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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

高橋正衛氏著『二・二六事件』- 2 ( 制服組と背広組 ) 

2017-08-31 20:00:18 | 徒然の記

   私はこれまで、日本が普通の国なら軍隊を持つべきであり、そのためには、当然憲法を改正しなければならないと考えてきました。

 その先を何も考えていませんでしたが、岡田啓介氏の『回顧録』から始まり、白石正義氏の『私の昭和史』、末松太平氏の『私の昭和史』、そして高橋氏の『二・二六事件』を読み終えたところで、自分の前に大きな課題が存在していることを知らされました。

 「憲法改正」後の「日本国の軍隊」は、どうなければならないのかということです。

 大した知識のない年金暮らしの自分が考えなくても、政治家や官僚や学者に任せておけば済む話だ。優秀な専門家が沢山いるのに、素人が何をわざわざ口を挟むのかと、そんな思いで今日まで来ました。

 しかしこうして本を読みますと、「5・15事件」も「2・26事件」も、そんな昔の話でなく、現在に無縁と割り切ってならないものがあると知らされました。

 過去の悲劇を繰り返さないためには、国民の一人として、軍隊に関する自分なりの考えがいるのだと思います。

 軍隊の役目は、外敵から領土と国民を守ることです。どんなに凶暴な敵が、どれほど強力な武器で襲ってきても、断固として戦う組織です。命を亡くすことを恐れない軍人たちは、崇高な使命を持つ誇り高い組織です。

 しかし同時に軍隊は、国内最強の武力組織です。

 軍隊が何かの拍子で走り出すと、誰にも止められません。「5・15事件」と「2・26事件」が、その一例です。内乱、騒乱、クーデターと、世界のニュースが今も他国の軍隊の有様を伝えています。

 「軍国主義の戦前に、戻ろうとする危険な日本」

 「戦争の足音が聞こえてくる。」

 マスコミが国民の不安を煽り、憲法改正をさせまいとしていますが、私は反日左翼でありませんから、このようなスローガンに惑わされません。

 「国民は、自分の身の丈にあった政府しか持てない」、という言葉があります。愚かな国民しかいない国には、愚かな政府があるように、愚かな国民しかいない国には、愚かな軍隊があります。

 マスコミは、戦前の軍隊を頭から悪と決めつけ憎悪の対象にしています。戦後書かれた軍事関係の書物は、日本の過去の否定で貫かれています。

 幸い今回手にした一連の著作は、反日・左翼の人間たちが書いた本でなく、日本を愛した人々の著作でした。愛国の檄を飛ばしたり、戦争を美化したりせず、事実を述べ過去を語ってくれました。だから私は、著者たちに教えられました。

  「独立国になるには、節度のある軍隊が必要である。」

  「節度のある軍隊を持つには、何が大切なのか。」・・この二点です。

 自衛隊については、災害時の献身的活動しか報道されませんので、私たちは何も知りません。人間の集団につきものの派閥や対立もあるのでしょうが、何も伝わって参りません。

 しかし憲法が改正された後の軍隊について、国民である私たちが今から考えておくのは重要なことです。

 国防という使命を持つ誇り高い組織であるにも拘らず、戦後72年間の間、自衛隊は日陰者として存在してきました。「憲法改正」と同時に軍隊となり、軍人の誇りに目覚めたとき、強い反動が来るのではないでしょうか。

 節度のある軍隊であり続け、国民の信頼を保持するためには、どんな工夫が必要なのでしょう。

 「5・15事件」や「2・26事件」の時のように、皇道派や統制派という派閥はありませんが、現在の自衛隊には、看過できない内部対立があります。

 防衛省内の事務官である背広組と、制服組の自衛官の間にある大きな確執がそれです。防衛省の中では、現場の自衛官が制服組と呼ばれます。防衛大学の出身者は自衛官に任官した時から制服組です。それ以外の事務次官、参事官、内部局員、事務官、技官が、背広姿で執務しているので俗に背広組と呼ばれています。

 現行憲法のもとではシビリアンコントロールのため、背広組の事務官が組織的には制服組の上に位置していると説明されますが、何度聞いても疑問が残ります。

 背広組というのは、同じ自衛官でも配属先が現場でなく、たまたま省内のデスクワークをしているという区別なのか。それともデスクワークの彼らは一般の国家公務員なのか、どの説明を読んでも明確に書かれていません。

 デスクワークの一般官僚が、現場で命をかける自衛官の上に立ち、それでコントロールできるのかと、門外漢の私でも危惧をします。庶民の常識が正しかったのか、平成27年6月に「改正防衛省設置法」が成立し、「背広組優位」の規定が撤廃されていました。

 軍服を着た者が暴走し、背広を着た人間が暴走しないと、そんな考えがどこから来るのでしょう。

 背広組と制服組を対等にすると「文民統制(シビリアンコントロール)」が弱体化する恐れがあると、民進党や共産党が国会審議の採決で反対したそうです。

 売国の政党は自衛隊を無力化するため、反日学者の知恵を借り、愚かしい屁理屈を述べますが、国を愛する私たちは、自衛隊を立派な軍隊にするため頑張らなくてなりません。

 背広組と制服組などという変な派閥が、軍隊となった後に対立しないよう、共産党や民進党の介入をさせないように、しっかり監視しなくてなりません。

 肝心のテーマから外れましたが、何のために私が本を読んでいるのかを、語らずにおれなくなりました。これは、いつか読んでくれる息子や孫たちのためにも、遺しておきたい私の考えでした。

 明日はもう一度高橋氏の著書に戻り、最終回にしたいと思います。

 本日は大型台風接近のため関東地方は一日中雨で、気温がぐっと下がり、肌寒いほどでした。久しぶりに熱燗を一杯といきたいところですが、残念ながら今日は休肝日で呑めません。

 思い通りにならない、こんな日もあります。

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高橋正衛氏著『二・二六事件』 ( 行動派と統制派の軍人 )

2017-08-30 21:44:35 | 徒然の記

  高橋正衛氏著『二・二六事件』( 昭和40年刊 中公新書 )を、読み終えました。

  氏は大正12年に青森県に生まれ、出版当時は、みすず書房の編集部に勤務しています。ネットで探しても、これ以上の詳しい略歴は不明です。

 先日読んだ末松氏の『私の昭和史』も、みすず書房の出版でした。二人は親しかったのかと調べてみますと、『私の昭和史』の「前書き」の最後に、末松氏の説明がありました。

  ・なお本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が付したものである。 「 昭和38年1月  末松太平」

 高橋氏が存命なら、現在94才です。明治38年生まれの末松氏より、18才年下ということになります。高橋氏の著作は、「2・26事件」勃発後の陸軍と政府の動き、騒乱の平定から関係者の裁判、判決後の軍と政府による処置までが書かれています。

 陸軍内部の派閥の流れが、山県有朋や乃木希典にまで遡って語られており、事件には様々な要因が絡み合っていました。

 高橋氏と末松氏の著作を同時に読めば、事件の全容が掴めるということが分かりました。どちらを先に読むかでなく、両方を読んだ後に見えてくるものがあると、そんな発見でした。205ページの文庫本ですが、沢山の事実を教えてくれました。

 著者は断言していませんが、「2・26事件」の核心部分は、事件直後に出された『陸軍大臣告示』にあると示唆していました。

 事件発生後の午前9時30分に、川島陸相は天皇に拝謁し、「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と言われ、恐懼退出しています。反乱軍が、陸軍省、参謀本部を中心に三宅坂一帯を占拠しているため、陸軍の首脳は宮中で、参事官会議を開きます。

 出席者名は、次のとおりです。

   陸軍大臣川島義之    陸軍参謀次長杉山元  東京警備司令官香椎浩

   軍事調査部長山下奉文   軍事課長   村上浩  

   軍事参議官  荒木貞夫、 真崎甚三郎、 林銑十郎、 阿部信行、 西義一、 植田謙吉、 寺内寿一

 会議の結果、とにかく青年将校たちを懐柔するという方針が決まり、『陸軍大臣告示』と呼ばれる文書が配布されます。その中の一節を紹介します。

  「決起の趣旨については、天聴(てんちょう)に達せられあり、諸子(しょし)の行動は国体顕現(けんげん)の至情(しじょう)に基づくものと認む」

 つまり、青年将校たちの行動は日本の国の体制を、天皇を中心とした、より強固なものにしたい真心にもとづくものであると認める、という内容になります。 

 決起した将校に強い共感を示していたのは、荒木、真崎の両大将と山下少将で、反乱軍として鎮圧すべしというのが、杉山参謀次長と香椎司令官でした。川島陸相は、すでに判断力を失い、他の出席者に責められるままだったと言います。

