goo blog サービス終了のお知らせ 

ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

アドルフ・ヒトラー著 / 平野一郎・高柳茂訳『わが闘争』

2016-12-29 22:12:34 | 徒然の記

 アドルフ・ヒトラー著 / 平野一郎・高柳茂訳『わが闘争』( 昭和36年刊 黎明書房 )、を再読した。

 高校三年生の時、近所の本屋で買った本だ。全部で3巻だが、その時は2巻までしか出版されていなかった。

 社会主義の思想も、資本主義のことも知らない少年の時だから、初めから終わりまでチンプンカンプンだった。そのまま本棚の奥に放置し、現在に至っている。ヒトラーの本をなぜわざわざ買ったかと言えば、「若気のてらい」としか説明できない。

 73才になり再読した今でも、ヒトラーの言葉はサッパリ意味が掴めない。高校生だった自分は、こんなヘンテコな日本語は翻訳者が下手なのだと、腹を立てた記憶が残っている。

 一つの名詞に、いくつも修飾語を重ねる煩わしい文章、あるいは一つの文の途中で、別の文章が挿入され、そこにくどい修飾語が追加されるので、素直に読めない文となる。

 今回読んでも同じ印象なので、少年だった自分も、正しい直感を持っていたと感心すべきなのか、それとも幾つになっても成長しない人間なのか、今もって分からない。

 最初読んだ時もそうだったが、そもそもヒトラーという人物は、高慢で、独りよがりで、人間としての魅力が少しもない。自信に満ちて語り、異なる意見を激しく攻撃する狭量さに、嫌悪すら覚えた。

 彼が生まれた1889年は、日本で言えば明治22年で、大日本帝国憲法が発布された年だ。当時のオーストリア・ハンガリー帝国に生まれた彼は、国籍はオーストリア人だが、民族としてはドイツ人だった。

 小学校を卒業後、最初は画家を目指すが受験に失敗し、次は建築家になろうとするがこれも挫折する。

 貧しさの中で苦闘しつつ読書に励み、政治を学び、歴史を学んだと、書いてある。しかし肝心なことが、私に納得できるように説明されていない。

 どうして、あれほど強烈な反ユダヤ主義者になったのか、なぜアーリア民族選民思想に染まったか、沢山喋ってはいるが、なにも説明していないに等しい無駄話だ。彼が述べていることは、表面的な、薄っぺらな、内心の印象でしかない。

  ・シオン主義は、あたかも一部のユダヤ人だけが賛成しており、大多数はしかし、そういう取り決めに反対し、心から拒否しているように見た。

  ・しかしこの外見を、もっと詳細に眺めると、純粋のご都合主義から発した、嘘といわぬまでも、逃げ口上という、不快な霧の中に飛び散ってしまった。

  ・シオン主義ユダヤ人と、自由主義ユダヤ人の間の、この見せかけの闘争は、まもなく我々に吐き気をもよおさせた。

  ・それは徹頭徹尾、真実でなく、もちろん嘘であり、さらにいつも主張される、この民族の、道徳的な高尚さと、純粋さに適合しないものであった。

  この分かりにくい文章は、果たして翻訳者の技量のせいか、ヒトラーの思考回路の回りくどさのためか、今回も迷った。

 学生だった頃、カントやハイデッガーやヤスパースなど、哲学者の本を読んだことがあるが、彼らの著書には必ずキラリと光るものがあり、心を奪われた。

 同じように分からない文章なのに、ヒトラーの著作にはどこにも光るものがなく、読み進むほどに、嫌悪せずにおれない臭気が漂ってくる。

 唐突の感があるが、ここで訳者である平野氏の、「序」の言葉を紹介してみる。

  ・ナチのバイブルと言われる「わが闘争」を、翻訳することに、大きなためらいがあったが、

  ・ヒトラーを礼賛する日本の青少年に、事実を知ってもらい、客観的な目で、批判力をもって読んでもらいたかったから、翻訳を決意した。

  ・したがって私はこの翻訳を、なによりもナチズムの、客観的な研究の不可欠の資料として提供し、ふたたびかかるファッシズムの蹂躙を、将来せざるためにこそ、提供するのである。

  ・この邪悪な天才が、「すべてを単純化する恐ろしい人 」 であり、それゆえにこそ、わずか十二年のことであったが、ドイツ人をして、あれほど熱狂せしめた、大衆説得力をもっていたのだということを、この第三帝国の青写真となった 、『わが闘争』の中で見抜いて欲しいのである。

  少年だった私は、きっと素直な人間だったに違いない。この冗長な、面白味のない本を、二巻とも最後まで読んでいる。何箇所かに、鉛筆で印がつけてあるのがその証明だ。

 でも今の私は、吹き出してしまう。

  ・平野先生。客観的にでも、批判的にでも、こんな粗末な文章で、日本の若者が何をすると言うのでしょう。

 まず、普通の若者ならヒトラーに興味を示さないだろうし、手にしたとしても、二、三ページ目を通せば、悪文に懲り放り出してしまうはずだ。

  ・ある場合には、その最も極端なものを拒否するために、この不快な運動の、第一線に乗り出すことが、すべての思慮ある人間の義務であった。

  ・しかし他の場合には、この民族病のもともとの創始者は、真の悪魔であったに違いない、というのは、怪物の -  人間でなく -  頭の中でなければ、その活動が結果として、人類文化を破壊に導き、同時に、世界の荒廃に導くに違いない、組織のための計画が、意義ある内容をとることができるはずがないからである。

  これは、「マルキシズムの基礎研究」という、一章中の文である。ヒトラーが何を言っているのか、いったいどんな青年が、何を理解すると言うのだろう。

 こんな意味不明な翻訳書を世に出した平野氏も、ヒトラー負けないおかしな学者だと思えてきた。

 だから今回は、二巻ある本の一巻だけ読んだところで、『わが闘争』と決別すると決めた。年末の貴重な時間を、こんなつまらない本と闘争しつゝ読むなど、人生の無駄でしかない。

 さてここで、大切な伝言をしておこう。

 いつかこのブログを読むであろう、息子や孫たちよ、間違っても『わが闘争』などを手にしないで欲しい。

 平野氏は、わが国にファッシズムが再来しないためにも、この本を読んでもらいたいと寝言を言っているが、そもそもドイツと日本は、歴史も文化も異なっている。

 今の時点で、中国や韓国・北朝鮮と対立しているが、ヒトラーみたいな虐殺を考えるような人間は、日本にはいないしそんな文化もない。

 だらだらと語られる、牛のよだれみたいなヒトラーのお喋りなど、日本には無用なもので読む必要もない。

 ネットの情報で調べてみたら、貧困時代の画家志望や建築家志望も、捏造の自慢話であるらしい。彼は貧困でなく、親の遺産をもらい、遊んで暮らせるだけの余裕があった、とも書かれている。

 努力なしで、総統になれなかったのは事実だろうが、胡散臭い、ごまかしの混じる本であることを、言い添えておきたい。

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇陛下、83歳の誕生日 事前の会見でのお言葉

2016-12-26 19:00:03 | 徒然の記

 天皇陛下の、お誕生日のお言葉を聴いた。

 記者たちを前にして、メモを見ながら話されるお姿を拝見した。東日本大震災の時、あれほど心に響いた陛下のお言葉だったのに、今回は、悲しみとともに拝聴した。

 「ここ数年自らが考えてきたことを、内閣とも相談の上、表明いたしました。」陛下のお言葉を聞いた時、信じられない思いがした。あの時のNHKでの「お言葉表明」が、内閣と相談の上でなされたのなら、7月14日以来一面トップで飾られるようになった、あの新聞報道は、いったい何だったのだろうか。

