ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 106 ( 安倍頼良の反抗と藤原氏の戦い)

2023-05-31 20:32:22 | 徒然の記

  〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

 奥州騒乱の遠因に関する渡辺氏の説明を、紹介します。

 「元来この俘囚 ( ふしゅう ) たちは、鎮守府の統治下で相当の自治権を持っていた。ところが朝廷で鎮守府将軍に任じられても、当人は赴任しないという〈遙任 ( ようにん ) 〉が多くなると、地方に独立の機運が醸成されてくるのは当然である。不在地主ならぬ不在長官、不在国司が増えたのが、藤原時代の時弊というべきものであった。」

 不在長官や不在国司の代理者が、守護・地頭だったと、中学生の頃歴史の時間で習った記憶があります。

 「公家は都の文化に憧れ、国司に任じられても草深い地方には赴任しない。しかしその利権だけは手に入れるというのであるから、虫のいい話である。そんな風潮が長く続けば、地方の俘囚も税や労力を出すのをしぶるようになる。それで陸奥や出羽の俘囚圏に独立の機運が起こったのである。」

 便利で華やかな都会暮らしを捨て、山野が広がるだけで何もない田舎を敬遠する公家の気持ちが、分からないではありません。不便なだけでなく、当時の田舎は子綺麗な都に比較すると、不潔だったのかもしれません。現在の人間は仕事となれば、生活のため不便な田舎にも転勤し、かって日本の高度成長を支えた企業戦士たちは、危険な外国ででも仕事に精を出しました。そのことを考えますと、平安貴族はわがままで、自己抑制のできなかった人々だったのかもしれません。

 「当時の陸奥や出羽は、東北地方全体にかけての広大な地域であったが、この時代に問題になったのは、陸奥では今の岩手県、出羽では今の秋田県と考えておけば良い。主な戦場は、今で言えばこの二県に限られているのだから。」

 東北には秋田と岩手だけでなく、この他に青森、山形、宮城、福島があります。名前が上がっていない他県は、さらに草深い無人の山野だったのでしょうか。そしてこの広大な東北の地で頭角を現したのは、どんな人々だったのでしょう。私の知らない実力者たちの名前を、氏が教えてくれます。

 「陸奥俘囚の酋長は安倍忠頼 ( ただより ) で、その子の忠良 ( ただよし ) は陸奥の大掾 ( だいじょう ) に任ぜられた。更にその子の頼良 ( よりよし ) は、父祖の権力を受け継いでますます強大となり、陸奥六郡 ( 伊沢、和賀、江刺、稗貫、志波、岩手 ) を全部劫略 ( ごうりゃく ) して、その豪帥 ( ごうすい ) と仰がれるようになった。」

 酋長という言葉に違和感があったはずなのに、氏はここで当然のように使っています。彼らを軽視しているからなのか、大掾 ( だいじょう ) の役職についても説明を省略しています。ウィキペディアによりますと、次のように書かれていました。

 ・とは、日本の律令制下の四等官制において、国司の第三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。

 大掾、中掾、小掾の三区分がある。

 中世以後、職人・芸人に、宮中・宮家から名誉称号として授けられるようになり、江戸時代中期以後はとくに浄瑠璃太夫の称号となった。

 東北の大権力者に与える官職としては、それほど高くない職位であることが伺えます。こういうところにも、不満の種があったのではないでしょうか。

 「第十闋の「城伊澤  ( いざわにきづく ) 」にあったように、桓武天皇の御世に征夷大将軍坂上田村麻呂が伊沢に城を築いて、鎮守府を置いていたのであるが、安倍頼良は、その伊沢城より南の景勝地に衣関 ( ころもぜき・平泉のあたり ) を設けて、本拠となした。」

 朝廷の国司が長期不在になりますと、いよいよ頼良の実力行使が始まります。

 「衣関の北は津軽半島、南は白川関のほぼ中央にあたり、東北全体に睨みを効かすのに都合がよかった。そして海陸の資源も豊かだった。頼良が朝廷に年貢も収めず、労役も提供しなくなったのに、国司たちは手が出ない有様だった。」

 国際社会と同じ理屈で、何もしない朝廷は強大な武力を持つ豪族に侮られるばかりです。「憲法」に縛られた日本が何もできないため、近隣諸国にあなどられている様子と似ています。しかし当時の朝廷と藤原氏は、武力抗争を好まなかっただけで、武力を持たなかったわけでありませんから、我慢の限界を越えると武力を行使します。

 国内においてこの有様なら、まして国際社会においておやですが、今の日本の政治家やお花畑の国民にこの話が通じるのかどうか、次回は藤原氏の武力行使について氏の解説を紹介します。

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続・「冥土の土産」

2023-05-30 20:56:52 | 徒然の記

 昨夜の12過ぎ、私は「ねこ庭」に、「冥土の土産を披露いたします」というブログを公表しました。先程これに関する警告が、goo事務局から届きました。

 「ねこ庭」のブログは、goo事務局が運営する無料アプリを利用することで、成り立っています。この点に関し私は常に感謝し、不平も不満もありません。ただネット社会の安全のため、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々にだけは、生じている事実を報告しておきたいと考えます。

 共産党親派のボウフラ君に関して「ねこ庭」で取り上げると、その後常にgoo事務局から、「サービス利用上の注意」という警告が届きます。ボウフラ君自身の説明によりますと、これはgoo事務局と彼が協力関係にあるためでなく、彼がgooのブログ運営規定を知っているからだということでした。どういう方法なのか知りませんが、彼がある方法でクレームを入れると、管理者であるgoo事務局は自動的にブログ作成者に警告を発するという仕組みのようです。