 当日の午後3時30分に、実際に発せられた『陸軍大臣告知』は、次のように変化しました。分かりやすいように、少し現代風に直しています。

  一、決起の趣旨については、天聴に達せられあり

  二、諸子の行動は、国体顕現の至情にもとづくものと認む

  三、国体の真姿顕現の現状 ( 弊風をも含む ) については、恐懼に堪えず

  四、各軍事参事官も、一致して右の趣旨により、邁進することを申し合わせたり

  五、これ以外は、一つに大御心に俟つ

  ところが当日の夜、川島陸相が持っていた原案には、二項の「行動」が、実際には「真意」という言葉だったことが分かり、刷りなおした上で、これを正式文書としました。混乱した状況の中で、印刷され、憲兵司令部から、決起部隊に配布されたところで手違いが生じたのだと、著者は説明しています。

 このあたりが何度読んでも、ハッキリしませんが、一項の「天聴に達せられあり」という文言も、初めは「天聴に達せられたり」であったといいます。

 氏の解説によりますと、「天聴に達せられたり」は、陛下が完全に聞かれたとの意味になり、「天聴に達せられあり」となりますと、陛下にはとにかく申し上げているが、その後のことは分からないという意味になるそうです。

 二項の「行動」と「真意」は、これもまた大変な違いです。

 「行動」となりますと、反乱の事実を認めることとなりますが、「真意」ならば「ほんとうの気持ち、精神」を認めるという曖昧なものになり、後日に、どのようにも解釈される言葉になるのだそうです。

 私には、微妙な表現の違いがよく分かりませんが、法に基づく仕事をする者にとっては大事なことのようです。曖昧な表現でしたが、末松氏も『陸軍大臣告示』に疑問を投げかけていました。つまり次の言葉です。

 ・「2・26事件」を赤と思い込ませ、一挙に不人気にして葬り去ろうとした浅知恵に対しては、今も心が平かでない。

 ・「兵に告ぐ 」の起案者の氏名が今もはっきりしており、NHKに残る録音盤が、折に触れ再三再四放送されている。

 修正される前の『陸軍大臣告知』は、反乱軍将校に好意的な山下少将が、即座に彼らを訪ね、口頭で伝えました。従って、2月27日の午前中までは、将校たちの間に決起成功の気分が漲り、彼らは更に維新の遂行を進めようとしました。

 君側の奸を全て排除し天皇親政のもとで、真崎大将を中心とした内閣を作るという計画です。

  しかし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定にあたらん。」という、陛下の強いご意思が伝わると、27日の午後以降、全てが一変します。

 将校鎮圧派だった杉山次長と香椎司令官の意見が陛下のご意思となり、真崎、荒木大将の意見が通らなくなります。決起した将校たちは、「天皇の意を体した官軍」から、「勅意に背く逆賊」へと急変してしまいました。

 陸軍首脳と決起将校との、最後の正式対談が陸軍大臣官邸で行われました。出席者は、真崎、荒木両大将、参謀次長、軍司令官を含む全参議官、そして反乱将校側は、香田大尉、村中、磯部、対馬、栗原各中尉でした。

 しかしこの対談は、荒木大将の不用意な発言によって紛糾しました。将校たちは、荒木大将の説明と、『陸軍大臣告知』の矛盾を糾し、「われわれを義軍と思うのか、賊軍と思うのか。」と詰問しました。

 軍首脳は誰も答えず硬い空気が張り詰めたまま、何ももたらさないウヤムヤな対談となって終わりました。

 著者はここに、磯部中尉の遺した文書 ( 行動記 ) の一部を紹介しています。重要な部分なので、そのまま紹介します。

  ・歩哨の停止命令を聞かず、自動車が官邸に入ってきた。」

  ・近づいてみると、真崎将軍だ。「閣下、統帥権干犯の賊類を討つため、決起いたしました。」、と言う。

  ・「とうとうやったか。お前たちの心は、ヨオックわかっとる。」「ヨオック分かっとる。」と、答える。

  ・「どうか、善処していただきたい。」と告げる。大将は、うなづきながら邸内に消える。

 これが事件発生当日の朝、磯部中尉と真崎大将の交わした会話です。

 死を覚悟で決起したとはいえ、彼らの誰もが、内心に不安を抱いていましたから、真崎大将の言葉は大きな励ましと勇気を与えました。それなのに、何もかも分かっているはずの荒木大将が、「大権を私議」したと対談の冒頭で批判したのです。

 彼らは陸軍上層部の卑怯な裏切りと、恃むべからざるものに恃んだ誤りを察知しました。

 特攻隊を創設した大西中将は若い兵士を死なせた責任を取り、敗戦後自決しましたが、真崎大将も、荒木大将も、反乱軍将校の扇動者でありながら、武人らしい責任を取りませんでした。

 述べておきたいことは、これが軍部内の派閥抗争の一つだったという事実です。世にいう「皇道派」と「統制派」の、闘いだったという側面です。

 皇道派の軍人は、真崎、荒木両大将と山下少将、そして反乱軍将校たちです。統制派の軍人は、杉山参謀次長、軍事課長、参謀本部の幕僚たちです。野望を持った二人の将軍に青年将校が利用されたのか、利用して失敗したのか、いずれにしましても悲惨な事件です。

 語り尽くせないことが、たくさん残りました。現在の日本にとって、無縁な昔の事件でなく、重要な教訓として私たち国民が引き継ぐべき課題です。

 私が最も注目したのは、白石正義氏著『私の昭和史』です。末松、高橋両氏は触れていませんが、白石氏が語っていた「スターリン謀略説」です。昭和7年の「5.15事件」の関係将校として処分を受けた氏が、昭和63年に出版した著書です。末松、高橋両氏の著作の出版時と比較すると、私の述べている意味が分かります。

  昭和63年 白石正義氏著『私の昭和史』

  昭和40年 高橋正衛氏著『二・二六事件』

  昭和38年 末松平太氏著『私の昭和史』

 つまり高橋、末松両氏は、白石氏が語る「スターリン謀略説」を知らずに著作を書いているという事実です。付け加えるなら、昭和63年に出版された白石氏の著作は、既に「東京裁判史観」が浸透し、反日左翼メディアが力を持つ時でした。反日学者とメディアに無視され、世間に知られないままだったという事実です。

 白石氏が語っていたのは、昭和10年の7月にモスクワで開催された、「コミンテルン第七回大会」での決議です。スターリンが決定した決議で、次の内容です。

   1. 毛沢東の抗日宣言 ( 昭和10年 )

   2. 西安事件 ( 昭和10年 )

   3.「2・26事件」 ( 昭和11年 )

 個別の項目は過去記事で紹介しているので省略しますが、世界史に残る重大事件として、上記3件は知られています。知られていないのは、昭和10年に開催された「コミンテルン第七回大会」での決議だったという事実です。

 戦後史の見直しをするのなら、「2.26事件」を「コミンテルン第七回大会」の「スターリン決議」との関係で検討すべきではないのでしょうか。

  本日はここまでとし、続きは次回にいたします。 

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末松太平氏著『私の昭和史』 - 2 ( 皇道派と統制派 )

2017-08-26 16:45:34 | 徒然の記

 氏の著作の分かりにくさの原因が、大分理解できました。時系列で書かれているようでいて、その実、話があらぬ方へ飛んでいます。

 相沢中佐による刺殺事件などが良い例で、あちこちで叙述され、しかもその一つ一つが詳しいため、返って大局を掴めなくしています。

 優秀な士官で記憶力は素晴らしいのですが、個別の事象が詳しくなり過ぎ、全体のつながりが不明瞭になっています。

 一番良い例が、日付です。何月何日と具体的に記されていますが、何年という記載がないため、年代が分からなくなっています。

 あるいは氏の任地についても、同様です。果たして氏が現在いる場所は、青森なのか千葉なのか、東京なのか、満州なのか。どうしてそこにいて、何故そうなったのか、説明が省略されています。