 7月14日の千葉日報で、「陛下に生前退位の意向がおありだ」という記事が、大見出しで載り、翌日の報道では、宮内庁の風間長官が「そういう事実はない。」と否定した。同時に安部総理に確認したが、ノーコメントと言われたと書いてある。解説では、総理が知っていたと答えれば、陛下のご意向をキッカケに法改正等が行われることとなった場合、天皇による政治介入という指摘がされるからだと述べてあった。

 このような重大事をリークしたのはいったい誰なのかと、犯人探しまで行われた。マスコミがこぞって記事を報道し、国民へのアンケートを各社が行い、賛否両論が喧しくなった。そして8月8日の、NHKによる「陛下のお言葉」の動画放映だった。国の根幹にかかわる問題が、乱暴な手順で世間に公表され、国民に混乱を生じさせている事実を、私は眺めてきた。

 名もない国民の一人として、私にやれることは、悲しみとともに「眺める」しかなかった。新聞の記事をスクラップし、何度も読み返し、明日の日本はどうなるのだろうと、心を痛めるしかなかった。それなのに、陛下はおっしゃった。

「ここ数年自らが考えてきたことを、内閣とも相談の上、表明いたしました。」

 多くの国民は、私みたいに余計なあれこれを考えず、素直な気持ちで陛下を敬愛している。陛下が偽りを語られるとは、考えてもいないし、お年を召されているのだから、退位され、ごゆっくりされれば良いと、まっすぐに賛成する者が沢山いる。

 それだけに私は、今回の陛下のお言葉の無責任さと、身勝手さに失望した。いかに陛下といえども、見過ごせないものがある。家内に言わせれば、私みたいな人間は日本では少数派でしかないとのこと。多くの人がそれでいいというのなら、反対しても無駄だと忠告する。

 陛下のおかげで、夫婦の間にも隙間風が吹く。

「ここ数年自らが考えてきたことを、内閣とも相談の上、表明いたしました。」

 陛下の語られることに異を唱えるなど、不敬の極みと責める者も入る。しかし私は、彼らに言いたい。今回の陛下のお言葉騒動を受けて、反日左翼の者たちがどう受け止めているのか。過日のブログで引用したが、再度転記したい。
 

 「日本国民も、天皇陛下に続け。」「天皇は、安倍政権を許さない。」「平和憲法が風前の灯火となった現状に、天皇が立ち上がった。」「憲法改悪と戦争阻止のチャンスだ。」「安倍政権を許さない天皇陛下に、日本国民も続け。」

 彼らは天皇制打倒を目指し、天皇制廃止を目論む政党につながっている。陛下のお言葉騒動は、彼らに格好の材料を与え、政争の具として利用されている。私を責める保守の人々は、いったいどこに目を向けているのだろうか。そんな彼らは、本当に日本を思う、保守なのだろうか。それとも単に「天皇陛下万歳」と叫びたいだけの、愚かな右翼なのだろうか。

 悲しみとともに、私は何度でも北畠親房の言葉を噛みしめる。陛下については問答無用と、保守を任ずる頑迷固陋な方々に、忠臣親房の言葉を、思い出していただきたい。

  君は尊くましませど、民を苦しませれば 天これを許さじ

 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬養道子氏著『お嬢さん放浪記』

2016-12-23 06:56:06 | 徒然の記

 犬養道子氏著『お嬢さん放浪記』( 昭和33年刊 文芸春秋社 )を、再読した。

 忘れもしない、高校一年生の頃買った本で、夢中になって読んだ。氏はまだ存命であるらしく、母と同じ大正10年の生まれだ。全てネットの情報だが、父君は吉田内閣時代の法務大臣だった犬養健氏だ。健氏は暗殺された犬養元首相の三男で、道子氏は健氏の長女にあたる。

 高校時代の私は、戦後民主主義教育の申し子だったので、「人間はみな平等」と頭から信じ、彼女の本を読んで、いつか自分も欧米諸国を放浪するんだと、意気軒高だった。だから楽しいばかりで、胸を躍らせ読んだ本だ。

 計算が間違っていなければ、彼女は昭和23年27歳の時、アメリカのボストンへ留学する。27年にはオランダへ行き、29年から昭和32年に帰国するまで、フランス、スペイン、ドイツ、ベルギー、イギリス、イタリアと、彼女の言う「放浪」を続ける。帰国した翌年の昭和33年に、この本を出版している。

 ネットで色々調べられる今だから分かるのだが、彼女が渡米した昭和23年と言えば、私が4歳の時だ。

 シベリアで捕虜になっていた父が戻り、母の里の出雲で再開した年だ。こんな時代に米国へ留学できる若い女性が、自分と同じ人間だなどとどうして思い込んだのか。単純だった若い日が、おかしくも悲しくもなる。特別の家に生を受け、特別の人だったからできた『お嬢さんの放浪』だったとことを、73歳の今認識した。

 再読しても、本の面白さは変わらなかったが、発見することも多々あった。

 まず彼女は、英語もフランス語も、イタリア語も不自由なく話せ、どこの国へ行っても困らない才女だったこと。アメリカやヨーロッパの国々の歴史や文化や哲学について、それなりの造詣を持ち、周りに自分の意見を伝えられた知識人であったこと。なにものにも物怖じせず、こんなに勇気のある女性は、当時の日本人でもまれだったということだ。

 少年だった自分は意識せずに読んだが、実際は私などが近づけもしないほど、賢くて優秀な人物だった。

 英語もろくに喋れないため、海外旅行でどぎまぎし、言葉の通じない相手には身を引いてしまう今の私だ。無理を言う警察官に腹を立て、足を蹴飛ばすなんて、そんな大胆な真似はとてもできない。

 確かに苦労しているが、彼女はどこへ行っても友人ができ、援助してくれる知人ができ、苦境を常に脱出する。彼女の言葉通りの無一文で、一人旅をしていたというのなら、どうして10年もやってこれたのか。

 本には書かれていないが、家族や親戚や有力な日本人たちが常に彼女を見守り、遠くから支えていた、それでなければこんな旅ができるはずがない。人間はみな同じ、彼女にできることなら、自分にでもできると、学生時代は固く信じて生きた。

 でも、彼女と自分が同じであるはずがないと、今なら分かる。たとえ間違った思い込みでも、信じる者は強しだった。若かった日の一途さを、懐かしく思い出す。

 そしてまた彼女は、少年の私を感動させる沢山の話をしてくれた。日本では評論家として有名だったらしいが、作家としても優れた才能を持っていた彼女だ。本の一節を紹介してみたい。

   ・食卓の上に山と盛られていたアイスクリームも溶け、マントルピースの上のローソクも燃え尽くした頃、ブルナフさんが言った。

  ・もうおひらきの時間ですが、どうでしょう、もう一度みんなで感謝をしましょう。

  ・私たちは、円を作って立った。ドイツ系の若い司祭が、首を垂れて低く呟いた。「天にまします、我らの父よ。」

  ・「我ら」・・、この言葉が、私の胸を強く打った。そうだ、人間性の一番深いところで、われわれはみな同じなのだ。

  ・アメリカ人もドイツ人も、日本人もフランス人もアイルランド人も、みな同じ我ら・・である。

  ・私は、またたいて消えそうになったローソクの炎を見つめながら、考えた。共通な、裸の人間性に触れようとして行く限り、どんな未知な国へ行っても、自分は一人きりでないのだ。