 従って私は、今もgoo事務局への苦情としてでなく、日本のネット社会について、事実をありのままに伝えようと考えています。大手マスコミが報道しない情報を、伝えたり伝えられたりするツールとして、ネットは多くの国民に重宝されています。様々な意見があること、そのこと自体が社会の寛容さと多様性を高めているのは事実です。  

 しかしボウフラ君がメールを使って脅迫をしてくる行為は、ネット社会の多様性や寛容さとは別次元の話になります。メールを読まれた方はお分かりになると思いますが、これはまさしく犯罪です。悪意を持つ人間が、ツールを悪用して他人を脅迫する行為が、誰にもチェックされずそのまま通用する危険性を、私はブログの公表で警鐘を鳴らしているつもりです。政権与党になった場合は、おそらく自由民主党だけでなく反日左傾の野党でも、成熟した「ネット社会」の利便性と安全性を担保することを、政権の責務と考えるはずです。

 「ねこ庭」に登録されている方々は86名ですが、常時読みに来ている人々が150~200人です。その中には、ボウフラ君のようなおかしな人物も混じっていますが、国会議員や地方議員の方もいます。こうした方々には、「ねこ庭」の状況が、そのまま「ネット社会」での今後の課題として伝わっていると思います。ネット社会での「犯罪」を阻止する重要性を、国民の代表として感知して頂きたいと願っています。

 ついでながら補足しておきますと、ボウフラ君が私に向けたメールは、コピーができないように操作してありました。ビットコインの操作に関してはシステム音痴で、送金方法も知りませんが、「速記」という特技がありますので、ボウフラ君の脅迫状のメモは簡単にできました。

 長文のメールが他のメール同様、コピーができるのなら、そのままコピーして公開できましたが、それは出来ませんでした。ボウフラ君もコピーができないからと、安心していたのだろうと思いますが、「速記」という古い術のあったことが計算外だったのかもしれません。

 今後も「冥土の土産」に動きがあれば、逐次報告しようと思います。楽しくありませんが、欲張りなので、土産が増えることについて不満はなく、ひっくるめて「あの世」へ持っていきたいと思っています。

 参考のため、善意の運営管理者であるgoo事務局の警告文をコピーしておきます。

 「サービス利用上の注意」

goo blogサービス利用規約に定める事項のうち、サービスご利用時の重要事項を皆様に周知しております。
なお、重要事項のうち特に違反事例が多い事項を以下の通り記載いたしますが、
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『日本史の真髄』 - 105 ( 奥州の蝦夷と源義家 )

2023-05-30 13:20:49 | 徒然の記

  〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

 今回も順番に、「書き下し文」と「大意」を紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 7行詩

    赤符 ( せきふ ) を用うる無かれ 白符 ( はくふ ) を用いよ 

      白符は憑  ( よ ) る有り 赤符は無しと 

   五侯の第宅 ( ていたく ) は雲に連なりて起こる

   省 ( かえり) みず東征は運輸を絶つを

   将軍何に頼 ( よ ) りて黠胡 ( かつこ ) を撃たん

   君見ずや他年赤符を肯 ( あ ) へて剖 ( わか ) たず

   路傍に空 ( むな ) しく棄 ( す ) つニ酋 ( しゅう ) の首   

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   官の赤符は使いものにならず 民は賊軍の白符を通用させている

   白符は兌換 ( だかん ) だが 赤符はそういかぬから

   都では貴族たちの豪邸がつぎつぎに建っているのに

   東征軍が輸送を絶たれて苦しんでいるのを 朝廷はいっこうに顧みない

   いったい将軍は何を頼みに狡猾な賊軍を撃てばよいのか

   見たまえ君、後年朝廷は義家の功に対してもやはり赤符を下すのを承知しなかった

   だから義家は武衡 ( たけひら )、清衡 ( きよひら ) の二人の賊将の首を・空しく道ばたにほうり出して帰ったのだ

 栄華を極めた藤原氏の貴族社会がなぜ崩壊したのか、源氏、平家という武家社会がどうしてとって代わったのか。頼山陽の7行詩が詠っているのだそうです。この詩を理解するには、やはり渡部氏の解説が不可欠です。

 「〈望月 ( もちづき ) の欠けたることの無し〉と言っても誇張でなかった、藤原道長の栄華のあとを継いだのが、道長の長男で摂政関白となった頼通 ( よりみち ) である。」

 宮中では『栄華物語』や『狭衣 ( さごろも ) 物語』や『更級 ( さらしな ) 日記』などの文学作品が作られ、頼道は宇治に別荘を作り平等院と名づけました。都だけを見ていますと、藤原時代はまだ極盛期を謳歌していました。しかし奥州では、戦乱の黒雲が巻き上がっていたと、氏が説明します。

 「すなわち、〈前九年の役〉の勃発がそれである。永承 ( えいしょう ) 6 ( 1052 ) 年から12年に及ぶ戦いであったので、〈 12年合戦 ( かっせん ) 〉という呼び方もある。元来は陸奥と出羽の俘囚 ( ふしゅう ) の問題であったが、これが源氏の勃興に連なり、さらには鎌倉幕府の淵源となるものである。」

 第十八闋で頼山陽が、日でも月でもない巨大な星で、恐ろしく輝くのが出現して来たと詠った詩とここでつながります。〈 星 〉は〈 将星 〉すなわち武家、特に征夷大将軍を指し、奥州征伐に源義家 ( よしいえ ) が出現したことを言います。

 「古代には東北地方に、蝦夷問題があった。しかし蝦夷は中央政府に降 ( くだ ) ってその支配を受け、文化の影響を受けることとなった。朝廷に服従した蝦夷を俘囚というが、この俘囚の酋長が強大となり、頼通の時代には、中央政府と抗争するまでになっていたのである。

 酋長というのは、アメリカの開拓の歴史で使われる言葉だと思っていたましたが、氏の解説によりますと『大日本史』で使われると言います。わざわざこんなことを説明しているのですから、氏も違和感を覚えたのでしょうか。『大日本史』は、水戸徳川家の藩主徳川光圀によって編纂が開始され、藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成したといわれる権威のある歴史書です。