 「2・26事件の本質」を伝えれば良いと、氏は割り切っているのでしょうが、これではかかわっていた当事者か、熱心な研究者にしか正確な理解が難しくなります。私のようにほとんど知識のない者には、いささか不親切な著作です。

 それでもこの書には、現在の私たちにとって大切な教訓が多く語られています。

 天皇、軍隊、政党政治、政商、共産主義、国粋主義、庶民生活等々、検証すべき課題がいくらでもあります。

 何時か憲法が改正され、日本が再び独立国なった時には、軍隊が大きな勢力となります。政争の具として軍人が武力を使わない仕組み作りなど、節度のある軍隊を持つ準備として重要事です。反日・左翼勢力が、軍の武力弾圧を恐れ警戒するのも、無理からぬものがあります。

 軍を放任していたら、「5・15事件」や「2・26事件」のようなクーデターの可能性を免れません。軍隊を持つようになったら、日本はどのように軍を統治していくのか。著者の思惑とは別に重要な警鐘が、語られていると考えました。

 当時の軍部内にあった「皇道派」と「統制派」も背景として説明しています。先日の『岡田啓介回顧録』で取り上げていますので、参考のため再度紹介します。

 〈 1. 皇道派 〉・・帝国陸軍内に、かって存在した派閥。

  ・北一輝らの影響を受けて、天皇親政下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソ連との対決を志向した。

  ・名前の由来は、理論的指導者と目される荒木貞夫が、日本軍を「皇軍」と呼び、政財界( 皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除し、天皇親政による国家改造を説いたことによる。

  ・陸軍には、荒木貞夫と真崎甚三郎を頭首とする皇道派があるのみで、統制派たる派閥は存在しないという説もある。

  ・皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が犬養内閣で陸軍大臣に就任し、陸軍内の主導権を握ると、皇道派に反対する者に露骨な人事を行った。

  ・両派の対立は長く続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件( 「相沢事件」や「2・26事件」など )を引き起こし、衰退していく。

  〈 2. 統制派 〉・・帝国陸軍内に、かって存在した派閥。

  ・荒木と真崎に、左遷されたり疎外された者で団結したグループは、ほとんど中央から退けられた。

  ・この処置が皇道派優遇人事として、中堅幕僚層の反発を招き、皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、統制派なる派閥の頭領にさせられていった。

  ・もともと統制派には、明確なリーダーや指導者がおらず、初期の中心人物と目される永田鉄山も、派閥行動に否定的な考えをもっていた。

  ・反皇道派を語る時のみ、統制派が実在したという考え方もある。

  ・永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機の主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。

   ・当初は、暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、国家改造のためなら、直接行動も辞さない皇道派の将校と異なり、陸軍大臣を通じて、政治上の要望を実現するという考え方になった。
 
  ・彼らは合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。

   ・天皇親政や財閥の規制など、政治への深い不満を旗印に結成された皇道派には、陸軍大学校(陸大)出身者がほとんどいない。

  ・一方統制派は、陸大出身者が主体で、彼らが軍内の規律統制を尊重するという意味から、統制派と呼ばれた。

  ・中堅幕僚層は、永田鉄山や東條英機を中心として纏まり、やがて陸軍中枢部から皇道派を排除していった。

 以上がネットの情報ですが、末松氏はこの問題に関し、次のように述べています。

  ・皇道派と統制派、この二つの概念を明確に意識したのは、この時が初めてだが、この二つを対立概念としている現在の使用意味とは違っている。

  ・これらはもとより抽出した概念であり、この二つの概念だけを頼りに当時の軍内を把握しようとすることは、実体を見損なうわけである。

  ・私自身が、皇道派の一人として分類されることは不満である。

 軍人は質素であるべきと考える氏は、他人の金で贅沢をしたり、料亭に入り浸る者を軽蔑しています。皇道派の中にいても、末松氏は和して同ぜずを貫き、納得できないことには同意していません。

 とは言いつつ、一度信を置いた人物に対しては、自分の気持ちを抑え接しています。

 文武両道という言葉がありますが、剣術に優れ砲術に優れ、過酷な軍務を物ともしない氏は、武に勝っていても、文には弱かったのでないかという気がします。思想的にも肝心なところが曖昧で、条理より、義理や人情を大切にする人間であるようです。

 当時の軍人仲間はみなそうだったのか、それとも氏が特別人情に厚かったのか、軍務を離れても死ぬまで世話を焼いたり、金の工面をしてやったりしています。

 強い人情は、軍隊組織の中にいる軍人と両立しうるものなのでしょうか。仲間のために軍の規則を破り、してはならない違法行為をする軍人の姿が随所に描かれています。

  ・己の心を省みて、やましいことがなければ、それで良し。純なる動機であれば、行為の結果は許される。

 氏に限らず、軍人達はそれを信じ軍刀を振りかざしますが、そんな考えで行為の正当化ができるのなら、無秩序の乱世になります。依って立つ思想次第で、「やましいこと」は変化します。立場が違えば、純な動機は不純となり、不純なものが純に見えてしまいます。

 これでは、個人の解釈次第で、好き放題をする社会を到来させる危険あります。

 軍刀や銃を持っている軍人が、それをやりだすと事件が生じた時収束が困難になります。「相沢事件」や「5.15事件」「2・26事件」が実例です。

 末松氏たちとの違いは、ただ一つ愛国心です。

 傍に積み上げた未読の書の中に、中公新書の「二・二六事件」があります。考えがまとまらないままですが、明日はこの本を読んでみようと思います。

 もしかすると新しい事実を知り、末松氏への印象が変わるのかもしれません。まとまりのない著作の紹介になりますが、本日で終了します。

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末松太平氏著『私の昭和史』 ( 「 2・26事件」 )

2017-08-26 01:45:15 | 徒然の記

   末松太平氏著『私の昭和史』( 昭和38年刊 みすず書房 ) を、読み終えました。

  まず、氏の略歴を紹介します。

  ・明治38年北九州市に生まれ、昭和10年小倉中学校卒業

  ・広島幼年学校を経て、昭和 2年に陸軍士官学校を卒業

  ・昭和10年に陸軍大尉となり、昭和11年の「 2・26事件」により起訴

  ・禁固4年の判決を受け、免官

  つい先日、5・15事件 ( 昭和7年 ) に関与した白石正義氏の著『私の昭和史』( 昭和63年刊 ) を読んだばかりで、偶然、昭和の大事件に関連する本を続けて読むことになりました。

 図書館でもらってきた本を、順不同で手にしているのですが、こんな偶然もあるのです。

 本の書名も『私の昭和史』と、そっくり同じなので間違えそうです。7月初旬に読んだ『岡田啓介回顧録』は、「2・26事件」で襲撃された元首相の談話でしたが、本書は襲った側の将校による回顧談です。

 「2・26事件」の首謀者の一人と言われながら、筆者はなぜ処刑されず、禁固四年の刑で済んだのか。事件を起こしたのが東京在の将兵たちで、氏は青森の五連隊の所属だったからという理由も分かりました。

 小さな活字で印刷された347ページの本は、読み終えるのに10日かかりました。

 「2・26事件」について書かれているというより、軍隊内での交友関係、上官との関係、他県の師団との共同訓練など、筆者の軍隊生活が詳細に綴られた本です。

 北一輝の『日本改造法案大綱』が、どれほど士官たちの間で読まれていたのか、内容はどんなものか、大川周明内閣という言葉も出てきますが全て断片的叙述です。

 同じ陸軍士官学校に学び、同名の書を表しても、白石氏と末松氏は語り口が異なります。明治38年生まれの末松氏と大正2年の白石氏は、ここまで違うのかと不思議な気がします。

 白井氏は「5・15事件」に連座して退学処分となり、満州に追放され、関東軍情報部、関東軍特務機関要員となります。氏は生涯を反ソ・反共産主義者として生きますが、末松氏は思想的には曖昧です。