  ・ブルナフさんの言った、「 友情のパスポート 」は、どこにでもある。探せば必ず見つかるのだと。

  ・実際10年の旅をして、私はいつでもこのパスポートを、誰かから与えられた。困難なことに出会ったけれど、友情のパスポートは、必ず見つかった。

 この本は、最後まで 「友情のパスポート」 の話で埋め尽くされている。どの話も高校生だった自分が読み、感動したものばかりで懐かしかった。それはきっと、タイムカプセルを開けた時の感激と懐かしさに似ているのではなかろうか。

 彼女自身が、前向きな善良さに満ち、悪意を知らない楽天的な人間なのだろうと、その気持ちは変わらないが、私なら恐らく、こんな本は書かないだろう。友情のパスポートは必ず見つかると言ったとしても、同時に私は警告する。

 「人間はみな同じなんて、頭から信じてはいけませんよ。」

 「お人好しの日本人では、外国人に騙されます。」

 「騙されるだけでなく、軽蔑されるんです。」

 「道子さんの意見は、一つのお話です。見守ってくれる、有力な家族のない者は、簡単に真似をしてはいけません。」

 「悪い人間に騙されないよう、賢くなりましょう。」

 「自分の身は、自分で守らなくてはいけません。自主防衛こそが、生きて行く基本です。」

 ずっと長い間、夢を抱かせてもらった氏なので、あからさまには言いたくないが、もしかすると、このような本が人々に読まれ、日本人の多くの者、とくに若者たちが、危機意識を失って行ったのではなかろうか。

 もしかすると、氏の本もまた「お花畑の日本人」を育てた一冊ではなかったのか。自国の防衛を忘れた、能天気な日本人を作った一冊。

 これが、私の発見した最大の驚きだったような気がする。 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パトリス・ルムンバ著・榊利夫訳『息子よ 未来は美しい』

2016-12-19 21:51:31 | 徒然の記

 パトリス・ルムンバ著・榊利夫訳『息子よ 未来は美しい』( 昭和36年刊 (株)理論社 )、を読み終えた。大学一年生の時に買った古本だ。

 知識のない学生は、貴重な本を手にしても価値がわからない。簡単に言えば、「猫に小判」ということである。常日頃自戒している言葉だが、その好例となる書物だった。確かに読んだのに、何も記憶しておらず、新鮮な気持ちで接した。

 今は、コンゴ民主共和國と呼ばれているが、本が出版された頃は、まだ「ベルギー領コンゴ」と、言われていた国だ。大陸中央部のコンゴ川流域に広がる、ベルギー領コンゴは、アルジェリアに続く、アフリカ第二の面積を有する広大な国土を持つ。

  水に恵まれた土地に植物が茂り、なかでも、豊富な天然ゴムが有名だ。銅、コバルト、ダイヤモンドなどの鉱物資源でも、世界的な生産国だ。1908( 明治41 ) 年以来、ベルギーの植民地であったため、富の全てがベルギー人に奪われ、国民は飢餓状態のまま、悲惨な状況に置かれていた。

  カサイ州北部の村の、農家に生まれたルムンバは、学校で学びながら、祖国の現実に疑問を抱き、民族主義者として目覚め、独立運動を始めた。

 苦難の戦いを経て、1960( 昭和35 )年6月に、コンゴ民主共和國が正式に独立し、彼は初代首相に就任した。大統領には、ジョセフ・カサブブが就いた。

 ベルギーは、彼らに「独立を与えた」と考えるが、ルムンバは、血と涙の戦いで「勝ち取った独立」と考えていた。心には、抑圧者への憎しみが燃え、コンゴ人としての誇りと、怒りが満ちていた。穏便な政治の移行を描いていたベルギー政府には、妥協しない民族主義者のルムンバが、すぐにも目障りな存在となった。

 コンゴに駐留していた、ベルギー軍の挑発行為に対して、ルムンバが撤退を要求した事から事態が急変した。7月8日に、ベルギー軍が首相官邸を襲撃、7月9日、キンシャサ国際空港を占領し、さらにベルギー本国から、空挺部隊が増援された。

 この本は、独立式典以来ずっと続く、ベルギーの露骨な内政干渉の実態が描かれている。8月には、ベルギーの支援を受けていた、モイーズ・チョンべが、カタンガ州をカタンガ國として独立宣言する。世界の銅の70%を生産している、豊かな土地だ。このあたりの政治的展開は、とても目まぐるしく、私以上に困惑したのは、ルムンバ自身かもしれない。

 12月には、国軍参謀長だったジョゼフ・モブツ将軍がクーデターを起こし、ルムンバを逮捕してしまう。そして1961 ( 昭和36 )年1月17日、ルムンバと2人の同志は、キサンガニ空港で飛行機から引きずり出され、深夜に、白人の傭兵とチョンベの兵によって、殺害される。

 こうして彼は、短い生涯を終えるが、波乱の一生とは言うものの、あまりにも無残で、むごたらしい最期だ。米ソの冷戦の最中だったという事情もあるが、アメリカとソ連が、ルムンバのコンゴで代理戦争をしたのではないかと、私は考えさせられた。

 理論社がどのような会社か知らないが、執筆者の多くがソ連のジャーナリストである事や、フルシチョフによる国連事務総長批判や、植民地主義者への激しい非難が、本の最期を飾っているところからして、ソ連左翼系の出版社だと察せられる。

 だからこの本は、全てルムンバが正しく、高潔で、大統領のカサブブは、卑怯な裏切り者として描かれている。ベルギー共産党政治局員ジャン・テルブが書いた、二人のプロフイールの一部を抜粋してみよう。

  ・ルムンバは、コンゴを資本主義の形態で発展させるのは、植民地主義者の企画に役立つに過ぎず、国の後進性を考えると、社会主義的なやり方が望ましいと考えていた。

  ・これのみが、立ち遅れを速やかに埋め、植民地的経済を終わらせられると、感じていた。」

  ・そしてルムンバは、カトリック布教団が、植民地主義と一体であり、」「直接搾取を行い、広大な土地の所有者である事を知っていた。

  ・こんにち、国に熟練幹部がほとんど不在だということが、新国家の悲劇的問題だとすれば、教育を独占し、アフリカ人の高等教育を阻止してきた布教師たちのせいであると、彼は考えていた。

  ・他方カサブブは、カトリック教会の方法と信仰が、骨の髄まで染み込んだ人間である。

  ・あきらかにカサブブは、その受けた宗教教育のために、社会主義につながる一切のものに対する、嫌悪と恐怖を抱いていた。

  ・当初から彼は、社会主義的進歩の方法に敵対し、社会主義諸国からの援助を恐れていた。

 こうしてみると、二人の対立は互いの信念に基づくもので、本が語るように、カサブブによる帝国主義者との妥協だと、単純に決め付けられない気がした。

 1960( 昭和35 )年9月6日に、ルムンバとカサブブの対立が激化し、ルムンバは臨時閣議で、カサブブ大統領の解任決議を採択した。カサブブは逆にルムンバを更迭し、後任の首相にジョゼフ・イレオを任命する事態となり、国政が混乱したが、これも、なるべくしてなったような思いがしてならない。

 本の中では、ベルギー政府が矢面に立たされ、攻撃されているが、かい間見えるアメリカ批判もある。時の大統領アイゼンハワーが、カサブブにも、チョンべにも、モブツにも、反政府活動のための多額の資金提供をしているということが、控えめながら書かれている。

 ベルギー軍を撤退させるため、コンゴを訪れたはずの国連事務総長のハマーショルドが、現地で事態を傍観し、ルムンバとも会談をせず、殺害防止にも動かなかったことなど、「東西冷戦」中の話となれば別の見方が出てくる。