 全397巻226冊(目録5巻)という膨大な本で、携わった学者たちは水戸学派と呼ばれています。彼らはどんな思いで酋長という蔑称を使ったのでしょうか。これまでに読んだ本の知識からしますと、蝦夷 ( えぞ ) はれっきとした日本民族です。えみし、えびすなどとも呼ばれ、中央政権である大和朝廷が成立する以前から、日本の東国と北方に住んでいた人々の呼称です。東国とは、現在の関東と東北地方、北方は北海道や樺太を指しています。

 田中英道教授の説によりますと、関東・東北地方こそが日本文化の発祥の地であり、高天原 ( たかまがはら )の地であったとなります。今も諸説があり魅力のつきない古代史ですが、渡部氏はどの説を取っているのでしょうか。

 今の私はボウフラ君の脅しより、日本史の謎の方に何倍も心を奪われます。自由民主党も反日左傾の野党も苦労していますが、その苦労も古代からの繰り返しですから、「自分たちだけが大変だ」と自惚れては困ります。自惚れが昂じると、共産党親派のボウフラ君みたいな跳ね返り者が出てきて、学びの庭である「ねこ庭」を荒らします。

 次回は蝦夷と戦う、征夷大将軍源義家 ( よしいえ ) の話を紹介します。

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『日本史の真髄』 - 104 ( 武家社会到来の予測 )

2023-05-28 14:07:44 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 「道長の一家三后の頃、この状況を頼山陽は次の二行にした。」

    月に缺 ( か  )くる無く 日に缺くるあり 

      日光は太 ( はなは ) だ冷えて 月光は熱し 

 やっと頼山陽の詩に至りました。文字だけ読めて意味不明だった詩の内容が、解説されます。

 「月は藤原氏で、日は皇室である。本来ならば皇室の栄光が輝き、その反映として月があるべきなのに、今では世の中が逆で、月が熱く、日が冷えている状況だというのである。道長の〈 望月の歌 〉を踏まえての、絶妙な比喩である。」

 相変わらず渡部氏は頼山陽を褒めますが、その理由が今ひとつ分かりません。

 「道長の後宮政策はスムーズに行ったようであるが、三條帝の退位には少し面白くないことがあった。三條帝は道長の姉の超子 ( とおこ ) の子、つまり甥であって、後一條帝や後朱雀帝のような孫でない。」

 「道長と三條帝との叔父・甥の関係は、最初のうちは良好で、中宮のキヨ子も禎子 (  よしこ ) を産み、万事うまく行ったのである。ところがはからずも三條帝が耳と目を患い、片方が失明し、後に両眼が失明した。

 「それを理由に道長は帝に退位をすすめた。本心は長女彰子の男子で、外孫にあたる後一條帝の即位を早く見たかったのであろう。」

 このあたりから、三條帝と道長の関係が悪くなったと言います。帝にしてみれば在位わずか五年ばかりでの退位を、不本意に思われたようだと言い、百人一首に入っている帝の有名な和歌を紹介しています。

  心にもあらでうき世をながらえば 

  恋しかるべき 夜はの月かな

 この歌は『後拾遺和歌集』にも収められていて、詞書 ( ことばがき ) が次のように書かれているそうです。

 「例ならず病気おわしまして、位など去らむとおぼしめるころ、月の明かかりけるを御覧じて」

 詞書を読んだ氏は、帝に深く同情しています。

 「目がだんだん見えなくなっていく病気のことを考えれば、誠に胸に迫る歌である。」

 こう言って氏は、私たちの知らない事実を語ってくれます。

 「三條帝の御世には、二度も宮殿が火災に遭って焼け出された。その度に帝は道長の邸枇杷第 ( びわてい ) に移って、しばらくお住まいになった。目の治療もそこで行われた。その頃は足も悪くて歩行も困難だったというから、体の方も悪かったのである。」

 「病気に良いというので、金丹液を召し上がられたが一向に良くなられないので、このことを指して、〈 この薬は体に悪い 〉という人もあったらしい。これは『大鏡』にある記事だが、これを材料に頼山陽は、道長が三條帝の目 ( 銀海 ) を悪くする陰謀をやったかの如く書いた。」

  枇杷第中 ( びわていちゅう ) に銀海 ( ぎんかい ) 涸 ( か ) る

  金液 ( きんえき ) の丹 利 ( と ) きこと鉄のごとし

 「道長の邸である枇杷第の中で、三條帝の目は駄目になってしまった( 銀海涸る ) 。道長にすすめられた金丹液は、鋭い鋼鉄の刃の如く三條帝の目をつぶしたのだ。」

 説明をした後で、何と氏は山陽の詩を否定します。

 「しかしこれは頼山陽の非難のし過ぎである。道長は権力欲はあったが、仏道に熱心で、周囲の人たちを極力傷つけないようにしている。彼の〈 望月の歌 〉が、江戸時代の勤王家に憎まれたのである。」

 『大鏡』と頼山陽と江戸時代の勤王家は「反道長」で一致し、渡部氏一人が「道長の擁護者」でした。氏は安易に頼山陽を誉めているのでなく、自分の意見を述べ、その上で頼山陽の、詩そのものについて評価しています。

 「ただこの二行の中に、銀、金、鉄を並べた頼山陽のレトリックは素晴らしい。」

 私などは反日左翼の詩人が書いた作品を、氏のように冷静に読めず、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と、詩から顔を背けてしまいます。見習いたい器量ですが、真似のできない難しさがあります。

  既生魄 ( きせいはく )  蒡死魄 ( ぼうしはく ) 

  日月並び缺けて天度 ( てんど ) 別 ( わか ) る  

  別に大星 ( だいせい ) の光の殊絶 ( しゅぜつ ) せる有り  

 「陰暦17日の月の〈既生魄〉は、満月も欠けることを示し、陰暦2日の〈蒡死魄〉は、晦日 ( みそか ) も過ぎれば満ち始めることを示す。かくして日 ( 皇室 ) も月 ( 藤原氏 ) も、両方とも欠け始めたような具合になって、天運 ( てんど ) は別の方向に動き出してしまった。その方向には、日でも月でもない巨大な星で、恐ろしく輝くのが出現して来たのである」 

 詩が分かりにくかったはずです。天文学というか、暦学というのか、その知識がなくては理解でないと、学問の大切さを教えてくれる第十八闋でした。知識不十分のまま、私は「ねこ庭」で様々な意見を述べていますが、間違っていることがあるのでないかと反省させられます。その良い例が先ほどまでの自分で、氏を誤解し、頼山陽を褒めすぎると思い込んでいました。

 難解だった最後の三行に関する、氏の説明を紹介します。

 「〈 日 〉を皇室、〈 月 〉を藤原氏 ( 公家) とすれば、〈 星 〉は〈 将星 〉すなわち武家、特に征夷大将軍である。奥州征伐に源義家 ( よしいえ ) が出現し、世は一転して武家社会へと向かうことをさしている。」

 「〈 日 〉〈 月 〉〈 星 〉の比喩も、絶妙というべきであろう。」

 道長への非難を別にすれば、頼山陽の詩は、単なる詩というより社会思想論です。社会の動きを観察し、次の世の有様を考えているのですから、凡庸の詩ではありません。これで氏が頼山陽を評価する訳と、「第十八闋」の難解な詩の内容が分かりました。

 長くなりましたが、それだけこの詩が様々な意味を含み、沢山の事実を凝縮していたのだと思います。息子たちに教える前に、自らを反省させられるおまけもありましたので、渡部氏に感謝と敬意を表しつつ、第十八闋の書評を終わります。

 次回は、〈 第十九闋 赤白府 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争 〉 です。

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『日本史の真髄』 - 103 ( 道長の栄華の頂点 )

2023-05-27 18:51:19 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 ブログの100回目で、道長の四人の美しい娘について紹介しましたが、今回は再び娘たちの話になります。参考のため、四人の娘の説明を転記しておきます。

 〈 長女彰子 ( あきらこ )  〉

  ・美皙 ( びせき) 豊艶にして光沢は酸奨 ( さんしょう・ほほずき ) のごとく、髪は身の丈より長きこと二尺ばかり

 〈 次女キヨ子 ( きよこ )  〉

  ・姿容 ( しよう ) 美 ( うる ) わしく、髪は長きこと身を過ぐ

 〈 三女威子 ( たけこ )  〉

  ・性は妒忌 ( とき ) にして、齢 ( よわい ) は帝より長ずること九才、常に寵の移らんことを恐れて妨猜甚だ至る

 〈 四女嬉子 ( よしこ )  〉

  ・凛性聡慧 ( りんせいそうけい  ) にして、髪は身の丈を過ぐ

 氏の説明は、長女彰子から始まります。

 「彰子は女性本来の能力、つまり子を産む力にも恵まれていた。寛弘5 ( 1008 ) 年に、敦成 ( あつひら ) 親王 ( 後の後一條帝 ) を産み、翌年の暮れには、敦良 (  あつなが ) 親王 (  後の後朱雀帝 ) を産み、母子健全であった。

 「寛弘7 ( 1010 ) 年、一條天皇の皇太子居貞 ( おりさだ ) 親王、後の三条天皇の妃に、次女のキヨ子が上がった。三条天皇には大納言済時 ( なりとき ) の娘ヨシ子がいたが、彼女はすでに40才近く、17才のキヨ子の若い美しさと、従う40人の才色兼備の女房たち、贅沢な調度品などに競走できるはずもなかった。」

 次女キヨ子が上がった時、すでに皇妃としてヨシ子がいて、しかも彼女が40才近かったなど、一度読んで意味が不明で、何回読み直しても事情が理解できません。当時の後宮の複雑さが垣間見られ、ややこしくなりそうなので深入りを避けます。

 「寛弘8 ( 1011 ) 年に一條天皇が病気で退位され、三条天皇が践祚 ( せんそ ) された。しかし数年して三條天皇は眼病を患われて失明し、退位なさったので後一條天皇が践祚された。この時道長の三女威子が中宮となった。」

 「寛仁元 ( 1017 ) 年道長が太政大臣となり、翌年に威子が後一條帝の皇后になった。この時道長は、後世に知られる有名な和歌を詠んだ。」( 注 : 欠けるという字がありませんので、現在の字を当てました。  )

  此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月 ( もちづき ) の

  欠けたることも なしと思へば

 四女のことは後で述べますが、この歌ができた時点での道長は、「一家三后、位 ( くらい ) 人臣を極む」という有り様でした。

  太皇太后・・長女彰子 ( 一條后、後一條・後朱雀母 )

  皇太后 ・・次女キヨ子 ( 三條后 )

  中宮  ・・三女威子 ( 後一條后 )

 「さらにその後、四女嬉子は後朱雀・後冷泉母となり、孫娘の時子 ( ときこ ) 、延子 ( のぶこ ) 、寛子 ( ひろこ ) 、禎子 ( よしこ ) 、歓子 ( よしこ ) 、馨子 ( かおるこ ) 、章子 ( あきこ ) の7人が、これまた孫か曾孫である天皇の後宮である。」

 こうして道長の後宮政策は進むのですが、中には死亡する者も出てくるため、やはり道長が歌を読んだ時が最も繁栄に陰りのなかった頃だろうと氏が説明します。

 ここまで来ても頼山陽の詩に至りませんが、次回に出て来ます。スルーしている気の短い人は、一番大事な氏の解説を見逃すことになります。残念なことなのか、そうでもないのか、今の私には分かりません。

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『日本史の真髄』 - 102 ( 日本女性の素晴らしさ )

2023-05-27 12:53:39 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 「道長の後宮政策は、長女の彰子から始まる。おあつらえ向きの美女だったので、特に可愛がり、末 ( すえ ) は中宮にしようと考えた。」

 文脈からしますと、中宮という言葉は皇后の意味になりますが、前回の「正妻」「本妻」同様に、これも分かったような分からないような、曖昧な言葉の仲間です。正妻・本妻は公家の言葉で、中宮、皇后、皇妃は天皇の配偶者を表す言葉です。天皇の方が格上の方なので、表現も多いのでしょうか。息子たちのためでなく自分のため、この際ネットで調べてみました。いろいろな解説がありますが、ウィキペディアのものを紹介します。

 ・本来「中宮」という言葉の意味は「皇后の住居」である

 ・転じて、そこに住む皇后その人を指して「中宮」と呼ぶ

 ・もとは漢語で、中国でも同様の意味に用いられていた

 ・中宮の意味は時代によって異なる。

   1.  皇后・皇太后・太皇太后の総称

   2.  皇太夫人 ( こうたいふじん ) の別称

   3.  皇后の別称

 ・皇太夫人は、天皇の生母で、前天皇の夫人であった人をさす

 ・醍醐天皇より前には、皇太后を「帝の母で后」、皇太妃を「帝の母で妃」と称した

 ・ただし、天皇の即位前に薨去した生母については、生前に皇后になっていなくても皇太后を追贈された。

 ・また、皇太夫人となった後に皇太后とされることも多かった

 ついでなので皇后と皇妃についても、Yahooの知恵袋で調べました。

 ・皇后という称号は、立后という儀式が行われた場合に使われた

 ・皇后の場合は「皇后職」、中宮の場合には「中宮職」という役所がおかれた

 ・皇后と中宮の両者に明確な違いはなく、その時々で便宜的に使い分けられていたのではないか

 ・朝廷にお金がなく立后の儀式が行えなかった時、「女御」と呼ばれたこともある

 ・天皇の正妃は必ずしも一人ではなく、複数の皇后、中宮が存在していた時もある

 ・このような時は、第一夫人を皇后、それ以外を中宮として区別する考えもある

 言葉の説明を途中でやめますが、渡部氏が解説をしない訳が分かりました。調べるほど複雑になり、読者を混乱させますので、こんなことをしていたら、著作が本題を外れてしまいます。このブログが良い例で、「第十八闋」の漢詩を離れ「ねこ庭辞典」みたいになっています。書いている本人は真剣でも、テーマを外れた説明は読者の役に立ちません。

 言葉の定義にこだわらず、適当なところで妥協し道長の話に戻ります。

 「彰子が女御となって入内 ( じゅだい ) した時、道長は侍女数十人をつけたが、彼女らは当代の才色のほまれの高い者たちの中から選ばれたのだった。」

 「当時の後宮は色香だけでなく、歌や物語の学才も必要だった。立派なサロンを作れば、帝の恩寵も篤くなる。道長は彰子の装飾品や道具類に金を惜しまず、珍奇精妙なものを与えたから、世の人たちは彼女のことを〈 輝く藤壺 〉と呼んだ。一條帝も、〈 心が蕩 ( とろ ) かされる ようだ 〉と言ったという。」 

 「皇室に女性の人権はない。皇室の女性の人権を解放せよ。」

 こんなことを言って騒いでいる、左翼の活動家たちがいます。みっともない姿で叫んでいる彼女たちに、渡部氏の著書を手渡してやりたくなります。

 「彰子は美人であるだけでなく、頭も良かった。一條帝が笛を吹いた時、みんなその前に集まって来たが、彰子だけは見ようとしなかった。それで一條帝が〈 どうして見ないのか 〉と聞くと、〈 笛はただその音を聞くべきもので、どうして見る必要がありましょう 〉と答えたという。」

 『大日本史』には、「その敏慧 ( びんけい ) なること、おおむねかくの如し。貴寵 ( きちょう ) 、後宮に冠たり。」と記されているそうです。

 「彰子の側には、赤染衛門 ( あかぞめえもん ) 、紫式部、伊勢大輔 ( いせのたいふ  )、和泉式部のような平安朝を代表する妻女たちが集まっていたが、彰子はその中心にいるにふさわしい才媛でもあった。このサロンは、その時代までは世界に類のないものである。 」

 「18世紀のフランスやオーストリアのサロンが出現するまでは、地上のどこにもなかった女性文化の発生地だった。物語、和歌、日記、随筆など、日本の女性は西欧の女性より数世紀前に、読むだけでなく、生産していたのである。」

 「皇室の方々の男女平等と、人権解放を。」

 国連までを誘い込んで、反日左翼の人々が日本の後進性を訴えていますが、こうした人たちは、自分の無恥と教養の無さを世界に晒しているのだと分かります。頼山陽の詩の説明をしていないとしても、氏の著書は「愛国の書」です。次回も続けますので、関心のある方だけ「ねこ庭」へお越しください。

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『日本史の真髄』 - 101 ( 女性たちが輝いた時代 )

2023-05-26 21:18:29 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 渡部氏が、三女威子 ( たけこ ) について説明しています。

 「三女威子だけにはその容貌についての言及がなく、〈 年上の女房 〉だったので甚だ嫉妬深かったと言っている。」

 息子たちのためには、ここでも言葉の注釈が要ります。「女房」の読み方は今も同じで、「にょうぼう」ですが、当時の意味は違います。これを知らないと氏の説明が、正しく理解できません。ウィキペディアによりますと、次のように書いてあります。

 「女房とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女官もしくは女性使用人」

 誰でもがなれるものでなく、それなりの家柄が必要なので、現在のお手伝いさんと同じに考えてはいけません。

 「しかし彼女は、おそらく美人だったのであろう。威子が初めて女御となったとき、後一條帝はまだ幼児であったので、美しい叔母さんとして威子になつき、彼女の道具で遊びながら仲良く成長したのである。」

 二人はやがて婚姻関係を結びますが、気の強い彼女は他の娘を近づけませんでしたので、嫉妬深いと言われています。

 「敦康 ( あつやす ) 親王の娘のモト子や、兄頼宗の娘の延子 ( のぶこ ) を勧める案があったのだが、いずれも威子に止められてしまい、二人とも後朱雀 ( ごすざく ) 帝に嫁ぐことになった。」

 「後一條帝と威子の仲は良かったようで、その間にできた二人の娘章子 ( あきこ  ) と馨子 ( かおるこ ) も、それぞれ後冷泉 ( ごれいぜい  ) 帝と後三條帝の中宮になっているから、美人だったに違いない。」

 美人の娘たちに重点が移り、突然後一條帝の説明になった感がありますが、氏は「第十八闋」導入部で一條帝の話をしています。息子たちのためと思い、順序を入れ替えていましたので元に戻し、一條帝に関する情報を紹介します。

 ・986年、花山天皇が内裏を抜け出し出家したため、一條帝は数え年7才で即位した

 ・これが兼家の陰謀と言われる、「寛和の変」である

 ・兼家の死後、長男の道隆が関白を務め、一條天皇の皇后に娘の定子を入れ中宮にするが、995年に病没

 ・代わりに弟の道兼が関白に就任するが、わずか7日後に没したため、道隆の子伊周( これちか ) と、道長の争いになる。

 ・一條天皇は最初、道隆の子の伊周を重用するつもりであったが、生母詮子 ( あきこ ) が、道長を登用してくれるように頼んだ

 ・詮子は第六十四代円融 ( えんゆう ) 帝の皇后で、資性婉順にして、円融帝の寵愛を最も受けた女性である。

 ・一條帝がうんと言われなかったため、詮子は涙を流して頼んだ。

 ・孝心が強く、思いやりのある一條帝は、生母に頼まれてやむなく、右大臣であった道長を左大臣にし、後に彼は関白太政大臣の地位についた。

 ・しかし道長がこの地位にいたのは2年足らずであり、後は長男の頼通に譲った。

 ・その頼道の時代が長かったのであるが、実権は父の道長が握っていたのである。

 書き出しの部分で、氏が権力争いの経過を説明していたのに、頼山陽の詩の説明を大きく外れるので順番を入れ替えましたが、こんなことならそのまま紹介すればよかったのかもしれません。

 ここまで来ても、まだ頼山陽の詩の解説にならないのですから、私も横道へ入り、ウィキペディアの情報を挟んでみます。

 「一條天皇の時代は、道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。」

 「天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。」

  清少納言 966年生まれ 中宮定子に仕え、定子の死後宮仕 ( みやづかえ ) をやめる

  紫式部  973年生まれ 中宮彰子 ( 道長の娘 ) につかえる

 かの有名な「枕草子」と「源氏物語」の作者は、この時代の人だったのです。雑学かもしれませんが、清少納言の方が7才年長でした。「少納言」も「式部」も共に本名でなく、親の官職から来たペンネームだということも知りました。

 紫式部の「式部」は、父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞 ( たいじょう ) ) だったところから来ているようで、清少納言の「小納言」も同じです。二人とも才女として日本で知らない人がいませんが、作品以外には本名も、没年の状況も不明のままだそうです。

 「昔から日本では、女性の人権が無視されてきた。」「日本の女性は虐げられてきた。」

 反日左翼の学者と政治家たちが、盛んに日本を悪様に言っていますが、この時代の女性たちの活躍ぶりを知らないのでしょう。文学世界を席巻しただけでなく、天皇のお気持ちを動かし、権力者たちの地位を左右する女性たちを見ていると、「日本学術会議」にいる左翼学者たちが、実は日本の歴史について何も知らないのだと分かります。

 そのようなことを渡部氏は述べていませんが、本を読んでいると自然に分かってきます。となりますと、やはりこの本は「愛国」の書なのでしょうか。無関係な「美しい娘たちの話」と思わず、次回も本気で紹介したくなりました。気の向いた方は、「ねこ庭」へ足をお運びください。

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『日本史の真髄』 - 100 ( 美しい娘たちの話 )

2023-05-26 13:56:34 | 徒然の記

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 道長の後宮政策について、渡部氏が説明しています。

 「道長は正妻倫子 (ともこ) と本妻明子 ( あきこ ) に、それぞれ娘たちを産ませているが、嫁ぎ先の種類がハッキリ異なる。」

 今の私たちの常識では、正妻と本妻は同一人物を指す言葉なので、書き出しの部分から戸惑わされます。自分の周りを見渡しても、正妻と本妻が別の人である家庭など捜してもありません。しかし氏には重要なことでないらしく、正妻倫子は左大臣源雅信 ( まさのぶ ) の娘で、本妻明子は左大臣源高明 ( たかあきら ) の娘と説明し、彼女たちが産んだ娘たちの嫁ぎ先の説明をしています。

 「倫子の産んだ娘たちはことごとく天皇に嫁いでいるのに、明子の産んだ娘たちはそうではない。」

 正妻・本妻の言葉の区別より、生まれた娘たちの嫁ぎ先の方が重要で、後宮政策そのものなので、私の疑問になど構っておれないのでしょう。

 「おそらくその関係もあってか、倫子の産んだ男子二人は、二人とも関白・太政大臣になっているのに、明子の産んだ四人の男子は、最高が右大臣で二人が大納言、一人が右馬頭 ( うまのかみ ) であるにすぎない。おそらく同復の姉妹が后妃であるのと、そうでないとの違いであろう。」

 むしろ興味深いのは、氏の次の説明です。オーストリアのハプスブルグ家の美女の家系に繋がる話です。

 「おそらく明子より倫子の方が、美人だったのではないだろうか。『大日本史』では、倫子の娘が四人とも后妃になり、その内の三人については髪の毛の長いことを伝えており、二人までは美人であったと明記している。」

 参考のためと言って、氏が『大日本史』の該当部分を書いていますので紹介します。( 該当の漢字がないものは、カナ表示にしています。 )

 〈 長女彰子 ( あきらこ )  〉

  ・美皙 ( びせき) 豊艶にして光沢は酸奨 ( さんしょう・ほほずき ) のごとく、髪は身の丈より長きこと二尺ばかり

 〈 次女キヨ子 ( きよこ )  〉

  ・姿容 ( しよう ) 美 ( うる ) わしく、髪は長きこと身を過ぐ

 〈 三女威子 ( たけこ )  〉

  ・性は妒忌 ( とき ) にして、齢 ( よわい ) は帝より長ずること九才、常に寵の移らんことを恐れて妨猜甚だ至る

 〈 四女嬉子 ( よしこ )  〉

  ・凛性聡慧 ( りんせいそうけい  ) にして、髪は身の丈を過ぐ

 古代の美女の条件の一つが容貌の美しさだけでなく、長い髪であったことを知りました。「髪は女の命」という言葉は、こんなところから生まれていたのでしょうか。氏の解説はまだ続き、なかなか頼山陽の詩に近づきませんが、珍しい話なので次回も紹介していきます。

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『日本史の真髄』 - 99 ( 道長の婚姻政策の正当化 ? )

2023-05-25 21:08:05 | 徒然の記

  〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉

 近親婚で道長の栄華が保たれたと言うのが、渡部氏の解説でした。なぜこうなったのか、日本に特有の話なのか・・この点に関する氏の意見を紹介するのが、今回の目的です。

 「世代を横一列に並べてみたので、叔母・甥の関係が浮き上がってくる。当時は今で言う三親等の婚姻が、少なくとも宮廷では普通であり、しかも一夫多妻制であるから、叔母も従姉妹 ( いとこ ) も、同じ天皇の後宮に何人もいたことになる。」

 「遺伝学者や儒教圏の人々なら真っ青になるところだが、これが日本の宮廷の特徴をなしていた。」

 この説明は前にも聞きました。儒教系の人々は真っ青になると氏は言いますが、どうやら世界では日本だけの話ではなさそうです。

 「古代エジプト王朝や日本の古代では、もっと血の濃い人たちが結婚していた。それはサラブレッドを作ると似た原理なのである。」

 ここは氏が説明に苦労した部分ではないかと、そんな気がします。少なくとも現在の私たちには、親子・兄弟間の婚姻に強い拒否感があります。経験がないのでわかりませんが、叔母と甥という関係で結婚することも、選択肢としては思いつかないものです。

 しかし古代神話を考えますと、叔母・甥どころか、イザナギ・イザナミの神様は兄弟で結婚されています。渡部氏は近親婚が日本の宮廷特有のものと推測していますが、共立女子短期大学・岡部隆志名誉教授の著書『記要』をみますと、次のように書かれていました。

 「イザナギ・イザナミ兄弟婚は、中国少数民族の間に伝承されている話と類似している。」

 神話の兄弟婚は日本固有のものでなく、儒教圏である中国の少数民族の伝承にもあることが分かっています。渡部氏の著作の出版が平成2年で、岡部氏の著作が平成31年ですから、渡部氏は氏の研究成果と著作を知らなかったことになります。要するに神話や古代社会での婚姻は、現在の私たちには、考えられない有様だったということです。

 岡部氏の研究成果を知らない渡部氏は、藤原道長の婚姻政策 ( 後宮政策 ) 正当化の根拠にオーストリアの話を紹介します。

 「道長の周到な後宮政策を見ると、ハプスブルグ家について言われた、有名な言葉を思い出さざるを得ない。」 

 「戦 ( いくさ ) は、ほかの国がする。汝、幸せなるオーストリアよ、結婚せよ。戦 ( いくさ ) の神マルスが他の国に与えるものを、汝には美の神ヴィーナスが与えてくれるのであるから。」

 オーストリアのハプスブルグ家には、フリードリッヒ大王のような武名の高い王様は思い当たらないのに、ヨーロッパの諸王の上に立つことができたのは、美しい娘たちのためだったと説明しています。

 「ハプスブルグ家には、代々美女が多く、それを利用した有利な結婚政策によって、ついには神聖ローマ帝国の王冠を受け継ぐに至った。」

 しかしこの説明に無理があるため、氏は弁解しています。

 「後宮政策といっても、日本の場合とは違うわけだが、それでも藤原氏の時代を連想せざるを得ない。」

 ここで氏は、読者に道長の後宮政策を理解してもらうため、道長その人に関する説明を始めます。そうすることによって、読者の道長への好感を大きくしたいとそのような意図を感じます。

 「道長は自分が実権を得たのは、後宮の力、つまり自分の同腹の姉の力であることを、身にしみてこたえて知っていた。ここから彼の、空前絶後、東西無双の後宮政策が行われるのである。」

 「しかし道長は、たんにそういう術策だけの人ではない。若い頃から性質剛爽であった。道長は公家であったが、弓も馬も上手だったのである。若い頃父親の兼家が、自分の甥の子公任 ( きんとう ) が優れた人物であることを羨み、子供たちを激励するつもりでこう言った。」

 「お前たちの従兄弟の子の公任は、甚だ優れている。お前たちは、公任に遠く及ばない。どうしたとしても、公任の影を踏むこともできないであろう。」

 道長の兄の道隆も道兼も、自分たちが及ばないことを知って、顔を伏せたままで何も答えなかったそうです。しかし弟の道長だけが、こう答えたと言います。

 「私は必ずしも、公任の影を踏むことはできないかもしれませんが、その面 ( つら ) は踏んでやることはできましょう。」

だから氏は、このように言葉を続けています。

 「気魄 ( きはく ) があった子供であったことがわかる。道長は、当時の猛将源頼光を信服させる器量と、周到な後宮政策をやる知能を持っていたからこそ、十世紀末から十一世紀末に至る藤原時代を築くことができたのである。」

 第十八闋の七行詩の解説の三分の一を紹介しましたが、頼山陽の詩については何も言及していません。

 月無缺 ( つきにかくるなし )    という道長の栄華を歌う詩の解説が、いかに難しいかの印ではないでしょうか。

 次回は、本来の七行詩の解説が紹介できるのかどうか、楽しみにしています。

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政治は最高の喜劇なのか ? -2

2023-05-24 11:04:44 | 徒然の記

 NHKの「あさいち」で、正規社員と非正規社員の実態について取り上げていました。正規社員と同じ仕事をしても、賃金に差があるため年収がどのように違っているのか。いつでも解雇される不安感があって、会社に苦情が言えず悩んでいる人たちの声を伝えていました。

 これでまた、渡辺氏の書評が予定変更になりますが、NHKの報道に大いに賛同すると同時に、解説の内容に大いな疑問を感じました。大手新聞が読者を軽く見ているのと同様、NHKも視聴者である国民をずいぶん軽く考えています。素晴らしいドキュメントを作りながら、この程度の説明で解決策を示したと言うのなら、「政治は最高の喜劇なのか ? 」の第二弾となります。

 非正規雇用者の問題が、働いている個人の問題でないことは誰でも知っており、これが政権与党である自由民主党と反日野党勢力との合作政治で生じた産物だと、このことも国民は知っています。つまり、この問題は政治そのものですから、NHKが「政治が最高の喜劇であること」を、結果として国民に知らせたことになります。

 公共放送として全国に問題を発信した点については、NHKを高く評価し、大いに支援しますが、解決策として示した説明のお粗末さに愕然としました。

 「やはりNHKは、このままでは国民のための公共放送になれない。」

 失望しました。もし本気でこの問題を取り上げるのなら、政権与党である自由民主党と、これを放任している反日野党の責任を同時に言わなければダメです。弱者の味方と大きなことを言っている共産党をはじめ、反日野党勢力は本当の弱者にさせられている非正規雇用の国民のため、なにを国会で議論してきたのか。NHKはこの点について何も言及していません。

 困った人には厚生労働省と、弁護士会の相談窓口がありますとか、組合に加入し会社と交渉すれば横暴な相手に立ち向かえますなど、こんな瑣末な説明で済ませると言う姿勢に怒りさえ覚えました。NHKが金儲けのためにスポンサーの顔色を伺う民間テレビ局なら、こんな番組でお茶を濁しても仕方がありませんが、国民の受信料で運営されているNHKが、この程度の説明で納得させようと言うのなら、国民軽視の体質が丸見えです。税金同様の形で、NHKがふんだくっている受信料支払い者 ( 国民 ) の中に、非正規雇用社員が何人含まれていると思っているのでしょう。

  正規社員の年収  508万円

  非正規社員の年収 198万円

 一体この賃金格差は、誰が法制化したのか。小泉内閣時に大いに活躍した竹中平蔵氏だったこと、しかも氏はその後人材派遣会社の会長になり、安い労働力の供給窓口役を続け高給を得ています。それどころか、さらに低賃金労働者をアジア諸国からかき集め、日本国民の賃金の低下を制度化し、外国人労働者を増大させようとしています。

 小泉総理だけでなく、保守政治家として私が支援していた安倍総理も同じことをしていました。菅総理も、岸田総理も、低賃金の固定化のため、外国人労働者の受け入れ増大の法整備を進めています。NHKはつまらない助言で、派遣で苦しんでいる国民を慰めるのでなく、自由民主党の政策を批判すべきでしょう。

 この現実を知りながら国会を空転させ、政府と遊んでいる野党を、何故NHKは批判しないのでしょう。

 「非正規労働者として、弱い立場にいて苦しんでいるのは民間企業で働いている人だけではありません。62万人いる国家公務員も、じつはその4割が非正規雇用者なのです。」

 このような無惨な実態を知っているのなら、なおさらNHKはこの程度の報道で公共放送の使命を果たしたと大きな顔をしてはなりません。NHKの社員というのか、職員というのか、彼らに個人的な恨みはありませんが、ここでもう一度彼らの年収を紹介します。

  正規社員の年収  508万円

  非正規社員の年収 198万円     NHK社員の平均年収 1,100万円

   今回の報道で初めて知りましたが、法律なのか通達なのか、非正規雇用社員には「198万円の壁」というものがあり、雇用主も守らなくてならないのだそうです。また非正規社員の雇用契約更新は、3回が限度となっているとのことで、長く勤務することができない仕組みです。

 こんな悪法を作った自民党政府と、悪法を黙認している反日野党のことを、なぜNHKは報道しないのでしょうか。

 長くなりますので、そろそろやめようと思いますが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には、お伝えしたいと思います。ややこしくなるので、故意に取り上げていませんが、賃金格差の元凶として見えているのが次のものです。

  経団連  米国内の反日勢力  中国政府  韓国政府  ロシア政府 EU諸国等々

 蛇足ながら付け加えさせていただきますと、私の息子三人のうち、一人は民間企業での非正規雇用社員、一人は公共機関での非正規雇用準公務員です。他人事でありません。

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