 末松氏が軍人として部下を持ち、指揮し戦闘をし、大尉になっているのに対し、白石氏は満州へ追放後、軍の特務機関員となりますが、現場の軍人というより、身分を隠したスパイ活動がメインでした。

 白石氏が大東亜戦争での日本の立場や、スターリンの謀略、ゾルゲ事件で日本が被った実害など、明確に語っているのに比較しますと、末松氏は、日本を取り巻く国際情勢についてあまり口にしません。

 階級が下でも特務機関要員である白石氏の方が、世界情勢を把握できる立場なのかと、最初はそんな疑問を覚えました。しかし最後まで読み終えますと、末松氏の著作は挫折を知った軍人の回想録であり、諦観の叙述だと理解しました。

  ・ 『 私の昭和史』は笹舟のような私が、 「  2・26 事件異聞 」 という表題でたどたどしく自分の体験を綴ったものが、大部分である。

  ・私は、体験したことだけを書くように努めた。一木一草、風のそよぎ、空の色、花の色のうつろいにも、フィクションはないつもりである。

  ・何時とはなしに机辺にたまった資料のほかは、自分自身を資料にして記憶を頼りに書いた。

  ・もちろん端折ってはあるが、体験したまま書いたのであって、弁明の意図は初めからない。あったにしても、一片の笹舟の弁に過ぎない。

  現在の私たちが知る 「2・26事件」は、血気に早る青年将校の暴走として説明されています。しかし氏の本を読みますと、そうばかりでないことが分かります。

 昭和4年に発生した世界恐慌のため、日本では企業の大型倒産が続き、不景気が国民生活を直撃していました。疲弊した農民が生活苦に喘ぎ、娘を身売りするという新聞報道が数多く出ました。

 兵士の多くが農村出身でしたから、こうした状況を彼らは見過ごすことができませんでした。

  ・わが国は天皇統帥の国体であるが、現在この国体は、私心我欲を恣にする者の手によって破壊され、そのため国民は苦しい生活を強いられている。

  ・その元凶である元老、重臣、軍閥、官僚、政党を除いて、維新を断行し国体を擁護する。

 こうした考え方が青年将校たちの間で、共通の怒りとして全国に広がっていきました。彼らはそれを「昭和維新」という言葉で語り、力ずくでも断行するという機運が盛り上がりました。

 運動のうねりは青年将校間だけでなく、佐官、将官クラスの上層部にも浸透し、同調者が現れるようになりました。

 末松氏にとっては、「5・15事件」も「2・26事件」と同じ行動で、いずれも「昭和維新」のための行為であり、「世直し」の実践でした。

 だが「5・15事件」に比べますと、氏のかかわった「2・26事件」は、無残な結末を迎えました。

 「5・15事件」では、当時の政党政治の腐敗への反感から、犯人の将校への助命嘆願運動が広く湧き起こり、彼らへの刑は軽いものとなりました。どれほど大きな違いだったか。二つの事件を比較してみますと、末松氏の諦観が理解できます。

 〈  「5・15事件」 〉

  ・昭和 7年   海軍の将校を中心に、民間人も含め26名が参加。

  ・犬養首相を殺害した将校を含め、全員が10年から16年の禁固刑

  〈 「2・26事件」 〉

  ・昭和11年  陸軍の将校を中心に、兵士、民間人を含め 1,483名が参加。

  ・死刑 16名    自決 2名  1年から6年の禁固刑 17名 兵士は無罪

 ネットで調べますと、末松氏の名前が禁固刑17名の中にありました。司令官の承認を得て参加した将校もいましたし、「天皇親政」により政治の腐敗を改革すると、一途に信じた者もいました。

  それなのに二つの事件に対する裁判の結果は、手のひらを返したような違いが現れました。

 義挙と信じ、上官からもそう暗示され死を決意して実行した者たちが、「逆賊」と言われ、「反乱軍」として処罰を受けました。状況を知らない私は、暴走した青年将校が厳罰に処せられたのは無理もないと考えてきました。政府の要人を殺害しているのですから、弁明の余地もないと思っていました。

 しかし氏の書を丹念に読みますと、当時の陸軍には、若い彼らが「昭和維新」や「世直し」を信じるだけの風潮がありました。将軍や旅団長、司令官、連隊長といった上官たちが、彼らの活動を支え奨励していました。

 ・「2・26事件」を赤と思い込ませ、一挙に不人気にして葬り去ろうとした浅知恵に対しては、今も心が平かでない。

 ・「兵に告ぐ 」の起案者の氏名が今もはっきりしており、NHKに残る録音盤が、折に触れ再三再四放送されている。

 末松氏が無念そうに語ります。

 「兵に告ぐ」の放送は、赤の上官に騙されただけなのだから、一般の兵に罪はない。原隊に戻れば不問にすると、そういう内容だった気がします。

 末松氏は、自分たち将校の行動が「ソ連による扇動」だと、軍と政府が 作り変えようとしている現実を理解していました。陛下が「凶暴な将校を、許さない」と語られたことが、最後のダメ押しとなっています。

 全て覚悟の上でやったことで、今更とやかく言うくらいなら、初めからこんな道に踏み込まないと、氏は語ります。所属する部隊の兵を愛し、上官を敬愛する軍人ですから、氏は一度心に決めたら、責任を個人のものとします。

 語らないことで、他人に嫌疑や罪が及ぶことを避けているようです。

 明日はもう少し本の感想を述べたいと思いますので、今夜はここで止めます。時計の針が一時を過ぎましたが、氏の諦観を重さを知ると睡気が醒めます。

 氏も、武士道精神を持つ日本人の一人だったかという発見が、唯一の救いでした。

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前川氏は、このまま無罪放免なのか。

2017-08-20 21:02:48 | 徒然の記

 元文部科学省前川氏本人が語るところによりますと、座右の銘は、「面従腹背」だそうです。文部官僚のトップにいて日本の行政を司る人物が、こんな愚劣な言葉を大事にしていたのかと、文科省のモラルの低下に心が冷えました。

 氏は次官になる前、高校教育無償化の担当官でした。朝鮮高校も対象にする方向で検討していましたが、第二次安倍政権の時、北朝鮮の拉致問題を理由として、朝鮮高校が対象外とされました。

「朝鮮高校の授業料無償化は、当然のことだったが、政治の力で押し切られました。」「今後は、せめて司法で救済して欲しいと思う。」

 これが氏の言葉です。日本近海へミサイルを落下させ、核開発を続けるテロ国家に対し、どうして氏はこれほどまで心を寄せるのでしょう。今も苦しんでいる拉致家族のことなど、頭の隅にもありません。反日とテロリストの養成機関のような朝鮮学校に、なんのため、授業料の支援が必要なのか。私には、とんと理解ができません。

 今月の8月2日に、氏はとある講演会で講師として登壇し、恥を知らない官僚の姿を聴衆に晒しました。平成27年の安保法制反対デモの時、氏は、シールズとともに、国会前にいたと語りました。「集団的自衛権を認めるのは、憲法違反である。」「国家権力が私物化される有様を、国民に知らせるべきと思った。」「デモに参加していると分かったら、自分は次官になれなかったと思うが、バレなかったので次官になれた。」

 政府の行政官として、現役の氏が反政府デモに参加していたこと、しかもそれを恥と思わず笑い話にしている。東大卒業生のなかには、成績優秀でも、魂の抜けた馬鹿者が時々いますが、氏もその仲間でした。あのデモに参加していたというのですから、氏は共産党支持者です。文部科学省のトップに共産党支持者が座っていたという、恐ろしい話になります。

 加計学園問題につきましても、氏の主張は、「朝鮮学校」の時と同じ理屈を言います。「行政が、政治の力で歪められました。」・・・・。なんてことはありません。前川氏は、共産党支持者の一員として、最初から「反安倍」で文科省内にいて、倒閣の機会を狙っていたのです。