 本には書かれていないが、ハマーショルド自身も、後に悲惨な死を遂げているので、ネットの情報から紹介する。

  ・1961( 昭和36 ) 年9月17日の夜、コンゴ動乱の停戦調停に赴く途上で、」「国連事務総長ハマーショルドの搭乗機が、墜落し、事故死した。

  ・現職の国連事務総長の事故死というニュースに加え、国連のコンゴ動乱への消極的介入を、ソ連から反ソビエト的と非難され、事務総長辞任を求められていたことなどから、撃墜説や暗殺説が、信憑性をもって広まった。

  だからと言って、私はルムンバの拷問や虐殺を認めているのではない。それは、毛沢東が政敵である劉少奇を、紅衛兵たちになぶり殺しにさせた光景と重なる。書き残したものや演説記録を見ると、ルムンバは、社会主義者というより、愛国者であり、民族主義者だ。

 地を這うような暮らしをさせられている、国民に涙し、植民地国の白人へ怒り、まっすぐに人生を駆け抜けた、勇気のある国士という気がしてならない。

 本の副題になった「妻への手紙」を読むと、それがよく分かる。

  ・親愛なる妻よ。私はこの手紙が、お前に届くのかどうか、届いても、何時のことなのか分からないまま、ペンを取っている。

  ・お前がこれを読む頃、私が、なお生きているかどうかも、わからない。」

  ・われわれの祖国の独立をめざす、私の闘いの全時期を通じて、私は、自分と同士たちが生涯を捧げた、聖なる運動の勝利を疑ったたことは、一度もない。

  ・ベルギーの植民地主義者と、西方の同盟者たちは、わが同国人を分裂させ、買収し、ありとあらゆる手段でわれわれの独立を汚そうとした。

  ・私がもう一度、語ることができるとすれば、それは私、個人のことについてではない。重要なのは、コンゴのことだ。独立を侵された、不幸な国民のことだ。

  ・しかし私の信念は、不動だ。わが国民は、遅かれ早かれ、内外の敵に対し、一人の人間のように、結束して立ち上がるだろう。

  ・けがらわしい植民地主義に、「ノー! 」を言い放つために、大地の上に、「自分の尊厳を取り戻すために。

  ・残酷な仕打ちも、嘲笑も、拷問も、決して私から詫び状を取ることはできない。なぜなら私は、自分の信念を捨て、頭を垂れて生きるよりも、高く顔を上げ、祖国の運命に対する深い信頼と、不屈の心で死ぬことを望むからだ。

  ・もしかしたら、二度と会えない息子たちに、私は言いたい。

  ・コンゴの未来は、美しい。

  ・妻よ、私のことで泣かないでほしい。私は、苦難大きわれわれの国が、自由と独立を守り抜けることを知っている。

  ・コンゴ万才、アフリカ万才 ! 

   そして今、コンゴがどうなっているのか。私は、知らない。分かるのは、ルムンバ氏が偉大なコンゴの指導者だったということだ。しかし後を継ぐ政治家が現れないところを見ると、氏は孤独な指導者だったのかもしれない。

 氏は愛国者であり、民族主義者だったが、社会主義者ではなかったと私は考える。コンゴの独立と発展のためには、社会主義の手法が有効と考えていたのだから、賢明な人物だったことがわかる。

 氏がソ連の支援でベルギーに勝利したとしても、次に氏の前に立ちはだかるのはおそらくソ連の支配だ。愛国者で民族主義者のルムンバ氏は、ここでまた命懸けの戦いになったはずだ。

 孤高の愛国者として終わった氏を悼む気持と同時に、植民地コンゴの悲劇を考えさせられた。もしもベルギーが、コンゴ国民に教育の機会を与えていたら、たちまち愛国の士が氏の周りに集まり、「草莽崛起」運動が全国へ広まったはずだ。

 だがコンゴの話はここでやめる。大東亜戦争で敗北して以来、日本も独立を失っている、日本には愛国者が全国にいて、自民党の中にも愛国者が沢山いる。それでも私たちは独立への道を進んでいない。

 財力と武力を持った外国勢力と戦い、国の独立を達成するのがいかに困難であるか。日本とコンゴの置かれた状況は違いすぎるが、ルムンバ氏と共有できるものがあるとすれば、この点だろうか。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北村壽夫氏著『笛吹童子』 ( 上・中・下 三巻 )

2016-12-17 21:00:50 | 徒然の記

    北村壽夫氏著『笛吹童子』( 昭和29年刊 (株)寳文館 ) 上・中・下三巻を読了。

 私が小学校三年生の時に出版された本だ。新諸国物語として語られる、NHKの連続放送劇でもあった。

 夕方になるとこの放送が聞きたくて、従兄弟たちとラジオの前で、一心に聞き耳を立てた記憶が今でも残っている。

 どこで手にいれた本なのか、それさえ覚えていない。来年1年かけて、もう一度読み直し、処分しようと決めた本箱の奥にあった。大学生の頃、高田の馬場の古本屋で買った本かも知れない。懐かしくて買ったものの読むだけの興味をそそられず、そのまま本棚に押し込み、忘れていたのだろう。

 いざ処分するとなると、いかにも時代の匂いがする懐かしさがあった。

 活字は小さくて読みづらく、粗末な紙がすっかり黄色く変色している。内側の背表紙のノリがはがれ、乱暴に扱うとすぐバラバラになってしまいそうだ。それでも定価が160円だ。

 当時の物価を現在に直すと、千円は越すのではなかろうか。敗戦後の物不足の時代だから、こんな本でも贅沢品だったに違いない。

 本の最後のページに、寳文館の出版物の宣伝があるが、これがまた、懐かしい本ばかりだ。みんなNHKの連続放送劇だっもので、ラジオ少年少女名作選と銘打ってある。

   青木茂原作・筒井敬介脚色『三太物語』 

   菊田一夫著『鐘の鳴る丘』

   菊田一夫著『さくらんぼ大将』   

   北村壽夫著『白鳥の騎士』

 私と同年代の人間なら少年のあの日と、貧しかった戦後の日本が、思い出の彼方からよみがえるに違いない。映画にもなっていたから、白黒画面の映像を、心に焼き付けている人がいるかもしれない。

 笛吹童子を三巻とも一気に読んだが、妖術があり、剣術があり、悪人と善人との戦いがありという具合で、荒唐無稽な話が多い。それでも、親子の愛情、兄弟愛、主従の契り、正義や悪などについて、子供向けに分かりやすく、丁寧に書かれているから、小学生だった自分が夢中になるはずと納得もした。

  52年も前の本だから、作者の北村氏も亡くなられているに違いない。上中下三巻の巻末に、それぞれ作者の「あとがき」があるので、記念のために紹介します。

 〈 上 卷 〉

  ・笛吹童子を、上中下の三巻の小説にして、まず上巻ができました。

  ・笛吹童子の放送は、たくさんの人が聴いていてくださいます。映画にしたいと言ってきた会社は、7社もありました。

  ・熱心な投書を下さる方々は、少年や少女や大人や老人や、いろいろです。僕はこの本を、青少年にも壮年者にも老人にも、読んでもらいたいと思います。

  ・そうした広汎な読者層を持つ本が、日本にはあまりに少ないと思います。僕は、そういう狙いで書いています。

  ・笛吹童子の放送が成功しているのなら、その一半は、音楽の福田蘭童、演出の山口淳両氏に負うところ。この機会に感謝の意を表します。

  ・この本も、この前に出ている『白鳥の騎士』も、どんな山の中にも行きわたり、放送を聴いて下さる「新諸国物語」のファンのみなさんに、放送とおなじく愛されることを願います。            

