ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

親と子

2010-08-14 12:52:07 | 日記

 「子を持って知る親の恩」

 諺というか格言というのか、いったいこの言葉はいつ頃から使われ始め、誰が言い出したのだろう。

 含まれている意味の深さを思うと、根拠はあまりないが、明治は言うに及ばず、江戸時代も遡り、鎌倉・平安のあたりまで行くような気がする。

 人が子を持って親となり、子の可愛さに目がくらむ「親ばか」となり、やがて子のわがままに泣かされる経験を経て、やっと親の苦労が分かり、有り難さに気づくというありふれた内容だが、私などは、親への感謝というより、重ねてきた不孝を反省させられる方に力点がかかってしまう。

 そこで反省し、孝行者に変わるというのなら、目出たし目出たしだが、そうは行かないのが現実だ。

 わざわざ親不孝はしないが、孝行息子かという話になると、自分でも疑問符をつける。今年90になる母は、九州に住み、私は関東に住んでいる。一人息子の私と住みたいと思っている母だが、見知らぬ関東では暮らしたがっていない。家を買ったとき、母の部屋を準備したが、当然のことながら高齢の母は、住み慣れた土地を離れたがらなかった。

 本当の孝行息子なら、今の家を処分し九州へ転居するのだろうが、そうなると今度は、自分の家族の暮らしが立たなくなる。

 父が生きている頃からの習慣で、親の誕生日と敬老の日、盆・暮れに、ほんの気持ちだけ送金をし、なるべく週末には電話をかけることにしている。

 親孝行をしていると、賞めてくれる他人もいるが、母を遠方 ( 妹の家 ) に預けているかぎり、心の痛みが消えてくれない。そしておそらく、このまま時が過ぎると分かっているだけに、無力というのか、経済的な非力というべきか、自分の限界を知らされる。

 敗戦後満州から幼い私を抱え、必死に引き揚げて来た母だった。その後シベリアの抑留生活から復員した父は、田舎の大家族を長男として支えた。当時は誰もがそうだったが、貧しさにしっかりとくるまれ、いつも腹ぺこで暮らした日々だった。

 心に刻まれているのは、両親が働いていた姿ばかりだ。そんな暮らしの中から大学へ行かせてもらったのに、大して感謝もせず、当たり前のこととして受け止めていた若かった日の自分。

 思い出すと、胸が切なくなる。まして早く亡くなった父には、ほとんど何もしないままだったから、後悔と反省が波のうねりのように押し寄せてくる。

 そのままうねりの波に押しまくられていたら、人生は暗く悲しい色に染めあげられてしまうのだが、うまい具合に出会ったのが、万葉の歌人山上憶良だった。

   白銀も黄金 (くがね ) も玉も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも

 詠われているのは個人の気持ちというより、すべての親に共通する心だ。どんな宝物にも代えられないものが子どもだと言う言葉に、うなづかされない親はいない。

 会社勤めをしていた頃、時には嫌になるほど仕事や人間関係に悩まされたが、社宅の窓辺に頭を並べ、幼い子らが無心に手を振ってくれた姿に、出勤する私はどれだけ慰められ励まされたことか。

 妻や子のためなら、たいていの苦労は乗り越えられると、本当にそう思って生きてきた。両親にしてもそうだったに違いないが、こうなると親孝行の意味が、更に広がってくる。

 子どもは一緒に暮らしている時から、ただそれだけで親孝行をしていた、そして親はそれだけで幸福になったのだと、憶良の歌が教えてくれる。

 子に尽くしても、代償を求めない親の愛。これもまた、「子を持って知る親の恩」のひとつだ。だから親孝行など、わざわざ考えなくて良いのだ。子どもが自立してくれたら、それだけで良いと、妻と二人で折に触れ話している。

 この際もっとハッキリ、伝えてやるべきなのだろうか。
 
 「お前たちは、何事もなく育ってくれたので、それだけで親孝行だ。」「次の親孝行はそれぞれが自立して、お前たちには異論もあるだろうが、お父さんたちが作って来たような、幸せな家庭を作ることだ。」

 政治の貧困か、時代の流れなのか、パートや臨時雇いが巷に横行し、若者たちが結婚出来ない社会になりつつある。暮らせないから、結婚しても子供を欲しがらない夫婦が増えた。人口が減少する、働く若者がいなくなるとマスコミが騒いでいるが、少子高齢化社会にしたのは自由民主党政府であり、私たち大人ではなかったのか。国民を不幸にして達成した、世界第二の経済大国になど何の意味があるのかと、私は子どもたちに代わって政治家に問いたい。

 ならば親として、こんな時代だからこそ、ハッキリ伝えてやるべきなのだろうか。

 「お前たちは、何事もなく育ってくれたので、それだけで十分親孝行だ。」

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予定

2010-05-15 17:49:49 | 日記

 予定は常に未定と、かって、そんな都合のいい言葉を教えられたことがある。

 どうしても書きたいと言うか、書き残しておきたいというのか、実はそんなテーマがいくつかある。過去に何度か試みたが、いつも失敗した、苦い経験が残っている。偏見や気持ちの高ぶりを少なくし、静かに自分の思いを綴りたいと、挑戦するのだが、都度つまづいてしまう。

 だから、何時から書くのか、果たしてまとめられるのか、自信がないけれど、列挙するだけはしておこう。「気まぐれ手帳」だとしても、時にはまともに取り組んでみたいものがあるということなのだから、それはそれで大事にしなくてなるまい。

 他からの強制でなく、自分からやりたいと思うことは、たとえ人の目に楽しいものと見えなくても、何であれ楽しいことにかわる。

    1. 憲法または九条

      2. 愛国心または祖国

        3. 家族 または親子

    4. 愛と恋

          5. 神または宗教      というテーマがそれだ。


 いざ文字にしてみると、他人の目からでなくても、自分でも楽しいと思えなくなったテーマだ。が、そこはそれ、昔からへそ曲がりの片意地で生きている私だから、楽しいものに変えてみせると、返って意気込みたくなる。

 若い時分から、こんな思い込みで何度も失敗したのに、まだ懲りていない己がいる。だが、こうしておけば、変化のない暮らしに目標が生まれ、自らへの宿題になる。
 
 子どもの頃は、教師や大人に与えられ、会社時代には、上司が職権で無理難題を押しつけてきたが、定年退職した今となっては、誰も、そんなおせっかいはしてくれない。

 それはそれで寂しいのだから、まったく、気持ちという奴の、勝手さ気ままさには、今更ながら手を焼くというものだ。ということで、今日は簡単に、これまでとしておこう。

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記憶の砂浜 

2010-05-09 12:12:46 | 日記

   幸せだった日の思い出が
   寄せる波のように
   記憶の砂浜を濡らす
   五月の海と太陽が
   お前の笑顔と重なっている

   忘れられないお前よ
   冷たい冬の近づく部屋で
   暖かい日の思い出が胸を焦がす
   
   飲もうか
   こんな日には禁酒をやめ
   酔ってつぶれて泣いて眠るか
   流す涙が 心の底にたまり
   塩辛い海とつながっていくのだろうか

 もうすぐ、過去のものとなる大学生活だ。こんな日には、思い出にひたるのもいいだろう。失ったものが甦るのは、記憶の砂浜に身を任せるときだ。消えた日々が波となって寄せ返し、打ち重なってかすかな調べを奏でる。

 岩に打ちつけ、飛沫とともに大きく割れるのは、青雲の志が世間に挑む音だ。優しく静かにひた寄せる小波は、昔の恋の囁きだ。物音ひとつせず、日も射さない海の広がりは、孤独の果てしなさを教える。目を閉じて耳を澄ませば、学生生活の6年間が、記憶の浜辺に寄せ返す。

 うねりの青の優しさに揺られていると、忘れていた少年の心で、追憶の波と戯れたくなる。記憶の砂浜は、人間だけがもっている心のふるさとで、疲れた魂が安らぐ場所だ。そんなときは、誰であっても詩人になれる。繰り返す波音の優しさに包まれ、素直になり、詠いたくなる。私のこころよ、きらめく言葉で語ってくれ。願わくば、私だけのことばで・・。

 と、こんな具合に、大学6年生(24才)の晩秋のノートに、若かった日の自分が書きつけている。このような詩も文章も、今は書かないが、改めて「みみずの戯言」に写しとってみると、感慨深い。

 24才にしては書けているでないかと、感心する反面、以来自分の書くものは、レベルアップしていなかったか、という失望も入り混じる。友人どもから、貧民窟と呼ばれた馬場のアバートの一室で、私はこれを書いた。入り組んだアパートの一階にある、安普請の角部屋は、一日中陽がささず、窓を開けても、見えるものは隣の建物の壁だった。昼間でも、電気をつけないと暮らせない、陰気な部屋は、安い家賃が魅力だった。

 6年間大学にいたが、文字どおり居たというだけで、授業には出なかった。専門の学部の単位は取得済みで、在学するため教養科目をひとつ落とし、試験を受ければ卒業できるという状況だった。

 きらめく言葉になっているのかどうか、分からないが、これを書いたのは、埼玉の小さな会社へ、就職が決まったのを機会に、二三日後に引っ越しをすると、心に決めたときだった。

 どちらかと言えば、自分を陰気なペシミストだと思っているが、過去を振り返ると、お目出度いばかりの楽天家を発見する、驚きがある。恋に破れ、悲しい酒を飲もうとしていながら、恨み言ひとつ書いていない。

 やせ我慢で、追憶の砂浜などと気取っているが、そんな心境では無かったはずだ。だが、もう済んだ話だ。「つらいことでも、過去になって振り返れば、懐かしい思い出に変わる」というのが、昔からのパターンだ。

 金色夜叉の貫一みたいに、一生お宮を怨み、冷酷な高利貸しであり続けるような、根性のある人間とは違うのだ。いったん過去になってしまうと、憎んだ奴も怨んだ相手も、不思議なことに、すべて懐かしい思い出の中の人間に変わる。

 いい加減とも見えるこの精神構造は、もしかすると、顔も知らないご先祖様から受け継いだ、有り難いDNAでないのかと、最近考えたりする。この調子で、何もかもがどんどん過去になり、一生が終われば、楽しい思い出だけを抱えて死ぬことになる。

 まことに、ロシアの古い格言に似た理想の臨終となる。

「最後に笑う者が、最も良く笑う者である」・・・・・。表現が多少違っているかもしれないが、途中経過がなんであれ、死ぬ間際に笑って死ねるのなら、それが最高、という意味だ。はたしてそんな具合にうまくいくものか、こいつばかりは、生きてみなくては分からない。自分の最後を見届けるまで、簡単に死ねない理由がここにある。

   この世をば どりゃお暇に 線香の

   煙と共に ハイさようなら
 
  勝ちどきの東陽院の門柱脇に、一九の辞世の句が刻まれた墓碑がある。

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