 川に落ちた犬を棒で叩くようなので、ここは言いたくありませんが、氏のような恥知らずなら、黙っている必要もない気が致します。文部科学省に在職していた時、氏は暴力団が関係すると言われるバーに出入りしていました。しかも、出会い系バーと言われる女子買春の場所です。一回や二回でなく、なんと6年間も通っていました。公になると、「女性の貧困問題の研究のためです。」などと、およそ普通の人間なら考えもしない弁解をしています。

 それだけではありません。氏が次官を辞任させられた直接の原因は、「天下りあっせん」という法律違反です。本来なら、懲戒免職で退職金も出ないところなのに、安倍政権の甘い処分で、高額の退職金(5,610万円)も手にしています。

 加計学園問題の発端は、「総理のご意向」を示す文書が、マスコミにリークされた所から出発しています。国会答弁で、「あなたがリークしたのではないか。」と質問され、「答弁を控えます。」と氏は拒否しました。自分でないのなら、ハッキリと「違います。」といえば済むことです。したがって私は、過去の経歴や事実を勘案し、文書をリークしたのは前川氏本人だと確信しております。

 法律違反で処罰された犯罪者である氏が、内部文書をリークしたのであれば、公務員の守秘義務違反に問われるはずです。二年前のこととはいえ、現役の政府高官が、反日・反政府のデモに参加していたことが、何の罪にもならないのでしょうか。

 そんなことより何より、自らが語っているように、氏は共産党の支持者であり、文部科学省へ潜り込んだスパイではありませんか。このような反日、売国の官僚がこのまま無罪放免になるのでしょうか。

 私は、政府自民党に猛省を促します。「面従腹背」、まさか保守自民党の議員諸氏も、国民に対しそんな態度で接しているのではないでしょう。前川氏は、官僚の世界の「腐ったたりんご」です。腐敗菌は文科省内に残っていますから、このままにしておけば、箱のりんごがすべて腐ってしまいます。

 「政治家の決断」を、国民の多くが求めているのではないでしょうか。

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私のお盆と「反日新聞記事」

2017-08-17 17:32:12 | 徒然の記

  今年のお盆は、充実した日々となりました。

 花や菓子や果物を飾り、父が好きだった焼酎とゆで卵を供え、色彩豊かで賑やかな仏壇となりました。12日の夕方には、ご先祖さまをお迎えする迎え火を灯し、15日の夜には、帰っていくご先祖ため、送り火をつけました。日頃は無宗教同然に暮らしていますが、お盆だけは違います。

 家内と二人で手を合わせ、日々の健康と平安が、全てご先祖さまのお陰ですと、手を合わせます。

 13、14、15の三日間の夢には、亡くなった父や父の兄弟の叔父や叔母たち、あるいはかすかな記憶しかない祖父母、従兄弟や友人、知人、可愛がっていた猫までが、生き生きとした姿で出てくれました。目覚めた時は、懐かしさと嬉しさで胸が一杯になり、切なさも加わり、こんなお盆は初めて経験いたしました。

 「そろそろ、お前も来る頃だな。みんなで待っているよ。」と、そんな誘いだったのかと思えるほど、暖かい夢でした。ご先祖さまや亡くなった飼い猫がいるところは、あの世なのか、冥土なのか、それとも天国なのか知りませんが、不思議なほど近くに感じられました。

 それなのに、盆の前後の千葉日報は、私の心の平安を乱し続けてくれました。

 8月15日の「敗戦の日」がお盆と重なりますので、千葉日報だけで無く、全国の新聞が同じ騒ぎをいたします。ご先祖さまに誘われている私ですから、いつこの世とお別れするか分かりません。しつこいと言われても、今日もマスコミの愚かしさを「ねこ庭」で紹介します。

 千葉日報に限らず、日本の新聞が同じことをする年中行事ですから、72年も続けられますと、そろそろと堪忍袋の緒が切りたくなります。

 お盆の間千葉日報は、

  「これからを生きる君へ (今戦争を伝える)」

  「語り残す 私の8・15」

 のタイトルで、連載記事を届けてきました。単独の記事では、紙面の四分の一の大きさで写真付きの体験記事が、三日間続きました。

 「語り残す 私の8・15」は、四回のシリーズで、最も大きな記事 (四日間)でした。前半は俳優の仲代達也氏と小山明子氏の二人、後半は千葉県に住む、大学生と主婦の二人です。

  ・多くの大切な命が失われた、太平洋戦争の終結から72年。

  ・記憶の風化が懸念される中、当時を知る人たちは、過酷な体験を踏まえ、二度と戦争はするなと訴える。

  ・安全保障関連法の制定に、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法の成立。そして現実味を帯びる、憲法改正。

  ・平和が揺らぐ今、芸能や学問の分野で活躍する、著名人らに想いを聞いた。

 これがシリーズの記事を説明する、千葉日報の前置きです。

 仲代氏は敗戦後に政府の嘘が分かり、それ以来権力に不信感を持ち、批判するようになったと語ります。小山氏も同様な戦前の批判で、「お国のため」にと、親が子を戦場に出したのは本心からでなく、嘘をつかざるを得ない時代だったと、彼女もまた権力批判をします。

 後半の二人は、大学生の郡山琴美さんと、主婦の岡田知佐子さんです。

 郡山さんは中学二年生の時、被爆地に中学生を派遣する「我孫子市の平和事業」に参加した経験を持ちます。岡田さんは、県の「原爆被害者友愛会」の賛助会員です。彼女たちは、県内に住む広島・長崎の被爆体験者から聞いた話を、戦争を知らない世代へと語り継ぐ、「伝承者」の道を歩んでいます。

 72年間繰り返された記事ですから、紋切り型の言葉なので中身は全て省略します。国の未来を案ずる人なら、見出しだけを無作為に並べても、腐れマスコミの実態が即座にわかります。

  「終戦で不信感、権力を批判」

  「嘘つかざるを得ない時代」

  「あの地獄、もう二度と」

  「武器工場の空襲、友人奪う」

  「戦争知る高齢者、将来案じ」「継承に意欲示す、若者も」

  「列島各地で、平和願う声」「原爆惨禍、自分が伝える」「思い継ぐ、伝承者目指す。」

  「今日終戦の日、なぜ問い続ける96才」「人間の誇り、取り戻す」

  「安部首相、歴代式辞と変化」「加害、反省、不戦使わず」

  ここ数日似たようなブログを書いていますので、私自身が辟易しますが、千葉日報に負けておれません。72年間の執拗さはありませんので、本日だけ繰り返させてもらいます。記事を書いた記者の立ち位置は、「東京裁判史観」です。

 「日本だけが残虐な戦争をしたから、日本さえ軍備を持たなかったら、世界が平和になる。」、と言うものです。

 この偏った「東京裁判史観」が、現在見直しの対象となっています。アメリカが作った、単純化された乱暴な戦争観です。仲代氏は私の好きな俳優の一人ですが、残念ながら頭の中は単純だったようです。

 今回千葉日報に取り上げられた人々は全員、私がつねづね嫌悪しております「お花畑の住民」たちです。千葉日報だけではありません。この数日間にマスコミにおだてられ、全国の新聞に顔を出した「平和を訴える人々」は、残念ながら同類です。

 先日読み終えた「イラク わが祖国へ帰る日」の中に出てくる、グルド人の話を紹介します。たった一度の敗戦と、犠牲者の惨状に肝を冷やし、臆病になったマスコミの記者たちに聞かせてやりたい言葉です。

  「兄弟が暗殺されたのは、私に手を引けというメッセージだった。」

  「そういう政権だからこそ、私は戦う。」

  「この闘いのために、どれだけの血が流されたことか。これからも、どれだけの血が流されることだろう。」

  「目の前で、何人もの仲間が殺されるのを見てきた。」

  「なすすべもなく見守るだけだったが、仲間の死によって、自分は強くなったと思う。」

  「理不尽と闘うために、ときには非情となることも学んできた。必要なら、私は誰より冷酷になることもできる。」

 犠牲者を見たからと臆するのでなく、むしろ意志を固めるのが愛国者でしょう。私が言いたいのは、他国と戦争せよということではありません。日本以外の国には祖国のためには、理不尽と闘うと公言する国民がいるという事実です。必要なら、誰より冷酷になると言い切る人間がいるという事実です。日本人が軍備を捨て、「戦争は嫌です。戦争はしません。」と叫んでも、聞く耳を持たない国々が周囲にあるという事実です。

 お花畑の住民は傍に置くとして、マスコミの記者たちは本気でこんな「記事」を書いているのかと、怒鳴りつけてやりたくなります。戦後70年が経過しても、カビの生えた「平和記事」のお祭りを、いつまで続ける気でいるのか。「両論併記」ならまだしも、日本が悪い悪いと、こんな偏った記事を書き続けるのなら、記者たちは全て敵に通じた裏切り者と、言わざるを得ないでありませんか。 

  反日マスコミの新聞という新聞を、お盆の供物と一緒に、川に流してしまいたい私です。

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8月15日、大手マスコミの記事

2017-08-16 13:15:36 | 徒然の記

  昨日、政府主催の「全国戦没者追悼式」が、日本武道館で行われました。 

   「終戦72年、平和誓う」

   「陛下3年連続 " 深い反省 " 」

   「首相、今年も加害触れず」

 これは、式典を報ずる千葉日報の一面を飾る記事の見出しです。NHKだけかと思っていましたら、千葉日報も、「終戦記念日」という言葉を使っていませんでした。

  他の新聞はどう伝えているのか気になり、ネットで調べてみました。見出しの言葉をランダムに並べてみましょう。

[ 朝日新聞 ]

 「72年、戦禍忘れない 終戦の日」

 「陛下のお言葉 過去を顧み、深い反省」

 「終戦の日、追悼式に5700人 首相、加害責任に触れず」 

毎日新聞 ]

 「終戦の日・戦没者追悼式:天皇陛下おことば」

 「終戦の日、靖国参拝、閣僚ゼロ

[ 読売新聞 ]

 「戦後72年、不戦の誓い・・全国戦没者追悼式」

 「終戦記念日、与野党が談話や声明を発表」

[日経新聞 ] 

 「終戦記念日、平和への祈り各地で」

[産経新聞]

  ・終戦の日」を迎えた15日、反天連デモに抗議の声200人。靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)

  ・「帰れ!」「つぶせ!」とメンバーに抗議するカウンターと呼ばれる人たち。

    ・英霊を慰める終戦の日、靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。 

 検索の仕方が不味いのか、産経は追悼式典の記事が見当たらず、デモ隊の衝突記事がありました。

  変わらずに「終戦記念日」という言葉を使用しているのは、読売と日経でした。それでも読売新聞はトップ記事の式典の報道では、「戦後72年」という見出しで曖昧にし、関連する記事で「終戦記念日」を使っています。

 どうやら、マスコミにとって今年は「変化の年」のようです。踏ん切りのつかない新聞社が、世論の動向を見ながら、どっちつかずの見出しをつけているのかも知れません。

 並べて見ますと、いろいろな発見があります。「マスコミの鏡になれるか、千葉日報」と、以前は誉めたのに、今回の記事は頂けません。

 陛下は3年連続で「反省」と言われたのに、首相は今年も「加害責任」に触れなかったと、まるで首相が間違っているかのような書き方です。

 先の大戦について、「すべての責任が日本にある」とする立場に立てば、陛下のお言葉になるのでしょう。「日本だけが犯罪国家だというのは、正しくない」とする立場に立てば、総理の言葉になります。

 憲法問題を含め、国民が歴史を再検証しようとしている時、「東京裁判」の判決を正しいとするような記事を書き続けるというのは、疑問です。

 他の新聞と比べて見ますと、千葉日報と同じ姿勢で記事を書いているのは、朝日新聞でした。せっかく千葉日報を評価していましたのに、これでは定期購読の気持ちが削がれます。

 千葉県から参列した遺族のコメントが、同じく一面の囲み記事となっています。

  「もう何があっても、絶対に戦争はしてならない。」

  「世界がいくら変わっても、9条は絶対に変えてはならない。」

 遺族の方の気持ちは察しますが、このような一方的報道の仕方も、そろそろ軌道修正する時が来ていると思えてなりません。

 私の父はシベリアで捕虜になり、過酷な炭鉱労働をさせられました。母は3才の私を背負い、ロシア兵の恐怖にさらされながら、満州から戻りました。しかし両親は、この記事にある遺族の方のような意見は言いませんでした。

 日本だけを責めれば語れるという、単純な戦争でなかったからです。

 私が疑問を抱くのは、新聞の報道姿勢と記事の取り上げ方です。日本だけを犯罪国家とするような偏向報道を、いつまで続けるのかという怒りです。

 千葉日報も独立した新聞社なら、「読売」や「日経」の真似をせず、国を大切にする千葉県民のため記事を書いて欲しいものです。

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勝俣郁子氏著『イラク わが祖国へ帰る日 』- 4

2017-08-14 12:37:56 | 徒然の記

  韓国のパククネ元大統領はかって、「日本への恨みは、1,000年たっても消えない。」と語りました。

 聞いた時はこみ上げてくる怒りを抑えるのに苦労しましたが、勝俣氏の著作を読み終えた今、別の思いが生まれました。

 「韓国だけが、特別に執拗でやっかいな国でなかった。」、という発見です。

 イラクを取り巻く中東の国々は、韓国同様千年単位の感情で現在を生きています。日本人のように、「10年ひと昔」などという忘却の潔さは知らないのです。日本の左翼は皇室の神話を笑い、天皇の歴史を蔑視し、過去を大切にする国民を、低脳者でもあるのように軽蔑しますが、こうしてみますと、やはり彼らも国際社会を知らない無知な集団だと分かります。

  憎しみから、希望の明日は生まれません。憎しみから生まれるのは、不毛な対立と殺し合いで、しかもそれは子々孫々に受け継がれ、国内だけでなく、近隣諸国との紛争の連鎖となります。

 前置きが長くなりましたが、欧米の大国に弄ばれるイラクの現実です。

  ・マスウド・バルザーニは、クルド民族運動の英雄、ムスタファ・バルザーニの息子だ。

  ・物静かで控えめな性格、他人の話に耳をかたむける真摯さ、一度口にしたことは決して忘れない誠実さが、彼を知る人々の一致した評である。

  ・だがおそらく彼は、もう一つの教訓を心に秘めているに違いなかった。それは、秘密工作は慈善事業ではないという言葉だ。

  ・米国のクルド支援に加わった、キッシンジャー元大統領補佐官の言葉だと言われる。キッシンジャーの話になるとマウドは、悔恨と怒りが混じり合う気持ちの高ぶりを抑えようとしない。

  ・クルド支援からアルジェの合意まで、あの計画の全てをたくらみ、監督していたのはキッシンジャーだった。

  米国の支援を信じて戦った彼の組織は、米国の突然の裏切りで、壊滅的な打撃を被りました。しかしイラクに介入していたのは、キッシンジャーだけではありませんでした。

  ・イラク国民合意  ( INA )」 が崩壊したことで、CIAの対イラク工作が打撃を受けたかというとそうではない。

  ・米国が望んでいたのは、軍事作戦によってフセイン政権に揺さぶりをかけることでなく、政権内部と軍のクーデターが起き、フセインが舞台から去っていくことだった。

  ・そうであれば、イラク全土が混乱に陥る危険が少なくてすむ。

 日本人の政治家も多くの日本人も、米国を信頼しています。アメリカが、正義と真心の国であるとでも言わんばかりです。イラクの本を読んでいますと、敗戦後の私たちが、いかに危機感を無くしてしまったかを痛感させられます。

 他人を信じるのは大切なことですが、国際社会では往々にして「お人好し」としか、受け取られない事実も知っておくべきでした。

   ・イラクの反体制派の中には、グループ・オブ・フォーと呼ばれる組織がある。

  ・クルディスタン民主党 ( KDP )と、クルディスタン愛国同盟 ( PUK )、イラク・イスラム革命最高評議会 ( SCIRI ) と、イラク国民合意 ( INA ) だ。

  ・フセイン政権の打倒をめざす、ブッシュ政権がアプローチしたのもこの組織だ。

 四つの組織の他にも、小さな反体制派集団が沢山ありますが、彼らは自己主張が強く、一つにまとまることができませんでした。個々には優れた意見を持っていますが、団結して国難に当たることができず、どの組織も単独ではフセイン政権に対抗する力がなく、米国の軍事力と政治力を頼りにしています。まさに、烏合の衆団でした。

 勝俣氏の著作を読んでいますと、どうしても現在の日本が重なってきます。反日の野党は中国を頼みに与党を攻め、自民党は保守の誇りを忘れ米国頼りです。

 敗戦後の日本がずっと米国に従属し、独立国の体をなしていないというのに、憲法さえ改正しません。世界第二の経済大国とか、アジアの優等生とか、そんな言葉でうぬぼれている場合なのでしょうか。

 右も左も危機感を無くした政治家たちが、中国や韓国、あるいはフィリピンやインドネシアから大量の移民を受け入れたら、100年もすれば日本は別の国となります。移民が増え住み着いていけば、戦争でなくとも日本は内部から崩壊します。外来種のブラックバスや噛みつき亀がやってきて以来、日本固有の魚や亀が絶滅させられていたように、人間も同じことです。

 日本がイラクと違うのは、幕末の大乱の中で異なる意見を持つ諸藩が、天下のため小異を捨て大同に就いて倒幕をやり遂げたことです。イラクの反体制組織はそれができませんでした。一つにまとまることが出来ないだけでなく、最初から米国という他国に頼りました。

 徳川慶喜公は、フランスが申し出た武器援助と兵の支援を拒否し、西郷隆盛は「日本のことは日本で決める」と、イギリスが提案した同様の申し出を拒絶しました。

 「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと、決意した。」

 慶喜公と西郷だけでなく明治の元勲たちが、このような「日本国憲法」の文言を知れば、怒り心頭でしょう。

  ・平和を愛する諸国がなかったから、日本は孤軍奮闘してきたでないか

  と、私たちを戒めるに違いありません。

 将軍から下級武士まで、武士たちは他国に頼らない矜持と危機感を持ち合わせていました。敵であっても死者を弔い、礼節と節度を持つ武士道精神がありました。敗戦後の私たちが失くしたものです。憲法を改正し、失った魂を取り戻さなくてなりません。

 だから私は、もう一度言います。

   日本の独立を達成するには、「憲法改正」が必要です。

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勝俣郁子氏著『イラク わが祖国へ帰る日 』- 3

2017-08-13 21:36:29 | 徒然の記

  「湾岸地域の、複雑な構造を整理しておこう。」

 読んでいる私の苦労が伝わったのか、116ページで、著者が突然言い出しました。都合が良いので、そのまま紹介します。

  ・イラン、イラクを除く、湾岸諸国の政治体制は君主制である。

  ・中東で、アラブ民族主義が席巻していた1958 ( 昭和33 ) 年代、イラクは革命によって王政を倒し、民族社会主義を基盤とする共和制を敷いた。

  ・支配層にはスンニ派のアラブ人が多いが、国民はシーア派のアラブ人の方が多数で、人口の約6割を占める。

  ・スンニ派が支配層で優位なのは、スンニ派の帝国だったオスマントルコ時代からである。

  ・民族的にはクルド人やトルクメン人、キリスト教徒のアッシリア人と呼ばれる人々も、存在する。

 クルド人だけで難渋しているのに、トルクメン人やアッシリア人まで加わってくるとお手上げです。解説されてさらにややこしくなりますが、前進あるのみです。

  ・隣のイランは1979 ( 昭和54 ) 年の革命によって、イスラム共和国となった。

   ・イランはアラブ民族の国ではない。民族としては、ペルシヤ人を中に、クルド人、トルコ系のアゼリ人、アラブ人からなる多民族国家だ。国教は、イスラムのシーア派である。

   ・イラン以外の湾岸諸国、クエート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンは、アラブ人の国である。

  ・いずれも、王家・首長家はスンニ派だが、サウジアラビアの産油地帯である東部海岸地域にはシーア派が多い。

  ・バーレーンは、国民の三分の二がシーア派だ。イラクに隣接するクエートでも、住民の三割がシーア派である。

 著者の説明はまだ続きますが、このあたりで止めます。ものごとは、詳しく説明されたからといって明らかになるのでなく、返ってややこしく面倒になると、これがその実例です。

 私はこうしたドキュメントを読むたび、「人間は、みな同じです。」「話せば、必ず分かり合えます。」と、したり顔で言う人たちに疑問を抱きます。

 話し合いで分かり合える時もありますが、多くは「混乱を深めるだけ」という結果でないかと思います。日本でも保守と反日・左翼は、一日中話し合っても分かりあえません。国会の質疑など聞いていても、保守と左翼は水と油、相手の言葉に耳を貸さず、互いに己の言い分だけを喋っています。

 だから多数決という考え方が生まれ、多数を占めた意見で、ものごとを決めようという約束事ができました。これが、民主主義と呼ばれる方式ではないでしょう。

 それなのに、国民の多数が支持する安倍政権が、安全保障や憲法について法改正を進めようとすると、「数の暴力を許すな。」「数の横暴をする、安倍政権を倒せ。」「多数に奢るな、暴走するな。」と、マスコミが大合唱します。彼らのやっていることは「民主主義の否定」なのに、国民が大人しいため、マスコミの暴論がずっとまかり通ってきました。

 幸いわが国は、一億二千万人の人口の九割が日本人です。反日のマスコミに惑わされず、私たち国民がアラブ諸国の現実を知り、日本の姿を知り賢くなれば、日本が変わる気がします。

 反日野党や一部の在日たちが言う、「共生社会」など認めてはいけません。安倍総理が掲げる「1000万人の移民受け入れ計画」にも、断固として反対しなければなりません。移民受け入れや、共生社会の行き着く先は、アラブ諸国が良い見本です。絶え間ない紛争と、殺し合いと、憎しみの日々が始まります。

 日本人は心が狭いとか、身勝手だとか、国内にいてそんな意見を述べる愚か者がいても、騙されてはいけません。二千年もかけてご先祖が守ってきた国を、何のため外国人に解放し、混乱と殺戮の国にするのでしょう。

 国際社会では、すべての民族、すべての国、すべての宗教が、身勝手とわがままで争っています。日本人が日本を守り、国の安全と幸せを求めるについて、他国から批判される理由はどこにもありません。

 私は、国を愛する是々非々の庶民です。「憲法改正」と「女系天皇反対」については総理を支持しますが、他の政策には賛成していません。反日・左翼に対しては、是々非々でなく、絶対反対という心の狭い人間です。

 ずいぶん横道に逸れましたが、本題のイラクに戻ります。

   ・この時代を生きたアラブ人にとって、イラク革命の残虐さは、記憶に生々しい。

  ・1958 ( 昭和33 ) 年7月14日の朝クーデターを率いたのは、カーシム将軍と、アリフ大佐の一派だった。

  ・王宮を取り囲んだ軍隊に対してファイサル二世国王は、一族の国外脱出を条件に護衛隊と共に投降した。

  ・だが国王らが王宮の庭園に現れると、待ち構えていた軍隊は一斉に銃撃を始めた。

  ・3才で王位に就かされた国王は、この時まだ23才である。美術とジャズを愛し政治には関心を示さなかった若い国王の遺体が、どこに埋葬されたのか、わかっていない。

  ・悲惨を極めたのは、摂政を務めたアブドル・イラーハ皇太子の遺体だった。気勢をあげる群衆の中に放り込まれた遺体は、切り刻まれた挙句、街の広場に吊るされた。

  ・女装して逃げようとしたヌーリ・サイド首相は、その途中で惨殺された。一旦埋められた遺体はすぐ掘り起こされ、首都の目ぬき通りで何度も車に轢かれ上、放置された。

 イラクだけでなく、諸外国の政敵への攻撃には目を覆うものがあります。イタリアでムッソリーニは、銃殺された後衆人の前で逆さ吊りにされました。群衆によって地面に投げ出された遺体は、さらに銃撃され、物を投げつけられ足蹴にされました。

  また北朝鮮の金正恩は叔父の張成澤を処刑する時、先に彼の部下2名を銃殺しました。銃殺台のすぐ側に張成澤を座らせ、2人に向かって、戦車に搭載する重機関銃を連射しました。

 彼らの身体は一瞬で肉片となり、それが張成澤に降りかかり、張成澤は恐怖と嫌悪感で、その場で気絶したと言います。

 その後張成沢が銃殺され、一片の肉片も残さないよう遺体が爆破されと言われています。別の情報では、張成沢への憎しみに燃えた金正恩が、空腹の犬数十匹を入れた檻に張成澤を放り込み、食い殺させたという話もあります。これにつきましては、ネットの情報しかありませんので真偽のほどは不明です。

 私が言いたいのは、金正恩だけが特に冷酷非道なのでなく、日本以外の国々は大同小異だということです。

 中国においても毛沢東は、自分の政敵を紅衛兵たちに襲わせ、なぶり殺しにしました。天安門の騒乱では、鄧小平が二千人ともいわれる学生や若者を、戦車のキャタピラーで轢き殺させました。広島・長崎に原爆を投下し、日本の都市を無差別攻撃したアメリカも、例外ではなかったのです。

 大東亜戦争前も敗戦後も、日本はこうした国々に囲まれています。彼らが特別に極悪非道な民族ということでなく、国境を接した大陸の国々では、「人類は友達」「世界は一つ」という楽天主義では生き残れなかったのです。

 小さな島国でも日本が独立を守られたのは、先祖の苦闘の賜物です。氏の著書を読みながら心に生まれましたのは、やはりご先祖への感謝でした。

 長いブログとなり、そろそろイラクとお別れをしたいのですが、記録に残したいことがありますので、明日もう一回だけイラクとつき合います。

 日本も中近東の国々のように、外国の干渉で多民族国家となりそうだったのに、それを阻止した武士たちがいたという、そこだけはブログに書きたいと思います。

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勝俣郁子氏著『イラク わが祖国へ帰る日 』 - 2

2017-08-12 22:41:14 | 徒然の記

  当時のイラクについて、著者の説明を紹介します。

  ・人口2,300万人あまりのイラクで、クルド人は二割近くを占める。

  ・クルドの二大勢力のうち、クルディスタン愛国同盟 ( PUK ) のタラバー二議長は、米国の主導するイラク攻撃に積極的だ。

  ・一方のクルディスタン民主党 ( KPD ) は、米国と密接な関係にあるものの、バルザー二党首が米国のイラク攻撃に慎重である。

  ・30年ほど前KPDは、米国、イラン、イスラエルの支援を受け、イラク中央政権と武力衝突を繰り返していた。

  ・しかし突然支援を中断され、イラク軍の猛攻により崩壊したことがあった。

  ・イラン・イラク戦争の末期、1988 (昭和63) 年には、イランと手を組んだバルザーニたちが「 イラクの裏切り者 」  として、イラク軍の毒ガス攻撃にさらされたが、国際社会は救援手段を取らなかった。

  ・反体制派の中でもとりわけクルドは、米国の政策が、クルド民族運動の目的や正義のためでなく、米国の利害に基づいているという現実を学んできた民族である。

  ・現在のクルド人が米国に期待するのは、その絶大な軍事力と政治力であって、米国外交の「 良心 」などではない。

 ではイラクにいて、フセインを倒したいと活動しているクルド人とは、いったい何なのかという疑問が出てきます。もともとクルド人は、中東の山岳地帯に住む民族なのだそうです。ネットの情報によりますと、独自の国家を持たない世界最大の民族集団がクルド人で、その数およそ2,500万人から、3,000万人と言うことです。 

  祖国を持たない民族として学校で習ったのは、ユダヤ人でしたが、第二次世界大戦が終わった1948 ( 昭和23 ) 年には、イスラエルを建国しました。国の無い民族の話は終わったと思っていましたが、なんとクルド人が、イスラエルを超える世界最大の祖国を持たない民族集団だと言います。

 クルド人は、イラン、イラク、トルコ、シリアの国境地帯に住み、もともとは山岳地域の先住民族でした。詳しいことは知りませんが、イギリスがこの地域を支配していた頃勝手に国境線を引き、現在の国々が生まれたと言います。各国に散らばっているため、クルド人は少数民族のように言われますが、中東では、アラブ人、トルコ人、ペルシャ ( イラン )人の次に多い民族です。

 大昔にクルド人は、この地方で独立王朝を持っていましたので、今でも独自の言語を持ってています。近隣諸国からは認められていませんが、彼らは独立国家の名前を「クルディスタン」と決め、国旗まで定めています。

 混沌とした中東の中で、彼らはクルド人の自治獲得の戦いを続け、イラン・イラク戦争後に、イラク国内で「クルド自治区」を認めさせています。彼らが最終的に狙っているのは、「クルド人国家」の樹立です。

 そのクルド人の宗教が大半はイスラム教だと言われますと、このあたりから私の頭が混乱します。

 勝又氏の本を理解しようと、関連する事柄を調べていきますと、一部に過ぎないクルド人のことだけでも、本になる程のボリュームとなります。大海に漂う小船のような自分を発見しますが、勇気を出して進みます。次はイスラム教のことです。

 世界の宗教でのイスラム教の位置付けを調べてみますと、次のようになります。

   1. キリスト教  22億5400万人 33.4%

    イタリア  フランス  ベルギー  スペイン   ポルトガル  中南米

    アメリカ  カナダ   イギリス  ドイツ    オランダ   北欧   オーストラリア 

   2. イスラム教   15億0000万人 22.2%

    インドネシア  マレーシア   トルコ   エジプト   サウジアラビア 

    イラン     イラク     中東

   3. ヒンズー教    9億1360万人 13.5% 

    インド   ネパール   バリ島 

   4.  仏     教    3億8400万人 5.7%

    日本    中国      韓国  ベトナム   タイ   カンボジア

    ラオス   スリランカ   ミャンマー   チベット  

 イスラム教の中の80%がスンニ派で、残りの20%がシーア派です。イラクで多数を占めているのはシーア派ですが、政権についているのは、サダム・フセインが属するスンニ派です。

 面倒で調べる気になりませんが、フセインを倒そうとしているクルド人は、大半がイスラム教なので、中はスンニ派とシーア派に分かれているはずです。クルドのスンニ派は、同じスンニ派のフセインを殺そうとしているわけですが、ためらいは無いのでしょうか。宗教より民族の方が優先するのでしょうか。

 アラブの世界に詳しい氏は、こんな初歩的な私の疑問など気にもかけません。勝俣氏はお構いなしに、説明を続けます。

  ・一般論だが、実はアラブ人も、クルド人も、アメリカが大好きだ。

  ・彼らは、強いものに憧れる。だが米国外交の単純な発想と、力任せの強引さは許せない。パレスチナ問題ではイスラエルの横暴に甘く、イラクには正義を振りかざす。

  ・アメリカの言い分には、他者の価値観や論理の入り込む隙間がない。だから、フセイン大統領の対米批判がその点では説得力を持つ。

  ・イラク攻撃も、反体制派と米国の思惑には開きがある。フセイン打倒に、アメリカの政治力と軍事力が必要なのは明らかだとしても、傀儡政権が生まれるのは、望まない。

  ・反対派の人々の目的は、本来あるべき健全なイラクを実現すること。その一点に尽きる。親米国家の設立も、石油に絡むアメリカの国家戦略も介在してはならない。

  反体制派の人々の主張はとても立派で、崇高な響きさえありますが、実際のところ、実現の手段や国家像が私にはぼんやりとしか理解できません。米国頼みの新生イラクの建設なのですから、自分たちの言い分だけが通るはずがありません。

 私には反体制派の人々の姿が、わが国にいる反日・左翼の人間に重なる気がしてきました。

 国をアメリカの政治力と軍事力に守られているのに、

  「アメリカの戦争に巻き込まれるから、軍備は全廃しろ。」

  「戦争は嫌だ。」

  「アメリカ軍は出て行け。」

 スローガンはまだありますが、身勝手であるところが共通しています。

 本は全部で220ページで、紹介しているのは18ページです、こんな調子だと、何時終われるのか心もとなくなりますが、明日からは気合を入れ、イラクという国を探検してみようと思います。

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