ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

在日朝鮮人てどんなひと? その2 ( 徐氏の間違い )

2015-05-30 15:48:42 | 徒然の記

 朝が来た。気が重いが、昨日の続きを始めよう。徐氏が、日本の若者のために書いたという本だ。

 「欧米に習って、他民族を支配することを目指しながら、」「日本は、政治体制においては、民主主義を取り入れませんでした。」

 「  個人の自由、人権の尊重 、民主的議会制度、法の下の平等などが、」「実現されるのが文明国なのに、日本の帝国主義は、欧米と異なるものでした。」「天皇に忠誠で、国のため、文句も言わず死んで行くことが、立派だと言うのです。」

 氏の説明は、このあたりからおかしくなってくる。欧米の植民地支配とは、どのようなものなのか。氏はどんな想像をしているのか。

 英国が、インドを実質支配したのがおよそ220年間だ。1871年には、英国王がインド皇帝を兼ね「インド帝国」を作っている。オランダが、インドネシアを支配したのは、300年間と言われる。ベトナムは中国の支配を受けること約1000年で、フランスに支配されたのが100年だ。

 この間欧州列強は、植民地から過酷な税を徴収し本国へ送り、住民を奴隷同様に扱い、ただ同然の賃金で働かせ、莫大な富を得た。

 当時の列強が 、個人の自由や人権の尊重、あるいは、民主的議会制度や法の下の平等を植民地で行っていたと、誰も考えていない。

 氏は現在の目で戦前の日本を眺め、糾弾している。欧米の植民地の実態を語らず、日本だけが酷いことをしたという嘘を展開している。

 教育勅語を真似た朝鮮教育令や、日本語の普及に力を入れ、朝鮮語を第二外国語としたことについては、氏の怒りを理解するが、それを言うのなら、もっと残酷な統治をしていた、西欧の植民地について正確に説明すべきでないのか。

 「朝鮮学校の教室に、北朝鮮の指導者の肖像画があるのは、」「問題だと、多くの日本人が言います。」「私立の宗教系の学校などで、宗教的指導者の肖像を掲げることは、問題にされません。」「この対応の差は、どうしてなのでしょう」

 宗教的指導者の肖像とは、聖母マリアやキリスト、あるいは、ローマ法王を指しているのだろうが、国民を弾圧する独裁者の肖像と同じではない。

 「日本で、卒業式や入学式のとき、日の丸や君が代を、」「強制していることは、どうなのか、考えてみる必要があります。」

 これこそ余計なお世話で、教育への干渉ではないのか。

 「朝鮮学校の生徒たちは、日本人と同様に納税し、日本社会に生きる、生徒たちなのです。」「そういう子どもたちの、教育を受ける権利を、侵害してはなりません。」「根本的に、どの学校であれ、政府が、教育内容に干渉することは、許されておりません。」

 納税しているから、日本人と同じ処遇をと、在日の人々は必ず言う。納税は世界のどこに住んでいても、所得を得ていれば払わなくてならない。納税していても、国籍の違う人間は、外国人として扱われる。同じ扱いをされたければ、帰化すればいいのだ。世界の常識だ。日本の子供向けに書かいた本と言うが、子供はこんなことまで知らないので、氏の説明をそのまま信じてしまう。

 日本にある限り学校と名前がつくのなら、朝鮮学校でも、日本政府の管轄下にある。安価な用地の提供や税の減免など、国の支援や保護を受けるのだから、指導があるのは当然だ。

 朝鮮学校では、氏のような教師たちが日本への憎しみを植え付け、反日教育をしているので、文部省が指導するのは当たり前の話だ。しかし氏の主張は、現在の韓国・北朝鮮政府同様、我田引水のへ理屈に、近づいて行く。

 「日本は、過去の真実を糾明し、反省し、」「心から謝罪し、必要とあらば補償し、和解しなければなりません。」「これが、世界の、あらゆる国々で見られる、歴史を清算するプロセスなのです。」

 徐先生、私の知る事実はこうなのですよと、反論せずにおれなくなる。

 昭和40年に、当時の朴政権とかわした、日韓基本条約で、日本はすでに巨額の賠償額を払っている。

 総額8億ドルで、内訳は無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間ベースで3億ドルだ。現在の貨幣価値で換算すると、約4兆8千億円という試算もある。この金額は、当時の韓国の国家予算の2.3倍だから、半端な金額ではない。

 韓国政府が、この事実を国民に知らせていないから、今でも日本が、戦後賠償をしていないと思われている。参考までにつけ加えると、敗戦後に、日本が韓国に残した資産は53億ドルだ。現在の貨幣価値に換算すると、31兆8千億円とも言われているが、もちろんこれも、朝鮮のものになった。

 小渕総理が、韓国に謝罪したことについて、次のように説明する。

 「小渕首相の謝罪文には、北朝鮮の国民が入らず、」「在日朝鮮人も入っていません。」

 まだ戦闘状態にある敵国で、国交の無い北朝鮮に首相が謝るはずがない。まして密入国してきた在日朝鮮人に、なぜ謝る必要があるのだろう。

 「私が、この本を書くことを引き受けた、一番大きな理由は、」「日本が、差別のない社会になって欲しいと思うからです。」「誰も差別されず、誰にも差別されない社会、」「そんな社会は、夢物語だと思う人も多いでしょうが、みんなが諦めてしまったら、未来は真っ暗ですね。」

 「日の丸と君が代斉唱を強制し、起立しない先生が、処罰されるような学校で、」「どうやって、植民地支配を、過ちとして教えることができるでしょうか。」「どうやって、侵略戦争を、否定できるのでしょうか。」

 政府は教育に干渉するなと言いながら、外国人の氏が、日本の教育に干渉している。しかし問題なのは、氏が文句を言う相手を、間違えているところだ。日本政府や日本人に、難癖をつけず、文句をいうのなら、在日朝鮮人を見捨てている韓国と、北朝鮮の政府に言うべきであろう。

 ノムヒョン大統領が、在日朝鮮人を評した言葉を、氏は知らないのだろうか。

 「在日は同朋ではない。国が一番苦しい時に、彼らは日本で、ぬくぬくと暮らしていた。国を裏切った人間たちだ。」

 反日の在日朝鮮人に、帰る祖国がないという現実が、ここにある。氏は日本で言いたい放題を喋り、常識がないのに、大学の教授にまでなっている。自分の立場を知り、もっと謙虚になりなさいと、こっちの方が言いたい。

 「誰にとっても、国家に属していないことは、」「実生活上の不利益になるだけでなく、精神的な苦痛にもなります。」「でも、どこかの国に属している 国民でなければ、」「人権が守られないなんて、おかしいと思いませんか。 」

 「人権は、限られた人にだけ保障される、特権ではありません。」「人間は、どの国の国民でも、平等であるはずですが、」「さらに、国民であっても、無くても、平等でなくてはなりません。」

 「それが、世界人権宣言をはじめ、国連難民条約などの、国際条約が掲げている理念です。」

 氏は自国へ帰り、自分たちを見捨てた祖国に対して、文句を言うべきである。そうすれば暖かい貴方の国が、きっと願いを叶えてくれるだろう。

 この有害図書が、図書館に借りた本でなければ、本多勝一の著書同様、野菜クズと一緒にゴミ袋へ入れ、ゴミステーションに捨ててしまっただろう。

コメント (10)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

在日朝鮮人てどんなひと? 

2015-05-30 00:03:28 | 徒然の記

 徐京植 ( ソ・キョンシク ) 氏著「在日朝鮮人てどんなひと?」( 平成24年 平凡社刊 )を、読み終えた。

 著者は昭和26年、京都市生まれの在日朝鮮人で、早稲田大学の文学部を卒業し、現在は東京経済大学の教授をしている。氏の解説によるとこの本は、日本の若者たち、特に対象を中学生にしたというだ。

 図書館でページをめくると、穏やかで丁寧な文章だったため、つい借りてしまった。

 在日朝鮮人について、氏が次のように定義している。

 「日本の朝鮮植民地支配の結果、戦後も日本に住み続けることとなった、朝鮮人とその子孫。」「その数は、敗戦後に230万人だったが、現在は約60万人。」

 氏の話は、ずっと日本に住んでいる人間なのに、日本国民と同じ権利が保障されないのは、なぜかという疑問につながる。在日朝鮮人は、選挙権や、公務員への就職の権利が無いだけでなく、日本人から差別を受け、蔑視されてきたという話になる。

 朝鮮人、朝鮮、ばかチョンという言葉が、彼らへの蔑称で、嘲笑であった事実を否定しない。小学生時代に、からかわれる彼らが喧嘩をしていたことも、覚えている。朝鮮人を嫌悪する大人たちがいたのも、事実だった。しかし民主主義教育のお陰か、差別をする者は少数者だったし、多くの級友は、差別を嫌っていた。

 だがそれは氏が言うように、差別する側の人間の感想であり、差別された側の悲しみや怒りは分からない・・と、そういうことなのかも知れない。

 自分の気持ちと在日問題を、区別して考えたいと思うのは、日本にいる60万人の在日朝鮮人について、氏の説明が間違っており、これが厄介な争いの元になっているからだ。

  1. 在日朝鮮人は、日本の植民地支配のため朝鮮での生活が破壊されたので、生活の場所を求めてやって来た。

  2. 戦争中に不足した労働力を補うため、強制的に動員された。( 徴用工 )

 日本の植民地支配という言葉で説明されると、強制的に動員された朝鮮人が、多数を占めていると錯覚させられる。しかし、戦時徴用された朝鮮人の内、敗戦後の日本に残ったのは、245名だ。

 245名以外の朝鮮人、つまり60万人のほとんどは、戦後の混乱にまぎれ、職を求めて密航してきた朝鮮人と、その子や孫たちだ。

 大学教授である氏が、事実を知らない振りをしているのか、間違いを知らずに書いているのか。不可解でならない。

 「フランスは、植民地だったアルジェリアを独立させた時、」「フランスとアルジェリアの国籍を、住民に選択させました。」「でも日本は、在日朝鮮人を無国籍状態にし、見捨ててしまいました。」

 これも、私の知る事実と異なっている。日本が敗戦となった時、在日朝鮮人たちが、共産党とともに各地で武装蜂起した。火炎瓶闘争と呼ばれる、激しい暴力闘争に参加した。

 代表的な争乱が吹田事件だが、こうした争乱への、在日朝鮮人の参加人数が、30万人だったとも言われている。各地で騒動を起こす彼らを、政府は、治安維持のため、朝鮮へ戻そうと懸命になった。

 しかし当時は、朝鮮が北と南に分裂し、互いに戦争していたため、在日朝鮮人の帰還が困難を極めた。在日朝鮮人の多くは、共産主義者を弾圧する、韓国への帰国を躊躇し、韓国政府も又、在日朝鮮人の受け入れを拒否した。

 結局、赤十字の斡旋のもとで、北朝鮮への帰還が、大々的に行われることとなり、170万人の在日朝鮮人が日本を後にし、残りの60万人が自分の意志で残った。この60万人の中にいる戦時徴用工は245名と、厚生省の資料が記録している。

 この事実のどこを見て、氏は、日本政府が見捨てたと、断定するのだろう。

 60万人の在日朝鮮人は、職を求めてやって来た密航者であり、これが植民地支配の結果だと、氏が決めつける理由が理解できない。

 氏は日本の植民地支配について、三つの特徴を列挙する。

  1. 大きな力を背景に、朝鮮の土地や資源を奪い、安い労働力を使い、日本は、大きな利益をあげました。

  2. 韓国では、帝国憲法が適用されず、三権分立もなく、朝鮮人には憲法上の権利が認められませんでした。

  3. 朝鮮の犠牲の上で、日本の内地はうるおいました。

 現在韓国政府はこのように学校で教え、これがいわゆる反日教育です。日本は朝鮮を植民地にしたのでなく、併合したのであり、植民地なら、欧米諸国がしたように、現地人に教育を受けさせず、無知蒙昧のまま放置し、奴隷同様に酷使する。

 だが日本政府は、小学校、中学校、大学まで建設し、国内と同じ教育投資をしている。当時の政府統計資料を調べると朝鮮への投資が、国の予算を上回り、財政が赤字だったと記されている。

 文字の読めない朝鮮人に、ハングルを普及させたのは、日本だったし、厳しい身分制度を廃止し、庶民を解放したのも日本だった。国民の多数を占めていた、奴隷と小作人に、土地を分配し、生活の手段を与えたのも日本だった。

 こうして書くと、あれもこれも、してやったと、自慢らしく聞こえるが、苦々しくてならない。欲しがってもいない、親切や思いやりなど、朝鮮人が喜ぶはずがない。

 当時の日本政府がやったことは、ただひと言、「過ぎたるは及ばざるがごとし」だった。王族と両斑がふんぞり返り、奴隷のように酷使される、常人・賤民たちが多数を占めていても、知らぬ顔をしていれば良かったのだ。

 不衛生な暮らし振りだからと、道路を整備したり、家屋を整えたり、工場を造ったり、そんなことはしなければ良かったのだ。言葉がつい乱暴になるが、氏の説明には、日本の若者に聞かせたくない、嘘や偏見が多過ぎる。

 先日読んだ、別の韓国の教授の話と、違いすぎる。その教授は次のように述べていた。

 「私は日本か大嫌いだが、彼らがやったことでも、」「評価すべきことは、評価しなければならない。」

 厳しい身分制度の廃止、ハングル文字の普及、農地の解放、都市の近代化と国民生活の向上など、教授は、日本のやったことを数字を上げて説明していた。

 彼が反日である理由は、日本政府の、押しつけがましい皇民化政策だった。名前を忘れたが、この教授には今も敬意を払っている。

 少しでも日本を誉めれば、売国奴として攻撃される韓国で、事実を言う気概に打たれた。安全な日本に住みながら、こんな意見しか述べない、徐氏に失望する。

 夜も更けた。日本の若者向けの本だと言うが、若者の中には息子たちが孫も含まれており、とんでもない話だ。

 今日はここまでとし、続きは明日にする。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月11日の新聞記事

2015-05-27 21:54:12 | 徒然の記
 わが家のねこ庭で、雀とヒヨが水浴びをしている。
1万5千円のバードバスは、今の私たちには高価な買い物になるが、猫のいなくなった寂しさを紛らせてくれる小鳥たちのため、それこそ清水の舞台から飛び降りるような決意で購入した。

 材質は大谷石に似た柔らかさで、柱と皿の部分が分かれており、いずれも一人では抱えられない重さだ。買ったのはまだ寒い三月だったのに、設置した翌日から四十雀やヒヨが水浴びにやって来た。雀は臆病なのか慎重派なのか近くに来ても水に入らず、もっぱら四十雀とヒヨが元気良く水をはね飛ばしていた。

 時にはメジロも参加し、愛らしく賑やかな、心の躍る光景だった。
5月に入り暑い日が続くと、四十雀とメジロが姿を見せなくなった。家内の話では、次の冬が来るまで彼らは人里を離れ山に帰るのだという。だから今は、ヒヨと雀の天下である。毎日水を取り替えるのは私の役目だが、小鳥たちのためなら苦にならない。

 しかるにこの楽しい日々を、5月11日の新聞記事(千葉日報)が粉々に打ち砕いてくれた。
相変わらず新聞は私にとって、健康に良くない有害出版物であるらしく、瞬間湯沸かし器みたいに怒りが噴出した。忌々しい見出しの言葉を、早速書き写してみる。
「 " 偏見なき清算" 訴え 」「従軍慰安婦問題など 過ち認める決断を」「欧米の日本研究者が声明」、というものだ。

 ページの3分の2を占める記事欄に書かれているのは、要約すると「日本は過去をまっすぐに見つめなければならず、事実から目をそむけても問題は消えない。」という内容だ。声明に名を連ねる187名の日本研究者の中には、ハーバード大名誉教授の日本人もいる。入江昭という人物らしい。このご仁は「ドイツなどと違って日本は過去に目を向けていないとの印象を世界に与えている。」と宣う。

 ドイツは過去の戦争というより、ナチスのユダヤ人虐殺という行為を反省しているのだから、もともと日本とは違うのだと、どうして入江氏は理解しないのか。
そんな印象を与えていると言うのなら、他人ごとみたいに感想を述べるのでなく、米国在住の日本人学者として世界に向かって誤解を解く発信をすれば良いでないか。

 「同じことを言うのであれば、談話を出す必要は無い。」という安倍総理の意見に対し、コネチカット大のダデン教授は「真意が理解されるまで、同じことを繰り返すことが重要だ。」と異論を唱える。同様のバカな意見を村上春樹や浅田次郎が述べているらしいが、彼らの歴史の知識とはいったいどれほどのものなのだろう。

 慰安婦の問題にしても、日本人の多くが怒っているのは忌まわしい捏造についてだ。14才から20才までの韓国・朝鮮人の少女が20万人も日本軍に強制連行され、天皇からの贈り物として戦場の兵士に贈られたなどと、とんでもない虚報の非難に対し、バカなことを言うなと反対しているだけのこと。
軍の強制連行は無かった。20万人という数字は女子挺身隊への誤解から生じた数字で、朝日の植村記者が誤報し、朝日新聞が世界にまき散らした大ウソだった。そのうえに乗っかった日本非難には、納得できないと反論しているだけの話。

 売春婦は世界共通の問題で、戦場での悲惨な境遇を言うのなら、日本を含めた世界の問題として考えて行こうと、私たちはそう言っている。日本だけがなぜ攻撃されるのか、攻撃する資格がどうして他国にあるのか。そっちの方がよほどおかしい。

 名を連ねている米国やその他の国の学者先生に問い返したい。
もし自分が、こんなでっち上げのでたらめで攻撃されたら、あなた方は黙って謝るのか。根拠の無い中傷や非難を、黙って許容するのか。何度謝っても執拗に謝罪を要求されて、納得するまで謝りますと本当に頭を垂れるのか。

 大戦末期に、米国が日本全国を無差別に爆撃した。国際法違反のこの殺戮で、一般市民の死者33万人、負傷者が14万人だった。更に憎むべき原爆投下による、惨たらしい市民の虐殺は、広島で死者20万人、長崎で死者14万人だった。韓国や中国のようなプロパガンダ用のでっちあげの数でなく、日本国政府による正しい数字である。

 私たちはこれまで、米国の虐殺についてひと言も抗議をしなかった。謝れと叫んで米国旗を破ったり、大統領の写真を踏んづけたりもしなかった。もし私たちが中国・韓国・北朝鮮と同じような攻撃を米国に向けたら、納得するまで日本人に謝れと、彼らは米国に言えるのか。
敗戦国という自制から、今日まで私たちが我慢しているのを良いことにし、どこまでつけ込んでくるというのかと、胃がキリキリと痛む。

 187名の日本研究者が声明を出したというが、何人いようと、相手にする気になれない。彼らは一体日本の何を研究しているのか。
歴史の事実と向き合えと高説を垂れる前に、自分たちこそ、もっと事実を知るべきでないのか。馬鹿が何人集まっても、馬鹿はバカ。こんな学者たちが「日本研究者」だなんて、チャンチャらおかしい。

 先日母の見舞いで九州へ帰った折、近くに住んでいる親類縁者が久しぶりに集まった。
敗戦後に、命からがら満州から引き上げて来た仲間でもある。2才だった私にほとんど記憶は無いが、84才と76才の従姉妹は母との思い出話が弾んでいた。戦争前の満州はどんなふうだったのかという私の質問に、二人の従姉妹が口を揃えた。「満州で日本人は威張っていたねえ。現地人を顎で使って、平気で暴力を振るってたもんね。」「戦争に負けて、手のひらを返したみたいに日本人がやられてたけど、無理も無いと思ったわ。」「辛かったけど、仕返しされて当然と思った。」

 その他にも彼女たちは、ロシア兵が女を捜しにやって来たことや、秘密の穴蔵で震えていたことなどを話してくれた。
戦前の日本人、特に軍人には横柄で尊大な人間が沢山いたということを知っていたが、一般人までそうだったとは初めて聞く話だった。

 「辛かったけど、仕返しされて当然と思った。」そう言った従姉妹たちこそが、戦後の多くの日本人であろう。事実と向き合って反省し、自責の念にかられ、中国や韓国・北朝鮮から何を言われても我慢し耐えて来た。これが多くの日本人の姿だろう。マスコミの記事や出版物を取り寄せ、それで日本を研究した気になっているから、右傾化しているとか軍国主義に回帰しているとか、そんな大間違いをするのだと日本研究者たちに忠告しておこう。

 昔から日本は「サイレントマジョリティー」の国なのに、なぜ多くの者が俄に過去を語らずにおれなくなったのか。
それはまさに、中国・韓国・北朝鮮による、悪辣で執拗な、恥知らずの大ウソが始まったからに他ならない。尖閣諸島の領海を侵犯する中国や慰安婦のウソを世界中にまき散らす韓国に、疑問と嫌悪を感じ始めたからだ。

 私だって、隣国がここまで居丈高にわが国を貶めなかったら、ねこ庭を眺める呑気な日々だったに違いない。
一般の日本人は、私の従姉妹たちのように、あるいは私のように、過去を反省し、自制し、悲しんでもいる。それでもあまり理不尽な責めを受け続けると、国を愛する心が我慢の限界を乗り越える・・・・・・と、簡単に言えばそういうことだ。

 日本のマスコミは中国や韓国に劣らない偏向報道であり、そんなものを読んで日本が分かるはずも無い。「日本研究者」たちの意見は、とっくに聞き飽きた紋切り型の主張の羅列ばかり。つまり、朝日やNHKに代表される反日・売国の粗末な思考。
日本人の多くはマスコミのウソをとっくに見抜き、自分の頭で考えようとしているのに、日本研究者たちは一般の日本人の状況すら知らない。

 今晩もこのブログは、「みみずの戯言」でなく、「onecat01の本気」と改めることにしよう。

 



コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムの食えない面々

2015-05-25 21:18:03 | 徒然の記
 木村聡氏著「ベトナムの食えない面々」(平成9年 株式会社めこん刊)を、読んだ。昭和40年生まれの氏は、新聞社の報道カメラマンを経て、今はフリーライターとして生きている。
定価1500円の割には粗末なザラ紙に印刷され、写真はすべて白黒のモノトーンだ。それでも、写された人物が皆生き生きとしており、本の内容にも味があった。

 面白いので、少し長くなるが引用してみよう。
「今日も人々の生活が路上に散らばっている。そこはやかましくて、むんむん暑くて、体臭、腐臭、乳臭、あらゆるものが混じった匂いが渦巻く。路上とは、しゃがんでフォーを食うところであり、ナマズを置いて売るところであり、洗濯するところであり、ホンダがいっぱい人を積んで走るところであり、喧嘩、泥棒、博打、密談、何でもありの空間である。
食堂になって、市場になって、自転車の修理工場になって、床屋になって、ときには便所にもなる。」

 ベトナム語の先生、サパの老人、メコンデルタの女神、北からやって来た通訳など、世の厳しさや貧しさにめげず、したたかに生きる人びとが描かれている。ものを売るなら吹っかけろ、買い物するなら思い切り値切れ、騙されるより騙せと、男も女も大声で喋る。知らないことでも知った顔で話し、相手の迷惑など考慮せずどこまでも自己中心で妥協しない。そんな人々を、卒直に、時として辛辣に批評するが、言葉の向こう側には、作者の暖かい目が感じられる。

 貧乏人の息子として育った私は、木村氏が描写する情景に心を奪われ、文章のえげつなさにも惹き付けられる。
英国外交官だったカーン・ロス氏の「独立外交官」も面白かったが、育ちの良い高級官僚の文章には、木村氏のような魅力が乏しかった。俺はセレブの育ちだぞと木村氏に苦情を言われそうだが、言葉遣いの乱暴さと赤裸さにはどう読んでも貧乏人仲間の味がする。

 征服者だったフランスと戦って勝利し、アメリカと戦っても勝ち抜き、祖国の南北統一をやり遂げたベトナムだ。輝く過去を持つ国だというのに、何時までも貧困から脱せられないのは何故か。本当にベトナムは戦争の勝利者だったのかと、氏が素朴な疑問を投げかけるが、それはそのまま私の疑問につながる。
19世紀の植民地戦争時代に、独立を守り通した日本も素晴らしいが、二つの大国と戦って勝利したベトナムだって大したものでないか。アジアでは日本だけが誇れる過去を持つと思っていたが、ベトナムも誇るべき歴史の国だった。

 昭和50年の4月にサイゴンが陥落した時、ホーチミンの共産主義政府が腐敗と堕落の南部を解放し、新生ベトナムが輝く一歩を踏み出したと、日本のマスコミが高揚した記事を書いた。朝日新聞などは、社会主義の勝利だと賛美一色だったと記憶している。
首都ホーチミンを昔ながらの「サイゴン」という名で呼び、言論の自由、個人の自由など、南部の人々は北への不信を押し隠している。北に吸収された南部の国民との間に、今も気持ちの断層があり、根深い対立が残っている事実を教えられた。

 それで、どうしたって、私は自分の国のことを考えずにおれない。
反日・売国の人間たちを獅子身中の虫と私は嫌悪し、一刻も早く退治したいと願っているが、ベトナムではついこの間まで殺し合った南北の人間が同居しているのだ。

 憲法改正が国論を二分する日本だと嘆いているが、ベトナムの状況に比較したらまだ増しなのだろうか。自民党と共産・民主党との対立より、もっと激しいものが国中に満ち、何をするにも議論がまとまらず、堂々巡りしているのだろうか。
陸続きのベトナムでは他国の介入も簡単になされるだろうし、「ドイモイ」などという元気なスローガンの背後では、国民不在の政治が続いているのだろうか。

 それともわが国がこのまま「獅子身中の虫」を野放しにしていたら、やがてベトナムみたいにやっかいな状況になるのか。
木村氏の本が人々の暮らしを生き生きと語っているだけに、日本の日常についていやでも考えさせられる。

 今から12年前、まだ会社員だった頃、私はベトナム旅行をしたことがある。
今では考えられないが、当時の会社は長く勤務した社員を大切にし、表彰したり褒美をくれたりした。勤続三十年目の私に、夫婦での旅行券を会社がプレゼントしてくれ、家内と旅の計画をしなぜかベトナム行を決めた。正社員をカットしたり、臨時のパートを増やしたり、そんな目先の利益だけを追求しなかった、良き時代の会社の話だ。

 グループ企業の中に旅行会社があり、自由が利いたこともあって、団体でなく個人の旅ができた。飛行機はビジネスクラス、ベトナムでの移動は日本の乗用車(中古だったが高級車)、そしてベトナム人の通訳と添乗員が付くという、後にも先にも初めての優雅な強行スケジュールの旅だった。
(自慢のため述べているのでなく、ついこの間まであったのに、消えてしまった「古き良き時代のわが国の会社」について語りたかったのだ。)

 そこで私が見た風景は、木村氏が語る情景と重なり、とても懐かしかった。
ベトナムの農村風景は、かっての日本を偲ばせ、不便さも不潔さも、人々の暮らしの慎ましさも、すべて懐かしかった。敗戦後の田舎の貧しさと、それでいて生き生きとした明るさや、穏やかさなど、私は心を揺さぶられ通しだった。

 言葉が通じないので人々との会話は無く、笑顔で礼を言ったり挨拶したりで終わったため、楽しい思いばかりが刻まれているのだろうか。氏のように言葉が話せたら、悪口や陰口まで理解できて、思い出が別のものになったのかも知れない。
心に残るベトナム人は、誰も人なつこく、穏やかで、遠慮がちな表情ばかり見せている。アオザイ姿の若い女性などは、優しい笑顔でしか思い出せない。

 氏の本を読み、ベトナム人は別の姿をしているのだと知ったが、私は自分の思い出と印象を大切にしたい。ベトナム人だって、その方がいいに決まっている。

 さてそこで、肝心のこと。
「食えない」という言葉を辞書で引いたら、「ずる賢くて、油断できない」という意味だと書いてあった。要するに平気でウソを言い、自分を正当化するためには妥協しないという厚顔さ。私はベトナムだけでなく、東南アジアの人々が多かれ少なかれそんな気質で暮らしていることを知っている。

 他人を責める前に、自分を反省しなさいなどと教えているのは、アジアでは日本だけでないのだろうか。
インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、香港と、会社に勤めていた頃、現地の社員と東京で接して来たが、ホテルに泊まれば仲間で夜遅くまで騒ぐし、約束の時間は守らないし・・・・という彼や彼女らを、沢山見て来た。

 謝ることは決して無く、乗り物が遅れたとか、人に邪魔されたとか、言い訳ばかりの彼らに呆れさせられた。彼らには「自責」という観念が無く、24時間「他責」の念で暮らしている。彼らを引率して来た現地駐在社員に聞くと、これが当たり前のことだと聞き流された。おまけに言われたのは、「日本の常識は、世界の非常識です。」だった。あの時はむかっ腹が立ったけれど、今では、名言でなかったかと感心している。

 つまり、ここで再度「肝心のこと」だ。
日本の過去を誹謗し、捏造のウソで攻撃し、反論をものともせず、愚かしい宣伝を、恥も無く続ける中国と韓国・北朝鮮のことである。己の非道や殺戮には一顧だにせず、よくもまあ、あんな傲慢なでっち上げをと日本人は怒っているが・・・・・。

 もしかすると、アジアでは中国と韓国・北朝鮮のやり方が当たり前なのではないかと、そんな気がしてきた。
つまり「日本の常識は、世界の非常識」ということで、孤高の日本というのが現実なのではないだろうか。そうだとするのなら、私たちはもっと割り切って生きなくてならない。

 「郷に行っては、郷に従え」だから、「礼節」、「正直」、「勤勉」、「誠意」などという生き方は国内だけのものとし、外へ出たら「他責」、「自己主張」、「大ウソも方便」で、堂々とやり合うことが正しいのではないのか。

 驚くことは無い。日本にだって、世界の常識でやっている会社が沢山ある。朝日新聞とNHKを筆頭に、マスコミ各社は何年も前から「世界の常識」で報道をしている。
平気でウソの記事を書く、間違った報道をしても謝らない、責められたらへ理屈で反撃する、恥も無く誇りも無く、その場その場を大声で取り繕う。
「日本の常識が世界の非常識」と、マスコミ各社が言わなかったとしても不思議は無い。彼らの報道には、真実とか、正義とか、誠とか、そんなものは頭から無く、眉に唾して読んだり聞いたりするべしと、氏の本がシッカリと教えてくれた。

 九州から戻って久しぶりのブログだが、「みみずの戯言」というより、今回だけは「onecat01の本気」と改めることとしよう。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選択の自由- その3

2015-05-06 15:46:05 | 徒然の記

  国が行う福祉政策に、どうして金がかかるかについて、フリードマン氏の主張には興味深いものがある。

 「官僚は他人のお金(税金)を、他人のために消費している。」「官僚がそのお金を、国民のため最も有益に使うということについては、人道主義に満ちた、親切心をあてにする以外に道はない。」

 「他人の金(税金)を手に入れてやろうという誘惑は、極めて強いものだ。」「行政に当たっている官僚を含め、これにたずさわる多くの人びとは、」「お金が他所に流れるより、なんとか自分の手元に来るように、一生懸命努力する。」「仕事を通じて、腐敗や詐欺に加担したくなる誘惑は、あまりに強く、」「その誘惑と闘い続け、負けずにおれるということは、難しい。」

 「お金が自分の許へ流れるように、官僚は、詐欺行為の代わりに、」「立法という手段を利用するだろう。」「その法を制定させるため、官僚以外の人びとは、ロビー活動をする可能性が高い。」「担当する官僚は、自分の俸給の引き上げや、役得の増大のため、」「いろいろ、工夫を重ねるだろう。」「俸給の引き上げと、役得の増大は、福祉諸施策が大きくなればなるほど、容易になる。」

 ここまであからさまに書いていいのかと、氏に問いたくなる。
政府の役人は、おそらくこんな誘惑に負けているのだろうと、前から推測していたが、35年も以前に、米国で語られていたというのだから、驚きだ。福祉政策に使われる税は、途中で沢山抜かれてしまい、最終の受益者にはわずかの金額しか行き渡らない。だから国家の福祉政策は、何時までたっても、際限なく赤字になると、彼は頑固に主張する。

 年金制度は、今後百年揺るがないと厚生省が豪語し、給与天引きの年金保険料が引き上げられたのは、何時のことだったろうか。
正確な年を覚えていないが、上がったとたんに、役人や政治家たちが、金を気前良く使いだした。ゆとりのある暮らしにはリゾートが大切だとか、余暇のスポーツが重要だとか、最もらしい口実で、使いもしないスポーツ施設や、官営リゾートホテルなど、しかも不釣り合いに豪華な施設が、全国各地に建てられた。

 それが軒並み自治体の赤字を増大させ、「破綻する年金制度」とマスコミが騒ぎ始め、天下りの高給官僚たちがやり玉にあげられた。
氏の意見が他人ごとでないのは、経験からする実感だ。35年前だろうと、たとえ100年以前だとしても、「心は、金の魔力にめっぽう弱い」。高尚なことを述べていても、自分が、この魔力にどれほど勝てるかと、自問すれば、自信無しという答えが即座に出る。

 だから役人による管理・監督を嫌らい、政府に信を置かず、国民の自由に任せよという、フリードマン氏の主張には一面の真実がある。

 彼が強調しているのは「個人の自立」であり、「自己責任」の大切さだ。個人の生活支援にまで、政府は干渉せず、自然発生的な慈善運動に任せれば良いと言う。氏の本も、読み進んで行くと、次第に無理が出てくる。自由競争を放置すれば、富のある者が勝ち、貧しい者が這い上がれない社会になってしまう。

 自堕落に生きて来た人間が、不幸になるのは自業自得だろうが、真面目に生きた者まで、無惨に孤独死する社会は是認できない。不平等は絶滅できないとしても、極端な貧富の差まで、政府が放置するのは正しいことか。

 支援は末端に届かないばかりか、人びとの自立心を失わせ、自助努力を無くした国民が更に堕落すると、沢山のデータを示して彼は反対する。誰も彼も平等になど、理想は理解しても、現実には無理な話だから、金持ちは金持ちらしく、貧乏人は貧乏人らしく生きるしか無いと、断言する。要するに、「貧乏人は麦飯を食え」という理屈だ。

 ここまでくると、どうしても、竹中平蔵氏の顔が浮かんでくる。国も民族も考えず、効率一筋に、経済の活性化を説く、冷酷な新自由主義者だ。自由を万能とする彼らは、無数の自由を、国民の前に展示してみせる。素晴らしい沢山の自由に混じり、「貧乏する自由」、「不幸になる自由」、「自殺する自由」が混じっているのだから、ため息が出てくる。

 フリードマン氏の住む米国は、もともと、そういう人間の集まりが出発点だから、それで良いとしても、日本はそんな国ではない。「民の竈は賑わっているか。」と、庶民の暮らしを案じた天皇が、古代からおられたという、そんな思いやりの国である。

 たとえ作り話だとしても、そうした話が語り継がれているところに、日本の良さがあろうというものでないか。竹中氏に間違いがあるとしたら、おそらくここだ。(国の歴史への無知と無理解)

 本はやっと300ページだ。次第に、晴耕雨読の楽しい書でなくなって来たが、もっと酷い本があったことを思えば、これしきのことが何だろう。

 美しい5月の庭に、小鳥のさえずりが響く。先ほどまで、ウグイスが、心地よい鳴き声を聞かせてくれていた。近くの山にいるのだが、わがねこ庭で聞くのは、初めてのことだ。氏の本が詰まらなくなったのを察し、ウグイスが慰めに来てくれたのだろうか。

 そんな空想が信じたくなるほど、緑のあふれた5月の庭だ。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする