフトが互いに譲り合い、この仕事は俺じゃないというもの。

 ・共通しているのは、先輩の作ったシステムを絶対ひっくり返さないこと。

 公務員は、何をやっても責任を追及されず、定年まで仕事ができ退職金を貰える。十年以上配置転換のない者もいて、仕事への緊張感が無い。議員は選挙で審判を受けるから必死になるが、身分保障のされた公務員は新しいことをやる気が無い。

 橋下氏と田中氏は、官僚をやる気にさせるための知恵を共有しようと、意気投合します。バブル時代以降の官僚と言いますか、公務員と言うのか、確かに私たちから見れば酷い話がありました。

 リストラで苦しむ民間人を横目に、いい気な仕事ぶりが目立った時がありました。

 しかし一方的に貶しますと、やがてそれは私の嫌悪する極論になります。世間では、改革といえば全てが前向きで、正しいことのように受け止め、マスコミもそのような報道の仕方をします。

 改革する者は正義で、反対する者は悪だと、そんな小泉式構図が広められますが、私たちはここで考えなくてはいけません。

 昔からの制度や、受け継がれてきた習慣などを破壊することが、すべて正義であり、善なのかと、立ち止まって考える必要があります。官僚の保守的な思考や勤務態度が、常に社会の発展を阻害していると、簡単に決めつけてはなるまいと思います。

  もしも官僚が、制度や伝統をおろそかにし、時の政治家の言うままになっていたら、それはそれで大変なことになります。卑近な例でいいますと、反日の民主党の政権時、政治家に官僚が唯々諾々としていたら、日本は、今頃中国と韓国・北朝鮮の属国みたいになっていたはずです。

 民主党の政治家たちは、中国、韓国、北朝鮮系の在日を、秘書や顧問という肩書きで政権内に入れ、国の機密事項を触らせました。面従腹背し、国の危機を外らせ、国益を守ったのは、官僚であったことを忘れてはいけません。

 文科省の次官だった前川喜平氏も、安倍総理にだけ面従腹背せず、反日の民主党にそうしていたら、素晴らしい官僚として名を残せたはずです。氏がやったのは、逆の行為でしたから、「ねこ庭」は密かに氏のことを、官僚組織の中の腐ったリンゴと呼ぶことにしています。

 橋下氏と中田氏が語っている官僚批判は、事実の一面であり、全てではありません。官僚が安心して仕事ができるようにし、日本の伝統や歴史が破壊されないようにするため、公務員の身分保障は必要なのです。

 政・官・財が癒着し、国民から集めた税金を浪費し、私腹を肥やす事件がありましたから、手放しで褒められる官僚組織ではありませんが、二人の話を聞き、素晴らしいと早合点することは危険です。

 話が飛びますが、憲法を無視され、退位の情報をNHKにリークされた陛下のことを、ここでも「ねこ庭」は思い出します。

 宮内庁の官僚は現在、主流が外務省からの出身者で占められています。橋本、田中両氏の意見に従えば、宮内庁の官僚は改革の先頭に立つ正義の役人たちです。一連の陛下のご行為が、憲法の規定に反していることをお諌めせず、皇室の歴史と伝統を破壊される陛下に、諾として従いました。

 宮内庁にいる外務省からの出身官僚は、 「ねこ庭」に言わせて貰えば、日本の歴史と伝統を破壊する官僚組織の中の腐ったリンゴです。

 話が宮内庁にまで及びましたため、橋下氏と親しいもう一人の政治家を、紹介するスペースがなくなってしまいました。山田宏氏につきましては、次回のブログとします。

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『橋下徹の政権奪取』 ( 大下英治氏の著書 )

2018-05-17 14:46:24 | 徒然の記

 大下英治氏著『橋下徹の政権奪取』( 平成24年刊 (株)イースト・プレス )を、読み終えました。

 政界の裏話というのか、離合集散する政治家への応援歌とでもいうのか、ゴシップ話の集積でありながら、一方ではかなり真面目に政治家を語っていると、そんな気もします。簡単に言い表せない、奇妙な本でした。著者の略歴を紹介します。

 ・昭和19年、広島県に生まれる。

 ・1歳の時被爆し、父を失う。苦学の末、広島大学文学部を卒業

 ・昭和45年、週刊文春の特派記者、いわゆるトップ屋として活躍

 ・月刊文藝春秋に発表した、『三越の女帝・竹久みちの野望と金脈』が大反響を呼び、岡田社長退陣のきっかけとなった。

 ・その後作家として独立し、政治、経済、芸能、闇社会まで幅広いジャンルに渡り、旺盛な執筆活動を広げる。

 裏扉の著者略歴を読みますと、ゴシップ記事風の書きぶりに、納得させられるものがありました。立派な装丁ですが、これも市の図書館の廃棄本です。税抜きで1500円もしますから、タダでなければ、年金暮らしの私には縁のない本でした。

 千葉市に感謝しつつ、1ページ目の書き出しを紹介します。

  ・平成24年9月21日、橋本徹大阪市長が率いる大阪維新の会が、結成した「国政新党日本維新の会」に、合流するため、民主党、自民党、みんなの党の、衆参7名の国会議員は離党届を提出した。

 この時参加した国会議員は、民主党から松野頼久、石関貴史、水戸将史の3名で、みんなの党からは、桜内文城、上野宏史、小熊慎司の3名、と自民党から松浪健太の計7氏でした。 

 平成24年と言えば、わずか6年前の話です。民主党政権が行き詰まり、衆議院解散の風がいつ吹くかと言われていた時期です。選挙になれば、民主党は大幅な議席減になると、多くの国民が予想していました。議席を守りたい議員たちは、沈みそうな泥舟を見限り、より有利な政党への移籍を模索していました。

 そんな時、日の出の勢いで伸びてきた「大阪維新の会」が、国政政党を立ち上げようと言うのですから、浮足立つ議員が出てきても不思議はありません。離合集散は信念のない議員の常ですから珍しくありません。

 書き出し部分を読んでいますと、昨年の9月にも、10月の衆議院選挙を前にし、浮足立つ議員たちが、よく似た離合集散をしていたことを思い出しました。6年前の主役は橋本大阪市長でしたが、昨年は小池都知事でした。

 二人とも現職の自治体の長でありながら、国政への野心を燃やす政治家であるところが、共通しています。橋本氏は、「日本維新の会」を、小池氏は「希望の党」を立ち上げました。お祭り騒ぎの好きな、無責任なマスコミにもてはやされましたが、選挙が終わると、橋本氏も小池氏も批判にさらされ、天狗の鼻を折られたところまで共通しています。  

 著者の大下氏は、橋本氏を誉めますが、未だに私は、橋本氏がどんな政治家なのかよく分かりません。「二兎追うものは、一兎重をも得ず」という諺がありますが、地方自治体の長も兼ねながら、国政にも影響力を持とうとするところからして、政治姿勢に疑問を抱きます。

 堅実な計画を立て、長い時間をかけるのならまだしも、一気に国政にも手を伸ばそうとする大胆さというか、無謀さというか、欲張りというのか、小心な私には理解が及びません。

 話を「日本維新の会」に戻しますと、7名の国会議員のうち、現在在籍しているのは自民党を離党した松浪健太氏だけです。後の6名は、主導権争いや、政治信条のズレなどから、結局出て行ってしまい、今はどこで何をしているのか私は知りません。

 著者は橋本氏を誉めていますが、どういう面を評価しているのか、参考のため、その一部を紹介します。

 ・橋下徹は、失敗をした際のリカバリーに関しても、天才的だった。

 ・橋本は、同じ改革派である小泉元首相とたびたび比較されるが、細かく見ていくとやはり異なる。

 ・小泉は、なにか問題が起きた時、煙に巻くような態度をとる。人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだといった名セリフは、その代表だろう。

 ・確かに、それそはそれでうまいが、橋本は指摘をまっとうに受けて、決して逃げようとせず、きちんと謝罪したり修正したりする。余計な弁解なども、しない。

 みんなの党の小熊慎司議員が、橋本氏と会った時の印象を著者が紹介していますが、これも橋本氏への賛辞です。

 ・小熊が初めて橋本に会い、意外に思ったのは、トップの立場にいてあれだけ饒舌な橋本が、会合の時間の多くを聞き役に回っていることだった。

 ・つまり、橋本は聞く耳を持っている。みんなの意見をきちんと聞いた後に、テレビに出演している時とまったく同じ調子で、ビシッと自説を述べる。

 ・また橋本は、物事の本質を捉えることが、うまい。本質は目に見えず、言葉での説明にも限界があるが、橋本は瞬時にして、核心的な部分を掴んでしまう。

 ・橋本は小熊との会話の中から、キーワードを拾い、ちゃんと分かっているという意味を込めて、そこが大事ですよねと言ってくれる。

 著者にしても小熊氏にしても、人物を評価する基準が、「ねこ庭」と違っています。「ねこ庭」は、相手が持つ歴史観や日本への思いを第一と考えます。とくに敗戦後の日本について、どのように考えているのか、どんな問題意識を持っているのか。

 それを確かめないまま、政治家を評価したり判断したり、どうしてそのようなことができるのか。この二人に対し、「ねこ庭」は疑問符をつけます。こんな表面的な基準で、橋本氏を気に入ったりするから、小熊議員は、後に日本維新の会を離党することとなります。

 小池都知事の「希望の党」騒ぎ以来、またしても民主党が、「立憲民主党」、「無所属集団」、「国民民主党」などと、四分五裂しせめぎあっています。もしかすると、小熊議員だけでなく、離合集散を繰り返す議員たちは、現在でもこの程度の政治家なのかなと情けなくなってきます。 

 今の政党の乱立ぶりを頭におきつつ、他山の石として、次回から、大下氏の著作の紹介をしたいと思います。小熊議員同様、氏のレベルも高くなさそうですが、興味深い裏話を語ってくれますから、それを紹介方々ブログにまとめます。

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千葉日報にも、馬鹿なコラム

2018-05-10 13:11:07 | 徒然の記

 千葉日報の、4月20日のと、4月24日の記事を、紹介します。

 先ずは、4月20日の「忙人寸語」です。恐らく千葉日報の、幹部どころの社員が書いているのでしょう。週に何回か掲載される、コラムです。折々の話題をとりあげ、記者の目から語るというもので、新聞社の姿勢も見える記事です。少し割愛しますが、なるべくそのまま紹介します。

  ・冤罪の陥穽は、社会の至る所に口を開けている。その底知れぬ穴に落ちたが最後、無事脱出するには、しとど汗をかく。

  ・会社員Aさんは、駅でトラブルに巻き込まれた。

  ・狭いホームで、突然、女が眼前に。衝突回避のため、手で女を制し、その場を後にした。トイレで小用をすますと、出口にくだんの女が。

  ・「乱暴された、警察を呼んだ」と、まくし立てている。人生最大のピンチに、Aさんは、冷静沈着。

  ・ヒステリックに喚き散らす女を背に、警官の到着を待つ。

  ・大挙して押し寄せる警官に、開口一番、「ホームの防犯カメラを、確認してほしい。」

  ・警察の取り調べ室での聴取は、やがて世間話となり、Aさんは、拘束を解かれた。防犯カメラの映像から、女の嘘がばれたのだという。

  ・女性記者へのセクハラ疑惑で、事実上の更迭となった、最強官庁の事務方トップ氏は疑惑を否定しており、裁判で争うという。

  ・冤罪を主張するなら、例の音声データを覆す、潔白の証明があるのか。

  ・奈落にて、さぞや大量の汗をおかきのことだろう。

 一面のコラムを読んだ後、次の紙面の大見出し、唖然としました。

 「セクハラ疑惑」「被害者は、テレ朝女性社員。」

 「財務省に抗議、調査要求」

 大きな活字が並ぶ横に、これもまた、大きな写真が掲載されていました。写真の説明には、

 「テレビ朝日の女性社員が、福田淳一財務事務次官のセクハラ被害を受けていた、と明らかにする篠塚浩報道局長。」と、あります。

 4月の24日には、これに劣らない大きな記事で、写真と見出しが、紙面を飾りました。これもそのまま、紹介しますまず掲載された写真の見出しです。

 「女性記者、もう黙らない。」

  「セクハラ必要悪、許さず。」

 写真を説明する記事です。

 ・国会内で開かれた、「セクハラ被害者、バッシングを許さない、」とする、緊急院内集会。女性団体の代表や、国会議員、市民が参加した。。

 テレビを見ても、ネットの動画を見ても、セクハラ騒ぎがあふれていますから、千葉日報だけを責める気はありません。しかし同社はちょっと立ち止まり、庶民の常識を働かせれば、こんな馬鹿騒ぎの仲間入りをしなくて済んだはずです。

 もう一度、幹部社員のコラムに戻ります。

 「ねこ庭」はコラムを5段階に分け、都度生じる疑問を下記の通りメモしました。最初の4つまでは、世間の常識のまともな疑問です。ところが最後の5つ目で、テレビ朝日の報道局長の非常識な行為です。

 コラムでは、女性記者の録音テープに世間常識の疑問も抱かず、福田次官を冷笑していますが、5番目に来るのは「テレビ朝日のやらせ疑惑」です。

  1. どうして女性記者は、あらかじめ録音などしたのか。

  2. 録音・編集されたテープは、はたしてそのまま信用できるのか。

  3. 女性記者が上司に相談した時、なぜ上司は、女性記者の不自然なセクハラ被害公表を

   止めなかったのか。

    4. なぜ女性記者は、テープを他社の週刊誌に渡したのか。

    5. テレビ朝日の篠塚報道局長は女性記者の実名を公表し、彼女のプライバシーを

   守ろうとしなかったのはなぜか。

 素人でもすぐ頭に浮かぶ疑問が、なぜコラムの担当記者に浮かばなかったのでしょう。コラムの記事がなかったら、

 「千葉日報もマスコミ界の付き合いで、他社に合わせて、つまらない記事を載せたものだ。」

 と、こんな感想で終わったばずでした。

 財務省の「好き者官僚」を憎むあまり、こんな常識外れのコラムを書くのでは、「ねこ庭」も庇いきれません。

 福田次官の愚行は、常識からして許せないのは当然です。大蔵省は何年か前も、業者の接待でしゃぶしゃぶ喫茶へ行き、ノーパン女性のサービスを受け、世間に糾弾されたいわくつきの「好き者官庁」です。

 近いところでは、文部次官だった前川喜平氏も、暴力団の経営する少女売春喫茶に入り浸っていました。高級官僚の中には碌でもない「好き者」がいて、国民は怒りを堪え我慢しています。

 権力に奢る彼らを叩けば庶民が手を上げて喜ぶと、つまらない記事を書いたコラム氏の記者へ言わずにおれません。

 ・それでは、読者を低く見ていませんか。

 ・貴社の「両論併記」に敬意を払っている読者は、バカなコラムを軽蔑します。せっかくの読者を、失望させてはなりませんよ。

 忙しいので最近の新聞を読んでいませんが、トキオの山口某というタレントの、セクハラ報道もちらちら耳にします。これもテレビ朝日の女性記者の話と同様、どっちもどっちの事件で、片方だけ責めて騒ぐマスコミもおかしいのではないでしょうか。

 女性記者も女子高校生も、自らが隙を見せ、世間の常識を外れた時間と場所で、危険な男と2人きりになるのですから、女性の方にも非があります。

 相変わらず、国会では反日・左翼の女性議員たちが、鬼の首でも取ったように、騒いでいます。

 「女性団体の代表や、国会議員、市民が参加した。」

 と千葉日報社が写真の説明をしていますが、「ねこ庭」ならこう書きます。

 「いつもの女性団体の会長や、反日・左翼の国会議員、動員された活動家が参加した。」

 千葉日報社に、こんな偏向した説明を書けとは言いません。それでは、中庸を大切にする読者を失います。コラムの記者さんに言いたいのは、マスコミ界のつき合いを優先せず、いつもの「両論併記」を大切にしなさいということです。

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『真珠湾作戦回顧録 』- 2 ( 感銘を受けなかった理由 )

2018-05-07 10:04:53 | 徒然の記

 なぜ、源田氏の著作に感銘を受けなかったのか。

 陸軍と異なり、海軍の戦いがいかに呆気ないものであるかを、氏の説明を読むまで考えたことがありませんでした。

  ・海軍は、数十年にわたる、長い苦しい訓練を重ねるが、いよいよ決戦ともなれば、おおむね一時間もあれば戦闘は終了し、しかも、勝敗の分岐点は、最初の数分間で決まるのである。

  ・まことに、十年兵を養う。ただ一日、これを用いんがためなりとは、まさにこのことを言ったものであろう。

 陸上の戦いも熾烈ですが、海の上での戦争は、一旦始めたら即座に勝敗が決まってしまうのです。しかもせいぜい一時間というのですから、瞬時の決戦です。数に劣勢の海軍が、優勢な米国艦隊を撃破するために払った努力は、並大抵のものでなかったと氏が説明します。

 海軍の軍団構成は、戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦となっています。海軍は戦艦を中心として戦い、他の艦はすべて、戦艦を敵から守るためにあるのが、基本だそうです。

 真珠湾攻撃作戦は戦艦中心の戦いでなく、航空機を前面に出した、画期的な戦法だったと言います。海軍の上層部は日本海海戦の勝利以来、大型戦艦が戦争の勝敗を握ると固く信じ、山本長官の航空機作戦に賛成する者がいませんでした。

 大西中将が一人賛同し協力をしたことや、南雲中将は消極的態度だったことなど、舞台裏を知る意外感もありました。

 氏は、勝利を収めた真珠湾攻撃に関連する三人の将軍、山本五十六、大西瀧次郎、南雲忠一氏を、傑出した軍人であると高い評価をしています。特に、大西中将については傑物と語っています、

 ・人物を評価する場合、一言で言えばどんな人であったかと、そんな質問が、よくされるが、大西滝治郎という人物は、一言にして評価できるような、単純な人物ではなかった。

 ・豪放磊落の反面、驚くほど緻密であり、飛んで行って、死んで来いと言わんばかりの厳しい命令を出すかと思えば、その心情に同情し、パイロットたちと一緒になって涙を流す人でもあった。

 ・海軍には、心の底のしれない先輩が若干いたが、大西中将のごときはその最たるものであろう。

 氏は優れた三人の将軍について述べるだけでなく、真珠湾の作戦を成功させるため、命がけの工夫と研鑽をした部下についても語ります。

 海軍の伝統的な戦い方は、攻めてくる敵艦隊を待ち伏せし迎え撃つというのが基本形でした。バルチック艦隊を全滅させた日本海海戦も、戦い方はこれでした。

 しかし真珠湾攻撃では、戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦という、軍団構成は取るものの、戦い方は航空機が主体でした。しかも動いている敵艦を迎撃するのでなく、停止した戦艦を浅瀬の湾内で撃破するというのですから、すべて海軍の基本を離れた奇策であったのだそうです。

 実行に移す参謀の源田氏はもちろんのこと、実践に参加するパイロットたちも、浅い海に浮かぶ戦艦に、どの角度から、どの程度の高度で魚雷を投下すれば良いのか。未経験の戦闘に知恵を絞り、研究し、訓練を重ねます。

 飛行隊長村田少佐、加賀飛行長、佐田中佐、翔鶴飛行長、和田中佐など、多くのパイロットの名前と、研究・訓練の内容が詳細に解説されています。このパイロットたちのほとんどが、真珠湾の戦いで命を落とし帰らぬ人となりました。

 氏が作戦に参加したパイロットについて詳述するのは、鎮魂と感謝の気持ちからだと思います。将軍を語るのと同じ枚数を費やし、氏が著書で取り上げなければ、彼らの名前は知られないままでした。

 布留川大尉、江草少佐、島崎少佐、高橋少佐と、歴戦のパイロットたちの名前が出るたび、私たちのご先祖様となった彼らに手を合わせました。

 氏は特攻隊の兵を前にし、大西中将が行った演説を紹介しています。

 「国を救う者は、諸君青年である。諸君だけ殺しはせぬ。俺も必ず後からゆく。」「ただ俺は、指揮官だから、最後でなければ、死なない。」

 そして氏が、中将について説明します。

 ・中将は特攻隊創設を決意した時、このいくさが勝っても負けても、死ぬ腹を固めていたことが、伺えるのである。

 ・終戦時海軍首脳の中で、最も強硬な戦争継続論者は、当時軍令部次長であった大西中将だった。

 日本の降伏が決した時、中将が割腹自決したのは周知の事実です。

  氏が本を出版した昭和45年がどういう年であったかを、振り返ってみたいと思います。

 沖縄返還を花道に佐藤首相が退陣し、田中幹事長が首相となり、今太閤ともてはやされます。グアム島で元日本兵の横井氏が発見される一方で、札幌での冬季オリンピックが開催、山陽新幹線の延長など、日本からは敗戦の痛手が消えていました。

  1 月 グアム島密林内で元日本兵・横井庄一氏発見、救出。

  2 月 第11回冬季オリンピック、札幌で開幕。35カ国参加。
     ・連合赤軍の5人、軽井沢の浅間山荘に龍城。28日警官隊突入(浅間山荘事件) 
     ・ニクソン米大統領、中国訪問(~2.27)

  3 月 山陽新幹線、大阪~同山間開通。

  5 月 沖縄施政権返還 沖縄県発足

  6 月 佐藤首相、退陣表明。

  7 月 第一次田中角栄内閣成立。

  9 月 田中首相、日中共同声明に調印、国交樹立

 どの出来事も、テレビの映像とともに記憶に残っています。経済が活況を呈し、高度成長期に入ろうとする勢いのある年でした。しかし素朴な疑問が、ここで生じました。

 自決した将軍を思い、戦禍に散った部下を思いやり、そのために著書を出したというのなら、氏はなぜ国の安全保障について一言も語らなかったのか。グアム島で発見された横井さんのように、氏は名前も知れられていない一兵卒ではありません。真珠湾、ミッドウェイと、歴史に残る戦いを指揮した参謀として、日本の現状を思う一言がどうして著作の中で述べられなかったのか。

 敗戦後の日本がアメリカの属国になっていることや、憲法が軍隊を否定していることに対し、抑えても出てくる憂国の情があるのではないかとそんな気がしていました。

 「たとえこのいくさには負けても、日本人は100年でも、200年でも、アメリカと戦うのだ。」

 と大西中将の言葉を伝えているのなら、なぜ氏は日本の現状への思いを、著作で語らなかったのか。

 東京裁判史観が主流を占め、軍人は口をつぐむしかなかった時代だったとは言え、いやそういう時代だからこそ、日本のため心情を吐露すべきではなかったのか・・

 だから私は氏の著作に感銘を受けず、不完全燃焼のまま、「ねこ庭」の紹介を終わります。

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『真珠湾作戦回顧録 』 ( 源田實氏の著書 )

2018-05-06 08:30:20 | 徒然の記

 源田實氏著 『真珠湾作戦回顧録』(平成10年刊 (株)文藝春秋)を、読了。

 源田氏について、私が知っているのは、氏が参議院議員であったことと、軍人であったこと・・それだけでした。しかしブックカバーに書かれた略歴を読み、びっくりするほどの経歴を知りました。

  ・明治37年広島県生まれ、

  ・大正10年、海軍兵学校に入学

  ・昭和3年、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生、以来一貫して海軍航空畑

  ・昭和16年航空艦隊幕僚、真珠湾攻撃、インド洋作戦、ミッドウェイ攻略などの作戦に参謀として参加

  ・終戦時は海軍大佐

  ・昭和29年に防衛庁入庁し、空将、航空幕僚長を歴任

  ・昭和37年参議院議員に当選、以後4回当選し、平成元年に84才で死去

  明治37年の日本海海戦で、東郷大将がバルチック艦隊を全滅させました。この時、東郷司令長官を補佐したのが、秋山真之参謀でした。寝食を忘れ、ロシア艦隊の全滅作戦を立案したのが、秋山参謀であることは多くの人が知っています。

 真珠湾攻撃と言えば、敗戦後の現在では、卑怯な奇襲作戦としてしか語られていません。日米開戦の火蓋を切った戦いですから、敗戦思考の現在の日本人には、恥じる思いが先に立ち、むしろ忘れたい日となっています。

 しかし戦前は「戦勝記念日」と呼ばれ、国民の祝日だったそうで、私は真珠湾攻撃の二年後の昭和18年に、満州で生まれました。出産予定日が12月8日でしたから、郷里の祖父母たちが喜んでいたそうです。しかし私は一日遅れの、12月9日に生まれました。

 昔の話なのでどこまで本当なのか分かりませんが、当時の出生届は、本籍地の役場でしていたのだそうです。戦勝記念日と同じくらい目出度い日はいつなのかと、祖父が思案し、「一月元旦、正月だ」と考えつきました。

 ですから私の戸籍上の生年月日は、「昭和19年1月1日」となっています。

 真珠湾攻撃の12月8日という日は、田舎に住む祖父でさえ疎かにできなかった目出度い日だったということになります。残念に思った祖父が、これに匹敵する国民の祝日の「一月元旦」に誕生日を決めたも分かる気がします。随分いい加減な話ですが、私の生年月日には、歴史の匂いがこもっています。

 日米開戦の初戦を飾った真珠湾攻撃は、南雲中将が連合艦隊司令長官で、中将を支えた参謀が本の著者源田中佐でした。いわば氏は、日本海海戦で東郷大将を支えた、秋山真之参謀と同じ立場にいたのです。

 秋山参謀のように歴史に残る人物として語り継がれて良いはずなのに、氏はどうしてそうならなかったのか。二つの原因がありました。

  1. 日本の敗戦

   東京裁判で、日本がした戦争はすべて間違った極悪非道な戦いだっ

   たとされ、真珠湾攻撃が「卑怯な騙し討ち」の代名詞になったこと。

  2. ミッドウェーの敗戦

   南雲中将の率いる無傷の艦隊が米軍の攻撃で無残に壊滅し、その後の日本

   の敗戦を早める結果となった。源田中佐は、ここでも南雲中将の参謀だった。

 源田氏はミッドウエーの敗戦について述べていませんが、巻末の解説で日大教授の秦郁彦氏が書いていました。

 源田氏は普通の軍人でなく、キラ星のように輝くエリートであ、歴史の生き証人の一人だと分かりました

 小さな活字で、305ページにわたり、真珠湾作戦に関する海軍の苦労話が、詳細に綴られています。優秀な参謀らしくたくさんの資料を使い、整理された事実を克明に語ってくれます。

 ・真珠湾作戦を考えついたのは、山本五十六元帥だった。

 ・賛同したのが大西中将で、司令官となったのが南雲中将だった

 しかし私は、氏の著作に感銘を覚えませんでした。戦前の話なら、何にでも心を動かされると思っていましたが、ただ文字を追っただけで氏の著作を読み終えました。

 理由の説明は次回に譲ることとし、本日はこれまでと致します。5月6日、ゴールデンウィーク最後の日曜日です。爽やかに晴れた、美しい朝です。

 けれども、心が少し曇っています。

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『ナチズム 』- 2 ( 「人の振り見て、わが振りなおせ。」 )

2018-05-03 20:05:18 | 徒然の記

 村瀬氏の著書は、これまでにない、読書経験をさせてくれました。

 文庫本ですから、250ページしかありませんが、一週間以上かかりました。難解なため、日にちを要した文庫本も以前にありましたが、そんな理由ではありません。

 最初の30ぺージ辺りまでは、ヒトラーの「わが闘争」が、いかに嘘だらけかという説明で、痛快でした。180ページくらいまでは、ヒトラーが政権を取るまでの、詳細な活動記録です。ベルリン、バイエルン、ミュンヘンなど、地方政権の相互関係は、細かくてややこしくて、うんざりしました。

 当時のドイツは、江戸時代の日本のように、地方ごとに藩に似た自治組織に分かれていたようです。そんな基本を説明せずいきなり地方政府や、軍の将軍名が語られると、整理がつかなくなります。

 「木を見て、森を見ない」という言葉がありますが、この間の詳細な説明に、何度も癇癪を起こしました。ちょっと一例を挙げて見ます。

 「エーアハルト海軍旅団が、他の民間国防団体と異なる点は、この部隊のに内部に、幾つもの組織が分立していて、全体としては、むしろ、右翼運動の、幹部組織の感があったことである。」

 「従属組織としては、ナチス党突撃隊の他に、ヴィキング団などがあり・・・」

 これらの組織が何人で構成され、何名以上が隊と呼ばれるとか、公表する人数と実際は違っているとか、私にすればどうでもいい説明が、何ページにもわたり続きました。

 しかし楽あれば苦あり、苦あれば楽ありの言葉通り、190べージ以降は、私の知りたいと思う事実が書かれていました。「ナチスと保守反動派の違い」の表題以降、ナチスが崩壊するまでの叙述は啓蒙の書でした。

 グリコのキャラメルは、一粒で二度美味しいという、宣伝文句ですが、村瀬氏の著書は、「一冊で、三度美味しい」」と言えます。中間に挟まる退屈な説明も、最初と最後の有意義さを思えば、料理の引き立て役だったかと好意的解釈もできます。

  と、ここまで書き、5日が経過しました。

 突然ですが、ナチスとドイツに関し、これ以上ブログにすることを、止めようと思います。このテーマは、年金生活者である私が、「ねこ庭」の片隅で語るには、あまりに大きな主題です。

 「敗戦後の日本」を勉強するだけで四苦八苦している自分が、どうしてドイツにまで手を広げられるのか ?

 小さなアリがゴビの砂漠か、ヒマラヤの岩壁か、巨大なものを前にしているような、そんな例えがピッタリとします。日々繰り広げられる、国会の不毛な論議、反日マスコミの偏向報道の氾濫など、「ねこ庭」にはその方が先決問題です。

 中断する前に、村瀬氏の著作から、ヒトラーの大嘘を訂正する叙述を紹介しておきます。以前、『わが闘争』の紹介をした時にも触れましたが、村瀬氏も同様の指摘をしています。

 ・これまでの定説によれば、ウイーン時代のヒトラーは自分の肉体労働によって、自分の生活費を稼がなくてならない貧乏人であり、ふだんは浮浪者収容所や、独身者合宿所で暮らし、金がなくなると臨時労働者として働き、下手な画工としてポスターなどを描いたりしていた、ということになっている。

 ・これに対しイェツィンガーは、ヒトラーは金に困っておらず、中産階級の学生並みの生活をしていた。

 ・その後、浮浪者収容所で暮らすようになっても、毎月25クローネの孤児恩給があったから、三度の食事には事欠かなかった。

  ・時々雪かきなどの臨時労働はしたかもしれないが、建築現場で正規の補助労働者になったことはない。

  ・現在では多くの研究者が、この説を採用している。

 さらに氏はイェツィンガーの話として、『わが闘争の』主張は誤りで、ヒトラーは政治と学問を本格的に勉強するほどの、根気も意欲も持っていなかったという酷評を紹介しています。

 ・ヒトラーがこの時代に、組織的体系的に読書し、思索した形跡は、全くない。

 ・彼が学問的に、大した知識を持っていなかった何よりの証拠は、極右思想家ゴットフリートの、粗雑な経済講話を聞いて、初めて経済学が分かったと『わが闘争』のなかで、告白していることから見ても明らかである。

 ・ウイーン時代に世界観を確立したという、『わが闘争』 の主張は誤りであり、まだ何ら、明確な思想体系を確立していなかった。

 ・ヒトラー自身は、自分が感銘を受けた本の名前はひとつも上げていない。ただ、非常にたくさんの本を読んだと、自慢しているだけである。

 ・イェツィンガーは、彼が読んだのはせいぜい新聞とパンフレットだけであろう、莫大な本を読んでいたにしては、『わが闘争』の中の社会主義や、経済学についての理解が、あまりにお粗末過ぎると攻撃している。

 村瀬氏はイェツィンガーを引用しながら、ヒトラーの批判をしています。『わが闘争』だけを読み、ヒトラーを理解することの間違いがよく分かります。

 今の日本には、なにを勘違いしたのか、ヒトラーを偉いと勘違いしている若者がいます。歴史を探求している人間から見れば、生半可な知識は、即座に見透かされます。ヒトラーのように謙虚さを忘れ、自己宣伝ばかりしていると、後世で恥をかくことになります。

 日本には、昔から、いい諺があります。

 「人の振り見て、わが振りなおせ。」

 ですから「ねこ庭」も、このあたりでナチスの紹介を終わります。訪問され、ご意見を下さった方々には、心から、お礼を申し上げます。

 少し早いのですが、今夜は焼酎のロックを楽しみ、早めに床に就くことといたします。お休みなさい。

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