                     昭和二十八年十月  世田谷区赤塚

 〈 中 卷 〉

  ・笛吹童子の中三巻を、皆様の机上におくります。

   ・下巻もできるだけ早く出したいと、せっかく準備をしています。よろしくご愛読ください。
 
  ・放送では、明国の物語が入っていますが、上中下三巻にしても、どうしても、この小説に入りません。やむおえず、割愛しました。
 
  ・ぼくは、放送にも小説にも、主力をこの新諸国物語にそそいでいます。が、これは自由な創作ですから、かならずしも史実にはのっとっておりません。
 
  ・その点ご了承ください。           昭和二十八年十一月
 
 〈 下 卷 〉

  ・とうとう下巻ができました。ご愛読ください。

  ・それから、おことわりしておきたいのは、なにしろ、放送の原作は膨大なもので、とうていこの三巻には書ききれず、放送とはところどころ、筋も違え、省略もしてある点です。あしからず。

  ・また、これは自由な創作で、史実を追っていないこともご了承ください。

                           昭和二十八年十二月

  あとがきで分かるとおり、月に一冊のペースで書いている本だ。
 
 本格小説であるはずもないが、この本が、というよりこの放送が全国津々浦々で聞かれ、子供だけでなく大人や老人にも楽しまれていたのは、間違いのない事実だと思う。
 
 それこそ、古き良き時代の昭和の一面を語ってくれる、歴史の匂いのする本だ。国中がはらぺこで、貧しくて、懸命に頑張っていた敗戦後であった。
 
 このブログを読んでも、おそらく子供や孫たちには何のことか分からないだろう。時代の雰囲気や、空気は、どうしたら伝えられるのだろう。たかが「笛吹童子」、されど「笛吹童子」と、そんな奥深いものもあるのだがそれを伝える力量がない。
 
 子供達への伝承などと気負いたつのをやめ、懐かしい思い出のブログとして終わるべしか。子供の頃が、なつかしい。

  たまには自分一人の楽しみに浸っても、許されるだろう。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東條英機 歴史の証言』 - 6 ( 東条首相の 遺言 )

2016-12-14 09:39:32 | 徒然の記

  平成28年12月14日、 渡部昇一氏著『東條英機 歴史の証言』を読み終えた。同時に、叔母から譲り受けた叔父の蔵書をすべて読了した。

 著者である渡部氏にはもちろんだが、この本を残してくれた叔父にも感謝する。神道から仏教、禅宗、中国や韓国の政治家たちのことなど、叔父のお陰で、貴重な知識を与えてもらった。

 見習いたいのは、沢山の知識を持っていながら、寡黙に生涯を終えた叔父の姿だ。

 常に笑顔で人と接し、百姓として生き、知足安分の庶民として叔父は生を全うした。私もそのように生きたいと願うが、叔父との違いが一つだけある。日常生活では目立たない庶民だが、ブログの世界での私は自己主張する、というところだ。

 「和をもって尊しとなす」聖徳太子の教えを大切にし、日々は隣近所との諍いを避けているが、ブログの世界では、「ご先祖を大切にする日本人の一人」として、遠慮なく意見を述べている。

 残り少ない人生だから、ブログの世界では我慢をせずに生きたい。

 率直な印象を言わせていただくと、申し訳ないことながら渡部昇一氏は、林房雄氏に比べると、今一つ、何か足りない気がした。日本を愛する気持では、林氏に劣らないが、読者を感銘させる文才がないのか、氏の叙述に心を動かされなかった。

 むしろ古武士のような昔言葉で、とつとつと語る、東條元首相の『宣誓供述書』の方が、胸に響いた。時として読みにくい語り口にも、迫るものがあった。ブログでは渡部氏の解説を省略し、読みづらい元首相の言葉を多く紹介した。

 と言って、氏の仕事を軽く見ているのではない。この大作が世に出たから、元首相の言葉が世間に広まり、平易な氏の解説が多くの国民の無知を開いた。

 前回で終わるつもりだったが、『宣誓供述書』の最後の部分を読み、心境が変化した。東條英機というタイトルのため、ブログを読んでくれる人が少なくなっているが、それでも私は、『宣誓供述書』の終わりの言葉を書き残さずにおれなくなった。

 戦勝国の裁判官たちが、まともに聞くはずがないと知りつつ、真摯に語り続けた本意を探れば、これは私たち国民へ向けた、遺言であると思った。静かに読めば、迫ってくる愛国の情があり、反日左翼の人々はそうならないと思うが、私は涙がひとつ、ふたつこぼれた。

  氏の最後の言葉を紹介する。

  ・終わりに臨み、・・恐らくこれが、当法廷の規則において許さるる、最後の機会でありましょうが、私はここに、重ねて申し上げます。

  ・日本帝国の国策、ないしは当年にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。

  ・また適法に選ばれた各内閣は、それぞれ相受けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い、一歩は一歩より進み、これを処理して行きましたが、ついに我が国は、彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

  ・国家の運命を勘案する責任を持つ我々としては、国家自衛のためにたつということが、ただ一つ残された途でありました。我々は、国家の運命を賭しました。しこうして、敗れました。しこうして、眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。

  ・戦争が国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる、二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。

  ・私は最後まで、この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には、違反せぬ戦争なりと主張します。

  ・私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が、国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして糾弾せられるとは、考えたこととてありませぬ。

  ・第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを、希望するものであります。」

    昭和二十二年十二月十九日  於東京 市ヶ谷 供述者 東條英機 

 叔父にもらった本書を携え、年内に靖国神社を訪れ、東条元首相だけでなく、すべてのご先祖の御霊に、心からの感謝と哀悼の意を捧げたい。参拝のできない天国の叔父の代理も兼ね、靖国の大鳥居をくぐるとしよう。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東條英機 歴史の証言』 ( 裏切り者・田中隆吉陸軍少将 )

2016-12-13 18:29:22 | 徒然の記

  著者の渡部氏が、田中少将 について次のように説明している。

  ・田中隆吉というのは、前にも話が出ましたが、非常にけしからん男で、東京裁判では検事側の証人となり、かっての上官に対し不利になる証言を次々にした人物です。

 氏は、田中少将の捏造証言を二つあげている。

  1.  軍国主義者の東条英機を総理にしたのは、佐藤賢了中将 ( 当時は中佐 ) が重臣たちを脅迫したからだ。

  2.  軍の『捕虜処理要項』は、捕虜に強制労働を命じる内容になっている。

 腹をたてた氏が面倒になったのか、詳しく説明していないため、読者には内容がよく分からない。やむなく私はネットで調べ、真偽のほどは確認できないが、当たらずとも遠からずと思った。

 ネットで調べた中将の情報を、紹介する。

  ・田中隆吉は、明治26年島根県に生まれ、最終階級は陸軍少将だった。

  ・田中は数々の謀略に関与しており、裁判に協力しなければ起訴されたことも有り得た。

  ・人間関係の不満から、陸軍の内部告発をしたとする批判もある

  ・かつての上官である東条英機、木村平太郎にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対し「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者もいた。

  ・「東京裁判の席上、田中隆吉が東条を指差し、東条を激怒させた。

  ・特に武藤章は 、 軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行したという田中の証言により、死刑が確定したとも言われている。実際には、武藤は対米開戦に慎重派であった。

   ・武藤は捕虜虐待の罪により、死刑判決を受けるが、「東京裁判」で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは彼だけである。
 
   ・特に7月6日の公判において、橋本欣五郎・板垣征四郎・南次郎・土肥原賢二・梅津美治郎などを、名指しで証言した際には、
 
 ・鈴木貞一は、その日の日記に、「 田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ」「 精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ 」と記し、
 
 ・板垣征四郎も日記に二重丸をつけ、「  ◎人面、獣心ノ田中出テクル」「 売国的行動、憎ミテモ尚余リアリ 」と書き、
 
 ・重光葵はその時の心境を、
 
    証人が被告の席を指さし、 犯人は彼と云ふも浅まし    と歌に詠んだ。
 
  吉田少将の証言が東京裁判でどこまで採用されたのか、私は知らないが、「A級戦犯」の汚名を着せられ、処刑された7人の「昭和殉難者」の氏名を、謹んで記録する。
 
    1.   板垣征四郎氏  - 軍人  陸相、満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。
 
    中国侵略・米国に対する平和の罪
 
    2.   木村平太郎氏  - 軍人  ビルマ方面軍司令官、陸軍次官。
 
   英国に対する戦争開始の罪
 
    3.   土肥原賢二氏   - 軍人  奉天特務機関長、第12方面軍司令官
 
   中国侵略の罪
 
    4.   東条英機氏   - 軍人、  内閣総理大臣
 
   ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃。 米国軍隊と一般人を殺害した罪
 
    5.   武藤章氏  - 軍人     第14方面 ( フィリピン ) 軍参謀長。 
 
   一部捕虜虐待の罪
 
    6.   松井石根氏   - 軍人      南京攻略時 中支那方面軍司令官 
 
   捕虜・一般人に対する国際法違反(南京事件)
                                     
     7.   広田弘毅氏  - 文民    第32代内閣総理大臣 
 
      近衛内閣外相として、南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任

 ここで氏の著作を離れ、別の視点から「東京裁判」を眺める。この裁判の不公正さを示す実例として、私は次の二つの事実を上げる。

    1.  真珠湾攻撃に関するのアメリカの動き

    2. 「満洲第731部隊」に関するアメリカの動き    

 〈 1.  真珠湾攻撃に関するのアメリカの動き 〉

  ・真珠湾奇襲攻撃を理由として、「東京裁判」で米国が犯罪者と決めつけたのは、東条元首相一人だ。

  ・重大な過失を犯した外務省の、米国大使館員 ( 外交官 ) が、全員不問となっている。

  ・日本の奇襲をあれほど攻撃している米国が、原因を作った大使館員の不手際を追求しないのはどう見ても合点がいかない。

  ・ルーズベルト大統領が、事前に奇襲攻撃を察知していたので、大使館の外交官たちの失態は、米国にとってどうでも良いという話だったのか。

  ・それとも、大使館勤務の外交官たちに温情をかけ、戦後の情報提供者として活用したかったのか。あるいは米国は日本を断罪する材料として、「真珠湾奇襲」の事実だけが必要だったのか。

 〈 2. 「満洲第731部隊」に関するアメリカの動き 〉

  ・「731部隊」は正式名称を、「関東軍防疫給水部本部」と言い、秘匿名称を「満洲第731部隊」と称した。     

  ・満洲に拠点をおき、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関だった。

  ・各種の人体実験や、生物兵器の実践的実験を行っていたとされている。

  ・最高責任者だった、石井四郎中将の名前をとり、「 石井部隊 」 とも言われていた。

  ・敗戦後、731部隊の実験データの多くは、元隊員たちが密かに持ち帰り、最終的にはアメリカ軍へすべて渡され、米国での生物兵器開発に生かされた。

  ・人体実験に手を染めた軍医たちは連合国から戦犯として裁かれることなく、日本の大学の医学部や国立研究所や、各地の病院に職を得た。

  ・ある資料によれば、石井中将は尋問を受けた際次のように語っている。

    「 細菌戦エキスパートとして、アメリカに雇っていただきたい。」

    「ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる研究と実験の成果をアメリカに提供できるのです。 」

  ・戦犯にされまいとした石井氏ら731部隊幹部と、ソ連にいかなる情報も与えたくないアメリカ側の利害関係が一致した。

  ・石井氏らの罪が不問にされ、実験データはアメリカが秘密裏に処理した。

 石井部隊が行ったのは生体実験がメインで、その凄惨な多くの実験は、悪魔の所業といえるものだった。石井部隊の所業を「東京裁判」で持ち出していれば、アメリカは「南京事件」という、捏造の殺戮をこしらえなくとも良かったはずだ。

 米国は石井部隊の研究成果を自国のものとするという、米国の利益を優先させた。

 以上2件を紹介したが、これだけ偏っていた「東京裁判」について、日本人はそろそろ気づいて、歴史を再検討すべきでなかろうか。渡部氏は言及していないが、田中少将だけでなく、石井中将も、「恥ずべき軍人」の一人だ。

 現在の日本には、戦勝国アメリカに協力した日本人たちが、まだ沢山存命している。米国に弱みを握られ、情報の提供をさせられている人間がまだ生きている。これらの事実も敗戦の負の遺産として、私たちは知らなくてならない。

 つらい事実が多いとしても、私たちのために命を捧げたご先祖がおられる限り、歴史の見直しをする必要がある。

 だから私は、「A級戦犯」、「戦争犯罪人」と、ご先祖を簡単に言う日本人を嫌悪する。同時に私は「東京裁判」を鵜呑みにされ、昭和の殉難者を「A級戦犯」と呼ばれる美智子様を皇后陛下とお呼びしない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東條英機 歴史の証言』 - 4 ( 国益を台無しにした、外務省 )

2016-12-12 19:05:52 | 徒然の記

   真珠湾攻撃に関する、東條元首相の供述を紹介する。

  ・日本政府は、昭和16年12月8日(日本時間)米国政府に対し、駐米野村大使をして、帝国が外交交渉を断絶し、戦争を決意せる旨の通告を交付せしめました。

  ・私の記憶によれば12月4日の連絡会議において、東郷外相より、わが国より発すべき通告文の、提示があったのであります。

  ・これに対し、全員異議なく承認し、かつその取り扱いについては、おおむね次のような合意に達したと記憶します。

  ・ A ・・ 右外交上の手続きは、外務大臣に一任すること。

  ・ B ・・ 右通告は国際法による戦争の通告として、米国政府に手交後に於いては、日本は行動の自由を取りうること。

  ・ C ・・  米国政府への手交は、必ず攻撃前に為すべきこと。手交は、必ず野村大使より、米国政府責任者へ手交すること。駐日米大使に対しては、攻撃実施後において、これを通知する。

  ・通告の交付を攻撃の開始前に為すことは、かねて天皇陛下より、私および両総長にしばしばご指示があり、連絡会議出席者は皆これを了承しておりました。

  ・その後12月5日の閣議の席で、対米最終通告文につき、東郷外務大臣が次のように説明し全員が了承している。

  ・野村大使に対し、対米覚書を決定したこと

  ・この覚書を提示する時期は、追って電報すること

  ・覚書接到の上はいつにても米国に交付しうるよう、文書整備その他、あらかじめ万般の手配を完了すること

  ・以上外相より訓電せられていること

 元首相のこの証言は、重要な歴史的事実であるだけでなく、重大な外務省の責任問題だ。

 元首相の証言を続けて紹介する。

  ・しかるに事実は、その手交が遅延したることを後日に至り承知し、日本政府としては、極めてこれを遺憾に感じました。

  ・対米通告の取り扱いについては、外務当局にて、国際法および国際条約に照らし、慎重審議を尽くしてとり扱ったもので、連絡会議、閣議とも、全くこれに信頼しておりました。

  ・軍部はもとより政府全員、もっと言えば陛下までが細心の注意を払い、米国への通知告に心を砕いたというのに、米国大使館では対応がなされていなかった。

 「真珠湾攻撃」は、卑怯な日本の不意打ちとして全米に報道され、日本への敵愾心を燃やす原因となった。ルーズべルト大統領は奇襲を徹底的に利用し、国民の戦意を高揚させ、世論を参戦へと導いた。

 ではこの時日本大使館では、何が起こっていたのか。渡部氏の文章を紹介するのが、一番分かりやすい。

  ・これから重要なメッセージがいくという「事前通知」を無視して、その夜、全員が同僚の送別会に出かけていたというのが、真相なのです。

  ・彼らは、電報を受ける当直を置くことさえしなかった。

  ・今戦争が、火を吹くかどうかというときに、何という呑気な話か。

  ・翌朝のんびり出勤してきて、至急電報を見てタイプを打っていたら、間に合わなかったと、こんな言い訳をしていますが、先方には内容が伝わればいいのであって、タイプなど打たなくていいのです。

 外務省は戦後「害務省」になったと言われますが、私はこの時から「害務省」だったと考えています。国益のため働くべき外務省が、信じられない失態をし、日本の国益を台無しにした。

 渡部氏の怒りの言葉を、紹介する。

  ・手書きでも何で渡せば良かったのに、それもしていない。

  ・東郷外相が野村大使に対し、ワシントン時間で午後1時に直接手交するようにと指令していたにもかかわらず、野村大使がハル長官に手渡したのは、午後2時20分になってしまったのです。

  ・ハル長官とのアポイントメントを、午後一時と取っていたのに、タイプに手間取り、1時間延ばしてもらったというのですから言語同断です。

  ・当時大使館にいた外交官たちは申し訳ないと言って、ペンシルバニア通りにずらりと並んで切腹すべきでした。

  ・そうでなければ、戦後、お詫びのため自決すべきでした。

 知れば知るほど驚くばかりの事実だが、今でも国民の多くはこの事実を知らない。 

 渡部氏の、怒りの説明が続く。

  ・ところが外務省は、この事実を全部隠したばかりか、当時の責任者はその後みな栄達し、勲一等を受賞しています。

  ・私が今でも一番許せないのは、この連中です。海軍や東條さんの責任でなく、外務省の出先機関の者たちの責任です。

  私の気持ちを、氏が全部語ってくれる。

  ・リメンバー パールハーバー ( 真珠湾を忘れるな ) 」と、米国には、今でも日本を強く憎む国民がいる。

  ・卑劣な日本人が騙し打ちをしたと、日本の歴史に拭え無い汚点を残した責任について、未だに外務省は口をつぐんだままだ。マスコミも報道しない。

  ・「東京裁判」での元首相の証言の大きな意味を、再確認すべきだ。

 首相の言葉を、紹介する。

  ・それゆえ、攻撃成功のために、通知の交付を故意に遅らせたという、姑息なる手段に出たものでないことは前に述べた通りであります。」

 法廷で説明する元首相に対し、外務省が何の責任も感じていないことは、切腹した者が一人もいないことで分かる。

 日本の歴史を汚した責任をすすぐのなら、外務省は「東京裁判史観」をもとにした「ハンディキャップ外交」をやめれば良いのだ。今からでも遅くないのに、外務省は依然として自分たちの大失態を隠し続けている。

 外務省がやるべきことは、総理大臣の露払いとして、毎年敗戦の日の前日、外務大臣以下職員が打ち揃い、「靖国参拝」をすることでないのか。

 私は渡部氏のように気性が荒くなく、穏やかだから、切腹とは言わない。死ぬ気で日本の汚名をすすぎなさいと、諫言する。

 その私が怒りを抑えきれないのは、敗戦後の外務省だ。 率先して国益のため汗をかく官庁となるべきなのに、「自虐史観」の発信源となった。

 中心人物が、小和田恒 ( ひさし ) 次官だった。

 氏は、国民怨嗟の「河野談話」の起草者だとも言われている。相手が望んでいないのに、タイでは天皇陛下の「ご挨拶文」に、侵略のお詫びの言葉を入れたり、ろくなことをしていない。

 外務省は国民に対し、なにも反省していない「戦後諸悪の根源」ともいうべき、省庁になった。

 明日は、裏切り者の将軍について紹介する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東條英機 歴史の証言』- 3 ( 勇気のある、氏の発言 )

2016-12-11 18:08:44 | 徒然の記

  どうやら東條元首相の人気は、今でも芳しくないと見える。

 林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』のブログには、日々100人を超える読者が訪れていたが、現在は半分の人しか訪れない。

 東條首相は頑迷な軍人と、本を手にするまで私もそう思っていたので無理もない。しかし『宣誓供述書』が、死を覚悟して語られたものと知って意味合いが変わってきた。

 そうであるのならこの『宣誓供述書』は、ご先祖の一人の遺言として傾聴すべき書になる。

 「大東亜共栄圏」に関する供述も、遺言の一つとして紹介する。

  ・「大東亜政策」は、昭和18年11月5日の「大東亜会議」の劈頭において、私の為した演説中にもこれを述べております。

  ・その目的としまするのは、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸張し、「大東亜」の文化を高揚することであります。

  ・昔より「大東亜」には、優秀なる文化が存しているのであります。

  ・ことに精神文化には、崇高幽玄なるものがあり、これを広く世界に及ぼすことは、物質文明の行き詰まりを打開し、人類全般の福祉に寄与すること少なからずと考えました。

  ・大東亜各国は互恵の下緊密に連携し、その経済発展を図り、「大東亜」の繁栄を増進することであります。

  ・各国は民生の向上、国力の充実を図るため、緊密なる連携の下で、共同して発展を増進することであります。

  ・各国は人種的差別を撤廃し、あまねく文化を交流し、進んで資源を開放して、世界の進運に貢献することであります。

  ・建設さるべき「大東亜の新秩序」は、排他的なものでなく、広く世界各国と、政治的にも経済的にも、また文化的にも、積極的に協力の関係に立つものと信じました。

  ・口に自由平等を唱えつつ、他国家他民族に対し抑圧と差別とをもって臨み、自ら膨大なる土地と資源を欲しいままにし、他の生存を顧みざるごとき旧秩序であってはならぬと、信じたのであります。

  ・この趣旨は、「大東亜会議」に参集しました各国代表の賛同を得て、同月6日に、「大東亜宣言」として、世界に表示したのであります。

  ・このごとき政策が、世界制覇とか、他国の侵略を意味するものと解釈されることは、夢想だにせざりし所であります。

 敵国による裁判で東條氏は、列強がした植民地支配を批判しています。私は、勇気のある発言として注目しました。

 参考までに別途調べた「大東亜会議」の出席国と、出席者の名前を紹介する。

 
   ビルマ国家主席             バー・モー    
 
   満州国国務院総理            張景恵  
 
   中華民国南京国民政府行政院長     汪兆銘  
 
   大日本帝國首相            東條英機  
 
   タイ国首相代理            ワンワイタヤコーン殿下  
 
   フイリピン共和国大統領        ホセ・ラウレル  
  
   自由インド仮政府首班          チャンドラ・ボース 
 
 
 ビルマとフイリピンは、日本が独立国として認め会議に加わったが、インドネシアは独立国でなかったため、民族指導者としてスカルノがオブザーバーで参加していた。
 
「東京裁判」の時は、まだ列強がアジア諸国を植民地支配していた時なのに、東條氏がこうした供述をしている。欧米諸国の裁判官たちは、どんな気持ちで聞いたのだろう。なおさら生かしておけないと、死刑宣告の決意を固めたのだろうか。
 
 「五族共和の王道楽土」をつくると、石原莞爾ら少壮軍人たちが「満州国」を設立した当時、東條氏も満州にいた。
 
 昭和7年に満州国ができる以前は、広大な国土に 1500万人あまりの満人が住んでいた荒地だった。満州国が生まれると漢人や朝鮮人が大挙して移住し、十年後の昭和17年には、4千4百万人に人口が増えたという。
 
 保守系学者の解説によると、日本軍の統治による治安の良さと、日本の投資で商工業が発展し、活気のある土地になったからだと自慢話になる。
 
 当時の満州は匪賊と呼ばれる盗賊団が跋扈し、日本軍なしでは安心して暮らせる土地でなかったことだけは確かだった。
 
 保守系学者の解説一方で、愛新覚羅浩 (あいしんかくら   ひろ) 氏のような見方がある。
氏は満州国皇帝溥儀の弟溥傑と、関東軍によって政略結婚させられた人で、嵯峨公爵家の長女として生まれ、数奇な運命を辿った日本人だ。
 
 昭和59年に「主婦と生活社」から出版した、『流転の王妃』は氏の自伝的著書だ。著書の中の氏の言葉は、過去記事で取り上げたが再度紹介する。

      ・「五族協和」のスローガンを掲げながら、満州では全て日本人優先でした。

  ・日本人の中でも関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。

  ・満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば虫けら同然の存在に映ったのかもしれません。

  ・日本の警察や兵隊が店で食事をしてもお金を払わず、威張って出て行くということ。そんな話に私は愕然としました。

  ・そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の 「五族協和」 というスローガンが、このままではどうなることかと暗澹たる思いにかられるのでした。

  ・日本に対する不満は、一般民衆から満州国の要人にまで共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。

 保守系学者が語る満州も、浩 ( ひろ ) 氏の語る満州も、いずれも事実だと私は思う。植民地を持つ側と植民地になった側の見方はこのように相反する、と私も少し賢くなっている。

 アジアを植民地にしてきた欧米諸国対しても、本音を聞けば不満や憎悪があるのだろうが、彼らが叩かれないのには明快な答えがある。

  「日本は敗北したが、欧米諸国は戦争に負けなかった。」

 私は日本の敗戦を事実として受け止め、必要以上の卑下をしない。東條首相についても過度の非難攻撃をしない。「東京裁判」の判決も、左翼平和主義者たちのように押し頂いて受け止めない。

 もうすぐ渡部氏の著書を読み終えるが、あと二つ書き残したい事実がある。

   1.  真珠湾攻撃のとき大事な「宣戦布告書」を、不始末で米国に渡し損ねた外務省のこと。

   2.  敗戦後に米国への密告者に成り下がった、日本の将軍のこと。

 こんな日本人もいるのだから、「世界一優れた民族」、「世界一立派な日本人」と、必要以上の慢心をしないことの大事さを子供たちに伝えたい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東條英機 歴史の証言』 - 2 ( 今上陛下の「お言葉」発言 )

2016-12-09 16:43:20 | 徒然の記

 天皇陛下の「開戦責任」に関する東條首相の供述は、重要な内容なので書き残しておく。長い供述だが、日本の真実が集約して語られているからだ。

 息子たちが、いつか読んでくれると願いながら、首相の言葉を紹介する。

  ・所定の手続きにより決定したる国策については、内閣及び統帥部の補弼 ( ほひつ ) の責任者において、その全責任を負うものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。

  ・この点につきまして、私はすでに一部分供述いたしましたが、お立場に関して、寸毫の誤解の生じる余地をなからしむるため、ここに更に詳述いたします。

  ・これは私にとりて、真に重要な事柄であります。」

  ・天皇陛下が、内閣の組織を命じられるに当たっては必ず、往時は元老の推挙により、後年は重臣の推薦、及び常時補弼の責任者たる、内大臣の進言によられたのでありまして、

  ・陛下が、これらの者の推薦及び進言を退け、自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたというごときは、前例としても未だかってありませぬ。

  ・陸軍にありては、三長官、すなわち陸軍大臣、参謀総長、教育総監の意見の合致により、陸軍大臣の補弼の責任において御裁可を仰ぎ、決定を見るのであります。

  ・海軍のそれも、また同様であります。天皇陛下が手続きによる上奏を排して、他を任命せられた実例は記憶いたしませぬ。

  ・以上は、明治、大正、昭和を通しての、長い間に確立した慣行であります。

  ・国政に関する事項は、必ず右手続きで成立した内閣、統帥部の補弼によって行われるのであります。これらの助言によらずして、陛下が独自の考えで、国政または統帥に関する行動を遊ばされることは、ありませぬ。

  ・この点は、旧憲法にもその明文があります。

  ・これを要するに天皇は、自己の自由意志をもって、内閣及び統帥部の組織を、命じられませぬ。内閣及び統帥部の進言は、拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下のご希望は、内大臣の助言によります。

  ・ご希望が表明せられました時においても、これを内閣及び統帥部において、その責任において審議し上奏します。

  ・この上奏は、拒否せらるることはありませぬ。これが、戦争史上空前の重大危機における、天皇陛下のお立場であられたのであります。

  ・現実の慣行が以上のごとくでありますから、政治的、外交的、および軍事上の決定責任は、内閣および統帥部に在るのであります。絶対的に陛下の、ご責任ではありませぬ。

 長い供述なので半分を省略したが、天皇が国政や軍事を決定される仕組みについて、どれほど細心の注意が払われていたのかがよく分かる。

 死を覚悟した上で、陛下に類を及ぼすまいとした首相の懸命さも伝わってくる。激動の昭和を生きられた陛下は、天皇の地位の重さを理解され、終生私事としてのお気持を語られることはなかった。

 だが私は、東條首相のことを陛下は終生忘れられなかった、と何かの本で読んだ。

 昭和天皇はご自分の言葉の重みを常に考えられ、国民の幸福を第一とされていた。廃墟と化した国内を行幸され、戦後の復興の真ん中に陛下がおられたと、これは私の実感である。

 長文であることを考えず、東條首相の言葉を引用したのは、昭和天皇の慎重さが紹介したかったからだ。

 そしてここからが、本日のブログの最大のテーマだ。

 どうしても私の意見は、今上陛下の「お言葉」発言につながってしまう。

 「ねこ庭」の下過去記事を紹介する。

  ・しかるに今上陛下は、内閣も政府も無視され、ご自分の思いをNHKごときに洩らされた。

  ・何というご短慮だろうか。

  ・憲法無視、内閣無視、皇室の伝統も無視で、ただご自分のご都合とお気持だけをNHKの電波で発せられた。

 東條首相が命をかけて守った皇室の尊厳と伝統を、どれほど傷つけるご行為だったのか、今上陛下はおそらく考えておられない。気づこうともされていない。 

 陛下は美智子様とお二人で力を合わせ、「開かれた皇室」を作ってこられた。

 皇室の私事にわたる事柄がマスコミに出るようになったのは、一つの成果だ。

 一度ブログで取り上げたので、何度も紹介したくないが、今回陛下が「お言葉」の中で述べられたご公務というのは、

  被災地へのお二人でのご視察と

  戦前の激戦地への慰霊の旅  の二つだ。

 陛下は公務と称せられるが、これらは「日本国憲法」の規定になく、昭和時代になかったものだ。美智子様とご一緒に考案された、「新しい皇室の公務」だ。

 昭和天皇を越えようと、今上陛下は本気で思われたのか。それとも美智子様のご意見に従っておられるだけなのか。事実は知る由もないが、父である昭和天皇を越えられようと考えられること自体が、愚かなことではないのだろうか。

 今上陛下と美智子様のなされていることは、歴史を振り返る度に悲しみとなって心を重くする。

 東條元首相もこれでは浮ばれないのではないかと、私は一人考える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする