アドルフ・ヒトラー著 / 平野一郎・高柳茂訳『わが闘争』( 昭和36年刊 黎明書房 )、を再読した。
高校三年生の時、近所の本屋で買った本だ。全部で3巻だが、その時は2巻までしか出版されていなかった。
社会主義の思想も、資本主義のことも知らない少年の時だから、初めから終わりまでチンプンカンプンだった。そのまま本棚の奥に放置し、現在に至っている。ヒトラーの本をなぜわざわざ買ったかと言えば、「若気のてらい」としか説明できない。
73才になり再読した今でも、ヒトラーの言葉はサッパリ意が掴めない。高校生だった自分は、こんなヘンテコな日本語は翻訳者が下手なのだと、腹を立てた記憶が残っている。
一つの名詞に、いくつも修飾語を重ねる煩わしい文章、あるいは一つの文の途中で、別の文章が挿入され、そこにくどい修飾語が追加されるので、素直に読めない文となる。
今回読んでも同じ印象なので、少年だった自分も、正しい直感を持っていたと感心すべきなのか、それとも幾つになっても成長しない人間なのか、今持って分からない。
最初読んだ時もそうだったが、そもそもヒトラーという人物は、高慢で、独りよがりで、人間としての魅力が少しもない。自信に満ちて語り、異なる意見を激しく攻撃する狭量さに、嫌悪すら覚えた。
彼が生まれた1889年は、日本で言えば明治22年で、大日本帝国憲法が発布された年だ。当時のオーストリア・ハンガリー帝国に生まれた彼は、国籍はオーストリア人だが、民族としてはドイツ人だった。
小学校を卒業後、最初は画家を目指すが受験に失敗し、次は建築家になろうとするがこれも挫折する。
貧しさの中で苦闘しつつ読書に励み、政治を学び、歴史を学んだと、書いてある。しかし肝心なことが、私に、納得できるように説明されていない。
どうして、あれほど強烈な反ユダヤ主義者になったのか、なぜアーリア民族選民思想に染まったか、沢山喋ってはいるが、なにも説明していないに等しい無駄話だ。彼が述べていることは、表面的な、薄っぺらな、内心の印象でしかない。
「シオン主義は、あたかも一部のユダヤ人だけが賛成しており、大多数はしかし、そういう取り決めに反対し、心から拒否しているように見た。」
「しかしこの外見を、もっと詳細に眺めると、純粋のご都合主義から発した、嘘といわぬまでも、逃げ口上という、不快な霧の中に飛び散ってしまった。」
「シオン主義ユダヤ人と、自由主義ユダヤ人の間の、この見せかけの闘争は、まもなく我々に吐き気をもよおさせた。」「それは徹頭徹尾、真実でなく、もちろん嘘であり、さらにいつも主張される、この民族の、道徳的な高尚さと、純粋さに適合しないものであった。」
この分かりにくい文章は、果たして翻訳者の技量のせいか、ヒトラーの思考回路の回りくどさのためか、今回も迷った。
学生だった頃、カントやハイデッガーやヤスパースなど、哲学者の本を読んだことがあるが、彼らの著書には、必ずキラリと光るものがあり、心を奪われた。
同じように分からない文章なのに、ヒトラーの著作にはどこにも光るものがなく、読み進むほどに、嫌悪せずにおれない臭気が漂ってくる。
唐突の感があるが、ここで訳者である平野氏の、「序」の言葉を紹介してみよう。
氏は、ナチのバイブルと言われる「わが闘争」を、翻訳することに、大きなためらいがあったが、ヒトラーを礼賛する日本の青少年に、事実を知ってもらい、客観的な目で、批判力をもって読んでもらいたかったから、翻訳を決意したと説明している。
「したがって私はこの翻訳を、なによりもナチズムの、客観的な研究の不可欠の資料として提供し、ふたたびかかるファッシズムの蹂躙を、将来せざるためにこそ、提供するのである。」
「この邪悪な天才が、" すべてを単純化する恐ろしい人 " であり、それゆえにこそ、わずか十二年のことであったが、ドイツ人をして、あれほど熱狂せしめた、大衆説得力をもっていたのだということを、この第三帝国の青写真となった 、 " わが闘争 " の中で見抜いて欲しいのである。」
少年だった私は、きっと素直な人間だったに違いない。この冗長な、面白味のない本を、二巻とも最後まで読んでいる。何箇所かに、鉛筆で印がつけてあるのが、その証明だ。
でも今の私は、吹き出してしまう。
「平野先生。客観的にでも、批判的にでも、こんな粗末な文章で、日本の若者が何をすると言うのでしょう。」
まずもって、普通の若者なら興味を示さないだろうし、手にしたとしても、二、三ページ目を通せば、悪文に懲り放り出してしまうはずだ。
「ある場合には、その最も極端なものを拒否するために、この不快な運動の、第一線に乗り出すことが、すべての思慮ある人間の義務であった。」
「しかし他の場合には、この民族病のもともとの創始者は、真の悪魔であったに違いない、というのは、怪物の - 人間でなく - 頭の中でなければ、その活動が結果として、人類文化を破壊に導き、同時に、世界の荒廃に導くに違いない、組織のための計画が、意義ある内容をとることができるはずがないからである。」
これは、「マルキシズムの基礎研究」という、一章中の文である。ヒトラーが何を言っているのか、いったいどんな青年が、何を理解すると言うのだろう。
こんな意味不明な翻訳書を世に出した平野氏も、ヒトラー負けないおかしな学者だと思えてきた。
だから今回は、二巻ある本の一巻だけ読んだところで、「わが闘争」と決別すると決めた。年末の貴重な時間を、こんなつまらない本と闘争しつゝ読むなど、人生の無駄でしかない。
さてここで、大切な伝言をしておこう。
いつかこのブログを読むであろう、息子や孫たちよ、間違っても『わが闘争』などを手にしないで欲しい。
平野氏は、わが国にファッシズムが再来しないためにも、この本を読んでもらいたいと寝言を言っているが、そもそもドイツと日本は、歴史も文化も異なっている。
今の時点で、中国や韓国・北朝鮮と対立しているが、ヒトラーみたいな虐殺を考えるような人間は、日本にはいないし、そんな風土もない。
だらだらと語られる、牛のよだれみたいなヒトラーのお喋りなど、日本には無用なもので読む必要もない。
ネットの情報で調べてみたら、貧困時代の画家志望や建築家志望も、捏造の自慢話であるらしい。彼は貧困でなく、親の遺産をもらい、遊んで暮らせるだけの余裕があった、とも書かれている。
努力なしで、総統になれなかったのは事実だろうが、胡散臭い、ごまかしの混じる本であることを、言い添えておきたい。